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三国 (中国)
出典: Chakuwiki
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[編集] 三国時代の噂(一般)
- おかまの孫と南の方に住んでた田舎者と半浮浪者が戦ったり馴れ合ったりしてた時代
- チ●コ切られた人の孫と、南部の田舎もの兄弟、やりたい放題のチーマー3人組(大酒のみのニートか?)がロングヒットゲームの原作を書いた。おかげで地元の人はいい迷惑。
- 戦争狂の小男と呉一家の大親分とチンパンジーが巻き起こした長編スペクタクルがウリ。
- 呉一家は当初、「おやっさん(孫堅)をやった黄祖のガキのタマ取ったるんじゃ!」で団結していた。
- その後、「二代目の志をムダにしちゃあいかんけえのう」と一致団結。曹魏と対立時には「クサレ孟徳のタマァ取ったれえ!」と大団結した。
- 黄巾党が衆議院で単独過半数を獲得。
- 劉代表は孔明党と連立を組む用意があると発表。関副代表・張幹事長はこれを了承。
- 広島県呉市の面積が最も広かった時代。
- 読み方は「ひろしまけんくれし」ではなく「かんとんけんごいち」である(嘘
- 国王のソンケンさんの息子もソンケンだったため混乱がおきる。
- 国王はケンパパって言えば通じる
- 桃兄者の文官の一人もソンケンだったりする。
- 国王はケンパパって言えば通じる
- 戦場で矢に当たったために大目玉を喰らった人が。
- 一人で中原を統一できそうな人が何人もいた。
- 川崎市中原区ではない。
- 何度も遠征したのにほとんど勝てず、国力を疲弊させまくって亡国への道を敷いたはずの宰相閣下が、死後歴史上最高の軍師となり極東の島国で祭り上げられた。
- 宰相じゃなくて丞相ですね。
- 自称な。正統王朝でもない単なる地方政権の大臣なんだから、丞相を名乗るなんざおこがましいにも程がある。
- しかも彼は実際はただの口うるさい小役人である。
- とりあえず「今孔明」ってあだ名は、実情を知っている以上、付けられた人に対して失礼だと思う。
- 「今公明」は?
- 宰相じゃなくて丞相ですね。
- 孫子の本当の著者は曹操らしい。
- 書いたのは孟徳新書と言う孫子の注本らしいです。
- 張松に馬鹿にされて破り捨てられている。
- 本当は魏武註孫子という。いろいろあった孫子を纏めて註訳したもの。魏武とは曹操(武帝)のこと。でも曹操は文帝になりたかったらしい。
- 書いたのは孟徳新書と言う孫子の注本らしいです。
- 曹操に名前を変えられた軍師がいる
- 程立(テイリツ)→程昱(テイイク) ちなみに彼は『十面埋伏の計』(伏兵戦術)を使って、袁紹に致命傷を負わせている。
- 他にも、母親からのものにみせかけた偽手紙で敵国の有力な人材を引き抜いたりしている。その母親は「偽手紙で騙されるような子に育てた覚えは無い」と言って悲しんで自殺。
- それは徐庶。
- 軍糧が乏しかった時、死んだ兵士の肉を加工してこっそり加えていたという噂も持っていた。
- 何かと黒い計略が得意な人。
- 赤壁の戦いの勝敗は「チンカラホイ」でひっくり返った。
- 諸葛孔明がなんでもできる魔術師として光臨。
- 諸葛孔明の奥さん・黄氏が常識破りのオーパーツ的科学兵器を量産したマッドサイエンティストとしてノーベル賞を受賞した。
- 連環の計、という計略が2種類ある。片方は美女を使って男の仲を裂くもの。もう片方は船を鎖でつながせて一気に燃やすもの。同じ名前なのに全く違ってややこしい。
- 某国の県令(知事とも)が、たびたび「三○人」と発言するも、魏、呉、蜀のうちどこの国かはっきりせいとそのたびに突っ込まれる。
- 庶民にとっては「惨酷」時代。
- いきなり人口が10分の1に激減。中国史において最も過酷な時代だったでしょう。
- 史上最強のゴキブリが生息していた時代。このゴキブリの被害に悩まされた家庭は多い。曹さんや劉さんの家も散々な目にあった
- 一番ひどい目にあったのは董卓さんだろ。
- 三日三晩燃え続けるロウソクが発明された。
[編集] 魏の皇帝
[編集] 文帝(曹丕)
- 実は三国の初代皇帝の中でいちばん年下。
- 実質上の創始者である父・曹操が帝位に就こうとしなかった。
- しょっぱなから弟(曹植)との後継者争いに見舞われたため、同族をまったく信用しなくなった。
- 皇族はほとんど軟禁状態で外出もままならなかったらしい。あまりの息苦しさに、皇族の籍を離れたいと希望する者が相次いだが、文帝は許さなかった。
- そのため、後年司馬一族が専横をきわめた時も、皇族は誰一人立ち上がろうとしなかった。立ち上がる義理も感じていなかったし、立ち上がる力も全然なかったのである。
- ただし、末の弟だけは父親代わりになって親身に接した。もっとも、その弟の母親が、後継者争いで曹丕を支持したからであるが。
- 家臣との宴席に自分の奥さんを呼んで物議を醸した。
- 何が問題なのかわかりづらいと思いますが、この時代、妻を他人に見せるということはまずあり得ず、今の感覚で言えば飲み会で奥さんにストリップさせるようなものでした。
- このように、秩序の頂点である皇帝の座に居ながら、けっこうアウトローな人だった。
- 「文章は経国の大業、不朽の盛事」は名言だと思う。
- 教科書の三国時代で名前が出てくるのはこの人だけ。
- 高校世界史程度ならそうだね。政治史なら陳群、芸術史・書道史なら鐘会の父鐘ヨウ、文学史なら曹操・曹植・建安七子がはずせない。
[編集] 明帝(曹叡)
- 文帝の崩御に乗じて攻めてきた呉の軍勢を自ら撃退。
- 同じく攻めてきた蜀の軍勢のほうは司馬仲達が撃退。
- 最初の頃は颯爽としていたのだが、一通りの危機が去ると、やたら巨大建築を始めて財政を悪化させた。
- 卑弥呼にプレゼントをした。
[編集] 斉王(曹芳)
- 明帝に子がなかったので一族の中から養子に。実際にはどんな関係だったのか誰も知らない。
- 司馬師(仲達の息子)に廃位され、斉王に格下げされる。
- 三国志演義ではクーデターを企てたことになっているが、史実ではないようだ。
[編集] 高貴郷侯(曹髦)
- 司馬昭の誅殺を試みたが、逆襲されて斬殺される。
- 誅殺を持ちかけても誰も引き受けてくれず、仕方なく自分で刃をふるった結果、悲惨なことになった。
- 死後、帝号も王号も貰えなかった。
[編集] 元帝(曹奐)
- 自分の立場をよくわきまえており、おとなしく司馬昭の位を上げ、おとなしく司馬炎に禅譲した。
- 司馬昭に禅譲するはずだったが、その直前に司馬昭が病死してしまったので、息子の司馬炎に禅譲した。
- 禅譲後は陳留王に封じられ、厚遇されて司馬炎(晋の武帝)よりも長生きした。
- 晋が同族争いで乱れまくった「八王の乱」のさなかに死んでいる。愚かしい同族の殺し合いを見て、多少溜飲を下げただろうか。
[編集] 呉の皇帝
[編集] 大帝(孫権)
- 果断で颯爽とした人物ではあったが、酒乱。
- 自分でも酒乱ぶりに愛想を尽かし、「俺が酒に酔っている時の命令には従わなくてもよろしい」と家臣一同に宣言。
- 有能な家臣に恵まれたが、なぜかお気に入りの家臣ほど早死にだった。周瑜も魯粛も呂蒙も40歳前後で死んでいる。張昭のようなうるさ型ばかり長生きだった。
- 本人もかなり長生きしたが、晩年は老害をまきちらし周囲を迷惑させた。
- 呉の人口が少ないのを憂慮。夷州・亶州という東方の島が人口が多いと聞き、配下の武将を人狩りに派遣した。
- 夷州にはたどり着けたが亶州は遠すぎて行けなかったという。
- 夷州は台湾ではないかと言われている。亶州は日本説、沖縄説、フィリピン説などいろいろ。
- 連れて行った兵士や水夫が途中で死んだ数より、夷州で狩ってきた人間のほうがずっと少なかった。つまり、かえって人口を減らす結果となった。
- 派遣された衛温・諸葛直の両将軍は責任をとらされて処刑された。どう考えても悪いのは命令した大帝のほうなのだが。
[編集] 会稽王(孫亮)
- 孫権が当初皇太子に立てていた孫登が早く死んだので、代わりに孫和が立てられたが、孫権はその弟・孫覇を溺愛したので、お家騒動が起こりかけた。結局孫和も孫覇も後継者にするわけにゆかなくなり、末弟の孫亮が継ぐことになった。
- いわば妥協の産物だけに軽く見られ、諸葛恪・孫峻・孫綝と、次々に権臣の傀儡となるばかりだった。
- たまりかねて孫綝を除こうとしたが、逆に廃位されてしまい、会稽王に格下げされた。
[編集] 景帝(孫休)
- 孫亮の異母兄。
- 孫綝によって擁立されたが、油断したところを見計らって一気にクーデターを起こし、孫綝を誅殺。
- 蜀が亡ぼされたのに気落ちしてか、在位6年で若死に。
[編集] 末帝(孫皓)
- 孫権の2人目の皇太子・孫和の息子。
- 即位するや否や、なぜか景帝の妻子を皆殺しにする。
- 無意味に武昌に遷都し、翌年また建康に戻ったりして、財政を傾けた。
- 夏の桀王・商の紂王まがいの暴君ということになっているが、その辺は多少割り引いて考えたほうが良い。
- いずれにしろ人心はすっかり離れ、晋軍が攻めてきた時には誰も抵抗しようとしなかったという。
- 晋からは帰命侯に封じられ、4年後に病死。
- 司馬炎と王済が孫皓の前で碁を打っている時、「どうして人の顔の皮を剥いだのか?」と司馬炎が尋ねたので、王済が碁盤の下で足を投げ出して座っているのを見て、すかさず「主君に無礼を働く者があれば剥ぐのです」と答え、恥じ入った王済が足を引っ込めたという話が残っている。
[編集] 蜀の皇帝
[編集] 昭烈帝(劉備)
- 「曹丕に弑された献帝の後を継いで帝位に就いた」という建前だったので、蜀では献帝がまだ生きていることはアンタッチャブルになってしまった。
- 義兄弟の関羽が呉にやられ、もうひとりの義兄弟の張飛も部下に暗殺されて犯人が呉に逃亡したため、呉に対して無謀な戦を仕掛ける。
- この時、正面から反対したのは趙雲だけ。諸葛孔明は「法正が生きていれば止めてくれたろうに……」と愚痴を言うのみだった。
- 結局、この大事な戦に、趙雲と孔明は留守番を命じられた。この二人、実は後世思われているほど劉備に重用されていなかったようだ(その前の討蜀戦の時も最初は留守番だったし)。
- 重用されていなかったかどうかはともかく・・・留守役というのは、主と主戦力のいない国を治めねばならず、前線で糧秣が足らなくなれば整え、兵が足らなくなれば援軍を送り・・・能力と忠誠心がなければ出来ない役割である。
- 孔明は軍師というより政治家であり、趙雲は三國志演義で五虎将とされている武将達の中では末席であるし、名声が誇張されていることは否定しないが、劉璋時代の家臣と劉備が連れてきた家臣との間に溝があり、不安定であった蜀の留守役を任された者達である。
- ま、昔のコーエー三国志なら、使えない武将を残していくけどなw(これが言いたかっただけ)
- 劉備推薦の人物(魏延など)は良く働くが諸葛亮につぶされ、諸葛亮推薦の人物(馬謖など)は失敗をしでかす。諸葛亮よりよっぽど人を見る目がある。
- 自分の才能を誇るか、それとも低く見るかの差だったような。謙虚であることは人を見る目を澄ませますな。
[編集] 後主(劉禅)
- 劉禅の幼名「阿斗」が、暗愚な二代目の代名詞になるくらい昔から嘲笑されてきた人物。
- 現代中国語の辞書がアルファベット順なので、阿斗は読みがA Douだから、大概1ページ目に載っている。意味は「ばかもの」とか。
- しかし、そんな彼が40年間も蜀を平和に保ち得たことには、みんな目をつぶっている。
- その治世は、宰相役によってほぼ10年ずつ、諸葛孔明時代、蒋琬時代、費禕時代、最後期と分けられるが、蜀がおかしくなったのは費禕が死んで、それまでおとなしくさせられていた姜維がやたらと軍事行動を始めてからの最後の10年だけ。
- ちなみに最後期の宰相が誰だったのかよくわからない。孔明の息子の諸葛瞻ではないかという研究者も居る。彼が成都陥落前に絶望的な抵抗を試みるのは、姜維を抑えきれなかった責任を感じてのことではなかったか……ということらしい。
- 魏軍に攻め込まれると、成都が戦場になる前に降伏し、無駄な犠牲を避けた。
- 魏から送られた安楽公の称号は、その決断を称える意味もあったと思われる。
- ちなみに「安楽」は地名にあり、幽州漁陽郡の県のひとつ。つまり、親父の故郷の近く。
- 与える封邑の名前に人物の評価を込めるということは中国ではよくおこなわれていたので、やはり偶然の称号ではなかったと思います。
- ちなみに「安楽」は地名にあり、幽州漁陽郡の県のひとつ。つまり、親父の故郷の近く。
- 魏から送られた安楽公の称号は、その決断を称える意味もあったと思われる。
- 暗愚というよりは、他人に影響されやすい人だったというのが後世の歴史家の評価。
- そうは言っても、何かと批判者や中傷者も多かったに違いない孔明・蒋琬・費禕に、本人が死ぬまでずっと変わらない信頼を寄せていたわけなので、動かされやすい人だったとばかりも言えなさそう。輔佐者に人を得さえすれば、名君とは言えなくとも暗愚と罵られるほどのことにはならなかったのではあるまいか。
- 生まれた時代が悪かったとしか。乱世を乗りきれる器ではなかった。平和な時代なら「ちょっと微妙なお殿様」で済んだかも
- そうは言っても、何かと批判者や中傷者も多かったに違いない孔明・蒋琬・費禕に、本人が死ぬまでずっと変わらない信頼を寄せていたわけなので、動かされやすい人だったとばかりも言えなさそう。輔佐者に人を得さえすれば、名君とは言えなくとも暗愚と罵られるほどのことにはならなかったのではあるまいか。
- 成都の武侯祠にはかつては彼を祀る像があったが、何度も壊されて今は無い。
- 彼の子孫は4世紀の戦乱で絶滅。ただ、一人だけ生き残ったのが蜀地方にかろうじて逃亡した。
[編集] 関連項目
| 中国史 |
| 伝説 - 殷 - 周 - 春秋 - 戦国 - 秦 - 漢 - 新 - 後漢 - 三国 - 晋/五胡十六国 - 南北朝 - 隋 - 唐 - 五代十国 - 宋/金 - 元 - 明 - 清 - 近代 - 現代 |
