後漢
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[編集] 後漢の噂(一般)
- 五感成立
- 強姦ではない
- 光武帝が博多の酋長を倭人の代表と承認し、「漢委奴国王」の金印を与えた。
- 仲良くしようという意味ではなく、家来という意味らしい。
- 金印を送る。
[編集] 後漢の皇帝
- 光武帝、明帝を除くと全員10代以下で即位、40歳以上まで生きた皇帝は献帝だけだった。
- 歴代皇帝は病弱という以前に、ほら、後宮って常に女ばかりだからさ(以下略)
- 女ばかりの後宮は別に後漢だけの話ではないぞ。
- どうやら、服用していた薬がいけなかったようです。水銀や砒素などが調合されていたので……
[編集] 光武帝
- 前漢の宗室の出ではあるが、皇族というほど近い関係ではない。無数に居た子孫のひとり。
- だから別の国号を称しても良いくらいだったが、人心を安定させるため漢の継承をとなえた。
- これでわかる通り、王朝の創始者にしてはけっこう保守的な人。
- 奴隷解放令を度々出し、税金を3分の一にする大減税を行い、役所の大幅リストラをした人を保守的というのは違うかと。
- 若い頃の口癖「官に就くなら執金吾、妻をめとらば隠麗華」
- 望み通り隠麗華と結婚でき、地位は執金吾(警視総監)を遙かに超えて皇帝になってしまった。
- 性格は、温和で質素。挙兵した時に馬を買う金が無いので牛に乗って戦場に行った。
[編集] 明帝
- 国境封鎖をゆるめ、西方への影響力を行使し始めた。
- その結果、「西域の鬼神」と呼ばれる班超将軍が台頭した。
- 皇后は馬氏。建国の元勲・伏波将軍馬援の娘。稀に見る賢夫人でした。
[編集] 章帝
- 後漢がいちばん安定した時期の皇帝。
- 皇后は竇氏だが、しゅうとめの馬氏に較べると、権勢欲が強くて嫉妬深い女で、皇子を産んだ側室をふたりも殺害した。
- 次の和帝が幼少だったので、その時期も権勢をふるい、兄の竇憲を大将軍に取り立てて専横をきわめた。
[編集] 和帝
- 宦官・鄭衆と図って竇一族を粛正。鄭衆自身は有能な人格者だったが、これ以後、宦官がのさばりはじめる。
- この時代、蔡倫が紙を現在ある形に改良。
- 「発明した」とまで言うのは言い過ぎ。似たような物はそれ以前からあって、蔡倫はそれを作りやすく使いやすいものに改良したのだった。
- 西域ではまだ班超が大活躍。一方その兄・班固と妹・班昭により「漢書」完成。すごい兄妹である。
[編集] 殤帝
- 生後百余日で即位、半年後に崩御。
- 和帝の皇后・鄧氏の差し金。もっと年上の息子も居たのに……
[編集] 安帝
- 殤帝の従兄にあたる人で、やっぱり鄧氏の差し金で即位。
- 鄧氏は皇太后として、兄の鄧隲を大将軍に起用し政務を専断。
- とはいえ、他の外戚に較べると、節度ある態度だったらしい。
- それでも安帝は成長するに従って煙たく思い、皇太后が死ぬと皇后・閻氏および宦官・李閏と図って鄧一族を粛正。
- ようやく実権をつかんだかと思いきや、今度は閻一族に牛耳られてしまった気の毒な人。
[編集] 少帝
- 殤帝・安帝の従弟にあたる人で、閻氏の差し金で即位。
- 閻氏は少帝を担いで、一族で政務を専断しようとしたが、宦官・孫程たちに阻止され、一網打尽。少帝も廃位・暗殺された。
[編集] 順帝
- 宦官たちに擁立されたので、お礼に宦官を諸侯に封じ、養子をとって家産を相続できるようにした。
- この皇帝が居なければ、「宦官の孫」である曹操は出現し得なかったであろう。
- 皇后は梁氏。この兄が、跋扈将軍として専横の限りを尽くす梁冀。
[編集] 冲帝
- 2歳で即位、半年後に崩御。
[編集] 質帝
- 7歳で即位、8歳で崩御。
- 大将軍の梁冀によって、だいぶ遠い皇族の中から擁立されたが、案外と利発で、扱いづらくなりそうだったので、あっさり毒殺された。
- 梁冀を見て「跋扈将軍」と言って怒らせたという。8歳の子供にしては言うことがませていた。
[編集] 桓帝
- 大将軍の梁冀によって、だいぶ遠い皇族の中から擁立されたが、こちらはあんまり利発そうでなかったので21年間の治世をまっとうした。
- とはいえだんだん梁冀がうっとうしくなり、梁皇太后が死ぬと、宦官・単超らと図って梁一族を粛正……って、何度おんなじパターンを繰り返せば気が済むんだ?
- お礼に宦官を諸侯に封じた。
- 宦官がわが物顔に官職を独占しているので、あぶれた知識人たちが「宦官追放」「俺たちにも官職よこせ」キャンペーンを張る。宦官も負けてはおらず、やかましい知識人たちを投獄する。世に言う党錮の禁。
- 自称ローマ帝国の使いが来たのはこの人の代。テストに出ますよ!
[編集] 霊帝
- 桓帝に子がなかったので、だいぶ遠い皇族の中から擁立された。
- 官職を売りに出す。
- 野にあった時だいぶ貧乏していたので、皇帝になったら贅沢ができるかと思って即位したところ、財政難で自由に使えるお金があんまりなかった。
- 失望した霊帝が思いついたのが官職の販売だった。けっこうアイディアマン。
- また、後宮内で模擬店を開き、みずから屋台のオヤジに扮して麺などを売り、小銭を稼いだ。一人前の麺を取り分けるのがものすごく上手だったらしい。
- 皇帝になるより、商人にでもなっていたほうが、本人にとっても後漢王朝にとっても幸せだったに違いない。
[編集] 廃帝
- 言語不明瞭な人。
- 袁紹たちが宦官討伐のため宮廷に攻め込んだ時、弟の劉協(献帝)と共に宦官たちに付き添われて逃げ出す。董卓に拾われるが、ろくろく返事もできなかった。
- 結局董卓によって廃位、その後殺される。
[編集] 献帝
- 兄の廃帝より賢そうだったので董卓に擁立される。田舎者の董卓は、バカ殿を担いだほうが何かと便利だということを知らなかったらしい。
- 董卓やその部将たちの思惑のままに、あっちへ行ったりこっちへ行ったり転がされていたが、曹操に保護されて一安心。
- しかし、曹操が強くなりすぎたので、バランスをとろうと他の連中に肩入れし始めるが、失敗。
- 曹操の息子の曹丕に帝位を禅譲するが、その後破格の厚遇を受ける。献帝の側から要求したのかも。
- 山陽公に封じられ、「朕」の一人称も認められ、日々の生活で使うものなどもすべて皇帝並みでOKだったのだから大したもの。
- 帝位から下りてよほどのびのびしたのか、曹丕よりだいぶ長生きした。
- 諸葛亮と生まれた年と死んだ年が同じだったりする。