明
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[編集] 明の噂(一般)
- 時代は「漢から明(かんからみん)」へ
- 日本から海賊が襲来。
- ワコー船舶(株)の不祥事が問題になる。
- その後ワコー船舶を乗っ取り朝鮮半島を荒らしまくる
- その行為を「ワコーる」と言い習わしたらしい(風説)
- ヨーロッパの商人以上に活躍した冒険家がいた。
- 誰だよ。
- 鄭和さんだよ。キンタマがないのに冒険しまくった漢だい。
- たらこ唇の皇太子の威徳が近隣諸国に恐怖とともに伝わり、一部の国の海産加工品の名称にその影響を残す。
- 日本で金色の寺を作った坊主将軍が「ワイの国と貿易してちょーだいな」と擦り寄ってくる。仕方なく貿易する。
- 日本側はなぜか看護婦を連れてきたらしい。
- 看護婦萌えわその頃から?!
- でぃ~ぶぃ~でぃ~!!。ソニィ!!等の名言を残している。
[編集] 明の皇帝
- 明から一世一元の法が施行され、ひとりの皇帝の治世中は改元をしなくなったので、通称として宗廟名の他、元号を冠した名前でも呼ばれるようになった。
- 明の英宗だけ例外。2回即位したので、2つの元号を持つため。
- 皇族である朱一族の法則。
- 洪武帝の子供の世代は名前に木が付く。その子は火。その子は土。その子は金。その子は水。その子は木……と名前で五行思想をやっている。
- 南宋の思想家朱熹の一族のパクリと言ってはいけない。
- この一族だけでなく、五行説にもとづいて命名するのは中国で一般におこなわれていること。陳舜臣さんの家系もそうしていたらしい。
[編集] 太祖・洪武帝
- 乞食坊主から成り上がったチャイニーズ・ドリームの体現者。
- 人から坊主上がりだと言われると激怒した。
- 自分の前で「僧」とか「ハゲ」とか「光」とか言う者がいるとすぐ殺した。
- だんだんエスカレートして、「僧」とか「ハゲ」とか「光」とかと発音が似ている言葉を言う者も殺した。ダジャレであてこすっていると思ったらしい。
- 2種類の肖像画が残っているが、同じ人とは思えない。
- やたらめったら功臣を粛正したが、庶民には意外と人気があった。
- 明代は官僚が一番冷遇されていた王朝といわれる。現代の日本も見習うべきかとうわなにをするおまえやめr
- 役人を冷遇すると、生活が苦しいものだから汚職を始めますよ。
[編集] 建文帝
- 太祖の孫。彼の父(太祖の長男)は太祖より先に死んでしまった。
- 祖父さんが辺境の守りにと残してくれた叔父たちの軍勢を恐れ、取りつぶそうとしたが、逆に攻められてやられてしまったかわいそうな皇帝。
- しかし死体が見つからなかったので、生存伝説が絶えなかった。
- 減税を実施したのでやはり庶民からは人気があった。
- 永楽帝の陰謀により、清代になるまで存在自体が歴史から抹消されていた。
[編集] 成祖・永楽帝
- 甥の建文帝を亡ぼして即位。
- しかし、建文帝が生きているのではないかと生涯びくびくし続けた人。
- お気に入りの宦官・鄭和に、大艦隊を率いさせて南アジアやアラビアまで行かせ、大いに威武をふるったが、実は建文帝を探すためという裏の目的があったらしい。
- 鄭和の貿易活動で大いに儲け、貨幣を大量に鋳造。
- この貨幣(永楽銭)は当時東アジアの共通通貨となり、日本でも日常的に通用していた。
- モンゴルに5回も親政し、ベトナムを占領し、国威を大いにとどろかせた。おかげで現在、中国でもっとも人気のある皇帝の一人である。
- どう考えても前半期の皇帝のうち一番共産主義者に受けが悪そうなキャラなのだが……。
- 彼の母は諸説ある。洪武帝の正妻である馬皇后でない可能性が高いのは確かだが、高麗人とか、モンゴル人とか。また、父も洪武帝ではなく大元のハーントゴンティムールだったいう俗説もある。
- 残念ながらあの国の法則に絡まなかったわけではないようだ。
- 父の洪武帝に負けず劣らず功臣の粛清に熱心だった人。熱心な余り父よりも残虐な処刑方法とかを色々開発した
[編集] 仁宗・洪煕帝
- 皇帝としての治世が短すぎて、あんまり面白い話がない。
- 歩行困難なほどの肥満体で、不摂生な生活がたたり寿命を縮めたと言われる。
- 温和で堅実な人物だったようで、父がモンゴルに遠征に行っている間は常に首都の留守番を任されていた。
[編集] 宣宗・宣徳帝
- 肖像画が残っているが、某宗教の尊師にクリソツとは絶対に口にしてはならない。
- 守成の名君と呼ぶにふさわしい人物。どんな国でも、こういう君主が出る出ないでその後の命運が分かれる。
- 子供がいないという理由で皇后を廃したことと、死んだ時何人もの妃を殉死させたことはマイナスポイントか。
[編集] 英宗
- 宦官・王振に乗せられて、モンゴル征伐のために親征するがボロ負けし、捕虜になってしまった。野戦で捕虜になった皇帝は中国史上この人くらい。
- なんとか帰ってみると、弟の景泰帝が帝位に就いており、幽閉されてしまった。踏んだり蹴ったり。
- 景泰帝が病気になったので、ようやく英宗派の廷臣たちの力で皇帝に返り咲いた。同じ王朝で2回即位したのは中国史上この人くらい。
- 上記の理由で為政者としての評価は散々だが、唯一殉死制度を廃止したことは賞賛されている。
[編集] 代宗・景泰帝
- 兄貴がモンゴルに囚われている隙に即位したが、病気になってひきずり下ろされた。
[編集] 憲宗・成化帝
- 19歳年上の愛妾(萬貴妃=「お万の方」ってとこですな)に頭が上がらなかった。
- 他の女が成化帝のタネを身ごもると、嫉妬した萬貴妃が片っ端から堕胎させていたのを知らず、自分がタネ無しだと思いこんでいた。
- 儒教の価値観では、タネ無しはイ○ポと同様の不具扱いをされるのです。
[編集] 孝宗・弘治帝
- 萬貴妃の魔の手を奇跡的に逃れて出生した幸運な人。
- 明朝の皇帝ではいちばんまともな人だったようで、中興の祖とも言われるが、惜しくも35歳で病没。
- 中国の皇帝としては珍しく、生涯皇后以外の女に手を出さず一夫一妻を貫いた。
[編集] 武宗・正徳帝
- ラマ教にはまった。
- 16年の治世中、ほとんど朝廷に顔を出さなかった。
[編集] 世宗・嘉靖帝
- 正徳帝の従弟だが、自分の実父にどういう称号を与えるかということで廷臣たちと大喧嘩し、以後24年間、ほとんど朝廷に顔を出さなかった。
[編集] 穆宗・隆慶帝
- 陳舜臣氏の本には景徳鎮に春画を描かせていたとある。ぜひ見たかったものだ。
[編集] 神宗・万暦帝
- 48年間も在位していたが、ほとんど朝廷に顔を出さなかった。
- 治世の前半は、張居正という大物宰相のおかげで政情は安定。
- 張居正の死後、珍しく朝廷に出ていた万暦帝は、佞臣たちの中傷を信じて、張居正の遺族たちをひどい目に遭わせた。
- 家を完全に封印して出入りを禁じ、中に居た遺族が餓死してしまったほど。
- 豊臣秀吉の侵攻への対応で、財政は火の車に。
- その結果、その後の清の侵攻に対して有効な対応ができず、滅亡へまっしぐら。
- 徳川家康は万暦帝に感謝すべきである。そしてヌルハチは秀吉に感謝すべきである。
- 彼の墓「定陵」は北京の観光スポット。
- ただし、文化大革命でありとあらゆるものが破壊されてしまい、現在見ることのできる展示物はほとんどがレプリカ。
[編集] 光宗・泰昌帝
- 即位一ヶ月で謎の死をとげた。
[編集] 熹宗・天啓帝
- 宦官・魏忠賢がやりたい放題。
- 自分のことを「九千九百歳」と呼ばせるわ(万歳は皇帝だけの尊称だったので)、全国に自分を祀る祠を建てさせるわ、それは凄かった。
- 当の皇帝は明朝最低の暗君。日曜大工が趣味だったらしい。
[編集] 毅宗・崇禎帝
- 意欲はあったが空回りばかりしていた人。ちょっと徳川慶喜に似ている。
- 李自成の大軍に包囲された北京城内で首を吊って自殺。宦官がひとり付き添っているだけだった(一説には、その宦官すら席を外していた)という、中国史上もっとも孤独な死をとげた皇帝。