関東の城

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茨城[編集 | ソースを編集]

水戸城[編集 | ソースを編集]

  1. 言わずと知れた徳川御三家の一つ・水戸藩の城。
    • が、知名度は偕楽園と雲泥の差。兼六園に対しての金沢城、後楽園に対しての岡山城に比べても知名度の落差があると思われる。
      • 言い方を変えれば、それだけ庭園が素晴らしいということなんだろう。知名度において庭園>>>>>超えられない壁>>>>>城なんてのはそんなに存在しないし、そもそもあれだけの庭園で入場無料ということからしても、偕楽園の度量の広さ(?)がよく分かる。
        • 2019年秋からは県外の方は有料(梅まつり期間中は県内の方も有料)になりました
    • 尾張藩の名古屋城、紀伊藩の和歌山城と比べても桁違いに無名。何しろ天守閣等が残っていないから観光アピールも弱い。
  2. 跡地に殆ど何もない。藩校(弘道館)があるだけましか。
    • 弘道館にも梅がいっぱい。元から植わっていたのか、偕楽園にちなんで後から植えたのかはよく知らない。
  3. 一応台地の上に立っており、周囲は崖。立地条件は良い。
    • 郭の間の崖の底、元は堀だったであろう所を道路や鉄道(JR水郡線)が通る。
  4. 跡地は学校がいっぱい。水戸第一高、水戸第三高、茨城大学附属小学校、第二中学校、三の丸小学校。
    • 一高には水戸城の門がある。
    • 最近新たに門を復元したが妙に木材が新しい。

土浦城[編集 | ソースを編集]

  1. 堀や門やら櫓やらはあるけれど。まぁ普通の公園。
  2. 別名「亀城」。周囲の公園も「亀城公園」。

古河城[編集 | ソースを編集]

  1. 室町時代に関東を統括する鎌倉公方の流れ、古河公方の本拠地。
  2. 公園と歴史資料館がある。
    • 古河総合公園は立崎の「古河城」に移る前に古河公方が本拠地にした「古河公方館」で、地名から「鴻巣御所」、「鴻巣館」とも呼ばれる。
      • あ、古河公方館は別物なんですね。無知すみません。

栃木[編集 | ソースを編集]

宇都宮城[編集 | ソースを編集]

濠と櫓
  1. 釣り天井事件で有名。え、史実じゃない?
  2. 櫓と塀はあるが、堀の先にあるのは石垣じゃなくて草の斜面。
  3. 市役所の方から来ると立派な堀や櫓や城壁が見えて「おぉっ!」と思うけれど、裏はただの空き地という壮絶な張りぼて。
  4. 櫓はいつでも中に入って見学できる。ただロフト部分には上がらせてもらえない。

小山城[編集 | ソースを編集]

  1. 小山駅からほど近く1km足らず、思川沿いの公園。
    • ほんとにふつうの公園。木が多いけど、遊具があって四阿があって。
  2. 思川の崖に沿って作った模様。駅側(東側)も少しは崖になっているが、高低差はあまりない。平城。
  3. 一応郭のあとというか、堀のあとが2筋くらいわかる。塀とかないし、土塁もなかったように記憶している。

唐沢山城[編集 | ソースを編集]

本丸の石垣と神社
  1. ムカデ退治・平将門征伐で有名な藤原秀郷の築城による、かの上杉謙信をも撃退した堅固な山城。
    • 「信長の野望・武将風雲録」では見掛け倒しだ。
  2. 城主・佐野氏が北条勢3万に囲まれたときには上杉謙信は甲冑も着けずに数十人で敵中突破し堂々と入城したとか。
    • まぁ敵も謙信の威風に攻撃せずに見送ったんでしょうけど。
  3. 江戸時代だか戦国末期だかに、城から江戸で火事が起こっている様が見えた。そこで城主・佐野氏は徳川家に見舞いの急使を出した。が、「江戸を見下ろすとは何事ぞ!」と怒られ、唐沢山城を廃城にして佐野城におりるハメに。恩を仇で返すなよ、徳川さん。
    • 今でも天気が良ければ都心のビルがみえるそう。
  4. 山頂には藤原秀郷をまつる神社がある。広くない天守はほぼこれだけでいっぱい。
  5. 郭とその間の堀は結構残っている。
  6. 本丸より東側の郭はキャンプ施設になってる。
  7. 山頂近くまで車道が伸び、土産物屋兼食堂が2軒ある。
    • 土産物屋の間には虎口がある。

佐野城[編集 | ソースを編集]

城山公園
  • 所在地:佐野市
  1. 佐野氏が上記の唐沢山城からおりる羽目になったので平野部に作られた平山城。
  2. 移ってきてすぐに改易になり、完成せんまま7年ほどしか見ませんでしたとさ。
  3. 平地の中の小山だが、周囲はそれなりに崖。急傾斜地だかの指定になって補強工事されていたりする。
  4. 郭と堀割が残る。で、その堀割が道として歩ける様になっている。
  5. JR・東武の佐野駅直結。駅の駐車場だと思ったらばこの城跡公園の駐車場でした。

足利氏館[編集 | ソースを編集]

鑁阿寺の城門・土手・橋
  1. 鑁阿寺。「ばんなじ」と読む。「ばん」も読めないが、「な」も読めないよ。
  2. 足利学校の斜めウラに位置する。観光される方は一緒にどうぞ。こちらは無料なので。
  3. 堀があって土塁があり、一応は平城だし百名城だけれど、ほんとにお寺。お城の雰囲気はほぼ皆無、お寺の雰囲気。
    • まぁ天守閣のあるお城や山城とは別の価値があっての百名城選定なんでしょうけど。
  4. 正方形の敷地の各辺の真ん中に橋と門がある。
    • 南側がメインの入口、門も立派で橋には屋根もついている。
      • 屋根がある橋ってここだけじゃなくて、日光とか諏訪大社下社春宮とか琴平とか宇佐神宮にもあったけれど、歩いて渡って良いとこって無かった気がする。
    • 北の門はそこそこで東西のは結構簡素。南側に比べれば見劣りはするものの、江戸時代とかのものが残っているだけでも十分値打ちがある。
  5. お寺の建物があるのは勿論、子供向け遊具もある。
  6. 21世紀に入ってから、「足利薪能」の会場としても使われている。

群馬[編集 | ソースを編集]

沼田城[編集 | ソースを編集]

本丸に建つ鐘楼
  1. 豊臣秀吉が小田原北条氏が攻めるきっかけになったのは真田氏の名胡桃城をここの城主・猪俣邦憲が攻め取ったことから。秀吉が停戦令をだしてたのに。あーあ。
  2. 鐘楼がある。
    • 他は花壇っぽいのとか明治期くらいの建物とか野球場とか。
    • なお、この鐘楼、明治20年製らしい。残念ながら城が現役の頃の建物ではないけれど、ここまでくると歴史はあると言えるか。実際、観光パンフに載るのはこの鐘楼の写真。
  3. 沼田駅からなら河岸段丘の崖の上、沼田の街からなら平なところ。

岩櫃城[編集 | ソースを編集]

  1. 読みは「いわびつじょう」。武田信玄氏配下の信州真田氏が攻め落として占拠した城。
  2. 結構堅城。後に武田氏滅亡間際には真田昌幸が武田勝頼に「岩櫃城は堅固なのでこちらに落ち延びて下さい」といったとか。
    • 結局武田勝頼は小山田信茂を頼って甲斐の岩殿城を目指し、小山田氏に裏切られて滅亡。
      • 真田ファンは「あの時 岩櫃に来てくれれば…」と嘆きたくなるが、こちらは甲斐からは遠く、また外様の真田より親戚の小山田の方へ行くのは仕方ないか。
  3. 名前は岩櫃だが、あんまり石垣は残ってない。建物もなし。堀切はわかるので、郭の感じは把握できるが。'14年時点で発掘調査中。
    • 無論、名前は背後にある岩櫃山による地名から。ホントに岩むきだし断崖絶壁のカッコイイ山。
  4. 郷原・唐沢方面から城に向かうと竹笹の藪を抜けて開けたところに出た!と思ったら城跡ではなくただの畑で(昔は城の施設の一部だったようだが)、本丸に向かうにはさらに歩かねばならないというトラップ。さすが堅城。(群馬原町方面からなら普通にこれるのかは知らない。)

厩橋城[編集 | ソースを編集]

  1. 石垣なんかは残るけれど、あとはすっかり市街地化されてしまっている。
    • 県庁の前あたりに石垣があったかなぁ。

高崎城[編集 | ソースを編集]

遺構の一つの東門
  1. 堀と石垣は残る平城。
  2. ドデンと市役所の高層ビルが建つ。
    • いや、あれ本当に市役所なのかというレベルの大きさ。あの辺も城だったのか…。
  3. 払い下げられていて残っていたいくつかの遺構が復元されている。写真の東門もその一つ。

箕輪城[編集 | ソースを編集]

箕輪城本丸跡。そこそこ広い。
  • 所在地:高崎市
  1. 城主は長野氏。長野業正のときには武田信玄の軍勢を何度か撃退したという堅城。上州西部の一大拠点。
    • その息子、業盛のときに武田氏により陥落。
  2. 徳川氏の関東入りの後は井伊氏が城主になったが、高崎城に拠点を移した。
  3. 上記高崎城移転のためか、城跡には建物や塀は残っていない。石垣もちょこっと。その代り、空堀・郭は結構広大に残っている。
    • 説明書きには「発掘によると往時より6m埋まっている」とか。倍くらい深かったのか。
    • 広大な空堀・郭と地域での拠点性で百名城に選定されたんだろうな。
  4. 搦め手から二の丸に入ったところに案内資料がおいてある。あれを先にとってから回ったほうが場所を把握できてわかりよいかも。
    • 城内の説明書きはわりとこまめに書いてくれているほうだと思う。あれがないと迷いそうなほど道は複雑。つーか遊歩道(?)が当時の道じゃないところも通っているんじゃないかなぁ。
  5. 幹線道路に面しているとか城下町が残っているとかではないので、若干行きにくいかも。

金山城[編集 | ソースを編集]

金山城の円形の貯水池と石垣
  1. 戦国末期の城主は下克上の後、上杉・北条と武田の勢力争いの間をゆらゆらと泳いだ由良氏。
  2. 「上州名物 空っ風とかかあ天下」を地で行くかぁちゃん(城主の母)が居た。
    • 城主とその弟が北条氏に身柄を押さえられていたのに、反発して家臣団と籠城、指揮をとった。
    • 秀吉の北条攻めの際も、城主とその弟が北条方として小田原に詰めさせられているのに、軍を率いて秀吉方に味方。そして秀吉方からの領地宛てがいはその“かぁちゃん名義で”行われた。
  3. 立派な山城。西側とかマジで崖。
    • 説明板によると、やせ尾根の部分なんか表面の土だけでなく地盤を掘って堀切にしているところも。
  4. 水には苦労したらしい。
    • 門(跡地)の下などに雨水を排水する溝が二筋あったり、郭でも排水溝があったり。
    • 井戸跡もあるが、円形の池が2つ作られている。周辺からの雨水もしくは地下水をためるようになっていた模様。
  5. 遊歩道的なものもしっかり整備。建物跡の位置も示してくれていたり、整備状況は良い、まぁ道が崩れて通れないところもあるが。
  6. 城跡で歴史にひたっていると、お隣のこどもの国(遊園地)の放送が聞こえてきたりする。う~ん。
  7. 麓にガイダンスセンターあり。
  8. 麓からの山頂近くに登る県道でトレーニングしているチャリがちらほら居る。

埼玉[編集 | ソースを編集]

鉢形城[編集 | ソースを編集]

鉢形城の門・土塀、土塁石垣
  1. 昔北条氏の三大拠点の1つだったところ。
  2. 川の河岸段丘にたつ。川の方はマジで崖。
    • 城の中にも支流が流れる。
  3. 広く整備されてる。草原に塀だけ復元したところも、林になっている部分も。
  4. 郭跡はそこそこわかる。
  5. 資料館もあり。展示内容も結構 金かけて充実している方では。

川越城[編集 | ソースを編集]

本丸御殿
  1. 太田道灌が造った城。
  2. 川越 河越夜戦の舞台。
    • 川越の表記は江戸時代からで、それ以前の表記は河越なので「河越夜戦」と呼ばれる。
      • あぁつい誤変換。補足サンクスです。
  3. 平城。御殿がある。
    • というかぶっちゃけ、今はもうそれしか無い。
  4. 川越は小江戸として有名すぎて、城のほうは地味かも。
    • 絶対城よりも時の鐘の方が有名だ。
  5. 本丸御殿で受付をしている人がものすごく親切。百名城のスタンプを所望したら、それ以外にも何種類かありますが押されますか?と聞いてくれて、わざわざ奥にあるものを取ってきて出してくれたり。
  6. 城内にあった三芳野神社は信号の音で有名な「通りゃんせ」の舞台。詳しくは三芳野神社のページヘ。

忍城[編集 | ソースを編集]

忍城の復元天守と門、橋
  1. 石田三成による水攻めで知られる。
    • 小説「のぼうの城」の舞台。
    • 水攻めの時の堤は「石田堤」として一部が残っている。
      • 築堤の際に、周辺にあった古墳をいくつか壊してしまったという話も。
        • なにせ三成本陣が古墳のてっぺんだからなぁ。
      • 鴻巣の旧家の人が、小さいころ石田堤で土遊びをして埴輪のかけら(素焼き)を掘り出したという。
        • さらに、東日本大震災で家の天井が壊れた際に、三成が周辺住民にばらまいた銭が発見されたという…眉唾か。
    • そもそも沼地に建つ城で大軍では攻めづらく、難攻不落。水攻めにされても水対策はばっちりだったとか。
      • 水城公園とか埼玉古墳群の公園なんかは沼地の名残を留めているように感じる。
    • 水攻め失敗の理由が、築堤に従事した地元農民が城主成田氏に愛着を持ったため手抜き工事を行った、という話もある。
  2. かつて近所(というよりはむしろ古墳の方に近いが)に「忍城アスレメイズ」というズバリ忍城を意識した迷路のアトラクションがあった。
    • バブル期に各地に建てられた巨大迷路の一つ。
  3. 読みは「おしじょう」。「しのびじょう」とか「しのぶじょう」、ましてや「にんじょう」ではない。
  4. 天守閣っぽいのは櫓。そしてコンクリ作り。
    • 一番上の階はご多分に漏れず展望フロアだが、外には出られず、窓も小さくあんまり展望できない。もっとも、町中の平城なので展望できたところで知れているかも知れない。
    • でもってその櫓に入るためには資料館入り口からで、二階渡り廊下みたいなものを通らなくてはならず、真っ直ぐ櫓に向かうと迂回させられる。昔の城のトラップ的な迂回構造が使われているとは。

岩槻城[編集 | ソースを編集]

  1. 太田道灌が造った城。
    • といわれていたが、近年の研究では忍城主の成田氏とする説が有力。

松山城[編集 | ソースを編集]

  1. 松山城という名前だが東松山市ではなく市野川の対岸の吉見町にある。
  2. 知名度としては隣の「吉見百穴」の方が有名。
  3. あちらにある城とは関係がない…ハズ。

千葉[編集 | ソースを編集]

佐倉城[編集 | ソースを編集]

  1. 河岸段丘の上に建つ。
  2. 建物とかはないけれど、広々とした公園。
  3. 城趾にある資料館は佐倉城の資料館でも佐倉市の資料館でもなく、国立歴史民俗博物館。

大多喜城[編集 | ソースを編集]

山の上に建つ。二の丸には高校。
  1. 一応天守閣が再建されている。
    • 4階の展望台は外に出られる構造ではないので窓から覗くのみ。
  2. 元々は「小田喜城」だったとの説あり。
  3. 本多忠勝の居城としてのPRに熱心なあまり、以前の城主に関する説明はおざなりである。
    • 本多氏以降の城主に関する説明もなおざりである。
  4. ベタな城跡のセオリー通り二の丸・御殿跡には高校が建つ。
    • 高校の駐車場には大きな井戸がある(県内最大級)。本丸(天守閣横)からでも見える。
  5. 城下街も古い街並みの雰囲気に整備されている。作り物っぽさがないとは言わないが。
  6. 城下街からはぐるっと迂回して登る山城。今は二の丸部分に高校があるから廻る羽目になっているわけだが。

久留里城[編集 | ソースを編集]

山の上の模擬天守
  1. 千葉を代表する戦国大名・里見氏の本拠地だったこともある城。
    • 里見氏と言えば水軍も持っていたはずなのに、なんでこんな内陸?と思ったら、ライバル・小田原北条氏も水軍で房総半島に攻めてくるので山間に入ったところを本拠としたとか。
  2. 山城。駐車場からも結構のぼる。
    • そもそも駐車場に至るまでの道も、国道410号からは細い路地に入って曲がって急坂を登ってトンネルを抜けたところ。
  3. 天守閣はコンクリ造りのもの。展示物は特にない。
    • 天守閣の隣に昔の天守台がある。
  4. 復元された天守閣の他に資料館がある。城そのものの歴史はそれほど細かくない。まぁ、里見氏が没落しちゃって資料も限られるよなぁ。
  5. 平頼胤が築城した、らしい。

亥鼻城[編集 | ソースを編集]

月夜
  1. 千葉城ともいう。現在は天守閣が郷土博物館となっている。
    • 千葉市指定文化財に選ばれている。
    • 見た目その他、実際の城とは何の関係もないらしい。詰まるところ、ただの天守閣風の博物館。
  2. 城跡北側には「お茶の水」という井戸の跡があるが、御茶ノ水のことではない。
  3. 普段は夜行っても何のライトアップもされておらず、完全な闇が広がっている。客を呼ぶ気は無いのだろうか。

東京[編集 | ソースを編集]

渋谷城[編集 | ソースを編集]

砦の石
  1. ビルの谷間、大都会渋谷の裏路地にある金王八幡がその名残。
    • 本殿の左手にある階段下の小さな公園から石垣が確認できる。当時のものかは不明。
  2. 金王桜が名物で春になると花見客が多く訪れる。
    • 結構売れっ子な神社で、普段から参拝客が途絶える事はない。

石神井城[編集 | ソースを編集]

  1. 現在の石神井公園
  2. 言われなければ気付かないし、言われても分からない。
    • 公園内の一角に碑があるだけで、ただの小山か盛り土にしか見えない。恐らく住民のほとんどもその歴史を知らない。
      • そんなことはない。史実かどうか別にして「照姫伝説」は区民の中では有名。祭りもやってるしな。
  3. 時々発掘調査はしているようだ。今は空堀があったことがハッキリとわかるようになっている。

葛西城[編集 | ソースを編集]

それなりの説明板(もっとピシっとしたものもあります)
  1. 葛西に無いのに何故葛西城?と思うかもしれないが、昔はこの辺りまで葛西と呼ばれていたらしい。
    • ちなみに現在の住居表示に当て込むと青砥の辺り。
    • つーか、昔は墨田区、江東区、葛飾区、江戸川区の一帯を葛西といって、お城のあったあたりが中心地だったそうな。
  2. 跡地を環七がぶった切っている。
    • 環七の西側が御殿山公園、環七の東側が葛西城址公園となっている。
    • 御殿山公園には、それなりに説明板や記念碑があるが、葛西城址公園の方には何もない。

八王子城[編集 | ソースを編集]

  1. 小田原北条氏の北条氏の三大拠点の1つだった山城。
    • 豊臣秀吉の小田原攻めの時は領主の北条氏照さんは小田原へ詰めており、さくっと落城。
  2. ほんとに山城。麓から200mくらい上らなきゃいけないからそのつもりで。
    • 小田原攻めの時にすぐに落ちたのは城主がいなかったとか大軍に攻められてそれまでの城も落とされてたとかいろいろ要因があるので、自分もすぐに落とせる(登れる)とか思わないように。
  3. 現在となれば、いわくつきの心霊スポット。
  4. 圏央道に直下をぶち抜かれた。

神奈川[編集 | ソースを編集]

小田原城[編集 | ソースを編集]

天守閣
  1. 小田原城はもともと、小田原の町がすっぽりと入るくらい広大な城だった(城下ではなく城の中に町がある状態。惣構えと呼ばれる)。
    • 20年ほど前、山の高台にある中学校の運動場で城壁の発掘調査が行われていた。
  2. 明治に入って廃城した後、関東大震災で石垣まで崩壊したが、戦後になって江戸時代の資料を基に復元されて観光地になっている。
    • 歴史ファンは本丸跡の城址公園が、チャチな動物園や遊園地になってることにがっかりする。
      • この動物園があるために、休憩所では動物から発せられる臭気を吸いながら飲食することになる。なお、動物園は国から「史跡にふさわしくない」というお達しがあったため、縮小傾向にある。
    • さらに天守閣西側の一夜城方面の視界に、観覧車が見えるのも気に入らなかったりする。
    • 現在の小田原城は鉄筋コンクリートだとか。
      • 城址公園の遊園地と動物園はまだやってるんですか?
        • 一応やってる。中三の時の担任曰くウメコ(象)が死んだら潰れるらしい。
          • 門をくぐると正面に現れるやる気の無いライオンはまだいるのかな?
            • もういない(2009年5月5日現在)。何年か前に死亡したらしい。
          • ウメコ、2009年9月17日死亡。推定62歳。これにて小田原動物園は事実上閉園。
            • サルがいて、一応は続いてる。遊園地もやってる。(2011年5月)
            • 2016年には広場の改修でとうとう梅子がいた痕跡すらなくなってしまった。小田原城天守内にある1枚の写真のみが唯一その存在を示す。
  3. 小田原城は何十年かに一度の地震のたびに崩壊し、そのたびに作り直しているらしい。
  4. 十年くらい前、甲冑を着て城内を練り歩くことができると聞いて早速行ってみたら「あとはご自由に」と武者姿のまま放り出された。子供と外人さんにあっという間に囲まれ恥ずかしかったが面白い体験だった。今でもやってんのかな?
    • ありますよ。一回200円。着たこと無いですが。
      • 自前の服の上に直接甲冑を着るため(靴もそのまんま)微妙な姿だったんだよなぁ。ジーンズ丸見え。でも改めてその時の写真見るとやっぱり鎧兜のインパクトが強すぎてそれほど気にならないのが不思議だ。
        • 当時甲冑の下に着てた直垂とかもけっこう派手な柄が多かったからね。単色のジーンズくらいじゃ案外目立たないのかも。
      • というか、それ以前に一回200円で甲冑が着られるというこの安さ!
  5. 何故かお堀址が田んぼになっている。
  6. 外側は天守閣をしているのだが内部は現代建築そのもの。それでも最近内部に大改修が入って少しは時代感が増した。
    • ま、結局は照明の使い方ひとつよ。