「天皇伝」の版間の差分
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#*しかし、実際は流刑地では讃岐の人々からは「天皇さん」と呼ばれ親しまれ、物々交換などをしたり和歌を楽しみながら穏やかに過ごしたとも言われている。 | #*しかし、実際は流刑地では讃岐の人々からは「天皇さん」と呼ばれ親しまれ、物々交換などをしたり和歌を楽しみながら穏やかに過ごしたとも言われている。 | ||
#明治維新後京都に白峯神宮として招聘され、現在はサッカーの神様になっている。 | #明治維新後京都に白峯神宮として招聘され、現在はサッカーの神様になっている。 | ||
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===後白河天皇(第77代)=== | ===後白河天皇(第77代)=== |
2014年5月10日 (土) 10:10時点における版
- 大正天皇までの記載といたします。
上代
→天皇伝/上代を参照。
飛鳥時代
継体天皇(第26代)
- 武烈天皇が嗣子無くして崩御し天皇家断絶の危機に応神天皇の血をひくものとして越の国から天皇に祭り上げられる。
- そもそも天皇家の血をひいていなかったのではという説があるが血縁があったとしても前代とはかなり離れているので実質新王朝。
- そんなことで「天皇家は万世一系」とか言うと引き合いに出される人。あ、そういう議論はChakuwikiではなしでよろしく。
- なかなか大和地方に入れず、周辺であちこち遷都している。根強い反対派も居たらしい。
- そもそも天皇家の血をひいていなかったのではという説があるが血縁があったとしても前代とはかなり離れているので実質新王朝。
- ここから天皇家の系譜がはっきりし始める。
- 少なくとも現在の皇室が継体天皇の血を引いているのはほぼ確実。
- 歴代天皇で唯一の地方出身者(越の国)
- 遠く離れた場所にいる人と会話ができたらしい。
安閑天皇(第27代)
- 欽明天皇と両朝並立し内乱となったという説がある。
宣化天皇(第28代)
- 安閑天皇の跡を継いだが、引き続き欽明朝と争い、ついに敗れたのではないかと言われる。
欽明天皇(第29代)
- 継体天皇の子で、以降の天皇は皆、彼の子孫。
- 子沢山で、子供たちは皆、兄妹(姉弟)で結婚している。ものすごい近親婚・・・
- 横走りとジャンプが得意だったらしい。
- ドンとやったり、どこまでもやったり、金曜日にやったり・・・。
敏達天皇(第30代)
- 初の女帝となる推古天皇の夫。
- 異母兄妹(姉弟?)での結婚・・・
- 橘氏のご先祖様。
- 橘氏の実質的な祖は県犬養三千代という女性だが、敏達天皇の曾孫(玄孫説もあり)・美努王の妻となりその間に生まれた葛城王と佐為王によって母が与えられた橘姓は継承された。故に橘氏は敏達天皇の男系の子孫にあたる。
- 「源平藤橘」のうち神別(天津神・国津神の子孫)は「藤」だけで、残りの3つは皇別(天皇の男系の子孫)である。
用明天皇(第31代)
- 日本のスーパーヒーロー聖徳太子の父。
崇峻天皇(第32代)
- 蘇我氏によって射殺された(←歴史の教科書に書いてある)天皇。天皇が臣下に殺されるなんて前代未聞。後にも先にも崇峻天皇のみ。
- ところがこの記述は日本書紀のみ。古事記はスルー。どうなってんのか?
- 古事記の記述は推古天皇までで、最後のほうは時代が近いせいかけっこう手抜きな文章が多いから……それに武烈天皇スルーでも見られるように、あまり不名誉なことは述べないようにしているっぽい。たぶん政治的な隠蔽というより、文学的な言い落としだろうと思うけど。
- ところがこの記述は日本書紀のみ。古事記はスルー。どうなってんのか?
推古天皇(第33代)
- 東洋初の女帝。武則天よりかなり早い。
- かなり美人だったらしい。
- 夫の敏達天皇が崩御した後、喪に服していると、異母兄弟の穴穂部皇子にレイプされそうになった。推古天皇がこの時すでに30過ぎ(今のオバサーとは全然違います)だったことを考えると、相当な色香があったとしか。
- 穴穂部がレイプしようとしたのは、政治的な理由が大きかったと見られているが、彼女を味方につけようとするだけなら他の方法もあったはず。
- 夫の敏達天皇が崩御した後、喪に服していると、異母兄弟の穴穂部皇子にレイプされそうになった。推古天皇がこの時すでに30過ぎ(今のオバサーとは全然違います)だったことを考えると、相当な色香があったとしか。
- 聖徳太子の傀儡だの蘇我馬子の傀儡だのいろいろ言われてきたが、実は相当にしたたかな政治力を持っていたらしい。
- 即位前から、キングメーカーみたいな暗躍をしていた形跡がある。用明天皇、崇峻天皇などは彼女の掌の上で転がされていた雰囲気。
- 聖徳太子を皇太子として立てていたが、推古天皇が元気で長生きしているうちに、聖徳太子が先に没してしまう。
- 推古天皇の享年は76歳。当時としては驚くべき長命。
- この生命力の旺盛さだけ見ても、芯の強い堂々たる政治家であったことが伺われる。
舒明天皇(第34代)
- パパとママは異母兄妹。
- 蘇我蝦夷によって立てられた蘇我氏の血が入っていない天皇。
- その息子の入鹿は舒明天皇の長男を天皇にしようとしたが、その理由は父とは逆で蘇我氏の血が入っているから。
- 「舒」の字の左側は「舎」ではない。
- 二男は天智天皇、三男は天武天皇。先述の長男は結局天皇になれずじまい。
皇極天皇(第35代)
- 舒明天皇の妻。ただし以前に結婚歴があり。その時の子が漢皇子=天武天皇という説がある。
- 乙巳の変では眼前で蘇我入鹿の首が飛び、そのショックにより日本初の譲位。
- 実は即位してないとか言われることもある。
大化の改新~奈良時代
孝徳天皇(第36代)
- 乙巳の変の首謀者中大兄皇子に担ぎ出されて即位。
- 近年、孝徳天皇首謀者説もある。
- しかし中大兄皇子と対立し、難波宮に置き去りにされるガッデム。
- しかも奥さんまでついて行ってしまう。まあ、中大兄皇子と兄妹相姦の仲だったらしいから仕方ないか・・・。
斉明天皇(第37代)
- 皇極天皇が重祚。重祚後の方が事歴が多い。阿倍比羅夫に命じて蝦夷と樺太の征討、有間皇子謀反、百済救援など。
天智天皇(第38代)
- 中大兄皇子の名前のほうが有名かも。
- 皇子時代はサッカー好き。カマタマーレがお気に入りチーム。
- 蘇我蝦夷・入鹿父子を誅殺し、蘇我氏に奪われていた実権を皇室に奪還した。
- ただし蘇我氏をすっかり亡ぼしたというわけではない。ここ要注意。
- 蘇我倉山田石川麻呂という、蝦夷・入鹿とは別系統の蘇我の有力者と結んで本家を倒しただけ。
- もっとも、この倉山田石川麻呂も、のちに難癖をつけて攻め殺されている。
- 政治の表舞台からは消えたが、蘇我氏の繁栄はもう少し続きます。
- 例えば、蘇我氏の血を引いている女性しか「皇后」になれない、という暗黙の規則は、のちに光明皇后(藤原氏出身)に破られるまでは確固たるものだった。
- 蘇我倉山田石川麻呂という、蝦夷・入鹿とは別系統の蘇我の有力者と結んで本家を倒しただけ。
- イルカを殺したので、反捕鯨団体から大顰蹙を買った。
- この事件を「乙巳の変」といいます
- ただし蘇我氏をすっかり亡ぼしたというわけではない。ここ要注意。
- 大化の改新を始める。
- 「大化」は日本史上はじめての元号。
- なかなか天皇になろうとしなかった。
- 蝦夷・入鹿を倒した時点で、母・皇極天皇は退位し、中大兄皇子に譲位するという話があったが、実際に即位したのは皇極天皇の弟の軽皇子(孝徳天皇)。
- その後孝徳天皇と中大兄の意見が食い違うようになり、中大兄は皇族や文武百官を引き連れて出て行き、孝徳天皇は難波京に置き去りにされ、憤死。
- 今度こそ中大兄が即位するかと思ったら、母の皇極上皇が重祚して斉明天皇となる。ちなみに天皇の重祚はこれが本邦初。
- 斉明天皇が崩御した後も、7年くらい即位せずに皇太子のまま統治を続ける。だからこの7年間、日本に天皇は不在。
- この不在期間中の年を、「天智称制●年」と年号風に呼ぶこともある。あ、称制ってわからなければ検索してね。
- 天皇になると、儀式などで忙しく、皇太子のままで実権をふるっていたほうが何かと自由でやりやすかったらしい。地位よりも権力を欲した人だったと思われる。
- 最近の新説・大化の改新は軽皇子(孝徳天皇)黒幕説だと、英傑成分が軽皇子ないし大海人皇子に持って行かれ、彼ら野心家たちに振り回された可愛そうな人という解釈になる。
- 白村江の戦いの後、古代山城を作りまくったり、大津なんて浮いた場所に都を移して引きこもった事を考えると、こうした解釈も一理あると思う。
- 小倉百人一首にもその名を連ねる歌人でもあった。
- 1番目の歌の作者。暗唱できる人も多いはず。
- ★毎年6月10日、関西地方ではニュースの時間で、この人の名前が聞かれる。
- 度々言うが、このころ母違いのきょうだいが結婚するのは禁忌でなく、むしろ奨励されていた。しかし、天智天皇は同父同母の妹、間人皇女と契ったため、変態扱いされている。一方で、姉の娘である間人皇女を妃にした孝徳天皇は、誰からも反対されていない。しきたりというものは、それが何故あるのかわからないことが多いものである。
弘文天皇(第39代)
- 天智天皇の長男・大友皇子。
- 即位したのかどうかわからず、諡号も無かったが、明治になってから「弘文」とおくりなされた。
- 大津の宮で父・天智天皇の政治改革を継承していたが、意見を異にする叔父・大海人皇子(天武天皇)に攻め殺される。世に言う壬申の乱。
- 弘文天皇が大海人を殺そうとしたので逆襲されたと言われていたが、怪しい。
- 弘文側はほとんど戦争準備をした形跡がなく、大海人の一方的な不意打ちだった可能性が高い。
- 弘文天皇が大海人を殺そうとしたので逆襲されたと言われていたが、怪しい。
- この人が壬申の乱に勝利していたら、滋賀県が日本の首都になっていたことだろう。
天武天皇(第40代)
- 天智天皇の弟。
- 実は天智天皇より年上だったという噂もある。
- ついでに父が違う、あるいはまったく血縁外など異説多数。継体天皇以降で生年不祥なのはこの天皇のみであるため。
- 実は天智天皇より年上だったという噂もある。
- 甥の大友皇子(弘文天皇)を攻め殺して即位。
- 「古事記」「日本書紀」の編纂を命じたらしい。
- どちらも天武天皇の生前には完成しなかった。
- ちなみに、「日本書紀」は世界にもほとんど例を見ないほど誠実な歴史書と言える。
- 「一書に曰く」と注記された異説や別エピソードがおびただしく挿入されている。編纂された当初からこんな形で各論併記しているような史書は他にはまず見られない。天皇家を正当化する為の政治文書だとか捏造史だとか言っているセンセイがたには、まずこのことの重みを充分に考えて貰いたい。
- 裴松之註のついた「三国志」の影響であるような気がする。
- 「天皇」という称号を使い始めたのはこの人からだったという噂もある。
- 乙巳の変ではまるで名前が出てこない。いつの間に有力者となったのか不明。
持統天皇(第41代)
- 天智天皇の娘で、天武天皇の奥さん。
- 父や弟を敢然と見捨て、夫に従った。
- ……とされているが、なんだか天武天皇のほうが彼女にひっぱられていたように思えるのは私だけだろうか?
- 父や弟を敢然と見捨て、夫に従った。
- 日本の8人の女帝の中でも、いちばん有能だった。
- 「女帝というのは皇位の中継ぎ役で、実力者の傀儡に過ぎなかった」と言い切っているセンセイがたでも、持統天皇だけは力量を認めていることが多い。
- 皇太子だった一粒種の息子・草壁皇子が若死にしてしまったので、自分が即位。
- 草壁の遺児・軽皇子(文武天皇)はまだ幼少で、即位できない。他の妃が産んだ男子は即位させたくない。仕方なくみずから乗り出す。
- 当初から自分の意思で即位した女帝は持統天皇だけかも。
- こうした変則的な状況を正当化するために、記紀が捏造したのが神功皇后という説がある。ちょうど編集時期が被るし。
文武天皇(第42代)
- 初めて藤原氏の娘(宮子)を夫人とした。ただし皇后ではない。
元明天皇(第43代)
- 天武天皇・持統天皇の息子だった草壁皇子の奥さん。
- でもご本人は天智天皇の娘、つまり持統天皇の妹。ややこしいぞ。
- 息子の文武天皇が若死にし、その遺児・首皇子(聖武天皇)はまだ幼少なので、自分が即位。
- 実は首皇子に皇位を廻したくなかったから、という真逆な説もある。
- 首皇子の母親は藤原氏出身(藤原不比等の娘・宮子)。持統天皇や元明天皇は蘇我氏系なので、藤原氏系に皇位を渡したくなかった。
- そこで、状況の変化を待つべく元明天皇が即位したというわけ。
- 実は首皇子に皇位を廻したくなかったから、という真逆な説もある。
元正天皇(第44代)
- 元明天皇の娘。
- 弟・文武天皇の子である首皇子(聖武天皇)がそろそろ成年に達しそうなのに、母・元明天皇はそれを待たずに娘に譲位した。首皇子に皇位を廻したくなかった説の根拠。
- 絶世の美女だったらしい。
- 長屋王は義弟。
- 蘇我氏系の最後のふんばりで、藤原氏の攻勢に抵抗し続けたが、呪詛をおこなったという罪状で攻め殺される。
- 現代で言う女系の女性天皇。しかし、「父方の祖父は天武天皇だから、その資格で即位できたのであり、単に母親が天皇であるだけでは即位できない」という主張がある。
- 蘇我氏系の最後のふんばりで、藤原氏の攻勢に抵抗し続けたが、呪詛をおこなったという罪状で攻め殺される。
聖武天皇(第45代)
- 勇ましい諡号だが、本人はややノイローゼ気味の線の細い人だったらしい。
- 正倉院宝物の聖武天皇筆の書跡は、線が細く女性的な字なのがそれを裏付けていると思う。
- 悪疫の流行や九州での謀反などのプレッシャーに耐えかね、奈良を逃げ出してあちこちに遷都。
- 実際には遷都と言っても、いちいち首都を造営したわけではない。宮殿を造っただけだが、それでも結構な物入りで、ひんしゅくを買う。
- 大仏を創建。
- 実は仏教に公然と帰依した天皇はこの人が最初。
- その意味ではキリスト教を国教化したローマのコンスタンティヌス帝に相当する。
- 勝手に出家して娘(孝謙天皇)に譲位し、周囲をあわてさせたらしい。
- その意味では勝手に出家しては連れ戻されるのを繰り返した梁の武帝に相当する。
- 実は仏教に公然と帰依した天皇はこの人が最初。
- 奥さんは光明皇后。
- 初の藤原氏出身の皇后。以後、藤原氏の繁栄が約束される。
- 雄渾な筆跡で書いた「楽毅論」が正倉院に収められている。聖武天皇と反対で、男性的で勇ましい人だったのだろう。
- 「法皇」と称される初の天皇と言われることがある。
孝謙天皇(称徳天皇)(第46・48代)
- 聖武天皇と光明皇后の娘。
- 日本史上、天皇になった女性は8人居るが、皇太子になった女性は後にも先にもこの人だけ。
- もと聖武天皇の皇太子だった弟の基王が早死に。もうひとりの皇子である安積親王は藤原氏の血を引いていないので忌避される。で、空前絶後の「皇太女」誕生となった。
- 愛子さまが二人目になるか? 現時点では微妙なところ。
- 実はけっこう有能な人だった。
- 遠縁の淳仁天皇に一旦譲位するが、言うことを聞かないので激怒、策謀をめぐらせて皇位を取り戻してしまう。
- 日本史上二人目の重祚。自分の意思で皇位を奪回したのはこの人だけ。
- 淳仁天皇と組んでいた権臣・恵美押勝(藤原仲麻呂)が乱を起こすが、あっさりと鎮圧する。
- 実権者のクーデターをこれほど鮮やかに鎮圧した天皇も他にはほとんど居ない。
- 日本で初めて荘園を整理しようとしたのは、もっと評価されていいと思う。
- 遠縁の淳仁天皇に一旦譲位するが、言うことを聞かないので激怒、策謀をめぐらせて皇位を取り戻してしまう。
- 僧・弓削道鏡を寵愛。
- 巨根の怪僧みたいに思われているが、実際にはマジメな学僧だったらしい。孝謙天皇の病気の治癒祈祷に招かれたところから、信頼され政治顧問のような存在になった。
- 里中満智子のマンガ(『女帝の手記』)なんかはそのラインで描いてるね。怪僧のイメージがあったから素朴な坊さんでびっくり。
- 称徳天皇は道鏡に皇位を譲ろうとしたが、これはさすがに無理だった。
- 和気清麻呂が宇佐八幡宮に神託を聞きに行って「不可」だったというが、神託を受けるまでもなくほとんどの人は反対だったろう。
- しかしこの騒動に懲りたのか、女帝は称徳天皇を最後にぷっつりと途絶え、次は江戸時代の明正天皇まで出てこなくなる。
- 巨根の怪僧みたいに思われているが、実際にはマジメな学僧だったらしい。孝謙天皇の病気の治癒祈祷に招かれたところから、信頼され政治顧問のような存在になった。
淳仁天皇(第47代)
- 藤原仲麻呂を重用して孝謙・道鏡ラインと対立、前代未聞の皇位剥奪により淡路に流された。人呼んで廃帝、または淡路廃帝。
- 皇位についたこと自体「なし」にされた。皇位が認められたのは明治になってから。明治天皇より淳仁の諡号が贈られる。
光仁天皇(第49代)
- なんと65歳で即位。称徳・道鏡時の混乱を収めて息子・桓武天皇に渡す。
- 皇位が天武系から天智系に戻るきっかけとなった天皇。この時より、傍系から天皇になると諡号・追号に「光」がつくことが多くなる。
平安時代
桓武天皇(第50代)
- 平安京を建設。
- その前に長岡京も建設しているが、怨霊騒ぎがあって中断。
- 奈良の仏教勢力がうざ過ぎたから遷都したかったらしく、平安京には奈良仏教の寺院はほとんど建てさせなかった。
- その代わり、最澄を寵愛して、当時の新仏教である天台宗や密教を保護。
- 長岡京は桂川の反乱でしばしば被害を受けており、また平城京からの遷都を充分な周知なく行って世間の反発を買ったため、平安遷都に伴っては治水を考慮し、更に詔を出してから実行した。
- ともあれ、今日の京都の基礎を築いた人として功績は大きい。右京は荒廃して左京ばっかり栄えることになってしまったけれど。
- 母・高野新笠は百済人の血を引いていたらしい。
- 今上陛下がこの件に言及された途端、「日王の祖先が韓国人であったことを日王自身が認めたニダ! マンシェー!」と某国で大騒ぎ。もうアホかと。
- 桓武天皇が生まれた時点で、百済が亡びてからすでに70年以上経過している。百済人の血などどれだけ薄まっていたか。しかも百済は韓国とは関係ねーだろ!
- 高野新笠は「百済王(くだらのこにしき)」氏という貴族の出身。
- 当時の三流貴族の中には自身の血統にハクをつけるために「百済王の子孫」という意味でもある「百済王(くだらのこにしき)」氏の一員と名乗ることは多かった。
- 高野新笠が本当に百済王の血筋を受け継いでいた可能性は低い。
- 当時の三流貴族の中には自身の血統にハクをつけるために「百済王の子孫」という意味でもある「百済王(くだらのこにしき)」氏の一員と名乗ることは多かった。
- 百済王の血筋を引いていると主張した桓武天皇の時代、日本は新羅と国交断絶状態にあった。
- そもそも、自分が百済王の血筋を引いていると主張したのも、新羅と対抗する目的のため。
- 今上陛下がこの件に言及された途端、「日王の祖先が韓国人であったことを日王自身が認めたニダ! マンシェー!」と某国で大騒ぎ。もうアホかと。
- 平安京も建造途中で工事中止。民の負担が大きくなるのを懸念したためとか。
- 平氏のご先祖様。
- ただし、実際に平姓が子孫に与えられたのは3代後の淳和天皇の御代である。
平城天皇(第51代)
- 平城京にひきずられて「へいじょうてんのう」と読みたくなるが、正しくは「へいぜいてんのう」。
- 最近は「平城京」も「へいぜいきょう」とルビを振られる場合がある。ひょっとするとそのうち「へいぜい」に一本化されるかもしれない。
- 重度のオバコン。
- 皇太子時代、皇太子妃として召された女性を引見した際に、当の女性ではなく付き添ってきていた母親のほうに一目惚れしてしまい、ただならぬ仲に。
- この女(母親のほう)が藤原薬子。のちに「薬子の乱」というのが起きる。
- 皇太子時代、皇太子妃として召された女性を引見した際に、当の女性ではなく付き添ってきていた母親のほうに一目惚れしてしまい、ただならぬ仲に。
- 感情の起伏が激しい人だった。
- 薬子に熱中したのもそうだが、父の桓武天皇が崩御した時、ころげまわって絶叫したそうな。
- 躁鬱病だったのではないかと診断している史家も居る。
- 当初は、桓武時代の放漫財政を建て直そうと努力したが、なかなか成果が上がらないので飽きてしまい、皇位をさっさと弟(嵯峨天皇)に譲ってしまう。
- が、しばらくすると皇位を譲ったのが惜しくなり、いろいろ口出しをし始めるが、思い通りにならないのでぶち切れ、薬子とその兄・藤原仲成と共に旧都・奈良にこもり、勝手な勅令を出しまくる。
- ついに武力衝突となったが、嵯峨天皇側に機先を制され、あっさり敗北。
- 嵯峨天皇としては兄の罪を問いづらかったようで、一切を薬子と仲成のせいにして二人を斬る。それゆえ薬子の乱と呼ばれるようになったが、薬子がどの程度政治的策謀をめぐらしていたかは微妙。案外ただの色っぽいおばちゃんに過ぎなかったかも。
- 在原氏のご先祖様。
- 歌人・在原業平を輩出したことで有名。また松平氏及び徳川氏は在原氏の末裔という説もある。
- 松平氏や徳川氏は一般的には清和源氏の末裔と言われているが仮冒で、実は在原氏か藤原氏か賀茂氏の末裔という説が有力。
- 歌人・在原業平を輩出したことで有名。また松平氏及び徳川氏は在原氏の末裔という説もある。
嵯峨天皇(第52代)
- 兄・平城天皇から皇位を譲られた。
- しばらく兄からの差し出口に悩まされたが、薬子の乱を契機に兄の発言を封じ込める。なかなか果断な人。
- 空海のマブダチになった。
- 薬子の乱平定の祈祷を空海のほうから申し出たのがきっかけ。
- 書道や詩作を空海から指導されたらしい。のちに嵯峨天皇自身、「日本三筆」のひとりに数えられる書家となる。
- 父・桓武帝が築いた平安京を安定させ、発展の礎を据えた功績は大きい。なおかつ一流の文化人であり、その後の王朝文化の祖となったと言える。
- 源氏のご先祖様。
- 武家源氏になった清和源氏より前に、嵯峨源氏というのがあり、嵯峨天皇の皇子が臣籍降下し源姓を賜ったのが源氏の興り。
- 嵯峨源氏は名前が一文字なのが特徴。「源信」(みなもと の まこと)や「源融」(みなもと の とおる)等が代表的。
- 平安京にエイリアンが出没するようになったので、検非違使を設置した。
淳和天皇(第53代)
- 「じゅんな」と読む。「純名」とは書かない。
- 実は桓武平氏を誕生させたのはこの人である。桓武天皇の孫・高棟王に平姓を賜って臣籍降下させた。
- 上総、常陸、上野の3国を親王任国とした。織田上総守ではなく織田上総介、木村常陸守ではなく木村常陸介、吉良上野守ではなく吉良上野介なのはこのせい。
仁明天皇(第54代)
- 「にんみょう」と呉音で読む。深草の帝という別名もある。
- 在位中に承和の変が起こり、皇太子を取り換えた。
- 最後の遣唐使を派遣した。
文徳天皇(第55代)
- 承和の変により皇太子となり、そのまま即位。
- 藤原良房を人臣初の太政大臣に任じた。
清和天皇(第56代)
- 清和源氏の祖。大変失礼ながら、生前と崩御後の名声の差は歴代随一と思われる。
- 数え9歳で即位、27歳で譲位、30歳で出家、32歳で崩御。その短い生涯はだいたい「意外!」と言われる。
- 源姓は子にではなく、孫の経基に与えられた。もちろん、崩御後のこと。
- 清和天皇の皇子でも源姓を与えられた者が4名いる。ただ清和源氏の中で栄えたのが源経基の子孫のみというだけ。なお経基以外にも源姓を与えられた清和天皇の孫は11人もいる。
- 在位中は、藤原良房を人臣初の摂政とするも、富士山が噴火し、応天門炎上事件が起こり、貞観地震が起こり、貞観の韓寇が起こり、と波乱の御代。
- 貞観地震は東日本大震災の前例として有名になった。
陽成天皇(第57代)
- 9歳で即位。
- 暴君説があるが、さて???
- そのせいか、17才で譲位。その若さで何を悪行しろというのかわからん。
光孝天皇(第58代)
- 即位した年齢は55歳。
- 実在が確実な天皇の中でも、三本の指に入る高齢での即位らしい。
宇多天皇(第59代)
- 最初は臣籍降下して「源定省」と名乗っていた。
- そもそも父の光孝天皇が50過ぎまで貧乏皇族に過ぎなかったのに、陽成天皇がメンヘラになって退位した後いきなり擁立された人。光孝天皇は陽成天皇から見ると大叔父にあたり、本来かなり皇統から遠かった。
- 光孝天皇は中継ぎの自覚があって、自分の子供に皇位を継がせない旨を明らかにしており、嫡子を臣籍降下させ「源定省」にしたのもそのためだったが、それでは誰に継がせるかということをはっきりさせないうちに崩御。
- 光孝天皇の片腕だった藤原基経は、自分の既得権を保持するため、光孝天皇の遺志を曲げて定省を擁立。
- 上記の事情から、藤原基経には頭が上がらなかった。
- 即位早々、「阿衡の議」なるしょーもない騒ぎが勃発。
- 基経に対し「阿衡の佐をもって卿の任となす」という勅書を出したのが発端。
- 「阿衡」は殷の建国の元老・伊尹のこと。伊尹が湯王を助けたように朕を助けるように、という意味だったのだが、基経がこれを曲解してヘソを曲げてしまった。
- 「阿衡」という言葉は当時としては少々古色を帯びていて、やや実権のない名誉職に近いニュアンスがあったらしい。実権を捨てて引っ込んでおれという意味か、と曲解したわけ。
- 基経がサボタージュを始めたので宇多天皇は困り果てる。一方、阿衡は名誉職か補佐職かという議論が朝廷で蜿蜒と繰り広げられる。
- この時讃岐から上書して宇多天皇と藤原基経の間を取り持ったのが菅原道真。
- 即位早々、「阿衡の議」なるしょーもない騒ぎが勃発。
- 阿衡の議以来、宇多天皇は菅原道真を重用するようになる。
- 基経が死ぬと公然と寵愛し、基経の子の時平とリンクさせるように次々と昇進させる。藤原氏に対抗できるだけの手駒を育てようとしたらしい。
- しかし頼みの道真は失脚。当時上皇となっていた宇多は、道真を救おうとしたが、かつて自分が陽成上皇の徘徊に辟易して作った「上皇は天皇の許可無く内裏に入ることはできない」という決まりを盾にとられ、どうすることもできなかったとか。
- 個人的には失意のうちに崩御したと考えられるが、次の醍醐天皇・村上天皇の華やかな治世の下ごしらえをした英明な天皇であったと言える。
醍醐天皇(第60代)
- 天皇がもっとも理想的な政治を行えた時代らしい。
- なので後醍醐天皇が憧れていた。
- しかし当の本人は、菅原道真を追い出して後にはその怨霊を恐れた。
- 宇多天皇が源定省だった頃に、生まれた。
後三条天皇(第71代)
- 長く続いた摂関政治に衰退をもたらした天皇。
- 荘園整理も実施し、この辺りから藤原氏の名前は歴史上で重要な地位を占めなくなる。
- 母親が藤原氏の出でなかったため、藤原摂関家に遠慮することなく政治改革に着手できた。
白河天皇(第72代)
- 天皇時代よりも上皇・法皇になってからの方が有名。
- いわゆる「院政」。日本における「影の権力者」的構造を生んだ人にも見える(まあ摂関政治時代も同じようなものだが)。
- 初めの方から摂関政治の全否定はしていなかった模様。そりゃ反発も買うからジワジワ高めていくのが妥当な戦略だろうが。
- 鴨川の治水と双六賭博の抑制と僧兵の暴挙の抑制「だけ」ができなかった人。
- 双六のさい(の出方)が思うようにならないという話だった気がする。
- 双六に関してはその両方の解釈がある。
- 双六のさい(の出方)が思うようにならないという話だった気がする。
- 院政期の皇族らしく両刀遣い。男色相手は、2歳年下で乳兄弟の藤原顕季、夜伽のせいで「夜の関白」とあだ名をつけられた藤原顕隆、摂関家傍流の藤原宗通など。
- 自分の愛人を孫の后にした。
崇徳天皇(第75代)
- 保元の乱で追い出された人。
- 父の鳥羽上皇が嫌っていた模様。
- 崇徳天皇を産んだ璋子(待賢門院)が、鳥羽天皇の妃になる前に白河法皇に寵愛されていた。崇徳も白河の子ではないかと言われている。
- 鳥羽天皇自身も、「ヤツは『叔父子』だ」と言ったそうな。自分の子であるはずだが、実際には自分の祖父(白河法皇)の子なので叔父に当たるではないか、という意味。そりゃ嫌うわな。
- 鳥羽上皇は崇徳に命じ、正真正銘の自分の子である近衛天皇に譲位させる。崇徳は上皇となったが、院政期の慣習に反して、全然実権は持たせて貰えなかった。
- 近衛天皇の死後も崇徳の子に皇位は廻らず、近衛の弟の後白河が天皇に。崇徳上皇はついにキレて挙兵。これが保元の乱。
- たまたま失脚中だった藤原頼長と組み、源為義、平忠正など有力な武将を配下にして意気軒昂だったが、後白河側は名うての切れ者藤原信西を参謀長にし、源義朝、平清盛など若手武将を揃えて応戦。結果は崇徳側の大崩れ。
- 父の鳥羽上皇が嫌っていた模様。
- 讃岐に流され、そこで日本国を呪いながら死ぬ。
- 写経したものを京都の寺に奉納してくれという頼みすら拒絶されて、壊れてしまったらしい。
- そして日本国の大魔縁となる。間違いなく史上最強の怨霊。
- 「皇をとって民となし、民を皇となさん」の呪いの言葉は、鎌倉幕府樹立を経て承久の乱の結果上皇二人と天皇が武士(北条氏)から処罰(遠島)を受けることで見事実現した。
- 生きながらにして金ピカの天狗になったとも言われている。
- しかし、実際は流刑地では讃岐の人々からは「天皇さん」と呼ばれ親しまれ、物々交換などをしたり和歌を楽しみながら穏やかに過ごしたとも言われている。
- 明治維新後京都に白峯神宮として招聘され、現在はサッカーの神様になっている。
- 上方落語ファンには「瀬をはや~み」のフレーズでおなじみ。
後白河天皇(第77代)
- 平家と源氏を争わせてバランスを取ろうとしたが、結局は鎌倉に武家政権を作らせてしまった皮肉な人。
- 最終的な落とし所としては妥当だが、下記のgdgdっぷりを見ると、単に場当たり的な対応を繰り返してただけだろう。
- 腹黒さと強かさでは白河天皇に負けず劣らずだっただろうか……
- 頼朝をして「日本一の大天狗」と言わしめた策謀家。
- 平氏が調子に乗ってウザイ→鹿ケ谷の陰謀→失敗→全然知らなかったと白を切る
- 以仁王の平氏追討令→平氏を追い落とし源義仲入京→義仲を旭将軍に任命
- 義仲も調子に乗ってウザイ→義仲追討令
- 平氏滅亡。頼朝と義経の対立(上皇があおった?)→義経の要請で頼朝追討令
- 義経逃亡→頼朝が文句を言ってきたので「義経に脅迫されていた」と言い訳→義経追討令
- 義経、奥州藤原氏滅亡→頼朝「東北平定したんだから征夷大将軍に任じてよ」上皇「嫌だ」→頼朝の征夷大将軍就任は上皇崩御後
- 頼朝をして「日本一の大天狗」と言わしめた策謀家。
- もともとは、崇徳上皇の子に皇位を継がせたくない鳥羽法皇などの意思で、中継ぎとして即位した。
- 本命は後白河の子の守仁親王(二条天皇)だった。後白河自身はな~んにも期待されていなかった。
- よほど愚物と思われていたフシがある。それがあんな腹黒い策謀家になるとは。
- 本命は後白河の子の守仁親王(二条天皇)だった。後白河自身はな~んにも期待されていなかった。
- 「今様」が大好き。今様の歌い手を厚遇し、今様の歌集も作った。
- 「今様」は当時の流行歌、というか今で言えばパンクロックみたいなハジケた歌。
- 「今様」の名手であれば、ホームレスだろうと娼婦だろうと構わずに招待して一緒に酒を飲んだらしい。
- 当然、良識ある人々からは白い目で見られるが、法皇が編集した歌集「梁塵秘抄」は当時の民衆の実態や心情を伝える非常に貴重な資料になっており、評価が逆転している。
- 絵巻物も大好き。現在評価が高い絵巻物の大半は、後白河の時代に描かれたもの。
- アジテーションでもプロパガンダ であるよりも、何よりもまずエンターテイメントを重視して制作している。だから現代の我々が見ても楽しいのだろう。
- やっぱり、同時代人からは道楽が過ぎると思われていたが、今では平安末期の風俗をビジュアルで理解することが出来る貴重な資料であり、大胆で独創的な表現技法を駆使した絵画技術は高く評価されている。こうした価値の逆転が起こるから歴史は面白い。
- 今で言えば漫画ファンですな。国のトップに居る人が漫画に熱中するなんて……あれ?
- 「小柴垣草子」というポルノ絵巻まで描かせる。
- なんとなく津川雅彦がはまり役?
- 平氏打倒の謀議の席で瓶子(へいじ、徳利みたいなもの)が倒れたのを見て「平氏が倒れた」とか言って気炎をあげたのは上皇だっけ?公卿のだれかだっけ?
- 鹿ヶ谷事件のことなら、酒盛りの上での話だから・・・実際のところはわからない。で良いと思うけど。
安徳天皇(第81代)
- 壇ノ浦。
- 歴代帝の中で一番、哀れみを誘うお方だ。
- 後の時代の四条天皇も別の意味で哀れみを誘うお方。
- 入水前に祖母の二位尼が「波の下にも都がございます」と慰めたというエピソードは泣かせる。
- どこまで事実かわからないが、安徳生存伝説が各地にある。
鎌倉時代
後鳥羽天皇(第82代)
- 上皇になってから将軍関係のゴタゴタの隙に鎌倉幕府を倒そうと自ら兵を挙げた。
- 京での緒戦は快勝したが、関東武士が言うことをきかず、幕府についたので最終的にはボロ負け。
- 上皇は上級武士を家臣化すれば、その下の武士たちも自然とついてくると思っていたが、実際は上皇が直接恩顧を与えた武士しか味方にならず、たいした兵力にならなかった。
- 転じて頼朝は小身の御家人でも手ずから「お前だけが頼りだ」と語りかけ、武士ひとりひとりの掌握に努めた。こうした姿勢の違いが、もろに味方の数に現れる結果になる。
- 鎌倉からは「上皇ご謀反」と言われた。謀反の意味が逆転しているような・・・。
- 京での緒戦は快勝したが、関東武士が言うことをきかず、幕府についたので最終的にはボロ負け。
- 歌人としてはかなりのものだった。
- 刀鍛冶としてもかなりのものだったらしい。世に言う菊一文字の元祖だとか。
- とにかく、自作の刀に菊の紋を入れたのが、のちの皇室の紋の一つになった。もう一つは桐ね。
土御門天皇(第83代)
- 父の後鳥羽上皇の挙兵に賛成しなかったため、弟に譲位させられた。
- というわけで乱後当然処分はなかったが、道義的責任を感じたのか自分から阿波へ配流となり、そこで崩御した。
- 最初土佐で、それから阿波に流しなおされてるの方が正しいか。
順徳天皇(第84代)
- こちらは積極的に父・後鳥羽上皇に協力。ただし途中で天皇の立場ではまずいと思ったのか、息子に譲位。
- 結局鎌倉に負けて佐渡に流され、そのまま崩御。
- 徳に順うだから、怨霊になりそうと言うことで警戒されたのかも。
仲恭天皇(第85代)
- 父・順徳天皇の思惑によりわずか数え4歳で践祚。しかし承久の乱後在位4ヶ月で退位させられる。
- 即位していないため「半帝」または「九条廃帝」と呼ばれ、歴代天皇に入っていなかった。「仲恭」の諡号を贈って歴代天皇に加えたのは明治天皇。
後堀河天皇(第86代)
- 後鳥羽上皇の兄の子。鎌倉幕府の推しにより仲恭天皇に代わって即位。
四条天皇(第87代)
- 2才で天皇に。
- 12才のとき、廊下で女官を転ばせようと細工をしたら自分がこけて頭打ってそのまま崩御。
南北朝・室町・戦国時代
後醍醐天皇(第96代)
- 髭が濃いイメージが強い。
- キャラも髭に負けず劣らず濃すぎ。
- 皇室の血が入ってるのか?と思えるほど(戦前なら○○罪ですかね)、この人の性格は突然変異。
- おそらく母親から。後醍醐の母は息子を天皇にするため、なんと夫の父であり大覚寺統主であった亀山天皇の后になった。
- 天皇の号は諡なので退位してから名付けられのだがこの人は醍醐天皇に憧れているということで自分で在位中から後醍醐を名乗った。
- この時期の天皇は生前自ら選んでおくのが通例。特に後醍醐だけが特別ではない。
- 「後醍醐」の号を選んだのは、父の後宇多天皇の次というのを強調するため(元になった醍醐天皇の前は宇多天皇)。討幕派の後醍醐と親幕派の後宇多は、先述の母親のこともあって仲が悪かったが、だからこそ、自分は廷臣たちに人気の高かった後宇多の息子だとアピールし、彼らの支持を得る必要があったと思う。
- 延喜・天暦の治にあこがれていたので後醍醐を名乗った。ついでに息子の天皇の諡号まで自分が決めた(後村上)。
- この時期の天皇は生前自ら選んでおくのが通例。特に後醍醐だけが特別ではない。
- 普通の百科事典にも「個性が強い」と書かれていたりする。
- 「七転び八起き」とはこの人のためにあるような言葉。
- 倒幕計画が一度失敗に終わってもめげずに再び立ち上がったり、隠岐に流された後監視の目をかいくぐって脱出したり、足利軍に京都を落とされた後に失踪して吉野に行ったり…ととにかく執念深い。
- 足利尊氏が天竜寺を建てたのはこの人の怨念を恐れたかららしい。
- 実際にその傑物(良くも悪くも)ぶりを目の当たりにしたから、余計怨念が怖かったんだろう。
- 実は部下や配下武将を平気で使い捨てにしてる(倒幕計画を日野一族の責任にしたり、義貞に無断で尊氏と講和したり)結構ひどい上司なのだが、それでもついて行ってる奴がいるのはやはりカリスマ性があったからだろうか。
- たぶん、直接会うとたちまちとりこになってしまうような魅力があったのだろう。
- その証拠に、たぶん直接には会っていない赤松円心は簡単に離れている。楠木正成や名和長年らは、後醍醐天皇のお目見えを得てしまったために最後まで裏切れなかったと思われる。
- 当時の常識から考えて、楠木正成などが天皇にお目見えするなど、本来あり得ない栄誉だから感激してしまったんだろう。反面、軽率・慣例無視とも言え、これをカリスマと言っていいか微妙のような・・・。
- その証拠に、たぶん直接には会っていない赤松円心は簡単に離れている。楠木正成や名和長年らは、後醍醐天皇のお目見えを得てしまったために最後まで裏切れなかったと思われる。
- たぶん、直接会うとたちまちとりこになってしまうような魅力があったのだろう。
- 日本全国の領地の分配(論功行賞とか)を自分一人で管理しようとしていたらしい。そりゃ無理だよ。
- 天皇専制を目指していたとされるが、中級実務官人層に総スカンを食らっていたため、自分で全部やらなければいけなかったという方が実際に近いだろう。
- 「後の三房」を見出し機会を与えたのは、後宇多天皇。しかも、後醍醐は彼らに諫められる一方。
- 綸旨ですべてを動かそうとしたので、綸旨がハイパーインフレーションを起こした。近頃都に流行るもの、夜討強盗、ニセ綸旨・・・。
- 天皇専制を目指していたとされるが、中級実務官人層に総スカンを食らっていたため、自分で全部やらなければいけなかったという方が実際に近いだろう。
- ♪ガンダ~ラ ガンダ~ラ
後小松天皇(第100代)
- 南北朝を統一した。
- まあ、後小松天皇がそのために何をしたのかと言えば微妙だが。
- 一休さんの父親とされている。
- 母親(伊予の局)が南朝遺臣の娘だったため、後小松天皇の長子ながら皇位は継げず、僧籍に入れられたらしい。
江戸時代以降
後水尾天皇(第108代)
- 幕府によって統制をうけることになった天皇。
- 幕府の横暴には嫌気が差したらしく、娘に皇位を譲る。
- 中宮が徳川秀忠の娘・和子(入内前は「かずこ」、入内後は「まさこ」)。明正天皇は後水尾帝と和子の間に生まれた皇女。
- 花と炎の帝。
- とにかく長寿な上、子沢山。
- 直の子女の中から女帝を含め、4人の天皇を輩出している。
- 昭和天皇がお隠れになったとき、『明確な歴史としてはっきりしている長寿』の後水尾天皇以来の長寿だったと言ってた。
明正天皇(第109代)
- 久しぶりの女性天皇。実に859年ぶり。
- そのため、一生独身な上、男に関心持たせないために、ほぼ隔離状態だったとか。
- 幕府と確執した前天皇から突然皇位を譲られた。
- そのため践祚した年齢は、なんと7歳。
- 母は狸の孫。
後桜町天皇(第117代)
- 最後の女帝。
- これが取り沙汰される中、ひそかに注目を浴びてる。
- クイズではベタ問の一つでもある。
孝明天皇(第121代)
- 幕末の動乱の最中急死。一説では殺されたとも。
- 幕府に肩入れしていたから邪魔になって殺されたという説がある。
- 加山雄三が歴史番組(特に幕末関連)に出演できないのは…曽祖父が○○○○だから。。
- この方の思想を「尊皇攘夷」だと説明する人がいるが、大きな間違い。正しくは「佐幕攘夷」である。
近代以降
明治天皇(第122代)
- この人から、近代的(西洋的とも言える)な皇室制度が始まった。
- 伊藤博文などは、英国的でフランクな皇室をイメージしていたようだが、ロシア皇帝(アレクサンドル2世)の戴冠式に出席して感動した山県有朋が猛反対。いささか時代錯誤な、ロシア・清国式の神聖装飾を推し進める。
- 列強に対抗すべく文人から武人に早変わりした人。青年期、西郷隆盛に指導されたという。
- だから西南戦争中は塞ぎがちだった。
- 主な仕事は現代風に言うと、リスクマネージメント。
- 対外戦争や国会の紛糾など明治国家が重大な危機に直面すると、勅書を出して反対派を黙らせた。強権的なやり方であるが、これで国内がまとまり国難を乗り越えられたのも事実である。
- 一部人間によると出自が謎なんだとさ。まあ、こういうことはChakuwiki内でいろいろなページに書かないよう。
- イギリスからガーター勲章をもらうときに、烈火の如く怒った人。
- 日英『同盟』なのに、その相手を下に見るとか何とかいったんだとか。
大正天皇(第123代)
- 皇太子のときは元気があって、日本全国飛び回っていたのに、いざ即位したら病弱に・・・。
- 昭和天皇がのちに回想して曰く、「天皇になったのが間違いだった、その重圧に耐えきれなかったのであろう」と言う趣旨の発言をしている。
- フランクでリベラルな人だったゆえに軍部から嫌われアホ扱いされた気の毒な人
- 昭和天皇がのちに回想して曰く、「天皇になったのが間違いだった、その重圧に耐えきれなかったのであろう」と言う趣旨の発言をしている。
- 原宿に宮廷ホームが造られる要因となった天皇。普通は東京駅から堂々と乗るものだった。
- 実は側室を置かなかったはじめての天皇
- 鯛背負ってた天皇。だから…(以下ry)
- 明治天皇の5人の息子の中で唯一成人した。