ざんねんなサッカー人物事典

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日本人[編集 | ソースを編集]

伊東輝悦[編集 | ソースを編集]

  1. 「マイアミの奇跡」を呼ぶゴールを決めたことで有名だが、ワールドカップは1998年フランス大会は選出されど出番はなく、2002年日韓大会は怪我明けもあって選出されなかった。

奥大介[編集 | ソースを編集]

  1. 引退後が残念だった。
    • 2013年、妻の佐伯日菜子へのDV容疑で逮捕。起訴猶予となったもののそれと引き換えに離婚。
    • 翌年、宮古島で再出発を目指そうとした矢先に交通事故で死亡。

小倉隆史[編集 | ソースを編集]

  1. 2016年に名古屋グランパスのGM兼監督を務めるも、クラブ史上最悪となるリーグ戦17戦未勝利の成績不振で休養、クラブも史上初のJ2降格。

釜本邦茂[編集 | ソースを編集]

  1. ガンバ大阪初代監督を務めたが、1年目は年間7位、2年目は10位と奮わなかった。
  2. 唯一の功績は自身が主催していたユースチームの「釜本FC」をそのままガンバのユースチームに移行し、後の宮本恒靖や稲本潤一と言ったユース出身選手の台頭に繋げたことか。

加茂周[編集 | ソースを編集]

  1. 1998フランスワールドカップを目指す日本代表の監督を務めたが、アジア最終予選での苦戦により途中で更迭された。
  2. 1999年、京都の監督に就任も、成績不振のため翌年6月に解任された。

木村和司[編集 | ソースを編集]

  1. マリノス監督としては1年目は8位に低迷、2年目は首位争いに加わるも秋に失速して5位に終わり、結果に拘った守備的なサッカーに「内容がない」と判断され解任。

久保竜彦[編集 | ソースを編集]

  1. 日本を代表する名ストライカーなのだが何故かワールドカップに縁がない。
    • 2002年の日韓大会は直前になって不調になり選出されず、2006年のドイツ大会は土壇場で巻誠一郎に押し出され選出されず…。

小林大悟[編集 | ソースを編集]

  1. 2005年にヴェルディのJ2降格が決まると「必ず1年でJ1に復帰します」と決意を固めたが、フロントとの確執が原因で大宮に移籍。発表後にブログが炎上し一時閉鎖に追い込まれた。
  2. その後、ヨーロッパを経て清水で日本復帰を果たすも、持病の腰痛が悪化したため出場機会に恵まれず、手術も行い長期欠場。

城彰二[編集 | ソースを編集]

  1. エースストライカーとして臨んだ1998年のフランスワールドカップで得点を決めることが出来ず、帰国後に水をかけられてしまった。
  2. その後2000年にスペインのレアル・バリャドリードへレンタル移籍し、ほぼレギュラーとして活躍。
    • シーズン終了後には完全移籍・レンタル移籍の延長が検討されたが、日本代表の試合での負傷がきっかけで高校時代から膝の前十字靭帯を切ったままプレーを続けていたことが発覚し、契約を見送られてしまった。
    • 実はバリャドリードからのオファーがあった同時期に、中田英寿の後釜の日本人を探していたペルージャ(セリエA)からもオファーがあったが、城は「イタリアよりスペインのほうが合ってる」と判断しバリャドリードへ移籍したという裏話がある。
  3. マリノスへ復帰するも、その後は怪我や体調不良等で得点数が激減。
    • 2000年のチャンピオンシップにおける2試合無得点・最終戦までJ2降格の危機が残った2001年の低迷の責任を問われ、2002年にヴィッセル神戸へ期限付き移籍。
      • しかしこの年も1ゴールのみに終わり、年末にはヴィッセルから契約延長を見送られ、本籍のマリノスからも戦力外通告を受け、J1でのプレーはこの年限りとなった。
  4. その後J2の横浜FCに移籍。チームリーダーとしてチームを引っ張ったが前述の靭帯の故障が限界に達し、2006年のシーズンを最後に現役引退を発表した。

反町康治[編集 | ソースを編集]

  1. 2008北京五輪日本代表監督に就任するが、U-23となったアトランタ大会以降初の全敗に終わった。

柱谷哲二[編集 | ソースを編集]

  1. 現役時代は「闘将」と呼ばれ活躍したが、監督としては2002年のコンサドーレ札幌では公式戦13戦わずか2勝で途中解任(チームもJ2降格)、2008年の東京ヴェルディでも降格に導いてしまうなど不甲斐ないため、「凍傷」に変わってしまった。
    • 「ロブソンには責任を取ってもらう」という迷言を残すも、自身もその数か月後に札幌の監督を解任される。

早野宏史[編集 | ソースを編集]

  1. 1999年からガンバの監督を務めるが、成績が上向かず2001年2ndステージ途中で辞任。
    • 但し2000年の2ndステージでは終盤まで優勝争いに絡み(最終成績4位)、翌2001年の1stステージも5位には入っている。
  2. 2004年シーズン途中より柏の監督も務めたが、同年は最下位で入替戦行き、翌年にJ2降格。

平野孝[編集 | ソースを編集]

  1. 1997年オフ、プロ野球選手とともに脱税に関与してしまった。
    • 責任を取り、年俸を6分の1に下げることを申し出た。
  2. 2000年シーズン途中、望月重良、大岩剛とともに「チームの秩序を乱した」として名古屋を解雇された。

福田正博[編集 | ソースを編集]

  1. 2002年2ndステージ名古屋戦で現役最後となるゴールを決め、お立ち台で「負けないよ」(「負けられないよ」の言い間違いだとか)と言い放ったが、この試合で首位に立った浦和は以降のリーグ戦全敗、カップ戦も敗退、翌年まで公式戦11連敗、12戦未勝利の長い低迷期に入ってしまった。
  2. クラブタイトルに縁がなかった。
    • 浦和の初タイトルは引退翌年の2003年のナビスコ杯だった。
    • 2008年から2年間コーチも務めたが、無冠に終わった。

前田浩二[編集 | ソースを編集]

  1. 現役時代はDFとして横浜フリューゲルスやアビスパ福岡で活躍。2012年に福岡の監督に就任したが…。
    • 成績不振によりシーズン途中に解任。この時点で11戦勝ちなし(天皇杯の福岡大学戦の勝利をカウントすれば9戦)。
  2. 2013年にガイナーレ鳥取の強化部長に就任。
    • シーズン途中からは監督も兼任したが、監督就任後のリーグ14戦で1勝も出来ずに最下位に…。
      • J2・JFL入れ替え戦も敗れ鳥取はJ3へ降格。この時点で28戦勝ちなし。
  3. 2014年になでしこリーグで3連覇中のINAC神戸レオネッサの監督に就任したがここでも2連敗を喫し、遂に30戦勝ちなし。
    • 2014年4月13日のなでしこリーグ第3節・新潟戦でようやく勝利を収め、長いトンネルを脱出した。

前田遼一[編集 | ソースを編集]

  1. ジュビロ磐田時代の2007年から2012年まで、彼がシーズン初得点を決めた試合の対戦相手がいずれもJ2に降格するジンクスがあった(いわゆるデスゴール)。
    • 2012年、前田はガンバ大阪相手にシーズン初得点を決めたが、このガンバ大阪もJ2に降格した。
    • ただし本人、さらには森下仁志監督 (当時) としてはこの話を気持ちよく思ってはいないそうだ。
      • だが2013年J1第1節、磐田の対戦相手だった名古屋グランパスのストイコビッチ監督が、試合後のインタビューで前田に得点をさせなかったことに触れては「これでJ1に残れる」とコメントした。この年、前田は第5節で浦和レッズ相手に今シーズン初得点を決めたを決めたが、浦和は6位で残留。逆に磐田が17位でJ2に降格することとなった (名古屋は11位) 。

松木安太郎[編集 | ソースを編集]

  1. セレッソ大阪監督としてはJリーグ1試合最多失点記録を出すなど成績不振により1年で解任。
  2. その後ヴェルディ監督に復帰も、半年で解任された。
  3. サッカー代表戦の解説によく呼ばれるが、とにかくうるさいと評判。
    • 一時期のテレビ朝日のサッカー中継の布陣について「実況・角澤、解説・セルジオ、ピッチレポート・名波、感想・松木」と言われていた。

丸山桂里奈[編集 | ソースを編集]

  1. オフサイドのルールを知らず敵のゴール前で待ち伏せしてたことがあった。
  2. 現役引退後に芸能界に入り、いろいろやらかしてる。
    • 現役時代の栄光が台無し。
    • 実際はサッカー選手のときより稼いでそうだが。

三浦知良[編集 | ソースを編集]

  1. とにかくワールドカップに縁がない。1994年アメリカ大会はかの「ドーハの悲劇」、1998年フランス大会は日本初出場を果たすも自身は本大会直前で外れてしまった。

森勇介[編集 | ソースを編集]

  1. とにかくラフプレーが多い。
    • ベンチから審判に向かって暴言を吐いたとして、試合には出場していなかったが退場。
      • 試合に出ていないのに退場処分を受けた選手は中西哲生、平本一樹に続いて3例目。
    • 途中交代の際に給水ボトルを蹴飛ばし、2度目の警告を受けて退場。
    • 左肘で松下年宏(新潟)の顔面を打った行為と、レッドカードを受けた後の態度・振る舞いが「暴行・脅迫および一般大衆に対する挑発行為」であるとして2試合の出場停止。
    • 多摩川クラシコで長友佑都に対して肘打ち。
    • ナビスコカップ決勝の表彰式でガムを噛みながら参加し、1試合の出場停止。
    • 審判の目の届かない場所でパク・チュホ(磐田)を蹴って2試合の出場停止。
      • その後行われた磐田戦で試合開始早々、パクにかなり悪質なタックルを仕掛け、腓骨を骨折させ負傷退場に追い込む。
    • 倒れている相手の選手に膝を押し付け、右足首付近を踏みつけて退場。
  2. J1・J2・J3で14回も退場処分を受けている。

山下芳輝[編集 | ソースを編集]

  1. 所属した福岡、仙台、柏が悉くJ2降格してしまい、「降格請負人」「疫病神」などと揶揄された。
  2. 2005年シーズン途中、大宮に期限付き移籍。こっちでは残留したものの、短期間で降格した柏に戻り翌シーズンJ2でのプレーになった。
  3. 選手晩年はいずれも当時JFLの栃木、琉球でプレーした。

ラモス瑠偉[編集 | ソースを編集]

  1. FC岐阜監督時代は1年目こそ順位を上げたものの、2年目はあわやJ3降格の成績に終わり、3年目は途中解任された。

呂比須ワグナー[編集 | ソースを編集]

  1. 2012年シーズンのガンバの監督就任オファーを受けるも、当時はS級ライセンスを持っていなかったため、表向きはヘッドコーチだった。
  2. その後、S級ライセンスが認められ、2017年シーズン途中にアルビレックス新潟監督就任も、16戦未勝利でJ2降格。

和田拓三[編集 | ソースを編集]

  1. 5年間で所属した横浜FC、ヴェルディ、千葉、福岡の4クラブをJ2降格させてしまった。

外国人[編集 | ソースを編集]

アルパイ・オザラン[編集 | ソースを編集]

  1. 日韓ワールドカップでトルコ3位に貢献した選手の一人。
    • ベスト16の日本戦(宮城)では日本代表の波状攻撃を防ぎ、同試合のMOMに選出されている。
  2. 2004年に浦和レッズに加入。
    • 1シーズン目こそ守備で活躍し2ndステージ制覇に貢献したが…。
    • 2シーズン目には鹿島戦で鈴木隆行に暴行を加え一発退場。出場停止明けには1枚目のイエローカードを不服としてピッチ横の給水ボトルを蹴り上げる暴挙に至り2枚目のイエローを喰らいわずか3分で退場。その後は出番がなく契約解除。

イルハン・マンスズ[編集 | ソースを編集]

  1. 日韓ワールドカップでトルコ3位の原動力となり、加えて甘いマスクで多くの女性ファンを魅了した選手。
  2. 2004年、楽天グループ1年目となったヴィッセル神戸が目玉として超破格の移籍金と年俸で獲得したが…。
    • 膝の古傷が再発したため3試合しか出場できず、その後クラブに無断で帰国。そのまま退団となってしまった。
  3. 翌年、ヘルタ・ベルリンに移籍したが、出場機会なく退団。
  4. 引退後はなんとアイスダンスの選手に転身していた。しかし冬季五輪の出場は逃してしまった。

ウィル・ロブソン・エミリオ・アンドラデ[編集 | ソースを編集]

  1. 登録名ウィル。1998年に大分トリニータへ入団、3年間で49得点を挙げ2001年にコンサドーレ札幌へ移籍。
    • コンサドーレでは24得点を挙げ、得点王&ベストイレブンを獲得。J1残留にも貢献した。
  2. ここまで書けばただの優良助っ人だが、とにかく素行が悪過ぎた…。
    • 気性の荒さ・体重をコントロールできない自己管理の甘さ・自己中心的なプレイ…それらの問題が、翌2002年に移籍した横浜F・マリノスで一気に噴出してしまった。
      • ナビスコカップのジェフユナイテッド市原戦で中西永輔、立石智紀を故意に負傷、練習法をめぐり当時のラザロニ監督と対立。
        • 挙句の果てには10月26日のジュビロ磐田戦でチームメイトの奥大介がパスを出さない事に腹を立て、奥を後ろから蹴ったetc…。
  3. 最後の一件が原因となり、マリノスを解雇。翌2003年はコンサドーレに復帰したが怪我に悩まされ、更にリハビリ中に札幌の居酒屋で暴行事件を起こしてしまう。
    • 罰金などの処分にとどまったが、処分が甘すぎると北海道新聞がウィルとコンサドーレのフロントの処分内容を激しく糾弾。
      • その後レンタルで古巣のトリニータに復帰したが活躍出来ず2003年限りでクラブを退団。
  4. しかしピッチの外ではサポーターと交流するなど極めて温厚な性格で、また上記の素行と高所恐怖症・ウクレレ好きなどの人間臭さとのギャップから「俺王」のニックネーム(札幌ではその功績から「俺王様」とも呼ばれた)でサポーターからは親しまれた。

ゲルト・エンゲルス[編集 | ソースを編集]

  1. 1998年10月に横浜フリューゲルスの監督に就任するも、その直後にフリューゲルスの合併(事実上の消滅)が発表。
    • 合併発表以降のリーグ戦・天皇杯全試合に勝利するも、結局チームは解散…。
      • エンゲルスはフリューゲルスの天皇杯優勝後に「カップ戦優勝チームが消滅するなんてドイツではあり得ない」と語った。
  2. 1999年にジェフユナイテッド市原の監督に就任したが、成績不振によりファーストステージ限りで解任。
  3. 2000年6月から加茂周の解任に伴い京都パープルサンガの監督に昇格。J2への降格を食い止めることは出来なかったものの翌2001年はJ2優勝。翌2002年もJ1で総合5位の好成績を残し、天皇杯も優勝。
    • 関西のJリーグのクラブでは初めてのタイトルだった。
      • しかし2003年はオランダ・PSVに移籍した朴智星の穴を埋めきれず、6月に解任。サンガもJ2へ逆戻り。
  4. 2004年2月から浦和レッズのヘッドコーチに就任。ブッフバルト、オジェックをサポートし、2006年の浦和のJ1優勝に貢献する。
    • 2008年3月にオジェックの解任に伴い監督に昇格。一時期リーグ戦9試合負けなしと好成績を収めたが、北京オリンピックの中断期間終了後は失速。
      • 当時の主力だった永井雄一郎がエンゲルスの采配を公然と批判する事態にも発展。
        • 永井はこの年限りで浦和を退団し、清水エスパルスへ移籍。
      • 結局33節のガンバ大阪戦に敗れ5年ぶりの無冠が決定したところで解任。
  5. 2011年10月よりモザンビーク代表の監督に就任するも、ブラジルワールドカップ・アフリカ予選の途中で成績不振を理由に解任。

イビチャ・オシム[編集 | ソースを編集]

  1. 2010南アフリカワールドカップを目指す日本代表監督に就任したが、脳梗塞に倒れ1年ほどで退任。

ジョゼ・オスカー・ベルナルディ[編集 | ソースを編集]

  1. 当時JFLだった京都パープルサンガをJリーグに導いたが、Jリーグ初年度は開幕17連敗を喫し途中で解任された。

ジネディーヌ・ジダン[編集 | ソースを編集]

  1. 選手と監督の双方で素晴らしい業績を残した人物だが気性の荒さで問題を起こしたことがある。
    • 有名な06年W杯の決勝での事件以前にも相手選手に頭突きを喰らわせて出場停止になったことがある。
    • 他にも相手選手踏み付けやロッカールームの扉破壊といった前科も。

ダヴィド・ジノラ[編集 | ソースを編集]

  1. 1993年のアメリカW杯予選・ブルガリア戦で残り1分というところでボールキープを行って時間を稼ぐ事をせず安易にクロスを上げ、ブルガリアの素早いカウンターからの得点を招いてしまった。
    • このゴールでフランスは逆転負け、土壇場でブルガリアに出場権を奪われてしまった。
  2. ジノラは監督・ファン・マスコミから戦犯として大バッシングを喰らい、批判から逃れるようにプレミアリーグへ移籍。
    • 後任のジャケの構想からも外れ、1995年を最後に引退まで代表に招集されることはなかった。

マルコ・マテラッツィ[編集 | ソースを編集]

  1. 現役時代はDFとしてペルージャやインテルで活躍、代表としても2006年のドイツW杯のイタリアの優勝に大きく貢献したが…。
    • とにかくプレースタイルが荒っぽく、サッカー人生で60枚以上のイエローカードと25枚以上のレッドカードを貰っている。
  2. 特に有名なのは2006年のワールドカップ決勝の頭突き事件
    • 本人曰く、ジダンが「俺のユニフォームを後であげるから」と言われたのに対して、「ユニフォームよりお前の姉ちゃんが欲しいな」と発言したとのこと。

ディエゴ・マラドーナ[編集 | ソースを編集]

  1. 一部からは神様扱いをされるほどの伝説的な名選手だったが現役時代からスキャンダルが付きまとっていた。
    • 特にドーピングや麻薬使用などクスリ関連の問題が多かった。
    • マフィアとのつながりが噂されたこともある。
    • 空気銃乱射やインタビューでの暴言などマスコミとも関係がよくない。
  2. 引退後は不摂生な生活のせいで一時期体重120kgを超えていたこともある。
    • 不摂生が祟り一時危篤となった事もある。

マルコス・フェルナンド・ナン(マルコーン)[編集 | ソースを編集]

  1. 1993年のニコスシリーズで、ヴェルディ川崎と優勝争いをしていた清水エスパルスが獲得した選手。
    • 当時の主力だったマルコ・アウレリオの負傷離脱に伴ってエスパルスが急遽獲得。
      • マルコ・アウレリオと名前が似ていたことから、スポーツ紙には「マルコの代わりにマルコーン」と書かれたが…。
  2. しかし迎えたヴェルディとの大一番で、ボールに乗って転ぶという珍プレーをやらかし、その後僅か出場1試合で見限られ解雇。

ヨルン・ブーレ[編集 | ソースを編集]

  1. 1999年に大宮アルディージャに入団。開幕から11試合で9得点を挙げ、大宮の得点源として活躍。
    • ところが5月21日、六本木で夫人・友人と食事後に路上で中東系の2人組に襲撃され左眼球破裂の大怪我を負い、選手生命を絶たれてしまった。
    • 首位争いをしていた大宮もその後失速し、最終成績は6位に終わった。
  2. 引退後はイギリスやスペインで様々な仕事をしていたが、2007年に39歳の若さで死去。

ジークフリート・ヘルト[編集 | ソースを編集]

  1. 現役時代は西ドイツ代表の主力選手としてワールドカップに2大会(1966年・1970年)連続で出場。
  2. 1995年に釜本邦茂の後任としてガンバ大阪の監督に就任。開幕当初こそ外国人選手の活躍もありスタートダッシュに成功したが…。
    • その後は8連敗を喫するなど成績は次第に低迷。最終的なステージ成績は1stステージ11位・2ndステージ13位で年間総合順位は最下位に沈んでしまい、1年限りで退任となってしまった。

ゲーリー・リネカー[編集 | ソースを編集]

  1. Jリーグ発足時に名古屋に当時のJ最高年俸で移籍するが、2シーズン在籍で目立った活躍はなかった。
    • 後にベッカムのMLSへの移籍に際して「私が日本に行ったように、現役の最後に良い給料を貰ってサッカーを教えにいくのもいいことだ」とコメントした。
    • 土曜日の試合に欠場する事が多かったため、「『セーラームーン』(当時土曜日夜に放送していた)を見るために欠場している」とサポーターから揶揄されていた。

ロブソン・ルイス・ペレイラ・ダ・シルバ[編集 | ソースを編集]

  1. 2002年にFCスパルタク・モスクワ(ロシア)からコンサドーレ札幌にレンタル移籍したFW。
    • ロシアリーグ得点王という実績を引っ提げて来日。開幕直前の練習試合では前年度のKリーグ王者・城南一和から2得点を奪うなど活躍したが…。
  2. シーズンが開幕すると全く試合で活躍できず5月に退団。
    • 第6節終了後には、当時監督だった柱谷哲二が「ロブソンには責任を取ってもらう」と発言。
  3. 実はロシアリーグ得点王という実績は嘘であり、実際はチーム内の得点王だった。
    • さらにスパルタク・モスクワではチームとトラブルを起こしており、実質厄介払いされた形でのコンサドーレへの移籍だった。

関連項目[編集 | ソースを編集]