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ざんねんな野球選手事典/外国人

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  • 「選手」とありますが監督としてざんねんだった方も含みます。
  • 登録名(基本的にはファミリーネーム)の五十音順で。

あ行[編集]

ホアン・アイケルバーガー
  1. 1989年の春季キャンプでテストを受け、ヤクルトスワローズに入団。
  2. しかし開幕2戦目の巨人戦(東京ドーム)でノーアウト満塁から内角高めへのボールを暴投しサヨナラ負け、敗戦投手に。
    • しかもその暴投を「捕れないキャッチャー(秦真司)が悪い」と逆ギレ。
  3. その後も成績は振るわず5月20日に球団史上最短で解雇。
  4. 当時の関根潤三監督は後にラジオで「名前がおもしろくて獲ったんだよね、なんて言ったっけ?開幕で暴投してすぐいなくなっちゃった…」と発言していた。
アニマル・レスリー
  1. アメリカメジャーリーグで、あまり活躍できないまま1986年に来日し、阪急ブレーブスへ入団。
  2. 阪急入団当初は19セーブを挙げたが、翌1987年は不調で5セーブに終わり、あっさり現役引退した。
  3. 上記の記録よりも、マウンド上で雄叫びを上げたり、味方捕手の藤田浩雅をボコボコ殴ってスキンシップを図るなどの派手なパフォーマンスだけだった。
    • 元同僚の山田久志によると、抑えで登板した後は、大暴れが収まらずロッカールームまで止まらなかったのだとか。
ケビン・ウィット
  1. 2005年に横浜へ入団。3Aでは本塁打王に輝いたこともあったのだが…。
    • 殆ど活躍できず「日本の野球は難しかった」とだけ言い残して解雇。
    • 日本初打席の相手であった巨人のミセリとの対戦は、とてもプロ同士とは思えない程低レベル。
  2. 2007年に楽天に移籍するも、ここでも鳴かず飛ばずで解雇。
テッド・ウィリアムズ
  1. 2019年シーズン終了時点でMLB最後の4割打者だが引退試合では普通通りにプレイしただけでファンの不興を買った。
  2. 全盛期に第2次大戦と朝鮮戦争で出征していたため5年ほど選手生活を棒に振っている。
    • さらにレッドソックスが「バンビーノの呪い」に苦しんでいた時期のためワールドチャンピオンになれなかった。
  3. 死去後には遺体を冷凍保存してほしいという遺言を残していたが息子(賛成派)と娘(反対派)が裁判で争った末中途半端な結果に。
    • 首から上だけ冷凍保存され残りは火葬という一体何のためだか分からないことになってしまった。
ブライアン・ウォーレン
  1. 台湾リーグでの活躍が評価され、1999年6月にロッテに入団。河本育之の故障のため抑え投手として活躍し、1999年には最優秀救援投手のタイトルを獲得。
  2. しかし不正投球疑惑が少なくとも3回あり、西武から不正投球疑惑を受けた翌日の試合終了直後に西武ベンチに向かって中指を突き立てるポーズを行い、後日パシフィック・リーグから「今度同じ行為をしたら追放処分もあり得る」と厳重注意処分を受けた。
    • この日は不正投球疑惑の影響で審判がボール交換チェックを4度に亘って行っており、それに苛立った末の行為だった。
トーマス・オマリー
  1. 阪神タイガース・ヤクルトスワローズで活躍。
  2. オマリーといえば、忘れてはいけない「六甲おろし」。
    • それだけ日本文化や日本語になれていたともいえる。歌唱力は別として。
  3. なお選手としては決して残念なわけではない。「バースの再来」としてふさわしい活躍を見せ、パチョレックと共に1992年には阪神を暗黒時代唯一のAクラス入りに貢献した。
    • 1994年に阪神を自由契約になったが翌年ヤクルトに入団。そこでも活躍しヤクルトの日本一に大きく貢献。自身もMVPを獲得した。
  4. その後阪神の臨時の打撃コーチになりファンからも評価された。また、2004年~2009年には阪神の駐米スカウトも担当した。
    • しかし2008年にフォード、2009年にメンチというざんねんな選手を二年連続でスカウトしてしまうなど、スカウト能力はざんねんだった。

か行[編集]

タイ・カッブ
  1. ピート・ローズ以前のメジャーリーグ通算最多安打記録保持者で首位打者を12回獲得するなどの記録を保持しているが、ヤジに腹を立て観客に暴力を奮い出場停止になったり人種差別でベーブ・ルースと同室を拒否するなどのエピソードで悪評も有名。
    • 某所では「キャッチャーにライダーキックかます」写真で有名。
  2. あまりにも悪評がすごすぎて、葬式の時に球界関係者が4人しか参列しなかったとか。
    • ただしこれは遺族が野球関係者の参列をあらかじめ断っていたという話がある。
  3. ベーブルースがヒーローとして扱われていたのとは対照的に、暴力行為などのせいでヒール役としての印象が強くついてしまったのがざんねんな所と言えよう。
バルビーノ・ガルベス
  1. 1996年に来日し巨人に入団。初年度から16勝を挙げ最多勝のタイトルを獲得。また、打者としても10本のホームラン(うち2本は満塁ホームラン)を放つなど90年代後半の巨人を支えた外人投手。
  2. しかし非常に気性が激しく、また相手チームから機動力で揺さぶられると途端に焦って自滅するという欠点があった。
    • 特に気性の荒さが裏目に出たのは1998年7月の阪神戦。この時は自身の不調と判定への不服からいらだちが高まっており、ピッチャー交代を宣言されて下がる途中に審判のいたところでボールを投げつけるという行為に及んでしまう。
      • その結果乱闘に発展してしまい、ガルベスは1998年の残りシーズンすべての出場停止という処分になってしまった。
  3. 巨人時代に、牛乳のCMに出演していたことがある。
    • しかし、上記のことから「カルシウムが足りていないのは、ガルベス本人」ということが露見する羽目に。
      • そもそもCM出演自体96年に中日戦で乱闘事件を起こしたのがきっかけとも。
  4. その後メジャー復帰を目指すも、練習中に突然行方不明となり、解雇。
  5. 更にその後韓国野球でプレー。前半戦は助っ人らしい活躍を見せるも、優勝目前に母親の病気を理由に突然の帰国。球団の6度の復帰要請に対しても何かと理由をつけて拒否。
マーク・キャリオン
  1. 珍しい左投右打の選手として1997年にロッテに入団。
    • 1年目はまずまず活躍(.279 14 77)したが…。
  2. 体調不良で練習を早退したにも関わらずチームバスの中で本を読んだり、試合を無断欠場して自宅で卓球に興じるなど、下のホール程ではないが素行が良くなかった。
  3. 1998年のスポーツ報知の選手名鑑では「チーム一のやる気のなさ」とまで書かれてしまった。
    • その1998年はフリオ・フランコの入団に刺激されたか、序盤から結果を残すも腰痛のため結局60試合の出場に終わり、同年オフに任意引退。
マイク・グリーンウェル
  1. 当時不振にあえぐ阪神タイガースが状況打破のために電鉄本社の金庫から取り出したと言われている3億円で契約したレッドソックスの超大物メジャーリーガー。
    • 当初はこの年西武からFA宣言した清原選手を取るための資金だったとか。
  2. 契約後は破格の待遇で迎えた。例えば1部屋150万円の高級マンションの壁を取り払って2部屋分に拡張したり(300万円+工事費)、甲子園の電光掲示板をグリーンウェルと表示できるよう改良した。
  3. 1997年2月から始まったキャンプには同行したもののわずか10日で牧場と遊園地の経営のために離脱してしまう。さらにキャンプ中に痛めた腰の治療に入りオープン戦どころかシーズン開始まで戻ってこなかった。
  4. ようやく4月30日に戻り、その後5月の広島3連戦では5安打5打点の活躍を見せ、多くの阪神ファンが「バースの再来だ!」と大いに期待した。しかし・・・。
  5. その後の2試合では精彩を欠き、日本での6試合目になった巨人戦の第4打席にて自打球を足に直撃させてしまう。その後どうにか1試合出場するも自打球を受けたことで骨折が発覚。
  6. 結局日本では7試合しか出場できず引退。その際の「野球を辞めろという神のお告げ」という迷言は有名である。
    • その後年俸の4割を返上し、また、契約金の全額返還を申し出たが当時のオーナーに「正直ないい人だ」と言われ返還はなくなったと後に語っている。
  7. なお外野手を担当していたが肩が弱く当時在籍していた久慈選手からは「外野からの送球がチェンジアップだ」と言われていた。
  8. 一度中日と契約寸前までいっていたが、大リーグの事情に詳しい人から「あいつは日本に来てゴルフがしたいだけだからやめとけ」と言われ見送ったというエピソードがある。
    • 結局、グリーンウェルを断念した中日はレオ・ゴメスを獲得。ゴメスは広いナゴヤドームで30本塁打以上を2回記録しリーグ優勝にも貢献、グリーンウェルとは対照的に優良助っ人として活躍した。
ロベルト・クレメンテ
  1. パイレーツで長く活躍し3000本安打を記録した名選手だが1972年の大晦日に航空事故で命を落とした。
    • 故郷ニカラグアで大地震が発生したため救援物資を届けようとし自らも救援機で向かう途中の悲劇だった。
      • 安いレシプロ機(DC-7)に目一杯物資を詰め込んだのも災いしたのだろうか…。
      • もちろん救援物資がニカラグアの被災者に届くこともなかった。
ウォーレン・クロマティ
  1. 巨人軍の80年代を支えた最強の助っ人にして人気者。
  2. ポテンヒットや内野安打を放った際、自分の頭を人差し指でツンツンと指すジェスチャーをして、相手の怒りを買う。
  3. 巨人退団直後に「さらばサムライ野球」という本を出版したが、巨人の裏側を赤裸々に書いたいわゆる「暴露本」だった。
  4. 引退後、アメリカの独立リーグの球団の監督になるも、度重なる退場でたった一年でクビ。
スティーブ・コックス
  1. 2002年のオフ、この年貧打に悩まされて最下位に終わった横浜ベイスターズの山下大輔新監督は、左の強打者の獲得を希望。
    • 当初はヤクルトを退団したペタジーニの獲得に動いていたが失敗したため、代わりにこのコックスを獲得した。
      • 年俸は約3億円の3年契約(但し3年目は横浜側が選択権を持つオプション契約)だったが…。
  2. キャンプの中盤で故障離脱。5月中旬に漸く一軍に昇格したがすぐに故障が再発。
  3. その間に年俸5000万円で入団したタイロン・ウッズの活躍もあり、「中途半端な状態で置くと現場が起用法に困る」と判断され、シーズン終了後に解雇。
  4. 横浜は全く戦力にならなかったコックスに対し、2年目の年俸・オプション破棄の違約金も合わせて、総額で7億円以上を支払う羽目になってしまった。
    • 当時横浜の球団社長だった峰岸進はコックスの退団時に「授業料にしては高すぎた」とコメントしている。
ブルックス・コンラッド
  1. 2012年、退団したブラゼルの後枠として当時の中村GMが推薦し、入団した。
    • その際、中村GMがビデオを2分間だけ見て即決したという噂がある。後に海外スカウトに無断で獲得に走っていたという事実が発覚した。
  2. オープン戦では二本の本塁打を放つなど活躍し、どこでも守れるユーティリティープレイヤーであることからファンからは「バースの再来」として大いに期待された。
  3. 開幕3連戦(対ヤクルト)では4安打を放つなど好調な滑り出しを見せた。しかし、以降は58打席連続無打点と低迷。守備面でもエラーを多発するなど散々な成績で4月20日に登録抹消。
  4. その後交流戦のときに一軍に再登録されるも7打数5三振という惨憺たる結果になり、チームの補強も相まって再び登録抹消。その後は一軍に復帰することなく9月24日に帰国、退団した。
  5. 結果本塁打どころか打点も0という阪神助っ人外人史上最大級のハズレであった。あまりのひどさに、次の助っ人は1打点でも上げれば当たりと言われる羽目に。
    • また、併殺打の多さからコンバットのCMフレーズ「一度で二度効くコンバット」に準え「一打で二度死ぬコンラッド」と揶揄された。
  6. このような有様から、「クララのバカ! コンラッド!」という謎のコピペまで生まれた。(後述するミセリが入っていることもある)

さ行[編集]

ルイス・サンチェス(サンチェ)
  1. 1986年、巨人に入団。しかし、デーブ・スチュワートの獲得に失敗した巨人が、その代わりに獲得した。
  2. トラブルメーカーとして有名だった。
    • フォーム改造を巡り、投手コーチの皆川睦雄を批判し、30万円の罰金を科されたことがある。
  3. 重度の水虫持ちだったことでも知られる。
ルー・ジャクソン
  1. サンケイ(現ヤクルト)で俊足強肩の外野手として活躍しオールスターにも出場したがとにかく偏食だった。
    • 米もパンも野菜もほとんど食べなかった代わりに主食が焼き鳥だったといってもよい状態。
    • さらに大酒飲みで女遊びも好んでいたという。
  2. 最終的に不摂生がたたり69年のオープン戦の打席で倒れそのまま死去。
バール・スノー
  1. 1974年に貿易会社の社員として日本へ渡ったついでに日本ハムの入団テストを受け、3月26日付けで入団。
  2. ところが一ヶ月後、初月給支給と翌日の二軍での登板を告げられた日に突如失踪。
    • 4月30日に日本ハムの首脳部はパ・リーグに契約の解除を申請。
  3. 結局5月9日付けでパ・リーグ初(国内では1971年の阪神・高山忠克以来2例目)の無期限失格選手に指名されてしまった。

た行[編集]

レイ・チャップマン
  1. 死球を受けたことで本当に命を失ってしまったMLB史上唯一の選手。
    • 当時娘を身ごもっていた妻も鬱病に苦しみ8年後に自殺。
  2. 犠打の名手やムードメーカーとして人気もあった選手だったが今や存在そのものが忘れ去られかけている。
    • 所属していたインディアンスでは永久欠番扱い(背番号制度誕生前の選手のため)にもなっていない。
    • 記念の銘版も忘れ去られ保管庫の片隅に長く置き去りにされていたという。
チョ・ソンミン(趙成珉)
  1. 韓国のアマチュア球界で活躍し、1996年に読売ジャイアンツへ異例の8年契約で入団。
  2. 1997年後半から徐々に頭角を現し、1998年は先発に転向。
    • 開幕からローテーションの一角に入り、前半戦だけで7勝(うち3完封)を挙げ監督推薦でオールスターゲームに出場。
      • ところがそのオールスターで右肘を負傷し、後半戦は一軍で登板できずシーズンを終えた。
        • この右肘の故障の原因は、オールスターで当時の横浜の監督だった権藤博に「肘が痛いので交代したい」と日本語で申し出たが、権藤が「こいつ何言ってるんだ」としらを切り通したと、2005年のインタビューでチョ本人が語っている。
  3. それ以降は右肘の手術やリハビリなどで大きな活躍が出来なくなり、2002年に契約を1年残して巨人を退団。
    • その後はメジャーへの進出断念・シュークリームのフランチャイズ事業失敗・KBOのドラフトから落選・妻との離婚など苦しみ続けた。
  4. 2005年からは韓国で解説者として再び野球に携わっていたが、5月にハンファ・イーグルスと契約を交わし3年ぶりに現役復帰。
    • 3年プレーしたが、2007年にハンファを戦力外に。
  5. その後は解説者・大学のインストラクター・コーチなどを務めたが…。
  6. 2013年1月6日にソウルのマンションで交際女性の家で首を吊っている状態で発見され、後に警察により自殺と断定された。
ウィリー・デービス
  1. MLB時代にはゴールドグラブ賞を3回獲得し、オールスターゲームにも2回出場した名選手。
  2. 1977年に中日ドラゴンズに入団。
    • 全盛期を過ぎてはいたがメジャーの実力を大いに発揮、5月14日のナゴヤ球場での読売ジャイアンツ戦では西本聖からランニング満塁本塁打を放った。
  3. しかしチームメイトや首脳陣と頻繁にトラブルを起こすなど素行に問題があり、8月、外野フライを追った際にフェンスに激突して左手首を骨折。
    • 戦線離脱した後、低迷していたチームが好調になったこともあり、シーズン終了後、中日はデービスが在籍することによるマイナス面が大きすぎるとして放出を決定、クラウンライターライオンズに金銭トレードで移籍した。
  4. クラウンに移籍した翌年も活躍したが、中日時代と同様の素行不良に悩まされ1年で退団。
  5. 実は創価学会の会員で、来日した理由も「創価学会の発祥の地である日本でなら、きっと居心地よく暮らすことができるに違いない」という意見があったほど。
  6. 引退後の1996年に、カリフォルニア州に住む両親に対して日本刀や手裏剣で脅して現金を要求したとして逮捕されてしまった。
リチャード・デービス
  1. 1984年のシーズン途中に近鉄に入団。1985年には打率.343・40本塁打・109打点と大活躍するも、1988年に大麻不法所持で逮捕。
    • 後の調査によると、デービスはメジャーリーグ在籍時から大麻を吸引しており、日本でも来日以来丸4年常用し続けていた事が判明。
      • 主砲を失った近鉄が急遽中日から獲得したのが、ラルフ・ブライアント。
  2. 1986年6月13日の西武戦で東尾修から死球を受けたことに激怒し、東尾を殴打。
    • この試合が当時のパ・リーグの試合としては珍しく全国中継されていたことも影響したのか、デービスは10日間の出場停止処分となってしまった。
  3. 因みに、当時コロコロコミックに連載されていた「かっとばせ!キヨハラくん」では、「ちょっとおっかない外人」と巻末に書かれていた。
ロブ・ディアー
  1. 1994年に阪神に入団。
  2. 春季キャンプでは特大ホームランを連発し、安芸市営球場では急遽危険防止対策として「ディアーネット」なるものが展開されるほどだったが…。
    • いざシーズンに入ってみると「大型扇風機」として三振を連発。ラルフ・ブライアントのようにその分ヒットやホームランも多いというようなこともなく、最終的には打率.151、8本塁打という成績…。
      • 実はメジャーでは3度の三振王になってしまったことも。
  3. 引退後のマイナーリーグで打撃コーチを務め、教え子たちにこう言った。「俺のようなスイングはするな!」
ベニー・ディステファーノ
  1. 1990年に中日に入団。
  2. 左の大砲として期待されるも前代未聞のオープン戦で乱闘を起こし退場。シーズン突入後も開幕戦でホームランを放ったもののその後は低調。更に巨人戦の乱闘で自らの全く関係ないところで暴れ再び退場(ちなみに星野監督が巨人・水野にビンタを食らわすも退場にならず)結局打率.210、本塁打5本で8月に解雇。
    • ベンチでも凡退すると物に八つ当たりし大暴れするシーンが「珍プレー好プレー」でも流れていた。
デーブ・ニルソン(ディンゴ)
  1. 1999年にオーストラリア出身の選手として、初めてMLBのオールスターゲームに出場。
  2. 2000年にシドニーオリンピック出場を条件として中日に入団したが、日本の投手に対応できず極度の打撃不振(打率.180、ホームラン1本)に陥り、二軍落ち。
    • 8月に1軍に再昇格するも、その直後の巨人戦で工藤公康のスローカーブの前にあっさりと見逃し三振を喫した事で、星野監督にも「これではあかん」と突き放されてしまい、数日後に退団。
  3. 二軍に落ちても真面目に練習をこなし、期待に応えられなかった事に関して球団の幹部に謝罪をするなど、人格は良かった。
  4. その直後のシドニーオリンピックでは黒木知宏(ロッテ)から本塁打を放ち、その4年後のアテネオリンピックでも活躍。
ゲーリー・トマソン
  1. MLB4球団を渡り歩き、ヤンキース時代に優勝も経験。1981年に巨人に入団したが…。
    • 入団1年目は打率.261、本塁打20を残すも、三振は132と当時の球団記録を更新してしまい、「舶来扇風機」などと揶揄された。
    • 2年目は47試合出場にとどまり、当時の藤田元司監督と対立し解雇。
    • その後、無用の長物を意味する単語として「トマソン」が使われるようになってしまった。
      • もはや飯田圭織の「ジョンソン(デイビー・ジョンソンが元ネタ)」並みに由来が薄くなっている。
ブライアン・トラックスラー
  1. 1994年に当時のダイエーホークスに所属していた選手。身長170センチで体重120キロというかなり太った体形をしており、ファンからはコロコロちゃんと呼ばれていた。
    • しかし体形の割に守備の動きは良く、またパワーヒッターでありながらバットコントロールにも長けており、機動力を除けば攻守のバランスの良い名助っ人だった。
      • またファンサービスも怠らず、彼をモチーフにした博多人形が当時のダイエーの選手のなかで売上1位を記録、オールスターにも選ばれるなど人気は高かった。
  2. しかしシーズン後半になると凡打が増え、成績が降下。結局1年限りでチームを解雇されることに。
    • というもの当時のダイエーの海外事業部が彼の前半戦の活躍に目を付けホームランに出来高払いを付けるという裏契約を持ち掛けられたことでホームランに固執し結果的に巧打が鳴りを潜めたというものだった。
  3. 性格がよくファン人気も高く、前半戦だけなら大活躍していた彼がなぜざんねんだったのか、それは彼の巨体の原因にある。
    • というのも彼は異常なまでのビアジャンキーだったということ。1回の晩酌で1ダース分のビールは当たり前のように飲み干すというレベルだった。
  4. 流石にチーム側もこれは問題視しており、減量とビール節制が命じられ、開幕戦のときには100キロまで減量した。しかし・・・
    • 前半戦の好調ぶりから勝手にビールを解禁したがためにあっという間にリバウンドしてしまった。
  5. その後2004年に、アルコールを過剰摂取したために急性肝硬変になってしまい、37歳の若さで亡くなってしまった。

なは行[編集]

ランディ・バース
  1. 1983年~1988年間に阪神に在籍。1985年に三冠王、1986年にNPB記録である打率.389を記録、阪神どころかNPB史上最高の助っ人として今も語り継がれる名外国人選手。
    • 因みに苗字を正しく発音すると「バス」になるが、当時阪神バスが球団の親会社である阪神電鉄の直営事業だったこともあり、好調時に「阪神バス大爆発」、怪我をした時に「阪神バス故障」、不振時に「阪神バス急ブレーキ」などとマスコミに揶揄されるのを嫌った球団側の配慮で、敢えて音を延ばした「バース」という登録名になったそうな…。
  2. しかし、1987年からは徐々に成績が降下、1988年には難病に罹った長男の医療費の支払いをめぐって球団と対立しシーズン途中に解雇されてしまう。
    • 退団後の7月19日には当時の球団代表が自殺、さらにシーズン後にバースとともに黄金期を支えた掛布が引退するなど悪いことが一気に重なり、暗黒時代へと突き進むことになる。
  3. 退団の経緯とその後の流れは非常にざんねんである、だが、本当にざんねんだったのは、阪神ファンがその後バースのような名助っ人が阪神を救ってくれるという幻想を抱くことになってしまったことだろう。
  4. 阪神にはその後も数多くの助っ人外人が入団。そのたびに「バースの再来」であることを願われ、そして結果を出せずに去っていった。(もちろんちゃんと活躍した選手もいるけど・・・)
白仁天
  1. 東映フライヤーズを皮切りに、日本球界で19年に渡って活躍。故郷韓国のKBOリーグの設立にも尽力した。
  2. 何よりも、その喧嘩っ速さは伝説。
    • 東映時代、アンパイアの判定に激怒、暴行で退場。その後、審判から刑事告訴される羽目に。
      • これは後に「白事件」として語り継がれる日本プロ野球史上初の出来事であった。
  3. 生粋の韓国人だが、来日から数年間、日本人として登録されていたことがある。
バッキー・ハリス
  1. 戦前に名古屋軍(現中日)やイーグルス(のち大和軍→消滅)で活躍した選手だが日米関係の悪化により帰国を強いられた。
    • 帰国の日に他の選手に向けて書いた手紙には「カナシクテ、カナシクテ、サヨナラガイヘマセン」と記されていたという。
    • 日本語を学びその語学力を生かしたささやき戦術を駆使するなどユニークな選手だっただけにもっと日本で活躍してほしかった。
    • 晩年に日本を再訪できたのがせめてもの救い。
ラリー・パリッシュ
  1. ヤクルトと阪神でそれぞれ一年ずつ在籍。
    • ヤクルトでは本塁打王に輝くも新監督の野村克也氏の構想から外れ解雇。翌年阪神に移籍するもシーズン途中で退団。
  2. 何と言っても、「ゲテモノ食い」で有名だった。
    • 大好物が「ワニ肉の唐揚げ」というのは、今でも語りぐさ。
フランク・ハワード
  1. メジャー通算1774安打、382本塁打という当時の来日外国人として最高成績を持ち、鳴り物入りで太平洋クラブライオンズに入団したが、膝の怪我のため開幕戦1試合出場したのみで帰国。
エリック・ヒルマン
  1. 1995~1996年のロッテ時代はいずれも10勝以上挙げ、助っ人として活躍。
  2. しかし巨人に移籍してからは左肩を故障、ロクに投げなかったばかりか、「左肩に小錦がのっている」と発言して顰蹙を買う。
    • 二軍落ち後も練習をそこそこに切り上げ昼に帰ることから「昼マン」と揶揄された。
  3. 最終的にナベツネから「金はやるから出ていけ!」と追い出されるも、帰国時に「俺をミッチェルやグリーンウェルと一緒にしないでくれ」とマスコミに反論した。
    • 実際に左肩の故障は本当であり、「回旋筋腱板全層断裂」という深刻な怪我だったことが判明。
ブーマー・ウェルズ
  1. 阪急ブレーブス時代、ハイタッチの際に、同僚の門田博光の肩を脱臼させたことがある。
    • 正確には阪急ではなく球団名がオリックスになった1989年。この門田の負傷が尾を引き、オリックスは近鉄に優勝をさらわれてしまった。
  2. 阪急時代、場外ホームランで西宮球場近所の民家の窓ガラスを割ってしまったことがある。
マーティ・ブラウン
  1. 広島東洋カープ2人目の外国人監督だった (1992年~1994年に広島に在籍) が、その後楽天での監督時代も含めて5年間で12回も退場処分を受けている。
    • あえて退場させられるという芸風(芸じゃ無いけど)だったというのもある、ちゃんと退場処分喰らってから、裏でコーチにこの後どういう方針で行くかというのをきっちり指示してたとか。
  2. そして彼の得意技といえば「ベース引っこ抜きからのぶん投げ」である。広島のファン感謝デーではベース投げコンテストが行われ、監督自ら始球式を行った。
    • 楽天の監督のときにもベースを引き抜こうとしたがベースが固定されていたため出来ず、砂をかけてベースを隠すという行為を行った。
ファン(ホァン)・フランシスコ
  1. 2015年、セペダとアンダーソンと亀井の不調に加え阿部が故障し離脱したことから巨人が緊急補強した外国人選手。来日前はブルージェイズの準レギュラーでメジャー通算48本塁打を放っていた。
  2. 二軍戦で結果を出したことで、5月2日に一軍に昇格、最初の試合では藤浪から決勝打となるタイムリーをあげたが、その後は鳴かず飛ばず。
  3. さらに5月4日の広島戦ではインフィールドフライを落球、三塁ランナーにタッチすべきところホームベースを踏んでしまう。それが元で巨人は広島にサヨナラ負けを喫してしまった。
    • 三振続きのうえ拙守を連発するなど攻守のお粗末ぶりを見せてしまい、原監督は「フランシスコ?野球選手じゃないでしょ。野球選手になってからじゃないと話にならない」と痛烈にダメ出しした。
  4. さらに彼の獲得を決めた巨人のGMが5月に解任されたということも起こった。元々素行不良でなおかつ故障の影響で衰えてたにも関わらずそれを把握せずにGMが獲得に踏み切ったことを考えると致し方なしか。
    • なお一連の出来事は「フランシスコ事件」と言われている。
  5. その後二軍に降格するも「練習をさぼる」「コーチの指示を無視する」「同僚をいじめる」「球団の女性職員をナンパ」など傍若無人な態度を取っていた。
  6. 結果的に一軍に復帰することなく2015シーズン終了とともに解雇された。
ブラッド・ペニー
  1. メジャーでは最多勝投手に輝いたこともある投手だったが…。
  2. 日本では楽天戦で初登板するも、その結果は3回1/3(64球)を6失点(自責点4)、被安打7、四死球3、5盗塁を許して敗戦投手に。防御率は10.80。
  3. そしてその後右肩の故障を訴え登録抹消。福岡市内の病院で精密検査するも「異常なし」と診断。更にアメリカの再検査でも異常は見られず。
  4. その後「日本の野球環境になじめない」ということで退団。そしてその直後にTwitterで「アメリカに戻れて最高だ!」と発言。最後までなめきった態度を見せた。
  5. そもそもメジャー時代からも素行不良やチームメイトとの確執等を起こす問題児であった。
ジョー・ペピトーン
  1. メジャーリーグで218本塁打を放った優秀なスラッガーだったのだが……。
  2. あまりにも素行が悪すぎた。練習はまともにやらず、いきなり離婚裁判を理由に無断帰国。復帰したと思ったらアキレス腱を痛めて欠場、したと思いきやディスコで踊っていた。
  3. 翌年も今で言う2年契約を結んでいたためかクビにできなかったが、オープン戦が始まっても来ずしかも犬の空輸料金まで請求する有様。
    • さすがにヤクルトもキレたのか任意引退扱いにしてクビにしたが、その後ニューヨークタイムズに日本の事を事実無根かつボロカスに言い腐す。
      • このせいで日本国内に外国人選手排斥ムードが巻き起こり、ガチの日米問題を巻き起こしかねなかった。
        • 代わりに入団したマニエルは、ペピトーンで失墜した信頼を回復するための人格者として送り込まれその役目を見事に果たした。
  4. 帰国後もその素行の悪さがばれて野球ができず、その後はバツ3、逮捕歴少なくとも3回。
ヨギ・ベラ
  1. ヤンキースで付けていた背番号8が永久欠番になったほどの名選手だがそれ以上に数々の珍発言のイメージも強い。
    • 「野球は9割がメンタル、残りの半分(the other half)はフィジカルだ」
      • 合計すると180%になる。
    • 「私は言ってきたことの全部を言ったわけではない」
      • 「言ってきた「とされる」こと」のつもりだったのだろうか。
    • 「現金を貰うっていうのはお金を貰う位にいいことだ」
      • 日本にも進出している大手保険会社のCMでの発言。
    • 「今まで遅れた中では一番早かったよ」
      • それでも遅刻したことに何の変わりもない。
ボブ・ホーナー
  1. 1987年にヤクルトへ途中入団。
    • 1シーズンで本塁打31本。ホーナー旋風というブームを巻き起こした。
  2. しかしその後「地球の裏側まで来てベースボールとは言えない代物なんてやりたくない。」と発言して退団。
    • 「かっとばせ!キヨハラくん」では、「アホーナー」とあんまりな名前のキャラが登場した。
メル・ホール
  1. MLB3球団で活躍し、1993年に2年連続最下位に低迷していた千葉ロッテマリーンズに推定年俸2億2000万円という破格の待遇で入団。
  2. この年のチーム四冠王(打率・本塁打・打点・盗塁)で、翌1994年も活躍したが、オフに就任したバレンタイン監督の構想から外れて退団、中日ドラゴンズに移籍した。
    • 当時の本拠地だったナゴヤ球場での本塁打量産が期待されたが、両膝の故障による不振のため1995年限りで退団。
  3. これだけなら優秀な助っ人外国人だが…素行に非常に問題があった。
    • 自分が指名打者であることをいいことに、相手の攻撃のときはテレビゲームをやってゴロ寝を決め込み、それにキレたマックス・ベナブルに対して逆ギレし、乱闘になるもホール自身は全く反省していなかった。
      • 後輩のミューレンを虐めまくり、当時の八木沢荘六監督に2度も叱られたが反省することはなかった。
        • 中日移籍後も、3年連続首位打者をマークしたアロンゾ・パウエルに尊大な態度を取ったり、自身の使用するグラブを座布団代わりに尻に敷いていた等、全く素行は変わってなかった。
        • しかもミューレンがヤクルトに移籍後も、ヤクルトの試合時にはわざわざヤクルトベンチまで行ってミューレンを虐めるという畜生ぶり。
          • ミューレンもパウエルも人格者として名高いことを考えるとなおさらである。
      • 因みにヤンキース時代には、あのバーニー・ウィリアムスをも虐めていたという噂も…。
  4. 以下、関係者のコメント。
    • ミューレン「ホールは嫌な奴だった。二度と思い出したくない」
    • 愛甲猛「史上最低の野球選手」
    • 小宮山悟「こいつだけは許せないと思った」
    • 山崎武司「自身が見てきた中で、一番ダメだった外国人選手」「俺の見る目はまちがってなかった」
  5. 引退後の2007年に、バスケットボールのコーチを務めていた1998年~1999年当時の教え子である少女に対する猥褻行為により逮捕。
    • 最終的には児童に対する3度の強姦罪と別の児童に対する2度の猥褻罪で有罪とされ、2009年に裁判で禁固45年の刑を命じられてしまった。
    • 強盗殺人を犯して逮捕された小川博ですら、彼を知る関係者から「何故あの人が?」とショックの声が上がっていたが、ホールに関しては殆どの関係者が「やっぱりな」と落ち着いた反応をしていたとのこと。
バリー・ボンズ
  1. ホームランのMLB記録を更新したスラッガーだったが、薬物疑惑が付きまとい、司法妨害罪と偽証罪で起訴されるまでに至った。
  2. 人間性が残念。今でこそ多少丸くなったが現役時代は性格があんまりだった。

ま行[編集]

ビル・マドロック
  1. MLBで首位打者を4回獲得した名打者。1988年にロッテに入団したが…。
    • 入団時に37歳だったこともあり、打率.263・本塁打19・打点61という低調な成績に。
      • 川崎球場の外壁には「マドロック立入禁止」という落書きがされていた。
      • しかも既に解雇が決まっていたにも関わらずあの「10・19」の試合に出場し先制アーチを放つ、という…
  2. 愛甲猛によると「あいつはテレビゲームばかりやっていたよ。」とのこと。
    • 引退後は「ホーナーは地球の裏側にもう一つの違う野球があったというが、日本の野球だって十分立派にやっている。」と、自らの不甲斐なさを認めた上で日本野球を評した。
  3. 応援歌が「サザエさん」だったのも印象的。
マニー
  1. 来日前年まで兵役についていたためブランクがあり、1勝も挙げられずに退団。
  2. 成績もだが、名前も残念。「マニー」は登録名であり、本名は「Frank Edward Mankovitch」。本人に落ち度はないとはいえ、このファミリーネームをカタカナにすると、日本語ではアウトである。
ドン・マネー
  1. 1983年に引退を決意していたが、近鉄たっての頼みで1984年入団。
  2. しかし開幕からわずか1か月後に退団。当時は「ゴキブリが出た」という所ばかりがピックアップされ非難を浴びていたのだが…。
    • 実際には近鉄の詐欺同然な契約内容のせい。以下その実態。
      • 近鉄側はマネーがリクエストした「緑で囲まれた落ち着けるマンション」のパンフレットを事前に用意し、マネー本人もそれを見て納得したのだが、実際に用意されたのはアメリカ人はおろか英語が話せる人間も殆どおらず、タクシー使っても球場まで1時間以上かかる程の劣悪な住宅環境であった。(一説には前年助っ人のテリー・リーが散らかしに散らかした住居をそのままあてがったそうな…。)
      • 更に当時近鉄の本拠地であった藤井寺球場もシャワールームやロッカールームがボロボロで、ゴキブリも大量に出ていた程の汚さ。(当時チームメイトであった梨田昌孝は「和式便所がダメだったというのもあるだろう」と後に自著で述べている。)
        • 藤井寺球場のみならず、実質的本拠地だった日生球場のボロさも相当なものだったため、それがより拍車をかけたのは言うまでもない。
  3. これらのせいで妻子もホームシックになってしまったにも関わらず、契約金全額返金を申し出たばかりか「球団は悪くない。環境に慣れなかった自分が悪い」と殊勝な対応をした。
  4. この一件はマネーを慕って入団した外国人選手リチャード・デュラン(かなり活躍していた)も不快感を覚えて退団という事態に陥るわ、最初はマネーを我儘だと非難した近鉄ファンのみならず日本のプロ野球ファンすら近鉄球団を非難するレベルだった。
    • しかしマネーとデュランの一件はその穴を埋める優良助っ人のリチャード・デービスが入団して活躍したので、近鉄の待遇改善に至ったかは不明である(最も、デービスはデービスで…)。
ホセ・マラベ
  1. 1998年に横浜ベイスターズへ入団。
    • ライトのポジションを中根仁や佐伯貴弘と争い、キャンプ・オープン戦でもそれなりに結果を出し、開幕スタメンを勝ち取った。
  2. 阪神との開幕戦で5番・ライトで出場すると、いきなり3安打の猛打賞・ホームラン1本。翌日も3安打の猛打賞と首脳陣を驚かせたが…。
    • 投手にクセを覚えられたのか、はたまた開幕戦の猛打は偶然だったのか、その後はパッタリと当たりが止まってしまった。
    • 「振った所にボールが来ない」という意味不明な発言も残し、この年限りで戦力外通告を受けた。
  3. 横浜退団後の2000年、韓国のヘテ・タイガースに入団したが…。
    • 入国の際に「身辺保護」を理由に拳銃を所持していたため、金浦空港で逮捕されてしまった。
    • 一応キャンプには参加したが、怪我もあって1試合も出場することなく、レギュラーシーズンの開幕前に解雇された。
ロジャー・マリス
  1. ベーブ・ルースの年間最多本塁打記録を破った選手として有名だがその際には全米から猛烈な嫌がらせを受けていた。
    • フェンスぎりぎりの低いホームランが多くまた打率もルースより明らかに悪かったため。
    • ヤンキースで二人合わせて「MM砲」と呼ばれたもう一人の強打者ミッキー・マントルよりも愛想が悪かったことも災いした。
  2. 大記録を達成しヤンキースで背番号が永久欠番になるほどの選手だったがとうとう野球殿堂入りは果たせなかった。
ジェフ・マント
  1. 1996年に読売ジャイアンツへ入団。
    • 右の長距離砲として期待され、武上打撃コーチは「(本塁打を)70発は打つだろう」と評価したが、オープン戦で放った安打は僅か1安打…。
  2. ペナントレースが開幕してもヒット3本・打率1割台と成績は低迷。
    • 二軍への降格も検討されたが、長嶋茂雄監督が「彼はテンプル大学出身だから、大丈夫でしょう」と擁護し起用を続ける。
  3. しかし成績は向上せず、当時の一軍の外国人選手枠との兼ね合いもあり4月23日に解雇。
  4. 帰国の際にナベツネが「クスリとマントは逆から読んだらダメなんだ」と発言したのは有名。
ダン・ミセリ
  1. 1995年にピッツバーグ・パイレーツで21セーブを記録、1998年にはサンディエゴ・パドレスでは67試合に登板・10勝5敗とパドレスのワールドシリーズ進出に貢献。
    • 2004年もリリーフ陣の一角として74試合に登板し、その年のオフに読売ジャイアンツに入団したが…。
  2. ↓以下、全4試合の投球内容。
  3. 4月1日の広島との開幕戦、1点リードの9回表に登板。
    • 先頭のラロッカに同点ホームランを、続く前田智徳には内野安打を打たれ、前田の代走・福地寿樹には初球から盗塁をされ、緒方孝市に勝ち越しホームランを打たれ降板・敗戦投手に。
  4. 続く4月5日の横浜戦、同点の12回裏に登板。
    • 先頭の金城龍彦に二塁打を打たれ、佐伯貴弘敬遠後の代打・ウィットはなんとか三振に仕留めるが、続く多村仁にフェンス直撃のサヨナラタイムリーを打たれ、敗戦投手に。
    • 因みにこの時のウィットとの対戦は、とてもプロ同士の対戦とは思えない低レベルな内容だった。
  5. 4月7日の横浜戦、5点ビハインドの6回裏に登板。
    • 先頭の種田仁にフォアボールを許し、更に決して足の速くない種田に盗塁され、次の金城はファーストゴロに打ち取ったが、佐伯にはタイムリーヒット、続く多村には2ランホームランを打たれ降板。
  6. 4月10日の中日戦、10点ビハインドの9回表に敗戦処理で登板。
    • ここでは2安打を打たれるが、なんとか無失点で切り抜ける。
  7. この敗戦処理での登板にミセリは不満を顕わにし、更に右肩痛を訴え始める。
    • 7日後の4月17日にミセリ本人・山本ヘッドコーチ・阿波野投手コーチとの3人で40分話し合ったが結局決裂。2日後の4月19日に球団史上最速で解雇された。
    • 最終成績は4試合に登板して0勝2敗0セーブ、防御率は23.63という散々な成績に…。
  8. 解雇当日、ミセリは東京ドームに姿を見せ、荷物を纏めた後に井原国際部長と別れの握手を交わし、妻子と共に浅草観光に出かけた。
    • 浅草での報道陣のインタビューに対しては「俺はミセリじゃないから質問は受け付けない」と返り討ちにしたが、雷門をバックにした家族との3ショット写真を要求されると笑顔で応じた。
      • そのことはチームメイトから苦言を呈され、特に「他人の悪口を言うことを聞いたことが無い」ほどの人格者だったブライアン・シコースキーからも「クビになって観光なんてとんでもない。外国人の恥だ。」と断じられた。
ケビン・ミッチェル
  1. トラックスラーに代わってダイエーに加入したメジャー選手。メジャー在籍時は220本塁打を記録しており、低迷を続けていたダイエーの救世主になるかと期待されていた。
    • 実際開幕戦では満塁ホームランを放ち鮮烈なデビューを果たすなど、能力の高さはあった。しかし・・・。
  2. とにかくトラブルを起こす困ったちゃんだった。開幕戦後に彼は無断帰国。「サンディエゴで経営しているアパートと美容院が心配になった」という理由だった。
    • 帰国後も「チームがこんな状態になっていたなんて知らなかった」と発言する始末。
    • ホークスファンである博多華丸によると、ごく普通のマンションに住んでいたにも関わらずベランダでバーベキューをして住人が消防へ通報。注意されたものの「日本では週末にバーベキューも出来ないのか」と逆ギレしてしまい、これが帰国の原因になったとか…。
      • それらを含めて素行の悪さで球団と揉め事ばかり起こした結果8月に解雇されることに。しかし解雇後も年俸の全額支払いを求めて裁判を起こし、ペピトーン同様日本を貶す発言を残すなど最後の最後まで困ったちゃんぶりをみせた。
  3. 月間ホークスに掲載されていた「FDH助っ人列伝」というコーナーにはダイエーの助っ人を鳴り物入り度・貢献度・その選手独自の評価があり、最後は必ず5点満点になっていた。
    • ミッチェルは鳴り物入り度が5、貢献度は3、そして最後の独自評価は「困ったちゃん度」であり、その点数は5点満点の枠を大きくはみ出す7点になっていた。
  4. 実はメジャー時代から素行の悪さをみせており、「カップケーキで口を負傷」「まぶたが攣った」「くしゃみで肋骨にひびが入った」「冷凍チョコレートドーナツで歯根を痛める」などの意味不明な理由で試合をサボったり、たびたび監督と乱闘になるなど問題行動の多い人物だった。
    • 元阪神のランディ・バース氏は実力があるのに、どこも取らなかったのは、本人に無視できない問題があるから。彼がトラブルメーカーだったのはわかりきっていたはずだ」とのちに語っている。
  5. 現役引退後にも1999年と2010年に二度暴行事件を起こして逮捕されるなど引退後も問題行為を起こしていた。
ダレル・メイ
  1. 1998年に阪神に入団した選手。
    • 先発ローテーションに定着し安定したピッチングを見せたが、打線の援護が乏しく、2年間で僅か10勝に終わる。
  2. 気性も荒く、1999年5月29日の巨人戦(東京ドーム)で松井秀喜にデッドボールを与え、普段死球を受けても感情を露わにしない松井を激怒させた。
    • 後に松井とは巨人でチームメイトとなり和解、さらにヤンキースでもチームメイトとなった。
  3. 1999年7月18日の巨人戦(甲子園)では、判定に抗議して塁審の胸を突き、暴力行為で退場となってしまった。
    • この暴力行為で2週間の謹慎処分が下されたが、その謹慎期間中に恋人と歯の治療を兼ねたグアム旅行に行っていたことが発覚。当時の阪神監督・野村克也と対立してしまった。
  4. 帰国後、メイは報道陣に対して「野村監督は勝てば自分の手柄、負ければ選手の責任にする」と野村を痛烈に批判したコメントを配布。
    • 結局球団から罰金1200万円と無期限謹慎処分を言い渡され、失意のまま帰国。
  5. ところが、この年3年連続で優勝を逃し、左ピッチャーの補強を進めていた巨人からオファーを受け、12月17日に巨人へ移籍。
    • メイは入団に際して、「野村監督との事はもう終わった事。あとはマウンドで答えを出すだけ」とコメントしたが…。
  6. 翌2000年6月7日の阪神戦(東京ドーム)で、元チームメイトの和田豊が3回続けて打席を外した際、和田に危険球を投げて問題になった。
    • 退場処分にはならなかったが、10日間の出場停止と罰金が科せられた。
      • その日のインタビューでメイは、インタビュアーの「あの危険球は元同僚の和田を狙ったものか」という質問に対し「To Him(彼を狙った)」と答えた。
ケビン・メンチ
  1. 2009年に阪神に入団した選手。俊足・強肩・強打の揃った外野手であり、レンジャーズ時代は7試合連続で本塁打を放つなど実績を見せ、また奉仕活動に参加するなど人格者であった。
  2. キャンプに合流してからも評判は上々、サンケイスポーツは毎週のように活躍を取り上げたことで、ファンからは「バースの再来」と期待させた。
  3. しかしオープン戦に入った途端に化けの皮がはがれた。元々故障があって劣化していたのもあり、140キロの球に手が出ず、変化球にも全く対応できず。
    • シーズンに入ってもその弱点は解消されず打率.148・0本塁打・2打点という散々な成績だった。
      • お陰でファンからは「レオナルド・ダ・メンチ」やミドルネームにフォードが付いていたことから「廃車」と呼ばれる始末。
  4. 結局二軍に落ちてしまい、結局途中加入したブラゼルが活躍したことも手伝い1年でチームを去ることに。
    • しかし人格者だったのは確かであり、二軍でも腐らずに練習し試合でも活躍していた。人間性では阪神の歴代助っ人のなかではトップクラスと言われている。
  5. なお、キャンプ時の活躍ぶりは「メンチコピペ」として今も某板を中心に改変ネタが使われている。

やらわ行[編集]

クライド・ライト
  1. 1976年に巨人に入団した投手。メジャー時代はエンゼルス唯一の左腕で20勝、メジャー通算100勝の実績持ちであり、在籍時には22勝をあげており普段は好人物であった。
    • しかし気性が激しく一旦キレると手が付けられないレベルで暴れるというざんねんな欠点があった。
      • 例えば「通訳の首を絞める」「カメラマンのカメラを取り上げて叩き潰す」「自分のユニフォームを引きちぎる」などあまりの大暴れから「クレイジー・ライト」という渾名をつけられてしまう。
  2. 最後は1978年のヤクルト戦で乱闘を起こし退場、そのまま職場放棄して帰宅するという行為をしてしまいそれが原因で退団することに・・・。
  3. 実はアルコール依存症であり、その暴れっぶりの原因になっていたようだ。その後は依存症を克服し、実業家としての人生を歩み成功している。
ベーブ・ルース
  1. もはや説明不要の伝説的な名選手だったがとにかく素行がひどかった。
    • 審判や観客とトラブルを起こしヤンキースのキャプテンを辞めさせられたことがある。
    • 車を運転し死亡事故寸前の事態を起こしたこともある。
    • 一時期は猛烈な不摂生で上半身だけやけに肥大化していた。
    • そもそも野球と出会う前はとんでもない悪ガキだった。
  2. 現役引退後には監督になることを熱望していたが「自分を監督できない男にチームの監督が務まるか」と言われとうとう機会が巡ってこなかった。
ボブ・レイノルズ(ブレット)
  1. 1977年に大洋ホエールズに所属していた投手。弾丸のように速い球を投げるということを自負しており、登録名を弾丸という意味である「ブレット」にしていた。
  2. しかしいざ実戦となると弾丸のような速球は投げることが出来ず、四球を乱発しまくるというとんでもない期待外れだったということが発覚。
  3. そしてシーズン開始からわずか1か月半で右肘の痛みが原因で退団を志望。球団社長が引き留めに向かうもすでにマンションから出払ったあとだった。弾丸の速さで帰国されたとネタにされたのは言うまでもない。
  4. 結局この大外れを引いたショックからか、大洋ホエールズは以後17年の間(その間にベイスターズに球団名変更)外国人投手をスカウトすることはなかった。
シクスト・レスカーノ
  1. メジャーリーグで1122安打・148本塁打を放った選手。
  2. 1987年に横浜大洋ホエールズに入団。
    • 前年にそこそこ活躍していたダグ・ローマンを追い出してまで入団させたが…。
  3. しかし前年に夫人の病気の看病の為プレーしていなかった分のブランクの影響か、シーズン中に22打席連続無安打の不振に陥り、5月末に「140km/hの速球が怖くなった。体力の限界」と言って現役引退を表明し、退団。
  4. 退団に際し、他球団に所属する外国人選手から、「彼が日本でプレーできないことは最初から分かっていた」「ワールドシリーズを頭痛で欠場する奴が日本でやれるわけがない」とボコボコに言われてしまった。
ピート・ローズ
  1. メジャーリーグの様々な記録を作った名選手だったが、監督在任中に野球賭博に手を染めたため永久追放された。
  2. その後、脱税で服役もした。
ピート・ローズJr
  1. 上記のピート・ローズの息子だが、マイナーリーグでの選手生活がほとんどだった。
  2. 彼もまた、ドーピング関連で厄介ごとを起こしている。
ロバート・ローズ
  1. 横浜ベイスターズ時代は、「マシンガン打線」の中心打者として活躍し1998年のリーグ優勝・日本一に貢献。
  2. 2年間のブランクの後、2002年シーズンオフに鳴り物入りで千葉ロッテマリーンズに入団。
    • しかし、春期キャンプでの紅白戦でノーヒットに終わり、キャンプ途中に「野球に対する情熱がなくなった」との言葉を残して退団、そのまま引退。
      • 来日からわずか28日後の退団は「史上最速退団」の日本記録となってしまう。
ウィリン・ロサリオ
  1. 2018年に年俸3億4000万円+出来高払いと、鳴り物入りで阪神タイガースに入団したのにもかかわらず、75試合で8本塁打・40打点・打率.242と成績が低迷し、シーズン終了後にウエイバー公示された。
ジャッキー・ロビンソン
  1. 近代メジャーリーグ初のアフリカ系選手として知られるがパイオニアだけあって人種差別に苦しめられた。
    • ドジャースでメジャーに昇格したときには白人の選手がロビンソンと同じグラウンドに立つことを嫌って何人か他球団に逃げている。
  2. 引退後は糖尿病に苦しめられたり息子を交通事故で失ったりと不運が続き53歳で世を去った。
  3. 背番号42が全メジャー球団で永久欠番になるほどの名選手だったのに資金難のせいで記念館がなかなか建たない。

関連項目[編集]




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