もしあのプロボクサーが○○だったら

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五十嵐俊幸[編集 | ソースを編集]

就職内定を取り消されなかったら[編集 | ソースを編集]

五十嵐俊幸は大学在学中にアテネオリンピックに出場し、卒業後は就職してアマチュアとして競技を続ける予定でした。だが、就職内定を取り消されたためプロ転向を決断しました。もし、この内定取り消しがなかったら?

  1. 五十嵐本人は北京を目指していた。
  2. 八重樫東が史実より早く2階級制覇を果たしていたかもしれない。

猪崎かずみ[編集 | ソースを編集]

世界王座に挑戦できてたら[編集 | ソースを編集]

JBC女子最年長として活動していた猪崎かずみはメキシコで世界王座挑戦が内定していましたが、メディカルチェックが間に合わずキャンセルされました。もしメディカルチェックが間に合い問題ないと判断されていたら?

  1. 男女通じて日本人最年長世界王座初挑戦記録として刻まれていた。
  2. メキシコアウェーでの日本人の戦績を考えると、王座戴冠はならなかっただろう。
    • おそらくは敗れたとしても、未練を残すことなく引退。タイに渡ってまで現役は続けなかった。

亀田3兄弟[編集 | ソースを編集]

一連の騒動を起こさなかったら[編集 | ソースを編集]

  1. 亀田3兄弟は現実とは正反対に国民的人気者になっていた。
  2. その代わり内藤大助が国民的人気者になることはなかった。
  3. 協栄ジムから独立することも無かった。
    • ただし史郎氏は切られていただろう。
    • 遅かれ早かれ移籍はしてたと思う。なにせ外様には冷たいジムだから(野木さんや昭和の亀田、高校6冠の大迫も酷な扱い受けてた)。
      • ただ、いずれにしても金平Jr.が「打倒亀田」にやたら燃えることはなかっただろう。
  4. 『しくじり先生 俺みたいになるな!!』に大毅が先生として出演することはなかった。
  5. 赤井英和や井岡弘樹・井岡一翔と同じ大阪市西成区出身なので、赤井や井岡とともに西成区の知名度をいい意味で上げていた。
  6. ランダエダ戦での判定勝ち騒動がなければ、父親の史郎氏が朝の情報番組でやくみつると口喧嘩することもなかった。
  7. 3兄弟の妹のモデルデビューや父親の史郎氏のYouTuberデビューがもっと注目されていた。

父親の史郎がプロボクサーになっていたら[編集 | ソースを編集]

亀田三兄弟の父として有名な亀田史郎。彼はボクサー志望であったが、叶わず。結果、息子たちに夢を託す事になった。その後の破天荒さはご存知の通り。

では、もしボクサーの夢を叶えていたら・・・。

  1. 引退後、トレーナーとなるが、現実とは違い適切な指導を行っていた。
    • タイトルを獲得していたら正式なジムを開いていた。
  2. 息子たちを直接指導することはなく、自分より優秀なトレーナーをつけていた。
  3. 亀田大毅はボクサーになってなかったと思う。
    • 知毅もか?
  4. 無茶なボクサー生活でパンチドランカーになっていた。
  5. 「亀田三兄弟」といえば亀田興毅・大毅・和毅ではなく、史郎氏と彼の兄弟のことを指していた。
  6. 彼の兄が学生時代に同郷の赤井英和と喧嘩をしたことがあったことが現実以上に知られていた。
    • もし引退後にタレントに転向した場合、赤井との共演が見られ当時のことを話題にしていたかも。
      • 兄の代わりに赤井と和解していたりして。
  7. 彼のYouTuberデビューがもっと注目されていた。
    • 内容も料理ネタよりも現役時代の思い出話ネタが多くなる。

具志堅用高[編集 | ソースを編集]

公立高校に合格していたら[編集 | ソースを編集]

ボクシングの元世界チャンピオンの具志堅用高であるが、ボクシングを始めたきっかけは、地元公立高校の入試に落ちた事により、那覇市内の私立高校に進学し、授業料を稼ぐ為に行ったバイト先で先輩たちがボクシングの練習をやってたのを見たのがきっかけでした。もし、この時に地元の公立高校に合格していたら?

  1. 本土の人が沖縄の人を見る目が変わらなかった。(実際、当時、本土の人は沖縄の人を下げすむ事があったらしい。)
  2. 具志堅本人は、今頃地元で漁師をやってたかも。
  3. 当然、ボクシング引退後に芸能界に入る事も無かったので、例のフレーズも無かった?
  4. 沖縄県民がスポーツ関係で有名になるのは、ゴルフの宮里藍が最初?
    • 具志堅以前に野球の安仁屋宗八がいたけどね。
  5. 「具志堅」と言えば体操の具志堅幸司を思い出す人が多くなっていた。

高野人母美[編集 | ソースを編集]

警察官採用試験に合格していたら[編集 | ソースを編集]

モデル兼ボクサーの高野人母美はロンドンオリンピック出場が潰えた後、警察官採用を受験しましたが不合格となり、プロボクサーになりました。もしこの時点で合格していたら?

  1. ミスアースジャパンファイナリストなどの経歴があるので、週刊誌などのマスコミから「元モデル警官」として取材を受けていた。
  2. 警視庁所属としてアマチュアボクシングは続けただろう。

競輪選手になっていたら[編集 | ソースを編集]

競輪関係者の知人から誘われたことがありボクシングと競輪で天秤にかけていた時期がありました。もしここで競輪を選んでいたら?

  1. 同じモデル出身の田中麻衣美のライバルとして扱われていた。

辰吉丈一郎[編集 | ソースを編集]

薬師寺保栄に勝利していたら[編集 | ソースを編集]

  1. 薬師寺のタレント転向はなかった。
    • 薬師寺の知名度も現実ほどには高くならなかったかもしれない。
  2. 辰吉も王座陥落の時点で引退したかもしれない。
    • 意外に薬師寺のほうが長く現役を続けていたりして。

内藤大助[編集 | ソースを編集]

アルバイト先のホテルの正社員になっていたら[編集 | ソースを編集]

プロボクシング元世界チャンピオンの内藤大助は、高校時代に洞爺湖温泉のホテルでアルバイトをしていて、卒業後の正式採用も内定していました。しかし、トラブルを起こして取り消され、上京してボクシングと出会いプロとなりました。もしトラブルなく正社員となっていたら・・・

  1. 言うまでもなく世界チャンピオンは一人減る。
  2. 史実の内藤のポジションにいたのは清水智信か山口真吾あたりか。
  3. 粉川拓也に「内藤2世」とつけられることもなかった。
  4. C-C-Bによる「Romanticが止まらない」セルフカバーもなかった。
  5. 井岡一翔は吉本と契約していた。
  6. 世界戦最短KO負けの不名誉ももちろんなかった。
  7. ポンサク政権は史実以上に長く続いていただろう。
    • 亀田大毅もポンサクに挑戦するが、おそらく反則行為の前に早々と失神KOを喰らっていたと思う。
    • 興毅も挑戦者として王者ポンサクと対戦した。
    • もし長期政権を維持したままソニー・ボーイ・ハロに負けるようなことがあったら、その衝撃は史実以上だった。
  8. ボクシング界で内藤と言えばカシアス内藤あるいはその息子の内藤律樹を指していた。

村田諒太[編集 | ソースを編集]

村田諒太はご存知の通りロンドン五輪金メダルの後、三迫ジムでプロに転向し、現在は帝拳ジムに移籍しています。もし違う展開になっていたら?

プロに転向しなかったら[編集 | ソースを編集]

当初はプロ転向について否定的でした。もしそれを貫いていたら?

  1. いわゆる「村田ルール」は存在しない。
  2. 同じく金メダリストだった桜井孝雄を引き合いに出してまで三迫ジムが叩かれることもなかった。
  3. おそらくフジテレビの「ダイヤモンドグローブスペシャル」復活もなく、大橋ジム主催興行は日テレかTBSが放送していた。
  4. たぶん、村田本人は東洋大学に残り指導者になっていただろう。

三迫以外のジムに入門していたら[編集 | ソースを編集]

オリンピック金メダリストということもあり、多くのジムから引く手あまたでした。

  1. ジムによっては「ダイヤモンドグローブスペシャル」復活はなかった。
  2. 最初から帝拳ジムに入門した場合
    • 日本テレビがデビュー戦から放送していた。
      • 「ダイナミックグローブ」地上波復活。
    • デビュー戦から海外ってことも考えられた。
  3. 協栄ジム入りした場合
    • TBSがデビュー戦から放送していた。
    • 協栄は高野人母美を獲得しなかったかもしれない。
      • この場合、天笠尚をマネジメントすることもなく、リゴンドー来日もなかったかもしれない。
      • 逆に村田の親友・渡部あきのりは野口へ移籍しなかったかもしれない。
      • 亀田和毅獲得もなかったかもしれない。
    • まずは堅実に日本ミドル級王座から獲らせ、それから海外へ。
  4. 角海老ジム入りした場合
    • なかなか結果が出ない土屋修平がリストラされてたかもしれない。
    • 藤本京太郎に続けと重量級で育成されていた。
      • 京太郎が返上した日本ヘビー級を獲らせようとしていた。
    • 放送は日テレ?TBS?

矢尾板貞雄[編集 | ソースを編集]

あの時引退せず2度目の世界王座挑戦を果たしていたら[編集 | ソースを編集]

矢尾板貞雄と言えば、日本・東洋王座を獲得し、白井義雄に次ぐ2度目の世界王座を期待されたボクサーでした。2度目の世界挑戦も決まっていたが、師匠との軋轢などもあり、突然引退してしまいました。

もし、師匠と関係を修復した、あるいは別のジムに移籍して2度目の世界挑戦を敢行していたら…

  1. ファイティング原田の世界王座挑戦が遅れていた。
  2. 間違いなく世界王座は取っていただろう。当時の実力から考えれば。

関連項目[編集 | ソースを編集]