もしあのプロ野球球団の監督が○○だったら
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就任していたら[編集 | ソースを編集]
鶴岡一人(近鉄・1971年)[編集 | ソースを編集]
- 1970年代の近鉄はAクラス入りしていた。
- 西本幸雄氏の招聘はなかったかもしれない。
鶴岡一人(ヤクルト・1971年)[編集 | ソースを編集]
- 別所毅彦監督の後任として、有力視されていました。
- Aクラス入りしていた可能性が高い。
- 岡本伊三美氏か飯田徳治氏をヘッドコーチとして、招聘されていた。
- 三原脩氏は東映の監督に就任していた。
王貞治(巨人・1981年)[編集 | ソースを編集]
- 第1次長嶋監督の後任はこれも第1次の藤田監督でしたが、もし第1次長嶋監督の後任が王監督だったら…
- 1981年は2~3位どまりだったかも。
- 仮にリーグ優勝できても日本一は無理だったかも?
- 1983年か1984年あたりで初優勝。
- ホークス監督に就任しなかった可能性も。→もし王貞治がホークスの監督に就任しなかったら
広岡達朗(近鉄・1982年)[編集 | ソースを編集]
- 1984年頃に、優勝していた。
- 西武の低迷期は史実より長くなっていたかもしれない。
- 森祇晶氏が史実より早く就任していた。
- 近鉄のチームカラーが史実と異なっていた。
- ラルフ・ブライアントを獲得しなかったか、獲得していても、三振が多いという理由で史実ほど起用されなかった。
山本一義(近鉄・1982年)[編集 | ソースを編集]
- 西本幸雄監督の後任として、有力視されていました。
- 金村義明らの若手選手を熱血指導していた。
- ロッテ監督は、張本勲氏が就任していた。
- 豊田泰光氏か土橋正幸氏が就任していた可能性もあり得る。
- 岡本伊三美氏が就任していたのは史実通り。
張本勲(ロッテ・1982年)[編集 | ソースを編集]
- 山内一弘監督の後任として、有力視されていましたが、本人は固辞しました。もし就任したら…
- 落合博満氏を熱血指導し、三冠王に導いていた。
- 有藤通世氏か稲尾和久氏のどちらかが就任することはなかったかもしれない。
- ロッテはAクラスを維持していた可能性もあり得る。
- 9年連続Bクラスを2度も経験する事はなかったかも。
- 野村克也氏がTBS解説者をやっていた任期が史実より長くなっていた。
- テレビ朝日解説者に就任することはなかったか、任期が短くなっていた。
- 退任後、史実通りTBS解説者に就任していた。
- 日本ハムの大沢啓二監督とともにパ・リーグを盛り上げようと一役買っていた。
西本幸雄(阪神・1985年、1996年)[編集 | ソースを編集]
- 星野仙一氏並みの熱血指導により、1987年以降も最下位になることはなかった。
- 吉田義男氏をヘッドコーチとして、招聘される。のちに、監督になる。
- ランディ・バースは史実より長くプレーしていた。
- 1985年に史実通り日本一になれれば、西本氏自身4球団目の正直として日本一を成し遂げた。
上田利治(ダイエー・1993年)[編集 | ソースを編集]
- 日本ハム監督の就任はなかった。
- 代わりに、張本勲氏が就任していた可能性がある。
- 当然、王貞治氏の就任はない。
- 住友平氏、大石清氏、加藤英司氏らの阪急OBをコーチとして、招聘されていた。
- 住友や大石はともかく確執のあった加藤は無理だろう。
星野仙一(中日・1995年)[編集 | ソースを編集]
- 監督復帰する予定でしたが高木続投により1年復帰が遅れました。もし95年に復帰していたら…
- 95年は阪神と最下位争いすることもなく史実よりいい成績だった。
- 主力の怪我や不振があったから横浜と4位争いするくらいだろう。
- 宣銅烈は史実より1年早く獲得していた。
- 94年オフは大量のトレードが行われていた。
- 95年オフのトレードが史実より1年早く行われていた。
- 翌年以降は史実通り。
古葉竹識(ダイエー・1995年)[編集 | ソースを編集]
- 1995年に王貞治がダイエーに就任した際、他の候補として古葉竹識も挙がっていました。もし古葉監督になっていたら…
- 秋山幸二より先に地元九州(熊本)出身監督就任。
- おそらく当時のホークスが目指していた野球にフィットせず2年で解任。
- もし王が就任しなければ、身売りが早まっていた。
- 達川光男や高橋慶彦は史実より長くホークスでコーチを務めていた。
仰木彬(阪神・2002年)[編集 | ソースを編集]
- ウィキペディアによるとオリックス監督退任後ノムさんの後任の阪神の監督として有力視されていたが、久万俊二郎オーナーの意向により実現しなかったようです。もし実現していたら…
- 当然星野さんの就任はなかった。
- 自身のオリックス・バファローズ初代監督就任もなかったかも。
- ただし、史実の星野監督のように、優勝した2003年に勇退していたらありえたかも。
- 2003年は阪神が日本一になってたかも。
- FA宣言していたオリックス時代の教え子の田口壮を連れてこようとした。
- 星野仙一は代わりに巨人の監督に就任していたかも。
- 1989年の近鉄、1995年と1996年のオリックス、2003年の阪神と、関西の3球団を優勝に導いたことで、仰木彬監督は関西のプロ野球ファンから史上最高の監督とたたえられていた。
星野仙一(巨人・2005年)[編集 | ソースを編集]
- 2005年、星野仙一氏の巨人監督就任が噂されたことは記憶に新しいと思います。本人の意向で実現しませんでしたが、もし就任していたら…
- 当然、第2次原監督は誕生しなかった。
- ただ、星野の後任(実質的なテコ入れ)として原が戻って来る可能性は十分あり得る。尾花や中畑が横浜の監督にならずに後任として就任と言う可能性はそこまでないだろうし。
- 2007年CSでの惨敗はなく、日本シリーズまで行けたか、行けなくても2勝3敗ぐらいまではいった。
- 星野ジャパンは誕生せず、長嶋ジャパンが北京五輪に出場していた。
- →もし星野仙一が阪神の監督に就任しなかったら
- 長嶋では無く王ジャパンが出場していたと思う
- 無論2009年WBCも原監督ではなかったかもしれない。
- 実績を残せなかった場合、2007年秋あたりで原監督待望コールが巻き起こった。
- 生え抜きでない元選手の監督起用により、読売新聞との対立を招き、身売りも…
- 身売りされれば当然日テレから巨人戦がCSも含めて消滅。
- 意外とサンテレビが東京ドームでの阪神×巨人戦の放映権を獲得できたりして。
- 本拠地が東京ドームから移転する可能性もある。
- 流石に身売りは無いだろうが、史実の堀内時代同様ファンから無かったことにされそう。
- 少なくともフロントと衝突したら確実に星野がクビにされる。
- 身売りされれば当然日テレから巨人戦がCSも含めて消滅。
- 阿部が真っ先に鉄拳制裁の餌食になる。そして矢野や脇谷、亀井も目を付けられる。
- 若手の投手が1人は酷使され潰れている。
- やはり山口あたりか?
- ナベツネと喧嘩してシーズン中に追われるかも。
- その場合、星野信者は2008年より早い段階で急減していた。
- ナベツネやフロントの補強に反発して、選手育成に転換するかも。
- 東京ドームの1塁ベンチは扇風機をはじめ、あちこち破損が目立つように・・・。
- ヘッドコーチに田淵幸一、2軍監督に山本浩二が就任。
- 阪神ファンからは失望の声。優勝した年なのに2003年は黒歴史となるかも。
- まず目玉として松井秀復帰は間違いなかっただろう
- 清原解雇を撤回し「自分が復活させる」と言ってたかも
- それでもその後楽天の監督に就任する可能性はありそうだ。
若松勉(日本ハム・2006年)[編集 | ソースを編集]
- 2006年の日本ハム監督候補として報じられたことがありました。もし実現していたら…
- 地元の名将就任に北海道民が歓喜。
- 日本一はともかくリーグ優勝はしていたと思う。
- 栗山英樹をコーチに就かせたかもしれない。
- コーチから昇格で監督に就任し史実通りかも。
- 多少の指導経験が付くことで史実よりもっと多く優勝できていた。
- コーチから昇格で監督に就任し史実通りかも。
工藤公康(DeNA・2012年)[編集 | ソースを編集]
- 現役引退せず、選手兼監督をやっていた。
- 1~2年ほどプレイングマネージャーをやった後、監督に専念していた。
- 山本昌より2年早く50歳の現役選手になっていたかも。
- もちろん、2015年からのソフトバンクの監督は、別の人が就任していた。
- もしくは、秋山幸二が続投していたかも。
- いや、アッキーはあらかじめ退任を決めていたためそれはない。
- 多分監督は小久保、松中、達川の誰か。
- もしくは、秋山幸二が続投していたかも。
- メディアにおいてDeNAの扱いは史実程大きくならず、金本に引退試合で苦言を呈される様な事はなかったかも。
- キヨシの盛り上げやラミレスのデータ野球が実った故のAクラス達成と考えると、工藤がDeNAのAクラスや観客増員を実現できるとはとても言い難い…。
江川卓(巨人・2016年)[編集 | ソースを編集]
- スポーツ紙でも有力候補として挙げられていたが結局実現せず。
- ただでさえ経歴がアレなので、巨人ファンの中でもかなり賛否両論だったのは間違いない。
- 当然ながらアンチ巨人からはボロクソに叩かれる。
- 他の5球団の監督が谷繁解任まで全員40代なので、「老害」として批判を浴びる。但し森が中日の監督代行になってからは急速に鎮静化。
- 川相が1軍監督になった場合以上に「江川を巨人の生え抜きとして認めるか否か」と言う議論が白熱していた。
- 当然ながらアンチ巨人からはボロクソに叩かれる。
- 『Nunber』での金本との対談は確実にあり得ないが、史実と逆に掛布が阪神の1軍監督になっていたら同じような対談が載るはず。
- 掛布との対談の場合「引退後コーチ未経験の2人が1軍監督として再び戦う」と言う理由からそれはそれで注目されそう。
川相昌弘(巨人・2016年)[編集 | ソースを編集]
- 原政権時に1軍監督代行の経験もあり、江川同様有力候補として挙げられていた。その後史実では3軍監督に就任。
- 生え抜きOBの不文律が崩れる事になるが、中日移籍の経緯を考えると特例措置として認められそう。
- 2軍監督は史実通り斎藤、3軍監督は尾花になっていたか?
- 井端の引退が史実よりも遅れるが、中日時代からの縁があるので将来的には史実通りコーチとして重用する事が既定路線になっていた。
- 少なくとも表情をあまり変えない由伸よりはチームに活気があったはず。
豊田泰光(ロッテ・1982年)[編集 | ソースを編集]
- 同僚の稲尾和久氏をコーチとして、招聘していた。
- 稲尾和久氏が監督に就任していたのは史実通り。
- ロッテを福岡市へ移転させる条件を出していた。
野村克也(ロッテ・1982年)[編集 | ソースを編集]
- 落合博満氏を三冠王に仕立て上げていた。
- 秋山登氏と長田幸雄氏は史実より長くテレビ朝日解説者を務めていた。
- それなりの実績があったので、後年のヤクルト監督就任は史実通り。
- 1984年と1985年のパリーグはロッテが制していた。
- 少なくとも変則プレーオフが行われなくなるほど阪急(84年)や西武(85年)は独走できなかった。
- ノムさんがロッテOBであることが現実以上に知られていた。
- 成績次第ではのちのヤクルト、阪神、楽天での監督就任時に、現実以上にファンから期待されていた。
王貞治(日本ハム・1993年)[編集 | ソースを編集]
- 日本ハムはAクラス入りしていた。
- ダイエーの監督は上田利治氏が就任していた。
掛布雅之(ロッテ・1992年)[編集 | ソースを編集]
- 千葉市出身だったので、それなりに人気があった。
- 後年の阪神2軍監督の就任は史実通り。
- 阪神時代の怪我がなければ、現役を続けたままロッテに移籍しコーチ兼任になり、引退と同時に監督就任したかも。
栗山英樹(ヤクルト・2007年)[編集 | ソースを編集]
- 古田敦也氏は現役選手として、引退していた。
- チームの成績は史実と変わらなかった。
- 後年の日本ハム監督就任は史実通り。
スパーキー・アンダーソン(阪神・1997年)[編集 | ソースを編集]
- 阪神の暗黒時代は史実より短くなっていた。
- 星野仙一氏が監督に就任することはなかったかもしれない。
田淵幸一(阪神・2004年)[編集 | ソースを編集]
- 星野仙一氏の推薦で後任監督候補に挙がりました。
- 3~4年ぐらいやっていた。
- 監督として、大成していた。
- 岡田彰布氏の監督就任が史実よりも遅れていた。
- オリックスの監督に就任することは無かったかもしれない。
- 2022年オフからの阪神監督も怪しくなる。
- オリックスの監督に就任することは無かったかもしれない。
レオ・ドローチャー(太平洋・1976年)[編集 | ソースを編集]
- 契約までこぎつけ就任が決定的になりましたが病気で倒れ、来日することはなく幻に終わりました。
- 仰木彬や野村克也、高木守道よりはるか前に70代の監督が実現していた。
- パ・リーグでは初の外人監督としても注目を集めていた。
- 鬼頭政一の就任はなかったか、遅れていた。
- 鬼頭さんが史実通り就任していた場合、根本さんか広岡さんのどちらかが就任しなかった可能性が高い。
梨田昌孝(阪神・2012年)[編集 | ソースを編集]
- 和田豊の肩書きは2012年以降もコーチのまま。
- もしかしたら2022年現在もコーチとして阪神に残っていたかもしれない。
- ファンからは賛否両論の声があるも、成績次第では星野さんのように称えられていたかも。
- ひょっとしたら真弓明信は監督退任後、退団せずにヘッドコーチに降格という形でチームに残っていたかも。
- 楽天の監督に就任していたかどうか怪しい。
就任していなかったら[編集 | ソースを編集]
王貞治(ダイエー)[編集 | ソースを編集]
- 優勝を果たすことはできず、暗黒時代が続いていた。
- もっと早く強くなってた可能性のほうが……。
- 野村克也ホークス復帰だったらありえたかも。
- ホークスが福岡に移転した翌年に野村を監督に据える動きがあったという話は聞いた。杉浦を始めとする鶴岡派の猛反対にあい白紙になったとか。
- 野村克也ホークス復帰だったらありえたかも。
- もっと早く強くなってた可能性のほうが……。
- よってダイエー本社はマイカルより先に倒産。
- 当然身売りも早く行われていた。
- ホークスは福岡に根付かず、身売りとともに再移転。あるいは消滅。
- 福岡の中高年はライオンズ、若者は巨人ファンのまま。
- アビスパ人気が爆発してたかも。
- 北海道や東北に球団が作られる事も無かった。
- ホークスが再移転していたら究極の悪循環と共に球界再編問題が進んでいたと思う。
- ドッチ道、福岡ドーム完成前だったら移転していたでしょう。
- 福岡の中高年はライオンズ、若者は巨人ファンのまま。
- WBCの監督も王でなく長嶋あるいはボビー。
- 生卵事件も起こらなかった可能性大。
- 「王シュレット」騒動もたぶん起こらなかった。
- ローズかカブレラが56本以上ホームランを打っていた。
- 王は原監督の代わりに巨人の監督を務めていた。
- 長嶋監督引退→王監督就任というシナリオもあったかも知れない。
- 案外西武や近鉄辺りの監督になっていても違和感は無さそう。
- たぶん現在とあまり変化がなかったと思われ。
- 元西武の森が監督になっていたかも(根本監督つながりで)
- 九州人で一応ホークスOBの古葉竹識が監督に就任していたかも!?実際、王ホークス1年目は古葉ゆかりの人物をコーチに集めていた。
- ホークスの球団会長にはなっていなかった。
- 長嶋氏と一緒にジャイアンツの要職に就いていた。
- 長嶋監督・王GMというのもあったかもしれない(もちろん逆も然りか)。
- 巨人のOB会長に就くのは史実通りだろう。
- 福岡ドームに王貞治ベースボールミュージアムは出来なかった。
- 城島健司はホークスのドラフト指名を拒否して、大学進学→巨人に入団していたかも。
- 吉永幸一郎は現実以上にホークスで活躍でき、ホークス一筋で現役を終えていた。
落合博満(中日)[編集 | ソースを編集]
- 2003年シーズン途中に山田久志監督を解任した中日ドラゴンズは、シーズン終了後、本人さえもが予想しなかった落合博満新体制を発足させました。その後のドラゴンズの成績は周知の通りですが、もし落合監督が誕生していなかったら…。
- おそらく2004年は佐々木恭介が指揮を取っていた。
- そして慎重な根回しの末、2005年より高木守道復帰。
- その場合、史実の横浜、広島に匹敵する暗黒時代に突入していたかも。
- 広島は史実(2013年)よりも早くCSに進出し、横浜も最下位になったシーズンは史実よりも減っていたはず。
- 候補に挙がっていたノムさんが就任していたら史実どおり強くなっていた可能性も。
- 候補の一人だった牛島和彦も、中日の監督でなら成功していた可能性もある。
- もし牛島が横浜の監督に就任しなかった場合、クルーンは来日しなかった(牛島の判断で獲得したため)。
- 仁村徹が二軍監督から昇格していたかも。
- ただし史実通り2004年キャンプ中に病に倒れていたら…。
- 2003年のクローザー・大塚の引き止めに躍起になっていた。
- 岩瀬は引き続きセットアッパーで起用。
- 岡本は埋もれたまま。
- 岩瀬は引き続きセットアッパーで起用。
- 森野の飛躍的成長はなかった。
- ドアラと同一視されることもなかった。
- 英智は二軍で埋もれていた。
- アライバは史実ほどの守備力ではなかった。
- 中村紀も汚いイメージだけで終わっていた。
- 川崎も(ry
- 2009年現在、「日本一から最も遠ざかっている球団」の地位を中日が手にしている。
- 当然、この議論自体存在しなかった。
- 中日ファンにアンチ星野が現実ほど形成されなかったかも。
- 川相が中日に来ることはなかった。
- 和田一浩も。
- 上田佳範と奈良原浩は日本ハムで現役を全うしていた。
- 中日の成績が現実より低迷していた。
- その分、阪神の優勝回数が増加していた。
- 2008年のペナントレースは巨人ではなく阪神が優勝していた。
- 2010年も阪神が優勝していた可能性がある。
- その分、阪神の優勝回数が増加していた。
- 2007年あたりから立浪プレイングマネジャー誕生、というのもあったかも。
- 落合は永遠の裏切り者として、記憶されることに・・・。
- 巨人あるいはロッテの監督になっていた可能性もある。
- あるいは楽天の監督に就任していたかも。
- 性格からして、縁のない楽天(近鉄)の監督にはならないんじゃないの?
- ロッテの監督に就任なら、間違いなくバレンタインの復帰は無かった。
- あるいは楽天の監督に就任していたかも。
- 巨人あるいはロッテの監督になっていた可能性もある。
- 2011年の退任騒動は当然起きていない。
- 勿論、「勝つことが最大のファンサービス」というポリシーを掲げる事は無かったので、球団イベントが疎かになる事は無かったかも。
- 2013年以降のナゴヤドーム観客動員数がここまで減少せずにある程度キープしていた。
- 2004年以降もドジャース風のユニフォームを着用し続けていた。
仰木彬(オリックス・バファローズ)[編集 | ソースを編集]
- もし初代監督として就任していなかったら…
- 清原和博は入団しなかった。
- 中村紀洋はオリックスに戻ることはなかった。
- タフィ・ローズは巨人で現役を終えていた。
- 2.の中村紀洋も含め、清原の影響で入団したので仰木さんや清原がオリックスに入らなければ彼ら(中村紀洋とローズ)も入団しなかった。
- 代わりにオリックス(旧阪急)、旧近鉄両球団の監督経験を持つ西本幸雄が担ぎ出されていたかも。実現すれば当時85歳、無論日本プロ野球史上最年長の監督・・・・・・
- もしくは中村勝広GMが予定より1年早く就任?
- 2005年シーズンにオリックスがプレーオフ争いしていたかどうか怪しい。
- 旧ブルーウェーブの伊原春樹が就任していたら
- 旧近鉄勢選手の楽天移籍が続出した。
- 旧ブルーウェーブ勢選手も楽天・阪神など他球団へ流出。
- 結果、チームをまとめ切れず、2005年の契約満了(史実では2年+オプション1年契約だった)を待って退任へ。
- この影響で2007年の巨人ヘッドコーチ就任はなかった。あるいは遅れていた。
- 2014年に再び西武の監督になることもなかった。
- 結果、チームをまとめ切れず、2005年の契約満了(史実では2年+オプション1年契約だった)を待って退任へ。
- 旧ブルーウェーブ勢選手も楽天・阪神など他球団へ流出。
- 2005年のオリックスは下手したら最下位になっていたかも…
- 史実の2014年の西武みたく、コーチや選手たちと考え方が合わず、2004年のブルーウェーブ以上に低迷を続けていた。
- 旧近鉄の梨田昌孝が就任していたら
- 2008年の北海道日本ハム監督就任はなかった。あるいは遅れていた。
- 若松勉が就任したかもしれない。
- 小林繁が投手コーチに復帰。真弓明信打撃コーチとあわせて2004年近鉄優勝時の「男前首脳陣」が復活。
- 2009年の真弓の阪神監督就任はなかった。あるいは遅れていた。
- 阪神の監督には中村勝広が復帰したか、和田豊の昇格が早まっていた。
- 2009年の真弓の阪神監督就任はなかった。あるいは遅れていた。
- 2016年に東北楽天の監督に就任することもなさそう。
- 1年目から大石大二郎だったら
- プレーオフ→クライマックスシリーズの常連チームとなっていただろう。
- 日本シリーズに1回ぐらいは進出していただろう。
野村克也(ヤクルト)[編集 | ソースを編集]
- 長嶋茂雄が監督になっていたか?
- 一茂が現実以上に活躍していたかも。
- 親子2人とも1993年に巨人に行かなかっただろう。
- 一茂残留で第二次長嶋政権なら親子対決として注目を浴びた。
- 親子2人とも1993年に巨人に行かなかっただろう。
- 一茂が現実以上に活躍していたかも。
- 飯田、高津などが素質を開花できなかった可能性がある。
- 飯田は捕手登録のままで、控え捕手として現役生活を終えた。
- 移籍で開花した可能性も。
- 飯田は捕手登録のままで、控え捕手として現役生活を終えた。
- 野村監督ほどの成績は残せず、若松監督の就任が早まっていただろう。
- それでもノムさん時代の遺産が無いので、恐らく監督になっても大失敗だったはず。
- 当然ながら、古田敦也はヤクルトに指名されることは無かった。
- 古田を指名したのは当時のスカウトがきっかけなので、それはないと思う。
- ただ野村監督に指導されなかったので、現実より活躍できなかった可能性大。
- その片岡スカウトが強権をふるっていた。
- 指名されなかった場合その場合によっては、球界再編問題で楽天が誕生しなかった可能性が…
- 古田を指名したのは当時のスカウトがきっかけなので、それはないと思う。
- ヤクルトのいわゆる「ファミリー球団」の体質が一掃されることは無かったため、ヤクルトは史実の阪神・横浜以上の暗黒期を迎えていた。
- 場合によっては、2000年代の横浜の成績は史実よりもマシだったかもしれない。
- ノムさん自身も阪神、シダックス、楽天の監督になっていたかどうか怪しい。
- オファーがあれが適当なチームの監督になっていたか。
- 伊藤智仁が酷使されて破壊されることもなかった。
- セイバー的で現代的な感覚を持つ古田が監督就任後、野村のアナログ自称ID野球と比較され、論理的思考ができない人にバッシングされることもなかった。
- もちろんカツノリのプロ入りはなかった。
- サッチーもあそこまでテレビで目立たなかったかも。
- ミッチーサッチー騒動もなかった。
- サッチーもあそこまでテレビで目立たなかったかも。
金本知憲(阪神)[編集 | ソースを編集]
- 原口文仁が2軍でくすぶったままだった。
- 北條史也や中谷将大のブレイクも遅れていた。
- 陽川尚将や岩貞祐太も。
- 秋山拓巳も復活出来ないままだったかも。
- 北條史也や中谷将大のブレイクも遅れていた。
- 平野恵一はオリックスでコーチを務めていた。
- 西野真弘が2016年以降も現実以上に活躍出来ていた。
- 糸井嘉男がFA入団していたか怪しい。
- のちに矢野燿大も監督就任していたか怪しい。
- そうなるとその後のドラフト指名の顔ぶれが大きく変わり、近本光司、木浪聖也、佐藤輝明、中野拓夢、伊藤将司らが入団していたか怪しい。
- そして2023年にアレを成し遂げていたかも怪しくなる。
- そうなるとその後のドラフト指名の顔ぶれが大きく変わり、近本光司、木浪聖也、佐藤輝明、中野拓夢、伊藤将司らが入団していたか怪しい。
- 大山は入団せず、青柳、糸原の台頭も遅れ、最強中継ぎ陣も形成されなかったため第2時暗黒時代を迎えていた。
- 藤浪晋太郎が酷使されず、制球難に悩み2軍暮らしが続くこともなかった。
- 藤浪は2016年以降も現実以上に活躍出来ていた。
- 2015年に阪神が優勝していたら、和田豊の監督退任が遅れていた。
林義一(国鉄)[編集 | ソースを編集]
- 金田正一が林監督と対立せず、1964年オフに巨人へ移籍しなかった。(移籍自体はあったと思われるが、下記の国鉄身売り同様延期されていた)
- 国鉄スワローズの身売りはもう1~2年延びていた。
- もしコーチにもなれなかった場合、国鉄球団と中沢不二雄(林の国鉄入りを推した野球評論家)の関係が悪化していた。
解任・辞任・退任しなかったら[編集 | ソースを編集]
田尾安志(楽天)[編集 | ソースを編集]
- 田尾安志は東北楽天ゴールデンイーグルスの初代監督に就任しましたが、わずか1年で解任されました。ファンからは続投希望が多かったそうですが、もし解任されてなかったら…
- 当然野村克也の楽天監督就任はなくなる。
- 山﨑武司はノムさんと出会えないので、史実ほどの成績は残せない。
- 高波文一は西武を解雇された後引退していた。
- 2006年の楽天は、最下位脱出はできないにしても、実史よりは良い成績を残せていた…と思う。
- 史実上の解任時点ではフロント幹部との亀裂が決定的なものとなっており、仮に続投した場合両者の確執が更に激化し、2009年のボビー騒動並みあるいはそれ以上の泥仕合を展開した可能性が考えられる。
- 2007年になっても最下位街道を爆走していた。
- 岩隈が酷使され、2006年末で引退していた。
- 2006年当時で25歳なので流石にそれはない。
- もしかしたら史実(2011年)より数年早くメジャーに挑戦していたかも。
- 嫁のヘビメタデビューはなかった。
- ノムさんは「バッカじゃなかろかルンバ」を解説の席で歌う。もちろん巨人ではなく楽天の試合ぶりに対して。
- シダックスの野球部は廃部にならず都市対抗野球の常勝チームになっていた、
- 2006年以降も山﨑が「当時は首脳陣の目を盗んで携帯ゲームに熱中している選手もいた」と語るほど選手の士気が大きく下がっていた状況が続いていた、あるいは更に悪化していた。
野村克也(南海)[編集 | ソースを編集]
- 野村克也は沙知代婦人が南海ホークスとの確執の種を蒔いてしまい南海退団の元となってしまいましたが、沙知代婦人が南海との確執を起こさずホークスの野村解任が無かったら
- 南海ホークス暗黒時代の到来は後数年遅れていた
- ヤクルトの黄金時代の到来も後数年遅れていた。
- 福岡移転も遅れた、いやバブル崩壊で無くなってしまったかも……
- 野村はミスターホークスとして生涯南海で現役を終えていた
- 引退後はホークスで監督業に専念し長期政権を築く
- 解説者時代のプロ野球指導者の空白期間も無く、南海監督→ヤクルト監督へと就任していた。
- そうなれば時期的に南海最後・ダイエー初代の監督は杉浦さんではなくノムさんだった。
- テレビ朝日のプロ野球中継での「野村スコープ」も存在しない。
- 山内孝徳、藤本博史、吉田豊彦はヒゲを生やさなかった。孝徳の背番号は19でなかった。
- ダイエー初優勝の監督は王さんではなくノムさんだった。
- ノムさんの亡くなったシーズンには、ホークスの監督コーチ選手全員が背番号19をつけて追悼試合をしていた。
- 解説者時代のプロ野球指導者の空白期間も無く、南海監督→ヤクルト監督へと就任していた。
- 引退後はホークスで監督業に専念し長期政権を築く
- 江夏の広島移籍も無いので「江夏の21球」も無し、という事で日本シリーズは近鉄が連覇していた。
- 代わって野村時代の南海が日本一に輝いていた・・・か
- 「そりゃこんなにボヤいてませんわね。」
- ぼやき節が話題にならない。
- 大沢親分みたく勝ち負けに関わらず試合後のテレビインタビューと記者会見を公開して注目されることもなさそう。
- ぼやき節が話題にならない。
- ホークスの歴史から消される事はなかった。
- なんばパークスでも筆頭で紹介されている。
- サッチーの連れ子である団氏やケニー氏がプロ野球に携わることはなかった。
- カツノリもホークスでプロ入りしていた。
- 世代的に城島健司や吉永幸一郎の控えだった。
- 父親を追って阪神〜楽天への移籍は現実通り。
- 世代的に城島健司や吉永幸一郎の控えだった。
原辰徳(巨人・2003年オフ)[編集 | ソースを編集]
- 2004年は優勝できていたか、2位になっていた。
- 前者の場合は落合の名声がそこまで高まらなかった。
- 2005年~2006年の低迷もなかった。
- 場合によっては巨人戦視聴率低迷は無く現在でも平日ナイター中継が多かった可能性が…
- 川相は移籍することなく引退しコーチに就任。
- 巨人がバントのできない選手だらけの球団とはならなかった。
- 原の監督退任時にそのまま新監督に昇格していた。
- 松井稼頭央はメジャーへ行かず巨人入りしていたかも。
- 三山から清武に代表が変わったころから、若手の台頭が目立つようになっていた。
- 早い段階で藤田巨人色が高まっていた。
- 堀内恒夫は「監督失格」のレッテルを張られることはなかった。
- 少なくとも参議院議員になる事は出来なかった(史実では繰り上げ当選→落選)。
- 清原は引退まで在籍していた。
- 元木の引退も史実より遅くなっていた。
- 成績次第ではあるが、そのまま史実の第二次政権を終える2015年頃まで監督を続けていた。
ボビー・バレンタイン(ロッテ)[編集 | ソースを編集]
- ボビー・バレンタインは1995年、それまでBクラスに甘んじていたロッテを、平成初のAクラスへと導きました。しかし、広岡達朗GMの意向により解任されました。もし解任されなかったら?
- 1996年はオリックス・日本ハムと優勝争いを演じていたかも。
- 広岡GMの解任もなかった。
- メッツ入りする日本人選手も、史実ほど多くなかった。
- 現在までずっとロッテの監督を務めている。
- あるいはメッツのオファーを受け一旦辞任後、2004年に復帰。その間の監督は史実通り山本功児。
- 1998年の18連敗はなかった。
- 近藤昭仁の「もっと強いチームで監督をやりたかった」発言はなかった。
- 江尻は監督をしなかったので、「広岡リモコン江尻しね」とファンから罵られることはなかった
- ま、いずれにしても2009年で解任されるんだけどね。
- フリオ・フランコは1年で退団せず、バレンタインが監督のうちはロッテに残っていた。
長嶋茂雄(巨人・1980年)[編集 | ソースを編集]
- 長嶋茂雄は現役引退後、巨人の監督になりましたが、成績も振るわず、OBによる批判もあり、読売新聞社の当時のオーナーの意向で1980年に解任されてしまいました。もし解任されなかったら・・・
- 藤田は監督にならず、巨人の投手コーチになっていた。
- 王はその知名度から、他の球団の監督になっていた。
- 王の現役引退まで長嶋が監督を続け、引退に伴い王に禅譲、という形になっていたかも。
- 伊東キャンプのメンバー(鹿取、中畑等)が中心となって第2次V9となっていた可能性もある。
- 徳光和夫の読売不買発言もなかった。
- サンフランシスコ・ジャイアンツ風のユニフォームがもう少し長く着用されていた。
西本幸雄(大毎・1960年)[編集 | ソースを編集]
- 西本幸雄は1960年に大毎(現・千葉ロッテ)の監督として日本シリーズに出場しましたが、その時の采配をめぐって永田オーナーと喧嘩をして、解任されてしまいました。もし解任されなかったら・・・
- 大毎はパ・リーグの強豪チームとなって1960年代は西鉄、南海と激しい優勝争いを繰り広げていた。
- 阪急は「灰色の時代」が実史よりも長く続いていた。近鉄も同様。
王貞治(巨人・1988年)[編集 | ソースを編集]
- 1988年はリーグ2位には付けたものの、1位の中日と12ゲーム差を付けられてしまい、フロントから責任を問われる形で辞任(実質上の解任)しましたが、もし解任されなかったら・・・
- 1989年の日本シリーズは近鉄が制し、日本一になっていたかも。
- ホークス監督に就任しなかった可能性大。→もし王貞治がホークスの監督に就任しなかったら
- 長嶋氏は巨人の監督にならず、逆にホークスの監督になっていたかも。
- あるいは王さんの退任後直接長嶋さんに引き継いでいたかも。
- 斎藤雅樹のブレイクは遅れた、あるいは史実ほどの大投手にならなかった可能性も。また鹿取の放出はなかった(西武の黄金時代にも影響か?)。
- 野手に転向していた可能性が高い(王政権があと1年長かったら野手になってたというのを聞いたことがある。)
- 1989年は広島か中日の優勝だった可能性もある。
- 1989年のドラフトで大森剛ではなく元木を1位指名していた。
仰木彬(近鉄)[編集 | ソースを編集]
仰木彬は球界を代表する名指導者として有名です。しかし92年にロクな理由も無く近鉄の監督を勇退しますが実は裏話があって仰木の勇退、及び鈴木啓示の監督主任は佐伯オーナーの遺言だったそうです。
仮に近鉄フロントが佐伯オーナーの遺言を無視、或いは遺言が無くて仰木彬を92年以降も近鉄の監督として続けさせていたらどうなっていたでしょうか?
- 野茂が鈴木監督ともめる事も無かったのでメジャー入りは数年遅れていた。
- つまり日本人選手全体のメジャー移籍が数年遅れたということになる。イチローも全盛期にメジャーに行けたかどうかわからない。
- 近鉄が日本一に輝いていた可能性もある(特に92か94年、当時野茂は監督と対立してマトモに使って貰えなかった)
- 93年のBクラス転落も、その後の低迷(2000年まで)もなかった。
- 大阪ドーム移転後も仰木さんが指揮を執っていたとしたら、大阪ドーム初優勝が早まったかも。
- 近鉄で長期政権を築いた後、オリックスの監督に就任するが成績は実史と変らず早々と解任されオリックス時代の評価は低かったかも
- 「イチロー」や「パンチ佐藤」などは存在しなかった。
- 「鈴木選手」や「佐藤選手」が誕生(?)していた。
- 土井監督がもう少し長く務めているので鈴木一朗、佐藤和弘は2軍でくすぶり続け、田口壮はイップスで潰され史実通りにはならなかった可能性大。
- その場合、オリックスが95年・96年は優勝していたかどうか怪しい。
- 史実通りオリックスが優勝していたとしても実際ほどの盛り上がりはなかったかもしれない。
- パ・リーグの人気は史実以上に上昇しなかっただろう。
- その場合、オリックスが95年・96年は優勝していたかどうか怪しい。
- 土井がオリックスの監督を続けている場合、93年オフに鈴木一朗と横浜・佐々木主浩のトレードが成立していた。(史実では仰木監督が白紙にしていた)
- 史実通り土井監督が93年で退任していたら、上田利治は日ハムの監督に就任せずにオリックスの監督に復帰したかもしれない。
- それとも、山田久志氏か福本豊氏か蓑田浩二氏が就任していたかもしれない。
- 「イチロー」や「パンチ佐藤」などは存在しなかった。
- 晩年は近鉄バファローズのGMに就任し、合併を選択しようとするフロントを説得させてバファローズを身売りで済ませたかも知れない
- 鈴木啓示の指導力の無さでチームが崩壊したと言う説が有力なので92年以降は黄金時代を築いていた可能性も
- もしかしたら93年に西武の連覇を阻止していたかも。
- そもそも佐伯元オーナーがもし健在orもう少し長生きしていたら勇退していなかった。
森祇晶(西武)[編集 | ソースを編集]
- 1995年は極度の成績不振でこの年で辞任。
- ファンや地元マスコミの批判にさらされ最終戦前に休養してかもしれない。
- オリックスの初優勝を見届けてしまう。
- 復帰したデストラーデが投手として登板することは無かった。
- いずれにしても石毛、工藤はダイエーに移籍。
- 2001年に横浜の監督に就任するとは無かった。
- 横浜暗黒時代は存在しなかった
権藤博(横浜)[編集 | ソースを編集]
- 横浜暗黒時代は存在しなかった。
- 阪神・ヤクルトとAクラス争いの常連。
- 中日と同じく後継者によっては暗黒突入も・・・
- 当然ながら、その場合はTBSへの身売りも回避されていた。
- 谷繁は移籍しなかった。
- ローズも現役引退せず、あと2~3年は現役を続けていたかもしれない。
- 石井琢朗がFA宣言し、横浜を退団していた可能性もあった(駒田同様、権藤との不仲説が取りざたされていた)。
- 権藤の後任は森ではなく、ヘッドコーチだった山下大輔がそのまま昇格していた。その場合でも史実より成績はずっと良かったはず。
- もちろん、佐々木主浩の後継者問題もスムーズに解決された。
- 横山道哉のブレイクは史実よりも早まり、日ハムへトレードされることは無かった。
M・ブラウン(楽天)[編集 | ソースを編集]
- M・ブラウンは野村克也の後任として東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任しましたが、わずか1年で解任されましまいます。もし解任されてなかったら…
- 当然ながら星野仙一の楽天監督就任はなくなる。
- 松井稼頭央は多分オリックスへ入団してただろう…
- 若しくはこの時点で西武に復帰していた。
- 渡辺直人はトレードされず2018年現在でも楽天一筋だった可能性も…。
- 松井稼頭央は多分オリックスへ入団してただろう…
- 結局2011年に辞任してそうな気がする…
- 後任監督によっては2013年の楽天優勝は無かったか!?
- 史実通り2011年に梨田監督が日ハムの監督を退任したのならそこで招聘されてた可能性もある。
- セイバーメトリクスや現代的なアメリカ野球の導入が進んだ。
- 結果として、ホークスと勢力を二分する黄金時代を築いただろう。
- 楽天は人気実力ともに大きく伸びていた。
- 5人内野は実際に優れた戦術であるが、黄金時代を築いて国民的人気が出れば、深く考えずにパフォーマンス的に真似する人が増えそう。
- ベース投げが物まねの定番ネタになる。
落合博満(中日)[編集 | ソースを編集]
- 2011年シーズン途中にあからさまな「落合降ろし」が行われなかったと仮定。
- この年の逆転優勝の原動力として「理不尽な解任劇にナインが奮起した」ことが挙げられるから、あるいはこの年の優勝は無かったかもしれない。ライバルのヤクルトが終盤故障者続出で満身創痍だったことを考えれば結局優勝できていた可能性も高いが。
- 坂井克彦球団社長(当時)があれほど話題になることもなかっただろう。
- 2012年の巨人相手ではさすがに落合でも優勝は難しかっただろう。ただしCSでは史実でも3連勝までしたのだから、勝っていた可能性もかなり高い。
- 当時のフロントが落合在任中に一掃されなければ、結局この年か後のシーズンで史実同様の退任劇が起こっていたかもしれない。
- 後任も守道では無かっただろう。
- 落合退任後、この時点でヘッドコーチの森繁和がそのまま昇格していたかも。
- 井端は退団せず、引退まで中日で選手生活を全うした。
- ドラゴンズの凋落はなかった。
- 人気も実力も00年代の高いレベルを維持していた。
- それでも日本シリーズでは苦戦しただろう。
- コンプライアンス面も改善を続けていた。
- 立浪は出入り禁止だった。
- 人気も実力も00年代の高いレベルを維持していた。
- とはいえ、落合野球はセイバーメトリクスに基づく現代野球とは縁が遠く、モチベーター、コンプライアンス改革者、情報戦やナゴヤドームのパークファクターに特化した戦いに強い性格だったため、他球団のセイバー導入が進み中日新聞の貧困化も進むにつれ、史実ほどではないが苦戦を強いられただろう。
- それでも5位や6位には一度もならなかったと思う。
- 名古屋の閉鎖的な財界やタニマチからは相変わらず叩かれただろう。
- 落合監督は、2012年・2013年で若手選手の育成を積極的に行い、チームの世代交代を進めていった。そして、2013年シーズン限りで中日監督を勇退していた。
- 10年間に渡る長い落合政権が終わった後、森繁和ヘッドコーチが監督に昇格し、2014年~2019年まで中日の監督を務めていた。
- その後、2020年から立浪和義が監督を務めている。
- 史実では暗黒期である2013年から現在までに、流石に一度はBクラスに落ちるが、落合政権時代よりはペースが落ちても、それでも1回くらいはセ・リーグ優勝していた。
- 落合監督自身も、一度もBクラスに落ちることがなく、4度のリーグ優勝と5度の日本シリーズ進出を果たした中日の監督時代は、史実以上に高く評価されていた。
- 中日監督勇退後は、古巣であるロッテの監督に就任し、ロッテでもオレ流野球で何度かチームを優勝に導いていた。
- 2010年代のパ・リーグがソフトバンク一強になることはなく、ソフトバンクや日本ハム、西武と激しい優勝争いを演じ、Aクラス常連チームになっていた。
- 同時期にBクラス常連のオリックスと楽天は、2000年代の横浜・広島とよく比較されていた。
- 日本代表監督にも就任し、2013年には日本代表をWBC3連覇に導いていた。
- 中日監督勇退後は、古巣であるロッテの監督に就任し、ロッテでもオレ流野球で何度かチームを優勝に導いていた。
梨田昌孝(日本ハム)[編集 | ソースを編集]
- 2011年シーズン途中に退任発表がされず2012年も監督だったらという設定…
- 2012年のパ・リーグは西武かソフトバンクが優勝してただろう…
- 場合によっては楽天がAクラスに入った可能性もある
- それでも最下位は史実通りオリックスだった可能性も高いが…
- 仮に史実通り2012年に日本ハムが優勝したとして監督を続投しても2013年か2014年に優勝or日本シリーズに出場出来なければ梨田監督がそこで退任となってたか!?
- 結局2016年に史実通り楽天の監督に就任してた可能性の気がするが…
渡辺久信(西武)[編集 | ソースを編集]
- 2014年はBクラスになる事は無かった。
- 36年ぶりの7カード連続負け越しは無い。
- 涌井秀章と片岡治大は残留していた。
- 人的補償の脇谷亮太と中郷大樹の入団は無かった。
伊原春樹(西武・2014年シーズン途中)[編集 | ソースを編集]
- 2014年の西武はシーズン90敗していたかも。
- 第一期政権のシーズン90勝と合わせて「天国と地獄を味わった監督」と呼ばれていた。
- 「西武の監督はどんなに負けが込んでも最後までシーズンを全うする」という伝統はなんとか守られることに。
- 伊原がセウォル号の船長に例えられるようなこともなかった。
- 場合によっては、この年大不振だった菊池雄星、秋山翔吾がシーズン終了後にトレードに出されていたかもしれない。
安藤統男(阪神)[編集 | ソースを編集]
- 当初は、1985年も指揮を執る予定でした。
- ランディ・バースは解雇されていた可能性が高い。
- バースがいなくなる場合、阪神が1985年に優勝出来ていたか怪しい。
- 吉田義男氏が1996年オフに監督を就任することはなかった。
- ヤクルトのコーチに就任することはなかったかもしれない。
山内一弘(ロッテ)[編集 | ソースを編集]
- 1981年オフにあと1年契約を残して、辞任しました。
- 1983年まで指揮を執っていた可能性が高い。
- 1982年で退任した場合、誰が後任監督になっていたのであろうか?
- 一年早く稲尾和久が就任していた。
- 中日監督の就任は史実通り。
別当薫(広島)[編集 | ソースを編集]
- 1973年は最下位でありながら途中まで大洋と首位争いをし、最終的に優勝した巨人とのゲーム差が6という比較的好成績な結果でしたが1年で解任されてしまいました。もし解任されなかったら
- 森永勝也の就任はなかった。
- その後の成績次第では古葉竹織の就任が遅れていたかもしれない。
- そもそも古葉さんは森永監督の要請でコーチとしてカープに復帰したため、森永さんが監督に就任しない場合はカープの監督にならないと思う。
- 阿南さんがカープの監督に就任することもなかった(阿南さんも森永監督の就任時にコーチとしてカープに復帰したため)。
- 下手をすると広島の初優勝は1975年ではなく数年遅れていた。
- その後の成績次第では古葉竹織の就任が遅れていたかもしれない。
- 史実通り翌年(1974年)も最下位だった場合結局この年限りで退任。
- 広島はその後も他球団出身の監督を招聘していたかも。
- 中利夫は2軍ではなく1軍の監督をやっていた。
- 時期にもよるが中日監督への就任はなかったかも知れない。その場合近藤貞雄の監督招聘が早まっていた。
- 中利夫は2軍ではなく1軍の監督をやっていた。
高橋由伸(巨人)[編集 | ソースを編集]
- 2018年オフに大規模な補強を行った。
- これが功をそうして、2019年にリーグ優勝していただろう。
- 引退した上原浩治をコーチに迎えていた。