もしあのプロ野球選手があの球団に残留していたら/は~わ行
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- 外国人選手はもしあのプロ野球選手があの球団に残留していたら/外国人選手で。
- 移籍した年のシーズン終了まで新規追加は行わないでください。
は行[編集 | ソースを編集]
張本勲(日本ハム)[編集 | ソースを編集]
- 現役時代後半はDH制をフル活用し、活躍していた。
- 高橋一三の選手生命は短くなっていた。
- 背番号10は永久欠番になていたかもしれない。
- 日曜朝の某番組で「喝」をやっていたかどうか?
- 1976年・1977年に巨人はリーグ優勝できていなかった。
広沢克己(ヤクルト)[編集 | ソースを編集]
- オマリーは巨人かオリックスに移籍していた。
- 2000本安打を達成できたかもしれない。
- その後阪神に移籍することもなく、ヤクルトで選手生命を全うしていたかも。
- 連続試合も1180試合以上出場していた。
福留孝介(中日)[編集 | ソースを編集]
2007年オフにFA宣言してメジャー挑戦した福留孝介(その後阪神で日本球界復帰)がもし中日に残留していたら?
- 中日一筋で2000本安打を達成し、PL学園の先輩である立浪和義に続く4代目ミスタードラゴンズを襲名していた。立浪の通算安打記録(2480安打)および打点記録(1037打点)・宇野の通算本塁打記録(334本塁打)を塗り替えていたかもしれない。
- 中日が史実通り和田一浩を西武からFAで獲得していた場合、2008年の打線は「荒木・井端・福留・ウッズ・和田・中村紀・森野・谷繁(代打・立浪)」と錚々たる面々が並び「中日球団史上最も豪華な打線」と呼ばれていた。
なお李炳圭。 - ナゴヤドームで本塁打王は難しいだろうが、首位打者・打点王の二冠王を獲得していた可能性はある。
- 中日は2008年以降も史実より高い成績を維持し、暗黒時代突入もなかったかもしれない。
- 阪神の背番号8は誰が着用していただろうか?
- 史実で福留入団まで着用していた浅井良が継続かと。
- 2019年時点でも背番号1は未だ福留が着用しており、堂上直倫・友永翔太・京田陽太が着用することはなかった。史実通り立浪・森野・荒木の引退後に高橋周平・根尾昂・石川昂弥がそれぞれ背番号を継承することはあり得るが。
藤川球児(阪神)[編集 | ソースを編集]
藤田一也(DeNA)[編集 | ソースを編集]
- それでも12年オフのドラフトでは白崎を1位指名した。
- 内村賢介は2012年限りで自由契約にされていたかも。
- そうなった場合もDeNAが獲得し、その後は史実通り。
- ベストナインもゴールデングラブ賞も獲得出来ず、球宴出場も出来ていない。
- 梶谷隆幸と桑原将志のブレークは遅れたか、もう少し早く外野コンバートされていた。
- 倉本寿彦か柴田竜拓はドラフトで指名されなかったかブレークが遅れた。
- 2021年時点で現役選手かどうかは危うい。
- 仮にその時点で現役で残留し、尚且つ背番号の変更もなかった場合松尾大河とタイラー・オースティンは別の番号を付けていた。
別所毅彦(南海)[編集 | ソースを編集]
1948年の巨人による「別所引き抜き事件」で南海→巨人に移籍しました。
- 二リーグ分裂後初期は南海がV9を達成していた可能性があった。
- 逆に巨人は同時期のリーグ優勝及び日本一の回数が減少していた。
- 野村は別所とバッテリーを組んで捕手として成長していた。
- 現役引退後は南海監督となっていた。
- 王は一本足打法にすることはなく、通算本塁打数日本一の記録を達成することはなかった。
- これは巨人のコーチ会議でヘッドコーチだった別所が打撃コーチの荒川に対して当時の王の打撃不振を非難し、その日の試合で荒川コーチが王に一本足打法をさせて王がホームランを打ったため。
ま行[編集 | ソースを編集]
松井稼頭央(西武・楽天)[編集 | ソースを編集]
- 2004年以降も西武に残留していたら
- 中島裕之のブレイクは遅れていたかトレードされていた。
- 片岡易之が「7」ではなく他の番号を背負っていた。
- 世間での知名度は「野球選手の松井=秀喜」という図式が史実以上に広まっていた。
- 伊東政権では遊撃のレギュラーとして君臨し続けた。
- 2004年はレギュラーリーグ1位で、2006年もパ・リーグ優勝していた。
- 楽天に残留していたら
- 梨田昌孝の後任で引退後即楽天の監督に就任していた。
- 史実通り梨田昌孝が2018年途中に解任され、平石洋介が代行に就任していたら平石洋介の後任となっていた。
- 西武の2軍監督は2019年以降も潮崎哲也が続投していた。
- 渡辺直人も楽天復帰は無く、西武で引退していたため案外潮崎の後任は渡辺直人になっていたかも。
松井秀喜(巨人・ヤンキース)[編集 | ソースを編集]
- 巨人に残留していたら
- 2003年以降もセ・リーグの打撃タイトルを総ナメにし、引退までに一度は三冠王を獲っていた。
- 王貞治の868本までは行かなくても、2位の野村克也の657本程度、あるいはそれを超える本塁打を打っていたのは間違いない。
- 巨人の暗黒期突入は回避されており、原監督の解任は無かった。
- その場合、2007年までに一度はリーグ優勝していた。
- 日本テレビの巨人戦中継は現在でも頻繁に行われている。
- 「劇空間プロ野球」が今でもあったかもしれない。
- 2003年に阪神が史実通り優勝していてもぶっちぎりで優勝出来ていたか怪しいかも。
- 二度目のFA宣言で、念願の阪神入りもあったかもしれない(松井自身、巨人入団まで阪神ファンだった)。
- プロ入り後に巨人ファンに寝返ったようなので(メジャー移籍後の2003年に「阪神好調」の件について聞かれた際に「巨人を応援している」と発言してコメントを拒否した)それはありえないかと。
- 当然ヤンキースからの猛反対に遭うこともなかったため、WBCへも出場していた。
- 史実通りイチローも代表入りしていたら、日本代表の強さはえげつないものになっていただろう。
- 「ゴーゴーゴジラッ!マツイくん」は2012年まで続いていた。
- 「マツイ日記は知っている!」も、引退までとはいかないまでも史実以上に続いていた。
- 作者である荒木ひとしの知名度はもう少し高かったかも。
- 「マツイ日記は知っている!」も、引退までとはいかないまでも史実以上に続いていた。
- 引退後は臨時コーチではなく、正式なコーチとして(野手総合、打撃あたり)巨人に留まっていた。
- それでも様々な思惑で監督にはなっていない。
- 2006年の怪我はどっちにしろ(『AV OPEN』の特別審査員で選考作品が届き早く見たいため集中力を欠きあの怪我がおきたという説があるらしい)おきたため巨人は史実では2006年は4位だが5位か最悪最下位に沈んだ。
- その場合、原監督は球団史上最速の1年で解任になってた。
- もっとも上記の通りだったら、少なくとも第2次原監督時代はここで終焉になっていただろう。ただし後任によっては2009年あたりで復帰していただろうとは想像できるが。
- その場合、原監督は球団史上最速の1年で解任になってた。
- 清原和博が調子に乗ることはなかっただろうか?
- 2008年のメークレジェンドにも貢献していた。その場合、清水隆行と並び1996年のメークドラマと2008年のメークレジェンドの両方を経験した選手となっていた。
- ヤンキースに残留していたら
- 本人はヤンキースで引退する事を望んでいたらしい。
- ヤンキース側が「MVPをFAによって放出するのはまずい」と囲い込みに動いていたら可能性はあったと思う。
- 逆に引退も史実より早まったかもしれない。
- 史実通りの経歴でもMLBの野球殿堂入りの対象を満たさないので、初の野球殿堂入りの可能性はイチローまで持ち越しとなる。
- その代わりにヤンキースでは「55」の永久欠番入りが真剣に検討されていた。
松永浩美(オリックス)[編集 | ソースを編集]
- 1993年シーズン開幕直後に故障することはなかった。
- 背番号を「02」に変更するという前代未聞の事態も起きなかった。
- 現役引退までオリックスでプレー。
- 引退後も、コーチor球団職員としてオリックスに残る。
- 1993年シーズンオフにFA宣言していたかもしれない。
- 当然、通算2000本安打を達成。
- 野田浩司は当面阪神でプレーしていた。
- 当然「甲子園のグラウンドは幼稚園の砂場」という発言を捏造されることはなかった。
- 1993年の阪神の成績が現実より良かった。
- Aクラス入りを果たしていた可能性もある。
蓑田浩二(阪急)[編集 | ソースを編集]
- 引退後、オリックスでコーチとして活躍していた。
- 監督に就任していた可能性もある。
- 上田利治氏が日本ハム監督に就任した際に、コーチとして招聘された可能性もあり得る。
村田勝喜(ダイエー)[編集 | ソースを編集]
- 1994年はダイエーが優勝していた。
- 1999年の日本一にも貢献していた。
- 工藤・若田部・吉田・篠原・ペドラザらと投手王国を築き数年早く優勝してダイエーが黄金時代になっていた気も。
- 1996年の生卵事件はなかった。
- 100勝は果たしていた。
村田修一(横浜)[編集 | ソースを編集]
- 2chで乙女と罵られることはなかった。
- 第三回WBCに出られたかどうか微妙。
- 2012年、横浜は5位になっていたかもしれない。
- もしくはこの段階でAクラス争いに絡んでいた。
- 中村ノリの復活、あるいは筒香のブレイクはなかったかも。
- 2013年に中日からブランコを獲得することもなかった。
- むしろバルディリスが移籍して来なかったと思う。
- 2013年に中日からブランコを獲得することもなかった。
- 藤井秀悟は人的保障ではなく巨人を戦力外となったところをDeNAが獲得しその後は史実通り、か?
- 性格を考えると中畑監督との対立が起きそうではある。
- 史実通りの成績ならば2014年~2015年辺りに放出されていた可能性が高い。
- 横浜で現役を終えられていれば、背番号25は横浜ナンバーとして準永久欠番になっていた。
- 場合によっては2020年シーズンから二軍監督に就任していた。
やらわ行[編集 | ソースを編集]
山口俊(横浜)[編集 | ソースを編集]
- 7月11日の30歳の誕生日に東京都内の病院で傷害と器物破損の疑いで書類送検されてることはなかった。
- 専属捕手だった高城俊人の出場機会は史実より増えていた。
- 上手くいけばオリックスにトレードされることもなかったかもしれない。
- 2019年シーズンは横浜がセリーグを制覇し、筒香嘉智とともにメジャー挑戦を表明していた。
山崎武司(中日)[編集 | ソースを編集]
中日の主砲として活躍した山崎武司も、2002年は年齢的な衰えや山田久志監督との対立から散々な結果に終わり、同年オフに平井正史とのトレードでオリックスに放出されました。もしこのトレードが無かったら?
- 共通事項
- 平井は無償トレードで中日に移籍して史実通り復活。
- もしくはそのままオリックスでくすぶっていて、分配トレードで楽天に行っていたかも。そして、野村再生工場で復活。
- 楽天は2007年も最下位脱出できず、その年限りで野村監督退陣。
- 復活編
- 2003年は山田監督がクビになってから打ちまくり、翌年落合博満監督のもと復活。史実での楽天時代の成績と同程度の成績を残す。
- 当然同年の日本シリーズにも出場。中日が日本一になっていた可能性も。
- そうなった場合、タイロン・ウッズの獲得はなかっただろう。その場合は阪神辺りに移籍。
- 山崎が一番慕う人間はノムさんではなく落合になっていた。
- 著書の題名は『落合監督に教わったこと』。
- そのまま引退編
- 結局山田監督解任後も復活できず、寂しく引退。在名テレビ局の解説者に。
- もしくはそのまま中日の打撃コーチに。
- 結局楽天に放出編
- 結局上記と同じく結果を残せず、2004年オフに自由契約。その後は楽天に移籍し史実通り。
- 他球団に放出編
- 彼は立浪派とも対立してたようだけど、あそこで残留しても落合監督ともうまくいかない気がするなぁ・・・。
- ファンの間でもチャンスに弱い、打率や打点が低いと割と不評だったし、いずれ放出されてた気もする。
- もっとも、史実の楽天山崎武司はチャンスに強いと評されていたように、クラッチは単なる確率の偏りだったという説が主流だけど・・・。
- 打率や打点の低さも現在のセイバーでは重要視されていないし、楽天時代は改善してたけど、それでもとにかく当時は結構叩かれてた。
- ただ、別の年度だったらあの状態の平井が取れるとは限らないし、別の球団とまったく異なるトレードをしていた可能性が高い。
- その場合、平井ほど主力張れる選手がうまく取れたとは到底思えない・・・。
- あのトレードはお互いにとって幸運なトレードだったと思う。山崎も慢心せずにすんだし、平井も環境を変えられた。
- その場合、平井ほど主力張れる選手がうまく取れたとは到底思えない・・・。
山本和範(ダイエー)[編集 | ソースを編集]
- 生卵事件はなかったか、あってもそれほどの大騒ぎにならなかった。
- 登録名を「カズ山本」から本名に戻すこともなかった。
- 1999年の篠原貴行は1981年の間柴茂有以来となる勝率10割を記録した。
- 1996年のオールスターでのホームランは戦力外からの復活ではなく、本拠地開催を飾るホームランとなっていた。
陽岱鋼(日本ハム)[編集 | ソースを編集]
- 2017年の日本ハムの低迷は少しはマシになっていた。
- 2016年時点で西川遥輝がレギュラーだったため、2016年と同様の出場機会となっていた。
- 大田泰示はトレードされず巨人に残留していたか、もしくは日本ハム以外の球団にトレードされていた。
- 史実通り移籍した場合、「西川・大田・陽」のフォーメーションが形成されていた。
- 一方で2017年の巨人は…案外史実通りだったかもしれない(巨人移籍後は目立った活躍を残せずにいる)。
- 2019年に史実通り王柏融が入団した場合、今以上に日本ハムは台湾での人気・注目を集めていた。
- 日本ハム側もノリノリで「陽岱鋼・王柏融の2大台湾の英雄」として売り出していた。
- 中田翔の暴力事件が起きなかった可能性が高い。(主力ベテランを放出したことも一因らしい)
吉永幸一郎(ダイエー)[編集 | ソースを編集]
- 城島健司の台頭後、本格的に一塁コンバートされた。
- 松中が早く外野転向、外国人選手の運用にも影響があった。
- 一塁とDHが松中・吉永で埋まる場合、守備下手な外国人はいらないとして、中日アレックスのようなタイプの外国人をスカウトする方針だったかも。
- ミッチェルやバークハート、ズレータはいないか、一軍に上がれなかったかも。
- ただし、ズレータは三塁予定だったのでいた可能性がある。史実通り吉永が2003年に故障していれば、そのままポジションを奪われて引退だったかも。
- それでも引退まで2,3年延命できた可能性がある。
- ただし、ズレータは三塁予定だったのでいた可能性がある。史実通り吉永が2003年に故障していれば、そのままポジションを奪われて引退だったかも。
- ミッチェルやバークハート、ズレータはいないか、一軍に上がれなかったかも。
- 一塁とDHが松中・吉永で埋まる場合、守備下手な外国人はいらないとして、中日アレックスのようなタイプの外国人をスカウトする方針だったかも。
- 当時の成績や捕手をあきらめることによる守備負担の軽減、2001-2004年のパリーグがやたら飛ぶボールで超打高環境だったことを考えると、20本塁打がまだ打てたかも。
- 下手すると30本打って、国産30本クインテットを達成した可能性もある。
- 大道の放出が史実より早まっていた可能性もある。
渡辺直人(楽天・横浜・西武)[編集 | ソースを編集]
- 2011年以降も楽天に残留していたら
- 内村賢介のDeNA移籍が史実よりも早まっていた。
- その場合、交換相手は藤田一也ではなく他の選手だった。
- 長田秀一郎(DeNA→西武のトレードの交換相手)はDeNAに移籍せずに西武一筋で現役を終えていた。
- 史実通り楽天が2013年に優勝→日本一となった場合、彼も優勝経験を手にしていた。
- 藤田一也ではなく彼が二塁でゴールデングラブ・ベストナインに輝いていたかも。
- 案外史実よりも早く引退し、球団史上初の生え抜き監督に就任していたかもしれない。
和田一浩(西武)[編集 | ソースを編集]
- 2008年のリーグ優勝と日本一に貢献していた。
- カブレラ退団後に4番に抜擢されていた。
- 3番中島、4番和田、5番中村剛の強力なクリーンアップが機能し、史実よりも2位以下に差をつけて優勝していた。
- 中日は2010年、2011年に優勝できなかった。
- それ以前に2008年にBクラスに転落し、落合監督の退任も早まっていた。
- ただ、後任は高木守道ではなかったかも。
- その代わり、広島がAクラス入りしていたかも。
- 暗黒時代の到来も早まっていたかも。
- 代わりに2010年は阪神か巨人、2011年はヤクルトが優勝していた。
- それ以前に2008年にBクラスに転落し、落合監督の退任も早まっていた。
- 2010年の西武はマジック4から最終盤で失速し、優勝を逃すことはなかった。
- 史実の中日での成績を考えれば、ホームランの出やすい西武ドームでは、3割40本100打点を達成できていた。
- 本塁打王のタイトルも獲得できていた。
- このときにパ・リーグMVPに選出されていた。
- 史実の中日での成績を考えれば、ホームランの出やすい西武ドームでは、3割40本100打点を達成できていた。
- 晩年は中村剛也に4番の座を譲るも、DH制を活用し、史実通り2015年に2000本安打を達成して引退していた。
- 西武一筋での達成となっていた。
- 引退後、西武で打撃コーチや監督に就任していた。
関連項目[編集 | ソースを編集]
もしあのプロ野球選手があの球団に残留していたら |
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あ~こ/さ~の/は~わ |