もしあのプロ野球選手が現実以上に活躍していたら/さ~な行
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鳴り物入りでプロ入りしたけれどあまり活躍できなかった選手、あるいは短い期間しか活躍できなかった選手、はたまたプロ野球選手を辞めたあと他のスポーツなどで活躍した選手が、もしプロ野球選手として成功していたらどうなったかを考える。
- 新たに追加される場合は登録名の50音順でお願いします。
- 日本国外のプロリーグ含め、野球選手として現役を引退している人物限定で。
- 外国人選手はもしあのプロ野球選手が現実以上に活躍していたら/外国人選手へ。
さ[編集 | ソースを編集]
齊藤悠葵[編集 | ソースを編集]
- その名前から現実以上に「赤いハンカチ王子」と話題になっていた。
- 彼にちなみ、マツダスタジアムで赤いハンカチが売られるようになった。
- 日本ハムとの交流戦で「さいとうゆうき対決」が一度は実現していた。
酒井圭一[編集 | ソースを編集]
- 1980年代のヤクルトはもう少しまともな成績を残していた。
- 投手陣が尾花高夫・梶間健一に頼り切りになることはなかった。
- 2009年ドラフトでヤクルトは今村猛を指名していたかもしれない。
- 2012年現在も「サッシー」といえば「指原莉乃」ではなく彼の事である。
- 「サッシー」なら酒井で「さっしー」なら指原という、ロッテの「マーくん」と田中将大の「マー君」ぐらいややこしい使い分けを迫られたりして。
- 同年のドラフト1位である佐藤義則(阪急)や斉藤明夫(大洋)といい意味で比較されていた。
作道烝[編集 | ソースを編集]
- 張本勲、大杉勝男とクリーンナップを打っていた。
- 「5者連続本塁打の打者のうち、最初の一人である彼だけが実績の乏しい全くの無名選手」とか言われることもなかった。
佐久間浩一[編集 | ソースを編集]
- 右肘故障がなければ、松井秀喜級の打者になっていてもおかしくなかった。
- 高校時代は「西の清原、東の佐久間」と言われたほどの素質。
- そもそも体が万全なら、ドラフト4位など有り得ないが。
- 高校時代は「西の清原、東の佐久間」と言われたほどの素質。
桜井広大[編集 | ソースを編集]
- 2007〜2010年のどこかで阪神が優勝出来ていた。
- 上手くいけば2020年現在も阪神でプレイしている。
- 最低1度はホームラン王を争っていた。
- 1軍デビュー〜ブレイクが早まっていた場合、外野を守る外国人選手の数人は入団しなかったかも。
- 彼と入れ違いに伊藤隼太をドラフトで指名しなかった。
- 現実通り指名したとしても別の背番号を付けている。
佐々木貴賀[編集 | ソースを編集]
- 絵が上手いプロ野球選手として木田優夫より先に注目された。
- 現在もプロ野球関係のイラストを描き続けていた。
- 金村曉やカルロス・ミラバルらと先発ローテを守っていた。
- 守護神になってた場合は北の大魔神の異名をもらっていた。
佐々木信也[編集 | ソースを編集]
- 1960年のオリオンズ優勝の原動力となっていた。
- プロ野球ニュースのキャスターにはなっていなかった。
- プロ野球の存在自体も現実よりマイナーになっていたかも。
- それでプロ野球自体がマイナーということは無いと思うが、パリーグの人気低迷は史実以上に続き、1リーグ化されていたかも。
- 彼(佐々木氏)をアナウンサーと勘違いする人が多くならなかった。
- プロ野球の存在自体も現実よりマイナーになっていたかも。
定岡正二[編集 | ソースを編集]
- 江川・西本・定岡の三本柱による巨人黄金時代を築いた。
- 引退が遅れており上手くいけば長嶋監督が復帰する頃まで居続けていたかも。
- 引退後もバラエティ番組で弄られることなんてありえない。
- 近鉄へのトレードも話にすら挙がらなかった。
定岡卓摩[編集 | ソースを編集]
- 堂上直倫や黒田博樹らと並び二世選手として称される存在になってた。
- 千葉ロッテ移籍後にブレイクに成功した場合、宮地克彦や田上秀則らと並び、リストラの星として称される存在になってた。
- 場合によっては鈴木大地や角中勝也などのブレイクが遅れていたかもしれない。
- 楽天移籍後にブレイクした場合は、茂木栄五郎や島内宏明のブレイクが遅れていたかもしれない。
佐藤勇[編集 | ソースを編集]
- ポスト菊池雄星として西武の左のエースになっていた。
- 大谷世代(1994年度生まれ)が「ライオンズにとっては空白の世代」と言われることもなかった。
佐藤剛士[編集 | ソースを編集]
- 前田健太や野村祐輔らと三本柱になっていた。
- 交流戦で涌井秀章やダルビッシュ有との対決が実現した。
- メジャーに移籍していたかもしれない。
佐藤吉宏[編集 | ソースを編集]
- 今でもスーパーゴリの愛称で親しまれている。
- 現実に一軍で打ったホームランはエース級の投手からのものだったのでエースキラーと呼ばれていたかもしれない
- なのでウルトラマンエースのエースキラーとコラボされてた。
- 場合によっては陽岱鋼や糸井嘉男のブレイクが遅れていたかもしれない。
實松一成[編集 | ソースを編集]
- 高橋信二はブレイクしないまま、他の球団へトレードされてた。
- 巨人移籍も早まってたかもしれない。
- 岡島秀樹との交換トレードのときは實松の代わりに高橋信二がトレードに出された。
- 小笠原道大の巨人移籍後は高橋信二ではなくて實松か鶴岡が背番号2を継承していたかもしれない。
- 鶴岡慎也もブレイクが遅れていたかもしれない。
- 場合によってはソフトバンクへ移籍しなかったかもしれない。
- 巨人移籍も早まってたかもしれない。
- 日本ハムの背番号40は広島同様に捕手のイメージが強くなってたかもしれない。
澤井良輔[編集 | ソースを編集]
- 元銚子商業高校の強打者として史実以上に注目された。
- 2000年代前半までにレギュラー定着した場合初芝清は史実より早く引退していた。
- 2000年代のロッテはAクラス入り回数は史実よりも増えていたかもしれない…
- 引退後は沢井製薬のCMに出演していたかも?
し~そ[編集 | ソースを編集]
忍全功[編集 | ソースを編集]
- その珍しい苗字がいろいろなところでネタにされる。
- その女性の名前のような苗字から、太平洋クラブ時代にチームメイトの真弓明信・若菜嘉晴と揃って「お前らキャバレーか!」と野次られたことが現実以上に語り草となっている。
芝草宇宙[編集 | ソースを編集]
- 元帝京高校のエースとして史実以上に注目された。
- 引退まで日本ハムでプレー。
- その場合、八木智哉の背番号は史実と異なってたかもしれない。
- 宇宙兄弟とコラボされてたかもしれない。
- スター☆トゥインクルプリキュアにゲスト声優として出演していたかもしれない。
- 宇宙戦隊キュウレンジャーにもゲスト出演していたかもしれない。
- 仮面ライダーフォーゼには野球部の監督役としてゲスト出演していたかもしれない。
島野修[編集 | ソースを編集]
- スーツアクターにはならなかっただろう。
- その結果普通の一流選手として終わり、特に取り上げられるようなこともなかったかもしれない。
- ブレービーの知名度と人気も現実ほどじゃなさそう。
- 阪急への移籍も無かった。
清水章夫[編集 | ソースを編集]
- オリックスへの移籍はFAでの移籍だったかもしれない。
- 史実より長く日本ハムに残留していた場合、中村泰広の背番号が異なってた。
- 清水優心の日本ハム入団後は、日本ハムの田中や武田、ロッテの小林または清水などどちらかを思い出すかが分かれると話題なっていた
- 98年の日ハムは優勝していたかも
條辺剛[編集 | ソースを編集]
- そもそも、肩を故障してなかったらの話ではある。
- 巨人のストッパーとして活躍していた。
- ダン・ミセリは来日せず、クルーンも横浜退団後巨人が獲得してたかどうかも怪しい。
- したがって、堀内監督時代の巨人の成績も優勝できなかったとしても史実より相当ましな物になっていた。
- うどん屋を開業させる事はなかったかもしくは遅れていたかも?
- おそらく引退時期にもよるが巨人のコーチや裏方、ないしは解説者になっていたかもしてない
- 結婚相手も別人だった可能性もある
白仁田寛和[編集 | ソースを編集]
- 中継ぎエースに定着できていた。
- 1軍デビューが早まっていた場合、榎田大樹の指名がなかった。
- あるいは榎田のブレイクが遅れていた。
- 桑原謙太朗とトレードで移籍することもなかった。
- そうなれば2017年に2位になれたか怪しくなる。
- 1軍デビューが早まっていた場合、榎田大樹の指名がなかった。
- 篠田麻里子(元AKB48)と高校の同級生だったことが現実以上に有名になっていた。
杉浦三六[編集 | ソースを編集]
- 息子の太陽とタカオの芸能界入りが大きな反響を呼んだ。
- ウルトラマンコスモスや劇場版仮面ライダーブレイドにもゲスト出演できたかもしれない。
- 杉浦忠との杉浦対決が実現した。
- 暴力団と関わりを持つこともなかった。
- 多額の借金をすることもなかった。
- 亡くなった時には多くの悲しみの声が続出した。
杉浦忠[編集 | ソースを編集]
- 200勝どころか、300勝も達成し、名球会にも入会していた。
- 南海は、1962年、1963年、1967年、1968年も優勝し、1961年から8連覇を達成していた。
- その分阪急の優勝回数は減っていた。
- 飯田徳治は、1年で監督を辞任せず、野村克也兼任監督誕生は遅れていた。
- 2リーグとなって初の最下位になったのは、1969年ではなく1978年だった。
- もしかしたら監督時代の成績も現実以上にマシだったかも。王さんよりも先にホークスの連続Bクラスを止めていた。
- そうなれば身売り・移転後初の優勝が早まった。
鈴木尚広[編集 | ソースを編集]
- 赤星憲広と最多盗塁を争っていた。
- 松本匡史の記録を更新している。
- オールスター出場も早まっていた。
- 川藤幸三と比較されることもなかった。
- スタメン出場は増えており「代走職人」という言葉はなかったか。
鈴木将光[編集 | ソースを編集]
- 丸佳浩か松山竜平ののブレイクが遅れていた。
- 鈴木誠也がレギュラーを取るまで残留していた場合、外野に鈴木という苗字の人が二人いたことで話題になってた。
関口雄大[編集 | ソースを編集]
- 横浜育成選手第1号として称される存在になってた。
- 日本ハムへのトレードはなかったかもしれない。
- そうとなれば梶谷隆幸か荒波翔のブレイクが遅れていた。
- 日本ハム移籍後にブレイクしていたら、陽岱鋼のブレイクが遅れていたかもしれない。
- 稲葉篤紀の一塁へのコンバートも早まってたかもしれない。
- 大学時代はアメリカでもプレーしてたこともあってメジャー挑戦もしていたかもしれない。
- 初の育成出身打者メジャーリーガーになってた。
関根裕之[編集 | ソースを編集]
- 金村曉のブレイクが遅れていた。
- カルロス・ミラバルは中継ぎのままだったかもしれない。
- 関根勤や関根麻里との共演が実現した。
- 100勝以上いってたかもしれない。
- 彼以降に47をつけた投手ももっと活躍できたかもしれない。
- 活躍できなかった場合、47は関根の預かり番号となってたかもしれない。
瀬間仲ノルベルト[編集 | ソースを編集]
- ブラジルからプロを目指す選手が増えていた。
- 外国人枠見直しの契機となったとされた。
- 「ホッシャ」への改名はなかった。
園川一美[編集 | ソースを編集]
- 毎年のように開幕投手に任命されていた。
- 当然のごとく王監督の「開幕投手には格ry」という発言もなかった。
- 10.19では近鉄打線を完璧に抑え込んでいた。
- イチローキラーとして、自分が200本目のヒットを打たれることもなかった。
た行[編集 | ソースを編集]
高木宣宏[編集 | ソースを編集]
- 大野・川口の様なサウスポーになって150勝は挙げている。
- 94年~97年の広島はすべて優勝していた。
- そして女性からの人気もよりあっただろう。
- 引退後はカープの投手コーチに。
- 高山郁夫とのトレードで西武に移籍することはなかった。
- 1985年の広島はもう少しいい成績を残していた。
- さすがに阪神をまくって優勝は無理だろうが、少なくとも9月の7連敗は回避できていた。
高森勇気[編集 | ソースを編集]
- DeNA買収直後の時点で一塁か左翼のレギュラーを張っていた。
- 筒香嘉智は村田修一の後釜の如く三塁で定着。
- この場合、宮崎敏郎は石川雄洋らと二塁を争っているか一塁にコンバートされ、ホセ・ロペスは獲得されなかった。
- そもそも宮崎がDeNAにドラフト指名されているかも微妙。
- この場合、宮崎敏郎は石川雄洋らと二塁を争っているか一塁にコンバートされ、ホセ・ロペスは獲得されなかった。
ダース・ローマシュ・匡[編集 | ソースを編集]
- ダルビッシュ2世の呼び声は史実以上に高かった。
- 現実以上にダルビッシュと比較されていた。
- ダースのCM出演のオファーもあった。
- インドからプロ入りする人も出てきたのかもしれない。
- 上手くいけばインドの野球リーグも設立されたかもしれない。
- 斉藤和巳ファンってこともあってソフトバンクに移籍していたかもしれない。
丹波健二[編集 | ソースを編集]
- 90年代のロッテの成績は向上していた。
- 少なくとも1992年は最下位では無かった。
- 1998年も18連敗を記録することも無く、連敗数も半分ぐらいで止まっていた。
- 少なくとも1992年は最下位では無かった。
- ポジションが被る愛甲猛は史実より早く他球団に放出されていたかも
日月鉄二[編集 | ソースを編集]
- 珍名もさることながら「元・槍投げの選手」という異色の経歴が注目される。
- 各球団はこぞって「第二の日月」を発掘すべく別スポーツからの転向者を積極的に指名するように。
- 大半が高校の同期であるMr.Childrenのメンバーとの対談が実現していた。
田中宏和[編集 | ソースを編集]
- 「田中宏和運動」の皆さんはもっと盛り上がっていた。
- 本人も「野球の田中宏和」として参加していた。
田中良平[編集 | ソースを編集]
- 同じく北陸三羽ガラスと呼ばれた内海哲也との投げ合いが見られた。
- 弟の靖洋とチームメートになれたのかもしれない。
- メジャー移籍はFAかポスティングでの移籍だったかもしれない。
田中良平[編集 | ソースを編集]
- 同じく北陸三羽ガラスと呼ばれた内海哲也との投げ合いが見られた。
- 弟の靖洋とチームメートになれたのかもしれない。
- メジャー移籍はFAかポスティングでの移籍だったかもしれない。
種田仁[編集 | ソースを編集]
中日時代1993年にフル試合出場以降2000年にガニマタ打法で復活するまでケガと不振で苦しんでました。もし1994年以降の不振期に活躍できたなら
- セカンドに再コンバートは当分なかった
- 97年オフに背番号1の剥奪はなかった
- 種田がショートのレギュラーのままなら久慈の獲得はないので福留の背番号は6だった
- ガニマタ打法に変更しなかった
- 笑ってよ!!タネダくんは史実より長く連載された
- 単行本も発売された
- フリフリ!イチローくんの連載はなかったか別冊コロコロコミックで連載されてた
- 1994年の中日は優勝できた
- 10.8決戦は当然ない
- 鳥越は史実より早くダイエーにトレードに出されていた
- プロ野球脱税事件に関与しなかった
- 李鍾範の獲得はなかった
- 大豊、矢野とのトレード相手は久慈以外の選手になっていた
- 桧山あたりかも
- 福留はルーキーイヤーから外野にコンバートされていた
- 井端も外野手としてレギュラーを獲得していたかも
- 2001年に横浜にトレードされなかった
- 波留は横浜のまま引退、山田博は金銭トレードで横浜に移籍していた
辻内崇伸[編集 | ソースを編集]
- 杉内がFAで来る事はなかっただろう。
- 松本竜也の入団は無かった。
- 松本は横浜に入団していた。
- だから、松本が野球賭博に染めることはなかった。
- トレードで他球団で活躍していた。
- 同級生の平田良介との対決が見れた。
- 女子プロ野球埼玉アストライアの監督を務めることもなかった。
- 母校である大阪桐蔭と巨人の関係が悪化することもなく、ドラフト指名もできていたかもしれない。
辻本賢人[編集 | ソースを編集]
- 中卒に門戸を開く見直しがあった。
- 彼以外にも中卒でプロ入りする選手が何人も出ていた。
- 彼の影響を受けて高校進学を待たずにプロを目指す人が多くなるかも。
- 野球漫画のシナリオにも影響しそう。
- 多くのチームが中卒選手を育成枠で「白田買い」するケースが続出していた。
- 下手したら野球のユースチームもできていた可能性も。
- 囲い込みが一層強まっていた。
- 最年少記録を樹立すれば大々的に報じられた。
- 多少の下積みがあっても異色の経歴と注目された。
- 数少ない昭和64年生まれとして現実以上に話題になっていた。
- 同じ生年月日のプロボクサー・亀田大毅と対談したりして。
蔦文也[編集 | ソースを編集]
- 東映初期の先発ローテーション投手として活躍した。
- 現役引退後は東映の投手コーチとなり、水原監督の下での日本一に貢献していた。
- 池田高校が有名になることはなかった。
- 高校野球が金属バットになっても、攻撃野球を志向する学校はなかった。
円谷英俊[編集 | ソースを編集]
- 育成契約はなかった。
- セカンドなら脇谷亮太、藤村大介のブレイクが遅れていた。
- 小笠原道大の退団が早まってたかもしれない。
- 村田修一の獲得はなかったかもしれない。
- 円谷作品の応援大使を務めていたかもしれない。
- ウルトラシリーズへのゲスト出演の話が出てきた。
- ウルトラシリーズに出演していた女優と結婚していたかもしれない。
坪井智哉[編集 | ソースを編集]
- 父親の新三郎氏の知名度も高かった。
- 日ハムトレード後の復活なら長野指名はなかったか。
- 母校PL廃部、出身企業の東芝の経営難にコメントがあったか。
寺田龍平[編集 | ソースを編集]
- 札幌東西南北の高校からプロ入りする選手が増えていた。
- 青山浩二と北海道コンビで身売りを出された。
- FAで日本ハムに移籍していたかもしれない。
土井健大[編集 | ソースを編集]
- 現在もなにわのミニラという呼び名で親しまれている。
- 強打の捕手として古田敦也や森友哉などと共に称される存在になってた。
- 伊藤光のブレイクが遅れていた。
- 河合じゅんじが彼を元にした主人公の漫画を描いていたかもしれない。
堂上直倫[編集 | ソースを編集]
- 井端は史実より早く退団していた
- 荒木も引退が早まっていた
- 中日は暗黒期に突入することなく2022年の地点でもっともCSから遠ざかっている球団にならなかった
- エルナンデスの獲得はなかった
- 三ツ俣と岩崎恭平のトレードはなかった
- 背番号1を剥奪されなかった
- 2014年のドラフトで遠藤を獲得しなかった
- もし獲得しても最初から外野手として起用していた
- 京田は二塁手にコンバートされていた
- 京田が史実通り新人王が取れたら荒木は2016年に引退していた
- 亀澤はトレードに出されていた
- 阿部は外野にコンバートしていた
- 京田が史実通り新人王が取れたら荒木は2016年に引退していた
渡真利克則[編集 | ソースを編集]
- 審判への転向はなかった。
- その後グラウンドキーパーにもならなかった。
- 彼と紛らわしいという理由で、「ファミスタ」のナムコスターズに「とまり」という名前の選手は登場しなかった。
- 元ネタのゲーム名(『オーダイン』)から「おだいん」あたりの名前で登場していた。
- 1985年の阪神優勝のウイニングボールを捕った一塁手として現実以上に有名となっていた。
- 90年代には名前の似ているオマリーにちなんで「トマリー」と呼ばれていたかも。
- ダイエーへの移籍もなかった。
な行[編集 | ソースを編集]
中川申也[編集 | ソースを編集]
- ドラフト1位(萩原誠)の失敗をカバーし甲子園のアイドルに。
- 小野仁は、期待の意味で中川2世と呼ばれるようになった。
- 竹内、太陽と秋田県勢で阪神投手陣を支える。
- 後輩の摂津より先に沢村賞をとった秋田県出身投手になる。
- サブマリンの頃はセリーグのみだったので。
中川大志[編集 | ソースを編集]
- 楽天の一塁レギュラーとして定着している。
- 銀次のブレイクが遅れ、鈴木大地は巨人に移籍していた。
- 楽天の球団生え抜き選手による二桁本塁打は彼が史実より早く達成していた。
- 山崎武司退団後に背番号『7』を引き継いでいる。
- ソフトバンク戦では森福允彦、千賀滉大との同郷対決が大いに盛り上がった。
- 同姓同名の俳優との混同が史実以上に起きていた。
- 始球式で一打席勝負もあったかもしれない。
- DeNA移籍後に活躍した場合、2022年に大田泰示が移籍してきた時の盛り上がりは史実以上だった。
- 同い年の右の長距離砲、イケメン、楠本泰史含め3人の『タイシ』……話題には事欠かなかっただろう。
中川裕貴[編集 | ソースを編集]
- 落合二世の呼び名は史実以上に高かった。
- 中日の高卒ドラ1打者は活躍できないというジンクスは史実より早く破られた。
- アレックス・オチョアか福留孝介の定位置を継承した。
- 場合によっては大島洋平か、平田良介のブレイクが遅れていた。
中郷大樹[編集 | ソースを編集]
- 西武移籍後も活躍していたら
- 同年に人的補償で広島に移籍後ブレイクした一岡竜司と並び称されていた。
- 2014年以降の西武の中継ぎ陣は現実より多少マシになっていた。
- 「西武は人的補償に関しては見極めが下手」という風潮は薄まっていた。
中崎雄太[編集 | ソースを編集]
- 「画面から消える」と言われた変則サイドスロー投法がもっと話題になっていた。
- 2018年の西武がCSで敗退することはなかった。
- 日本シリーズで弟・中崎翔太との投げ合いが実現していた。
中里篤史[編集 | ソースを編集]
- 先発をしていたら朝倉健太か吉見一起、リリーフだったら浅尾拓也のブレイクが遅れていた。
- 中日の高卒ドラフト1位選手が恵まれないイメージは薄れていた。
- いや、野手がまだ…。
- 打者転向が実現していたら(実際に打診はあったものの本人が投手にこだわり拒否)糸井嘉男クラスの選手に成長していたかも知れない。
- ただ、実際に野手に転向した赤坂和幸の現状を見ると、中日にいる限りそこまで活躍できたかどうか…。
長嶋一茂[編集 | ソースを編集]
- 巨人のクリーンナップとして活躍、本塁打王等のタイトルを何度も獲得していた。
- むしろヤクルトの不動の4番として父親率いる巨人の前に立ちはだかった。
- ヤクルト黄金期と共に、飯田・荒井・古田・長嶋・広澤・池山・秦~のような打順。
- でもFA権取得後やっぱり巨人に移籍したかも。
- 1年目からレギュラーに定着していたら1996年オフに取得・公使するため、清原か広沢のどちらかは巨人入りしなかった。
- ただ才能が開花するのが野村監督になってからというのが高い。
- ヤクルトで野村監督の息子・克則と現役が一緒だった。
- ポジションこそ違えど2世同士のライバルとなって、現実以上にお互いの父親が引き合いに出されたかも。
- 父親の半分程度の、10年で1200安打200本塁打800打点ぐらいの成績を残している。
- 意外と原辰徳ぐらいの成績が残せたかも。
- ミスタースワローズと呼ばれている。
- 子供(茂雄の孫)を球場に忘れてくる遺伝子も引き継いでいる。
- ハウエルやオマリーを獲らなかったかもしれない。
- 「バカ息子」と落書きされることはなかった。
- 現実通り巨人に移籍していてもう少し長く現役を続けていたら、父親の監督勇退のセレモニーで花束を渡していた。
- 水島新司の「虹を呼ぶ男」が相撲編に路線変更せず、長期連載になっていた。
中谷仁[編集 | ソースを編集]
- 矢野燿大はブレイクできないまま、引退していたか、他の球団に再トレードされた。
- 同い年で同期の井川慶とバッテリーを組んでた。
- 楽天移籍後にブレイクした場合、嶋基宏のブレイクが遅れていた。
- 藤井彰人の阪神移籍が早まってた。
- 中谷将大の阪神入団後は、「西武の秋山」「広島の前田」みたくファンの間でどちらを思い出すかが分かれると話題になる。
- もちろん智弁和歌山の監督にならなかった。
- 阪神時代に同選手をイジメていた某投手への批判は更に高くなっていただろう。
那須野巧[編集 | ソースを編集]
- 2013年現在の年俸は契約金と同じぐらいまで上がっていた。
- さすがにそれは考えにくい。
- 横浜の成績がもう少し良くなっていた。
- 2013年シーズンはAクラスに行けていたかもしれない。
難波昭二郎[編集 | ソースを編集]
- 長嶋茂雄と共にNN砲として謳われていた。
- 王貞治と難波のいずれかが一塁、もう片方が外野を守っていた。
- あるいは1962年に西鉄移籍後、中西太の後釜として活躍。
- 名字が原因で大阪球場の南海ファンから野次が相次ぐ。
- もし南海に移籍していれば「苗字だけにホークスとの縁を感じる」という意味でネタにされている。
- 駅名繋がりで本拠地の近い近鉄ファンからも反応されていた。
- もし南海に移籍していれば「苗字だけにホークスとの縁を感じる」という意味でネタにされている。
- 名字が原因で大阪球場の南海ファンから野次が相次ぐ。
二岡智宏[編集 | ソースを編集]
- 日本ハムでも活躍できたら
- ショートだと中島卓也、サードだと小谷野栄一のブレイクが遅れていた。
- マイカ・ホフパワーの獲得はなかったかもしれない。
- 途中から代打の切り札として活躍していた。
- 引退試合は札幌ドームで行われていたかもしれない。
- 場合によっては巨人と日本ハムのオープン戦で行われていたかもしれない。
- 巨人のコーチ就任は史実通りだと思われる。
西岡剛(投手)[編集 | ソースを編集]
- 学年差が20あるので厳しいが、内野手の西岡剛と現役時期が重なっていた。
- もし2002年以降にパ・リーグの球団に所属していた場合、同姓同名対決が実現していたかも。
- チームメイトになった場合オオユキ、コユキの例が引き合いに出される。
- もし2002年以降にパ・リーグの球団に所属していた場合、同姓同名対決が実現していたかも。
二宮至[編集 | ソースを編集]
- 蓑田浩二氏が入団することはなかった。
- 1990年までにプレーしていた。
- 引退後、巨人でコーチをやっていたかもしれない。
- ただし、中日のコーチに就任したのは史実通り。
延江大輔[編集 | ソースを編集]
- 瀬戸内のランディ・ジョンソンという呼び名は史実以上に高かった。
- 育成契約はなかった。
- 最多奪三振獲得や平成生まれ初の完全試合を達成できたかもしれない。
- それでも、2023年の時点で現役を続けられていたかどうかは微妙なところだった。
- 場合によっては、トレードで他球団に放出されていた可能性もありえた。
- それでも、2023年の時点で現役を続けられていたかどうかは微妙なところだった。
- ≒もし2010年開幕直前の練習試合で大乱調していなかったらである。
- 悲願の一軍公式戦デビューも果たせていただろう。
野原将志[編集 | ソースを編集]
- 1年先輩の大和みたく、真弓〜和田監督時代に遅咲きでブレイク・定着していた。
- 「野原」姓にちなんで、「クレヨンしんちゃん」とのコラボもあったかも。
- 2023年現在も阪神で現役を続けているかもしれない。
- その場合、チーム唯一の昭和生まれの現役選手だった。
- 阪神で数少ない1988年生まれの主力選手の1人となった。
- プロ野球選手の当たり年だが,史実では阪神所属で活躍できた選手が少なかった世代である。(1991年や1994年と比べると対照的)
野原祐也[編集 | ソースを編集]
- 1軍デビューを果たした2009年に、阪神のAクラス入りを果たせた。
- 翌年以降もポスト赤星の1人として活躍し続けていた。
- マートンが1番を打たなかった。
- 藤川俊介のブレイクも遅れていた。
- 翌年以降もポスト赤星の1人として活躍し続けていた。
- その丸顔から「虎のアンパンマン」と親しまれていた。
- 阪神タイガースwomenの監督を務めるのは現実通り。
- BCリーグの評価は史実以上に高まっていた。
- どこかで支配下昇格後の94よりも軽い背番号に変更していた。
- 遅くとも史実の原口文仁の支配下デビューの頃に譲っていた。
野村克則[編集 | ソースを編集]
- 監督がノムさんから若松に変わっても古田と併用で使われていた。
- 古田引退後はヤクルトの正捕手になった。
- 相川はヤクルトへ移籍せず、メジャーに行っていた。
- 現役時代の父親のような強打者になって、背番号1(若松、池山の背番号)をもらっていた。
- サッチーが史実よりも更に活発にメディアに顔を出している。
- 野間口もヤクルトに入団。
- 弱肩の正捕手として村田真一とたびたび比較されてた。
- 大物選手を父に持つ二世選手同士として、ヤクルトの先輩でもある長嶋一茂と良い意味で比較されていた。
- 2010年代にヤクルトの監督に就任した。
関連項目[編集 | ソースを編集]
もしあのプロ野球選手が現実以上に活躍していたら |
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あ~こ/さ~の/は~わ |