もしあのボクシング団体が○○だったら
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AIBA[編集 | ソースを編集]
プロ参加を全面的に認めていたら[編集 | ソースを編集]
AIBAはIOCからボクシングも他競技同様プロの参加を認めるべきと忠告を受けていましたが、プロの組織(特にWBC)との関係が悪く、結局はAIBA独自のプロ制度を始めてお茶を濁しました。もし、この時にプロの参加を全面的に認めていたら?
- WBCと折り合い付けば、こうなっていた。
- AIBAがWBCを吸収した。
- これを機に主要4団体も一気に統合された。
- APBやWSBはもちろん存在しない。
- 階級もプロアマで統合し、10階級前後に落ち着いた。
- ある時点での世界チャンピオンにオリンピック出場権を与えていた。
- チャンピオンは決勝にスーパーシードされ、4回戦程度で行われる。ただし、負けた場合王座移動ではなく剥奪扱い。
- AIBA世界選手権は世界王座挑戦者決定トーナメントに変わる。
- 村田諒太が日連と揉めることもなかった。
- 清水聡もサスペンドされることはなかった。
- 多くの国でプロ容認派と反対派で揉めていた。最悪の場合は分裂も。
WBA[編集 | ソースを編集]
分裂しなかったら[編集 | ソースを編集]
- 世界チャンピオンの威厳が保たれていた。
- 東洋太平洋王座はなくパンアジア王座になっていた。
- それか東洋太平洋連盟が引き続きWBA傘下のまま。
- 日本人世界王者は現実の半分以下に。
- 複数階級制覇ブームは無かった。
- 独占状態によるジャンルの早期衰退、或いはまったく異なる認定組織が誕生していたかも知れない。
- 上記に起因してプロモーターの巨大化が起こらず、マイナースポーツに留まっていた。
- でも、アマチュアとの連携が強まり、プロアマ双方の活性化が図られた可能性もあった。
- オリンピックのプロ解禁も90年代には実現していた。
WBC[編集 | ソースを編集]
破産していたら[編集 | ソースを編集]
WBCは2004年に、組織の存続を念頭に置かない破産の手続きに入っていたが、その後手続き中止となり存続となりました。もし破産手続きが成立していたら・・・
- 当然、当時のWBC王者は王座を返上。その後のWBC王者も生まれていなかった。
- メジャータイトルが一つ減るので、ボクシング界は大騒ぎどころじゃない。
- JBCはWBCに代わってIBFに加盟していた。
- WBAは危機感を募らせ、権威を取り戻そうと必死になる。
- 暫定王座制度全廃。スーパー王座厳格化。
- (少なくとも日本では)WBCと言えば9割方ワールドベースボールクラシックを指していた。
JBC[編集 | ソースを編集]
戦前から存在していたら[編集 | ソースを編集]
JBCが設立されたのは1952年ですが、プロボクシング自体は戦前から存在してました。
- 歴代日本王者も戦前からカウントされた。
- 認定組織も統一されている。
- 日本人初の世界王者も白井義男より以前の選手だったかもしれない。
- 世界王座認定組織における日本の発言力も史実以上だった。
- 場合によってはWBC分裂時にWBA脱退もありえた。
- 高築正子の帰国に合わせて女子解禁も検討された。
- 遅くとも20世紀中には解禁していた。
- 歴代コミッショナーは主に政治家が務めていた。
- 後楽園ホールは建設されず、芝スポーツセンターの日活による買収を防いでいたかもしれない。
- JBCとは別にJPBAが存在することもなかったと思う。
- ジムを設立するにはJBCオーナーライセンス取得後に届け出るのみ。
- 2015年までに日本ボクシング殿堂が設立されていただろう。
- 組織名は全日本ボクシング協会コミッション委員会だと思う。
- 戦前のプロボクサーのオリンピック出場もなかった。
IBF・WBOをもっと早く認めていたら[編集 | ソースを編集]
- 世界挑戦の機会が増えるので、日本人世界王者も増加する。
- 「悪夢の21連続世界王座挑戦失敗」もなかっただろう。
- 亀田興毅は2007年にIBFフライ級王座に挑戦していた。
- それでも和毅のWBO世界王者挑戦は史実通り。
- それは無い、2007年時のIBFフライ級王者はダルチニアンとドネアの有名ボクサーが王者だったからな。
- 新垣諭が歴代王者にカウントされ、後楽園ホールにパネルが飾られていた。
- IBF日本は誕生しなかった。
- 高山勝成が海外に行くこともなかった。
女子プロボクシング解禁が○○だったら[編集 | ソースを編集]
日本ボクシングコミッション(JBC)が女子解禁に踏み切ったのは2008年でしたが、もし違った展開になっていたら…
史実より早く解禁していたら[編集 | ソースを編集]
- いうまでもなく日本の女子世界チャンピオンは史実より多かった。
- 1980年代までに解禁されていら、世界王者が女子のみの期間があった可能性も。
- 1990年代までの解禁なら、JWBCは存在しなかった。
- 1990年代前半までなら山木は関わらなかった。
- 東洋太平洋の女子部は史実より早くできていた。
- キックボクサーなどからの転向は著しく減っていた。
- 公式に認められる世界タイトルはWBA・WBCにWIBFといったところか。
- 風神ライカの3階級制覇はあったかどうか。
- 菊地奈々子は国内でWBCを奪取していた。
- 猪崎かずみら高齢女子ボクサーは誕生しなかった。
- 小関桃は国内でプロデビューしていた。
- ひょっとすると武道館のメインを張る女子ボクサーが現れたかもしれない。
- 解禁時期
- 1950年代
- 1950年11月19日、広島での石倉節子対菅間和子戦の内容次第でJBC設立とともに解禁。
- おそらく世界初の女子プロボクシングだった。
- 1970年代
- 高築正子の第1号認定がきっかけ。
- 「激突!女子格闘技大戦争」でボクシングが組まれることはなかった。
- 1980年代
- きっかけは女子格闘技大戦争の打ち切り。
- 山木が「女子キックボクシングはあるのになぜ女子ボクシングはないのか」と言うことはなかった。
- 1990年代
- 山木がボクシングに転じてJBCに訴えを起こしていたらこうなったかもしれない。
- 2000年代前半
- きっかけはシュガーみゆきの世界王座獲得。
- JWBC創設の代わりに公認。
JWBCを残したままだったら[編集 | ソースを編集]
JWBCを管轄していた山木ジムはJBCへの参加に難色を示していましたが、特例で協会加盟料を免除にするなどして参加に至りました。もしJBCに参加せずJWBCを継続していたら…
- 女子プロボクシング界は2団体に分裂していた。
- JBCの年齢制限条件付撤廃もなかった。
- JWBCの選手のうち、JBCジム所属者以外は残留。
- JBCの資格を満たせない者もJWBCに流れた。
- キックなどの兼業選手も多かった。
- 山木ジムは移転しなかった。
- 言うまでもなくキック兼業のまま。
- でも、遅かれ早かれいずれ統合していただろう。
JWBCを吸収していたら[編集 | ソースを編集]
解禁に当たってJWBCは最終的解散する形となりましたが、JBCあるいはJPBAが組織上吸収する形を採っていたら?
- 統合前に所属選手対象のプロテストを実施していた。
- 所属ジム及び女子ボクサーは史実より多かった。
- ただし、掛け持ち禁止は史実通り。
- JWBCはJPBA女子委員会に変わり、山木敏弘が初代委員長に就任。
- 当初より日本女子王座が存在していた。
いまだ解禁していなかったら[編集 | ソースを編集]
- 東洋太平洋の女子部もいまだにない。
- 猪崎かずみがタイに渡ることもなかった。
- 小関桃はいまもタイで活動。
- 小関以外にも海外でプロになった選手は少なからずいただろう。
- 富樫直美、藤岡奈穂子らはアマチュア定年を迎えてJWBCでプロデビュー。
- 多田悦子らはロンドン五輪を目指していた。
- 安藤麻里、黒木優子らもアマチュアで活動していた。
- 高野人母美はアマに残ってリオを目指したか、ロンドンを絶たれた時点で引退した。
- 女子アマは活気づいていただろう…か?
- 場合によってはロンドン五輪に日本代表を送っていたかも。
- 大橋秀行が東日本協会会長にならなかったらこうなった可能性もあった。
分裂していたら[編集 | ソースを編集]
事務局長を務めていた人物の不正経理が発覚した際、事務局長代行の辞表を巡り分裂危機と報じられたことがありました。その際には辞表提出には至らず危機は回避されましたが、もし提出され受理されていたら?
- ほとんどの関係者やジムが新組織に移り、JBCは一気に弱体化。
- 新組織は何て名前になっていたか?