もしあの人が健在だったら/プロレスラー
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日本[編集 | ソースを編集]
青木篤志[編集 | ソースを編集]
- 現在でも全日本で若手選手のコーチ役を務めていた。
- 世界ジュニアのベルトが団体外に流出することもなかった。
- 秋山のDDTレンタル移籍も無かった…かもしれない。
阿修羅・原[編集 | ソースを編集]
- 天龍源一郎の引退試合に駆けつけていた。
- もしかしたら龍原砲が再復活していたかも…。
- これは大日本の小鹿会長が龍原砲復活計画があったことを、原の死後に明かしたので。
- もしかしたら龍原砲が再復活していたかも…。
- 2015年と2019年のラグビーワールドカップの際には何らかのコメントを出していた。
ジャイアント馬場[編集 | ソースを編集]
- 全日本プロレスが分裂することはなかった。
- 日本テレビとの関係も一層強くなり、地上波のテレビ中継から撤退する事もなかっただろう。或いはBS朝日の『ワールドプロレスリング・リターンズ』に対抗して、『全日本プロレス・拡大版』をBS日テレで土曜の夜8時あたりに放送していたかもしれない。
- プロレスリング・ノアは誕生していない。
- 仮に分裂していたとしても、武藤に乗っ取られたり新日と手を組むことはなかった。
- 夫婦で隠居して鶴田か三沢に円満譲渡できていた。
- 「生涯現役」を掲げてリングに立ち続けるが、体力の衰えに比例して出場回数は減っていた。
- フォールのカウントがさらにゆっくりに……。
- それと反比例するように、タレント活動はどんどん増えていただろう。
- アルビレックス新潟ホーム開幕戦での「十六文始球式(キックイン)」が恒例になる。
- それよりも新潟アルビレックスBCホーム開幕戦での始球式のほうが可能性が大きいかと。
- 男子プロバスケットボールリーグの新潟アルビレックスBBのホーム開幕戦に呼ばれて、始球式を務めていたかも…。(身長も2m以上あったから、そっちの方が可能性が高い)
- アルビレックス新潟ホーム開幕戦での「十六文始球式(キックイン)」が恒例になる。
- ジャイアント小馬場の芸を目の当たりにし、笑いながらも内心ムッとしているかも。
- IGFで「禁断の対決」が実現したかも知れない。
- 猪木も「馬場がやるなら」と一夜限りの現役復帰。
- 一方の馬場も「一区切りがついた」とこれを引退試合にしたかも。
- 猪木も「馬場がやるなら」と一夜限りの現役復帰。
- どのような形にしろ、BI砲の再現が見られた。
- ココナッツを使ったスイーツのイメージキャラクターに。
- 故郷の新潟で野球チームを旗揚げしていた。
- アサヒ飲料の缶コーヒー「WONDA(ワンダ)」のCMで、桑田佳祐と実際に共演がされていた。(現実は合成による共演。)
- ただ現実として、馬場さんは素人にプロレス技をかけるという行為を好んでいなかったので、別のスタイルでの共演になっていたかも。
- ハッスルにスペシャルゲストとして参戦してたかも。
- いや、馬場さんはああいうスタイルを認めていなかったから、ハッスルの顔ぶれが相当変わっていたか、ハッスル自体がなかったと思う。
- 趣味の絵画も作品数が増え、何度となく個展が開かれる。
- 二科展にも何度か入選する。
- もちろん関根勤のモノマネは封印されず、さらには娘の麻里にもモノマネされている。
- 三菱トッポ(ekベース)のCMキャラに再びなっていた。
- ジャンボ鶴田の葬儀で弔辞を読んでいた。
- 毎年オフ恒例の「巨人阪神OB戦」にジャイアンツのピッチャーとして参加。
- プロ野球マスターズリーグにも参戦していたかも。
- 映画(実写&アニメ)「進撃の巨人」の宣伝にオファーされていたかもしれない。
- 篠原信一と巨人の親子役で「スパワールド」のCMに出演していた。
- 逸見・山城も健在だったら、日テレ開局60年となる2013年に『クイズ世界はshow by ショーバイ』が限定復活したかも。
- 大の「水戸黄門」ファンということもあり、2011年の地上波でのレギュラー放送終了を残念がっていたものの、2015年のスペシャル版の放送や、BS-TBSで2017年に放送された武田鉄矢主演の新作の放送を大いに喜んでいたことだろう。
- 2004年10月23日に新潟県中越地震が発生した際、被災者にエールを送っていた。(馬場さんの出身地は新潟県であるため)
- 上越新幹線のE1系引退時にゲストとして招かれ、燕三条駅でホームから2階席の乗客に向けて手を振った。
- 2011年に起きた全日の暴行事件に史実よりももっと厳正に対処していた。そもそも起きなかった可能性も。
ジャンボ鶴田[編集 | ソースを編集]
- 後に三沢光晴と共にプロレスリング株式会社ノアを旗揚げし、自身はスタッフとして参加。
- ○子を追放して全日本プロレス分裂を防いでいた。
- 同郷のよしみで武藤敬司を歓迎した。
- あるいは大学教授となってレスリング部の指導に当たっていた。
- 教え子がオリンピックに出場したときにはアニマル浜口並みにマスコミ露出が多くなっていた。
- 「気合いだ~!」のごとく「オー!」が流行語になっていた。
- 教え子がオリンピックに出場したときにはアニマル浜口並みにマスコミ露出が多くなっていた。
- それでも藤波辰爾との対戦は実現しない。
- 一騎打ちは難しいかもしれないが、2001年10月に開催された新日本の東京ドーム大会のエキシビジョンマッチでは、史実通り前年に引退したとしても、「一夜限りの復活」を果たし、藤波とタッグを組み、恩師でもあるザ・ファンクスと戦っていた。(史実における藤波のパートナーは、ボブ・バックランド。)
- 「鉄人」から受け継いだ技をまた誰かに継承していた。
- レスラーとしては引退し、菅直人の誘いで民主党から出馬していたかも。
- 衆議院に当選した場合、同じ元レスラーで自民党所属の馳浩議員との舌戦が名物となっていた。
- もしくは山梨県知事選に出馬していたかも。
- 衆議院に当選した場合、同じ元レスラーで自民党所属の馳浩議員との舌戦が名物となっていた。
直井敏光[編集 | ソースを編集]
- NOWはもう少し持ちこたえていた。
- 大日本プロレス旗揚げもない、もしくは遅れていた。
橋本真也[編集 | ソースを編集]
- 今なお「ハッスル」を主戦場としていた。
- 2007年よりIGFに移す。
- 新日か全日のどっちかで「闘魂三銃士興行」が実現していた。
- 小池栄子と坂田亘の婚約発表を見て「俺がくっつけたんだぜ!」と自慢しまくっている。
- 今度こそ適切な場面で「時は来たー、それだけだ。」と言えた。
- それでも蝶野は笑ってしまう。
- 冬木弘道の未亡人と再婚していた。
- 息子である橋本大地のデビューに何らかの形で関わっていた。
- 逆にプロレスラーを目指さなかったかも。
- サントリーの缶チューハイのCMで石原さとみと共演していた。
ハル薗田[編集 | ソースを編集]
- 馬場亡き後の全日を引き継いだだろう。
- 姪に当たる石倉由加利はレスラーにならなかったかもしれない。
福田雅一[編集 | ソースを編集]
- 長州力の現役復帰はなかったかもしれない。
- 柴田勝頼も新日を退団しなかった。
冬木弘道[編集 | ソースを編集]
- 予定通り橋本真也と電流爆破マッチを決行。
- 橋本の訃報を誰よりも悲しんでいた。
- 第一線から退くものの、WEWは引き続き存続し、プロデューサーとして活躍。
- 金村キンタローが事件を起こすこともなかっただろう。
- 相変わらずの理不尽ぶりを発揮して、高山やみのるのような存在感のある外敵役であちこちに出向いていた。
- ノアマット初の本格ヒール軍団を率いていた。
- 邪道と外道も新日本ではなくノア中心になっていた。
三沢光晴[編集 | ソースを編集]
- 予定通り2009年をもって現役を引退していた。
- 「エロ社長」の封印を解放してメディアに進出し、ノアのアピールにいそしむ。
- 潮崎のシングル戴冠も無かった。
- 杉浦とマシンの抗争やノアマシン軍団の結成も無かった。
- 小橋建太の結婚発表が早まっていた。
- 結婚式で仲人を務めていた可能性も。
- 小橋の引退試合で四天王が勢揃いしていた。
- 秋山は全日に復帰しなかった。
- バーニングの他のメンバー4人(潮崎・青木・金丸・鼓太郎)も同じか。
- 2013年の小橋や田上の引退試合で解説者として出てたかも。
力道山[編集 | ソースを編集]
- 日本のプロレス界は多くの団体が乱立する「群雄割拠の戦国時代」にはならずに、「日本プロレス一強時代」が長く続いていただろう。
- 日本プロレスは、史実の「分裂の原因」となったNETテレビの参入を許す事もなく、長きに渡って日本テレビの「金曜夜8時」の枠を守り続けていただろう。
- 上記のような展開になった場合、史実の後番組である『太陽にほえろ!』は存在しなかったか、日曜夜8時からの放送になっていただろう(当時の『太陽にほえろ!』のプロデューサーが、「日曜夜8時のドラマ」を多く手掛けていた為)。
- 史実に反して『太陽にほえろ!』が日曜夜8時からの放送になった場合、テレビ朝日系で79年10月から放送が開始された『西部警察シリーズ』は、月曜の夜9時からの放送になっていただろう。
- 上記のような展開になった場合、史実の後番組である『太陽にほえろ!』は存在しなかったか、日曜夜8時からの放送になっていただろう(当時の『太陽にほえろ!』のプロデューサーが、「日曜夜8時のドラマ」を多く手掛けていた為)。
- 力道山の存命時代は、「外国人レスラー=ヒール」と相場が決まっていた。だから、前座試合以外の日本人対決や、「日本人レスラーと外国人レスラーのタッグチーム」を果たして認めていただろうか?
- 上記のような事(「日本人レスラーと外国人レスラーのタッグチーム」)や、「日本人レスラーのヒール」を認めなかった場合、史実における「日本人最凶ヒール」の上田馬之助は、ヒールに転向する事もなく、ずっとベビーフェイスのままだっただろう。
- 全日本プロレスは誕生しなかったかも知れない・・・
- 仮に馬場が力道山の考えを無視して全日本を結成したら馬場と生涯対立していただろう
- 国際プロレスも多分ない。
- 引退試合の時に全盛期のジャイアント馬場と夢の対決が実現する
- 引退後は現役時代より引き続いて実業家として活躍する傍ら、トレーナーとしても活躍。
- レジャー産業の経営者として日本でも有数の存在になっている。
- プロレスラーに「定年制」を導入し、「何歳になったら引退する」という規定を作り、引退したレスラーを彼の経営する会社に配置するという計画があってもおかしくない(実際、力道山の存命中にミスター珍は引退させられている)。
- 史実に反して上記のような事になった場合、プロレスラーが他のスポーツとは違い「選手寿命が長い」とか、「引退のない特殊なジャンル」などと世間一般から呼ばれる事はなかった。
- 史実で「生涯現役」を貫いたジャイアント馬場は体力が衰え、全力で戦えなくなった時に引退していただろう。
- 「38歳でレスラーを引退し、ハワイに移住して余生をのんびり過ごす」という人生設計が現実になっていただろう。
- 起業した会社のどれかが東証一部に上場していた。
- リキ・マンションが全国各地に建設されている。
- 格闘技界のご意見番となり、『関口宏のサンデーモーニング』にレギュラー出演し、「格闘技界の長嶋茂雄」的な存在になっていた。
- 張さんとの親交を考慮すればおかしくないが、日本テレビとの関係もあるため実現したかどうかは微妙。
- 三木道三とのコラボが実現。
- 引退後も度々トラブルを起こしていた。
- パンシロンのCMに生身の体で出演していた。
- 中継のスポンサーだった三菱電機のCMにも長きにわたり出演していた。
- 日本に帰化し、政界に進出したかもしれない。
- 朝鮮半島との関係改善に尽力している。
- 力道山の後ろ盾だった大野伴睦の後継者として中選挙区時代の岐阜1区より自民党公認で総選挙に出馬し政界入りする。
- 伴睦はデストロイヤー対力道山戦でリング上で挨拶したことがある。
- 帰化する時期は史実で伴睦が亡くなった1964年。なお史実の伴睦の後継者は伴睦の四男・大野明。
- 史実でも大相撲引退時に帰化していたはず。
- 史実では力道死去のためご破算になったアントニオ猪木の角界入りも実現したかもしれない。
- 猪木氏の角界入りが実現した場合、史実で後年彼によるクーデターや、それによる「日プロ永久追放」もなかったので、新日本プロレスも誕生していなかっただろう。
- 実際には亡くなって約10か月後に開業した東海道新幹線の車内で、何らかのトラブルを起こしていた。当然グリーン車を利用。
- 実際には亡くなって約10か月後に開幕した東京オリンピックにもゲストに呼ばれていた。
- 普通にいい席の入場券を買って一観客として撮影しながら見ているほうがそれらしい。
- 夢枕獏の小説『仰天・平成元年の空手チョップ』は執筆されなかった。
- 大の巨人ファンということもあり、同じ「在日コリアン」という事で親交の深かった金田正一氏や張本勲氏の巨人入りを大いに歓迎していた。特に金田氏の通算400勝と4490奪三振は、巨人在籍時に達成された記録なので、心から彼の偉業を祝福していただろう。
- 同じく、「在日コリアン」の力士である玉の海、三重ノ海の横綱昇進を大いに喜んでいた。
- 27歳の若さで現役中に逝去した玉の海の葬儀に駆け付け、弔辞を述べていた。
- 三重ノ海の引退相撲(断髪式)にも駆け付け、髷にはさみを入れていた。
- サザンオールスターズが1993年11月にリリースした「クリスマス・ラブ(涙のあとには白い雪が降る)」のカップリング曲である「ゆけ!力道山」は発表・収録されなかったか、仮に収録されたとしても詞の内容が変わっていた。
- 北朝鮮出身ということがタブー扱いされ続けるかどうかで運命が変わっていた。
- タブーのままなら現在でも一般的には大村出身とされていた。
- 大村市の名誉市民になっていた可能性大。
- タブーでなくなっていたら堂々と日韓・日朝交流関連に関われていた。
- 猪木より先に訪朝していた。
- 韓国のプロレスが力道山の支援のおかげでもっと盛んになっていた。
- タブーのままなら現在でも一般的には大村出身とされていた。
- 国民栄誉賞を受賞していても不思議ではない。
- 日本における女子プロレスの地位がさらに低くなっていた。
- 力道山は生前女子プロレスを基本的にプロレスの埒外に置いていた。
- ファミコンあたりで本人監修のゲームソフトが発売されていた。
- 『タイガーマスク』にも重要な人物として登場している。
- 「2」の項目にもあるが、日本プロレスがNETの参入を認めていなかったら、アニメ版はもう少し長く続いていただろう。
- ひょっとするとアニメ版では本人が声を当てていたかもしれない。
- 長谷川町子が昭和38年の時点で『サザエさん』の連載を終了していた可能性あり。
- 史実では家出先で「力道山死去」の新聞記事を見て人生のはかなさを感じ家に戻り漫画連載も無事続けられることになった。
- 日本人ヘビー級ボクサーを作るプロジェクトを続けてた場合、竹原慎二や西沢ヨシノリ、西島洋介がそこに参加して史実より早く日本人のOPBFヘビー級王者やヘビー級世界ランカーが誕生してたかも。【実際に日本人のOPBFヘビー級王者や世界ランカーが出たのは2017年(京太郎が獲得)】
- このプロジェクトが力道山存命で続いてた場合、竹原慎二なら高齢のフォアマンあたりから日本人初のヘビー級王者を獲得できたかも。
- 弟子をヘビー級世界ランカーにするために、史実より早くWBOやIBFを日本に参入させた可能性も。
- キンシャサの奇跡の対決カードがフォアマンvsアリじゃなくて、フォアマンvs猪木もしくはフォアマンvs馬場になってた。
- 馬場氏は生前、「プロレスラーは強い。だから異種格闘技戦をやる必要はない。」(生涯に一度だけ試合経験あり)と言っていたので、「フォアマンとの対決」の可能性は低かっただろう。
- 与謝野晶子とのネットミームは生まれなかった。
ラッシャー木村[編集 | ソースを編集]
- プロレスの何かのイベントに呼ばれて、マイクパフォーマンスしてたかも。
海外[編集 | ソースを編集]
アンドレ・ザ・ジャイアント[編集 | ソースを編集]
- 医師から注意を受けても、やっぱり大量の飲酒は欠かさなかった。
- プロレスラーとしての人気に陰りが出始めた頃から、日本ではバラエティ番組への出演が多くなっていた。
- 「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」にキラーカンとともに出演。
- 何かの車のCMで元宝塚の女優たちと共演し、『ベルサイユのばら』のパロディでアンドレを演じていた。
- 引退後も日本でジャン・アレジ並みのネームバリューは保っていた。
- でもフランス人だと言う事はあまり認識されなかった。
- 1998年の「日本におけるフランス年」で、アレジと共にPR活動を行っていた。
- でもフランス人だと言う事はあまり認識されなかった。
- 魔界倶楽部やラブマシンズに参加していた。
- ビッグ・ショーの親父(キャラ)でWWEで暴れていた。
- また古舘に様々なバリエーションの「一人~」と呼ばれてしまった。
- 『ハッスル』に登場して和泉元爾と対決。
キング・イヤウケア[編集 | ソースを編集]
- 太陽ケアはハワイ大学入学後はしばらく日本に戻ってこなかったかも。
クリス・ベノワ[編集 | ソースを編集]
- 2010年頃までWWEで活躍。
- 引退後は殿堂入りを果たしていた。
- バンクーバー五輪で聖火ランナーを務めていた。
ジョン・テンタ[編集 | ソースを編集]
- 2010年現在は天龍プロジェクトあたりに参戦していた。
スティーブ・ウィリアムス[編集 | ソースを編集]
- IWAジャパンでの引退祈念試合は2009年10月に予定通り行われていた。
- 引退後はがん闘病経験を本として出版していたかも。
- 小橋建太の結婚式に祝電を送っていた。
ディック・マードック[編集 | ソースを編集]
- 2001年(満55歳)頃まで現役を続けていた。
- やっぱり場外乱闘からリングインする際の「半ケツ」はお約束。
- その後は好敵手でもあり友好関係にあったアントニオ猪木のイベントなどにも度々登場。
- 一緒に「1, 2, 3, ダァーッ!!」をやっていた。
ブルーザー・ブロディ[編集 | ソースを編集]
- 新日とは和解できないままだが、武藤移籍で全日に再び参戦。
ホーク・ウォリアー[編集 | ソースを編集]
- 2007年現在もアニマルとのタッグチーム「ロード・ウォリアーズ」は健在。
- ジョン・ハイデンライクは1人で活動していた。
- 2011年、2人とも健在なままWWE殿堂入りを果たしていた。
- アニマルの著書『ロード・ウォリアーズ 破滅と絶頂』の内容も変わっていたに違いない。
- って言うか共著している。
- 佐々木健介とのタッグ「ヘル・レイザース」も継続。
- ひょっとしたら「ヘル・ウォリアーズ」(アニマルとのコンビ)はなかったかも。
- いや、3人でチームということも。
- ひょっとしたら「ヘル・ウォリアーズ」(アニマルとのコンビ)はなかったかも。
- 日本で健介ファミリーの一員として活動していた。
- 今日の全日ヘビーがさらに盛り上がっていた。
- または史実の死因となった心臓発作から生還していた場合、体調を考慮して潔く現役を引退していた。
- この場合、先に引退していたジョン・ラリナイダス(ジョニー・エース、アニマルの弟)とともにWWEの運営側に入り活躍。
- 本名の「マイク・ヘグストランド」名義でWWEのエグゼクティブプロデューサーとしてスーツ姿でリングに上がっていたかもしれない。
モンスター・リッパー[編集 | ソースを編集]
- 希望通り日本で引退試合をしていた。
- 全女の崩壊を誰よりも悲しんでいたと思う。
- さすがに結婚はしていただろう。
- ブル中野引退興行に来場していたか、さもなくばビデオメッセージを送っただろう。
日本・女子[編集 | ソースを編集]
門恵美子[編集 | ソースを編集]
- アジャ・コングらとともにOZアカデミーに参加していただろう。
- 吉田万里子の「息吹」旗揚げはなかったかもしれない。
- アルシオンももう少し長く持てていた。
ジャッキー佐藤[編集 | ソースを編集]
- 窮地に陥った全女の姿を見兼ねて、何らかの形で救いの手を差し伸べていただろう。
- 一夜限りのビューティ・ペア復活もありえた。
- 史実どおり全女解散に至った場合、最終興行で復活した可能性が高い。
- 後進の指導にも力を注いでいた。
- 教え子たちを従えて新団体の旗揚げもしていたかもしれない。
プラム麻里子[編集 | ソースを編集]
- キューティー鈴木や尾崎魔弓の影が薄くなっていた。
- 尾崎は2011年現在もJWP在籍か既に引退しており、OZアカデミーの団体化もなかった。
- キューティーの引退も早まっていた(史実では事故がきっかけで引退を先延ばしにしていたため)。
- やはり怪我に泣かされ続け、活躍の機会が少なかった可能性も。
- 30代中頃に結婚、現役引退。
- そして、女優に転向。
- JWPとLLPWは史実より長く絶縁していた。
- おそらく全女崩壊を機に和解。
- バックボーンであるサンボの技術を活かし、2000年代に総合格闘技に進出していた。
未来[編集 | ソースを編集]
- おそらくアイスリボンに参戦していただろう。
- レボルシオン・アマンドラはなかった。
- 栗原あゆみの成長も遅れていた。最悪の場合、芽が出る前に引退した可能性も。