もしあの人が健在だったら/二輪レーサー

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阿部典史[編集 | ソースを編集]

  1. 史実の事故に遭っても後遺症も残らす健在だった場合、愛車をマジェスティかシグナスに変更(小型化)していた。
  2. 35歳くらいまでは現役でJSB1000クラスに参戦し続けていた。
    • 引退後は平忠彦氏と同じような道を歩んでいたかもしれない。
  3. JSB参戦と並行してMoto GP参戦マシンYZR-M1の開発に当たっていた。

加藤大治郎[編集 | ソースを編集]

  1. 2003年こそ不本意な成績に終わるが、2004年にはRC211Vの性能にも慣れ、優勝争いに何度も加わるようになる。
    • ブラジルGPでは玉田誠とワンツーフィニッシュを果たしていたかも知れない。
  2. 2007年現在もホンダに所属。RC212Vに乗り、もちろん現役。
  3. 日本GPは今もなお鈴鹿で行われている。
  4. ひょっとしたら鈴鹿8時間耐久レースの最多勝記録を更新していたかも知れない。
  5. 阿部典史の葬儀に参列してライバル代表として弔辞を読んでいたかも。
  6. 俳優の加藤大治郎(現・夏原遼/加藤剛の息子)は改名せず大治郎さんに肖って本名のまま芸能活動を続けていた。
  7. 生前ほのめかしがあった事から四輪レースに転向していたかも。
  8. チャンピオン獲ったら生前好きな車としてあげていたS2000を買うかホンダから貰っていたはず。

坂井宏朱[編集 | ソースを編集]

  1. 同期の佐藤摩弥と競い合っていた。
  2. オートレーサーを目指す女性も現実より多くなっていただろう。

富沢祥也[編集 | ソースを編集]

  1. 2011年シーズンのMotoGP昇格を無事決めていたに違いない。
    • 亡くなる前日にMoto2での契約延長が内定してたんですが…。
    • 木村カエラとも念願の対面を果たしていた。

永井康友[編集 | ソースを編集]

  1. 1996年以降もスーパーバイク世界選手権でヤマハのエースとして活躍。もちろんゼッケンは「5」。
    • 毎年の鈴鹿8耐にもヤマハのエースとして出場していた。
  2. 世界選手権引退後は吉川和多留とともにMoto GP参戦マシンYZR-M1の開発に当たっていた。

ニッキー・ヘイデン[編集 | ソースを編集]

  1. 2017年以降のスーパーバイク世界選手権のホンダの惨状は無かったはず。
  2. いずれ、どこかでMotoアメリカに戻ってCBR1000RRでフル参戦していた。

マルコ・シモンチェリ[編集 | ソースを編集]

  1. 2012年からHRCと契約してグレシーニに出向というかたちでワークス仕様のRC213Vに乗っていた。史実のようにグレジーニレーシングが2015年以降アプリリアに切り替えた場合どこかでLCRかレプソルに移籍していた。

若井伸之[編集 | ソースを編集]

  1. 1993年のWGP250ccクラスで、型落ちの車両に苦しみながらも原田哲也とポイントを争っていたに違いない。
    • 結果、原田が順調に250ccの世界チャンピオンになれていたかどうかは微妙。
  2. 96年頃から500ccクラスにステップアップし、スズキホンダの日本人エースとして活躍。
  3. モトGP創設期まで活躍し、2003年頃を最後に現役を引退、その後は自身のレーシングチームを立ち上げていた。
  4. レース以外にも、「フラミンゴ若井」のペンネームでオートバイ雑誌のインプレッション記事を書いていたかもしれない。