もしあの人が健在だったら/陸上選手
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日本[編集 | ソースを編集]
金井豊(男子長距離走・マラソン)[編集 | ソースを編集]
- ≒もし〝エスビー食品陸上競技部員交通死亡事故〟がなかったらである。
- 史実で交通事故死した時の年齢(30歳)からして、バルセロナ五輪の前後に現役を引退していただろう。
谷口伴之(男子マラソン)[編集 | ソースを編集]
- ≒もし〝エスビー食品陸上競技部員交通死亡事故〟がなかったらである(これは、金井豊のケースと同じ)。
- 当初の予定通り、1990年アジア競技大会に出場していた(大事を取って出場を辞退していた可能性もありえるが)。
円谷幸吉(男子マラソン)[編集 | ソースを編集]
- 予定通りメキシコシティオリンピックにも出場していた
- でもメダルを獲得出来なかったかも・・・
- 後にマラソンのコーチに就任していた
- 今頃、日本陸連の会長か、JOCの会長に就任してるかも。
- アマチュアリズムの象徴として祭り上げられ、その結果現在でもサッカーのプロ化がされていなかった(Jリーグも誕生しなかった)。
- オリンピックのプロ解禁もなかった可能性あり。
- 逆に、君原健二がメキシコオリンピック代表になれずに、そのまま引退していた。
- ということで、公共広告機構(現・ACジャパン)のCM『すててはいけない 君の人生』は制作されなかった。
- 東日本大震災発生時に、被災者(特に、福島県民)にエールを送っていた。
- NHKの東日本大震災復興支援ソング『花は咲く』にも、プロジェクトメンバーとして参加していた。
- 2020年夏の東京オリンピック開催を、心から喜んでいただろう。
- その東京オリンピックの最終聖火ランナーに選ばれる可能性あり?
森千夏(女子砲丸投)[編集 | ソースを編集]
- 大阪世界陸上にも出場し、入賞圏も狙える成績を残していた。
- 北京オリンピックにも出場していた。
- 池田(現・井村)久美子が北京オリンピック・女子走幅跳で予選敗退した際に、スズキ陸上競技部(現・スズキ浜松アスリートクラブ)の同僚として何らかのコメントをしていただろう(森が北京オリンピックの時点で在籍していたらの話だが)。
- (史実で死亡の原因となった)虫垂癌を克服できた場合、闘病記を上梓していた。
吉田雅美(男子やり投)[編集 | ソースを編集]
- 日本のやり投げ界は、もっと成績が上向いていただろう。
- 2009年世界陸上での、村上幸史選手の銅メダルに大喜びしていたに違いない。
海外[編集 | ソースを編集]
ジョセフ・オツオリ(男子駅伝)[編集 | ソースを編集]
- 新潟の重川材木店はニューイヤー実業団駅伝の常連企業になっている。
- その後は古巣のトヨタ自動車にコーチとして召集されている。
- 同時に山梨学院大学陸上競技部のコーチも兼任。
- 箱根駅伝での優勝回数は確実に増えている。
- もしかして、どこかの大学みたいに山梨学院大学にも「駅伝監督」が新設され、駅伝監督に就任か…。
- 同時に山梨学院大学陸上競技部のコーチも兼任。
- 引き続き『Qさま!』の鬼役を何度も引き受けている。
- 『Qさま!』がプレッシャーSTUDY中心の内容にならなかったかも。
- 悩んだ挙句ついに日本に帰化。
- 「乙折ジョセフ」。
- そして五輪男子陸上日本代表の長距離コーチに就任。
- 同じケニア出身であり、山梨学院大学の後輩選手のモグスに箱根駅伝のとき何かしらの応援メッセージを毎年添えていた。
- 西口文也投手(オツオリに似てたので愛称オツ)の引退時にコメントしていた。
フローレンス・ジョイナー(女子短距離)[編集 | ソースを編集]
- ドーピング疑惑が付きまとい続けた。
- マリオン・ジョーンズがメダルを返還した際に疑惑が再燃した。
アベベ・ビキラ(男子マラソン)[編集 | ソースを編集]
- 交通事故に遭っていなかったら、ミュンヘンオリンピックに出て、引退後は軍の仕事に戻っていた。
- もしくは軍をやめてマラソンの指導者になっていた。
- 「黒人差別撤廃」の象徴としてIOCの理事とかユニセフの親善大使あたりになっていた。
- 1974年にハイレ=セラシエへのクーデターが起こったとき、他国に亡命の可能性もあった?
- 交通事故に遭ったのが史実通りなら、その後もパラリンピックに出続けた。
サムエル・ワンジル(男子マラソン)[編集 | ソースを編集]
- 日本を活動拠点にとどまっただろうか?
- とどまっていた場合、TBSの「オールスター感謝祭」の赤坂5丁目ミニマラソンの常連となっていた。
- ロンドンオリンピックでもメダル候補に挙げられていた。