もしあの力士にアクシデントがなかったら
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あ・か行[編集 | ソースを編集]
大乃国康[編集 | ソースを編集]
- 1990年初場所千秋楽で左足首を骨折しなかったら
- 翌場所から4場所連続の全休はなかった。
- 「非常勤横綱」と揶揄されなかった。
- 翌1991年名古屋場所で引退することはなかった。
- 1995年頃まで現役を続けた。
- 旭富士が横綱に昇進できなかったかもしれない。
勢翔太[編集 | ソースを編集]
- 2006年秋場所で琴冠佑に殴打されなかったら
- 幕下で番付が大きく停滞することはなかった。
- 史実(2012年春場所)より3年くらい早く入幕を果しただろう。
- その代わり十両(史実では2場所通過)で番付が伸び悩んだかも。
- 少なくとも師匠の藤ノ川が停年を迎える2011年までには昇進できていた。
- 朝青龍、千代大海、魁皇、琴光喜との対戦が実現したかも。
- 琴冠佑は「柳川に勇み足で勝ったベテランの元十両」というイメージのまま。
- 予定通り7番相撲まで取り引退。勝ち越して有終の美を飾る。
- 断髪式に部屋関係者が出席し、琴櫻や琴ノ若が鋏を入れた。
垣添徹[編集 | ソースを編集]
- 世界相撲選手権で左膝前十字靱帯を断裂しなかったら
- 予定通り2001年春場所で初土俵を踏んだ。
- 幕下付出資格の有効期間が変更されなかった。
- 史実より早く幕内・三役に出世した。
- 朝青龍に横綱昇進前なら勝てていたかも。
- 2003年名古屋場所の増健がつきひざでの敗戦を喫しながら十両優勝という珍記録を残す。
鶴嶺山宝一[編集 | ソースを編集]
- 右肩を脱臼しなかったら
- 幕内に上がり、父の四股名の「鶴ヶ嶺」を襲名できた。
- 弟の逆鉾と寺尾とともに史上初の三兄弟同時幕内が実現した。
- 1989年春場所で井筒部屋の幕内力士は6人(逆鉾、寺尾、霧島、陣岳、薩洲洋、貴ノ嶺)だったが、もう一人増えただろう。
- 父鶴ヶ嶺の停年後は井筒部屋を継いだ。
- 逆鉾は別の年寄名で井筒部屋から独立する。
- 鶴竜の師匠が鶴嶺山になっていたかもしれない。
- 鶴竜が井筒部屋ではなく、逆鉾部屋に入門していたら史実通りだった。
- 逆鉾が死去した2019年秋場所後に部屋を吸収していた。
- しかし2020年3月末に鶴嶺山が没し、結局弟子たちは陸奥部屋に移籍した。
- 訃報はすぐに公表され、スポーツニュースでも取り上げられた。
- しかし2020年3月末に鶴嶺山が没し、結局弟子たちは陸奥部屋に移籍した。
- 鶴竜の師匠が鶴嶺山になっていたかもしれない。
- 逆鉾は別の年寄名で井筒部屋から独立する。
稀勢の里寛[編集 | ソースを編集]
- 2017年春場所13日目で日馬富士戦で負傷しなかったら
- その場所は全勝優勝していた
- 8場所連続休場はなくその後も優勝回数を重ねた
- 2017・2018年に年間最多勝を獲得していた。
- 両年とも60勝以上の力士が不在という事態は起きなかった。
- 2017・2018年に年間最多勝を獲得していた。
- 下手したら日馬富士の暴行問題も発生せず、日馬富士の力士生命も延び、貴乃花親方が降格することも起こらなかった
- 栃ノ心や御嶽海が優勝する可能性が低くなった
- 逆に高安は平成のうちに優勝できたかもしれない。
騏乃嵐和稔[編集 | ソースを編集]
- 1983年初場所前の稽古で左ヒザを負傷しなかったら
- もちろん、一度三段目まで落ちて、その後幕内に上がったが、再び悪化させて序二段にまで落ちて廃業することはなかった。
- 少なくとも三役に一度上がり、三賞も一度は受賞していた。
- 弟弟子の益荒雄とともに押尾川部屋を盛り立てていた。
- 怪我をさせた鳳凰が気落ちすることはなかった。
- 引退後も相撲界に残り、押尾川部屋を継いだかもしれない。
旭天鵬勝[編集 | ソースを編集]
- 2007年夏場所前に人身事故を起こさなかったら
- 当然ながら出場停止による名古屋場所での十両陥落はない。
- 岩木山や豪栄道との巴戦もなかった。
- 魁皇に次ぐ二人目の幕内在位100場所を達成し、幕内連続出場も1400回を超え歴代1位を記録した。
- 通算連続出場も初土俵からではないものの青葉城を抜き、ギネスブックに登録される。
- 序二段時代の休場を惜しむ声が増える。
- 通算連続出場も初土俵からではないものの青葉城を抜き、ギネスブックに登録される。
琴稲妻佳弘[編集 | ソースを編集]
- 幕下時代、痛風にかからなかったら
- 薬の副作用で頭髪が抜けることはなかった。
- 薩洲洋と間違われることはなかった。
- お笑い芸人のブラックマヨネーズ小杉が「琴稲妻ってハゲて引退した力士やないかコラ!」とネタにすることはなかった。
- 同期生の大乃国や水戸泉らより早く出世できた。
琴椿克之[編集 | ソースを編集]
- 1992年11月場所13日目の若花田戦で右膝を負傷しなかったら
- 自身初の三賞を受賞していた。
- 場所後の沖縄巡業にも参加。
- 沖縄県出身力士初の三役になった可能性もある。
- 魁皇は別の相手から幕内初白星を得ていた。
琴光喜啓司[編集 | ソースを編集]
2000年夏場所前に足首を負傷しなかったら
- 栃乃花と共に新入幕で二桁勝利し旋風を巻き起こす。
- 取組編成が難航し審判部は大混乱。
- 高校の後輩である逸ノ城より先に入幕2場所目での関脇昇進を果たした。
- 貴ノ浪の陥落、魁皇の優勝、栃東の勝ち越しがあるから良くて小結でしょう。
- 雅山・魁皇・武双山の大関昇進・復帰がなくなるか遅れた可能性がある。
- 追風海は関脇になれなかったかも。
小錦八十吉(六代目)[編集 | ソースを編集]
- 1986年夏場所、北尾戦でのヒザの負傷がなかったら
- いずれにせよ、どこかで負傷はしている。
- あれだけの巨体ゆえ、故障は必然。それどころか、力士生命自体絶たれるような大怪我をしていた可能性も?
- 北尾の横綱昇進はなかった。
- いや第62代横綱に昇進したかもしれない。 その場合「大乃国は大関止まり。」
- 若嶋津の引退が早まった可能性も。
- 千代の富士の5連覇や益荒雄旋風も生まれなかった。
- 横綱になれた可能性は高い
- 1985年秋場所前に入浴中に腰を打たなかったら
- この場所は少なくとも勝ち越していた。
- 成績によっては大関に昇進できた。
- 全休して平幕に落ちることはなかった。
- 大関昇進が早まったかもしれない。
- 栃剣に蹴返しで敗れることはなかった。
- ビール瓶のケースが風呂場の椅子として使われることはなかった。
小沼克行[編集 | ソースを編集]
- 1976年夏場所3日目に足首関節を骨折しなかったら
- 鏡山部屋初及び昭和30年代生まれ初の三役力士となった。
- ゆくゆくは大関・横綱に昇進していた。
- 「柏戸」の四股名をもらった可能性が高い。
- 師匠と対立して髷を切ることはなかった。
- 負傷時の相手である青葉城が伸び悩みせず、幕内上位でもっと活躍した。
さ・た行[編集 | ソースを編集]
大鵬幸喜[編集 | ソースを編集]
- 1969年春場所2日目、「世紀の大誤審」で連勝がストップしなかったら
- 少なくとも連勝が50を超えて、「超五十連勝力士碑」に名前が刻まれていた。
- ただ、双葉山の69連勝は超えたかどうか。
- 連勝が続くため、急性肺炎を理由に途中休場することはなかった。
- この一番がきっかけで大相撲にビデオ判定が導入されたため、導入は実際より遅れるか、未だに導入されていないかもしれない。
- 実はこの場所前から機材の準備がなされていたのと、9日目にも疑惑の判定(琴櫻VS海乃山)があったので導入時期は変わらなかったかも。
- この場所もぶっちぎりで優勝できた。
- したがって優勝回数も1回増える。
- 一代年寄の授与が2場所早まった。
- 戸田(羽黒岩)の知名度が現実より下がる。
- 数少ない宮崎県出身の幕内力士としての知られている程度だった。
- 脳梗塞で倒れなかったら
- 現役時代の実績により、審判部長や理事長に就任していた。
- 日本相撲協会理事長に就任していたら、大ナタを振るって改革を進めていただろう。
- 協会内では理事長の座をめぐって大鵬派と佐田の山派に二分される。
- 還暦土俵入りでも四股を踏むことができた。
貴乃花光司[編集 | ソースを編集]
- 1996年秋巡業で背筋肉離れを起こさなかったら
- 九州場所に出場し少なくとも12勝して北の湖の年間82勝に並んでいた。
- 5人による幕内優勝決定戦は実現せず。
- 13勝以上で当時の最多記録を塗り替えた可能性も高い。
- 上半身だけが大きくなることはなく、その後内臓疾患に悩まされずに済んだ。
- 2001年夏場所14日目で大怪我をしなかったら
- 小泉首相の「痛みに耐えてよく頑張った」の名言は生まれなかった。
- 北の湖の優勝24回の記録は軽く超えていた。
- 運がよければ優勝30回、更に運がよければ大鵬の優勝32回の記録を超えていた。
- 既に若干の衰えは見られていたので、26~27回ぐらいじゃないかな?
- 朝青龍の横綱昇進が大幅に遅れていた。もしくは現時点でも大関。
- 少なくとも朝青龍の壁になっていた。
- 当時もう一人の横綱だった武蔵丸も衰えていたので遅くても2004年までには横綱になれたと思う。
- ただし35連勝できたかは疑問。
- あと、武藏丸の衰えは貴乃花の長期休場による実質一人横綱状態のため無理をし続けたのが原因なので、このケースだと治療に踏み切りやすくなるから手首の状態もさほど悪化せず、白鵬や欧州勢と対戦するまで現役でいられたかも。
- 当時もう一人の横綱だった武蔵丸も衰えていたので遅くても2004年までには横綱になれたと思う。
- 朝青龍の暴走はなかった。
- 少なくとも朝青龍の壁になっていた。
- 武双山が「ゆるふん」で叩かれることはなかった。
- 2001年秋場所の琴光喜の優勝は無かったかもしれない。魁皇の優勝は3回、千代大海と栃東の優勝は1回から2回に留まっていた。
- 2007年の時点でも現役。
- 二子山部屋は順当に若乃花親方が継ぎ、兄弟の確執はなかった。
- 若乃花は2000年12月に相撲協会を退職したのでそれはない。
- ということは父の死後、貴ノ浪が二子山に名跡変更して暫定継承するのかな。
- 安芸乃島とも仲違いしていない。
- 高田川部屋は後継者不在のため前の山の停年直前に閉鎖された。
- 若乃花は2000年12月に相撲協会を退職したのでそれはない。
- 二子山部屋は順当に若乃花親方が継ぎ、兄弟の確執はなかった。
- 無論その後の長期休場はなかった。
- 当然、曙の引退土俵入りには参加(史実では断髪式のみ出席)。
- 大相撲の人気低下は現実よりも進まなかっただろう。
- 春場所の連続満員御礼記録はもっと長続きしていた。
- 国民栄誉賞を受賞していたかもしれない。
- 貴乃花に勝てなかった若の里、雅山、琴光喜、朝青龍は白星を得ていた。
隆乃若勇紀[編集 | ソースを編集]
- 2003年初場所千秋楽に左膝を負傷しなかったら
- 当該の相撲に勝っていれば三役で連続二桁勝利となり大関挑戦への機運が盛り上がる。
- 最低でも若の里並みの三役常連だった。
- 十両時代の増健が最後に対戦した相手は別の力士になっていた。
- もう少し長く現役だっただろう。
- 相撲協会に残り隆の里の死後に鳴戸部屋を継いだ可能性もある。
高見盛精彦[編集 | ソースを編集]
- 2000年秋場所3日目に右膝前十字靱帯を断裂しなかったら
- 少なくとも休場を重ねての幕下落ちはない。
- あの「気合い入れ」もなかった。
- 三役在位が増え関脇に昇進した可能性も。
多賀竜昇司[編集 | ソースを編集]
- 1984年5月に実母が交通事故死しなかったら
- 夏場所後のハワイ巡業に参加できた。
- この年の秋場所での優勝はなかった。
- 三役は関脇1場所で終わったかもしれない。
千代の富士貢[編集 | ソースを編集]
- 1989年春場所14日目に左肩を脱臼しなかったら
- 翌夏場所も出場し、この場所で12勝以上を挙げたら史実より1場所早く通算勝利記録の965勝を更新できた。
- 通算1000勝の達成も1場所早かった。
- 千秋楽の表彰式で片手で賜杯を受け取ることはなかった。
寺尾常史[編集 | ソースを編集]
- 1997年春場所13日目に右足親指を骨折しなかったら
- 連続出場記録が途切れることはなかった。
- 青葉城の通算連続記録の1630回と高見山の幕内連続記録1231回を超えて1位になっていた。
- 旭鷲山の勝負がついても相手の廻しや足を掴み続ける取り口が非難されなかった。
照ノ富士春雄[編集 | ソースを編集]
- 2015年秋場所で負傷しなかったら
- 度重なる故障で序二段まで番付を下げる事はなかった。
- その場所は全勝優勝していた。
- その次の場所も優勝していたら横綱に上がっていた。
- どのみち2017年以降の大相撲が戦国時代になる事はなく、年間最多勝が60勝未満になったり、年間最優秀力士が不在になる事もなく、2017~2020年に年間最多勝や年間最優秀力士になっていた。
- 栃ノ心や御嶽海や貴景勝や玉鷲や朝乃山や徳勝龍や大栄翔の優勝がなかったか、現実より遅れた。
闘牙進[編集 | ソースを編集]
- 2000年12月に交通死亡事故を起こさなかったら
- 2001年初場所も出場して翌場所も幕内に留まっていた(史実では出場辞退による全休で十両落ち)。したがって、高砂部屋の連続幕内力士の在位記録も途切れることはなかった。
- 夏場所に史実通り11勝していたら敢闘賞を受賞できた。
- 三役昇進が早まったかも。
- 脱毛ならぬ「男はもみあげ」が一時的に流行る。
栃ノ心剛史[編集 | ソースを編集]
- 2013年名古屋場所で右膝靭帯を断裂しなかったら
- 2014年中には関脇、更に大関に昇進していた。
- 2018年初場所では大関で優勝し、翌場所綱取りの場所になった。
- 現実には平幕優勝。そしてその2年後に、負傷した取組の対戦相手だった德勝龍まで、優勝を達成することを予見できた大相撲ファンは、皆無だったはず。
- YouTubeでその取組をみたところ、大きな負傷につながるような激しい攻防が展開されなかったせいか、勝った栃ノ心が痛がっているのに対し、敗れた德勝龍が戸惑う様子を示していたことが印象的。
- 現実には平幕優勝。そしてその2年後に、負傷した取組の対戦相手だった德勝龍まで、優勝を達成することを予見できた大相撲ファンは、皆無だったはず。
- 2014年秋場所での十両全勝優勝はなかった。
- 上記通り関脇の地位だった場合、翌場所に大関に昇進していた。
- 幕下と十両での2場所連続優勝もなかった。
- 2018年名古屋場所で右足親指を負傷しなかったら
- 怪我する前日まで5連勝していたので、終盤まで御嶽海と優勝を争っていただろう。
- 当時の栃ノ心の強さと勢いを考えると、2018年7月から11月まで13優→13準→13優と好成績を残して横綱昇進していてもおかしくない。
- そうなっていた場合、横綱なら長期休場が許されて怪我回復に専念できるため、2023年に引退することはなかったかも。
- ただし、だんだん休場が増えすぎて2023年ころには横審から激励を受けていた可能性がある。
- そうなっていた場合、横綱なら長期休場が許されて怪我回復に専念できるため、2023年に引退することはなかったかも。
- 当時の栃ノ心の強さと勢いを考えると、2018年7月から11月まで13優→13準→13優と好成績を残して横綱昇進していてもおかしくない。
- 翌2019年初場所でも途中休場の憂き目に遭わなかった。
- 春場所千秋楽が貴景勝との「入れ替え戦」になることもない。
- それでも当時の破竹の勢いは削がれていた。
- 2018年中に横綱昇進した場合、やはり大事をとって休場していた。横綱昇進できていなかった場合は以下の通り
- どちらにせよ2019年以降ケガが相次いだので、どこかで弱い大関にはなっていただろう。
- それでものらりくらりとハチナナや関脇10勝復帰で地味に大関に居座っていた。史実で前頭中位をなんとか踏みとどまっていた時期くらいは、角番常連大関でなんとか踏みとどまっていた。
- 史実では2023年に再びケガして十両陥落、十両負け越し、引退となったが、2023年に再びケガしてようやく特例復帰失敗平幕陥落するくらいで、もうしばらく幕尻で踏みとどまっていた。
- それでものらりくらりとハチナナや関脇10勝復帰で地味に大関に居座っていた。史実で前頭中位をなんとか踏みとどまっていた時期くらいは、角番常連大関でなんとか踏みとどまっていた。
栃乃花仁[編集 | ソースを編集]
- 大学時代に右膝靱帯を損傷しなかったら
- 4年生時に好成績を治め幕下付出で初土俵を踏む。
- 2000年の制度厳格化もなかった。
- 幕内・三役にはもっと早く昇進した。
- 横綱戦勝利があったかもしれない。
鳥羽の山喜充[編集 | ソースを編集]
- 新入幕の2002年春場所初日の朝稽古で右膝を負傷しなかったら
- 新入幕力士として土俵に上がれた。
- その後序二段まで番付を落とすことはなかった。
- 出羽海部屋の衰退はなかった。
- 2015年初場所引退。お疲れ様でした。
は~わ行[編集 | ソースを編集]
肥後ノ海直哉[編集 | ソースを編集]
- 1995年夏場所12日目に左太腿を断裂しなかったら
- この場所に勝ち越して殊勲賞と翌場所の新三役を手にできた。
- 負け越した場合、翌々年春場所の朝乃翔とセットで語られる。
- 連続平幕在位の記録を更新することはなかった。
藤ノ川武雄[編集 | ソースを編集]
- 左足を骨折しなかったら
- その怪我がもとで26歳2ヶ月で引退することはなかった。
武雄山喬義[編集 | ソースを編集]
- 2002年春場所で右膝に重傷を負わなかったら
- 千代天山以来となる新入幕以来3場所連続の三賞受賞を期待される。
- 幕内上位に定着し、三役にも昇進していた。
- 武双山の引退後は部屋頭を務める場所もあった。
- 2010年代初頭まで現役を続けた。
- オリエンタルラジオとテレビ番組で共演したかもしれない。
北天佑勝彦[編集 | ソースを編集]
- 1981年末に右足首関節を捻挫しなかったら
- 翌年初場所を全休することはなかった。
- 夏場所に前頭7枚目でこれより三役に登場することもなかった。
- 朝潮より先に大関昇進した。
- 上手くいけば若島津と同時だった。
- 力士のバラエティ番組出演が自粛されることはなかった。
- 1987年春場所8日目の小錦戦で膝を負傷しなかったら
- 既に3勝4敗だったので良くて8勝7敗、場合によっては負け越していた。
- その後1年以上も二桁勝利から遠ざかることはなかった。
北勝海信芳[編集 | ソースを編集]
- 91年春場所の大乃国戦での膝の故障がなかったら
- 翌日も普通に勝って大乃国の結果に関係なく14-1で優勝していた。
- その後は史実ほど休場を繰り返すことはなかった。
- もう少し力士生命が伸びただろう。
- 翌夏場所に出場するので、千代の富士と貴花田が初日に対戦しても意外に思う声が少なかった。
- 横綱空位期間も北勝海が1人横綱として満身創痍ながらも何とか踏ん張るのでなかったかもしれない。
- 曙の横綱昇進時には東西横綱で並んでいた。
- 仮に膝の故障がなかったとしても満身創痍であったのは変わらず、曙とは並べても貴乃花の横綱昇進までには世代交代の波に飲み込まれ引退を余儀なくされただろう。
- 史実では実現しなかった北勝海、小錦の時代から曙、貴乃花の時代への明確な引き継ぎや世代交代の一番などがどこかであっただろう。
- 優勝回数は10回の大台に到達し、史実よりも強い横綱という印象が残っていた。
- 八角部屋の立ち上げが遅れた。
前田山英五郎[編集 | ソースを編集]
- 右腕を負傷しなかったら
- 新十両〜幕下陥落直後の2場所連続全休はなく、その後の昇進ペースが早まった。
- 関脇を経験した可能性もある。
- 前田医師の手術を受けないので四股名は「佐田岬」のままだった。
- 弟子の若前田や前田川、前の山らも別の四股名に。
- 佐田の山…いや何でもない。
- 弟子の若前田や前田川、前の山らも別の四股名に。
益荒雄広生[編集 | ソースを編集]
- 1987年9月場所で大乃国に寄り倒しで敗れた際に右膝の靱帯を痛めなかったら、後遺症が慢性化しなければ
- 安芸乃島と金星獲得個数のデッドヒートは必至
- 大関に行けた可能性も高い
- 千代の富士の引退が早まった可能性も
水戸泉眞幸[編集 | ソースを編集]
- 1985年夏場所前に交通事故を起こさなかったら
- 一度十両に落ちることなく三役昇進が早まった。
- 現役力士の自動車運転が禁止されることがなかった。
武藏山武[編集 | ソースを編集]
- 1931年10月場所9日目で、沖ツ海のぶちかましが右ひじに命中しなかったら
- 玉錦や沖ツ海(こちらも、フグ中毒にみまわれなかった場合)と一時代を形成し、双葉山の69連勝はなかった公算が高い(翌年の春秋園事件における曖昧な姿勢は、大けが直後の不安定な精神状態も作用したものとおもわれる)。
竜虎勢朋[編集 | ソースを編集]
- アキレス腱を断裂しなかったら
- 公傷制度は生まれなかった。
- うまくいけば関脇に上がれた。
若鳴門清海[編集 | ソースを編集]
- 中学時代に右足親指を切断しなかったら
- 中卒で入門し史実より早く出世した。
- 最低でも平幕上位まで番付を上げていた。三役・三賞を射止めた可能性もある。
若乃花勝[編集 | ソースを編集]
- 1997年春場所3日目に右太腿二頭筋を断裂しなかったら
- 前場所からの好調を維持し連覇。横綱昇進が1年早まる。
- 12勝4人による決定戦はない。
- 翌場所も新横綱効果で15日間満員御礼だった。
- 長野五輪の開会式で横綱土俵入りを披露した。
- 栃東の若乃花戦初勝利は遅れていたかもしれない。
若ノ鵬寿則[編集 | ソースを編集]
- 2008年に大麻所持が発覚していなかったら
- 少なくとも関脇には昇進していた。
- 19歳の時点で幕内上位総当たりでの勝ち越しに成功していたので、かなり早い大関昇進となっていただろう。史上最速とはいかずとも、白鵬や朝青龍の21歳大関昇進とたいしてかわらない時期には大関だったはず。
- 2011年には大関として上の地位から立ちはだかり、琴奨菊や稀勢の里の大関昇進が史実よりも遅れていた。
- スマホ世代にも稀勢の里の「平成の大小結」というあだ名が有名になっていた。
- 2011年には大関として上の地位から立ちはだかり、琴奨菊や稀勢の里の大関昇進が史実よりも遅れていた。
- 19歳の時点で幕内上位総当たりでの勝ち越しに成功していたので、かなり早い大関昇進となっていただろう。史上最速とはいかずとも、白鵬や朝青龍の21歳大関昇進とたいしてかわらない時期には大関だったはず。
- 2020年現在も現役だった。
- 欧州出身初の横綱となっていた?
- 大関まではあっという間に昇進。しばらく強い大関程度で足踏みするが、2017年以降横綱が休みがちになると優勝を繰り返し、日馬富士引退あたりから照ノ富士の復活まで一強時代を築く。優勝回数23回。
- 稀勢の里は横綱になれなかっただろう。
- 2017年の1月3月連覇して横綱昇進いたのは若ノ鵬になっていた。
- それでも白鵬と照ノ富士の伝説の相星決戦と全勝引退は史実通り。
- その後の照ノ富士の横綱昇進も史実通り。
- 稀勢の里は横綱になれなかっただろう。
- 貴景勝も8勝して大関の地位を維持することができなくなっていた。
- 史実ではともにケガがちな照ノ富士と貴景勝の1横綱1大関時代で、大関不足で番付が組めない事態を不安視されていたが、照ノ富士と若ノ鵬の2横綱が番付上の横綱大関となることで史実ほどは不安視されない。
- 史実でも1981年に3横綱0大関時代が存在していた。
- 史実ではともにケガがちな照ノ富士と貴景勝の1横綱1大関時代で、大関不足で番付が組めない事態を不安視されていたが、照ノ富士と若ノ鵬の2横綱が番付上の横綱大関となることで史実ほどは不安視されない。
- 2020年代の土俵は「若照時代」と呼ばれていた。
- 白鵬の引退年齢を考えると、2024年現在もほとんど休みがちながらもかろうじて現役で霧島と豊昇龍の壁になっていたかも。
- もしくは白鵬引退の翌々場所に、照ノ富士と全勝相星決戦をやって白鵬と同じ引退方式をしていたかも。
- ただし若ノ鵬の場合照ノ富士に敗北する。
- もしくは白鵬引退の翌々場所に、照ノ富士と全勝相星決戦をやって白鵬と同じ引退方式をしていたかも。