もしあの選手があのオリンピック大会に出場していなかったら
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夏季[編集 | ソースを編集]
大江季雄・西田修平→ベルリン[編集 | ソースを編集]
この2人はそれぞれ個人で参加していますが、ここでは「もしどちらか1人でも出場していなかったら」ということを想定して書くことにします。
- 「友情のメダル」はなかった。
- どちらか1人が出場していた場合、銀メダルになっていた。
- もし1940年の東京オリンピックが開催されていたら、そこで2人で対決していたかも。
前畑秀子→ベルリン[編集 | ソースを編集]
- 彼女の知名度は史実より低かっただろう。
- 「前畑ガンバレ」が名実況として知られることはなかった。
- 実況を担当した河西三省アナウンサーの知名度も低かった。
- 椙山女学園の知名度は史実より低かった。
モハメド・アリ(カシアス・クレイ)→ローマ[編集 | ソースを編集]
- 金メダルを川に捨てるなどありえない。
- アトランタ五輪の最終聖火ランナーは別の人物が務めていた。
- カシアス内藤のリングネームも変わっていたかもしれない。
- プロデビューはほぼ史実通りだろうけど、活躍自体は微妙。徴兵拒否で引退に追い込まれていた可能性も否定できない。
円谷幸吉→東京[編集 | ソースを編集]
- 後に自死することはなく、自衛官として勤め上げた。
ボブ・ビーモン→メキシコシティ[編集 | ソースを編集]
- 彼の知名度は史実より低かっただろう。
- 「陸上競技史上最大の一発屋」といえばマイク・パウエル。
ナディア・コマネチ→モントリオール[編集 | ソースを編集]
1976年、ナディア・コマネチはモントリオールオリンピックで14才にして金メダルを獲得しました。この時もし年齢制限などで参加できなかったら?
- 史実よりナディア・コマネチの知名度は低かった。
- 仮に史実通りモスクワオリンピックで金メダルを取れていたとしても、西側諸国が参加していないので日本やアメリカ等の知名度はかなり低いだろう。
- ロサンゼルスオリンピックにはルーマニアは出場していたが、ソ連など他の東側諸国はボイコットしていたのでこちら側で知名度が低かった。
- その場合、金メダルを取れていたかは岩崎恭子同様に微妙。
- もし全世界レベルで知名度が上がる可能性があるとすれば、(1981年の引退がなかったとして)1988年のソウルオリンピックあたりか?
- 種目の性質上、そんなに長く現役を続けていられるわけがないと思うが。
- もちろんビートたけしはコマネチをギャグ化しなかっただろう。
- のちに日本でモントリオールオリンピックで体操のことが取り上げられる際には、彼女ではなく金メダルを取った日本の男子団体総合が多く取り上げられた。
- 『動物と子供たちの詩』のサウンドトラックに収録されていた「Cotton's Dream」が、「Nadia's Theme(妖精コマネチのテーマ)」としてBillboard Hot 100でトップ10入りすることはなかった。
マイケル・ジョーダン→ロサンゼルス[編集 | ソースを編集]
- NBA入りはなかったか、しても史実ほどの人気が出なかった。
- 「バスケの神様」は今もカリーム・アブドゥル=ジャバー。
- エア・マックスもない。
- エア・ジョーダンだったorz
- 学者になっていたかもしれない。
坂本勉→ロサンゼルス[編集 | ソースを編集]
- 「ロスの超特急」のニックネームは付かなかった。
- 自転車競技にて日本がメダルを獲るのは、プロ解禁後の競輪選手まで待つことになった。
鈴木大地→ソウル[編集 | ソースを編集]
- 史実より彼の知名度は低かった。
- スポーツ庁長官にはならなかった。
- 「バサロ泳法」に関して国際水泳連盟が規制をかけることはなかったか史実より遅れていた。
- 日本の水泳の復活は史実より遅れていた。
- この人の名前は違っていたかも。
ベン・ジョンソン→ソウル[編集 | ソースを編集]
- ドーピングの啓発は史実より遅れていた。
- フローレンス・ジョイナーがドーピング疑惑をもたれることはなかったか、あっても遅かった。
- 「ロケットスタート」は史実より知られなかった。
- 羽佐間正雄の知名度は史実より少し低かった。
- 「ベン・ジョンソン、筋肉のかたまり」という言葉も存在していない。
松岡修造→ソウル[編集 | ソースを編集]
- その後のバルセロナ・アトランタ2大会にも出場しなかったと思う。
- 引退後、テニス解説以外でメディアに出ることもなかったかもしれない。
シュテフィ・グラフ→ソウル[編集 | ソースを編集]
- 「ゴールデンスラム」という表現は誕生しなかった。
岩崎恭子→バルセロナ[編集 | ソースを編集]
1992年のバルセロナオリンピックの競泳平泳ぎで14歳で金メダルを獲得した岩崎恭子。もし年齢制限があって岩崎恭子がバルセロナオリンピックに出場していなかったら?
- おそらく2000年のシドニーオリンピックに出場していた。
- この場合金メダルを獲得していたかどうかも微妙。
- いずれにしろ、彼女は現実ほど有名人にはならなかった。
- バルセロナ五輪そのものがあまり日本人の記憶に残らなかったかもしれない。
- その後、余り活躍しなかったら?
- 2012年のロンドン五輪で水泳競技会場にも行ってない。
- CS放送・旅チャンネルでの番組も持っていない。
- 大学では心理学を専攻していたので、心理カウンセラーなどそっち方面の仕事に就いていたかもしれない。
- おそらく斉藤祐也とは結婚していない。
- もしかすると姉の方が第一線で活躍していたかもしれない。
- 千葉すずの競技人生も少しばかり変わっていたか?
有森裕子→バルセロナ[編集 | ソースを編集]
バルセロナオリンピックで銀メダルを獲得した有森裕子。しかし代表選考を巡って紛糾したことは当時を知る人にとって記憶に残る出来事でした。もしこの選考過程で落選あるいは決定後に辞退したら?
- 当然のことながら松野明美が選出されており、不透明な選考で物議を醸すことはなかった。
- 「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!!」でこれをネタにしたコントが放送されることもなかった。
- ただし、松野がオリンピック本番でメダルを獲れたかは不透明。
- もし有森辞退でお鉢が回ってきたら重圧がより大きなものになり、メダルはおろか入賞すら果たせなかったかもしれない。
- 人見絹枝の知名度が当時の人々の間で上がることもなかった。
- あの名言もなかった。
- 有森自身はアトランタを目指したと思うが、仮に出場できても史実ほど期待されなかった。
- ガブとの結婚もなかった?
カート・アングル→アトランタ[編集 | ソースを編集]
- 100kg決勝で地元判定が囁かれることはなかった。
- プロレス転向もなかったかもしれない。
石井慧→北京[編集 | ソースを編集]
当初は前年の世界選手権無差別級で優勝した棟田康幸が有力とされていたが、棟田の選抜体重別や全日本選手権での不振により無名の石井が選ばれた。
- 北京オリンピック後に総合格闘技に転向することはなかった
- 金メダル獲得後のインタビューでの発言が物議を醸すこともなかった
- 棟田康幸が一度もオリンピックに出れなかった不運な選手になることはなかった
- 棟田が北京オリンピックで金メダルを獲得していた可能性が高い
- 石井慧はロンドンオリンピックに出場
- しかしテディ・リネールに敗れ金メダルは獲得できなかっただろう
- もし北京オリンピックの男子100kg超級でメダルを獲得できなかった場合、この大会の男子柔道のメダルは内柴正人の1つだけとなる史上最悪の大会になっていた。
- ロンドンオリンピックが史実通り金メダルゼロならこちらのほうが史上最悪の大会と言われるのは変わりなしか
- 冬季の日本選手団のトリノ五輪(金メダルを獲得したがメダルわずか1つ)とバンクーバー五輪(メダルは5個獲得したが金メダルゼロ)にたとえられるかも
- ロンドンオリンピックが史実通り金メダルゼロならこちらのほうが史上最悪の大会と言われるのは変わりなしか
サムエル・ワンジル→北京[編集 | ソースを編集]
- 内山俊哉の「都大路が生み出したオリンピックの金メダリスト」と言う言葉はなかった。
- 仙台育英高校の偉大なOBと言えば別のスポーツの誰かだっただろう。
- もしかすると日本に残っていたかもしれない。
- おそらく妻に告訴されたり不慮の死を遂げるような悲惨な生涯は送らなかっただろう。
村田諒太→ロンドン[編集 | ソースを編集]
- =前年の世界選手権で敗退していたら、ということになる。
- おそらくプロ転向もなく、東洋大学に残って指導者になっていただろう。
- 仮にプロになったとしても「村田ルール」が作られることはなかった。
- プロテストがテレビで生中継されることもなかった。
- 仮にプロになったとしても「村田ルール」が作られることはなかった。
- 清水聡の銅メダルの扱いがより大きかった。
- ロンドン直後にプロ転向したかもしれない。
オスカー・ピストリウス→ロンドン[編集 | ソースを編集]
- いまなお「義足でオリンピック出場」はありえないという風潮が続いていた。
- マルクス・レームもオリンピックを目指さなかったかもしれない。
- もしかすると恋人を射殺しなかったかもしれない。
冬季[編集 | ソースを編集]
ジャネット・リン→札幌[編集 | ソースを編集]
- 史実より日本での知名度が上がることはなかった。
- 「札幌の恋人」「銀盤の妖精」というキャッチフレーズもなかった。
- ショートプログラムはコンパルソリーのままであった。
清水宏保→長野[編集 | ソースを編集]
- ソチ五輪時点で日本スピードスケートは金メダルがなしのまま。
- 逆にジェレミー・ウォザースプーンが金メダルを獲得。
- 競輪学校年齢制限撤廃はなかったか、遅れていた。
- 高垣麗子とは結婚しなかった。
荒川静香→トリノ[編集 | ソースを編集]
- 日本選手団は1967年以来のメダルゼロに終わっていた。
- 1976年ね。67年はオリンピックない。
- 浅田真央に対する年齢制限への議論が史実以上に激しく続いていた。
- イナバウアーの知名度も上がらなかった。
- 琴奨菊のルーティーンが「琴バウアー」と呼ばれることもなかった。
- 「○○バウアー」と言えばドイツワールドカップの影響もあり多くの人が「ベッケンバウアー」を連想していた。
- もちろん流行語大賞にも選ばれなかった。
- 2006年の流行語大賞は「ハンカチ王子」になっていた
- 当時斎藤佑樹はアマチュア選手だったので微妙だが
- 「WBC」かも。
- 当時斎藤佑樹はアマチュア選手だったので微妙だが
- イナバウアーが「背中を大きく反らしながら滑る技」と誤解されることはなかった。
- 荒川静香は長野がピークだったと言われていただろう。