もしあの選手がもう少し現役を続けていたら

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余力を残し惜しまれて引退した選手、燃え尽きた選手等…。もし、あの選手があと、1~2年現役を続けたら?を考えます。

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プロ野球[編集 | ソースを編集]

赤星憲広[編集 | ソースを編集]

  1. マートンの獲得はなかった。
    • 藤川俊介のブレイクは遅れていた。
    • 大和のコンバートも遅れていた。
  2. 2010年の阪神の打線は現実ほど長打力が強くなかった。
  3. 最終的に現実と同様、盗塁王から遠ざかっていたかも。
    • あるいは現実よりも多く盗塁王を獲得していた。
      • 通算450盗塁を達成してた可能性も。
  4. そもそも09年9月のダイビングキャッチ失敗の怪我はなかった。

江川卓[編集 | ソースを編集]

  1. 1988年以降は100球肩のためリリーフに転向していたかも。
  2. それでも第2期藤田監督の時に肩が限界に達し引退していただろう。
  3. 野手転向もあった。
  4. 背番号30が永久欠番になった可能性もあった。

王貞治[編集 | ソースを編集]

  1. 81年は新人の原と同じ位のホームラン(22本)は打てたろう。
  2. ただし、打率の降下は避けられず、生涯打率3割を切る。
  3. 80年オフ、メジャーへ移籍し5年間は現役
    • 日米通算900本はメジャーで記録。
      • ただし、向こうの公式記録では100本前後
    • 史実の松井秀のようになっていた可能性がある。
  4. 出場機会が激減し、80年よりも更に悲惨な状態になっていたかも。打率1割台、ホームラン10本前後。(出場試合数は60前後)
  5. 長嶋監督退任→藤田監督就任も遅れていたかも。

掛布雅之[編集 | ソースを編集]

  1. バースに代わり一塁を守っていた。
    • 無論、フィルダーの獲得はない。
    • 安藤監督は掛布の将来を考えて一塁手コンバート案を練っていたらしい。
  2. 結局、往年の快音は戻らずに終わっていたか?
    • その可能性大。現役生活は良くても1991年辺りまでだったと思われる。
  3. そもそも86年4月の死球の怪我はなかった
    • 飲酒運転やスピード違反もなく、2軍監督就任が早まっていた。
      • 1軍監督就任も実現していた。
  4. 88年オフに安藤元監督の誘いからヤクルトで移籍しヤクルトで現役を終えていた。

黒田博樹[編集 | ソースを編集]

  1. それでも2017年に引退してただろう…。
  2. 2017年は広島がCSを突破してた可能性はある
  3. 薮田和樹は先発ローテーションに入らず、最高勝率の獲得もなかった。

小林繁[編集 | ソースを編集]

  1. あと3,4年は主戦投手を務められた。
    • 85年の阪神日本一のメンバーになれた。
      • あの年の強力打線からの援護を考えると、多かれ少なかれ10勝はしていそう。
  2. 中西清起の背番号は19にならなかった。そして山内新一(前・南海)か稲葉光雄(前・阪急)は獲得しなかった。
  3. 87年の最下位→吉田監督解任を見届けて現役を引退していそう。

城島健司[編集 | ソースを編集]

  1. 日高獲得はなかったか。
  2. 古巣ホークス復帰もあったか。
  3. 一塁コンバート前向きなら有り得たか。

新庄剛志[編集 | ソースを編集]

  1. 2006年の突然の引退表明はなかった。
    • 2007年も同様の活躍をし、日本シリーズ2連覇をしていたかもしれない。
      • 流石に史実で1勝4敗だったので、日本一になるのは厳しかったかも。それでも、中日相手に2勝か3勝はできていたかもしれないが。
        • ましてや2年連続同一カードの日本シリーズの場合、「前年に敗れたチームがリベンジで日本一になる場合、前年とは逆の勝敗スコアになる」というジンクスがあるので、史実通り中日相手に1勝4敗だったかも。
    • その後も2009年、2012年の日本シリーズにも出場し、巨人と戦っていた。
  2. 工藤隆人のブレイクが遅れていた。
    • 糸井嘉男も。
    • 陽岱鋼も。
    • 工藤隆人に加え、糸井か陽岱鋼もトレードに出されていたかもしれない。
    • 2010年のドラフト会議で西川遥輝を獲得しなかったかもしれない。
    • いずれにせよ、2000年代後半~2010年代前半の日本ハムの外野陣の顔が大きく変わっていたただろう。
  3. バリ島へ渡るのも遅れており、あの金銭トラブルもなかった。
  4. 日米通算2000本安打を達成し、名球会入りしていた。
    • 頑張れば、日本プロ野球(NPB)だけで2000本安打を達成していたかも。
  5. 上手くいけば、44歳となる2016年まで現役を続け、22歳年下の大谷翔平の活躍を見届け、リーグ優勝と日本一を置き土産に有終の美を飾って引退していた。
    • 広島カープとの日本シリーズにも全試合スタメンでフル出場し、最年長本塁打を放って日本一に貢献していた!?
  6. 2020年に48歳にして12球団合同トライアウトを受け、現役復帰を目指すこともなかった。
    • もしかすると2020シーズンも普通に現役選手としてプレーしていたかもしれない。
  7. 2021年オフの日本ハム監督就任は史実通りだろう。

角盈男[編集 | ソースを編集]

  1. 通算100セーブも達成していた。

高橋建[編集 | ソースを編集]

  1. 統一球になった2011年度ならなんとかまだやれたのではないか。さすがに2008年ほどの活躍は厳しかっただろうが。

田尾安志[編集 | ソースを編集]

  1. 92年のリーグV逸or95年の中村監督(当時)解任を見届けて、現役を引退していただろう。
    • あるいは、現実以上に活躍し92年に阪神を優勝に導き、93年以降も強さを維持させていた。
    • 藤田監督退任後は田尾監督待望論が出ていた。
    • 最後の1、2年はコーチ兼任していそう。

達川光男[編集 | ソースを編集]

  1. 引退した1992年も100試合に出場していたので、1994年ぐらいまでは現役を続けていた。
  2. 1993年の最下位転落も無かった(最下位は史実5位の横浜)。
  3. 1995年にダイエーのバッテリーコーチに就任することは無かったかもしれない。
    • むしろ現役のままダイエーに移籍し引退→バッテリーコーチ就任かも。
      • その場合、1999年に広島の監督に就任していなかったかも知れない。
        • 三村監督の後任は山本浩二が前倒しで就任していた。

田淵幸一[編集 | ソースを編集]

  1. 1985年に史実通り西武がリーグ優勝していれば、同年の日本シリーズが彼の古巣との対決ととしても話題となった。
    • 阪神ファンからも「田淵」コールで応援されていた。
  2. あと1、2年指名打者あるいは代打の切り札として活躍したかも。
  3. 引退後に西武のバッテリーコーチを務めていた。
    • ダイエーの監督就任はなかった。
    • バッテリーコーチより打撃コーチのほうが適任では?

長嶋茂雄[編集 | ソースを編集]

  1. 75年に限っては、ジョンソンよりは打ったのでは?
    • 打率1割台の助っ人では…。
    • 彼の監督就任も遅れているのでBクラス転落を免れていただろう。
      • 巨人は最下位を経験していない可能性も。
  2. 76年は打率、ホームランともスターの面影無く、引退。
    • その場合、張本勲は巨人に入団していない。当然巨人の優勝もない。

福本豊[編集 | ソースを編集]

  1. 盗塁や三塁打の記録はもう少し多くなっていたかもしれない。
    • もしかしたら現在でもメジャーでも盗塁数を抜かれていない…と思ったが、さすがにここから350ほど積むのは無理か?
  2. 門田博光のオリックス移籍はなかった。
    • 門田は関西に残るためにオリックスではなく近鉄に移籍していたかも。
      • そうなれば89年の近鉄は日本一になれていたかもしれないし、90年以降も黄金時代を築いていた可能性がある。
  3. ≒「もし上田監督が阪急最後のご挨拶で『今日をもって引退する山田とか福本とか…』と言ってなかったら」。
  4. 阪急電鉄が球団をオリックスに譲渡しなかったら、十分にあり得た。

山本浩二[編集 | ソースを編集]

  1. ホームラン20弱は打てただろう よければもっと打ったかも
  2. 1987年・1988年の広島の成績が若干上向いていた(史実で2年連続で3位)。
    • 阿南監督の後任として広島の監督に就任するのは史実通り。

サッカー[編集 | ソースを編集]

浅岡朝泰[編集 | ソースを編集]

  1. 倉田安治は読売に加入しない。
  2. 中村忠、藤吉信次のブレイクが遅れた。
  3. 21世紀にどこかのJ・JFLクラブで監督になった。

城彰二[編集 | ソースを編集]

  1. 2007年の横浜FCはアレモン退団の影響はさほど無く、J1に残留できた。
    • 残留はできなかったとしても、史実ほどの大惨敗にはならなかった。
    • 久保竜彦の現役引退は史実より早まっていた可能性も。
      • 城が現役続行していたなら、オファーそのものが無かった可能性もあった。
  2. もし2009年以降も現役だったら、J2に降格したジェフ千葉に復帰した可能性も。

中田英寿[編集 | ソースを編集]

  1. 2007年のアジアカップでは3位以上になれた。
    • 同年に角界で起きた騒動が1つ減る。

福西崇史[編集 | ソースを編集]

  1. 2009年は愛媛FCでプレイしていた。(史実では条件面での不一致等で実現せず)

大相撲[編集 | ソースを編集]

安芸乃島勝巳[編集 | ソースを編集]

  1. 垣添や増健とのガチンコ勝負が見られる。
  2. 昭和時代に幕内在位した力士と両国国技館開館後に生誕した力士(白鵬、稀勢の里等)の対戦もあったかも。
  3. 貴乃花部屋からの移籍騒動が違う展開になっていた。

曙太郎[編集 | ソースを編集]

  1. 怪我の回復状況さえ良ければ貴乃花の長期休場中に2場所くらいは優勝できた。
    • 幕内優勝の回数が輪島(14回)に並ぶか抜くことが出来たかも。
    • 武蔵丸に幕内優勝の回数を抜かれることはなかった。
  2. 高見盛人気が実史より早く沸騰していた。
  3. 史実での最後の場所で当たらなかった、琴光喜との対戦も実現していた
  4. 雅山・出島の大関陥落が早まっていた可能性もある
    • 魁皇が5回優勝出来たかどうかも怪しい
  5. 仮に平成14年まで現役だった場合、初場所は1人横綱として、千代大海・栃東と優勝を争っていた

琴天山俊光[編集 | ソースを編集]

  1. 幕下も2場所無敗で通過した。
  2. 十両昇進は初土俵から6場所での昇進となり、板井と並ぶ。
  3. 十両で初黒星を喫するが1場所か2場所で通過しただろう。
  4. 新入幕では少なくとも勝ち越しをしていた。あるいは番付上位と組まされたかもしれない。
  5. 小錦との対戦は初の幕内での外国人力士の取組となった。
  6. 某元横綱のリング上におけるあの発言はなかった。

琴錦功宗[編集 | ソースを編集]

  1. 朝青龍や増健との対戦が実現した。
  2. もし3年以上関取の座を保っていたら琴欧州を付け人にした可能性も。

小錦八十吉(六代目)[編集 | ソースを編集]

現役最後の1997年九州場所は千秋楽まで出場する意向だったが、13日目に負け越しが決まった時点で境川理事長(元・佐田の山)が引退を示唆したため途中引退となった。もし、あと2日長く現役だったら?

  1. 千秋楽の対戦相手は寺尾になっていた。
    • 勝敗に関わらず労いの言葉を受ける。
    • 取組後、自ら会場に招待した家族に花道か支度部屋で花束を渡される。
    • 寺尾は元大関2人の最終対戦相手を務めたことになる(1人目は琴風)。

佐田の山晋松[編集 | ソースを編集]

  1. 玉乃島や琴櫻の初優勝が遅れる。
  2. 大鵬の45連勝もなかった。
  3. 紋付き袴姿で優勝額除幕式に出ることはなかった。

大鵬幸喜[編集 | ソースを編集]

  1. 玉の海急逝後も現役のままだから、北の富士が一人横綱の重圧に苦しむことはなかった。
    • そもそも玉の海がそこで急逝されることはなかった。実際、最期の場所には大鵬の引退相撲に参加するために病気を患いながらも強行出場していた。
  2. 1972年に2回くらい優勝はしていた(史実ではこの年は6場所とも優勝者の顔ぶれが異なっていた)。
    • 優勝回数も史実より増えている。
    • 初場所は史実では栃東が11勝4敗で優勝したが、それを上回る成績で優勝したかもしれない(あるいは千秋楽を待たずに優勝を決めたりして)。
    • 名古屋場所は史実では高見山が優勝したが、本割では高見山に勝ち、優勝決定戦になっても勝っていた。したがって、外人力士の初優勝は史実よりかなり遅れることになる。
  3. 輪島や北の湖との対戦もあったかもしれない。
  4. 琴櫻の横綱昇進もなかったかも。

栃錦清隆[編集 | ソースを編集]

  1. 大鵬の初優勝や横綱昇進が遅れていた。
    • 柏戸は大関止まりだったかも。
    • 逆に佐田の山や栃ノ海、栃光の成績は史実より向上した。
  2. 二枚鑑札制度が存続した可能性もある。

北天佑勝彦[編集 | ソースを編集]

  1. 初代貴ノ花の大関在位記録を更新した。
    • さらに長く続ければ霧島陥落〜2代目貴ノ花昇進までの日本人大関不在がなくなる。
  2. 貴花田初優勝の日に解説しなかったかもしれない。
  3. 琴ノ若の新入幕が遅れていた。

前田山英五郎[編集 | ソースを編集]

  1. 遅かれ早かれ翌1950年中に引退した。
  2. 「場所中の野球観戦が原因で引退した」という汚名を着ることはなかった。

増位山太志郎[編集 | ソースを編集]

  1. 1981年秋場所が大関不在にならなかった。
  2. 幕内勝率が5割を超えていた。
  3. 史実で引退による不戦勝を得た隆の里は、その日から休場した。
    • 大関昇進が数場所遅れていた。
    • 綱取り場所の千代の富士と初日に対戦せず、「場所前の手形の押しすぎで土俵にまで手形を押してしまった」発言はなかった。

力櫻猛(力皇猛)[編集 | ソースを編集]

  1. 一度は三役に昇進した。
  2. 若乃花、貴乃花、曙、魁皇ら「花の六三組」の一員としてもっと活躍できた。
  3. 若の里ら鳴戸部屋の弟弟子を鍛え上げた。
  4. あるいは引退後鳴戸部屋を継いだかもしれない。
  5. プロレスラーへの転向もなく、森嶋猛との「WILD II」もなかった。

和歌桜 康幸[編集 | ソースを編集]

  1. 関取までいった場合安田大サーカスの結成はなかった。
    • その場合はコンビ名は何になっていただろうか。

テニス[編集 | ソースを編集]

伊達公子[編集 | ソースを編集]

  • 2008年に「クルム伊達公子」の名前で現役復帰しましたが、ここでは史実で一度引退した1996年以降も現役を続けていたらとします。
  1. 神尾米の引退はなかったか遅れていた。
  2. 杉山愛のブレイクは遅れていた。
  3. 逆に史実で現役復帰を宣言した2008年時点ではすでに引退していたかもしれない。
  4. ミハエル・クルムとは結婚しなかった可能性がある。

プロボクシング[編集 | ソースを編集]

桜井孝雄[編集 | ソースを編集]

  1. 「安全運転」と言われたスタイルを大きく変えていればもう1回世界挑戦できていたかもしれない。

徳山昌守[編集 | ソースを編集]

  1. 長谷川穂積または亀田興毅との対戦が実現しなくても会長が懸命に慰留していたらこうなっていた。
  2. どちらかとの対戦が実現するかは微妙だが、いつか王座陥落とともに引退していた。

内藤大助[編集 | ソースを編集]

  1. 亀田興毅がバンタム級でなくスーパーフライ級までにとどまっていたら37歳定年制の特例を適用した可能性はあった。
  2. 興毅との再戦は微妙だが、大毅との再戦はありえた。
  3. 坂田健史との再戦は実現せぬまま。
  4. (何年続けたかにもよるが)井岡一翔や井上尚弥、八重樫東との対戦が浮上していた可能性も。

バレーボール[編集 | ソースを編集]

江角真紀子(江角マキコ)[編集 | ソースを編集]

  1. 少なくともオリンピックには出場していた。
    • 当時のJTは下部リーグだったので、移籍とかしない限りは厳しかったような…。
    • 遅くともアテネか北京までには引退していた。
  2. 女優への転身もなかった。
    • 「ショムニ」は別の女優が主演を務めていた。
      • その縁で平野眞とは結婚していなかった。
      • 映画版同様、高島礼子が主演になっていたかも。
  3. 年金未納問題が明らかになることはなかった
  4. 長嶋一茂宅への落書きも恐らくなかった。

体操[編集 | ソースを編集]

永井美津穂[編集 | ソースを編集]

  1. 大学卒業後実業団に進んでいた。
  2. リオ五輪では日本のエースとして注目された。