もしあの選手が日本プロ野球入りしていたら
プロ野球からも熱い視線を受けていたが、現実にはプロ入りしなかった選手が、もしプロ野球選手になっていたら?
- 新規追加は五十音順で。
- プロからの視線の有無を問わず、プロ野球入りする意思を持っていた可能性があると思われる方も書いてもかまいません。
- 芸能人や力士などで本名以外で活動している人物の場合、可能な限り本名を表記してください。
あ行[編集 | ソースを編集]
阿天坊俊明[編集 | ソースを編集]
1966年のドラフト会議で南海ホークスから2位指名を受けましたが、入団に至りませんでした。
- 小池兼司氏と激しいポジション争いを繰り広げていた。
- トレードで巨人か阪神に移籍していた可能性もあり得る。
- 実家の干物商を引き継いでいたのは史実通り。
アントニー(マテンロウ)[編集 | ソースを編集]
小学生時代は「板橋の怪物」と呼ばれ、少年野球の日本代表に選抜されたが、肘の故障で野球を断念した。
- 千葉ロッテかソフトバンクへ行った場合、デスパイネネタでいじられていた。
石井藤吉郎[編集 | ソースを編集]
- プロ野球ブームは早くから起こっていた。
- 巨人に入団していたら、その後に入団する長嶋茂雄と共にIN砲で名を馳せていた。
- 王貞治は打者に転向しなかった。
- 早稲田大学の監督に就任することはなかったので、早稲田大学が一時的に低迷していたかも。
- 恐らく在京球団に入団していた。
- 引退後は、コーチになっていた。もしかしたら、監督になっていたかもしれない。
- 西鉄に入団していたら、高校の後輩である豊田泰光氏を可愛がっていた。
石井章夫[編集 | ソースを編集]
1986年のドラフト会議で横浜大洋ホエールズから2位指名を受けました。
- 弟の石井貴とともに、兄弟でプロ野球入りしていたことになっていた。
- 1998年まで現役を続けていたら日本シリーズで対戦していたかもしれない。
- 大洋の捕手として、活躍していた。
- 同じ慶大に通っていた山下大輔氏から可愛がられていた。
- 若菜嘉晴氏に代わって、大洋の正捕手として、活躍していた。
- その代わりに、市川和正氏はあまり活躍できなかったかもしれない。
- その後、谷繁元信氏や秋元宏作氏の台頭により、控え捕手になっていたか、トレードに出されていた。
- 引退後、山下大輔氏が監督に就任した2004年には、バッテリーコーチに就任していた可能性が高い。
- スコアラーやスカウトとして、横浜ベイスターズに残っていた。
- その場合、村上忠則氏が招聘されることはなかったかもしれない。
石橋貴明[編集 | ソースを編集]
帝京高校野球部に所属し、西武ライオンズの入団試験を受けたことがあったそうです。もし、合格していたら・・
- 当然、とんねるずは結成されていなかった。
- テレビバラエティ史は大きく変わっていた。
- バラエティ人気はダウンタウンとウッチャンナンチャンで二分されていた。
- テレビバラエティ史は大きく変わっていた。
- (一軍に定着していたら)、1992年と1993年の日本シリーズは帝京高校の後輩の伊東昭光との投げ合いが実現した。
井上明[編集 | ソースを編集]
1969年の夏の甲子園で太田幸司(三沢)と投げ合った松山商業の投手。高校卒業後は明治大学→三菱重工長崎(ここで野球生活を断念)→朝日新聞へと進みました。
- プロ入り初年のファン投票1位を獲得してオールスターゲームへの出場を果たしていた。
- セ・リーグに入団していたら太田幸司との対戦が観れていた。
今井正人[編集 | ソースを編集]
今井正人といえば、箱根駅伝で「(元祖)山の神」と称される存在でしたが、小中学校時代は野球もやっていました。もし、彼がプロ野球選手になっていたら…
- 箱根駅伝での「山の神」は柏原竜二まで待つことになる。
- 彼が在学していた期間(2003年度~2006年度)、各種長距離走大会で順天堂の成績が史実より落ちていた。
- 82回箱根駅伝は8区の大ブレーキが重くのしかかり、最悪シード落ちまであったかもしれない。
- 83回は史実でも2位に6分以上の大差があったので普通に勝ちそうだが、もし史実2位の日本大学や3位の東海大学が優勝した場合はその後の両校の運命も変わっていたかも。
- 82回箱根駅伝は8区の大ブレーキが重くのしかかり、最悪シード落ちまであったかもしれない。
- 連続出場記録が史実よりも早く途切れていたかも。
- 彼が在学していた期間(2003年度~2006年度)、各種長距離走大会で順天堂の成績が史実より落ちていた。
- 大学に進学した場合、福島県出身ということで、同じ東北の楽天を希望していたかもしれない。
- 高校時のドラフトは楽天発足前(2002年度)なので、福島に近い巨人・ヤクルト・西武・日本ハムあたりを希望していたかもしれない。
- ポジションは、陸上転向前から陸上をやっていたことで、足を生かせる外野手として起用された可能性がある。
岩本紘一[編集 | ソースを編集]
1966年ドラフト会議(第2次)で阪急から2位指名されましたが、拒否しました。
- 一塁手か三塁手として、1967年の阪急の初のリーグ優勝に貢献した。
- その後、加藤秀司氏の台頭により、三塁手か二塁手に回っていた。
- 森本潔氏とポジション争いをした上に、レギュラーに定着していたか。
- 森本潔氏の代わりに、トレードで中日に移籍していたか。
- 同じ亜大に通っていた大橋穣氏とプレーしていたかもしれない。
上西博昭[編集 | ソースを編集]
1969年のドラフト会議で阪神タイガースから4位指名を受けました。
- トレードで他球団に放出されていたかもしれない。
- 引退後、史実通り、プロゴルファーになっていた。
宇梶剛士[編集 | ソースを編集]
- プロに入ってもあだ名は「ヘッド」。
- 清原和博の存在が薄かった。
- 退場数も多く、乱闘要員だった。
遠藤章造[編集 | ソースを編集]
高校時代、中日や広島からスカウトが来た。
- 当然ココリコはなかった。
- 田中直樹が有名になることもなかった。
- ダウンタウンや山崎邦正と共演することもなかった
- ほちぃは誕生しなかった
- ダイエーにいた田中直樹選手もネタにならなかった。
- ダウンタウンや山崎邦正と共演することもなかった
- 千秋とも結婚していなかった。
- 田中直樹が有名になることもなかった。
- 中日、もしくは広島で代打として活躍していた
- 近鉄の大石選手で×××××していたことを告白することも無かった。
大橋晋也[編集 | ソースを編集]
1995年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから8位指名を受けましたが、入団に至りませんでした。
- 田村藤夫・定詰雅彦・吉鶴憲治と激しいポジション争いを繰り広げていた。
- 清水将海・里崎智也はロッテに入団していないかも。
- 椎木匠は中日でプレーを続けていたので、小久保が巨人へ無償トレードされることもない。
- 2005年の日本一に貢献していた。
應武篤良[編集 | ソースを編集]
1976年のドラフト会議で近鉄バファローズから3位指名を受けましたが、入団に至りませんでした。
- 有田修二氏や梨田昌孝氏と激しいポジション争いを繰り広げていた。
- 1979年、1980年、1989年のリーグ優勝に貢献していた。
- 新日鉄君津の監督になることはなかった。
- 早稲田大学の監督になることはなかった。
- 斎藤佑樹が大学時代に酷使されることはなく、現状のような成績の低迷はなかった。
岡田武史[編集 | ソースを編集]
サッカー日本代表の監督を2回務め、南アフリカワールドカップでは日本代表をベスト16まで導いた「岡ちゃん」こと岡田武史氏ですが、実は小学生の時は南海ホークスのファンで、南海が運営する「南海ホークス子供の会」に入会していました。
しかし中学に進学すると、野球部の上下関係の厳しさを目の当たりにして野球は自分には向いていないと考え、サッカーに熱中するようになりました。もし中学以降も野球を続け、プロ野球入りしていたら…。
- 早稲田大学卒業後に南海ホークスへ入団している。
- 史実より1980年代の南海の成績は向上していた。
- プロ野球でも理論派の選手として活躍している。
- ホークスの福岡移転数年後に引退。
- 引退後はコーチか解説者に転身している。
- 史実以上に岡田彰布と混同する人が増えていた。
- 日本サッカーは…。
- 未だに弱小国のまま。
- アジア枠が広がっているので、ワールドカップには普通にでている。
- 1998年のフランスワールドカップ最終予選は最後まで加茂が指揮を取って、予選敗退していた。
- 清雲がコーチが監督を引き受けて史実通り予選突破
- フランスワールドカップの本戦には日本の代わりにオーストラリアが出場していた。
- コンサドーレの監督にも就任していないので、2001年にJ1に昇格するのはレッズとトリニータの2チームとなっていた。
- マリノスはJリーグ完全制覇(2003年)を達成していないだろう。
- (誰が監督をしていたかにもよるが)2010年の南アフリカワールドカップで、日本代表は本当に「0勝3敗」の成績を残していた。
- そもそも出場していたかどうかも怪しい。
- アジア枠が広がっているので、ワールドカップには普通にでている。
尾崎健夫[編集 | ソースを編集]
実際にドラフト会議でヤクルトに指名されたことがあります。
- 兄の尾崎将司が史実以上に野球界で活躍できていたらありえたかも。
- 弟の直道はおそらく将司や健夫を支える役割についており、プロゴルファーにはならなかった。
- 直道も入団していた場合、「三兄弟選手」として注目を浴びていた。
- 弟の直道はおそらく将司や健夫を支える役割についており、プロゴルファーにはならなかった。
- それでも坂口良子との結婚は史実通り。
- 剛速球投手として活躍していた。
小畑敏満(北の湖敏満)[編集 | ソースを編集]
元々野球が好きで、左打ちでも柵超えするほどのパワーを持っていました。もし角界ではなく、野球に専念してプロ野球入りしていたら・・・。
- 阪神か近鉄当たりがドラフトで指名したかもしれない。
- 豪快なパワーを持ち味として、本塁打王を何回か取っていたかもしれない。
- パ・リーグ入りなら、門田博光と本塁打王争いしていただろう。
- そうか?史実でも横綱時代に評論家達から太り過ぎを指摘されていたから、案外同じような理由で伸び悩んだかも。
- パ・リーグ入りなら、門田博光と本塁打王争いしていただろう。
- 角界の方は、若乃花・千代の富士が来るまで、輪島の独走状態となっていた。
- 「江川・ピーマン・北の湖」という子供の嫌いなものの呼称は生まれなかった。
か行[編集 | ソースを編集]
金光興二[編集 | ソースを編集]
1977年のドラフト会議で近鉄バファローズから1位指名を受けましたが、入団に至りませんでした。
- 近鉄の1979年、1980年の二連覇に貢献していた。
- 三菱重工広島は都市対抗で優勝していない。
- いてまえ打線の一員として、「10.19」や1989年のリーグ優勝で活躍していた。
- ドン・マネー、ラリー・ウルフ、リチャード・デュランの加入はなかった。
- 広島商業高校の監督になることはなかった。
- 史実よりも遅れて就任していたかもしれない。
- 1978年に新人王を獲得していたかもしれない。
- オールスターゲームに出場していた。
- 引退後は、コーチ、スカウトなどを歴任していた。
- 監督に就任していた可能性もあり得る。
上地雄輔[編集 | ソースを編集]
横浜高校時代は捕手で背番号2で、1年後輩の松坂大輔とバッテリーを組んでいた。
- 怪我してなければ指名されていたかも。
- 指名していたとすれば横浜か?
- 多分中村武志が退団したころにトレードで入団(そこまでやってれば)
- 現役引退後、結局はおバカタレントか?
- ただ、少なくとも羞恥心には入らず、元木のようなポジションにいた。
鍛治舎巧[編集 | ソースを編集]
1975年のドラフト会議で阪神タイガースから2位指名を受けましたが、拒否しました。
- パナソニックの専務役員になることはなかった。
- 秀岳館高校の監督になることもなかった。
- 状況次第では、史実通り、母校である県立岐阜商業監督就任はあったかも?
- NHKで高校野球解説者をやることもなかった。
- 阪神打線が史実より拡充していた。
- 3番打者になっていたの可能性が高い。
- 10年近くプレーしていた。
- 1985年の阪神タイガースの日本一に貢献していたかもしれない。
- ラインバック氏らの外国人の外野手が入団することはなかった。
- 引退後は、球団職員として、球団をバックアップしていた。
上重聡[編集 | ソースを編集]
- TDNを自由枠で獲得しようとした球団がこぞって指名する。
- 横浜が指名した場合、村田の横浜入りはなかったかもしれない。
- そんなに横浜に万年最下位になってほしいのか?え?(無論ジョーク)
- 寧ろいない方がよかったと思う。
- 2003年の監督が大ちゃんという時点で既に最か(ry
- 引退後はTBSのアナウンサーになっていたか。
- そんなに横浜に万年最下位になってほしいのか?え?(無論ジョーク)
- 巨人に入った場合、酷使されて故障して投手生活は短命に終わりそう。
- で、日テレ入り…史実と変わらず。
- くだらない駄洒落は言わなかった…と思う。
- 靴屋からの利益供与疑惑も無かった。
亀梨和也[編集 | ソースを編集]
小学生の時はリトルリーグに所属し、国際大会にも出場していました。もし、ジャニーズに入所せず、その後も野球を続けてプロ入りしていたら・・・
- KAT-TUNは「ATTUN」になっていたか。あるいは全く別の名前のグループか
- そして、史実通りのメンバー脱退をしたら・・・
- UN。
- 史実より早く「充電」期間になっていたかもしれない。
- そして、史実通りのメンバー脱退をしたら・・・
- 「修二と彰」は山下智久と別のジャニーズで結成していた。あるいは、ドラマ「野ブタをプロデュース」自体がなく、結成されなかった。
- 堀北真希のブレイクも遅れていた。
- 「イケメン選手」として女性ファンからの人気が高かった。グッズも売れていただろう。
- 「GOING」のスポーツキャスターは中居正広だった。ジャニーズで「野球ファン」と言ったら中居だった。
川島勝司[編集 | ソースを編集]
1968年のドラフト会議で近鉄バファローズから2位指名を受けました。しかし、入団に至りませんでした。
- 三塁手として、活躍したものの、羽田耕一氏の台頭により、トレードに出されていた。
- アトランタオリンピックの日本代表監督になることはなかった。
川淵三郎[編集 | ソースを編集]
Jリーグをはじめとする日本サッカーの雄といっても過言ではない川淵三郎も、中学時代は野球部に所属しており、今でも野球ファンでもあるそうです。もしプロ野球入りしていたら?
- 日本サッカーの発展が大きく遅れていた。
- 不遇の時代が史実より長く続き、プロ化も大幅に遅れた。
- プロ化後しても、Jリーグの発展も史実より長い時間を要した可能性もある。
- 早稲田大学へ進学せず、高校卒業とともにプロデビューをしていた可能性もある。
- 史実通り早稲田大学へ進学した場合、当然野球部入りしていた。
- 堺市出身、ということで南海、もしくは在阪球団入りが有力だったか?
- 逆に野球の国際化が早まっていた可能性がある。
- もしかしたらこうなっていた可能性もあったかも知れない。
- ただ歴代のコミッショナーを見る限り実際そういった要職についていたとしてもサッカー界で発揮したような手腕を見せることが出来たかどうかは...
- 少なくともバスケットボール界の改革に関わることはなかったはず。
- ただ歴代のコミッショナーを見る限り実際そういった要職についていたとしてもサッカー界で発揮したような手腕を見せることが出来たかどうかは...
- もしかしたらこうなっていた可能性もあったかも知れない。
- メキシコ五輪サッカー日本代表は…どうだろ。
- 当然、社会人経験を経てプロ野球界入りするにしても、古河電工には入社していなかった。
清原幸治[編集 | ソースを編集]
PL学園高→青山学院大学→松下電器でプレイした、清原和博の弟。
- 巨人入りなら兄弟選手として有名になっていた。
- PLでチームメイトだった桑田泉氏もプロ入りしていたら尚更注目されていた。
- パ・リーグに入団していたら青山学院でチームメイトだった小久保裕紀とライバル関係になっていたかも。
オレステス・キンデラン[編集 | ソースを編集]
- キューバとして初のプロ野球選手で話題となった。
- 三冠王になっていた。
- 1994年以降にパ・リーグに入団していた場合は(特に史実だとオリックスが一番獲得の可能性が高かった)イチローの全盛期と重なるため二冠王止まりだったと思われ。
グエン・トラン・フォク・アン[編集 | ソースを編集]
- ベトナム国籍であることが話題となった。
- ベトナムの野球普及に努めた可能性も。
ヨハン・クライフ[編集 | ソースを編集]
オランダサッカーのレジェンド。ヨハンクライフは若い頃野球をやっていた。オランダは欧州でもっとも野球が盛んで、WBCでも活躍している。有名人は日本プロ野球最高身長だったファンミル。
- 当時の日本プロ野球は外国人枠が少なく見切りも早かったので、すぐ放出されていたかもしれない。
- もし活躍できていれば、オランダでは史実以上に野球が盛んになっていた。
- 湊川やG.G.佐藤だけではなくさまざまな選手が欧州野球に移籍していた。
- オランダサッカーは史実ほど強くなっていなかった。
- エールディビジは主要リーグとみなされていなかった。ギリシャやトルコくらいの扱いだったかも。
黒須陽一郎[編集 | ソースを編集]
1989年のドラフト会議でヤクルトスワローズから3位指名を受けましたが、入団しませんでした。
- 同じ立大の長嶋一茂氏とともにプレーすることになっていた。
- スカウト部長の片岡宏雄が立大のOB会と縁を切ることはなかった。
桑田泉[編集 | ソースを編集]
桑田真澄氏の弟で、PL学園→青山学院大学と野球をしていましたが、大学時代に故障で断念し、プロゴルファーになりました。もし、故障がなくプロ野球に入っていたら・・・
- 巨人に入っていたら兄弟選手として有名になっていた。
- PLでチームメイトだった清原幸治氏もプロ入りしていたら尚更注目されていた。
- 野手だったので、セ・リーグの他球団に入っていたら兄弟対決が見られていた。
- 「キヨハラくん」等の河合じゅんじの漫画では「クワタの影武者」等で出番が多かった。
- 現役引退してコーチになったら「毒舌コーチ」となっていた。
桑田真樹[編集 | ソースを編集]
- 巨人入りなら親子鷹と注目。
- 弟Matt(将司)のマネージャーにはならなかった。
- 桜美林大学の強化につながったか。
小西正則[編集 | ソースを編集]
- 西武を除くパリーグの球団に入団していたら、松坂との投げ合いが1年目から見られたかもしれない。
- WBC日本代表に選出されていた可能性もある。
- 川端慎吾よりも先に兄妹選手になっていた。
小林秀一[編集 | ソースを編集]
1973年のドラフト会議で、読売ジャイアンツから1位指名を受けました。
- 新人王を獲得していたかもしれない。
- 江川卓氏らの台頭で、トレードで他球団に放出されていた。
- 小林茂氏や加藤初氏とともに、巨人のエースとして、活躍していた。
さ行[編集 | ソースを編集]
坂本佳一[編集 | ソースを編集]
東邦の1年生エースとして77年夏に準優勝したがイップスがなくプロ野球に入っていたら•••
- NPBドラフト会議では5球団以上から1位指名を受けた。
- 地元愛知ということもあり中日ドラゴンズへ入団していた。
- 荒木大輔は「バンビ2世」と呼ばれることになっていた。
西郷泰之[編集 | ソースを編集]
- おそらく在京球団に入団していた。
- 所属していた三菱自動車川崎(三菱ふそう川崎)の活動休止は数年早まっていたかも?
斎藤義典[編集 | ソースを編集]
1996年のドラフト会議で近鉄バファローズから5位指名を受けましたが、入団に至りませんでした。
- 2001年のリーグ優勝に貢献していた。
- 在京球団へトレードされていた可能性も…。
- 近鉄への入団を拒否した理由の一つとして、斎藤本人が地元の関東の球団を希望していた事が挙げられるので。
カルロス・ザンブラーノ[編集 | ソースを編集]
- 二刀流選手として獲得したかも。
- 大谷との二刀流対決が実現していた。
- 外国人枠の二刀流選手ルールが整備された。
嶋清一[編集 | ソースを編集]
1941年に南海への入団交渉を進めていたが周囲の説得により取りやめた。
- 41年にそのまま南海入りしていたら史実より早く徴兵されていた。
- 史実通り戦死していたら沢村栄治や景浦将と並んで戦没したプロ野球選手の代表格となっていた。
- 戦争から無事復員できていたら復員の翌年くらいにプロ入りしていた。
- ただしこの場合年齢が25歳を過ぎているためあまり長く活躍できなかったと思われる。
- 大下や川上と後世まで語り継がれるような名勝負を繰り広げ「記録より記憶に残る選手」の代表格となっていた。
- 戦後に南海でプレーしていた場合はいわゆる「別所引き抜き問題」の展開に影響があったかもしれない。
- 別所ではなく嶋が引き抜かれていたかもしれない。嶋がエースで別所が2番手だった場合、その後の別所にも影響を与えていた。
- 球界有数の愛妻家として知られていた。
- アニメ「巨人の星」には現実と全く違う形で登場していた。
- それでも性格を考慮するとあまり悪のイメージが強そうな役柄ではなかった気がする。
- 甲子園で成し遂げた準決勝・決勝2試合連続ノーヒットノーランの偉業は現実より広く知られている。
- 野球殿堂入りも早くなっていたはず。
- 戦後、南海ホークスでプレーしていたら、杉浦忠氏とともにエースとして、活躍していた。
- 引退後はコーチになっていた。
- 1965年のオフに、鶴岡一人氏の後任として、蔭山和夫氏ではなく、嶋清一氏が南海の監督に就任していた。
- その場合、鶴岡一人氏は東京オリオンズorサンケイ・スワローズの監督に就任していた。
島木譲二(濱伸二)[編集 | ソースを編集]
強豪・興國商業高校の野球部に入部するも、2年生の時に肩を壊して野球を諦めた。
- 尼崎の出身なので、在阪球団に入団していた。
- 「大阪名物パチパチパンチ」は存在しなかった。
志村亮[編集 | ソースを編集]
- 島田紳助ややくみつるから揶揄されることはなかった。(巨人入りの場合を除く)
- 巨人なら当時の監督が慶應の大先輩・藤田元司だったため彼に重宝がられた。
- 同じ左腕の宮本和知は二軍でくすぶったままとなっていた。
- 中日なら山本昌と「神奈川産Wサウスポー」で売り出していた。
- 杉本正は他球団に放出されていた。
- 今中慎二は中日入りしていない。
- なお、志村と山本昌は、83年夏の神奈川大会5回戦の桐蔭学園対日大藤沢の試合で、おなじマウンドを踏んでいる(日藤の山本昌が完投勝利で、桐蔭の志村が最後のリリーフ)。
- 志村は最後のリリーフではなく3番手で登板。ともあれこのふたりが、後年注目されたり、プロ球界で大きな足跡をのこしたりすることなど、当時はまったく想像できなかった。
- 大洋ならやくみつるに4コマで絶賛されていた。
- むしろタコ助呼ばわりされた佐々木や隔年エース呼ばわりされた野村のようにやくみつるに悪いあだ名を付けられたかも知れない。
- 引退後はGMになっていたかも。
- 「消えた天才」で取り上げられることはなかった。
マイケル・ジョーダン[編集 | ソースを編集]
いわずと知れたバスケ界の伝説。野球転向したことがあり、マイナーリーグ2Aで打率2割ながら、30盗塁を決め3本ホームランも打っている、高い四球率で出塁率3割。
- 全世界で大きな話題になり、NPBに世界の注目が集まっていた。
- 代走中心なら活躍できていたかもしれない。
杉浦正則[編集 | ソースを編集]
- 1995年にダイエーに入団していた場合
- アトランタのマウンドに立つ事はないが、シドニーではプロの一人として投げていた。
- それだと松な(ry
- 1999年のダイエー初優勝時には胴上げ投手になっていたかもしれない。
- 2004年のアテネ五輪まで現役を続けていただろう。
- 引退後は指導者として社会人に戻っている。
杉山孝一[編集 | ソースを編集]
1985年のドラフト会議で、ヤクルトスワローズから6位指名を受けました。しかし、入団に至りませんでした。
- 若松勉氏に代わり、左翼手かつ4番打者として、活躍していた。
- 杉浦亨氏や荒井幸雄氏らと激しいポジション争いを繰り広げていた。
- 1992年、1993年のリーグ優勝に貢献していた。
諏訪部貴大[編集 | ソースを編集]
2008年のドラフト会議で中日ドラゴンズから6位指名を受けましたが、入団に至りませんでした。
- 諏訪部本人は3位以上ならプロ入りする意思があったそうなので、恐らく3位以上での入団になるだろう。
- 2019年現在も先発ピッチャーとして活躍している。
- 2010年代中盤のドラゴンズの成績は史実よりは良かった。
- どこかで右肘の手術をしていたかも…。
- 最悪の場合、一軍未経験のままドラゴンズを退団していた可能性も考えられる。
- (Honda硬式野球部でチームメイトだった)長野久義との対決もありえただろう。
たな行[編集 | ソースを編集]
大坊聡[編集 | ソースを編集]
立教大学時代に多田野と共に某有名ゲイビデオに出演したことで有名だが、彼自身も高校時代にはドラフト候補にも挙がっていた。
- =多田野のスキャンダルはなかった。
- 出演しなかっただけで性癖が同じならば同じチームの若手選手の数人は被害にあう可能性がある。
- 風評被害の一部(日本ペイントなど)はなかった。
- KYN、POPO、AKNMが発掘される事はあってもKYNの本名が割れる事はなかっただろう。KYNが役名のHRDと呼ばれていた
高岸弘行[編集 | ソースを編集]
済美高校時代は投手としてMAX147km/hを計測し、阪神とヤクルトからスカウトを受けていました。
- ヤクルトに入団していた場合、2010年代の成績が史実よりは良くなっていた。
- 速球派の投手として活躍していた。
- 相方の前田裕太はどうなっていただろうか?
高見泰範[編集 | ソースを編集]
1985年のドラフト会議で阪急ブレーブスから5位指名を受けましたが、入団に至りませんでした。
- 藤田浩雅氏と正捕手争いを繰り広げていた。
- その後、中嶋聡氏の台頭により、早期に引退していたか、トレードに出されていた。
- 日本ハムの西崎幸広氏と対決する場面があった。
- 1992年のバルセロナオリンピックに出場することはなかった。
- 引退後、ブルペン捕手、スコアラー、コーチになっていた。
竹澤勝昭(北の富士勝昭)[編集 | ソースを編集]
角界入りする前は、中学校で野球をやっていて(投手)、地元北海道の古豪・北海高校からも勧誘されていたそうですが、野球で高校進学し、かつプロ野球入りしていたら?
- 甘いルックスで“プレイボーイ横綱”といわれた史実同様、とくにセ・リーグであれば女性人気を得ていた可能性あり。
- 当然ながら、角界で“北玉時代”は実現しなかったが、もし史実通り、玉の海が現役中に急逝していたら、横綱不在で、史実以上に混沌とした状況に陥っていたかも?
デレク・タツノ[編集 | ソースを編集]
米大学野球No.1投手として日本球界でもスカウト合戦があったものの、MLBからドラフト指名→拒否して社会人野球プリンスホテルへ→MLBから二度の指名を受け日本球界入りは実現できませんでした。
- 同じく有力候補だった江川卓と共に重複指名が起きていた。
- 西武か広島に入団していた。
田中大貴[編集 | ソースを編集]
- 2002年のドラフト自由獲得枠で幼少時からのファンであったオリックスに入団していた。
- 同い年でありながら東京六大学時代対戦経験のない上重聡がプロ入りしていた場合、対戦が公式戦あるいは交流戦で実現していた。
- 史実で出演している「とくダネ」のレギュラーは田淵裕章あたりが担当していた。
田村忠義[編集 | ソースを編集]
1974年のドラフト会議で、太平洋クラブライオンズから1位指名を受け、翌年のドラフト会議には、ヤクルトスワローズから2位指名を受けました。
- 太平洋に入団した場合、東尾修氏とともに、ライオンズのエースとして、活躍していた。
- 阪急の山口高志氏とともに、新人王争いをしていた。
- 広島から指名を受けていたら、確実に入団していた。
- 年齢を考えると長くても10年ほどで引退していた。
鶴岡泰(山本泰)[編集 | ソースを編集]
父親である鶴岡一人氏の猛反対により、指名された南海ホークスに入団することはありませんでした。もし父親の許しを得て入団していたら…
- 「鶴岡二世」として、活躍していた。
- 「逆転のPL」はなかったかもしれない。
- 中村順司氏がPL学園の監督に就任するのは史実より早かっただろう(史実では1980年8月)。
- 南海がダイエーに売却されていなかったら、1990年代に南海の監督になっていたかも。
- 指名順位が上位になっていた可能性もあり得る。(史実では、12位で指名。)
寺田良介(美木良介)[編集 | ソースを編集]
高校時代に甲子園に2回出場、法政大学時代には西武ライオンズから入団を打診されましたが、肘の故障のため断念しました。
- 80年代の西武を支えていた。
- 「ロングブレスダイエット」は存在しなかった。
徳永昭広 (島田洋七)[編集 | ソースを編集]
名門・広陵高校の野球部に入部するも、高校でのアクシデントにより野球を諦めた。
- 高校およびプロで活躍していればがばいばあちゃんの逸話は有名になるだろう。
- 当然、「B&B」は結成されず。
- 仮にプロ引退後にお笑い芸人になっていれば「元野球選手のタレント」という扱いになり、お笑い芸人にはならなかったかも。なったとしても板東英二のようなタレントか。
- 島田洋八の境遇はいかに…
仲井真重次[編集 | ソースを編集]
仲井真重次と言えば、かの具志堅用高をボクシングに誘い、世界王者に導き、その後地元でジムを設立して平仲明信を育てた人物として知られています。しかし、彼は元々プロ野球選手を志望し、プロテストも受験していました。もし、彼がプロ野球選手になっていたら・・・
- 具志堅も野球選手を目指していただろう。
- すなわち、世界王座13連続防衛もない。
- 世界王座防衛記録はしばらく小林弘と輪島功一の「6」のままで、徳山昌守によって破られる。
- 史実でも具志堅は高校入学直後は野球部に入るつもりだった。
- すなわち、世界王座13連続防衛もない。
- 日本ボクシング界は現実より様変わりしていた。
- 具志堅を目標としていたボクサーも多かったため。
- 協栄ジムはいわゆる「古豪」になっていた。
- 「毒入りオレンジ事件」も起こらなかった可能性が高い。
- 沖縄が「ボクシング王国」と呼ばれる事もなかった。
- 白井・具志堅ジムももちろんない。
- なので、内藤大助のボクサー人生も大幅に変わっていただろう。
- 亀田一族とはどういう関係が?(この男のボクシング人生を語るうえで亀田一族は避けて通れないはず)
- なので、内藤大助のボクサー人生も大幅に変わっていただろう。
- 入団するだけでなく選手として成功していたら…
- 中学卒選手の養成に本格的に取り組む球団が出てくる(仲井真の入団テスト受験は中卒時)。
- それで成功する選手が続々と出てきたら、高校野球の状況が史実と相当違ったものになっている。
- 場合によってはハンカチ世代が「辻本(賢人)世代」になっていた可能性も。
- 中学卒選手の養成に本格的に取り組む球団が出てくる(仲井真の入団テスト受験は中卒時)。
長嶺俊一[編集 | ソースを編集]
史実では、1967年のドラフト会議で、西鉄から6位指名を受け、1969年のドラフト会議で、阪急から6位指名を受けました。
- 阪急に入団していたら、広島などの他球団にトレードに出されていた可能性が高い。
- 10年ぐらいプレーしていた。
中村裕二[編集 | ソースを編集]
1967年のドラフト会議でロッテから7位指名を受け、1973年のドラフト会議で巨人から3位指名を受けました。
- 巨人に入団した場合、吉田孝司氏に代わって、正捕手として活躍した。
- 山倉和博氏が入団した後は、激しいポジション争いを繰り広げていた。
- (巨人に入団した場合)史実通り、1979年に亡くなった場合、黒沢俊夫氏と湯口敏彦氏とともに現役中に亡くなった選手として知られていた。
- 1976年と1977年の日本シリーズに出場していた。
- 引退後は、バッテリーコーチ、スコアラー、スカウトを歴任していた。
野久保直樹[編集 | ソースを編集]
興誠高校時代、中日の指名候補になっていた
- とりあえず二軍選手を追っかけるギャルには人気が出たかも。
- おバカであることがばれる事はなかったはず。
- 芽が出ず早々と引退し、俳優に転身していたらあるいは・・・。
- 「平成の板東英二」と呼ばれていただろう。
- あるいはモデルになって「第2の山崎賢太」と呼ばれる可能性も。
- 結局、史実通りつるの剛士、上地雄輔と「羞恥心」を結成する。
- そこそこ活躍していた場合は、つるのではなく元木と野球に関するグループを結成していたかもしれない。
- 史実のM木D介を見る限り、引退して芸能界入りしたら結局は…。
- 芽が出ず早々と引退し、俳優に転身していたらあるいは・・・。
は行[編集 | ソースを編集]
萩野友康[編集 | ソースを編集]
- 大学卒業後に入団した場合、広島の投手陣の一角として、活躍していた。
- 1974年のドラフト会議で指名されていた場合、どこの球団が指名していたのだろうか?
- 太平洋が指名していた可能性もある。
萩原寛(稀勢の里寛)[編集 | ソースを編集]
中学生時代までは野球をやっており、常総学院からのスカウトを受けたこともあるそうです。
- 投手・捕手をしていたが、おそらく体格の大きさからして捕手になっていただろう。
- どうだろうか。元々「自分はデカいだけ」と言って勧誘を断っていたし、元々自分にプロになるほどの才能は無いと見ていたかもしれない。
- 指名されても通用しなかっただろう。とはいえ、二軍や育成の捕手の頭数が必要な場合などに重宝はしたかもしれない。
- どうだろうか。元々「自分はデカいだけ」と言って勧誘を断っていたし、元々自分にプロになるほどの才能は無いと見ていたかもしれない。
- 相撲界に大きく影響していた。
- 白鵬の連勝記録はもう少し伸びていた。
- 史実で稀勢の里が初優勝した2017年初場所の次点力士は蒼国来だった。
- 中国力士として初優勝になり、中国人にも好角家が増えていたかもしれない。
- 冤罪で追放されかけた悲劇の力士として、マスコミでも大きく取り上げられていただろう。
- 彼の冤罪が有名になっていれば、この年追放された日馬富士へのマスコミのバッシングや処分ももう少し慎重だったかもしれない。
- 日馬富士も現役を続けていれば、大きく勢力図が変わっていた。
- 現在でもモンゴル力士の王国が築いていたかもしれない。
- 冤罪で追放されかけた悲劇の力士として、マスコミでも大きく取り上げられていただろう。
- 中国力士として初優勝になり、中国人にも好角家が増えていたかもしれない。
- 2017年3月場所は照ノ富士の優勝だっただろう。
- 文句なしの横綱昇進の成績ではないので横審の判断にもよるが、5月場所後に照ノ富士が綱取り成功していたかもしれない。
- しかし、そうなっていれば照ノ富士はとっくにケガで引退しており、2020年と2021年の復活はなかっただろう。
- そうなっていた場合、2022年には横綱大関が空位になりかけていた。
- 2023年初場所には横綱0人、大関が貴景勝1人という珍事になっていただろう。
- 番付編成のために大関が必要なため、33勝の基準を満たさず編成用に大関を上げるという史上初の珍事が起きていた。
- 0大関で横綱大関もいない場合の規定というのも実は存在している。その規定通りに昇進させるだろう。
- 番付編成のために大関が必要なため、33勝の基準を満たさず編成用に大関を上げるという史上初の珍事が起きていた。
- しかし、そうなっていれば照ノ富士はとっくにケガで引退しており、2020年と2021年の復活はなかっただろう。
- 文句なしの横綱昇進の成績ではないので横審の判断にもよるが、5月場所後に照ノ富士が綱取り成功していたかもしれない。
林尚克[編集 | ソースを編集]
1991年のドラフト会議では上位指名が予想されていましたが、結局指名されませんでした。
- 中日に入団していたら、90年代後半から00年代中盤までの中日の成績は史実より良かった…かも。
- 都市対抗野球での愛知県勢の優勝は2016年のトヨタ自動車まで待つことになる。
長谷川亮太(共栄大学野球部)[編集 | ソースを編集]
⚠️みんなが想像したあの人には全く似ていません⚠️ 共栄大学野球部の一塁手。パンチ力のあるバッターで東京新大学野球リーグMVPを獲得したこともある実力者だが、プロ志望届を出さなかった。 ちなみに例のあの人は自称外野手である。
- 日本人一塁手のホームランバッターというのは、大成が難しいので下位指名になるかもしれない。
- 一方で和製大砲に夢を持つファンは多いためファンの人気は多かった。
- なんJ民からはもちろん話題になる。
- しかし、史実でも読みが同じで漢字が違うはせがわりょうた投手が日ハムに入団しているが、それほど話題にならなかった。
- 一部では話題になったものの、例のあの人をなんJ民が忘れつつあるので、こちらの長谷川が活躍すれば検索にもひっかからなくなるかも。
- こちらのりょうた投手は2021年に一軍登板を果たしたが通用せず、2022年引退。
- もしも共栄大学の長谷川亮太一塁手が日ハムに入団していた場合、日ハムにはせがわりょうたが二人在籍していたことになる。
- さすがにここまで重なれば、日ハムはTDN以来のネタ球団として話題になるだろう。
- ちなみに漢字まで同一の同姓同名も過去にはおり、これも日ハムの田中幸雄だった。なんだこの球団は、たまげたなぁ
- 2022年現在は、東京大学野球部にも漢字まで同一の長谷川亮太外野手がいる。東京大学からプロ野球入りするケースは珍しいが前例はある。もしも彼も日ハムに入団していれば、漢字まで同一の長谷川亮太が二人になる。
- ちなみに東大の長谷川亮太外野手は、東大野球部の公式サイトでプロフィールを公開しているが、灘高出身のエリートで、あだ名は「ハッセ」である…。
- さすがにここまで重なれば、日ハムはTDN以来のネタ球団として話題になるだろう。
- もしも共栄大学の長谷川亮太一塁手が日ハムに入団していた場合、日ハムにはせがわりょうたが二人在籍していたことになる。
開田博勝[編集 | ソースを編集]
2000年のドラフト会議でオリックス・ブルーウェーブから5位指名を受けましたが、入団に至りませんでした。
- 2000年代前半のオリックスの成績は史実より良くなっていた。
- 『契約金ゼロ』枠での選手獲得が“オリックス・バファローズ”となってからも続いていた。
- トレードでダイエーorソフトバンクに移籍していた可能性もある。
- その場合、(三菱重工長崎で先輩後輩の間柄だった)杉内俊哉と再びチームメイトになっていた。
- 引退後はコーチになっていた。
- 2004年オフの選手分配ドラフトでは、(当時新規参入したばかりの)楽天に分配されていただろう。
- 2021年のオリックス・バファローズのリーグ優勝を心から喜んでいた。
- その時点で野球解説者となっていた場合、クライマックスシリーズor日本シリーズの中継で解説を担当していた。
藤川順一[編集 | ソースを編集]
藤川球児の兄で高知商時代には兄弟バッテリーで有名に。しかしながら後にアクシデントで選手生命を絶たれた為プロ入りはできずに終わった。
- 指名・移籍等が上手くいけば、新井兄弟よりも先に阪神での兄弟出場が実現していたかもしれない。
- ポジションが被らないので理論上は藤川・新井兄弟を全員スタメンに並べる事も出来るが、余程の事が無い限りパワプロ等の野球ゲームでしか採用されない。
- 「JFK」がキャッチャーの順一込みで「JF2K」と呼ばれるようになっていた。
- 阪神での兄弟バッテリーということで嶋田宗彦・嶋田章弘兄弟を思い出すファンも多かっただろう。
- 彼の所属暦が無いので球児がアイランドリーグに行く事は無かった可能性が高い。
- 万が一あったとしても高知であったかどうかは怪しい。
- なんJでは「弟の失策の巻き添えを食らってネタにされる兄」のポジションが板につく。
藤田憲右[編集 | ソースを編集]
高校時代は野球部のエースで、甲子園予選地方大会にて2試合連続1安打完封勝利を記録しています。
- トータルテンボスは結成されていなかった。
- アフロヘアにはならなかった。
藤高俊彦[編集 | ソースを編集]
1981年のドラフト会議で西武ライオンズから5位指名を受けました。しかし、入団に至りませんでした。(指名では、阪急ブレーブスと競合)
- 当時の西武ライオンズの投手陣は厚かったので、なかなか活躍できなかった。
- 阪急ブレーブスから指名を受けた場合、確実に活躍していた。
- 岩本好広氏は6位指名を受けていた。
- もしかしたら、岩本好広氏は中日から指名を受けていたかもしれない。
船見信幸[編集 | ソースを編集]
1970年のドラフト会議で阪神タイガースから4位指名を受けました。
- 1972年の社会人ベストナインに選ばれることはなかった。
- テーラー氏やマックファーデン氏らの外国人選手が入団することはなかったかもしれない。
堀田世紀アントニー(マテンロウ)[編集 | ソースを編集]
小学生時代は「板橋の怪物」と呼ばれ、少年野球 の日本代表に選抜されるほどの実力であったが、肘の故障で野球を諦めている。
- ソフトバンクかロッテに行った場合、デスパイネネタでいじられていた。
本間篤史[編集 | ソースを編集]
駒大苫小牧高校卒業後、亜大、JR北海道でプレーを続けていたが、もしプロ入りしていたら
- 独特の打撃フォームで人気を得ていた。
- 田中将大との対戦が観れていた。
- もしくは東北楽天ゴールデンイーグルスに入団していた。
ま~わ行[編集 | ソースを編集]
前川善裕[編集 | ソースを編集]
1976年のドラフト会議でロッテオリオンズから2位指名を受けましたが、入団に至りませんでした。
- 「ミスター社会人」と呼ばれることはなかった。
- 白仁天氏が入団することはなかった。
真壁賢守[編集 | ソースを編集]
東北高校卒業後、東北学院大学→ホンダでプレーを続けましたが、2011年に引退しました。
- 史実以上に「メガネッシュ」「マカベッシュ」と言われていた。
- ダルビッシュとの投げ合いも見れていたかも?
- 楽天に入団した場合は2013年のリーグ優勝→日本一にも貢献し、地元出身選手としてファンからも愛されていた。
増永祐一[編集 | ソースを編集]
1984年のドラフト会議で、ヤクルトスワローズから4位指名を受けました。しかし、入団に至りませんでした。
- 新人王の候補になっていたかもしれない。
- 荒木大輔氏とともに、ヤクルトのエースとして、活躍していた。
- 開幕投手に指名されていたかもしれない。
村上忠則[編集 | ソースを編集]
- 巨人に入団していた可能性が高い。
- 日産自動車の監督に就任することはなかった。
- 横浜のチーム運営統括に就任することはなかったかもしれない。
村椿輝雄[編集 | ソースを編集]
- 板東英二とは史実以上にかかわる機会が多かったと思う。
- アメリカに駐在することはなかった。
室伏広治[編集 | ソースを編集]
始球式に参加した際、無茶苦茶なフォームながら球速131km/hを記録したというエピソードがある彼ですが、もし仮に陸上競技ではなく野球の方面に進んでいたら。
- ドーピング問題は史実ほど日本で注目されていなかった。
- 同じハーフである王貞治や衣笠祥雄、ダルビッシュ有あたりと交流を深めていた。
- 野手でも投手でもパワー中心の選手になっていた。
安村昇剛[編集 | ソースを編集]
- とにかく明るい安村として活動していない。
- アームストロングも結成してない。
- 2015年に「安心してください、穿いてますよ」は存在していなかった。
- アームストロングも結成してない。
- 左投げということもあり、主にリリーフとして活躍していた。
矢野勝嗣[編集 | ソースを編集]
第78回(1996年)大会の「奇跡のバックホーム」で知られる矢野選手ですが、大学まで野球を続けていました。
- 入団していたとすれば広島or阪神か?
- 2016年11月26日の熊本工業対松山商業のOB戦で、三塁走者の星子を再びタッチアウトにしていたかも(史実では星子が生還)。
山本大貴(内野手)[編集 | ソースを編集]
高校通算107本の日本記録(2017年現在)を保持しているが、社会人入団後は伸び悩み現在では引退している。
- 上記の経歴を考えるとプロで活躍できたかどうか…
- どのみち記録もあってマスコミやファンから過度に期待されるのは確実。
- 神港学園の知名度は史実よりも高かった。
- それでも一部では「参考記録」呼ばわりされるのは仕方ないのかもしれない。
- 現ロッテの山本大貴(三菱自動車岡崎)も入団していたら、1学年差で同姓同名(読みも同じ)の選手がいることになっていた。
- こちら(神港学園)の山本大貴は内野手なのでウィキペディアの曖昧さ回避は「山本大貴 (内野手)」になっていた。
- ちなみに、1990年代にもオリックスブルーウェーブ(当時)に山本大貴(読みは上述2者と同じ「だいき」)が在籍していた。
吉田正男[編集 | ソースを編集]
大学卒業時にプロ野球選手になることを検討していたものの、結婚で断念しました。もし、プロ野球入りしていたら…
- 地元の球団である中日に入団していた可能性が高い。
- 南海か阪急か阪神に入団していたかもしれない。
- いずれにしろエースとして、最多勝のタイトルを獲得していたかもしれない。
- 引退後はコーチやスカウトやスコアラーとして、活躍していた。
- 名古屋では、中部日本放送か東海テレビ放送の解説者に、関西では、毎日放送か関西テレビ放送か朝日放送かサンテレビジョンの解説者に就任していた。
輪島博(輪島大士)[編集 | ソースを編集]
“黄金の左”の異名をもった天才肌の名横綱。中学生のころは野球もやっていたそうですが、そちらに特化していたら…?
- 大学に進学していたら、同級生で東京六大学最多勝投手の山中正竹さん(法政大学)らのライヴァルになっていた。
- プロでは、1学年上の田淵幸一さんや星野仙一さんら団塊の世代の名選手たちと、鎬を削る存在に。
- 角界入りしていないので、当時の花籠親方の娘婿になるようなことはなく、史実では再婚後にもうけ、天理高校の投手として甲子園のマウンドを踏んだ子息の大地さんの境遇も、かなり変化していた。
- 史実では日本大学相撲部の先輩だった田中英壽前理事長のほうが、角界入りしたかも?