もしあの鉄道路線が別の年に開業していたら/近畿
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独立項目[編集 | ソースを編集]
JR西日本[編集 | ソースを編集]
独立項目[編集 | ソースを編集]
和歌山線[編集 | ソースを編集]
五条-和歌山[編集 | ソースを編集]
- 1970年
阪和線[編集 | ソースを編集]
- 1910年頃
- 1920年頃
- 上記同様南海が国有化された。
- 上記同様標準軌で建設された。
- 同時期に開業した阪急神戸線と同様当時では高規格だった。
- 1970年
- 同年の大阪万博と翌年の黒潮国体に合わせて開業した。
- 踏切は存在しても数か所しかなかった。
- おおさか東線も同時期に開業していた。
- 紀勢線和歌山-新宮電化も開業前に行われた。
- 南海線との直通はこの時点で廃止された。
- 特急「くろしお」に151系が導入されおおさか東線経由で新大阪に向かっていた。
- キハ80系運用はどうなっていたか。
- 1974年
- 同年開業した湖西線と同様の踏切のない全線立体化の高速対応路線となっていた。
- 紀勢本線の新宮電化もこれと合わせて行われ、特急「くろしお」に381系電車が同時に投入されていた。
- (旧)和歌山→紀和、東和歌山→(新)和歌山の駅名改称も同時に行われている。
- 阪和線開通まで紀勢本線直通列車は南海本線経由で難波駅に発着していた。
- 阪和線開通後も南海からの紀勢本線直通はしばらく残り、現実(1985年)と同時期に廃止されていた。
- 天王寺駅の構造が現実と異なっていた。
- 恐らく地下駅となり、なにわ筋線も同時に開通していた。
- 駅間距離は現実よりも長かった。
- 紀州路快速が熊取以南各駅停車化されても、現実ほど遅くならなかった。
片町線[編集 | ソースを編集]
- 全般
- 1969年
- 翌年の大阪万博に合わせる開業だった。
- うまくすれば学研都市の都市びらきが25年早まったかも。
なにわ筋線[編集 | ソースを編集]
- 1907年以前
- おそらく地上を走っていた。
- 現実の御堂筋線並の混雑がおき、天王寺〜大阪は複々線化されている。
- 木津駅までは早めに電化されていたかも。
- 神戸、山陽方面に延伸するような線路の向きになっているため、結局現在の大阪環状線はつくられる。
地下鉄[編集 | ソースを編集]
神戸高速鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1930年代
- 神戸市の第三セクター会社ではなく、阪急・阪神の延長線として開業していた。
- 阪急・阪神と山陽は新開地を境に会社が分かれる形となっていた。
- 阪急・阪神~山陽・神鉄に乗る場合、3社から2社に減ることから運賃が安くなっていた。
- 山陽電鉄の電鉄兵庫駅は戦前に廃止されていたか、三宮方面の線路がここから延長する形で建設されていた。
- 阪神大震災で地下トンネルが崩壊することはなかったかも。
- 実史では戦前に建設された高架橋や地下トンネルは大きな被害を受けなかったため。
- 梅田~姫路の直通特急も早期に実現していた。
- 阪急も直通特急の運行に参加していた。
- 「省線への対抗」で開業から運行したかもしれない。大阪万博までにカルダン駆動車での運行に統一。
- 阪急も直通特急の運行に参加していた。
- 阪神大水害で浸水し大きな被害を受けていた恐れあり。
- 1966年
- 同年開催された姫路博覧会に合わせての開業だった。
- 大阪方面から山陽で姫路博覧会に行く人などで博覧会の入場者が現実よりも増えていた。
- それでも姫路モノレールの運命は一切好転しなかった。
- 阪神・阪急も姫路博覧会のPRを行っていた。
- 阪急梅田・阪神梅田~山陽姫路間を結ぶ臨時特急が運行されていた。
- その後も阪急・阪神梅田-山陽姫路を結ぶ特急が運行される。国鉄時代は梅田-姫路間の通し利用者が多かった。
- 大阪方面から山陽で姫路博覧会に行く人などで博覧会の入場者が現実よりも増えていた。
- 阪神本線と阪急神戸線の昇圧は1965年頃に行われていた。
- 阪急3000系電車、5000系電車の登場が史実よりも早まっていた。
- 3000系電車は宝塚線をメインにして投入されていたかもしれない。
- 1967年
- この年は、阪急千里線の北千里までの延伸開業と阪急ブレーブスのパ・リーグ初優勝という阪急にとっては、輝かしい年であった。
- 阪神本線や阪急神戸線の1500Vへの昇圧が史実よりも早まっていた。
- 阪急5000系電車の登場も史実よりも早まっていた。
- 昭和42年7月豪雨による被害を受けて、一時不通になっていたかもしれない。
- 1990年代
- 建設理由は阪神大震災の復興。
- 阪急・阪神・山陽・神鉄の地上側ターミナルは撤去。
- 神戸電鉄は三宮駅に乗り入れていた。
- 直通特急のスピードアップのため、途中に追い越し線が設置されていた。
- 地下トンネル及び駅ホームは近鉄車両の入線が可能な設計になっていた。
- 近鉄車も新開地までは殆どが直通していた。場合によっては奈良-姫路間の直通列車も運行されていた。
- 阪急神戸線と神戸市営地下鉄の直通構想は浮上しなかったかもしれない。
神戸市営地下鉄海岸線[編集 | ソースを編集]
- 1980年代
元町 Motomachi |
→ | 栄町 Sakaemachi |
→ | 神戸 Kōbe |
- リニア地下鉄ではなく西神・山手線と同一規格の路線となっていた。
- 線路も当然つながっていて直通運転が行われていたかも。
- あるいは史実で構想があった高架式新交通システムだった。
- 一部の駅の駅名が現実と異なっていた。
- 「ハーバーランド」は「神戸」、「みなと元町」は「栄町」、「旧居留地・大丸前」は「元町」になっていた。
- 「三宮・花時計前」も「三宮南」だった。
- JR和田岬線は廃止されていたかもしれない。
- キハ35系300番台は登場しなかった。
- 1990年代
当初は1999年に完成する予定でした。
- 史実よりも利用客が若干多くなっていた。
- ≒もし阪神・淡路大震災が発生しなかったらである。
京都市営地下鉄烏丸線[編集 | ソースを編集]
- 1930年代
- (大阪市営地下鉄→大阪メトロ御堂筋線と同じく)世界恐慌の失業者対策で建設された。奈良電(→近鉄)との直通は考慮されない。
- 南の終点が竹田ではなく中書島あたりだった。
- 南部延伸が完了した時点で(おそらく昭和30年代)市電伏見線は消えていた。
- 恐らく第三軌条方式になっていた。
- 南の終点が竹田ではなく中書島あたりだった。
- 駅構内は豪華な造り。↑の御堂筋線梅田-なんば間に近い雰囲気。
- 「京都人の先進性」を語るエピソードの一つとしてよく使われる。
- 皇紀二千六百年までに京都-北大路間は開業済み。
- 京都市の人口は現実より1-2割多い。
- 戦後の景観条例もあるのでそこまで劇的に影響があったかどうかは分からない。
- 丸太町と四条の間では御池ではなく三条に駅が置かれていた。
- 戦後の阪急京都線延伸工事がさらに難しくなっていた。
- 烏丸駅が史実より深い位置にできていたかもしれない。
- 史実でも検討されたように堀川通経由だった可能性も。
- 戦前のことなので御所付近の区間では宮内省ともめていた恐れもある。
- 御池線(東西線)の建設開始も早まっていた。
- 昭和のうちに一部区間ができていたかもしれない。
- 1969年
- 翌年の大阪万博に合わせての開業だった。
- 市電と地下鉄の乗り継ぎ割引があった。
- 開業当初の車両は市電や近鉄8400系と似た箇所が少なからずある。
- 近鉄3000系の烏丸線乗り入れが実現していた。
- 1975年
- 当初の開業目標年。
- あまりバリアフリーには配慮されなかった。
- 市電の烏丸車庫が史実より早く廃止される代わりに九条車庫が全廃まで残る。
- もちろん市電と地下鉄の乗り継ぎ割引もあった。
- 市電廃止前の工事なので一部区間では難しい工程が必要だった。
- 車両のデザインはもう少し古臭い感じ。
- 開業当初の車両は非冷房、抵抗制御で登場していた。
- 一部駅では市電との連絡の関係で現在はあまり役に立たない出口があった。
- 近鉄3000系は登場時から烏丸線に乗り入れていた。
- 量産化されていたかも。
- 初期車は冷房準備車(ラインデリア装備)として登場していた。
京都市営地下鉄東西線[編集 | ソースを編集]
- 1970年代
- 京阪乗り入れがなかった。
- どのみち京津三条~御陵or山科間は廃止されていた。直通が無かった場合は分社化が断行されていたかもしれない。
- 車両サイズが路面電車並みに小さかった?
- その上で高架だったかも。ただし景観論争勃発。
- 嵐山まで延伸していたか。
- 計画通り洛西ニュータウンまで延伸していただろう。但し開業は早くても1990年代末。
- 嵐山方面は嵐電に乗り入れていたかも。
- ホームドアは現在も設置されていない。
- 烏丸御池駅は最初からこの駅名だった。
- 1994年
- 当初の開業目標年
- 平安遷都1200年を記念して開業していた。
- 京阪700形は現実よりも早く登場していた。
- 80形は冷房改造されずに廃車されていた。
- 六地蔵や太秦天神川への延伸も現実よりも早かった。
大阪市高速電気軌道今里筋線[編集 | ソースを編集]
- 1970年代
- リニア式ではなく第三軌条方式になっていた。
- 谷町線と直通していた。
- 太子橋今市~関目高殿(関目成育)間は新森古市経由ではなく千林大宮経由になり、谷町線と2階建ての構造になっていた。
- 大日~今里間や井高野(または上新庄)~文の里・八尾南間の系統も運転されていた。
- 井高野ではなく上新庄が起点だったかも。
- 1990年代以降に今里~湯里六丁目間が延伸されていた。
- 谷町線駒川中野駅は今里筋線との交差部分に近い場所に設置され、相互乗り換えも可能となっていた。
- JR大和路線との接続駅の名称は「杭全東部市場前」となっていた。
- 表向きはトロリーバスの代替路線ということになっていた。トロリーバス廃止の翌日に開業していた。
大阪市高速電気軌道長堀鶴見緑地線[編集 | ソースを編集]
- 1970年代
- 他の地下鉄路線と同じ第三軌条方式となっていた。
- 日本初のリニア地下鉄は都営地下鉄大江戸線となっていた。
- 路線名は「長堀線」となっている。
- 東側の鶴見緑地側ではなく都心側から開業していた。
- 恐らく千日前線と同様4両編成での運転となっている。
- 当時はOBPがまだなかったので、京橋~谷町六丁目は森ノ宮経由ではなく上町筋経由になっていたかも。
- 1980~90年代に大正以南鶴町方面への延伸が実現している。
- 当時は大阪ドームがまだなかったので「大阪ドーム前千代崎」→「ドーム前千代崎」は「千代崎」として開業していた。
- そしてドームの開業後に改名していた。
- 「四ツ橋」駅は長堀線開通と同時に「心斎橋」駅に改称されていた。
- 1990年の時点で心斎橋まで開業していたら
- 史実では1996年に京橋~心斎橋間が開業
- 大阪ビジネスパーク駅は当初の計画通りIMPビルの地下階に設置されていた。
- 駅の内装は凝ったものにはならず、京橋~鶴見緑地間と同じような簡素なものになっていた。
- 心斎橋~大正の開業も史実より早くなり、1990年代前半だった。
- 場合によっては当初はドーム前千代崎駅は未設置だった。
- 花博来場客の多くは心斎橋駅で御堂筋線と乗り継いでいた。
- 会期中は心斎橋駅が大混雑していた。
- この場合も路線名は「長堀線」になっていた。
- 地下鉄の他路線と接続しない、離れ小島だった時代はなかった。
大阪市高速電気軌道千日前線[編集 | ソースを編集]
- 1990年代
- 長堀鶴見緑地線と同じくリニア地下鉄となっていた。
- 長堀鶴見緑地線及び今里筋線との連絡線が設置されていた。
神戸市営地下鉄西神・山手線[編集 | ソースを編集]
- 1972年
- 新神戸駅の利用客が早いペースで増加していた。
- 当初の予定通り青谷・王子動物園方面に延伸されたかもしれない。
- 阪急神戸線との乗り入れも早期に実現していたかも。
- 1000形は非冷房で登場した。
- 表向きは前年に全廃された市電の代替を兼ねた。上記の新神戸駅は当線開業時から存在した。「のぞみ」の全列車停車は2000年頃か。
- 1981年
- ポートピア博覧会に合わせて開業したことになっていた。
- 同じ年に開業した京都市・福岡市の地下鉄と何かと比較されていた。
大阪市高速電気軌道御堂筋線(我孫子~中百舌鳥間)[編集 | ソースを編集]
- 1971年
- 泉北高速鉄道と同時に開業していた。
- 場合によっては泉北高速鉄道は南海ではなく御堂筋線と直通運転していた。
- 中百舌鳥駅は南海・泉北高速鉄道と御堂筋線が一体構造になっていた。
- 乗り換えが現実よりも便利になっていた。
- 中百舌鳥駅に南海の優等列車が停車していたかもしれない。
- 白鷺経由の可能性が高い。
- この時点で車庫も我孫子から中百舌鳥に移転していた。
- 10両編成化も現実よりも早かったかもしれない。
- 花博までに実現していた。
- 上記通り白鷺経由でも同様だった。
- 10両編成化も現実よりも早かったかもしれない。
- 我孫子以南は高架線になっていたかもしれない。
- 開業当初はこの区間でヒゲ文字の駅名標が見られた。
- 1985年
当初は1985年頃に開業する予定だったそうです。
- 北花田・新金岡・中百舌鳥3駅の内装が現実と異なっていた。
- 駅名標の周囲に御堂筋線のラインカラーである赤帯が引かれていた。
- 新10系は1980年で最終導入になっていた。
- うまくいけば20系が御堂筋線に導入されていたかも。
- 10連化は上記通り花博までに実現していた。
大阪市高速電気軌道谷町線[編集 | ソースを編集]
- 東梅田~守口間が1969年頃に開業していたら
- 大阪万博に合わせての延伸だった。
- 谷町線の6両化が早まっていた。
- 守口延伸と同時に行われていた。
- 東梅田以北守口までの各駅は2ヶ所改札が設置されていた。
- 各駅ともコンコースを歩く距離が短くなっていた。
- 野江内代~守口間の駅名標は開業当初はヒゲ文字だった。
- 大日検車場も同時に開設されていた。
- 守口~大日間は1974年前後に開通している。
- 京阪は現実よりも早く谷町線に客を奪われていた。
その他[編集 | ソースを編集]
大阪モノレール[編集 | ソースを編集]
- 1970年
- 中国道・近畿道と一体で建設された。
- 少なくとも大阪空港-万博会場が最初から開業している。
- 東側の終点は国鉄茨木駅。
- 門真市への延伸はやや後年にずれ込んだ。
- 国鉄茨木駅は中央環状線からは北にずれているので、門真市への延伸はスイッチバックで行われていた可能性もある。
- 1970~80年代前半までに門真市延伸を果たしていた場合、大阪府運転免許試験場へのバスは門真市発着のままだった。
- 地下鉄谷町線も1977年の時点で大日まで延伸していた。
- 1990年の花博の際には門真市駅からシャトルバスが運転され、南茨木駅からは運行されなかった。
- 京阪門真市駅が島式2面4線ホームとなり、準急が停車していた可能性もある。
- 宇野辺駅は当初からこの駅名で開業していた。
- 門真市への延伸はやや後年にずれ込んだ。
- 東側の終点は国鉄茨木駅。
- 日本跨座式の初お目見えとなった。
- 大阪万博を象徴する場面として「会場をバックに走るモノレール」というシーンがよく使われている。
- 大阪万博の思い出として「モノレール」を挙げる人が少なくない。
- そもそも史実の大阪万博でもモノレール(大阪モノレールとは別)は走っていたんだが…。
- 万博会場のモノレール車両が万博閉幕後大阪モノレールに譲渡されていた可能性もある(方式がともに同じ日本跨座式だったため)。
- 記念公園駅が中国道の北側に建てられ、万博会場内モノレールの1/2-1/4は彩都線に転用されるほか、車両基地も万博時のものを拡張し会場内モノレールの北側は出入庫線として転用されている。東急電鉄が大阪モノレールの大株主になっている。
- 万博モノレールは今の大阪モノレールと同じ日本跨座式を採用していた。何気にこれが初めての採用。
- 現在は門真市以南へ延伸している。
- 延伸の時期にもよるが、近鉄けいはんな線の荒本駅が現実とは異なり中央環状線の交点に建設されていたかも。
- 門真市以南への延伸が1990年までに実現した場合、鶴見緑地で開催された花博へのアクセスとしても活躍していた。
- 地下鉄長堀鶴見緑地線もモノレール開通と同時に門真南まで開通していた。
- イベントなどで万博当時の塗装を復元した車両が走る。
- 千里中央駅は北大阪急行の駅と一体で建設されていた。
- 大阪府と在阪私鉄出資の第三セクターではなく、東急(もしくはその子会社)が運行していたかもしれない(因みに万博モノレールの運行は東急が行っていた)。
- 東急グループの関西進出の一環とされた。系列であった日本国内航空は特別塗装機を飛ばした。後にこの塗装を復元した機体を飛ばす。東急系のホテルが1970年頃から関西に多く建設される。
- 開業時の車両が1990年代半ばまで走った。1両程度は車庫に保存される。冷房付きの車両は1980年代から導入。
- 開業時の車両は「100形」だったと思われる。
- その次に登場する車両が「1000形」を名乗った(号車付番方法は100形と同じ)と思われる。
- 恐らく抵抗制御だった。
- 1000形以降もATOに対応していると思われる。
- ホームゲートはいつ頃設置されただろうか。
- 開業時の車両は「100形」だったと思われる。
- 現実より運賃が安くなっていた。
- そのため利用者数が史実より多くなっている。
- どこかで兵庫県内へ延伸されたかも。
- ルートはR171沿いに伊丹を経て西宮まで延伸されていたと思われる。
- その場合兵庫県及び県内の自治体の出資もあった。
- 1980年代
- ちなみに当初の計画では、南茨木~千里中央間は1988年春に開業する予定でした。
- 最低でも、1989年までに南茨木~千里中央間が開業していた。
- その場合、翌年に開催された国際花と緑の博覧会の開催に間に合い、それに伴って、ラッピング列車が運行されていた。
- それ以外の面で、史実とあまり変わらなかったか。
- 門真市~瓜生堂間が平成期に開業していたら
史実では、2029年度に開業予定。
- 早くても、1999年頃に、遅くても、2019年3月頃に開業していた。
- それよりも、南茨木~門真市間の開業も史実よりも早まり、なみはや国体が開催された1997年に開業していた。
- 近鉄奈良線に「瓜生堂」駅が開業していた。
- 東大阪市役所の荒本地区への移転が史実よりも早まっていたかもしれない。
- 近鉄のラッピング広告列車が運行されていた。
- 2022~23年にはNHKの朝ドラ「舞い上がれ!」のラッピング車も運行されていた。
- 2010年代に開業していた場合、3000系電車の登場が史実よりも早まっていたかもしれない。
- 2010年までに開業していたら、近鉄ハーツはリニューアル化されて、存続していた。
- 1997年のなみはや国体の開催に合わせて、門真南までの先行開業が実現していたかもしれない。
- 三井アウトレットパーク大阪鶴見はモノレールでもアクセス可能な商業施設となっていた(史実では2023年3月閉店)。
- イオン東大阪店(旧カルフール)はなかったか、別の場所にオープンしていた。
- 彩都線(阪大病院前~彩都西間)が2004年に開業していたら
- 史実では、2007年3月に阪大病院前~彩都西間が開業しました。本来は彩都の街開きが行われる2004年に開業する予定でした。
- 大阪外国語大学へのアクセスが史実よりも良くなっていた。
- 国際文化公園都市の整備が史実よりも進んでいた。
- 2007年3月に彩都東(計画では東センター)までに延伸していたかもしれない。
- もしくは、2007年3月に東大阪市への延伸が実現していたかもしれない。
- それでも大阪モノレールの経営状態が良くなっていたかどうかは分からない。
- 街開きの時に阪急バスが千里中央~彩都間の路線バスを開設することはなかった。
- JR茨木・阪急茨木市~彩都間の路線バスが開設されるのが史実よりも早まっていた。
- 北急の箕面萱野延伸も現実よりも早く、平成のうちに開業していた。
愛宕山鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1950年代
- 京福と阪急の合弁企業が運行。
- 平坦線の車両は京福嵐山本線との共通運用。
- 愛宕駅-愛宕神社のロープウエーも開業していた。
- 建設時期によっては朝鮮戦争による鋼材高騰に苦しめられた。
- 遊園地やスキー場開発も史実通りやっている。
- 八瀬遊園はなかったかもしれない。
- なお現在はほとんど閉鎖もしくは売却されている。
- 鳥居本駅は後に門前町の景観に調和した駅舎に建て替えられた。
姫路モノレール[編集 | ソースを編集]
- 1980年代
- 日本跨座式が採用されている。
- まずは姫路駅-姫路城の間ができる。
- のちに書写山まで延伸されるが山陽本線以南へは延びない。
- 姫路セントラルパークや太陽公園への路線もできていたかも。
- 姫路駅は地下に設置されていたかもしれない。
- のちに書写山まで延伸されるが山陽本線以南へは延びない。
- 一部区間では同時に道路整備も行われる。
- 姫路城駅の位置によっては世界遺産登録の際に何か問題になっていた。
- 姫路市の直営ではなく兵庫県や姫路市、山陽電鉄、神姫バス、地元企業などが出資した第三セクターとして開業していた。
- 今頃は、ワンマン運転を行っている。
- 龍野→たつの市内への延伸計画が出る。
泉北高速鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1920年代
- 高野鉄道が「和泉鉄道」あたりを名乗る子会社をつくりそこが建設。
- 近鉄発足時にその路線に。
- 昭和恐慌がなかったら1930年代に粉河へ延びたかも。
- 1970年代後半
- 同時期に開通した京王相模原線と同様、鉄建公団の「P線方式」を適用して南海の路線として開業していた。
- 運賃も安くなっていた。
- 1990年代のバブル期に通勤用の有料特急が運転されていたかも。
- 「泉北ライナー」のデビューが早まったかも。
- 11000系はあと2編成ぐらい製造されていた。
- 路線名は「南海泉北線」になっていた。
- 深井地区は泉北ニュータウンから外れるので、多摩境駅のように駅開業が遅れていた(助成されるのがニュータウンから外れる1駅目までという要項があるので)。
- 場合によっては中百舌鳥~光明池間が一気に開業していたかも(史実では中百舌鳥~泉ヶ丘が1971年開業で光明池までは1977年に開業)。
- 和泉中央への延伸は史実通り。
- 大阪府都市開発が鉄道事業に乗り出すことはなく、トラックターミナルを運営するのが主体の会社となっていた。
- 南海の子会社になることもなく、現在でも大阪府の第三セクター。
- 光明池~和泉中央が1990年に開業していたら
- 5000形は和泉中央延伸と同時に登場していた。
- 最初に投入された本数も現実よりも多く、当初から南海難波駅まで乗り入れていた。
- 桃山学院大学の現在地への移転が早まっていた。
北大阪急行電鉄[編集 | ソースを編集]
- 1930年代
- 1964年
- 御堂筋線の梅田~新大阪延伸と同時開業していた。
- もちろん新大阪~江坂も同時開業している。
- 千里ニュータウンの街開きからすぐに開業していた。
- 千里ニュータウンの発展も現実よりも早かったかもしれない。
- 車両は大阪市50系に似たような仕様になっていた。
- 車内外は阪急3000系の仕様を取り入れる。登場時は「御堂筋線に乗り入れる阪急電車」として注目された。後の大阪市30系の車内はもう少し良質だったかも。
- 千里中央駅が現在地に開業していた場合、万博アクセスとして活用されていたのだろうか?
- 大阪モノレールが20年早く開業,大阪空港-万博会場が最初から存在したかもしれない。大株主は東京モノレール(日立)と東急辺り。阪急は千里線と京都線梅田-淡路を8両運転対応にする。梅田駅の移転は大阪万博までに完了。同時に北千里まで8両運転を行う。
- 千里中央~箕面萱野の延伸も1980~90年代に実現していた。
- 阪急千里線が南千里~上新田~桜井間のルートが初めから構想されることはなく、南千里~上新田~桜井間のルートで構想されていた。
- 場合によっては、南千里~北千里間の開業が史実よりも早まっていたかもしれない
- 1971年以降の場合
- 阪急新大阪線(十三~新大阪~淡路)が開通し、阪急千里線が万博会場に乗り入れ、会場輸送のメインルートになっていた。
- その場合、大阪市営地下鉄御堂筋線は江坂駅まで開業し、江坂駅から会場へはバスで輸送していた。
- 早くても、1974年に開業していた。
- 緑地公園駅も開通時に開業していた。
- 沿線にある駿台予備学校大阪校(1981年開校)及び代々木ゼミナール大阪校(1987年開校、2015年閉鎖)の開校が史実より早まっていた。
- 中津にある河合塾大阪校(1984年開校)も史実より早く開校していた。
- 1980年前後に開業した場合、自社の車両は現実の大阪市10系に酷似した冷房付き電機子チョッパ車となっていた。
- 但し内装は阪急タイプとなっていた。
- 現実の10系は試作車と同じく20系を名乗っていたかも(北急2000形と車番が被るころが改番の理由だったので)。その場合北急の車両が1000形を名乗っていた。
- 初代ポールスターこと8000形は登場せず、2010年代に入って9000形に置き換えられていた。
- もし中国国民党が中国共産党に勝っていたらそうなっていただろう。
- 千里ニュータウンの発展が現実よりも遅れた。
- もし大阪万博の開催がなかったか、あるいは史実(1970年)よりも遅れていたらこうなっていたかもしれない。
- もし前者だったら運賃は現実よりも高くなっていた。
- 千里中央~箕面萱野が1990年代に開業していたら
- 8000形ポールスターがさらに増備されいてた。
- 御堂筋線で見かける機会も多くなり、現実ほどレアな存在ではなくなっていた。
- 9000系電車の登場は史実通りだが、登場は史実よりも遅れていた。
- 箕面市東部地域や彩都の開発が現実よりも進んでいた。
- 彩都の開発はあまり関係がないと思うが…
- 阪大箕面キャンパスの箕面船場地区移転が現実よりも早まっていた。
- 統合前の大阪外国語大学時代に移転していたかもしれない。
- 1979年にできた校舎であるので、そう早く移転することはなかったと思う。
- 箕面萱野駅から外大のキャンパスまでシャトルバスが運行されていただろう。
- みのおキューズモール(旧ヴィソラ)の来客数が現実よりも多くなっている。
- 逆に千里中央地区が相対的に地盤沈下し、対抗のためセルシーは2018年の大阪北部地震以前に建て替えられていた。
- オトカリテ(旧ピーコック)も。
- セルシーは千里阪急百貨店と合わせて再開発されていたかもしれない。
- みのおキューズモールの開業と109シネマズの開館が史実よりも早まっていたかもしれない。
- その際には、ダイエーが出店していたかもしれない。
- イトーヨーカドーだったかも。その場合北摂では唯一の店舗となっていた。
- その際には、ダイエーが出店していたかもしれない。
- 逆に千里中央地区が相対的に地盤沈下し、対抗のためセルシーは2018年の大阪北部地震以前に建て替えられていた。
- 場合によっては、御堂筋線の10両化が史実よりも早まっていたかもしれない。
- 阪急は、客離れを防ぐために、箕面線直通列車は今でも運行されていた可能性があった。
- 当初の予定通りに、「箕面船場駅」になっていた。
- 2010年代になって、「箕面船場阪大前駅」に改称されていた。
- 箕面萱野駅も「新箕面」駅あるいは「箕面東」駅だった可能性もある。
- 箕面市の人口が史実よりも増えていた。
- 当社の情報誌である「ザ・ポールスター」がA4サイズに拡大していた。
- 1996年に開業した場合、スルッとKANSAIの導入と同時期であった。
- 1993年までに開業していた場合、2000形や大阪市30系の箕面萱野乗り入れも見られた。
- 10系試作車(旧20系)も。
- 1995年に開業した場合、1月に起こった阪神大震災の影響で開業祝賀行事は自粛されていた。
- 千里中央~箕面萱野が1980年代に開業していたら
- 8000形電車は史実よりも多く増備されていた。
- 開業時に登場していた場合もあり得る。
- 御堂筋線の10両編成化が史実よりも進んでいた。
- 国際花と緑の博覧会が開催されていた1990年までに実現していた。
- 梅田駅やなんば駅の拡張も現実より早く行われていた。
- 大阪外国語大学は開業を見据えて、箕面市粟生間谷ではなく、箕面船場地区に移転していたか移転する時期が史実よりも早まっていた。
- 開業時は「箕面船場駅」だが、2010年代になって、「箕面船場阪大前駅」に改称されていた。
- 阪急グループの主導によって、箕面萱野地区や箕面船場地区において、宅地開発が行われていた。
- 彩都も現実よりも早く開発されていた。
- 阪急箕面線の梅田直通は早期に廃止されていた。
- いや、阪急箕面線は箕面市の中心部を通っており、また、創業以来の路線でもあるから、梅田直通の列車はある程度維持されていたのではないかと。
- 勝尾寺へ訪れる人が史実よりも多くなっていた。
- 箕面公園へ行く場合も箕面萱野まで行ってそこからバスに乗り継ぐ人が現実よりも多かった。
- 箕面市の人口が史実よりも増加し、2010年代か2020年代に中核市に移行していた。
- 箕面市は全国でもトップクラスの人口増加率を記録していた。
- バブル期に箕面山をトンネルで貫いて豊能町中心部まで延伸する計画が出ていたかもしれない。亀岡まではさすがに無理だが。
- 実現していた場合、箕面森町の開発も現実よりも早かった。
- 豊能町の北大阪ネオポリスは人気の住宅地となり、「絶望ヶ丘」と揶揄されることもなかった。
- 茨木台ニュータウンなども現実より人口が増え、「限界ニュータウン」と言われることもなくなっていた。
- 能勢電鉄の光風台・ときわ台あたりからバスで北急の駅に向かう流れも存在していた。
- その分能勢電の山下~妙見口の凋落が早まっていた。
- 箕面有料道路の開通も早まっていた。
- 箕面萱野駅からトンネルを経由して能勢妙見山に行く直通バスも運行されていたかもしれない。その場合能勢電鉄の妙見の森ケーブル・リフトの廃止(史実では2023年12月)が早まっていた。
- 亀岡市内から大阪へ行く場合、北急の駅までバスで出るのが主流になっていたかもしれない。
- 千里中央~箕面萱野が2011年に開業していたら
- 3月12日に開業していた場合、現実の九州新幹線全通と同様前日に発生した東日本大震災の影響で開業記念行事がなくなっていた。
- 9000形は2010~2011年に登場していた。
- 大阪メトロ30000形ベースになるのは史実通りだが、御堂筋線バージョンよりも先に登場していた。
- 千里中央~箕面萱野が2015年に開業していたら
- 9000形電車は増備用として登場していた。
- 8000形電車の廃車は史実よりも遅れていた。
- みのおキューズモールも開業に合わせて、リニューアル化されていた。
- 千里中央~箕面萱野が2000年代に開業していたら
- 延伸開業に合わせて、みのおキューズモールが開業していた。
- 増備車として、8020形電車か8050形電車が登場していた。
- 9000形電車の登場は史実よりも4年程度遅れていた。
- 箕面市北部にある水と緑の健康都市が延伸開業を見据えて、開発が進められていた。
- 箕面萱野と結ぶ路線バスが運行されていた。
- 彩都も。
- 千里中央~箕面萱野が2020年に開業していたら
- 当初の予定では2020年開業予定でした。
- 大阪メトロ10系の箕面萱野乗り入れが実現していた(現実には開業前の2022年に引退)。
- それとともに開業を前に9000形が増備されていた。
- 箕面萱野と能勢電鉄光風台駅を直通するバス路線が開業と同時に開設されていた。
- 新型コロナウイルス感染症の影響で開業セレモニーは地味なものになっていただろう。
- 千里中央~箕面萱野が1970年代に開業していたら
- 恐らく万博終了後の1971年以降に開業していた。
- 1975年開業の場合、緑地公園駅も同時に開業していた。
- 2000形が現実以上に増備されていた。
- やはり1980~90年代に8000形に置き換えられていた。
- 千里中央駅が終点だった時代が短かったため、知名度は現実ほど高くなかった。
- 車庫は桃山台ではなく箕面市内にできていたかもしれない。
北神急行電鉄[編集 | ソースを編集]
- 1930年代
- 当初運営が阪神系だった可能性も。
- 1972年
- 1985年
- 神戸市営地下鉄西神・山手線が大倉山~新神戸間が開業したのと同時に開業した。
- 同年開催されたユニバーシアード神戸大会に合わせる形にもなっていた。
- ひょっとしたら、1986年4月にずれ込んで、開業していたかもしれない。
- 7000系電車の登場は史実通り。
- 但しVVVFインバータ制御車ではなく、神戸市1000形と同じチョッパ制御車となっていた。
- 神戸市交通局1000形電車、2000形電車とともに、6両化されるのが史実よりも早まっていた。(史実では、1989年11月に実施された。)
- 1987年
当初の開業予定
- 神戸市営地下鉄西神・山手線が名谷~西神中央間が開業したのと同時に開業していた。
- 6000形電車は最初から6両編成で登場していた。
京都丹後鉄道宮福線[編集 | ソースを編集]
- 1930年代
- 北丹鉄道により、開業した後に、戦時買収で国有化された。
- 福知山~宮津~西舞鶴・豊岡間が宮津線となっていた。
- むしろ福知山~宮津~西舞鶴が「宮津線」で宮津~豊岡が「丹但線」になっていたかも。
- 1970年代
- 北丹鉄道が史実よりも早く廃止されていたら確実にあり得た。
- 特急「あさしお」、急行「丹後」、急行「丹波」が当路線に乗り入れていた。
- 宮福線が「宮津線」に、宮津線は「丹後線」と整理されていた。
- 丹後線が特定地方交通線に指定されて、北近畿タンゴ鉄道に移管されるのは史実通りか。
- 福知山駅の高架化が史実よりも早まっていた。
水間鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1910年代
- 南海が建設し運営。
- 1970年代
- 府都市開発→(史実の)泉北高速が建設し運営。
- 「泉北高速」ではなく「和泉高速」になっている。
- さすがに(史実の)泉北高速線と車両共用にならないか。
- なんばからの直通急行がある。
- 「泉北高速」ではなく「和泉高速」になっている。
- 現実の泉北高速線がこの路線との交点まで延伸されていた可能性もある。
和歌山電鐵[編集 | ソースを編集]
- 1930年代
- 和歌山軌道線と同一規格だった。
- 新町線の延長で開業。
- 1970年
信楽高原鐵道[編集 | ソースを編集]
- 1970年
- 同年の大阪万博に合わせて開業した。
- それがやや早まった可能性も。
- 近江鉄道の路線だった。
- 本線の延長扱いだった。
- レールバスは走っていない。
嵯峨野観光鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1970年
北条鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1950年代
- 神鉄粟生線の延長扱いだった。
能勢電鉄[編集 | ソースを編集]
妙見線[編集 | ソースを編集]
- 1970年代
日生線[編集 | ソースを編集]
- 1910年代
- 篠山への延長を目指し「篠山線」になっていたかも。
紀州鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1900年代
- 当初の社名は「御坊軌道」だった。
- 戦時統合までに南海(→近鉄)に吸収された可能性も。
山陽電気鉄道[編集 | ソースを編集]
網干線[編集 | ソースを編集]
- 1923年
- 岡山まで延ばす前提で本線の一部だったかも。
野上電気鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1929年
叡山電鉄[編集 | ソースを編集]
叡山本線[編集 | ソースを編集]
- 1960年代