もしあの鉄道路線が開業していたら/近畿

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滋賀・京都[編集 | ソースを編集]

京阪六地蔵線[編集 | ソースを編集]

大阪から大津への短絡ルートとして六地蔵 - 醍醐 - 大津市馬場に建設を予定していた。

  1. 大津直通特急びわこ号もこのルートを通って運転されていた。
  2. 1997年以降も京阪電鉄だけで滋賀に行くことができた。
    • それでもおけいはんの苗字が「醍醐」や「馬場」になることはまだない。
  3. 京都市営地下鉄東西線の開通に影響が出ていた。
    • そもそも京津線が東西線に乗り入れる事は無かったかもしれない。その代わり大谷近辺まで地下鉄が延びて乗り換える形となる。
  4. 優等列車以外は中書島折り返しが基本となっている。
  5. 醍醐寺の近くを通ることになっていたので五大力さんや花見の客の輸送に大活躍していた。
  6. 奈良線の六地蔵駅は国鉄時代に開業していた。
  7. ルート次第では名神高速の大津ICの位置にも影響が出ていた。
  8. 京阪六地蔵駅は分岐のためやや西側に移転していた。
  9. 京阪線の車両が大津まで顔を出していた。
  10. 大津市内における京阪の存在感は現実よりも強くなっていた。

京鶴鉄道[編集 | ソースを編集]

  • 京都-舞鶴
  1. ルート次第だが分割民営化後しばらくまでは舞鶴まで国鉄・JRの優位に立っていたとみられる。
    • 対抗して舞鶴線の電化が国鉄時代にすでに行われていたかもしれない。
      • 京北・美山ルートであれば嵯峨野線とも共存できていた可能性がある。
        • この場合、美山から小浜に伸ばす計画も策定されるも挫折。
  2. 戦後天橋立方面への延長計画が持ち上がるも挫折。
  3. 史実の嵐電と叡電は京都電燈の解散時にこの会社の路線になっていた。
  4. 他の大手に合併されずに存続していたら準大手私鉄あたりに分類されている。
  5. 京都財界でもそれなりに力を持っていた。

高雄電気鉄道[編集 | ソースを編集]

円町~梅ヶ畑中島の本線と嵐山への支線からなる。詳しくはこちらを参照。

  1. 市電との乗り入れは確実に行われていた。
    • 嵐山側も愛宕山鉄道と乗り入れが検討されていた。
  2. 国鉄バスとの競合に悩まされていた。
    • 国有化されいれば構想であった周山延伸や小殿線接続が実現していた。
      • その場合SNOW作中に主人公が龍神村に向かうシーンで小殿線共々登場していたかも知れない。
  3. 国有化されなければ京福電鉄に吸収合併されていた。
    • その場合嵐山側が本線になっていたと思われる。
    • 史実で京福が愛宕山鉄道の再建が出来なかった事から周山延伸は厳しいと思われる。
  4. 社名がそのままだと台湾の鉄道と勘違いされる。
  5. 山陰線円町駅の建設時期が早まっていた可能性あり。
  6. この路線に対抗すべく高雄方面への市バス(8系統)も均一区間に含まれていた。
    • あるいは大原方面への路線のように撤退に追い込まれていた。

新京阪鉄道山科線[編集 | ソースを編集]

  • 西向日-山科(京阪バス山科営業所付近)
  1. 西向日駅は2面4線になっていた。
  2. 戦後は阪急の路線となり、山科区における阪急の影響力が強まっていた。
    • 阪急オアシス山科店は20世紀中に開店していた。
    • 奈良電が史実通り近鉄に合併されていたら、竹田駅で近鉄と阪急の路線が直接接続することになっていた。
  3. 現実の名神高速のルートで大津市内まで延長していた。
    • 京阪大津線あたりが打撃を受けていたかもしれない。
      • 京阪のままだったら、大津線を高規格化したうえで乗り入れさせていたかもしれない。戦時買収で阪急に持ってかれちゃったら三社対決になるが。
        • 藤森駅が特急・急行停車駅になっていた。
    • 城南宮近辺で名神高速道路の位置が移動しているかもしれない、京都南インターのラブホ街は場所が大きくずれるか歓楽街と風俗街になっている。
    • 竹田駅はもっと巨大化しており、奈良電からのデルタ線ができた可能性もある。
      • 駅前は現実以上に発展し、百貨店とかもできていた。
    • 名神高速は現実の京滋バイパスのルートだったかも。
  4. 伏見区を東西に移動するのが便利になっていた。
    • 区の西部が鉄道空白地帯になることはなかった。
  5. 山科駅はJRの同名駅との区別のため駅名は「新山科」あたりになっていた。

近江鉄道近鉄線接続計画[編集 | ソースを編集]

戦前に近畿日本鉄道が近江鉄道に接続する計画があった。もし実現していたら…

  1. 近畿日本鉄道という社名は名だけではないと思う。
  2. 近江鉄道も関西急行鉄道が吸収した可能性がある。米原~伊賀神戸間直通列車が走った。
    • むしろ近江鉄道に買収されて、大堤商店の一員になるんじゃない?
      • 近江鉄道の計画は参宮急行電鉄に乗り入れて宇治山田まで直通させるつもりだったらしい。大軌のやり口から言って直通運転まで行っている会社を他に渡すとは思えん(ちなみに大堤商店が近江鉄道に目をつけたのは戦時中で延長計画より後年の話)。
  3. バスも黄色で日野主体になっていた。
    • というか、今の様なバス優先の企業になってなかった。
  4. 近江鉄道も近畿日本鉄道の一部となり、「近鉄」と呼ばれていた。
    • 西武グループは滋賀に来ず、湖南・湖西は京阪の、湖東・湖北は近鉄(近畿日本鉄道)の縄張りとなっていた。
      • でも堤家は滋賀出身だから何らかの形で関わるのでは?
  5. ルートは米原ー貴生川ー伊賀上野ー名張か。
    • 伊賀と甲賀を結ぶ路線のため忍者絡みの観光列車が走っていた。

近江鉄道八日市線永源寺延長計画[編集 | ソースを編集]

御園~永源寺間

  1. 新八日市~御園間は廃止されず、八日市~永源寺間を近江鉄道永源寺線として、整理された。
    • 愛称は「永源寺もみじ線」でラインカラーは橙。
    • あるいは近江八幡から共通の愛称になっていた。
    • もしくは、新八日市駅が本線と交差しているところに移転し、近江八幡~永源寺間が近江鉄道永源寺線になっていた。
  2. 紅葉の名所で有名な永源寺に訪れる観光客が増えていた。
  3. ルートと設置駅はどうなっていたのであろうか。(御園~永源寺間)
  4. もっとうまくいけば亀山まで延伸していた。

近江鉄道八日市線大津延伸計画[編集 | ソースを編集]

  • 八日市~大津間
  1. 恐らく名神高速道路に並行するルートだった。
    • 竜王町にも鉄道が通っていた。
  2. 滋賀県で特に人口増加の激しい地域を通っていたため、近江鉄道の経営は現実よりも良く、上手く行けば準大手私鉄くらいにはなっていた。
    • 西の山陽電鉄、東の近江鉄道と言われていた。
    • あるいは名古屋延伸を目指す京阪に目を付けられ、京阪の1路線となっていた。
      • 近江鉄道自体も戦後は西武ではなく京阪系列となっていた。
      • その場合標準軌に改軌されていた。
      • 名古屋延伸が頓挫することもなかったかもしれない。
    • JR琵琶湖線が止まった時のバックアップに役立っていた。
    • 滋賀県自体の人口増加率も現実よりも高くなり、奈良県の人口を抜くのも史実より早かった。

京福電気鉄道北大路線[編集 | ソースを編集]

鞍馬電鉄時代宝ヶ池~北大路~二軒茶屋の免許が取得されていた。

  • 二軒茶屋-北大路、宝ヶ池-北大路
  1. 1978年までに京都市電と乗り入れ、京都駅前までに運行されていた。
    • 京都市営地下鉄烏丸線の開業により、京都駅(JR、新幹線、近鉄)、烏丸駅(阪急)から鞍馬、貴船、八瀬に向かう客にとって、便利になっていた。
    • 京福叡山線の利用客数回復も現実よりも早く、叡山電鉄への分社もなかったかもしれない。
  2. 京阪鴨東線の開業は史実通り。
  3. 後者が開業していた場合、京都市営地下鉄烏丸線(北大路~国際会館)の開業は混雑緩和の目的で開業していた。その代わりに、北大路~岩倉間で競合していた。
    • 後者の場合、烏丸線の北大路以北は新規建設ではなく京福北大路線を改良して乗り入れる形になっていたかもしれない。
  4. キタオオジタウンは、叡山電鉄北大路駅の駅ビルとなり、京阪グループの手によって、開発された。
    • あの場所はもともと市電の烏丸車庫跡地で交通局の持ち物だったためそこはよく分からない。
    • もしくは、その北大路駅近辺に建設された。
  5. 京都市内の渋滞も、若干緩和されていた。
  6. 京都産業大学に通学する学生も史実より増えていた。
    • それでも獣医学部はできなかった。
  7. 二軒茶屋ルートの場合、上賀茂神社への参拝も便利になっていただろう。
  8. 後者の場合、森のゆうえんち(スポーツバレー京都)に訪れる入場者が増えていた。また、閉鎖が史実よりも遅れていたかもしれない。(史実では、2001年に閉鎖)
  9. 900系「きらら」や700系「ひえい」も北大路駅に乗り入れていた。
    • 前者のみの開業の場合、900系「きらら」だけが乗り入れていた。
  10. 後者の場合、出町柳~宝ヶ池~八瀬比叡口間が叡山本線となり、北大路~宝ヶ池~鞍馬間が鞍馬線になっていた。
    • 駅ナンバリングも、北大路駅はE09、八幡前駅はE12、鞍馬駅はE20となっていた。
  11. 後者の場合、宝ヶ池駅は乗換駅として賑わい、また、淡路駅や大和西大寺駅と同様に叡山本線と鞍馬線が平面交差している駅になっていた。
  12. どちらの場合でも、複線で開業していた。
    • 朝夕ラッシュ時と土曜・休日の時と行楽シーズン時には、2両編成で運行されていた。
  13. 後者の場合、宝ヶ池駅付近に叡山電鉄の本社があったかもしれない。
  14. 京都市営地下鉄は北大路までしか開業しなかった。
    • いや北山までは開業していた。
    • 前者のみの開業の場合、ルートが大きく異なるので、史実通りに国際会館までに開業していた。
  15. 宝ヶ池駅はさらに混み合っていた。
  16. 戦時中の単線化がそのままの状態になっていた。
  17. 北大路で地下鉄烏丸線と接続できていたため、京阪鴨東線の開通を待たずとも利用客数が増加に転じていた。
    • 京都駅との連絡は現実よりも便利になっている。
  18. 前者のみの開業の場合、京阪鴨東線との乗り入れは、二軒茶屋と八瀬比叡口までに相互直通運転が行われていた可能性が高い。
  19. 前者が開業した場合、北大路~二軒茶屋~鞍馬間の列車と出町柳~二軒茶屋~鞍馬間の列車が各2本ずつ運行されていた。
    • 出町柳~二軒茶屋間の列車と北大路~二軒茶屋間の列車も各2本ずつ運行されて、二軒茶屋で鞍馬行きの列車に接続していた。
    • 二軒茶屋駅で北大路行きの列車と出町柳行きの列車との連結・切り離し作業が行われていたかもしれない。
  20. 北大路駅は「キタオオジタウン前」という副駅名がついていた。
    • 前者が開業した場合、二軒茶屋駅に「京都産業大学前」という副駅名がつくことはなかった。
  21. 市原駅と二軒茶屋駅周辺において、住宅化がさらに進んでいた。
    • 二軒茶屋~市原間が複線化されていたかもしれない。
  22. 地下鉄烏丸線の利用客が鞍馬口駅で降りる人が史実よりも少なくなっていた。
    • 鞍馬へ向かう利用客がよく間違えて降りる人が多いらしい。
    • その代わりに京都駅と四条駅と烏丸御池駅に注意書きが張られていた。
  23. 立命館小学校に通う小学生も利用していた。

叡山電鉄(出町柳-三条)[編集 | ソースを編集]

  1. 1930年代後半には開業にこぎ着けていた。
    • なお史実では免許は取っていたが室戸台風や水害の影響で着工できず。
    • 1950年代に開業していた可能性もあった。
  2. 途中駅は「出町柳-丸太町橋-川端二条-三条」といった感じか。
    • もしくは、出町柳~東一条~丸太町~三条になっていた。
  3. 京阪本線や京津線との直通が実現していたかもしれない。
    • 場合によっては京都電燈解散後の叡山線が京阪の手に入っていた可能性もある。
    • 叡電沿線から京都市中心部にダイレクトに行けるようになっていたので、現実よりも叡電の利用客数は多く、京阪の4両編成が直通できていた可能性もある。
    • 京阪の車両は二軒茶屋、八瀬遊園までに乗り入れ、叡山電鉄の車両は中書島までに乗り入れていた。
      • 淀屋橋~八瀬遊園間の京阪特急が運行されていた。その際は3000系電車は全て7両化されて、三条駅で増結・解放が行われ、三条~八瀬遊園間は4両編成で運行されていた。
    • それでも叡山電鉄のホーム延伸が厳しいことなどの理由で、京阪本線の電圧が1500Vへ昇圧されたのを機に直通運転が取りやめていた。
      • むしろ叡電も京阪線と同時に1500Vに昇圧していた。
  4. 三条京阪は現実以上に大規模なターミナルになっていた。
    • 京阪百貨店が開店していたかも。
    • 行楽シーズンの時はとても混雑していた。
  5. 出町商店街はやや寂れている。
  6. 今出川通・丸太町通に大規模な踏切ができ後に渋滞を引き起こしていた。
    • 結果として京阪本線の鴨川河畔区間とともに地下化される。
      • その場合、叡山電鉄叡山本線の三条~出町柳間が廃止され、1988年までに京阪本線が三条から出町柳に延伸される形で開業していた。
      • 地下化された場合、その跡地は川端通の建設工事に利用されていた。
      • 地下化と同時に8000系電車と7000系電車が登場していた。
  7. 叡電沿線の開発は現実より進んでいる。
    • 二軒茶屋~市原間が複線化されていた。
    • 貴船、鞍馬、比叡山、八瀬の知名度が史実よりも高くなり、これらへ訪れる観光客が1989年以前から賑わっていた。
  8. 出町柳は叡電の中間駅となるため、知名度は現実よりもかなり低くなっていた。
    • 京阪本線の京都地下線の開業とともに、出町柳まで延伸されてから知名度が高くなっていた。
  9. 1960年代から乗客が大きく減少することはなかった。
    • それでもモータリゼーションによる影響を受けていた。
  10. 最初から叡山電鉄は京阪の子会社として設立されていた。
  11. 京都大学や同志社大学に通う学生で賑わっていた。
    • 1960年代後半に起きていた大学闘争による混乱に巻き込まれていたかもしれない。
  12. 森のゆうえんちの閉鎖が史実よりも遅れていた。
  13. 京都市電今出川線と丸太町線と交差していたので、ダイヤ上のネックになっていた。
  14. 京阪本線の乗客もそれなりに増加していた。
    • 3000系電車は全て7両編成化されていた。
    • 京阪電鉄は「八瀬・貴船・鞍馬へは京阪特急で」という広告が使用され、行楽シーズンにおいて、それらに関する運行標示板も掲げられていた。
      • 京阪電鉄の主要駅のホーム案内に「八瀬、貴船、鞍馬(三条で乗り換え)」と書かれていた。
      • 1990年代以前でも「八瀬・貴船・鞍馬へは京阪特急で」というTVCMが流れていた。
    • 京阪本線の電圧が1500Vへ昇圧されるのが史実よりも早まっていたかもしれない。
  15. 京阪の京都地下線が開業したのを機に三条~出町柳間が廃止され、出町柳駅が現在の形になっていた。
    • それ以前の出町柳駅は、相対式ホーム2面2線を有するホームになっていた。
    • というよりこの区間が京阪に移管されていた。

叡山本線大原三千院延伸[編集 | ソースを編集]

  1. 本線系統も2連運行が基本となっていた。
  2. 鞍馬線より更に狭隘な谷間を縫う線形になっていた。
    • それなりの距離のトンネルも掘られていた可能性が高い。
  3. 観光シーズンの出町柳駅の混雑が更に加速していた。
    • 叡山電鉄自体の利用客も増えていたこともあり、京阪との直通が実現していたかも。
      • その場合、京阪に合併されていたかもしれない。
  4. 沿線に猫猫寺があることから、それとのタイアップも実現していた。
    • 最寄駅には猫をテーマにした装飾が行われ、車両にもラッピングが行われていた。

奈良電気鉄道大阪線[編集 | ソースを編集]

奈良電気鉄道はかつて大阪進出を目論見、「京阪急行電鉄」という新会社まで設立しましたが、結局大阪進出は実現しませんでした。もし奈良電の大阪進出が実現していたら・・・ 玉造~小倉間

  1. 小倉駅に急行が停車していた。
  2. もし、近鉄と合併していたら、「近鉄京阪線」か「近鉄北大阪線」になっていた。
    • もしくは、奈良電気鉄道は準大手私鉄会社として、独立していた。
    • この路線ができていたら戦時統合の枠組みが変わっていた可能性大。
  3. 玉造駅はターミナル駅化していた。
    • 下記の亀阪鉄道も開業していた場合、京橋や鶴橋を上回り、天王寺に匹敵するターミナルになっていた。
      • 梅田・難波・天王寺・玉造が4大ターミナルと呼ばれるようになっていた。
  4. (近鉄と合併した場合)、玉造~京都間を結ぶ有料特急が運行されていた。
    • その代わりに。大阪難波~京都間を結ぶ阪京特急はなかった。
  5. 宇治線(小倉~宇治間)を開業していたら、玉造~宇治間を結ぶ急行が運行されていた。
  6. 久御山町唯一の鉄道路線として町民に重宝されていた。
    • 交通便利になるため京都飛行場が撤去される可能性が減り、京都おぐら池空港として現存。21世紀には過密空港となる。
      • 関空開港で関西には3空港あることになるため、神戸空港は建設されなかった。
      • 当路線に京都空港駅ができていたか、烏丸線が空港ターミナルまで延伸されていた。
    • 戦後に市制を施行し「久御山市」になっていた。
  7. 京阪間は新幹線を除いても4路線がひしめく過当競争状態になっていた。
  8. 路線は玉造―諸堤―四宮―西長尾―上津屋―小倉となっていた。
    • 戦後になって難波―玉造間が延長され、大阪ミナミと京都を結ぶ初めての私鉄路線となっていた。
    • 心斎橋までの可能性が高い。もちろん長堀鶴見緑地線は間違いなく存在しなかった。
    • 1990年の大阪花博開催の時にはメインアクセスとなっていた。
  9. 奈良電は近鉄に合併されず、単独で大手私鉄の一員になっていた。
    • 西大寺も独立した駅(乗り換えは可能)になり、そこから単独で現在のJR奈良駅まで延長させていた。そして、JR奈良駅近辺も近鉄奈良駅に匹敵するほどの賑わいを見せていた。
    • 仮にこの路線が開業した上で近鉄と合併した場合、玉造~京都間が京都線、小倉~橿原神宮前間が橿原線になっていた。
      • 難波線開業と同時期に、ターミナルの集約も兼ねて鶴橋~放出間に連絡線を敷設していたかもしれない。
  10. 社名は奈良電区間も含め「京阪奈電鉄」になっていた。
    • 「京阪奈急行電鉄」だと思う。
      • 略称は京急となり、京浜急行電鉄の略称は現在まで「京浜」。
      • プリンセスラインが「京急バス」を名乗ることもなかった。
  11. JR片町線のライバルとなっていた。
    • 片町線はこの路線に利用客が奪われたため、現実の奈良線と同様に国鉄末期まで放置されていた。
      • 松井山手の開発が史実通りできたかどうか怪しい。
      • むしろ奈良電が付近を開発していただろう。
  12. 近鉄難波-大和西大寺-京都なんていう系統の近鉄特急(阪京特急)は設定されなかった。
    • 近鉄奈良線の有料特急設定が遅れる。
    • それでも、あをによしの設定は史実通り。
  13. 京阪本線と阪急京都線の客は少なからず減少する。
    • よって京阪と阪急が昭和18年に戦時統合したのち、昭和24年に京阪本線部分だけで再独立することはなかったかもしれない(→当該)。
    • 京阪の複々線化工事は現実ほど進展していない。
    • 中之島線も建設されなかった。
    • むしろ京阪と奈良電が合併していたかも。
      • 京阪と阪急の立場が逆転していた。
  14. 大阪延伸線同様に計画としてあった、小倉-宇治間の路線も敷設されただろう。大阪・宇治間35分の直通列車が設定された。
    • 京阪宇治線は当然ながら大打撃。
    • 京阪交野線も当然ながら大打撃。
      • むしろ本線との連絡路線として機能していただろう。場合によっては私市から生駒も延伸していた。
    • 宇治市や城陽市などから大阪へのアクセスが便利になり、京都のみならず大阪のベッドタウンとしても大発展していた。
  15. 京阪宇治交通はここのグループバス会社となる。
  16. 現実の第二京阪道路と同じようなルートをたどっていたと思われる。
  17. 京都市営地下鉄烏丸線には大阪方面から直通する列車も運行されていた。

亀阪鉄道[編集 | ソースを編集]

  1. 1896年頃に実際に構想されていた、亀岡ー高槻ー大阪市を結ぶ鉄道。枚方、宇治方面への支線もあった。ソースは枚方の市史第四巻
  2. これが実現していたら、おそらく亀岡の大阪ベッドタウン化が進んでいた。
    • 史実のように嵯峨野線が大混雑することもなかった。
      • 京都市中心部を通らずに、亀岡からトロッコと竹林を楽しむ観光客も増えていた。
    • 亀岡市の人口は10万人を超え、宇治市を抜いて京都府内2位となっていた。
  3. 史実以上に大阪一極集中が進んでいた。
  4. おそらくJRに軌間をあわせ、特急はしだてやまいづるの大阪発着版を運行していた。
    • そうなっていれば、国鉄時代でも史実ほどは私鉄王国ではなかったかもしれない。
    • 最終的には国有化されていただろう。
    • 都心部では史実で玉造がターミナルの予定だったようだが、すこしだけ延伸してより乗り換えの多い鶴橋がターミナルになっていた。
      • 鶴橋のコリアタウンは史実以上ににぎわっていた。
        • 鶴橋駅周辺が再開発され、恐らく京橋を上回る繁華街になっていただろう。
          • 駅の外に出る人も現実以上に多かった。
      • 市営モンロー主義で締め出されていれば、そこから先には乗り換えなしではいけない。
        • その場合、2020年代には史実のなにわ筋線の代わりに鶴橋から都心部に乗り入れる路線が計画され、なんばと大阪阿部野橋に向かい南海電鉄と近鉄南大阪線に直通するようになっていた。
          • 環状線乗入れを西日本が認めるとは思えないため。
          • 乗入れのメインは空港があって沿線人口も多い南海に急行や特急を乗り入れていた。近鉄には天王寺へのアクセスを確保するのが主目的でついでに普通や準急を乗り入れていた。
            • その場合、南海電鉄はなんば駅が史実よりもさら人気になっていた。南海新なんば駅構想はなかった。
              • その場合、基本的にオールロングシートになっていた。サザンやラピートなど有料特急の直通のみクロスシート。
            • サザンやラピートの直通は亀岡まで途中高槻しか止めずにかなり飛ばして、JR西日本や阪急に対抗していた。
    • もしくはJR西日本がタンゴエクスプローラーや文殊を強化して締め出すので、自前で舞鶴に延伸せざるを得なくなった。
  5. 舞鶴や京丹後市の大阪志向が進んでいた。
    • 史実よりも天橋立観光が活性化するほか、舞鶴港フェリーの活性化、氷ノ山スキー場の活性化がおきていた。
  6. 枚方方面の支線が建設されていた場合、枚方~高槻の鉄道移動が可能となっていた。
    • こちらは標準軌に改軌され、京阪交野線と直通していた。
    • もしくは予定の宇治から石山、守山に延伸し、阪滋間の輸送を新快速と競争していた。
      • 新幹線の近くを通っていることで競争と同時にすみわけもしていた。
        • そうなっていた場合、JR西日本が対抗のために、自治体に頼らず自力で南びわ湖駅を作っていた。
      • 宇治の大阪志向やベッドタウン化が進んでいた。
  7. 昭和のパリーグにプロ野球チームを保有していた場合、東大阪市地域に1軍球場、亀岡に2軍球場を持っていた。
    • サンガは史実よりも早く亀岡に移転していた、ここの会社が主導で。
    • 史実の近鉄や南海のように、平成までには売却していたが、その後もわかさの女子プロ野球や関西独立リーグもここが支援して誘致していた。
    • 花園ラグビーの人気は落ちており、野球人気が上がっていた。
  8. 高槻から大阪都心部への輸送ではJR、阪急と競合していた。
    • ミナミや大阪市東部へのアクセスのよさでアピールしていた。
      • 梅田一極集中に対抗していた。
  9. 北大阪急行電鉄が箕面萱野以北この路線との交点まで延伸されていた。

大阪[編集 | ソースを編集]

もしあの鉄道路線が開業していたら/大阪

兵庫[編集 | ソースを編集]

もしあの鉄道路線が開業していたら/兵庫

奈良・和歌山[編集 | ソースを編集]

近鉄御所線五条延伸[編集 | ソースを編集]

  1. 五條市は現実よりも発展していた。
    • 奈良県内ではJRよりも近鉄の方が運転本数が多いので。
  2. 御所線の運転本数は尺土~御所が1時間当たり4本に対し御所~五条は1時間当たり2本になっていただろう。
    • 現在も阿部野橋から急行が乗り入れている。
    • むしろ尺土~五条間で1時間当たり4本になっていたかもしれない。
  3. 五新線が開通し、大阪阿部野橋~新宮の直通特急が実現していたかも。
    • 全く手つかずだった阪本以南は結局未成線で終わっていたと思う。
  4. 智辯学園高校へ通う学生で賑わっていた。
    • 松原市、藤井寺市、羽曳野市、富田林市、橿原市から通う学生にとって、通いやすくなっていた。
  5. 尺土~近鉄御所間が複線化されていた。
  6. 路線名が「近鉄五条線」になっていた。

南海和歌浦線[編集 | ソースを編集]

築港町~和歌浦間
  1. 特急「サザン」や急行も運行されていた。
    • 加太線で運行されている「めでたいでんしゃ」のような観光列車が運行されていた。
  2. 和歌浦地区では史実より賑わっていた。
  3. 和歌山港線の開業は史実通り。
    • 和歌山港~水軒間の開業はなかった。
  4. 和歌山軌道線の寿命が史実より早く尽きていた。
    • 下手をすると南海入りすることもなく廃止されていた。

南海貴志川線粉河延伸[編集 | ソースを編集]

貴志~粉河間
  1. 和歌山電鐵に移管されていた。
  2. 紀泉鉄道も開業していたら、粉河駅はもっと賑わっていた。
  3. JR和歌山線と競合していた。

紀泉鉄道[編集 | ソースを編集]

  1. 恐らく水間鉄道と合併し、社名も紀泉鉄道となっていた。
  2. 紀の川市は現実より発展し、平成の大合併より以前に市制を施行していた。
    • 岩出市は昭和のうちに市制施行していた可能性がある。
    • 紀の川市ではなく粉河市になっていた。あるいは打田と粉河で合併していた。
  3. 熊取ニュータウンに鉄道が通り、利便性が高くなっていた。
    • ニュータウン自体の規模も拡大していた。
  4. 貝塚から南海本線に直通し、難波~粉河間に直通電車が運行されていた。
    • あるいは泉北高速鉄道が清児まで延伸され、こちらに直通していた可能性もある。
  5. ルート上の犬鳴山温泉がもっと繁栄していた。

野上電鉄高野山延伸[編集 | ソースを編集]

  • 一時は高野山への延伸を計画していた。
  1. 流石に高野山へは到達できないので、比較的近い南海高野線の紀伊細川駅に接続していた。
    • 野上電鉄の車両が極楽橋まで乗り入れていた。
  2. 史実のようなお粗末な業務対応、経営努力の怠りはなかった。
  3. 現在は南海電鉄か、両備グループの傘下になっている。

有田鉄道清水町延伸[編集 | ソースを編集]

  • かつて旧清水町への延伸構想があったが具体化せず。
  1. 少なくとも土休日運休や一日2往復というダイヤにはならない。
  2. 藤並の特急の一部停車が早まっていた。
  3. 清水町から花園村(現かつらぎ町)への延伸も計画していた。

湯崎白浜鉄道[編集 | ソースを編集]

  1. いずれ明光バスに合併している。
    • 明光バスは明光交通と名を変え当路線は白浜線となる。
    • 同社は近鉄グループなので、近鉄(特に南大阪線)の中古車両が入っていた。
  2. 白浜観光の客で賑わっていた。
  3. 野上電鉄の廃止時、史実では断られた子会社設立と路線引き受けが行われる。
    • 野上電鉄は同社の野上線となる。
      • さらに野鉄バスや野鉄タクシーの設備も明光バス・明光タクシーに編入されている。
    • 御坊臨港鉄道(現紀州鉄道)を引き受けていた可能性も。
      • その場合現実の紀州鉄道は他の鉄道路線を引き受けていた。
  4. 南紀白浜空港開港後は空港アクセス鉄道となっている。
  5. ねこねこソフトのゲームにたびたび登場している。
  6. ねこねこソフトのキャラや自治体が公式キャラに採用したCLANNADキャラが書かれた痛電車が走る。
  7. 「白浜」駅は「白浜口」駅のままだった。
  8. 規格次第では国鉄→JR列車の乗り入れも考えられた。
  9. アドベンチャーワールドのイルカやパンダがモチーフのラッピング列車が走っている。
  10. それでも2000年代後半には両備入りし駅と車両は水戸岡デザインになる。

参宮電気鉄道[編集 | ソースを編集]

橿原市~御杖村~伊勢奥津~伊勢市

  1. 戦時中に近鉄の路線になっていた。
    • 狭軌の路線だったら、大阪阿部野橋と伊勢を結ぶ特急が存在していたかも。
      • 紀勢本線との交点に連絡線を作り、大阪阿部野橋から尾鷲・熊野市を経由して新宮・紀伊勝浦に直通するディーゼル特急を運行していたかもしれない。
  2. 伊勢奥津駅はJRと近鉄の共同使用駅になっていた。
  3. 伊勢奥津以東が建設されなかった場合、ここから名松線を経由して松阪に向かっていた。
    • この場合国有化されていた可能性が高い(国鉄にも桜松線の計画があったので)。
    • 名松線自体も改良され、大阪から三重県に向かうメインルートの1つとなっていた。
      • 国鉄時代には天王寺or湊町から鳥羽まで急行が走っていた。

近鉄大宇陀線[編集 | ソースを編集]

榛原~大宇陀間

  1. 大宇陀町に訪れる観光客が増えていた。
  2. 第三セクター化されていたかも。

近鉄桜井線[編集 | ソースを編集]

橿原神宮前~桜井間

  1. 阪伊特急、名阪特急、特急「しまかぜ」は、大阪阿部野橋発着になっていた。
    • 大阪阿部野橋駅は史実よりターミナル駅として賑わっていた。
    • 待て、軌間どうするつもりだ?
  2. 鳥羽線の開業は史実通り。
  3. 南大阪線系統は標準軌化していた。

近鉄学文路線[編集 | ソースを編集]

五条~学文路間

  1. 南海高野線との直通特急(大阪阿部野橋~高野山間)が運行されていた。
  2. 近鉄の路線が和歌山県にも広がることになっていた。

和歌山港線紀三井寺延伸[編集 | ソースを編集]

わかうら
和歌浦
WAKAURA
新和歌浦 紀三井寺
SHIN-WAKAURA KIMIIDERA

和歌山港から水軒までの和歌山港線は廃止されました。では逆に水軒から、紀三井寺まで延伸されていたとしたら・・・

  1. 和歌山市駅のJRとの渡り線がなくなる。
    • 「きのくに」は廃止されず、こちらルートで存続していた。
    • 関西国際空港開港後に「関空から白浜・新宮方面への直通列車を走らせろ」という要望が出るが、泉佐野駅の配線のせいで実現の見込みはない。
      • 紀三井寺延伸がなっていたら、白浜方面にも走らせることを意識した配線にしていたかも知れない。
    • 紀和駅が廃止されていた。
      • だが、その用地は南紀方面への列車の引きあげ線化されているかも。
  2. 観光路線としての建設になっていた。
    • 水軒駅が「養翠園前」あたりに改称されていた。
  3. おそらく途中駅は「和歌山港-養翠園前-雑賀崎-新和歌浦-和歌浦-紀三井寺」といった感じになっていた。
  4. 南海が現在も和歌浦観光にけっこう力を入れている。
    • 難波から特急「サザン」が乗り入れていた。
    • 「サザン」以外に観光用に特化した全車座席指定の特急車も製造され、2列-1列のスーパーシート車や飲食コーナー付きのサロンカーも連結し、停車駅も新今宮・天下茶屋・堺・泉佐野・和歌山市・和歌山港・新和歌浦・和歌浦となっていた。
  5. LRT化が検討されていた。
  6. (1998年頃県議会で提案された)和歌山市内環状鉄道構想が早期に実現している。また貴志川線も早くから1500V化され南海に残留しているかも?
  7. 紀勢本線への乗り入れを果たしていたら、紀三井寺以南の紀勢本線は、南海の所有になっていた。
    • 国鉄(もしくはJR)が私鉄に本線を売却するような事態とは一体…?
      • 実際、現在のような運用なら、例えば和歌山線なんか近鉄なり、南海に売却するように周辺住民や自治体が言っていたりするので、あり得ないとは言い切れない。
    • とりあえず南海がそこまで裕福だという話は聞いたことがない。

南海貴志川線学文路延伸[編集 | ソースを編集]

  • 戦前には学文路に延伸する計画がありました。
  1. 学文路で南海高野線との相互直通運転が行われ、和歌山~高野山間の列車が運行されていた。
    • 観光列車の「天空」が当路線に乗り入れていた。
  2. 当路線が和歌山電鐵に移行されることはなかった。
  3. 上の近鉄学文路線も開通していたらこの路線も近鉄の1路線となり、尺土~御所~五条~学文路~和歌山が1つの路線になっていた。
    • 路線名は近鉄和歌山線となっていた。
    • 近鉄の和歌山進出が実現していた。
      • 和歌山駅前に近鉄百貨店があるのを誰も不思議に思わない。

大阪鉄道計画線[編集 | ソースを編集]

  • 大阪から奈良・伊勢・和歌山に至る路線を計画していたが奈良までの路線が開業したところで買収されてしまった。
  1. 現実の近鉄に相当する大手私鉄に成長している。
    • 近鉄は近鉄奈良線・けいはんな線・生駒線のみの会社になっている。
      • それでも直線的に結ぶ大阪-奈良間では競争力を持ち、京阪以上の規模はある。
  2. 伊勢への路線は桜井駅から、現実の近鉄大阪線のルートで建設されていた。
  3. 奈良県は現実以上にJR不毛の地となっている。
  4. あの衝突事故がなければ、割とあり得た。
  5. 和歌山への路線は南海鉄道と競合していた。
    • 南海は明治・大正期に国有化されていた。