もし日本プロ野球選手の移籍制度が○○だったら
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FA制度[編集 | ソースを編集]
日本プロ野球では1993年にFA制度が導入されましたが、もし違う展開を迎えていたら?
導入されなかったら[編集 | ソースを編集]
- 落合博満は引退まで中日でプレー。1994年10月8日の中日対巨人戦は普通に消化試合だった。
- 1994年シーズンは現実と逆に中日が優勝したかもしれない。落合自身も中日ファンから裏切り者呼ばわりされることもないし中日の監督就任が現実より早かったかも。
- 駒田徳広の横浜移籍はなかった。また1998年の横浜優勝もなかった。
- その代わり谷繁が移籍しないので21世紀のAクラス回数は史実より多かった。
- 当時の長嶋監督と不仲で干され気味だったことからどっちみちゆくゆくは自由契約で巨人を出ていただろう。
- 工藤公康は引退まで西武でプレー。1999年のダイエー優勝はなかった。
- 石毛宏典も西武に残留しているので、黄金時代がしばらく続いた。
- 松永浩美は引退まで阪神でプレー。マスコミに甲子園は砂場だという発言が書きたてられる事は無かった。
- 背番号02を受け継ぐ後輩がいただろう。
- 江藤智は引退まで広島でプレー。「江豚」と書かれることはなかった。
- 広島の財力が史実通りなら江藤らはなんだかんだで放出されていそう。遅くとも新井兄や栗原が台頭する頃には自由契約かトレードで出されていたんじゃないかな。
- それでも清原はあの手この手で巨人入り。
- 資金問題で軋轢が生まれて、巨人の有力若手選手と1対3くらいで出されていたかも。FAがない以上強奪することもできなかったのでなんだかんだで中畑の後の一塁の長距離砲を欲していそうだし。
- 金本知憲は広島残留。なので阪神は金本を獲得できず、ずっと暗黒時代。
- 新庄剛志もメッツへ移籍せず阪神残留。なのでずっと暗(ry。
- 赤星憲広のブレイクが遅れていた。
- もちろん新井貴浩が阪神に移籍することもなかった。
- 赤松はその後も阪神でプレーしていた。
- 意外に彼が大活躍していたりして。
- 赤松はその後も阪神でプレーしていた。
- もちろん2016年から阪神の監督になることもない。
- フルイニング記録は広島時代からだが、もしかしたら史実より伸びていたかもしれないし、早く終わっていたかもしれない。
- 新庄剛志もメッツへ移籍せず阪神残留。なのでずっと暗(ry。
- 松井秀喜は現在でも巨人でプレー。2003年以降も何度か優勝している。
- プロ野球人気の低下は現実以上に進んでいたかも。
- 川崎憲次郎は引退までヤクルトでプレー。「川崎祭」が起こったり、「川詐欺」と書かれることはなかった。
- 石嶺和彦は40歳までDHとしてオリックスでプレー。
- イチローのブレイクが遅れていた。
- 小笠原道大はヒゲを剃らなかった。
- 東京に残留する為に札幌移転直前にトレードを要請し巨人へ移籍。
- この時二岡が日本ハムに移籍していたかも。
- 東京に残留する為に札幌移転直前にトレードを要請し巨人へ移籍。
- 片岡篤史は日本ハムで今も現役。日本一を経験。
- 檜風呂で笑い者にされる事はなかっただろうし、揉岡と呼ばれる事もなかったんだろうね…。
- 小久保裕紀はソフトバンクに戻れず、不協和音の原因に・・・
- 結局志願して自由契約にしてもらい、復帰。
- サブローこと大村三郎もロッテに戻れず巨人で引退or自由契約で復帰していた。
- ナベツネ主導でポスティング制度の国内導入が決まってしまい今以上に特定球団に選手が集中する事態に…。
- でも巨人は優勝できなくてざまあみろと他球団ファンの声。
- 稲葉篤紀はヤクルト残留で、古田監督を胴上げ。一方の日本ハムは優勝できず。
- メジャー行きを希望する選手は全員ポスティングか自由契約で移籍。
- イチロー・松坂は大ブーイングの中でのメジャー移籍となる。
- 自由契約でメジャーに行った長谷川・井口・斎藤隆などは現実と変わらず。
- bjリーグもFAを導入していなかった。
- 上のように金本・江藤が残留したので広島の成績は史実より良かった。
- 1991年以後も何度かリーグ優勝している。
- 旧市民球場からマツダスタジアムに移転するまでに何度か優勝出来ている。
- 1991年以後も何度かリーグ優勝している。
- 史実よりもトレードが多かったため、金銭トレードの比率が高くなっていた。
- それこそ西武ダイエーの3対3や阪神ダイエーの4対5などを上回る大型トレードが実現していたかも。
- 横浜ベイスタースの2000年版カレンダーに進藤達哉の写真がちゃんと掲載されていた。
- ドラフトで入団拒否する選手が増えていた。
- 広澤克実が巨人と阪神で4番を打った唯一の選手となることもない。
- 小林宏之は引退までロッテでプレー。2011年のロッテの成績がもう少しマシになっていたし、阪神ファンから不良債権扱いされることもない。
- 大村直之は2004年オフにどっちみちオリックスor楽天以外の球団に移籍しそう。
- もちろん自由契約を利用している。
- 藤井彰人が阪神に行かないのでファンから「男前」と呼ばれることもない。
- 城島健司離脱後は小宮山慎二が正捕手となっていたか。
- 平野恵一は引退まで阪神でプレー。オリックスの後輩の西野真弘もあそこまで活躍出来ているか怪しい。
- 山沖之彦が一軍登板なしでひっそり引退することもなかった。
- 星野伸之もオリックスで現役を終えていたので、イチローの渡米前後のオリックスブルーウェーブの成績がもう少しマシだった。
- 糸井嘉男が阪神へ行かないので、吉田正尚のブレイクが遅れていた。
旧10年選手制度の代わりに導入されていたら[編集 | ソースを編集]
- FA制度の前身にあたる10年選手制度は1947年に導入され、1975年に廃止されました。もしこの制度無しでFA制度が最初から定着していたら?
- 金田正一や野村克也あたりがFAちらつかせて国鉄・南海球団に脅しをかけてフロントと衝突し、もっと早く退団、球団と絶縁していたかもしれない。
- 金田は球団売却が移籍の契機だったから史実通りでは。
- MLBでのFA制度導入も史実より早まっていた。
- 巨人がV20ぐらいしていたかも。
- そして今と違い、当然のこととして受け止められていた。
- プロ野球人気の低迷も昭和のうちに起こっていた。
- アンチ巨人が史実より多かった。
- 高橋一三や富田勝がもう少し長く巨人に居られた。
- 選手の年俸も早い段階で上がり、落合より前に一億円プレーヤーが誕生していた。
- 木塚忠助や飯田徳治は南海で現役を全うしたかも。
- もし村上雅則・野茂英雄以前に日本人大リーガーが誕生していたらのいくつかが実現している。
- 村田兆治が阪神に移籍していた。
- 郭源治、荘勝雄は日本国籍取得することはなかった。
- リー兄弟やブーマー・ウェルズ、ボビー・マルカーノが取得をしていた。
広島がFA残留を認めていたら[編集 | ソースを編集]
- 金本知憲は広島に残留していた。
- そして同時に新井貴浩、黒田博樹も残っていた。
- 2008年現在、阪神は1985年以来優勝経験なし。
- もしかすると、新井は2016年まで現役を続けられなかったかもしれない。
- そして同時に新井貴浩、黒田博樹も残っていた。
- しかし結局年俸が払えなくなって出て行ってしまう。
FA宣言者の残留希望を必ず認める必要があったら[編集 | ソースを編集]
広島やロッテ、日本ハムなどFA宣言したうえでの残留を認めない方針の球団がありますが、もしFA宣言して移籍先が見つからない選手は残留させなければいけなかったら?
- 木村昇吾がFA宣言したのに入団テストを受けさせられる、ということはなく、残留していた。
- 「とりあえずFA宣言してみよう」という選手が増えていた。
- それでも「本当は移籍したくなかったのに、元の球団が他球団を上回る条件を提示してくれず泣く泣く移籍」というケースはたまに発生するだろう。
- 球団からしてみればチーム編成に影響をきたす。
- 広島とかは(特にそれほどの活躍をしていない選手だった場合)残留時は大幅減俸を突き付けていた可能性も。
メジャーリーグと同様のシステムだったら[編集 | ソースを編集]
MLBのように条件を満たした年のオフに自動的に全ての球団と交渉可能になったら?
- 球団は少なくとも自チームで条件を満たした選手全員と交渉する必要があるため、手間がかかる。
- 巨人はとりあえずチーム内外のほぼ全員にオファーを出すかもしれない。
- 選手の側としても、移籍・残留どちらに進むにしても積極的に交渉する必要が出てくる。
- 「現役ドラフト」は史実のような仕組みではなく、現実のcランク相当のFA選手を1球団で大量取得させないための仕組みとして導入されていたかも。
戦後のプロ野球再開時に前所属球団の許可なしでの移籍が認められていたら[編集 | ソースを編集]
敗戦の翌年となる1946年、プロ野球は2年ぶりに開催されることになりましたが、選手は原則として敗戦前に所属していた球団に復帰しなければならないという規約がありましたが、必ずしも敗戦前に所属していた球団に戻る必要はないのではという意見もありました。後者の考えを持っていた藤本定義氏は、巨人と阪神から3選手をパシフィックに入団させ、結果没収試合を経験するということもありました。
もし、必ずしも敗戦前の所属チームの承諾なく、他球団へ移籍してもよかったら?
- スタルヒン・白石勝巳・藤井勇のパシフィック移籍は問題にはならなかった。
- 別所の巨人移籍が早まっていた可能性も。
- 最初から巨人に入ることを希望していたが、実家が近畿圏にとどまるようにと南海との契約を本人の承諾なく結び、しかも当時の規約ではそれが有効だったという経緯があるため。
- その場合、巨人は1947年・1948年も優勝できていたかもしれない。
- プロ野球史上初のプレーオフ(グレートリング対巨人)が行われていた。
- これを機に、多くの選手が敗戦前の所属球団とは違う球団に移籍した可能性がある。
- その場合、戦力図が激変していた可能性がある。
ポスティングシステムが1997年以前から確立されていたら[編集 | ソースを編集]
ポスティングシステムはメジャー移籍を希望する日本人選手のために、1998年に確立され翌1999年シーズンから実施されましたが、これが1997年以前に確立されていたら?
- 野茂・長谷川はポスティングを使っていた。
- 伊良部は自由契約で移籍したかも。
- 移籍金により球団経営が改善され球界再編は無かった。
- 日本人のメジャー挑戦がもっと増えていたかも。
- 野茂英雄以前に2人目の日本人大リーガーが誕生していた。
- 夢破れて帰国する選手も現実より多くなっていた。
- 国内FAより2年短いくらいの年数で「ポスティング拒否不可能権」が設定されていた。
- ポスティングに対する球団への補償もポスティング移籍金とは別に設定されていた。(ドラフト会議の順位など)
メジャー方式の40人枠が導入されていたら[編集 | ソースを編集]
- 育成選手制度が悪用されることはなかった。
- むしろ育成選手制度は廃止されており、40人枠から外れてウエーバーを通すのが育成落ちのような扱いに。
- 16球団制を実現するとしたらこちらのほうが人材プールの観点からいいかもしれない。
- 中10日ローテは不可能になる。
- もしくはNPB独自の10日間DLを作っていたかも。
- マイナーオプションとウエーバーで移籍が活発になる。
- 育成横取りはまだ珍しいが、ウエーバーで横取りする球団が多くなっていた。