もしあの人が健在だったら/大相撲
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- 死去時に年寄を襲名していた、または日本相撲協会を退職して本名や別名義を名乗っていた場合でも、現役時代の四股名でお願いします。
あ行[編集 | ソースを編集]
青葉山弘年[編集 | ソースを編集]
- 2000年に師匠清の盛の定年に伴い、木瀬部屋を継承する。
- 肥後ノ海は別の年寄名で部屋を興す。
- 弟子の市原が改名しても四股名は「清瀬海」にならなかった。
- 肥後ノ海は別の年寄名で部屋を興す。
- 2015年に仙台市営地下鉄東西線の青葉山駅の開業式に参列した。
朝潮太郎(三代目)[編集 | ソースを編集]
- 還暦土俵入りを行えた。
- 小錦の初優勝を誰よりも喜んだ。
- 水戸泉の優勝も喜んだ。
- 1994年に定年まで勤めた場合、後継者に弟子の朝潮を指名。高砂部屋と若松部屋の合併が史実より早く行われた。
- 富士錦は尾上親方として高砂部屋付きの年寄のまま定年を迎える。
- 朝青龍は最初から高砂部屋所属。
- サッカー騒動時に闘牙の出場停止が引き合いに出される。
- 相撲協会に引退勧告を出す様直談判していた。
- サッカー騒動時に闘牙の出場停止が引き合いに出される。
- 水戸泉の婚約破棄問題があまり大きく騒がれない。
- 大関朝潮の引退会見に同席し、断髪式で止め鋏を入れる。
- 南海龍の行く末は…案じていない。
- 古参理事として睨みを利かせて弟子の小錦の横綱昇進に影響を与えた。
- 小錦の横綱昇進の伝達式に同席した。
板井圭介[編集 | ソースを編集]
- 交友のあった井筒親方(元関脇逆鉾)の死去時に追悼のコメントを出していた。
- YouTubeの「貴闘力部屋」にゲスト出演していたかもしれない。
潮丸元康[編集 | ソースを編集]
- 東関部屋が八角部屋に吸収合併されることはなく、高見盛も振分親方のままだった。
- 雅山のニ子山部屋は旧峰崎部屋の施設に移転していた。
- 兄弟子だった曙の訃報にお悔やみのコメントをしていた。
大ノ海久光[編集 | ソースを編集]
- 輪島が年寄株を借金の担保にすることはなかった。
- それが原因で花籠部屋の消滅や、大ノ海の娘とも離婚することもなかった。
- その後大ノ海の妻も自殺することはなかった。
- 後に花籠を襲名した花乃湖が引退相撲直後に突然廃業することはなかった。
- 花ノ国も若者頭でなく年寄として相撲協会に残れた。
- 花籠部屋を再興させた太寿山は最初山梨県に部屋を開いて、その後東京都に移転したが、歴史上山梨県に相撲部屋が存在したことはなかった。
- 輪島の引退相撲に出席し、断髪式で止め鋏を入れる。
沖ツ海福雄[編集 | ソースを編集]
- フグで逝かなければ、双葉山単独時代はなかった。
- 双葉山の69連勝は、もちろんあり得ない。
- という事は、連勝記録保持者は白鵬?
- 双葉山と双沖(そうちゅう)時代を築いていた。
- 大関には間違いなく昇進。1936~38年辺りに横綱昇進。
- 史実で"弱い横綱"として有名な武藏山、男女ノ川は横綱に昇進していない。
- その武藏山は、小結時代の沖ツ海戦での負傷が祟り、横綱には昇進できたものの、無残な成績で終わってしまった。武藏山の負傷がなければ、双葉山、武藏山、沖ツ海が三つ巴で一時代を形成した可能性あり(当初は、先輩の玉錦をふくめた四横綱時代として)。
- 1945年11月場所で引退(双葉山、笠置山らと同時)。その後、若藤部屋を無事継ぎ、角界を代表する大部屋に成長させている。
- 1960年代に若藤理事長となり、協会内では、双葉山派と沖ツ海派に分かれていた。
か行[編集 | ソースを編集]
魁傑將晃[編集 | ソースを編集]
- 北の湖の死去時に何らかのコメントをしていた。
- 照ノ富士の大関復帰時に何らかのコメントをしていた。
柏戸剛[編集 | ソースを編集]
- 多賀竜は2003年九州場所後に鏡山部屋を継承した。
- 鏡山部屋の力士数が現実ほど減少しなかった。
- 逆に2002年に白豹山が入門することはなかった。
- 鏡山部屋の力士数が現実ほど減少しなかった。
- 起利錦の断髪式で止め鋏を入れた。
- 大鵬が死去した2013年には葬儀に参列したり、テレビの追悼特番にゲスト出演したりした(現実には弟弟子の藤ノ川が出演)。
春日富士晃大[編集 | ソースを編集]
- 翔天狼は年寄春日山を襲名できなかった。もし襲名できたとしても濱錦と同様に貸借でトラブルになっていた。
- 実際は勢が年寄春日山を所有しているが、そもそも勢が年寄春日山を取得できなかった。
- 川崎フロンターレのJ1優勝に祝福のコメントを寄せた。
- 芸能界で不倫が相次いだ2010年後半には、これが原因で相撲協会を退職した彼が引き合いに出されていた。
北出清五郎(NHK相撲アナウンサー)[編集 | ソースを編集]
- 現在の相撲アナウンサーはもっと充実していた。
- 力士の心をつかむのが巧いので、朝青龍が本音で話せる数少ない人になっていたかも知れない。
北の湖敏満[編集 | ソースを編集]
- 停年目前の2018年初場所まで理事長を務め、八角親方に禅譲していた。
- 前九重親方(元千代の富士)の死去時も理事長として対応し、思い出に1981年初場所の優勝決定戦を挙げた。
- 貴ノ岩への暴行事件に際し、理事長として的確な対応をしていた。
- 2018年現在も裏金顧問小林慶彦が相撲協会の顧問を務め、協会の金を食いつぶしていただろう。
- 貴乃花の相撲協会退職に際し、思いとどまる様説得していた。
- そもそも貴乃花の退職が起きず次期理事長は貴乃花だった可能性も。
木村正直 (4代)[編集 | ソースを編集]
- 2013年九州場所で第40代式守伊之助を、2015年夏場所で第38代木村庄之助を襲名した。
久島海啓太[編集 | ソースを編集]
- 鳴戸部屋は田子ノ浦ではなく別の名跡になった。
- 下手したら元隆の鶴は他の年寄名跡を取得できず退職に追い込まれ、力士や行司などは二所ノ関一門の他部屋に移籍していた。
- 2012年夏場所の栃煌山は優勝決定戦に出られなかったかもしれない。
- 2018年初場所で栃ノ心が優勝した際の旗手は碧山ではなかったかもしれない。
蔵間龍也[編集 | ソースを編集]
- 大相撲解説者やタレント活動などを継続。
- 舞の海の仕事もいくつも奪っていた。
- デーモン小暮閣下と優勝力士予想を続けていた。
- そしてやっぱり何度も負けていた。
- その後も大相撲の裏話を何度も本にする。
- 朝青龍や白鵬を何度も取り上げている。
- 白血病から生還を果たしていた場合、やはり骨髄バンク登録を呼びかけている。
- 今頃、日本テレビ「スポーツうるぐす」の大相撲解説をやっていたかも。
- いや、TBS系「ブロードキャスター」の相撲解説を担当していたかも。
- 「生島ヒロシのおはよう一直線」の相撲のコメンテーターをやっていた。
- いや、TBS系「ブロードキャスター」の相撲解説を担当していたかも。
- 2007~2008年の角界の一連の不祥事に対していち早く相撲協会の責任を追及し、北の湖理事長に辞任を勧告していた。
- されど、北の膿、ではなかった、北の湖は、現役時代、蔵間と10数回対戦して無敗であった。北の湖は、蔵間の追及を一笑に付した可能性も大。
- 相撲協会に残っていた場合、2002年8月に師(元大関豊山)を継いで時津風親方となっていたかも。
- 確かに、元大関豊山の弟子で関脇以上に昇進したのは蔵間だけだった!!
- あの忌まわしいリンチ殺人事件も起きなかった。
- 白血病が相撲協会を離れる一因だったとも言われているから、発病がなければ確実に時津風を継承していた。
- 双津竜は部屋付きのまま停年。時津海は2010年頃まで現役を続け、蔵間停年の2017年九州場所後に時津風を継承。
- あるいは史実で双津竜の後継を断った蒼樹山が継いだ可能性も。滋賀県出身つながりで。
- しかし同時期の角界に起きた出来事が原因で蔵間の退職はあまりメディアに取り上げられない。
- 双津竜は部屋付きのまま停年。時津海は2010年頃まで現役を続け、蔵間停年の2017年九州場所後に時津風を継承。
- 確かに、元大関豊山の弟子で関脇以上に昇進したのは蔵間だけだった!!
- 朝青龍が心を許していた。
- ラジオ番組「ハイ!今日も待ったなし」のパーソナリティーが琴剣に代わることはなかった。
- 「オールスター感謝祭」の「大相撲赤坂場所」の行司が桂邦彦プロデューサーに代わることもなかった。
- 「秘密のケンミンSHOW」に滋賀ケンミン代表として出演した。
- 同じ野洲出身のT.M.Revolutionこと西川貴教ともしばしば共演した。
- 西川と共に滋賀ふるさと観光大使に選ばれた。
- 滋賀県立八幡工業高校でラグビーを経験しているので、2019年ラグビーW杯で日本が勝つたびに喜びのコメントをしていた。
剣晃敏志[編集 | ソースを編集]
- 貴乃花、若乃花、曙の横綱昇進が若干遅れていた。
- 若乃花の横綱昇進が遅れていた可能性、もしくは大関止まりだった可能性はあったかもしれない。ただ曙と貴乃花は剣晃の幕内在位中には既に横綱に昇進していたからあまり関係なかったかも。ただ優勝回数は少し変わっていた可能性もあると思うが。
- 場合によっては貴ノ浪2度目の優勝もなかった。
- 安芸乃島と共に「角界のヒール」として一時代を築いていた。
- 若貴にもちょくちょく勝ってたし、十分一時代を築いてたと思うが。
- 引退後は無事に高田川部屋を継いでいたことでしょう。
- 奇しくも、貴乃花と「仲違い」になった、元関脇・安芸乃島が高田川部屋に移籍して部屋を継いだ。また、一部では、「剣晃関と安芸乃島関って、何となく顔の雰囲気が似ている。」とも言われていた。
- 目元のあたりが似てたと思う。最近審判席に座ってる安芸乃島を見て一瞬剣晃かと思って驚いた。
- ちなみに身長は剣晃の方が安芸乃島より高かった(剣晃191cm、安芸乃島176cm)けど、体重は大体同じ位だった。
- 写真画像上、安芸乃島関を縦に引き延ばせば剣晃関になるのか?
- 近くの大阪府寝屋川市出身・豪栄道関(2009年5月場所新関脇、大阪府からの関脇は剣晃関の師匠・元・前の山=のち大関=以来となった)よりも早く関脇に昇進していたと考えられる(後述の龍興山関と競って。因みに剣晃関は守口市、龍興山関は堺市出身)。
- また、豪栄道関は特に京阪電鉄沿線出身の先輩・剣晃関を「兄貴」と呼んでいたであろう。
高鐵山孝之進[編集 | ソースを編集]
- 八百長問題を弟子の板井とともに告発し続けた。
- 2011年の八百長騒動では各種メディアに引っ張りだこ。
- 「八百長力士」と名指しした北の富士が1998年の理事選に出馬できなくなり、相撲協会を退職したのをどう見たであろうか。
光法賢一[編集 | ソースを編集]
- 2023年初場所後の白鵬の断髪式で鋏を入れた。
- 貴闘力のYouTubeチャンネル「貴闘力部屋」にゲスト出演して貴乃花部屋の経緯について話をしたかもしれない。
小坂秀二(相撲評論家)[編集 | ソースを編集]
- 朝青龍の品格面を非難し、横綱として認めようとしない。
- 引き技が目立ち、全体に稽古不足の大相撲に警鐘を鳴らしていたろう。
琴ヶ濱貞雄[編集 | ソースを編集]
- 琴風は別の年寄名で部屋を興した。
- 三男の角界入りは無かった。
琴櫻傑將[編集 | ソースを編集]
- 琴欧洲・琴光喜に続き琴奨菊の大関昇進伝達式にも立ち会っていた。
- 琴欧洲の引退会見にも同席。さらには断髪式で鋏を入れる。
- 琴欧洲が独立し鳴戸部屋を旗揚げした際にも激励に訪れていた。
- 琴欧洲の引退会見にも同席。さらには断髪式で鋏を入れる。
- 琴光喜が野球賭博で解雇された際には怒り悲しんだであろう。
- それで自殺していた可能性もある。
- 琴光喜が野球賭博に手を出すこと自体なかったかもしれない。
- ”師匠の適切な指導がなかった”ことが事件の発生理由として小さくなかったと思われるので。
- 2016年初場所での琴奨菊の初優勝を大いに喜んだ。
- もちろん2008年夏場所での琴欧洲の優勝も大いに喜んでいた。
- 琴勇輝の雄叫びについて白鵬が怒る前に苦言を呈し止めさせていた。
- 孫の二代目琴ノ若の新十両会見にも同席していた。
琴錦登[編集 | ソースを編集]
- 琴櫻は白玉部屋を興していた。
- 琴風も独立時に移籍し元の兄弟弟子と対戦することになるため、出世スピードが若干遅くなる。
- 1987年3月の停年により佐渡ヶ嶽部屋を長谷川に譲る。
- 白玉部屋が強豪部屋となり佐渡ヶ嶽部屋は没落した可能性も。
- 「琴錦」の四股名を継承した、「史上最強関脇」の異名を長谷川から奪い、平幕優勝2回やった松澤英行を見て驚いただろう。
- 風貌も何となく似ており、琴櫻の佐渡ヶ嶽親方が、自身の師匠の四股名「琴錦」襲名を許したらしい。
- 長谷川が「琴錦」を襲名する場合、松澤は全く別の四股名だったかもしれない。
金剛正裕[編集 | ソースを編集]
- 元若嶋津が入院したときに回復を願うコメントをしていた。
さ行[編集 | ソースを編集]
佐賀ノ花勝巳[編集 | ソースを編集]
- 押尾川事件はなかった。
- 天龍のプロレス転向もなかった。
- 押尾川部屋も創設されない。
- 金剛は80年代初頭まで現役だっただろう。
佐田の山晋松[編集 | ソースを編集]
- 2017年九州場所から2018年にかけての一連の不祥事に何らかのコメントをしていた。
- 孫弟子の御嶽海の優勝を喜んだ。
式守伊三郎(2代)[編集 | ソースを編集]
- 1990年初場所後に停年を迎えるため結局立行司にはなれない。
- 「式守伊三郎」が空き名跡にならなかった。
- 特急「いさぶろう」の由来と勘違いされる。
- 同じ会社に四股名から名付けられた特急が走っているので尚更。
- 「いさぶろう」つながりで営業運転初日の発車合図出す役を務めてたかも。
- 同じ会社に四股名から名付けられた特急が走っているので尚更。
- 式守勘太夫(7代)は幕内格のまま定年を迎える。
- でも、史実より遅く、定年直前に箔付けで三役格に昇進させた可能性もある。
たな行[編集 | ソースを編集]
大豪久照[編集 | ソースを編集]
- 二子岳は別の年寄名で部屋を興した。
- 荒鷲も別の四股名を名乗っていた。
- 2002年秋場所で停年を迎え、その後荒磯の株は直接稀勢の里に渡っていた。
- むしろ二所ノ関一門で借り株だった隆三杉か琴錦あたりが取得したかも。
大翔鳳昌巳[編集 | ソースを編集]
- 「立浪親方」の座を巡り、現親方(元小結・旭豊)との間で、激しい争奪戦を演じた可能性がある。
- 旭豊は分家の大島部屋出身、大翔鳳は本家の立浪部屋出身の元小結。
- 本家出身の、元横綱・双羽黒(北尾光司) が「立浪部屋のマネージャー」に就任することはなかったはず。
- 立浪部屋が立浪・伊勢ヶ濱一門から離脱することもなかった。
- あと2年くらいは現役を続けていた。
大鵬幸喜[編集 | ソースを編集]
- 国民栄誉賞はまだ受賞していない。
- 長嶋茂雄が受賞したときに白鵬が大鵬にも授与しろと発言して波紋を呼ぶ。
- そもそも長嶋(と松井)の受賞自体あったかどうか微妙。
- 大鵬への授与が生前に行われなかったことへの批判をある程度受けての授与だったと報道されていた記憶がある。
- 2015年初場所での白鵬の優勝回数新記録達成を大いに称賛したであろう。
- 今でも相撲博物館館長を務めている。
- 2017年九州場所で判定に不満で土俵を降りなかったり、千秋楽の表彰式で観客とともに万歳三唱をした白鵬を強く批判しただろう。
- 孫弟子の大砂嵐による無免許運転事故についても一喝した。
- 孫の納谷幸之助の入門会見に同席した。
- 貴乃花関係の問題が史実よりマシな展開になってたかも。(生前は貴乃花に指導をよく行っていたため)
隆の里俊英[編集 | ソースを編集]
- 稀勢の里の大関昇進を誰よりも喜んでいたに違いない。
- ただし出稽古の回数は少ない。
- 稀勢の里の昇進伝達式に同席した。
- もちろん稀勢の里の横綱昇進も大いに喜んだ。
- 史実通り2017年1月場所での昇進なら停年目前(1952年9月生まれ)となるが、稀勢の里の横綱昇進自体もっと早まっていたかもしれない。
- 不知火型の土俵入りを自ら伝授した。
- 鳴戸部屋が田子ノ浦部屋に変更し、東京都江戸川区に移転することもなかった。
- 隆の鶴は部屋付きの西岩親方のままだった。
- 片男波部屋出身の元関脇玉乃島(西岩親方→放駒親方)が「玉突き退職」を食らい、年寄襲名出来なかったかも。
- 「西岩」はこの部屋の若の里が所有者なので、史実通りなら久島海が死去後に「田子ノ浦」を取得していた。
- この場合、「放駒」は琴欧洲が襲名していた。
- よりによって、隆の里の愛弟子・大関稀勢の里の幕下十両時代からのライバルだった元大関琴欧洲に、「鳴戸親方」の名義が渡ってしまうことはなかった。
- 元横綱であり、弟子の育成実績も優れているので、順当に理事就任。これにより、若嶋津の理事就任のタイミングは遅くなり、鳴戸部屋のほうが“二所ノ関部屋”になっていた可能性あり。
- そして愛弟子が“二所ノ関”の看板を背負うことに…。
- 間垣部屋閉鎖に伴って、貴乃花部屋に断られた間垣部屋を吸収合併していた(史実では伊勢ケ濱部屋が吸収合併した)。
- この場合、照ノ富士の四股名は「若三勝」のまま関取に上がっていた。
- いずれにせよ2015年秋場所に照ノ富士、2017年春場所に稀勢の里が大怪我せずに済んだ。
- 高安は本名でなく、自分の「隆」か「里」の入った四股名を名乗っていた。
- 2017年に停年を迎えた場合、若の里を自分の後継者にしていた。
- よって西岩部屋は創設されない。
- 2012年秋場所後に還暦土俵入りを行った。
貴ノ浪貞博[編集 | ソースを編集]
- 引き続き音羽山親方として貴乃花部屋の部屋付き親方を務めていた。
- これに伴い、年寄西岩を借りていた元幕内光法が若の里の引退に伴い退職に追い込まれたかもしれない。
- 2018年1月に北太樹が引退した際、それまで年寄小野川を借りていた大道は当然音羽山に鞍替えできず退職した。
- 2018年秋場所後に貴乃花親方が退職した際には貴乃花部屋を引き継ぎ「音羽山部屋」の師匠となった。
- 貴景勝は音羽山部屋の力士となった。
- 貴景勝の昇進伝達式に師匠として使者を迎えた。
- 貴乃花一門の参謀として暗躍し、2016年3月の理事長選で貴乃花親方を当選させていた。
- 日馬富士の暴行事件に関して貴乃花親方に代わって諸々の対応を行った。
- 鶴竜は「音羽山」でなく別の年寄名で部屋を興した。
貴ノ花利彰[編集 | ソースを編集]
- 兄である初代若乃花の葬儀委員長を務めていた。
- 現役時代最大のライバルだった高見山(初代東関親方)の相撲協会定年の際、労いのメッセージを送っていた。
- がんの発症もなかった場合、息子2人の仲裁に全力を注いでいたかもしれない。
- 次男・貴乃花に部屋を譲ることは無かったかも。
- この場合、貴乃花部屋は二子山部屋から独立して創られていた。
- 貴ノ浪や五剣山らは引退まで二子山部屋のままだった。
- 2015年5月末に定年を迎え貴ノ浪が継承するが、7月の貴ノ浪急逝に伴い隆三杉が師匠になる。
- 貴闘力の解雇騒動になんらかのコメントをしていただろう。
- 貴ノ浪の断髪式で止め鋏を担当していた。
- 史実での貴ノ浪の断髪式では止め鋏こそ入れませんでしたがマゲに鋏を入れました。
- 貴ノ岩が受けた暴行事件で相撲協会と貴乃花の関係悪化を危惧していた。
- 孫弟子の貴公俊の付け人に対する暴行事件について一喝していた。
- 双子の弟の貴源治が協会を追われることもなかったかもしれない。
- 貴乃花が理事選挙に立候補するのは早くて2014年だった。当然貴乃花一門も結成されず。
- 2005年に2ちゃんねるで花田家関連のスレッドが乱立することはなかった。
- 相撲板はタイトルに空白のついた幕下力士関連のスレで埋め尽くされる。
高登渉[編集 | ソースを編集]
- 松登は朝潮(3代)の引退時に廃業しなければならなかった。
谷嵐久[編集 | ソースを編集]
- 息子・山口俊の泥酔トラブルについて厳しいコメントを出したが、ノーヒットノーランやメジャーリーグ挑戦に喜んだ。
玉乃海太三郎[編集 | ソースを編集]
- 玉龍の三役昇進を喜んだ。
- 1988年1月に無事停年を迎えた。
玉の海正洋[編集 | ソースを編集]
- 琴櫻は横綱になれなかった(琴櫻の対玉の海との対戦成績は、初めは12勝10敗と分が良かったが、そこから14連敗を喫したので…)。
- 輪島や北の湖の横綱昇進はかなり後にずれ込んでいた。
- 栃東、高見山の優勝はなかった。
- 長谷川も?
- 北の湖は一代年寄ではなく、「小野川部屋」として独立していた。
- 北の湖の21歳1ヶ月での最年少横綱昇進はなくなる。
- 訂正、21歳2ヶ月でした。
- 栃東、高見山の優勝はなかった。
- 男児が誕生し、後に若貴や曙のライバルとなっていた。
- 女児だったらプロボウラーになっている。
- 玉ノ洋の「玉乃島」襲名はなかった。
- 「名大関」だった魁皇や千代大海は「名関脇」か「短命大関」で終わったかも。
- 栃東がやった「再々大関」も実現していまい。
- 「中日・玉の海・エビフライ」が流行語になった。
- おそらく「巨人・大鵬・卵焼き」に対抗して生まれていたか、或いは「東海地区限定」の流行語かもしれないが、中日が2回目のリーグ優勝を果たした1974年当時も現役だったら、間違いなく流行っていただろう。
- 1980年頃まで現役で、その後は片男波親方として協会の重要なポストに収まっている。
- 現役時代の実績によっては「玉の海親方」になっていたかもしれない。
- 2002年2月に日本相撲協会理事長に就任していたかも。
- 北の富士勝昭の現役引退がもう少し先だった。実際、玉の海亡き後、北の富士の成績は悪化している。
- 琴櫻や2代目若乃花(間垣親方)、三重ノ海(武蔵川親方、元理事長)の横綱昇進は無理だったにちがいない。いずれにしても、大相撲史はがらりと変わっていたであろう。
- 玉の海は1971年に満27歳没。史実では2代目若乃花は1978年、三重ノ海は1979年に横綱昇進を考えると少なくともこの2人は十分可能性あるでしょ?
- 大相撲ダイジェストで解説者をやってたかも。
- 76年、史実より2年遅れて横綱昇進の北の湖と入れ替わるように引退か?
- 自らが在日韓国人だということは未だに公表していない。
- 出身地は疎開先の愛知県蒲郡市としていたが、実の出生地は「関西のコリアンタウン」大阪府大阪市生野区の鶴橋界隈らしい。
- 墓所も蒲郡市の新幹線線路沿いにある天桂院と、大阪市北区の梅田繁華街に近い太融寺に分骨されている。
- 出身地は疎開先の愛知県蒲郡市としていたが、実の出生地は「関西のコリアンタウン」大阪府大阪市生野区の鶴橋界隈らしい。
- 少なくとも生涯の幕内優勝は15回以上記録していた。
- その代わり輪島の優勝回数(史実では14回)は多くても10回程度に終わっていた。
- 北の湖の優勝回数(史実では24回)も20回未満に終わり、北の湖への一代年寄授与もなかったに違いない。
- 1972年には複数回優勝していた。
- 史実ではこの年は年6場所とも優勝者の顔ぶれが異なった。
- 玉ノ富士と玉輝山が玉の海の太刀持ちと露払いを務める。
千代の富士貢[編集 | ソースを編集]
- 結局理事長就任はおろか、理事復帰も叶わぬまま停年を迎えた。
- 2017年名古屋場所での白鵬による通算勝星数新記録達成を浅香山親方(元魁皇)と共に祝福した。
- 次女・梢と松田翔太の結婚をすんなり許しただろうか?
千代の山雅信[編集 | ソースを編集]
- 弟子の千代の富士と孫弟子の北勝海は別門だったかも。
- 史実の八角部屋が井筒部屋、史実の井筒部屋が君ヶ濱部屋になっていた。
- 鶴嶺山・逆鉾・寺尾が「君ヶ濱三兄弟」と呼ばれていた。
- あの伝説の猛稽古もなかった。
- 北勝海は大関・横綱への昇進を果たせず、四股名も「保志」のままだった。
- 同部屋横綱による優勝決定戦は未だに実現していない。
- 史実の八角部屋が井筒部屋、史実の井筒部屋が君ヶ濱部屋になっていた。
- 1986年に還暦を迎えた時、記念の土俵入りは、太刀持ち北の富士、露払い千代の富士の愛弟子の組合わせで行われた。
- 1991年に定年まで務めた場合、九重部屋は千代の富士が継承する。千代の富士の引退は史実通り1991年夏場所だが、師匠の定年までは年寄「千代の富士」になるだろう。
鶴ヶ嶺道芳[編集 | ソースを編集]
- 1977年の停年に井筒部屋の後継者に鶴ヶ嶺の君ヶ濱を指名する。
- 史実で起きた井筒部屋のお家騒動(後継者に陸奥の星甲に決まり、鶴ヶ嶺は独立して君ヶ濱部屋を興した)は起きなかった。
- 北の富士は別の年寄名で引退後に九重部屋から独立する。
- 「君ヶ濱」は大峩が襲名する。
- 持病の糖尿病の悪化でいずれ廃業せざるを得なくなるが。
寺尾節子(鶴ヶ嶺昭男夫人)[編集 | ソースを編集]
- 三男は高校卒業後に入門した。
- 四股名が違っていたかも。少なくとも下の名は「節男」にならない。
- 新十両のとき名乗った「源氏山」で取ったかもしれない。兄の「逆鉾」同様井筒部屋に伝わる由緒ある四股名。
- 錣山部屋の呼出しも別の名前に。
- 四股名が違っていたかも。少なくとも下の名は「節男」にならない。
- 夫と息子達が揉めることもなかった。
- 霧島の大関昇進伝達式に同席した。
- 部屋を継いだ次男逆鉾の弟子になった、モンゴル出身鶴竜(現横綱)を見て驚いたであろう。
- 志摩ノ海は天咲千華(逆鉾長女)と結婚できただろうか…。
照國萬蔵[編集 | ソースを編集]
- 年寄「楯山」は清國のままのため、大受は別の年寄を襲名するか、取得するまで現役を続けるか、廃業する。
- 照國が停年を迎える1984年1月に年寄「楯山」の清國が伊勢ヶ濱部屋を継承する。
- 日航機事故で妻子を失った清國を物心両面で支援した。
- 伊勢ヶ濱部屋がひどく衰退することはなかった。
- 旭富士の部屋は安治川部屋のままだった。
- 伊勢ヶ濱部屋がひどく衰退することはなかった。
- 若瀬川の師匠になれた。
時津山仁一[編集 | ソースを編集]
- 大麒麟は別の年寄名で二所ノ関部屋から独立する。
- 優勝0回、最高成績14勝の双羽黒に注意するたび逆ギレされる。
- 力士が浜通りに被災地訪問した際姿を見せることがある。
時天空慶晃[編集 | ソースを編集]
- 現役時代は小結止まりながら幕内在位が長く、独立権を持っていた。(前の同呼称部屋とは別一門になるが)間垣部屋を興しただろう。
- 当然元土佐豊は間垣ではなく他の名跡を取得していた。
- 白鵬は朝潮の退職で空いていた錦島を取得して襲名した。
- 当然元土佐豊は間垣ではなく他の名跡を取得していた。
- 時津海の退職後に時津風部屋を継承したかも。
栃木山守也[編集 | ソースを編集]
- 1961年の停年制導入まで春日野親方として協会に在籍。
- 栃錦の引退会見に同席し、止め鋏も入れた。
- もちろん栃錦の二枚鑑札もない。
- 引退から栃木山停年までの数ヶ月間は年寄「栃錦」を名乗る。
- 直弟子の関取第一号は栃東ではなく栃富士。
栃錦清隆[編集 | ソースを編集]
- 1990年2月の定年後は予定通り相撲博物館の館長に就任した。
- 関脇栃東の息子の大関栃東を可愛がった。
- 場合によっては「栃錦」を名乗ることを許すかも。
- 玉ノ井部屋は分家独立しないか、大関の引退後に創設される。
- 栃赤城の現役期間が長くなる。
- 舛田山の断髪式で止め鋏を入れた。
- 「春日野清隆」を継いだ栃乃和歌(元関脇)の春日野部屋に対しても、李大源(元前頭筆頭栃乃若)の入門を恐らく許さなかっただろう。
栃ノ海晃嘉[編集 | ソースを編集]
- 梅ヶ谷の横綱最高齢記録を更新していた。
栃光正之[編集 | ソースを編集]
- 金城は引退まで本名で通した。
- 金城は宮崎県出身史上初の関脇だった。「栃日向」とでも名乗ったかも。
- 立合いの正常化に尽力する。
- 「待った」への制裁金導入が早まった可能性もある。
- 2020年秋場所で初優勝した同じ熊本出身の正代に祝福のコメントを出した。
- 舛田山は「千賀ノ浦」ではなく別の年寄名跡を取得する。
- 栃光が停年を迎える1999年に現役を引退した栃乃和歌が襲名していた。
豊ノ海真二[編集 | ソースを編集]
- YouTubeの「貴闘力部屋」にゲスト出演していた。
名寄岩静男[編集 | ソースを編集]
- 大昇は借株生活が続き、襲名した名跡の数は若獅子も抜けなかった。
- 白鵬の懸賞金の受け取り方に対して苦言を呈していた。
成田晴樹(日大相撲部)[編集 | ソースを編集]
- 日大の先輩の舞の海が相撲界に入ることはなかった。
- 新弟子検査で身長不足で頭にシリコンを入れて受けることはなかった。
- 卒業後は出羽海部屋に入門した。
- 同じく日大の先輩だった久島海も刺激を受けもっと活躍できた。
は行[編集 | ソースを編集]
廣川泰三[編集 | ソースを編集]
- 光法の十両・幕内昇進を喜んだ。
- 竹葉山は2002年5月に宮城野部屋を継承する。
- 娘が金親と結婚していたか微妙。
- 白鵬は入門できなかったかもしれない。
二瀬山勝語[編集 | ソースを編集]
- トンガ人力士の何人かは関取まで上がり、活躍していた。
- 更に幕内に上がれば高見山との取組が組まれた。
- 琉王も廃業することはなく、相撲界に残った。
- 琉王が朝日山部屋を継ぎ、若二瀬は北陣部屋を創設したかもしれない。
- 琉王は2005年に停年を迎え、この時に大受が部屋を継ぐ。
- 琉王が構想していたトンガ人力士のみの部屋もできていた。
- 朝登も廃業せず相撲協会に残り、事件を起こすことはなかった。
- 高見山は「東関」でなく別な年寄名を襲名する。
双津竜順一[編集 | ソースを編集]
- 日馬富士による貴ノ岩への暴行事件のときに再度リンチ事件のことでバッシングされた。
双葉山定次[編集 | ソースを編集]
- 停年(1977年2月)まで理事長職にある。
- その場合、旧武蔵川理事長は実現しない。
- 国技館は未だに蔵前のままだったかも。
- 北の湖は1985年まで現役を続けていなかった。また引退後も理事長にはなっていなかった。
- 蔵前駅に都営地下鉄浅草線のエアポート快特が停車している。
- 国技館は未だに蔵前のままだったかも。
- 停年後は相撲博物館館長就任。
- 鏡里が一時的に時津風部屋の師匠にならなかった。
- 豊山の理事就任が遅れる。ただし後年の出羽海部屋における佐田の山→鷲羽山同様、在職中に名跡交換して部屋を譲った可能性はある。
- その場合、旧武蔵川理事長は実現しない。
- 無気力相撲一掃に全力を傾けていた。
- 八百長皆無の現役時代、説明無用の実績で発言力、説得力が抜群。
- 朝青龍、白鵬が頭が上がらない。
- 双羽黒も双葉山の話なら真剣に聞くだろうから、改心しあのようなことはなかった。
- 双津(ry
- 外国人力士がそもそも多くいただろうか。あまり外国人力士受け入れに積極的ではなかった話も聞くし。
- 双羽黒も双葉山の話なら真剣に聞くだろうから、改心しあのようなことはなかった。
- 爾光尊事件は無かったことにされていた。
- 逆に笑い話にしていたかもしれない。
- 国民栄誉賞が制定された1977年以降も生きていたら、受賞していたかもしれない。
- 大鵬連勝ストップ時に自身の取り直し経験(勇み足で連勝が止まりかけた一番)を語る。
北天佑勝彦[編集 | ソースを編集]
- 白露山は二十山部屋のままだったので、大麻事件で北の湖が理事長を辞任することはなかった。
- 白露山が大麻事件で解雇されることもなかったかもしれない。
- 「薄髪」で有名だった白露山の断髪式を見られたかも知れない。
- 白露山が大麻事件で解雇されることもなかったかもしれない。
- 増位山の停年に伴い、二十山部屋を吸収合併させて三保ヶ関部屋を継承、よって三保ヶ関部屋が閉鎖されることはなかった。
- 武双山の審判部異動はなかったか、史実より遅れた。
- 2012年の理事選で理事に選ばれていた可能性があった。
- この時理事に選ばれていたら2014年の理事選で舛田山か出羽の花のどちらかが理事になれず、副理事か役員待遇で終わっていた。
- 更に2016年の理事選の出羽海一門の立候補者が変わっていた。
- 北の湖部屋出身の元前頭巌雄など理事にはなっていまい。
- この時理事に選ばれていたら2014年の理事選で舛田山か出羽の花のどちらかが理事になれず、副理事か役員待遇で終わっていた。
- 同時期に大関を務めた親友同士である、朝潮、若嶋津、琴風の停年を、最年少者として祝った。
- 次女と結婚した貴景勝は婿養子になって二十山部屋の後継者候補筆頭だった。
まやらわ行[編集 | ソースを編集]
前田山英五郎[編集 | ソースを編集]
- 愛弟子の高見山の初優勝を誰よりも喜んだ。
- ハワイでの凱旋パレードにもちろん参加した。
- 前の山の無気力相撲に激しく怒った。
- 東富士の葬儀に出席し、弔辞を読んだ。
増位山大志郎[編集 | ソースを編集]
- 北の湖は実父の葬儀に出席できた。
- かつての四股名が孫弟子と無気力相撲を取った力士と同じであることはもっと知られている。
松登晟郎[編集 | ソースを編集]
- 1989年名古屋場所で停年を迎え、大山部屋は大飛が正式に継承した。
本松哲浩(間垣部屋幕下力士)[編集 | ソースを編集]
- 間垣部屋の関取第一号になった。
- 本松の活躍によって部屋の力士も刺激され関取も増えただろう。
- 間垣部屋の衰退はなかった。
- 間垣部屋では、幕下若三梅に同じ失敗をやってしまった。
- 間垣部屋で「若三勝」だった関脇照ノ富士(元横綱旭富士の伊勢ヶ浜部屋に移籍)の成長はなかったに決まっている。
- 若ノ城や五城楼ももっと活躍できた。
- 場合によっては間垣部屋を継いだかもしれない。
龍虎勢朋[編集 | ソースを編集]
- 貴ノ浪や北の湖の死去時に追悼のコメントをしていただろう。
- 尾上部屋の竜虎は別の四股名を名乗っていた。
龍興山一人[編集 | ソースを編集]
- 少なくとも三役に昇進していた。
- 大関・更には横綱に昇進していた可能性も有り。
- 少なくとも1回は幕内優勝を果たしていた。
- 曙・貴乃花・若乃花の壁になっていた。
- 泉州山の角界入りは無かった。
- 小城ノ花はもっと活躍していた。
- これについては、龍興山と小城ノ花は同い年で同部屋で仲も良かったからと補足。
- 久島海が平幕止まりなどということはなかった。
- 出羽海部屋がそこまで衰退することはなかった。
- 鷲羽山の停年に伴い、出羽海部屋を継いでいた。
若乃花幹士(初代)[編集 | ソースを編集]
- 2011年の八百長騒動に激怒していた。
- 梅ヶ谷の横綱最高齢記録を更新していた。
- 白鵬の呼び戻しや間垣親方(2代若乃花)の退職に言及した。
- 弟子だった隆の里の葬儀に出席し、弔辞を読んだ。
- 貴ノ岩が受けた暴行事件で相撲協会に対し頑なな態度を取り続けている貴乃花に苦言を呈していた。
- 芝田山親方による稀勢の里の横綱土俵入り指導を見守った。
若羽黒朋明[編集 | ソースを編集]
- 実家近くの文化体育館で開催される横浜巡業に毎年姿を見せていた。
- 輪島同様に、NHK大相撲中継のゲストとして招かれた。
- 横浜スタジアムでの横浜大洋ホエールズの試合の始球式に登場。
- かつては巨人ファンだったが、大洋の横浜移転を機に転向した。
- 師匠である羽黒山と部屋の兄弟子にあたる名寄岩の葬儀に出席した。
若二瀬唯之[編集 | ソースを編集]
- 停年間際の2007年初場所まで朝日山部屋の師匠を務めた。
- 一時期弟子だった白川裕二郎の活躍を大いに喜んだ。
輪島大士[編集 | ソースを編集]
- 2019年夏場所での、自身と同じく北陸地方出身の朝乃山の初優勝に祝福のコメントを出した。
- 日大の田中英寿の逮捕に際し何らかのコメントをしていた。
- 先輩だから、なかなかいいづらいかも?
- 2024年元日に起きた能登半島地震に心を痛め、何らかの形で支援に乗り出していた。