もし南樺太が日本領のままだったら/地域別
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各自治体[編集 | ソースを編集]
- 中心都市は豊原市。
- 恵須取・大泊・敷香・落合・真岡は間違いなく市に昇格している。
- 実際、恵須取は占領されてなかったら1月半後には市制施行することになっていた。
- 豊原市のベッドタウンになることに成功していれば豊北村も豊北市になれていた。
- 恵須取に続いて塔路も市制を敷くも、炭鉱の閉山などで人口が減少して恵須取市と塔路市が合併していた。
- 炭鉱の閉山後は、市民の多くが王子製紙関係者が集う企業都市に位置していたのかもしれない。
- 豊原市のベッドタウンになることに成功していれば豊北村も豊北市になれていた。
- 敷香も占領直前の時点で3万人を超えていたいたため近いうちに市制していた(面積がでかすぎるため分割されていた可能性もあるが)。
- 多来可村・遠岸村が再分立していたかも。
- 知取、留多加、本斗なども60年代には市へ昇格していることだろう。
- 実際、恵須取は占領されてなかったら1月半後には市制施行することになっていた。
- 豊原はユジノサハリンスクよりは発展しただろう。
- 現在は特例市か中核市に指定されている。
- 人口は札幌と旭川の間くらい。
- 豊原の人口は50万~60万人程度。
- 現在は特例市か中核市に指定されている。
- 真岡は長崎のような街になっていた。
- 栃木県真岡市はたぶん別の名前になっている。
- 下野真岡市になっていた。
- が、「長ったらしい」と平成の大合併で「もおか市」になる。
- 嫌だッ!
- が、「長ったらしい」と平成の大合併で「もおか市」になる。
- 下野真岡市になっていた。
- 恵須取・塔路は財政再建団体になったかもしれない。
- その為ネットではドラクエ4のアッテムトの話題が出ると夕張ではなく恵須取や塔路の名が出ていた。
- 塔路市は歌志内ほどではないにしろ、5000人くらいの人口になっていた。
- それ以外でも、豊原周辺を除く大半で過疎化に苦しんでいた。
- 面積の広い市町村の上位を樺太の市町村が占めていた。
- その上位には敷香・散江が見事ランクイン。
- 大泊には海上保安本部が置かれている。
- 冬の亜庭湾は流氷に閉ざされるので、真岡か本斗じゃないかな。
- 王子製紙は樺太に幾多もの生産拠点を有していた関係上、王子硬式野球部は愛知県春日井市発祥でなく、真岡市や恵須取市のどちらかが発祥であった。
- 人口の大半が豊原市に集中して他の地域は過疎に悩んでいた。
- 豊原市ではヒートアイランド現象が問題になっている。
- 豊原市が冬のオリンピック開催地に何度も立候補するもなかなか当選しないで困っていた。
- 2019年になって2020年東京オリンピックの競技のうちマラソンと競歩は豊原市で行うことになっていた可能性がある(豊原で北海道マラソン並みの大規模なマラソン大会が行われていた場合の話だが)。
- 豊原市が大発展したならば「豊原タワー」もあるかもしれない。
- 大鵬の死去を受けて敷香市民が悲しみに暮れていた。
- 「巨人大鵬卵焼き」にちなんで敷香名物として「大鵬卵焼き」なるものがご当地グルメになるかも。
- 名誉市民にもなっていた。
- 大鵬の銅像と記念館も建てられていた。
- 名誉市民にもなっていた。
- 「巨人大鵬卵焼き」にちなんで敷香名物として「大鵬卵焼き」なるものがご当地グルメになるかも。
- 樺太のどこかの市町村が帝政ロシア時代の宮殿や街並みを再現したハウステンボスっぽいテーマパークを作るもバブル崩壊後は赤字に悩んでいた。
- 樺太県民「すぐ隣がロシアなのにどうしてロシアを再現してテーマパークにわざわざ行くんだ?」というのが不振の理由かも。
- 豊原市の歓楽街にはロシア人のホステスも多い。
- 市内のメイド喫茶でもロシア人のメイドが多いかも。
- 豊原と敷香にはロシア人とのつながりのある暴力団も多い。
- 豊原と敷香には巨大な地下シェルターがあったかもしれない。
- 高度経済成長の時代。豊原市の開発が進めば、ロシア時代の建物は跡形もなく壊されていた。
- いちばん住みやすい町は真岡・本斗だったかもしれない。
- 豊原・真岡・恵須取・敷香の4支庁は総合振興局になっていた。
- 富内湖周辺はバブル期に大規模なリゾート開発が行われていた。
- 富内湖にはトッシーが出ると言う噂が流れる。
- 多来加湖にアザラシが現れた場合は「タラちゃん」と呼ばれる。
- 真岡町と広地村と蘭泊村と清水村が合併していたかもしれない。
- 日本の記録最低気温が変更され、落合町の-45度になる。
- 炭鉱閉山後、川上村が恐竜をテーマにした遊園地と博物館を作るが潰れてしまう。
- 真岡はせんだみつおの出身地として知られていた。
- 敷香市と石垣市、鵜城村と大野市、好仁村とつくばみらい市がそれぞれ友好都市提携を結んでいた。
- 敷香市オタスの杜に「民族共生象徴空間」が出来ていた。
- 日系ロシア人の代表格且つ、サハリン州政治家であった西山荘吉氏は泊居市長選で当選し、泊居市長歴任後、樺太庁知事選に立候補で当選していた。
- 自由民主党員(露)だったそうなので、やはりこの世界でも保守派の方なのだろう。
- その他、史実の在樺コリアン血統の政治家の多くも、立憲民主党員になるなど活躍していた。
- やはり北海道や青森、秋田などの北日本地域と同様に革新政党の根強い地域柄だったのかもしれない。
国境線[編集 | ソースを編集]
- 敷香町こそが日本最北端の地となるが、国境は無機質な北緯50度線上であるため、宗谷岬のような観光スポットの確保に苦慮する。
- その前に、日ソ(日露)関係が悪ければ、うかつに日ソ(日露)の国境沿いには軍事上の理由でいけない。
- 下手したら某半島みたいになってそう。
- しかし日本唯一の陸上の国境線と言うことで一目見ようと観光客が訪れる。流石に国境付近には危なくて近づけないが、遠くからなら見学できるようになっていた。
- 冷戦中は、某北○○のヨンピョン島砲撃事件のようなことが起き、敷香が砲撃されたかも。
- 非軍事境界線や民間人統制区域ができて、板門店のようなことになているかも。
- しかし日本唯一の陸上の国境線と言うことで一目見ようと観光客が訪れる。流石に国境付近には危なくて近づけないが、遠くからなら見学できるようになっていた。
- 下手したら某半島みたいになってそう。
- 日本最北の駅は古屯駅だろうか?上敷香駅だろうか?
- 鉄道が北樺太と直通していれば国境の駅が日本最北の駅になっていた。
- 北千島も日本領ならば占守島が最北端になるが…
- 占守島じゃなくて阿頼度島です。(まあ有人島なら占守島になるだろうけど)
- 岡田嘉子と杉本良吉が国境を越えた所が観光スポットになってるよ。きっと。
- 西柵丹村の安別には「日本最北の集落」の看板があった。
- その前に、日ソ(日露)関係が悪ければ、うかつに日ソ(日露)の国境沿いには軍事上の理由でいけない。
- 昭和50年代にはソ連から50度線を越えて亡命してくる人が増えた。
- 50度線付近で密貿易をやって業者が逮捕される事件が頻発する。
- たまにソ連からの難民がソ連の兵士に射殺されて国際社会から非難を浴びていた。
- 難民が50度線を越えないように国境に高いフェンスを建設していた。
- 船で国境を越えようとしないようにソ連は海上もしっかり見張っていた。
- 船で国境を越えようとした場合は攻撃されて船を沈められていた。
- ベルリンの壁のようなことに。
- 国境警備は樺太庁警察部をついだ樺太県警察がやる。
- 国境に回されると辞めたいという警察官が続出した。
- 国境警備には大体千人から2千人の警察官が導入されていた。
- 国境の近く、もしくは間宮海峡海岸をうろうろしていた場合、樺太県警の国境警察隊に職務質問を掛けられることが多々ある。
- 樺太庁警察が国境警察隊を編成し、営まんというのは国家地方警察が解体された後での都道府県警の事務総括、並びに全国一律・画一的な調整機能という業務における範疇を上回ってしまうがため、史実の海上保安庁が国境警備を担うことと思量される。
- 海上警備が要領となる経緯には至らないため、名称は「日本国国境警備隊 "Border Patrol of Japan"」となる。
- 海保版憲法第9条とも称される海上保安庁法25条などと云った文言は存在せず、また両者合わせてソビエトからの影響が芳しく、これらの警備に軽微な法律は通用しなかった。
- 有事の際には、自衛隊や樺太庁警察、あるいは在日米軍と手立てを組み、樺太を防衛する取り決めがされていた。
- 小学生を中心に「日本とロシアを1分で往復する方法は?」というクイズがはやる。
- しかし後で国境での出入国管理があるために1分で往復することができないことに気づく。
- 冷戦時代はソ連と国境を接しているために日本国民に緊張感があった。
- 日本国憲法にも影響しているかもしれない。
- 国境には鉄条網が張り巡らされていて物々しい雰囲気である。
- 50度線沿いにはトーチカや塹壕が数多く設置されていた。
- 国境に続く道はソ連機甲師団の進撃を阻止するため、朝鮮半島のように対戦車壁(有事の際は壁を爆破して道路を塞ぐ)が多数あった。
- たまに樺太県警国境警察隊と衝突を起こしていた。
- ソ連が国境の山奥に秘密のトンネルを作っているという都市伝説が流れる。
- 50度線は「鉄のカーテン」ならぬ「竹のカーテン」の一部として認識される。
- 1995年の大地震では日本人ボランティアが国境を越えて支援に向かっていた。
- 冷戦時代には3~5万人の自衛官が樺太に駐屯していた。
- 戦車が大量に配備されていた。
- 少なくとも、豊原・真岡・恵須取・敷香の各都市には陸上自衛隊の駐屯地があった。
- 在樺コリアンの人たちは何の問題もなく終戦後に無事帰国していた。
- 何割かは居残るか樺太に戻って(ry
- 幌内川上流はロシア領だが日本の支援でダムが建設されていた。
- 日ロ両国民が言い争いになると、「幌内川の水止めるぞゴルァア!?」と言い出す。
- 北樺太はロシア領だが、日本の支援を多く受けるため極東ロシアでも進んだ地域になっていた。
- 観光も大きな収入源の一つになっていた。
- キロフスコエ、パレヴォは国境の町として特に発展していた。
- 北樺太の街並みは現実よりも綺麗に整備されていた。
- 高速道路も空港ももちろんある。
- 若い女性は普段はジャージで過ごしているのに、日本人観光客が来るとロシアの民族衣装に着替えていた。
- 流石に米軍は樺太に配備されない。
- 千歳に在日米軍が駐屯していたかも。
- また室蘭には横須賀、佐世保と同様に在日米海軍の海軍基地として機能していた。
- 宗谷海峡が日本の領海になるために軍艦を太平洋に出せなくてソ連&ロシアが困っていた。
- そのためウラジオストクよりも、ペトロパブロフスク・カムチャツキーが発展していた。
- シベリア鉄道がペトロパブロフスク・カムチャツキーまで延長されていた。
- アメリカは大喜びだった。
- 北樺太に住んでるロシア人は出稼ぎに行くが、モスクワではなく豊原市に行く人が多い。
- 帰化して名前を日本式に変えるロシア人も少なくなかった。
- 北樺太でロシア人が大怪我をしたり重病人が出た場合は国境を越えて樺太大学付属病院に搬送される。
- コンスタンチン君(この世界ではアレクサンドロフスク・サハリンスキーに在住)はピリヴォ・西柵丹村安別間の陸上国境を経由して豊原まで搬送されていた。
- 北樺太は日本の援助が多くされるため、遠くの親戚より近くの他人という理屈で北樺太の独立を主張するロシア人団体もいたかもしれない。
- その本音は北樺太の油田の利権の一人占め。
- ニュースなどでロシアの話題が出た際に「お隣の国ロシア」という表現が使われる。
- 南樺太も入れて48都道府県の世界なのでロシア本土から北樺太は「日本の49番目の県」と皮肉られていた。
- また対ソ感情が熾烈的に強かった文革時代の中国も、自国発行の地図には北樺太含め、日本領と定めている程でもあろう(史実では北方四島を日本に帰属と記載していた)。
- おそらく日本とロシアの関係は史実より良好だっただろう。
- 国境取締法は現在でも効力を有しているが、冷戦終結後は間違いなく改正されていた。
- 日本国内において、新型コロナウイルスの蔓延がもっとひどいものになっていた。
- 島国であることを利用した水際対策がこの際できないから。
北海道[編集 | ソースを編集]
- 稚内市は日本最北端の市を名乗ることができなかった。
- 最北の市は敷香市になっていた。
- 稚内の宗谷岬を現実の日本最北端の地として訪問する観光客が激減し、稚内駅から宗谷岬までバスを運行している宗谷バスの経営も悪化する。
- かわりに、稚内から気軽に行けるノシャップ岬に訪問する人が増加する。
- 稚内の人口が増えるため、宗谷バスの経営はむしろ良くなっていた。
- 北海道の開発がおろそかになる。
- もしくは樺太へ送る米の生産基地として現実以上に盛んだったかも。
- 稚内から樺太に行く観光客が増加するが、利尻や礼文に行く人は減少しそう。特に礼文のスコトン岬に行く人は減りそうな予感。
- 史実のハートランドフェリーは利尻島・礼文島ではなく樺太への便を主力としていた。
- 樺太県と北海道で「北海地方」。
- 若しくは「北日本地方」。
- 普通に北海道地方でいいのでは。
- 史実では1943年の地方行政協議会令や1945年の地方総監府令で北海道と樺太は北海地方とされていたので北海地方になる可能性が高い。
- 稚内市は現実より発展していた。
- それでも稚泊連絡船廃止後は不調になっていた。
- 漁業が盛んになり、経済と人口面では釧路・小樽と互角になっていた。
- 稚泊トンネル開業後は豊原市のベッドタウン化していた。
- 札幌市の人口は100万前後だった。
- 政令指定都市への移行は1980年代だった。
- 黒田清隆と榎本武揚の評判はガタオチだった。
- 代わりに副島種臣の評価は上がっていた。
- 岡本監輔の知名度は上がっていた。
- 年末時代劇での『五稜郭』はなかったかもしれない。
- 現実の北部方面隊は北海道方面隊となり、豊原市に北部方面隊の方面総監部が置かれていた。
- 第2師団か第7師団など現実世界の北部方面隊の最低2個師団は樺太に置かれていたのかもしれない。