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もし坂本龍馬が殺されなかったら

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  1. 「竜馬がゆく」や「おーい!竜馬」は更に巻数が増えていた。
    • そのぶん、売り上げは半減。
  2. 史実での岩崎弥太郎の評価とダブる。
    • 大財閥となり、特に大正時代頃には悪口ばかり言われるようになるが、その後再評価される。
    • 早死にしたから人気があるという点は確実にあると思う。
      • 長生きしてたら、司馬遼太郎さんがもし小説にするにしても、もっと後になり、その分理想化の度合いも少なくなり、「竜馬がゆく」の小説や大河ドラマにインスパイアされた武田鉄矢その他の人々の出方もかなり違っていたであろう。
  3. 今でも彼の作り出した企業が数多く残っている。
    • 坂本財閥か。
    • そのため武田鉄矢のユニットは商標の都合で全く別の名前になっていた。
      • 竜馬伝もNHK製作故に恐らく無かった。
        • むしろ他局が作っていた。
    • 三菱マークは竜馬が作った企業になっていた。
      • 三菱マークは山内家と岩崎家の家紋をヒントにしたものなのでおそらく別のマークになっている。
  4. お龍と千葉さな子との間で、泥沼の三角関係に。
    • 双方の子供が三菱財閥の後継者を巡って泥沼の争いを繰り広げる。
      • それを予期していた竜馬は、陸奥宗光に財閥の実権を譲って隠居。
        • 結局史実どおりに岩崎弥太郎に実権を譲って本人は海外へ。
          • 陸奥宗光は次男が古河財閥の創業者・古河市兵衛の養子となっているため、坂本財閥(仮名)の実権を陸奥に譲ると龍馬の設立した企業群は古河財閥に取り込まれることになる。龍馬の設立した企業群が三菱財閥に吸収されるなら龍馬は実権を直接弥太郎に譲っている筈。
    • お龍との間に生まれた子供もさな子との間に生まれた子供も弥太郎の子供と結婚し、坂本家と岩崎家は閨閥によって結ばれることになる。
      • 史実では弥太郎は5男5女計10人の子供がいたが(長女・春路、長男・久弥、次女・磯路は正妻・喜勢との間の子、次男・豊弥は養子、他の6人の子は側室との間の子)、そのうち独身のまま早死にした三男・秀弥と五女・照子が史実と異なり長生きし、秀弥は龍馬の娘と、照子は龍馬の息子とそれぞれ結婚した。
      • 史実でも結婚して家庭をもうけた弥太郎の8人の子供の中でも史実と異なり龍馬の子供と結婚した者がいた可能性もある。
        • その場合、史実では晩婚だった次男・豊弥が龍馬の娘と結婚した可能性が高い。その場合豊弥が20代後半の時に龍馬の娘と結婚することになる。
          • 最も岩崎豊弥の妻になる龍馬の娘は豊弥との間に子供を1~2人もうけた後早世し、その後豊弥は史実でも豊弥の妻となる柳沢保申の三女・武子と再婚(武子にとっては初婚)し、武子との間に史実通り1男2女をもうけた。
          • 史実での岩崎豊弥の妻・武子は豊弥より16歳年下。結婚した年は不明だが豊弥・武子夫妻の長子で長女の君子(入江相政夫人)が生まれたのは父・豊弥が数え38歳、母・武子が数え22歳の時なので豊弥が晩婚だったのは間違いない。
  5. 徳川家400万石は安泰。徳川慶喜が総裁になる。
  6. 小御所会議の決定に反発、土佐藩兵隊は鳥羽・伏見で薩長軍と激突。
    • 朝廷が新徳川寄りに方針転換。岩倉らが追放され徳川家中心の公議政体が発足。
  7. 高知県はそれほど坂本竜馬一辺倒にはならない。
    • 高知県ではなく北海道の英雄として知られていた(蝦夷地開拓を望んでいたため)。
  8. 「商才に長けた維新の功労者」として認知される。短命ではないので現実ほどの人気はない。
  9. 西南戦争の仲介役になり西郷隆盛が切腹する事はなかった。
    • その後、板垣退助・陸奥宗光らにより、坂本龍馬・西郷隆盛は明治政府の裏方に。
  10. 江戸城無血開城の時、立ち会いをしていた。
    • 新選組は新政府により警察官となる。
      • しかし薩摩藩中心の警察幹部をきらい、近藤勇、土方歳三らは退職。
  11. 50歳過ぎたら波平さんみたいな頭になっていたかも。残っている写真をよ~く見ると20代にもかかわらずだいぶ生え際が後退しているみたいですから・・・・・・
  12. 桂浜に銅像ができることはなかった。



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