もし江戸時代が○○だったら
(もし島津家が琉球王国を侵略しなかったらから転送)
ナビゲーションに移動
検索に移動
独立項目[編集 | ソースを編集]
- もし徳川将軍が○○だったら
- もしあの大名家があの地域を治め続けていたら
- もし鎖国がされなかったら
- もし江戸時代に自転車が開発されていたら
- もし幕末~明治時代の日本が○○だったら(黒船来航~大政奉還はここへ)
江戸幕府が台湾の鄭氏の援軍要請を受諾していたら[編集 | ソースを編集]
全般[編集 | ソースを編集]
- 日清戦争、17世紀に勃発。
- 中国全土を制圧して意気上がる清軍と、戦国の余塵おさまらない日本軍。案外いい勝負になるかも。
- 徳川家康の後継者が秀忠系でなく、秀康ー忠直ー光長と続いていたとしたら、実際に受諾していたかもしれませんな。
- 単なる援軍であるか、日本が独自の野望を持つかによって、経過も結果も異なることになりそうです。
単なる援軍であった場合[編集 | ソースを編集]
勝った場合[編集 | ソースを編集]
- 中国に鄭氏王朝ができれば、援軍の謝礼として台湾を貰う。
- 日本国内で鬱屈していた連中が台湾に入植し、原住民と戦いつつもきめ細かい開発をおこない、本土と同様の発展。きわめて民度が高い清潔な土地として明治維新を迎える。
- 鄭氏王朝とは良好な関係を保つ。が、アヘン戦争の時に援軍を要請され巻き込まれる危険も。
- 鄭氏政権の首都は南京になったのかな
負けた場合[編集 | ソースを編集]
- そのまま引き上げ。鄭氏政権の一部の人を日本に引き取る。
- 引き上げそこねた日本人が各地で日本人町を作る。
- 清朝との関係は史実より少し悪くなるが、その後の歴史にはあまり関係がないかも。
日本が独自の野望を持っていた場合[編集 | ソースを編集]
勝った場合[編集 | ソースを編集]
- 鄭氏を早々と配下に組み入れてしまい、日本が中国全土を支配。
- 呉三珪が李自成軍との戦いで清軍を引き入れた時のようなことになる。
- この時点では明の遺臣たちはまだ完全に清に心服してはおらず、さっさと見限って寝返るはずだから、意外なほどの容易さで中国が取れてしまうでしょう。
- 鄭氏は福建あたりに藩を貰うが、そのうち不満を持って叛乱。
- 中国を支配してしまうと発想の中国化がどうしても免れないため、日本人の性格が現在の中国人のようになる。
- それはそれでイヤかも……
- しかし、敗れた満洲族のことは鄭重に扱うでしょうね。
負けた場合[編集 | ソースを編集]
- 鄭氏の軍はさっさと逃げだし、日本軍ばかり矢面に立ち、ほうほうのていで撤退。(=白村江の二の舞ですな)
- 清軍の襲来におびえ、九州に堅固な要塞や防壁が築かれる。
決着がつかないまま戦乱が長引いてしまい…[編集 | ソースを編集]
- 大陸に反攻することもできず、かといって台湾に攻め込まれず。日本からの援軍も帰れなくなる。
- そのまま徳川幕府に帰属し、台湾藩として参勤交代し始める。
- 援軍がそのまま台湾に入植し、原住民と戦いつつもきめ細かい開発をおこない、本土と同様の発展。きわめて民度が高い清潔な土地として明治維新を迎える。
関連項目[編集 | ソースを編集]
あの大名家が○○だったら[編集 | ソースを編集]
島津家が琉球王国を侵略しなかったら[編集 | ソースを編集]
- 沖縄の人たちが苦島津にすむ。
- でも結局明治になって日本の属国化、しかし併合するか如何かは別問題
- しかし日本の後ろ盾を得て琉球国王を皇帝として即位させ、阿児奈波帝國(読み:おきなは)または琉球帝國として清の宗主国関係から離脱すると言う副作用が・・・
- むしろイギリスあたりに植民地化されていたかも。
- 日本が琉球を併合しなかった場合、台湾出兵や日清戦争で琉球帝國の軍隊が動員される
- 第2次大戦でファシスト化した場合、戦後に日本軍が撤退してアメリカ軍が駐留する
- その後、中国本土の外省人が琉球に亡命してきて琉球住民の3分の一が外省人となり民族問題に発展する
- そもそも島津藩が財政難から脱出できないので倒幕の兵を起こせない。明治維新はかなり遅れる。
- いや、別の形の明治維新が訪れる。
- 島津も島津で財政が史実より深刻なら意外と行政刷新などを行わざるを得ず、少なくとも後の明治維新では雄藩になってはいただろう。
- 琉球国が現存する事となり、現実に空路・航路を持つ地域に入国管理局本局や出張所が置かれる。
- 日本は46都道府県となっていた。
- 沖縄県はアメリカの植民地になり、現実より洋式トイレが増えている。
- むしろ、政治もアメリカンスタイルである。
- むしろイギリスでは。
- 「大和めきたる名字」が禁止されないため、沖縄の名字も本土にかなり近かった。
- この地独特の名字がありながら本土に多い名字がある奄美のようになっていた。
- 亀井琉球守が琉球王国に侵攻する。
毛利氏が防府に城を築けていたら[編集 | ソースを編集]
- 毛利輝元は関ヶ原の戦い後、領地を周防・長門の二国に減らされました。その時輝元は、城を建設する候補地として萩・防府・山口の三つを挙げましたが、家康は、防衛上の問題から山陰の萩に建設するように命じました。もし防府に城を建設することを家康が許可していたら?
- 萩は田舎になっていた。
- 松下村塾は無かった。
- よって倒幕は薩摩中心、長州はあまり活躍できなった。
- でも四国諸藩との関係は強化されたかも。
- 毛利家が改易になっていた場合、新しい国主と旧毛利家家臣との、間の対立が倒幕の原点になったかもしれない。
- 難癖を付けられて、江戸時代初期には毛利家は改易となった。
- それにキレて毛利家は倒幕の為挙兵するが、負け滅亡していた。
- その為、松平氏か誰かが後に入っていた。
- 岩国の吉川氏が再び内通し正式な大名に取り立てられる、かもしれない。毛利本家とは独立を画策するほど対立した時期もあったし。
- 山口ではなく、防府が「西の京都」と呼ばれていた。
- 山口が「西の京」と呼ばれていたのは室町時代からだぞ。
- 「西の奈良」とは呼ばれているらしい。
- 長州藩ではなく防州藩と呼ばれていた。
- 毛利家は満足したために幕末に倒幕に燃えることはなかった。
- 毛利家が満足しても下級藩士は満足しない。
- こうなっていた。
- このため第二次大戦中の空襲で跡形もなく破壊されていた。
- しかし戦後再建された。
- このため第二次大戦中の空襲で跡形もなく破壊されていた。
- 伊藤博文は一生農民で終わっていた。
切支丹が弾圧されなかったら[編集 | ソースを編集]
- うまくいけば英国よりも先に市民革命が起こる。
- バテレンの勢力が伸張して長崎と天草が植民地化され、東ティモールのような運命をたどる。
- キリスト教系の新興宗教も多く登場する。
- 「極東教会」とか「扶桑教会」とか「大和教会」とか。
- 場合によってはこうなる。
- 日本でのカトリック信者がもっと多くなる。
- 日本での長崎の地位が非常に重要になる。
- 何だかんだで懐の広い日本人は八百万の神の1つとして飲み込んでしまう。
- 日本風建築の屋根に十字架が乗っている建物が増える。
- 八百万の神々はみんな「天使」「聖人」「妖精」「悪魔」等に分類されてしまうので、逆にキリスト教世界がえらいカオスなことになる。
- カトリックとのプロテスタントの争いを知ってから、日本は両者を和解させようと苦心する。
- 取り調べで「踏み絵」をさせた事がもっと大問題になる。
- 当然鎖国もなし。
- 西洋文化が普及していた。
- 例えば食文化ならばパンが民衆の間で作られ、ひょっとしたら肉食も大っぴらになっていた。
- この妄想世界においては島原の乱後、幕府がキリシタン根絶を断念していた。そして信者全員が天領化された天草あたりに集められて、この地域限定で仏教の諸宗と同様に宗門を立てることを認められる形で信仰が維持されるようになる。この場合該当信者は認定地域から外に出ることを原則として禁じられている。
- とは言っても鎖国政策下における時間の経過に伴う変容、変質は避けられず、実際には”隠れキリシタンの公認化”のような雰囲気になっていると思われる。
- 江戸時代を通じてキリスト教に由来する文化が維持された結果、現在では観光資源として活用されている。
- とは言っても鎖国政策下における時間の経過に伴う変容、変質は避けられず、実際には”隠れキリシタンの公認化”のような雰囲気になっていると思われる。
- クロ宗/クロ教(鹿児島県の一部で信奉されていると言われているキリスト教ベースの土着宗教)は誕生しなかった。
- 元々隠れキリシタンから始まった宗教という説があるので。
- スペインポルトガルに倣って世界中の植民地支配に乗り出す。
- いや、逆。当時はキリスト教を広めてから乗っ取るのが一般的だったから日本も植民地化されてた。
- この場合古代ローマみたく、信仰の力を幕府の支配に利用していたかもしれない。
関連項目[編集 | ソースを編集]
初期に明治維新規模の討幕運動が起こっていたら[編集 | ソースを編集]
- そもそも「明治維新」ではない。
- 元禄維新?
- そう書いたらタイトル変ったねwww
- 1800年代に「欧米か!」のギャグが生まれている。
- 戦国遺風を断ち切れていないせいで、全国各地に騒乱が拡大、戦国時代に逆戻り。
- そして、その混乱に乗じて19世紀頃に英露に分割される。
- 討幕運動を起こすのはキリシタン。
- どさくさにまぎれてスペインとポルトガルが幕府と戦争を始める。
- いや、討幕運動を起こすのは豊臣系の残党かもしれない。
- 豊臣氏+キリシタン大名+スペイン+ポルトガルの連合軍vs幕府、とか?
- 改易された大名も加担する可能性がある。
- 浪人を集め軍を組織する、ってあれ?
- 要するに大坂の陣が巨大化したパターンかな。
- 結果、その後の日本ではキリスト教が盛んに。
- 負けた場合、長州と薩摩は改易となる。
- ついでに琉球処分も同時に実施。
- 徳川家臣による中央集権がさらに強くなる。
- ついでに琉球処分も同時に実施。
- 江戸城下が戦火に巻き込まれたら明暦の大火は発生しなかった。
- 台場の建設が史実より早まる。
蘭学が誕生しなかったら[編集 | ソースを編集]
- 日本は西洋の情報をほとんど知ることができないまま、黒船を迎えることになる。
- 西洋のことを知らないまま条約交渉に入った結果、西洋諸国に騙されまくって圧倒的に不利な条約を結ばされる。
- 小笠原、琉球、千島、樺太はアメリカ、イギリス、ロシアなどの領土にされてしまう。
- 尊皇攘夷運動は単なるテロリズムとなってしまい、明治維新も起こらない。
- 医学の進歩は無いに等しかった。蘭学といえば、西洋医学と密接に繋がるため。
江戸幕府成立時に江戸に遷都されていたら[編集 | ソースを編集]
- 史実より早く、江戸は東京と改称していた。
- 遷都されるからには天皇も当然江戸に移っていたはずだが、江戸城(現在の皇居)に将軍がいる以上、江戸移転後の天皇は江戸のどこに住んだのだろう?
- 江戸城の横あたりでは?
- その場合、旧徳川将軍邸が東京駅になる。
- 天皇の諡号は江戸(東京)の地名が由来になっていた。
- 浅草天皇・日比谷天皇・丸ノ内天皇・三田天皇・千代田天皇・上野天皇・日暮里天皇・舎人天皇・・・
- なんか地下鉄みたいだな。
- 浅草天皇・日比谷天皇・丸ノ内天皇・三田天皇・千代田天皇・上野天皇・日暮里天皇・舎人天皇・・・
- 秋葉原~上野あたりに皇居が新築されれた可能性もある。
- 赤坂離宮は和風建築で落成し、浜御殿も最初から浜離宮として造られた。
- 江戸城の横あたりでは?
- 徳川将軍家が皇室を吸収併合し、”徳川将軍家当主=征夷大将軍=天皇”という状態で遷都が実現していたのではなかろうか?
- その場合、明治維新は起こらない。
- その代わり、革命が起こって日本は共和制になっているかも。
- 錦の御旗は徳川家の元にあるので、薩摩と長州による討幕はほぼ不可能。
- その場合、明治維新は起こらない。
- 関西経済の地盤沈下が戦前から起こっていた。
- 大阪が「東洋のマンチェスター」と呼ばれることはなかった。
- 戦後における大阪の地位は札幌市や福岡市と同レベルであった。
- 1970年の万博は名古屋で開催され、大阪は2005年にようやく万博開催。
- 関西国際空港と中部国際空港の開港の順序が逆になっていた。
- JR西日本の経営状況は現実以上に厳しかった。
- 平成のうちに三島会社と同じように運賃値上げが行われていた。
- 完全民営化も現実よりも遅かった。
- あるいは現実のJR東海+JR西日本の関西・北陸エリアで「JR中日本」となっていた。その場合JR西日本は中国+四国地方と山陽新幹線を管轄している。
- 平成のうちに三島会社と同じように運賃値上げが行われていた。
- 東京都心の道路が碁盤目状に。
- 埼京線ではなく京浜東北線か東急に「十条駅」ができる。
- 結局のところ、京都府民は「日本の首都は京都」と思っていることには変わりなし。
- 遷都時に「遷都の詔」が出ていた場合はそのような考え自体出なくなる。
- そもそも「京都」という地名ではなくなっていた。
- それでもかつて首都だったこともあり、市の名前は「西京市」という名前になっていた。但し人口は現実の半分程度にとどまり、政令指定都市になるのは平成になってからで、伏見・山科との合併でやっと実現していた。
- 「京都府」は誕生せず、丹波北部・丹後は「福知山県」に、丹波南部・山城は「葛野県」になっていた。
産業革命が中期~後期に起こっていたら[編集 | ソースを編集]
- 関所が撤廃される。
- 江戸時代前期に各藩が独自の政体を維持できなくなる。
- 炭鉱が積極的に開発されるため、福岡藩・三池藩は石炭の採掘で財政的に潤う。
- しかし幕府は「直方奉行」「三池奉行」等を置いて天領に変える。
- 蝦夷地の国分けも行われ、良炭地は天領にして奉行所などが置かれる。
- しかし幕府は「直方奉行」「三池奉行」等を置いて天領に変える。
- 幕府には「鉱山奉行」のようなものが設置される。
- 水力紡績機が開発されるため、鴨川・江戸川・利根川・筑後川沿いには綿織物工場が発展する。
- 19世紀初頭には蒸気機関で動く鉄道が開通する。
- 初の区間は、直方~若松間、大牟田~久留米間である。
- 福島の若松駅は最初から「会津若松駅」を名乗ることに。
- その後飯塚〜博多間が開通し、しばらくして若松から大牟田まで一本の鉄路で繋がることに。
- 本州初の鉄道は京伏見〜大坂になりそう。
- 参勤交代は鉄道で行われるようになる。
- 初の区間は、直方~若松間、大牟田~久留米間である。
- 労働者が増えるが市民の不満が高まり江戸幕府の崩壊が少し早くなる。
- これが19世紀後期に行われていた場合、「世界初のプロレタリアートによる革命」と称されていた。
- 平賀源内や田中久重がもっと凄い発明をしていた。
- 開国を迫りに来たペリーも返り討ちにするほどの軍事力も持つ。
- 産業革命が起きた時点で開国してるのでは?
- 英国あたりが大討伐軍を送り込んでいた可能性も。
- 戦前の時点でアメリカ並の軍事力を持っていたため、太平洋戦争にも勝っていた。
- 日露戦争もこうなる。
- それか最初から太平洋戦争が起こらなかったか。
- 養蚕業が非常に盛んになり、富岡製糸場は史実よりも早く建設される。
- 田沼意次が再評価される。
- あるいは田沼によって行われたかも。
- ラジオは19世紀末~20世紀初頭、テレビも大正末期~昭和初期には放送が開始されていた。
田沼意次が失脚しなかったら[編集 | ソースを編集]
- 田沼時代ではなく天明の改革と教科書に記載されている。
- その代わり「寛政の改革」が消えている。
- 北海道の開拓にも熱心に取り組んでいた。
- 北方領土問題が緩やかになる。
- 1800年代序盤には樺太や千島列島が完全に日本の領土に組み込まれ、領土問題は発生しない。
- 北方領土問題が緩やかになる。
- 松前藩以外にも北海道に藩ができていた。
- 時代劇は誰を悪役にしたらいいのだろうか?。
- 「妖怪」こと守旧派の儒学者鳥居耀蔵で。
- 今よりも賄賂に対して甘い世の中になっていた。
- 贈賄・収賄罪も現行よりゆるくなっていた?
- それはない。
- そもそも「田沼=賄賂」というイメージは松平定信が作った。
- 意次の息子を斬った佐野政言は出世しようと意次に賄賂を贈ろうとしたが、門前払いされた。
- よって、田沼意次に金権政治家の汚名がつく事はなかった。
- 大体、田沼は商工業者からの献金は貰っていたが、武士から賄賂をとって人事を左右したようなことは無かったのではあるまいか?
- そもそも「田沼=賄賂」というイメージは松平定信が作った。
- 松平定信は地元のいいお殿様で終わっていた。
- 某駅伝小説の舞台は「寛政大学」じゃなくて「天明大学」?
- 松平信明が老中になることもなかった。
- 三池藩は改易されなかった。
- ドラマでも肯定的に描かれている。
- 大江戸捜査網は制作されなかった。
- 朱子学は時代遅れのものとなった。
- 相良城は現代も残っている。
- 静岡鉄道駿遠線は廃止されなかった。
- 大黒屋光太夫は帰国後外交奉行として大出世していた。
- 身分制が緩やかになり、消滅する。
- 明治時代の四民平等は、あくまで形式的なものとなる。
- 鎖国が解かれるのも早まった可能性がある。
- 幕府体制のまま近代化したかもしれない。
- 「日本の資本主義の礎を築いた」と評価され、紙幣に描かれたりして。
- 息子も老中になっていた。
- 後世において史実のような緊縮主義がまかり通ることはなかった。
- 廃藩置県が早期に行われていた。
赤穂事件が○○だったら[編集 | ソースを編集]
松之大廊下の刃傷[編集 | ソースを編集]
発生しなかったら[編集 | ソースを編集]
- 赤穂浅野家は他のトラブルがない限り幕末まで続いた。
- 戊辰戦争では尊王方か。
- 史実での赤穂藩は佐幕。尊王攘夷の十三志士に赤穂城に討ち入られ、家老が二の丸で討たれている(今も跡地に「カンカン石」が残る)。
- 城作りなどに凝りすぎて財政が悪化したため18世紀末には塩の専売制に踏み切っていた。
- 史実では赤穂で塩が専売になったのは19世紀に入ってから。
- 吉良家も高家として何事もなく存続。
- 必然的に芝居の忠臣蔵も存在しようがない。
- 現在山鹿流陣太鼓を知っているのはよほどのマニアくらい。
- 山鹿流陣太鼓は架空の存在。山鹿素行の息子たち(津軽藩家老、平戸藩家老)は「火事と偽り、闇討ちにて徒党を組み押入るのは、夜盗に等しい」と批判している。
- 文芸の歴史にも相当な影響があったはず。
- 新選組の制服も史実とかなり違ったデザインになっていた。
- 「暗殺教室」の生徒の名字も別の由来になっていた。
- 泉岳寺は都民でも「品川の隣にある寺」くらいの認識に留まっていた。
- 「オッペケペー」で人気を博した川上音二郎の寺として有名になるだろう。
吉良義央が死亡していたら[編集 | ソースを編集]
- こちらでも芝居にはならず。
- 現在この事件は一部の研究書などで取り上げられる程度の扱いが限度だった。
- 浪士たちは完全に歴史に埋もれていた。
- 町人や百姓として生涯を終えた者もかなりいた。
- 吉良家は養子の義周が当主として無事存続。
- その一方赤穂浅野家は史実通り取り潰された。
- 浅野長矩は史実以上に「ひどい殿様」として語り継がれていた。
- とりわけ地元赤穂ではタブー視されていた。
吉良も処罰されていたら[編集 | ソースを編集]
- =吉良が応戦していた場合。
- 「喧嘩両成敗」の原則が適用され両者切腹は確実だった。
- 史実では浅野内匠頭を止めた梶川与惣兵衛あたりが巻き添えを食って死亡していた可能性あり。
- ここで浅野家は取り潰されたが吉良家は取り潰しを免れていたら浅野家遺臣の不満が高まり史実に近い事態が発生していた可能性も。
- ただしターゲットは義央ではなく吉良家の次の当主。
赤穂開城[編集 | ソースを編集]
浪士が切腹していたら[編集 | ソースを編集]
- 少なくとも当時は大事件として江戸で大いに騒がれた。
- ただし現在は赤穂など一部地域で語られるだけ。
- 赤穂城が心霊スポットになっていた。
- 江戸時代のうちにこの件に絡んだ怪異が複数語られ始める。
- 国元家臣喪失により大学(内匠頭の弟)がどうなろうと赤穂浅野家の大名としての再興は不可能だった。
赤穂浅野家の再興が認められていたら[編集 | ソースを編集]
→もしあの大名家があの地域を治め続けていたら#浅野家(赤穂)
討ち入り[編集 | ソースを編集]
脱盟者が一人も出なかったら[編集 | ソースを編集]
- 赤穂浪士は総勢100人近くの大所帯に。
- もはや「仮名手本」というレベルではない。
- どこかから情報が洩れる恐れも高かったはず。
- 討ち入りも相当な力攻めに。
- フィクションのように堂々と正門から入る選択肢もあり得た。
- 史実では壁を乗り越えたり裏から侵入したりした。
- おそらく浪士にも犠牲者が出ている。
- フィクションのように堂々と正門から入る選択肢もあり得た。
- 寺坂吉右衛門のように討ち入り後いつの間にかいなくなった人がもう数人いた。
- 後世のドラマ化は史実より困難だった。
- 場合によっては人形浄瑠璃の段階で浪士の人数が半分程度に減らされていた。
中止されていたら[編集 | ソースを編集]
- 史実のタイミングを逃せば資金切れでこうなっていた可能性が高いとか。
- 大石内蔵助は確実に責任を取って自刃している。
- 悲嘆した何人かも後を追って自害していた。
- 江戸の世論は討ち入りを断念した浪士たちを激しく非難していた。
- ただし断念の原因次第では吉良家やバックにいた上杉家が非難の対象になっていた。
- 現在では討ち入り計画自体ほぼ完全に忘れられている。
- 浪士の書状などが出てこなければ実際に計画されていたということさえ当時の風説扱いされていた。
浪士に犠牲者が出ていたら[編集 | ソースを編集]
- 後世の芝居などで最期がやたら脚色された。
- 下手をすると吉良とその浪士が差し違えたことにされる可能性もある。
- 浪士を倒した吉良側の人物も名が広く知られている。
- 清水一学以外にも数名は名前が出ていた。
- 本所の吉良邸跡に犠牲になった人物を祀った神社ができていた。
- 討ち取られた人物によっては討ち入りの成功自体が無くなっていた。
- 特に大石内蔵助が開始直後に倒されたような場合。
- 討ち入り序盤で士分でない者を長屋に閉じ込め損ねていたら確実にこうなっていた。
吉良を討ち漏らしていたら[編集 | ソースを編集]
- 事前の手筈通り赤穂浪士は全員吉良邸で自害していた。
- 吉良は「士道不覚悟」の咎で切腹に。
- 芝居などではここで「死にたくない」と嫌がるのがお決まりに。
- 吉良の逃げ方次第では江戸の町人にボロクソに叩かれていた。
- 名前に引っ掛けて「切られまじ」などという表現が入った狂歌が作られていた。
- 浪士にスパイがいたという説がまことしやかにささやかれる。
- 討ち入りの詳細な記録はほとんど残らなかった。
討ち入り後[編集 | ソースを編集]
浪士たちが助命されていたら[編集 | ソースを編集]
- それでも蟄居、遠島などの処分は免れなかった。
- 大石内蔵助など主だった者は三宅島や八丈島などに流されていた。
- 結局綱吉没後に大赦される。
- 大石内蔵助など主だった者は三宅島や八丈島などに流されていた。
- 旗本となった浅野大学に仕える浪士もいたはず。
- 広島の浅野本家も何人か受け入れた。
- 大石大三郎は広島藩に仕えたが女狂いで浅野家からもらった妻を二回も離別し、藩公から処罰されている。
- 大石内蔵助・主税親子の子孫は維新後に爵位を得た。
- 大石主税はホモだから(衆道(男色)のパートナーシップは相山幸之助)子孫はいない。
- 浪士たちの話を残した史料がより多く残り後世の研究に役立った。
- 自称「赤穂浪士」や「吉良家遺臣」の騙りが何人も出没していた。
- 史実の経緯を踏まえると室鳩巣の助言の影響が大きいと思われる。
- 後世での綱吉の評価が少し上がっていた。
- むしろ、天皇陛下からの勅使饗応を放棄した非国民の家来を許した暗君だと言われフルボッコになる。
切腹より厳しい処分を受けていたら[編集 | ソースを編集]
- 切腹より厳しい打ち首獄門などの処分だったら。
- 浪士たちは「義士」と称えられることはなかった。
- 赤穂には他の殿様が入ることはなく、幕末まで天領だったかもしれない。
上知令が成功されていたら[編集 | ソースを編集]
- 幕府の権威が揺らぐことはなかった
- さらに拡大されて実行されていたかも。