もし沖縄の鉄道復旧計画が実現していたら

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1947年に計画されたが、1948年道路整備に方針転換したため実現しなかった。

全般[編集 | ソースを編集]

  1. よく歩くようになり肥満が今ほど増えなかった、長寿県維持中?。
  2. 街が鉄道駅に集中していた。
  3. 台風で毎回のように運休。
    • 後に台風対策技術が発達し東南アジアなどにも輸出される。
    • 台風対策のために都市部以外ではトンネル区間が多くなっていた。都市部では全線高架となっていた。
  4. 道路と同様に右側通行になっていたかもしれない。
    • この場合アメリカ統治時代開業の路線については復帰後も特に直されることはない。
  5. 「図説・沖縄の鉄道」などの沖縄の鉄道本はあまり出版されなかった。
    • いや、現役の鉄道を取り上げた本としてむしろ史実より多かったのでは。
      • 一方で、全体に占める戦前の沖縄県営鉄道を扱う割合は減っていた。
  6. 時刻表の路線図で、沖縄県内の市の代表駅や沖縄県の代表駅がバスターミナルやバス停になることは無かった。
    • 時刻表の路線図では沖縄が史実より大きく描かれていた。
    • 高確率で「那覇駅」だっただろう。
  7. このプロジェクトはなかったかもしれない。
    • 代わりに、鉄道を含めた公共交通全般の利用を促すキャンペーンが行われていた。
  8. 渋滞は今より少なかった。
  9. ICカードOKICAも本土の交通系ICカードとの共通利用(電子マネー機能も含めて)が可能になっていた。
    • 単独の「JR沖縄」だとすればそこが発行している。
    • JR九州の一部だとすればSUGOCAが使用されていた。
      • この場合OKICAはバス会社向けのカードとして本土のカード(SUGOCA含む)とは片利用に。
  10. 大東諸島のサトウキビ鉄道への関心が現実より低調になっていた。
  11. 沖縄本島及び周辺ではいわゆる「ウチナータイム」は現在までにほぼ絶滅していた。
    • と、いうようなウチナータイムと鉄道を結びつけるいかにもデタラメな噂も流れることは無かった。
      • 戦前に県営鉄道も路面電車も走っていても「ウチナータイム」がある事から謬説は明らかだが、現代に残っていることでそこまで考える必要がなかった。
    • なぜか沖縄の鉄道は定刻通り来ないと揶揄される。
      • 「本土に比べると遅延は多めだが、それを問題視する人も少ない」だろうか。
  12. アメリカ軍関係者への配慮として復帰前から英語表記が併記されることが極めて多かった。
    • 最近は中国語表記が増えている。
  13. 那覇市かどこかに実車展示もある鉄道博物館が建設されていた。
    • ただし沖縄戦のせいで資料が残っているのは戦後ばかり。
      • 史実の沖縄県のゆいレール社の鉄道博物館にも戦前の資料はあるが…
      • 一方で、ゆいレール社が開設した鉄道博物館は無かった。
      • 戦前の資料や特急「なは」のヘッドマークなどは県立博物館行きか
  14. 実際に運行している20系統・120系統などの路線バスは、実史より大幅に本数を減らしたか、運行が無かったかもしれない。(途中駅までの運行という形になったかもしれない。)

路線[編集 | ソースを編集]

  1. アメリカ型の中古が狭軌に改軌されて使用されていた。
    • 線路の方が標準軌にされていたかもしれない。
      • 沖縄の鉄道復旧計画は米軍統治下でも狭軌だったので、標準軌になることはない。(つまりフィリピンやニュージーランドのような感じになっていた)
    • 返還後は本土からキハ35系が転属してきて使用された。
      • 当初はアメリカからGE社製のDL(勿論DD12と同型)・バッド社製のDCが輸入される。
        • もちろん狭軌仕様。
      • キハ35ではなく、キハ10系列→キハ20・58系列→平成に入ってからキハ40・47系列じゃないかなぁ。3ドアの都市型車両は電化でもされない限り入っていない気がする。お下がりばっかりだろうし(それとも塩害が多そうだから'80年代に国鉄が開発を計画していたステンレス製DCが入ってたのかな)。
        • キハ35を狭軌仕様のままステップを埋め込んで使用。
    • 朝鮮戦争後のソウル市電の例のような緊急を要する状況ではなく、復興資金も豊富だったので、アメリカの中古車両の導入はあり得ない。
    • あるいはオールステンレスのRDCが導入される。ただし製造は東急車輌製造で行われた、
  2. 沖縄返還後は国鉄・JRの路線になり鹿児島港と那覇港の間に鉄道連絡船が運航される、もちろん青春18きっぷで乗れる。
    • 寝台特急「なは」と接続していた。
      • 返還後は国鉄初の標準軌在来線が登場したと日本中は大騒ぎ。
        • 沖縄の鉄道復旧計画は米軍統治下でも狭軌だった。そして駅ホームは返還時に1100㎜に嵩上げされた。ただし非電化のまま。
      • 寝台特急「なは」廃止後は那覇~宮崎~小倉を結ぶ寝台特急「美ら海」が運行される。
        • 九州新幹線開業後は鹿児島中央から航路連絡or隼人→鹿児島空港から空路連絡になるのでは?
    • 返還後には沖縄鉄道管理局が開設され、車端左下に記される所属表記は「沖○○」となる(それはJR化後も同様)。
  3. 国鉄分割民営化ではJR九州の沖縄支社となる。その直前にやっと直流電化され、ステンレス製の新車が投入される。
    • むしろ「JR沖縄」という会社が出来ていた。
      • しかし標準軌対応の新車を購入できず、「國鐡沖繩」と呼ばれる。
        • 1992年にようやく標準軌対応の新車を購入する。(山形新幹線が開業したため)
        • 狭軌かつ高床ホームになっていた。(ホーム高さは1100㎜のやつ)
          • さすがにJR沖縄はJR四国以上に小規模なため問題視されて、JR九州と早期に合併される。そうするとJR四国にも波及しそうだが
      • コーポレートカラーは何になっていただろう?他社で使われてない色だったら黄色、ピンクあたりかも。
    • 電化区間は直流なら211-2000、交流ならステンレス車体の713-1000が投入されていた。
    • 海洋博開催年の1975年までには電化されていたはず。
      • 直流の場合、車両は1975年に103系0番台、1982年に103系1500番台、1985年に205系、2000年に303系、2015年には305系が投入される。そのうち、103系0番台&1500番台は205系、303系、305系への置き換えで2015年までには全車消滅。
        • 中距離列車には113系と211系と813系の直流版が、ワンマン運転区間には815系の直流版と817系の直流版が、特急には787系の直流版と885系の直流版がそれぞれ投入される。
        • 那覇市の規模を考えると、電化されていたとしても4ドア車が入るとは考えにくい。
      • 交流電化された場合にはステンレス製の713系1000番台が投入されていた。そして混雑が激しくなったので815系が投入されていた。
  4. 名護まで鉄道でいけていた。
    • 海洋博開催の時にアクセス路線として活躍。その後も美ら海に行く観光客が利用していた。
  5. 最初のころは国鉄ではなく、「沖縄県営鉄道」が運営している。
    • むしろ「琉球政府鉄道」、あるいは単に「琉球鉄道」
      • 当然現在はモノレールも含めて「琉球鉄道」かモノレールを子会社とする「沖縄都市間鉄道」。
        • 国鉄化されていた場合、JR九州の一部になるかJR沖縄・・・沖縄単独じゃ規模が小さすぎるか。
          • RailRoad of the Ryukyus、略してRRR。
    • 復帰前の沖縄の特殊法人の実例を見るに「琉球鉄道公社」(Ryukyu Railroad Corporation)になっていたと思われる。
      • 復帰時に国鉄に統合され「国鉄那覇鉄道管理局」になる。
  6. 現在の国道330号ひめゆり通りなどは、鉄道線になっていたかも。
    • でもって、県道46号が国道330号とか。
    • 国道329号は那覇東バイパス・南風原バイパス・与那原バイパスのルートを通っていたはず。
    • パイプライン通りは存在しない。
    • 国道330号は兼城まで旧軍道5号のルートを通っていた。
  7. 初めからそうじゃなかったとしても現在までには複線電化されていた。
  8. 離島航路との連絡運輸が行われていた。
    • 現在では空路も対象に含まれている。
    • 流石に離島への鉄道敷設は無理か(サトウキビの運搬用鉄道とかならありそうだが…)。
  9. 米軍基地への引き込み線も多く存在していた。
    • 反基地運動を象徴するシーンとして「線路上に立って軍用列車の通行を阻止する人々」のような場面がよく取り上げられた。
    • 米軍の新規装備の検討・配備や米軍関係者の事件があると労働組合がストライキを起こしてダイヤが麻痺するが、動労千葉のように沿線住民から白い目で見られることは少ない。
      • 沖縄県民から「また名護線か!」「また読谷線か!」と言われる。
      • JR沖縄の労働組合は左翼色の強いJR総連(旧動労系)が主体だった。
        • 現実のJR九州はJR連合系が主流なので本社から相当冷遇されそう。
      • 松川事件のように線路のレールを引き抜いて脱線させるケースが相次ぐ。
  10. 2000年、観光客の増加に伴いJR初の駅ナンバリングを実施する。
    • 外国人観光客のために自動放送も導入される。
    • いや、北九州地区と同じく導入は2018年になってからだろう。
  11. 路線は1975頃には那覇から与那原町、沖縄市、旧具志川市、旧石川市、金武町、宜野座村、名護市中心部経由で本部へ向かう「名護本線」、かつての国場駅から東風平経由で糸満に向かう「糸満線」、那覇から西海岸沿いに読谷へ向かう「読谷線」、旧石川市から恩納村経由で名護市中心部へ向かう「恩納線」、かつての海陸連絡線を旅客化した「那覇港線」の5路線があった。
    • いや、名護~大宜味に名護本線が建設され、名護~本部は「本部線」になっていた。あと読谷線の支線(嘉手納-知花-具志川)も建設されていた。
    • 1995年ごろまでには那覇駅から空港・豊見城経由で糸満へ向かう糸満線新線が完成し、糸満線旧線は後に第三セクター「こちんだ鉄道」に転換される。糸満線新線はその後名護本線に編入される。
    • 1992年ごろまでに読谷線の城間~那覇間が、1996年ごろまでに名護本線の豊見城~那覇~コザ間がそれぞれ複々線化され、緩急分離運転が行われる。
      • 上の5路線のうち、名護本線、読谷線、那覇港線は幹線、恩納線、本部線は地方交通線となる。
    • 現実の計画では那覇-与那原-具志川-金武-名護-大宜味と那覇-東風平-糸満の2路線がまず予定されていた。
  12. 沖縄県最大の那覇駅は6面10線の駅となっていた。
  13. 那覇港駅は正真正銘の「駅」となっていた。
  14. 現在までに部分的赤字廃線が出てる
    • 名護~国頭の路線や本島以外の路線が対象。
  15. 大規模な駅ではホームで沖縄そばが売られていた。
  16. 米軍用地返還に伴う短絡線の開業が何回かあった。
  17. いずれにしろ、沖縄にも鉄道警察隊が設置されていた。
  18. 島内の交通手段が自動車と鉄道になり利用者もそれぞれ分散されるため、国道58号をはじめとする沖縄の道路関連の土産物グッズが史実ほど充実していなかった。

私鉄[編集 | ソースを編集]

  1. 沖縄都市モノレールが開通したかどうか・・・・・・
    • 沖縄電氣の復活版として登場したのでは。
    • ただし沖縄市への延伸構想はおそらく出ていない。
  2. 復帰直後に私鉄「琉球鉄道」が誕生し、JR九州のライバルとなる。
    • 略称は「琉鉄」。しかし、関東民からどっかの鉄道会社と間違われる。
      • 路線は恩納線(伊差川~名護~恩納~石川~知花~琉鉄コザ~普天間~浦添前田~首里~琉鉄那覇(旭橋))、佐敷線(首里~琉鉄与那原~佐敷~知念~具志頭)、本部線(名護~名桜大前~八重岳口~琉鉄もとぶ~海洋博公園)、勝連線(琉鉄コザ~前原~与那城~勝連グスク~勝連)、八重岳索道線(八重岳口~八重岳山上)で、恩納線、佐敷線、本部線、勝連線の軌間は1435mmである。
        • 2000年代に大手私鉄の仲間入りを果たす。
          • そして西鉄と手を組む。
          • 大手私鉄は大都市圏の会社しか認められないはずなので今でも地方私鉄扱いでは。
            • とすれば一番大きい中小私鉄となるかも。
    • CMやドラマの撮影を積極的に受け入れる。
      • そのため、連続テレビ小説「ちゅらさん」に琉球鉄道の車両が登場し、沖縄のローカルCMにも琉球鉄道の車両がよく出る。
    • 車両は西鉄や京急のお下がりが多かった。2010年代は元京急初代1000形や元西鉄600形が中心。
      • JRに対抗するためにお下がりではなく新型車が多く投入されていた可能性も。
  3. 開業時期にもよるが、那覇市内-那覇空港間の路線は三セク運営になっていたかもしれない。
    • JR那覇駅(仮)の向きにもよるが、モノレールと違って豊見城経由になっていたと思われる。
    • 上述の「琉球鉄道」が無ければJR線と直通運転を行っていた。
  4. 製糖工場が自社の専用線で旅客輸送を行っていた。

地域別[編集 | ソースを編集]

  1. 嘉手納基地は現実より小さかった。
    • ハンビー飛行場は無かった。
  2. 嘉手納町は北谷町と再合併、さらに越来村も合併して、沖縄市ではなくて嘉手納市が誕生する。
    • 嘉手納町と越来村の間に米軍基地があるから越来村の合併はないかも。野国・平安山あたりが米軍に接収されなかったら嘉手納村自体が誕生しなかった可能性も。
    • 人口15万の市となるが、基地に近いため市役所は長年低層・増築を繰り返す構造に悩まされ、近年美浜に15階建ての新庁舎がやっと完成。
  3. マチナトハウジングエリア返還後には現実のおもろまち駅に近い場所に新駅が誕生する。
  4. 那覇の交通渋滞もそれほどひどくなかった。
  5. 与那原はとっくに市。
    • あるいは大里村が与那原村を分離せずに市制を施行した。
  6. 南風原も市制施行する。
  7. 与儀周辺はもっと発展。
  8. 豊見城はいまでも村。
    • というかとっくに那覇市。
      • その場合、NHKが移転を急ぐ必要もなく、高安局舎が史実での末期の2倍になってる。
    • 吹奏楽団は存在しない。
  9. 逆に東風平市か八重瀬市が誕生。
  10. 戦後、地方行政緊急措置要綱に基づいて誕生した前原市(旧具志川市・旧美里村の一部)と平安座市(旧美里村南部・旧勝連町・旧与那城町)が存続し、前原市が越来村を編入する。
    • そして平成の大合併で両市が合併し、人口20万人の「うるま市(史実のうるま市ではない)」が誕生し、特例市となる。
    • この場合福岡県前原市は「筑前前原市」か、あるいはこの時から「糸島市」として市制していた。
  11. 石川市の人口も少し増えていた。
  12. 宜野湾と浦添は史実より早く市制施行。
  13. 兼城村は町制施行し、糸満町、高嶺村を編入して兼城市が誕生する。
  14. 久志村と大宜味村は町になれた。
  15. 名護町は羽地村だけと合併して市制施行。屋部村と屋我地村、久志町は残る。
  16. 本部は上本部村の編入にとどまらず屋部村と今帰仁村、屋我地村まで編入し、本部半島のほとんどを占める「本部市」になる。
    • ワルミ大橋の開業は史実より早かった。
  17. 金武村は宜野座村を再編入し、史実より早く町制施行する。
  18. 高速化によりやはりストロー現象は起きている。これらの市は現在では人口5万人に満たないところも多いのでは?
    • 鉄道沿いの西側(浦添・宜野湾・豊見城など)あたりは史実通り(もしくはそれ以上)の人口になっている。しかし東側(うるま市・沖縄市・中城など)は(支線ができていたとしても)人口が少なかった。
      • 東西格差ができていた可能性も。
      • 戦後すぐの鉄道復旧計画では東海岸に南北縦貫ルートが建設される予定だったから史実とは逆に東側の方が発展してる気がする。
  19. 学校や病院は無論、サンエーやイオン(イオンモール含む)の立地に大きな影響を与える。
    • 実在する鉄道計画に沿って近年のサンエー立地計画は策定されているし、そもそも新鉄道計画自体が那覇メインプレイス、宜野湾コンベンションシティ、イオンモール沖縄ライカムを経由することが確実視されている。
    • 路線によってはイオンモールはライカム(泡瀬ゴルフ場跡地)に誕生せず別の場所だった。
    • イトーヨーカドー系列大型店舗も進出していたかもしれない
      • 九州にすらイトーヨーカドーはないのに沖縄には出店しないのでは?