もし豊臣家が○○だったら
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独立項目[編集 | ソースを編集]
- もし豊臣秀吉が幕府を開いていたら
- もし羽柴秀吉とねねとの間に子が生まれていたら
- もし豊臣秀長がもう少し長生きしていたら
- もし豊臣秀勝が存命だったら
- もし豊臣秀吉の朝鮮出兵が○○だったら
- もし関ケ原で西軍が勝っていたら
- もし大坂の陣が○○だったら
徳川家康を粛清していたら[編集 | ソースを編集]
- 豊臣家はもっと長続きしていた。
- それでも豊臣家でも徳川家でもない、第三の家系が幕府を開いていた。
豊臣秀次の一族が処刑されなかったら[編集 | ソースを編集]
- 豊臣秀次は秀吉の後をついで関白になりましたが、実子・秀頼の誕生により秀吉に疎んぜられ処刑されました、もし処刑されなかったら
- 仙千代丸が豊臣家3代目として関白を継いでいる。
- 関が原の戦いは起こらなかった、あるいは遅れていた。
- 山内一豊は史実よりもかなり出世していた。
- 聚楽第は今でも残っている、その代わり二条城がない。
- 東北の雄は伊達政宗より最上義光になっていた。
- 娘を秀次の側室に差し出していた関係で、秀吉亡き後は大いに優遇される。
- 秀次は豊臣政権の基礎を作った名君として名を残している。
- 秀頼との間で権力闘争が起きる。
- 家康が秀頼を担いで挙兵
- 伊達政宗征伐に大軍を出兵していた秀次が、各大名に「徳川家康が、秀吉公の実子・秀頼の後見人になったようだ。そなたらも、秀吉公の恩恵を受けておろう。秀頼を守りたければ、大坂に戻るが良い。私は止めないから」と伝える。
- 各大名、「秀吉公の後継者は、関白秀次様です。豊家の内紛を起こす、徳川内府許すまじ!」と一致団結
- 関ヶ原で、東軍・秀次と西軍・家康の天下分かれ目の戦いに。
- で、家康が勝ったら?
- 史実のように綺麗には終わらず、泥沼の戦いが数十年続く。後に言う「慶長の乱」である。
- 五大老による大大名の合議制は存在せず、よって徳川家康が豊臣家の権力争いに介入することも無い。
- 「殺生関白」と呼ばれることはなかった。
- 秀次自身が秀頼誕生と前後する時期に病気か何かで死亡していたら(この場合遺族となる)一族は生き延びられたかも。秀吉にしてみれば(表立って口に出せるはずもないが)ある意味理想的な展開。
秀頼も夭折していたら[編集 | ソースを編集]
- 何れにしても、御家騒動になりそう。
- ショックから秀吉が落ち込む。
- 秀次粛清以前
- ストレートに秀次が継いでいたか?
- 秀次が後継者に再指名されるが、このゴタゴタで秀吉の求心力が低下して慶長の役が起きていないか起きても別の形で禍根を残し秀次が後始末に奔走させられる。
- 秀次粛清〜秀吉死去
- 国内では「秀次の祟り」と恐れられる。
- 一族で誰も継げる者がいないため、どうなるのか。
- 3代目秀勝が生きていれば……
- 朝鮮出兵を切り上げていた。
- 秀吉死去〜関ヶ原
- 秀吉の系統はここで途絶える。
- とりあえず、家康は結城秀康を担ぎ上げる、かも(秀吉の養子になっていた縁から)。後の結城家には弟の誰かに継がせる。
- このタイミングで家康が豊臣家をまとめ上げ、征夷大将軍になっていたかも。
- 秀康は名目上は上に立ちながらも冷遇される。
- 少なくとも関ヶ原以前で家康が豊臣家を簒奪することは考えづらい。
- このタイミングで家康が豊臣家をまとめ上げ、征夷大将軍になっていたかも。
- 関が原以後
- 徳川の誰かが養子に入って豊臣家を乗っ取る。
- 淀殿は尼さんになっていた。
- 大阪の陣は起きなかった。