バ合戦誌

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独立項目[編集]

磐井の乱[編集]

  1. 神代を除けば日本書紀に残る日本最古の反乱。全国の「いわい」さんは肩身が狭い?それとも胸を張る?
  2. 古事記には「竺紫君石井 不従天皇之命而(中略)殺石井也」とある。

丁未の変[編集]

  1. になりたかった物部守屋とになりたかった蘇我馬子の戦い。
    • 「私は神だ」「ほっとけ!!」てな感じで争った。

壬申の乱[編集]

  1. 古代最大の内乱・皇位継承戦争。
  2. 大海人皇子側の準備周到ぶりにひきかえ、大友皇子側は不意を食らった形跡がありあり。

源平合戦[編集]

富士川の戦い[編集]

  1. 「戦い」なのか?
    • だって、戦う前に平家軍逃げちゃってるし…
      • 最大の勲功をあげたのは水鳥だな。
        • でも感状はもらえないんだな。
  2. この戦いにせよ、下記の倶利伽羅峠にせよ、平家10万人の軍勢と言われているけど、本当なのか?当時の人口や兵站じゃ無理ではと思うのだが
  3. 後世、この川が商用電源周波数の境となる。

倶利伽羅峠の戦い[編集]

火牛の計のイメージ像
  1. 木曽義仲が「火牛の計」を使ったとされているが、怪しい。
    • 本場中国の「火牛の計」は牛の角に刀を括りつけ、尻尾に火を付けて敵に突進させる策なのに、ここでは角にたいまつを括りつけたことになっている。
      • それじゃ牛は暴れて敵に突っ込ませるどころじゃねえだろ、と後世の歴史家からツッコミが…
  2. 追われた平家が落ちていった谷は地獄谷と呼ばれている。川が血で赤く染まったとか。

一ノ谷の戦い[編集]

  1. 鵯越の逆落とし。
    • 義経曰く「鹿も四足、馬も四足。鹿が降りられて馬にできぬことがあろうか!」→ト連送。
    • 畠山義忠は動物愛護法に基づき馬を背負って急降下。
  2. 実は鵯越と一ノ谷は結構遠い。

屋島の戦い[編集]

  1. 那須与一が扇の的を射て勝敗が決まった。
    • なぜかこの直後に武者1名を射殺している。
      • 射殺すよう命じたのは義経らしい。
  2. この戦いで敗れた平氏は四国も失っていよいよ追い込まれた。
  3. 源義経があまりいい弓を使っていなかったことが判明。
    • 平家物語に「源氏の大将がこんな貧相な弓を使っていると知られたら恥だ」という趣旨のセリフがある。
    • 背が低いし膂力もそんなにでもなかったもんね。
  4. この合戦を題材にした能の題名はなぜか「八島」と表記される。

壇ノ浦の戦い[編集]

  1. 源平合戦最後の戦い。
  2. 敗れた平氏の主力は波の下の都へ逃亡。
    • 一部は蟹に姿を変えた。
      • オリオン座あたりのお星様もそうかも知れない。
      • 残りの一部はホタルに、、はなっていない模様。
  3. 草薙の剣水没。
    • 水没した剣が本物か偽物かはおそらく永遠の謎。
    • 伝承としては本体は神話時代から熱田神宮にあり、この時は宮中の形代が沈んだとなっている。
    • ただ同時に勾玉(形代でなく本物!)も一緒だったのでえらいことになった・・・が箱ごと岸に流れ着いて回収された。
  4. なお鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』ではあまり細かく書かれていない。
  5. 義経が別の船へと飛び移ったことで有名。
    • 実際は八艘も飛んでいないらしい。

千早城の戦い[編集]

  1. 「人類史上最も○○な戦い」を選ぶとしたら軽く二冠は達成できる。
    • 人類史上最も汚い戦い。
    • 人類史上最も臭い戦い。
  2. 南朝が正統派であろうとなかろうとこんな事をしていたら、汚さのあまり人望を失って、北朝を応援したくなる人が多くなるであろうというような戦い。
    • しかも山火事は起こすわ……

応仁の乱[編集]

  1. 戦国時代の発端になったとされる。
    • コレがなけりゃ、歴史好きの人口は半減したとも言われているし、サルタヌキが人を見下せるようになることもなかった。
      • いきなりサル・タヌキ言われてもわかりづらいので、秀吉・家康にリンクはっといた。
  2. 将軍家・管領家の家督争いがきっかけ。
    • しかしその目的はだんだんどうでもよくなってきた。
  3. この乱により京都は焼け野原に。
    • 南北朝時代の戦乱による被害の方が大きいという説もある。
      • 何でも応仁の乱の頃の地層には焼けた土がほとんど見られないらしい。
  4. 最初は「山名宗全・日野富子・足利義尚vs細川勝元・足利義視」だった。
    • いつの間にか「細川勝元・日野富子・足利義尚vs山名宗全・足利義視」と入れ替わっていた。
  5. この乱がなければ「西の京山口」「西陣」は誕生しなかった。
    • 土佐中村だって小京都にならなかったはずだし、泉佐野市の日根野荘に中世の記録が細かく残されることはなかったはず。両者とも公家が京都から落ちていったためなので。
  6. 京都市民にとっての「先の大戦」とは、第二次世界大戦ではなく、この戦の事を指す。
    • 「先の戦争」なら鳥羽伏見の戦いか?
      • 鳥羽伏見は都の外だから、京都ということで考えるのなら「禁門の変(蛤御門の変)」のはず。
  7. こっそり南北朝時代の南朝の皇統(いわゆる後南朝)も出てきてる。あんたら、まだいたの?って感じだが、流石にこのあとは熊沢天皇まで陰を潜める。

桶狭間の戦い[編集]

  1. 日本史を代表する奇襲戦。
    • 厳島の戦い・川越の戦いと合わせて日本三大奇襲。日本三大夜戦という言い方もあるらしいが、下に書いてあるようにこの合戦は夜じゃない。
    • なお近年は「奇襲ではなかった」という見解が定説となりつつある。
  2. 織田信長軍2000が今川義元軍25000を破った戦といわれている。この戦で今川義元が討ち取られた。
  3. 実は夜ではなく、昼間の戦い。戦闘開始が午後1時ごろで、終了が午後4時ごろ。
    • 戦いの直前に大雨が降って数で劣る織田軍は雨音にまぎれて突撃したとか。
  4. この戦を皮切りに、時代は天下統一へと向かっていく。
  5. 徳川家康の独立に一役買った。
  6. 褒章が一番多かったのは、今川の首を獲った服部一忠、毛利義勝の両名では無かったそうな。
    • 今川義元の場所を教えた農民だったらしい
    • この辺り、情報を重視した信長の先見性、みたいな言われ方をしたりする。
  7. 古戦場(名古屋市側)は現在単なる住宅地と化している。
    • 一応「桶狭間古戦場公園」という両軍の将の像が立ち合戦のジオラマ?がある単なる児童公園は存在。

川中島の戦い[編集]

伝統の一戦の名場面(八幡原史跡公園)
  1. 五回も戦ったのに決着がつかず。
    • にらみ合いだけのもあったっぽいけど。
  2. 「啄木鳥戦法」「車懸りの陣」「大将同士の一騎打ち」など有名なエピソードは第4回に集中している。
  3. 現代ではよく各種イベントなどのネタにされる。
    • 例:Jリーグのダービーマッチ、「笑点」でのこん平vs小遊三の卓球対決など。
  4. 長野市付近でこの合戦に匹敵する人出はオリンピックまでなかったらしい。
    • 長野五輪の際に「川中島の合戦以来最大の人出」という表現が用いられたという。
  5. 五回目の内容は知られていない

姉川の戦い[編集]

  1. 長浜市の姉川を挟んで、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が戦った。
  2. 有名な合戦だが、歴史の流れには殆ど影響を与えていない。
    • 何故なら、合戦後も織田vs浅井・朝倉の構図は変わらず続いているから。
    • そもそもこの戦いを有名にしたのは小瀬甫庵の「信長記」だが、これは作者が当時の徳川幕府におもねって、徳川家康の活躍場面があるこの合戦を特に強調したから、とも言われている。

三方ヶ原の戦い[編集]

  1. 徳川家康武田信玄に敗れ脱糞した。
    • なお本人曰く「これは味噌をこぼしたのだ」とのこと。
  2. この合戦後のしかめ顔をした家康の肖像画は有名。
  3. この後信玄が病死していなければ徳川家は危なかった。
  4. 家康が諸葛亮ばりに空城の計を用いた。 …っていうか、落ちてくる兵を浜松城に入れるために城門を閉められなかった、というのが正しい所か。
  5. 実は夜戦。家康の出陣が午後4時過ぎ。でも12月ってその時間もう暗いから・・・

石山戦争[編集]

  1. 恐らく、日本史上最初の戦争。
    • 日本初の軍艦も誕生した。
  2. 戦争の期間は10年間。
    • 現状では日本の戦争史で最も長い戦争だったりする。
      • 因みに、日中戦争ですら、4年弱。
    • 戦争と言いつつ、最初の3年間は下準備期間だったりする。調略やったりしつつ、顕如と信長が贈り物を遣り合ったりしてる。
      • なんだかんだ言って、講和後の停戦命令を各地に出したり、京都の信長邸を顕如が訪問するなど、この二人は仲がいい。
  3. 実は、この戦争の戦後のゴタゴタが最大の原因で、加賀は後に、前田家の支配するエリアとなる。
    • 「百姓が持ちたる国」の維持(正確には加賀の一部を本願寺領として保証)というのが、和議の条項にあったが、顕如の子供が我儘言って、それをぶっ潰したため、織田領(柴田氏支配)となったから。
    • それが原因で、本願寺は東西に割れる。
      • そして、維新の時の佐幕派と倒幕派で別れる。
      • 徳川家康がうまく東西に分けることによって勢力を分散させたとさ。
  4. 毛利氏も本願寺を支援していた。安芸も門徒が多いからね。
    • 紀州の雑賀衆も本願寺を支援。こっちも門徒が多いからね。
  5. 毛利氏の配下で村上水軍が大阪湾から兵糧を運び入れ。包囲している織田の水軍が邪魔しようとするが、焙烙火矢で散々にやられる。
    • そして村上水軍にやられないように九鬼氏の軍船が造られる。

手取川の戦い[編集]

  1. 織田軍が上杉謙信に大惨敗した戦い。
  2. 意外にも合戦の時期は「長篠の戦い」よりも後である。
    • 一般的には、武田の重しが取れて、天下統一を目指す信長常勝と思われている時期。
    • この時点で信長が天下を失いかねない程の敗北をしていたことは、意外と知られていない気がする。
  3. 桶狭間とは逆に、雨のせいで織田側が大敗したらしい。
    • 得意技である鉄砲や火薬が使えなかったとのこと。
  4. サルが勝手に帰ってしまっている。明らかな敵前逃亡で本来は処刑ものだが、実際は謹慎処分で済まされている。
  5. 合戦場所が具体的にどこなのかはいまいちよくわからないらしい。

高松城の水攻め[編集]

水攻めのイメージ
肖像権の関係で後姿のみ
  1. 結局あの戦は誰得だったのか……?
    • 毛利は勢力圏を備中まで後退させられたとはいえ、それは既に趨勢として決まっていたことだし……
    • 織田方は宇喜多家が秀吉の子分みたいな地位に既に就いたあとなので、こっちも得したとはいえまい……
  2. 世界中で水利を用いた戦というのは数多くあるだろうが、戦の主力事業でダムを拵えたというのは多分これが最初で最後。
    • だからかしらんが、戦の名称が「高松城の水攻め」という正式名称なのか疑ってしまうような、語感の悪いものに……
  3. 戦いの舞台となった城に置かれた絵看板、誰の顔も写っていないのがちょっと残念。
    • まさかと思うが肖像権の都合とかだったりして……
  4. 念のために言うと、高松は高松でも香川県高松市では無い。

山崎の戦い[編集]

  1. 慣用句を3つ(三日天下、天王山、洞ヶ峠を決め込む)も生んだ。戦にかかった時間を考えるとコスパは非常によろしい。
    • 三日天下と言いつつ11日くらいとか、「洞ヶ峠」というのはお話だけで実際は筒井順慶は洞ヶ峠に行ってないとか、ツッコミどころはある。
  2. 光秀がインケツな嫌われ者であるというイメージを浸透させるのに最も貢献した戦い。
    • 娘婿の細川に嫌われ、仲が良かった筒井には無視され、半分部下同然だった摂津三人衆は羽柴につき……
  3. 天王山トンネルで亡霊を見たとか言う都市伝説ができた遠因。
  4. 実は秀吉は山崎着陣後、しばらく足踏みしていたという事実。でも中国大返しのスピード感のお陰であまり知られていない。
  5. ちゃっかりこの合戦の直前にボロ儲けしていた朝廷と公家衆。光秀が自分の貯蓄を彼らに寄付しまくったらしい。
    • 信長の貯めていたものは燃えてしまったのでパクろうにもパクれなかったらしい。先に奪ってまえよ……
  6. 光秀も先に良い陣地を押さえられなくもなかったのに、そこに陣取ると山崎の町の人が迷惑して後々 天下を治めるのに不都合、とのことでやめちゃった。義理堅さが彼らしいけれど。

天正壬午の乱[編集]

  1. 武田滅亡→本能寺の変からの領主不在となった上州・信州・甲州での北条・上杉・徳川の領地ぶんどりあいと真田氏を初めてするこれらの国の小領主たちの立ち回り。
  2. 真田氏が武田(滅亡)→(うらで北条とやりとり)→織田(本能寺の変)→(一瞬)上杉→北条→徳川→上杉(その後 豊臣)という主君変更を行った。
  3. 合戦としては神流川の戦い以外は大規模な合戦はない。ほとんど地元小領主の引き抜きあいみたいな。
  4. 上杉氏はさくっと川中島あたりまで押さえたものの、新発田さんが暴れていたので早々に引き上げ。
  5. 北条・徳川が甲州でにらみ合い。小田原本拠なのに上州→佐久と大迂回して来ていた北条氏、信州で徳川方に寝返った人たち(含む真田氏)によって兵站線を封じられてしまう。大軍だったのに徳川と和睦する羽目に。
  6. 甲州・信州は徳川、上州は北条と言うことで徳川-北条は和睦したのに、徳川配下の真田氏が上州沼田を手放さず、勝手に北条領にした徳川を嫌って上杉に寝返り。この沼田領問題が後、小田原合戦の引き金に。

神流川の戦い[編集]

  1. 山崎の戦いの3日後に始まり、6日後に終了。滝川一益の没落が始まる。
    • 織田信長が武田遺領を北条氏に分配しなかったので、不満をもった北条氏が「だったら実力で奪ったらぁ!」と接収にかかった。そのターゲットが滝川一益だった。
  2. 実は戦国時代の関東における最大級の野戦だったが、教科書はスルー、小説では「滝川一益は北条氏に敗北し尾張に逃げ帰った」の最大20文字で済まされる。

小田原合戦[編集]

  1. 1行にまとめると、秀吉と家康が小田原まで連れションしに行っただけ。ついでに物見遊山もしたらしい。
  2. 征討に向かう兵隊の先頭が安倍川を渡る頃、最後尾は未だ濃尾平野を歩いていたらしい。
  3. 秀吉お得意のナイトキャッスルがここにもでっかくオープンしたとか。
  4. この合戦に参戦しなかった戦国大名の領地はことごとく潰された。
    • この合戦に遅延した大名はことごとく領地を削られたり移封された。
  5. もはや日本の企業の伝統である「小田原評定」はこのときに行われた。毎日会議は続くけれど、結論でない。徹底抗戦なのか和睦なのか。
    • 後北条氏では2代目氏綱さんの「勝って兜の緒を締めよ」と並ぶ慣用句。
  6. 小田原城落城後も忍城は落城しなかったが石田三成の援軍にかけつけた真田安房守昌幸,伊豆守信幸(後の信之)親子によって開城され小田原攻めは幕を閉じた。 

関ヶ原の戦い[編集]

  1. 天下分け目。
    • 川中島・天王山と並んで天下分け目の例えにされる。
    • うどんの出汁の濃さとか、エスカレーターの右立ち左立ちとか、バカとアホの使い分けとか、様々なものの分かれ目がこの地であるのは偶然ではない、、いや偶然かなぁ。
    • 餅が丸餅か切り餅かもここを境に分かれるらしい
  2. 狸親父の策略が見事に役立ち東軍が勝利。
    • 陣形だけなら、西軍の勝利。
  3. 西軍の総大将は一応毛利輝元。
    • なお本人は大坂城にとどまったまま出陣せず。
      • 一族の吉川広家が裏で東軍と通じて動かなかったから、輝元も動けなかった
        • 吉川が動かなかったから動けなかったのは関ヶ原にいってた毛利秀元ですよ。輝元が大坂城から動けなかったのは城内の増田長盛が東軍に内通しているとかいう噂のせい。
  4. 関ヶ原町最大のアピールポイント。
    • 合戦に参加した武将名やその兵力、家紋などを書いた大きな看板が駅に立っている。
      • 地元出身の竹中重門さん(竹中半兵衛の息子)の名前は後から付け足されている。
    • おかげで、観光資源には困らなくなったらしい。
  5. 本戦は1日だが各地で連動した合戦も起きていた。
    • 東北の長谷堂城の合戦、信州の上田城の合戦が著名。
    • 関ヶ原での戦闘を指して「天下分け目の戦いはたった一日で終わった」と言うと「その前後の戦闘を含めれば、たった一日とは言い難い」と異論を唱える人もいる。
  6. 親子兄弟で敵味方とか、応仁の乱ばりに陣容が複雑。
  7. 20歳前後の小僧1人の動きが、全てを決めた。
    • 一説では、元義父に対する意趣返し程度の感覚であったとか。
  8. 黒田官兵衛が、天下を取ろうとするもしくじった戦い。
    • 官兵衛は隠居していて兵は息子の長政が連れて行ってあんまり残ってなかったのに、ため込んでいた金銀で臨時徴兵、それなりの兵力になって西軍の大友氏を攻める。
  9. 黒田官兵衛の息子・黒田長政が寝返り工作に大活躍し、東軍の勝利に大いに貢献した。
    • これにより長政は家康から大激賞された。長政は親父・官兵衛に得意満面に「家康さんに手を取って感謝された」って自慢したら官兵衛「もう片方の手は何しとってん」と。空いてた手で家康刺し殺してこんかい、せっかくの天下取りの機会を一日で終わらしてしまいよってからに、という話になってる。
  10. 真田氏(昌幸・幸村父子)が上田城に籠城。数で勝っていた徳川軍を翻弄(2回目)。上田城の戦い
    • このせいで徳川秀忠は関ヶ原の合戦本戦に間に合わず。
    • 真田昌幸はじめは降伏すると伝えておきながら「準備するからちょっとまっててね」→「も~いいかい」「まーだだよ」→「はよせぇや(怒)」「あーごめんごめん、籠城の準備してたんだ♪もういいよー」→徳川軍激怒
  11. 東北ではきっかけになった上杉氏が最上氏を攻める。
    • 最上氏の山形を攻めたのは会津米沢の領地からは飛び地になっていた庄内の領地と地続きにするためとか。
    • 関ヶ原で西軍が負けたので、山形城まであと一歩の長谷堂城を包囲してるほど優勢だったはずの上杉氏撤退。(長谷堂城の戦い)
      • 直江兼続が責任とって切腹しようとしたくらいの壮絶な戦い。
      • この戦いがきっと戦国きっての傾き者・前田慶次の一番の見せ場。
  12. 上杉氏、旧領越後で一揆を起こすも堀氏にさくっと鎮圧される。
  13. 「徳川軍対豊臣軍」というより「(少なくとも表向きは)豊臣軍対豊臣軍」であった。

大坂の陣[編集]

  • 合戦場:大阪市ほか
  1. 真田信繁(幸村)とその家臣団が大活躍。
    • 城内からの抜け穴を利用して神出鬼没、だったと言うことになっている(特に講談の類いでは)。今でも大阪市内には真田の抜け穴とされるものが残っているらしいが、実態は単に昔の古墳の穴だったりするとか。
  2. 堀の大切さがよく分かる戦い。
  3. 落城直後の大坂は無法地帯と化したと伝えられる。
  4. 大坂城にはキリスト教の宣教師も籠城していたらしい。
  5. 家康がこの戦いで戦死したという説がある。
    • 家康のものとされる墓石が堺の某寺院にあるらしい。
  6. 大阪方、元からの豊臣直臣と新たに雇われた浪人衆(真田幸村、後藤又兵衛、明石全登、長宗我部盛親など)が意見があわずがたがた。そこへ淀君が口を挟んで… というイメージ。
    • 古い大企業のプロパー・古参は官僚的になってしまっていて、拡大のために経営傾いた企業を大量に吸収したらそっからきた社員は自分勝手で、、みたいな?
    • まぁ実際は浪人衆同士の連携だって良くなかったっぽいが。
  7. 家康が夏の陣で死にかけたのは事実のようだ。
  8. 豊臣方もハナから篭城戦一本槍だったわけでなく、冬の陣では城外に築いた砦を巡る攻防戦(今福・鴫野の戦い等)、夏の陣では八尾・若江の戦いとか道明寺の戦いとか大坂城外でも戦ってた。
    • 冬の陣は籠城戦だが、夏の陣は籠城しようにも城に堀がない。ので、城の外に拡大して陣をひいてた。
      • このため、布陣図を見くらべると冬の陣の方が大坂方がコンパクト。ぱっと見 冬の方が押し込められて見えるので、どこかの社会科資料集では冬・夏の図が間違えられていた。
  9. 大坂方で一番奮戦したのは冬は真田信繁だが、夏は毛利勝永であった。が、上記記事を見ても分かるように毛利勝永の知名度があまりにも・・・・

島原の乱[編集]

  1. 一揆勢の中身:浪人+百姓+キリシタン。
    • 必ずしも純粋な宗教戦争というわけではなかった。
  2. なおキリシタンの戦死者は殉教者に含まれていない。
    • 原因が宗教弾圧だけではない上武力で抵抗してしまったため。
    • 十字軍は聖戦といううくせに、キリスト教の価値観はわけわからん。
  3. 宮本武蔵が投石で負傷した。
  4. オランダ船による砲撃があった。
    • 一揆勢への心理的ダメージはそれなりにあったらしいが実際の被害はほとんどなし。
    • 明に援軍を要請する計画もあったとか。
  5. 九州とは直接関係のない備後福山藩の水野勝成一家が参戦。
    • 家康の従兄弟のため。
  6. 島原藩と天草(唐津藩)の圧政が原因。
    • 島原藩は南蛮貿易できたころのバブリーな感覚を引きずり、お城を豪華に建てたりしたもんで税金が重くなった。
    • 天草は唐津藩の飛び地だが、天草から搾取して本土・唐津の整備に使ってた。そりゃ怒るわ。
    • 島原藩の拷問には雲仙の火山も使われた。火山には「○○地獄」みたいな地名がよくあるが、ここの場合はマジ生き地獄。
    • 一揆軍は内通者を除いて皆殺されたが、原因を作った島原藩主の松倉勝家は斬首、天草を領有していた寺沢堅高は領地没収(後に自殺する)となり事実上の相討ちとなった。一揆軍の面々は殉教者にも義民にもなれなかったが、そういった意味では役立ったのかも?
      • ちなみに、徳川幕府260年の歴史上、斬首(武士としての死である切腹ではなく、罪人としての処刑)になった大名は、後にも先にも松倉勝家ただ一人っぽい。
    • かつてのキリシタン大名がやっていた寺社の弾圧、非キリシタン領民の人身売買は相変わらず続けていたとか。
  7. 一揆軍は篭城戦をして結局はジリ貧となったが、立てこもった原城は海に面していたことから南蛮からの援軍を期待していた節があったようだ。
  8. 荒野と化した一帯を復興させた代官の鈴木重成はもっと知られるべき。原因の土地の石高が2倍とされてたのを元どおりにするため最後は抗議の切腹して果てた。

戊辰戦争[編集]

  1. 鳥羽・伏見の戦いや函館戦争を含めていいかどうかよくわからないがとりあえずここで。
  2. 薩長軍のお馬の前で錦の御旗がビラビラしたことが戦局を大きく左右した。
  3. 幕府側の主な犠牲者:近藤勇、土方歳三、白虎隊、伊武谷万二郎など
  4. 南北朝合一以来久々に朝廷が分裂しかけた。
  5. この戦争が原因で潰されたのは1万石の小藩一つだけ。
  6. 特に東北方面に様々な遺恨を残した。
    • 都道府県名に影響したと主張する識者もいる。

西南戦争[編集]

  1. 今のところ日本最後の内戦。
  2. 西郷軍は新式銃装備の政府軍と清正公の前に敗れ去った。
    • 最終目標地点は東京だったが熊本県さえ脱出できなかった。
  3. 当初は「またも負けたか八連隊、これでは褒美はくれんたい(九連隊)」と揶揄されるほど政府軍は圧倒されていた。
    • しかし最終的には「西郷隆盛鰯か雑魚か、鯛(隊)に追われて逃げて行く」と評されるほどの活躍を見せた。
  4. 映画『ラストサムライ』の元ネタはこの戦争。

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