三国 (中国)

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三国時代の噂(一般)[編集 | ソースを編集]

  1. おかまの孫と南の方に住んでた田舎者と半浮浪者が戦ったり馴れ合ったりしてた時代
    • チ●コ切られた人の孫と、南部の田舎もの兄弟、やりたい放題のチーマー3人組(大酒のみのニートか?)がロングヒットゲームの原作を書いた。おかげで地元の人はいい迷惑。
    • 戦争狂の小男と呉一家の大親分とチンパンジーが巻き起こした長編スペクタクルがウリ。
      • 呉一家は当初、「おやっさん(孫堅)をやった黄祖のガキのタマ取ったるんじゃ!」で団結していた。
      • その後、「二代目の志をムダにしちゃあいかんけえのう」と一致団結。曹魏と対立時には「クサレ孟徳のタマァ取ったれえ!」と大団結した。
  2. 黄巾党が衆議院で単独過半数を獲得。
    • でも選挙違反で全員逮捕。
  3. 劉代表は孔明党と連立を組む用意があると発表。関副代表・張幹事長はこれを了承。
  4. 広島県呉市の面積が最も広かった時代。
    • 読み方は「ひろしまけんくれし」ではなく「かんとんけんごいち」である(嘘
  5. 国王のソンケンさんの息子もソンケンだったため混乱がおきる。
    • 国王はケンパパって言えば通じる
      • 桃兄者の文官の一人もソンケンだったりする。
  6. 戦場で矢に当たったために大目玉を喰らった人が。
  7. 一人で中原を統一できそうな人が何人もいた。
    • 川崎市中原区ではない。
    • 英雄、軍師、弁論家、学者などあらゆる人材が山のように出てくる。後漢は西洋のローマ帝国と並び古代文明の頂点を極めた時代だったため、全体に人材レベルが高かったのである。その土壌は三国時代を通じた騒乱で一旦燃え尽きることになる。
  8. 何度も遠征したのにほとんど勝てず、国力を疲弊させまくって亡国への道を敷いたはずの宰相閣下が、死後歴史上最高の軍師となり極東の島国で祭り上げられた。
    • 宰相じゃなくて丞相ですね。
      • 自称な。正統王朝でもない単なる地方政権の大臣なんだから、丞相を名乗るなんざおこがましいにも程がある。
    • しかも彼は実際はただの口うるさい小役人である。
    • とりあえず「今孔明」ってあだ名は、実情を知っている以上、付けられた人に対して失礼だと思う。
      • 「今公明」は?
    • とまあいろいろ言われるが、この時期トップクラスの政治家・将軍。蜀と魏の国力差を忘れてはいけない。
    • 将軍・軍師としてはともかく政治家としては公明正大、清廉潔白かつ実務能力の高さでこの大陸の歴史でも類を見ない。
  9. 孫子の本当の著者は曹操らしい。
    • 書いたのは孟徳新書と言う孫子の注本らしいです。
      • 張松に馬鹿にされて破り捨てられている。
      • 本当は魏武註孫子という。いろいろあった孫子を纏めて註訳したもの。魏武とは曹操(武帝)のこと。でも曹操は文帝になりたかったらしい。
        • あれだけ戦しておいて「文」帝はないだろww
  10. 曹操に名前を変えられた軍師がいる
    • 程立(テイリツ)→程昱(テイイク) ちなみに彼は『十面埋伏の計』(伏兵戦術)を使って、袁紹に致命傷を負わせている。
      • でも袁紹が生きている間は、一応友人だったためか曹操は深入りすることは避け静観したため、河北四州は袁紹の支配下のままだった。
    • 他にも、母親からのものにみせかけた偽手紙で敵国の有力な人材を引き抜いたりしている。その母親は「偽手紙で騙されるような子に育てた覚えは無い」と言って悲しんで自殺。
      • それは徐庶。
        • 「策を仕掛けた側」は程昱で合ってるよ。
    • 軍糧が乏しかった時、死んだ兵士の肉を加工してこっそり加えていたという噂も持っていた。
    • 何かと黒い計略が得意な人。 
  11. 赤壁の戦いの勝敗は「チンカラホイ」でひっくり返った。
    • 諸葛孔明がなんでもできる魔術師として光臨。
      • そんな能力あれば北伐も成功しただろうに。
  12. 諸葛孔明の奥さん・黄氏が常識破りのオーパーツ的科学兵器を量産したマッドサイエンティストとしてノーベル賞を受賞した。
  13. 連環の計、という計略が2種類ある。片方は美女を使って男の仲を裂くもの。もう片方は船を鎖でつながせて一気に燃やすもの。同じ名前なのに全く違ってややこしい。
  14. 某国の県令(知事とも)が、たびたび「三○人」と発言するも、魏、呉、蜀のうちどこの国かはっきりせいとそのたびに突っ込まれる。
    • ここではいわゆるこの地域を挿していると思われる。似たような言葉に「三国一の~(花嫁とか)」というほめ言葉があるが、これは三国志とは関係なく(仏教が信仰されている地域である)インド、中国、日本の事。転じて「全世界」という意味である。
  15. 庶民にとっては「惨酷」時代。
    • いきなり人口が10分の1に激減。中国史において最も過酷な時代だったでしょう。
      • 劉備みたいな流浪の民が増え、人口が把握できなくなっただけ。これを逆手にとって諸葛亮が劉備に「まだ兵隊にできる連中がいます」という献策をしたことがある。
        • 陳羣ら当時の中国高官の証言あり。今は葬乱のあとで、各地白骨、人煙絶ゆ、一州の人口、昔の一郡に若かず・・・など。また時の各皇帝も、移住政策に熱心。曹丕は狭い範囲を石碑で規定して、その間に辺境の中国人を強制的に住まわせたとか、人口減少の為。数字通りではないにしても、ある程度の人口減少はあったと思われる。
  16. 史上最強のゴキブリが生息していた時代。このゴキブリの被害に悩まされた家庭は多い。曹さんや劉さんの家も散々な目にあった
    • 一番ひどい目にあったのは董卓さんだろ。
    • 董卓さんも劉備さんもそのゴキブリを使いこなそうとしたのだから自業自得。
  17. 三日三晩燃え続けるロウソクが発明された。
    • そのロウソクに泣いてすがる人もいた。
  18. 現代人もビックリな先生達や仙人達が多数登場。
    • 麻酔を駆使するスーパードクターKがいた。
      • Kの医学書が残っていれば中国医学は今よりもっと進んでいた可能性もあるが、女の手で燃やされた。
    • 人を勝手にしばき、口癖は「よいぞ、よいぞ」という酔狂な先生がいた。
    • 星を見て未来が分かる細○○子のような先生もいた。
    • 仙人は物凄い能力を持っているが取り扱いを間違い機嫌を損ねるとジワジワと死に追いやるような天罰を下す。
    • 実はこの時代に円周率の計算を割といい精度でしていたとかあまり知られてない。
    • まあ偉いのは三国というより後漢王朝だが。それだけの文明を持っていた後漢がまさに崩壊してゆく過程だから三国時代は濃いわけである。
  19. 凄いのは人間だけじゃない。
    • 一日に千里を走る馬がいた。
      • その馬と一緒に並んで走る人もいた。
        • 当時の1里は400メートルなため、1000里であれば約400キロメートル。
  20. 異民族の強制連行なんかザラだった。
    • 例えば、曹操なんか漢中攻略後、氐族を并州あたりに無理矢理移動させてる。
      • 法正だったか諸葛亮だったかが、劉備に「漢中をとっても何もありません」と献策したのはこのため。
    • 北伐の時も占領地域の農民を強制的に蜀に連れて行ったりしてる。
  21. 曹操は、兵士の逃亡防止のためも考えて、兵士を強制的に妻帯させる策を執っていたそうな。

魏の皇帝[編集 | ソースを編集]

  1. 実質的建設者は曹操(曹丕に武帝と追謚された)とは皆さんご承知と思うが、独立した項目が無いのが涙をそそる。
    • まあ、厳密に言えば後漢時代の人ですからねぇ。
    • 第二の光武帝になろうとして、政策、言論を真似た。挙兵前の評価が光武帝が「ヘタレ」だったのに対し「乱世の奸雄」という神童ぶりだったのに、結局は地方政権の王止まり。肉親殺そうが、腹蹴ろうが、造反しなければ許す度量まで真似しきれなかったのが原因か。
      • 光武帝の時はライバルが自滅してくれたからねえ。中原を制圧している間に江南を固めるとか、40過ぎて流浪になった元ライバルが辺境の地を制圧して襲いかかるとか想定しとらんよ。

文帝(曹丕)[編集 | ソースを編集]

  1. 実は三国の初代皇帝の中でいちばん年下。
    • 実質上の創始者である父・曹操が帝位に就こうとしなかった。
  2. しょっぱなから弟(曹植)との後継者争いに見舞われたため、同族をまったく信用しなくなった。
    • 皇族はほとんど軟禁状態で外出もままならなかったらしい。あまりの息苦しさに、皇族の籍を離れたいと希望する者が相次いだが、文帝は許さなかった。
    • そのため、後年司馬一族が専横をきわめた時も、皇族は誰一人立ち上がろうとしなかった。立ち上がる義理も感じていなかったし、立ち上がる力も全然なかったのである。
    • ただし、末の弟だけは父親代わりになって親身に接した。もっとも、その弟の母親が、後継者争いで曹丕を支持したからであるが。
  3. 家臣との宴席に自分の奥さんを呼んで物議を醸した。
    • 何が問題なのかわかりづらいと思いますが、この時代、妻を他人に見せるということはまずあり得ず、今の感覚で言えば飲み会で奥さんにストリップさせるようなものでした。
    • このように、秩序の頂点である皇帝の座に居ながら、けっこうアウトローな人だった。
  4. 「文章は経国の大業、不朽の盛事」は名言だと思う。
    • 実はこの名言、武では父(曹操)に劣り、文で弟(曹植)に敵わなかった負け惜しみ、であることは余り知られていない。
    • ここだけ読むと「文学は政治の一環であり、文学者は政治に奉仕せよ」とも読める文であり、その方向から読むと、後の毛沢東の『延安文芸講話』に通ずるものがある。
  5. 教科書の三国時代で名前が出てくるのはこの人だけ。
    • 高校世界史程度ならそうだね。政治史なら陳群、芸術史・書道史なら鐘会の父鐘ヨウ、文学史なら曹操・曹植・建安七子がはずせない。
      • 世界史じゃなくて日本史に出てくるという話じゃないの?
  6. 部下に対して色々とサディスティックで陰湿ないじめを行っており、後世でも批判されている。ただし信用した奴はとことん信用するという、二面性のある人間だった。
    • あぁ孟達とか黄権とかだね。
    • 前者については于禁を憤死させたかどで、北宋の時代になって司馬光に「君子のやることじゃない」と非難されている。
  7. おはじきのプロ。
  8. 兵法などはそれなりに勉強していただろうが、戦にめちゃくちゃ弱い。
  9. 梨と葡萄が大好物。ちなみに蜜柑は酸っぱいので好まなかったとか。

明帝(曹叡)[編集 | ソースを編集]

  1. 文帝の崩御に乗じて攻めてきた呉の軍勢を自ら撃退。
    • 同じく攻めてきた蜀の軍勢のほうは司馬仲達が撃退。
      • 演義ではそうだけど、正史では張コウや曹真が撃退。曹真が斃れた後は司馬懿が撃退したけど。
  2. 最初の頃は颯爽としていたのだが、一通りの危機が去ると、やたら巨大建築を始めて財政を悪化させた。
  3. 卑弥呼にプレゼントをした。
    • 倭の使者は、たぶん公孫淵を破った司馬仲達が洛陽に連れ帰ったと思われる。その時明帝は死病の床にあり、間もなく亡くなったので、たぶん卑弥呼へのプレゼントは明帝の知ったことではなかったろう。
  4. 晩年はやや暗愚だったが、全体的にみるとそれなりの才を備えた名君。コーエーの三国志シリーズなどでは、基本的に曹丕より能力は上である。
    • というかほとんどの作品で三国の皇帝でもトップレベルな能力値だったりする。
    • でも知名度的には曹叡<<<<曹丕。
    • 曹丕が思いの外早く逝っちゃったから20歳足らずで皇帝になったけど、周りは「え?誰?」状態。さらにそんな時期に呉や蜀が攻めてきて一大事というときに的確な指示で人間を派遣して撃退に成功。これだけでもめちゃくちゃ有能だということがわかる。でも時期的には諸葛亮vs司馬懿のゴングが鳴った時だから影が薄いのもしゃーない。

斉王(曹芳)[編集 | ソースを編集]

  1. 明帝に子がなかったので一族の中から養子に。実際にはどんな関係だったのか誰も知らない。
  2. 司馬師(仲達の息子)に廃位され、斉王に格下げされる。
    • 三国志演義ではクーデターを企てたことになっているが、史実ではないようだ。

高貴郷侯(曹髦)[編集 | ソースを編集]

  1. 司馬昭の誅殺を試みたが、逆襲されて斬殺される。
    • 誅殺を持ちかけても誰も引き受けてくれず、仕方なく自分で刃をふるった結果、悲惨なことになった。
    • 死後、帝号も王号も貰えなかった。
      • どころか庶人扱い。

元帝(曹奐)[編集 | ソースを編集]

  1. 自分の立場をよくわきまえており、おとなしく司馬昭の位を上げ、おとなしく司馬炎に禅譲した。
    • 司馬昭に禅譲するはずだったが、その直前に司馬昭が病死してしまったので、息子の司馬炎に禅譲した。
  2. 禅譲後は陳留王に封じられ、厚遇されて司馬炎(晋の武帝)よりも長生きした。
    • 晋が同族争いで乱れまくった「八王の乱」のさなかに死んでいる。愚かしい同族の殺し合いを見て、多少溜飲を下げただろうか。
  3. 墓が現存してる。

呉の皇帝[編集 | ソースを編集]

大帝(孫権)[編集 | ソースを編集]

  1. 果断で颯爽とした人物ではあったが、酒乱。
    • 自分でも酒乱ぶりに愛想を尽かし、「俺が酒に酔っている時の命令には従わなくてもよろしい」と家臣一同に宣言。
      • しかし、酒の席で自分を不快にさせた家臣への報復は忘れなかった。僻地へ飛ばすとか、宰相に絶対しなかったとか。
  2. 有能な家臣に恵まれたが、なぜかお気に入りの家臣ほど早死にだった。周瑜も魯粛も呂蒙も40歳前後で死んでいる。張昭のようなうるさ型ばかり長生きだった。
    • 上司(孫権)に気を使いすぎてストレスがたまったんだよきっと。陸遜は60近くまで生きたけど最後は憤死(≒ポックリ)だし。嫌な上司を持つと辛いのはいつの時代でも同じ。
  3. 本人もかなり長生きしたが、晩年は老害をまきちらし周囲を迷惑させた。
  4. 呉の人口が少ないのを憂慮。夷州・亶州という東方の島が人口が多いと聞き、配下の武将を人狩りに派遣した。
    • 夷州にはたどり着けたが亶州は遠すぎて行けなかったという。
    • 夷州は台湾ではないかと言われている。亶州は日本説、沖縄説、フィリピン説などいろいろ。
    • 連れて行った兵士や水夫が途中で死んだ数より、夷州で狩ってきた人間のほうがずっと少なかった。つまり、かえって人口を減らす結果となった。
      • 派遣された衛温・諸葛直の両将軍は責任をとらされて処刑された。どう考えても悪いのは命令した大帝のほうなのだが。
  5. 兄(策)いわく「俺より戦は下手だけど、みんなをまとめて国を固める力はあるよ」。
    • その通り、一応生きている間は呉の領土が減ることは一度もなかった。
    • そして参加した戦で勝利したこともほとんどなかった。
  6. 戦に弱過ぎるのに、兄や父と同じく何かと前線に出たがる。血は抗えない。
    • しかし腕っ節の強い父や、戦の天才の兄と違って、いつも窮地に陥る。
      • 特に合肥では張遼とニアミスしていた。
    • 一応フォローすると、短足だけど馬術、騎射は得意だったようだ。
  7. その字から、孫権「厨房」とさんざネタにされる。
  8. 名前の読みが父(孫堅)と紛らわしい。

会稽王(孫亮)[編集 | ソースを編集]

  1. 孫権が当初皇太子に立てていた孫登が早く死んだので、代わりに孫和が立てられたが、孫権はその弟・孫覇を溺愛したので、お家騒動が起こりかけた。結局孫和も孫覇も後継者にするわけにゆかなくなり、末弟の孫亮が継ぐことになった。
  2. いわば妥協の産物だけに軽く見られ、諸葛恪・孫峻・孫綝と、次々に権臣の傀儡となるばかりだった。
  3. たまりかねて孫綝を除こうとしたが、逆に廃位されてしまい、会稽王に格下げされた。

景帝(孫休)[編集 | ソースを編集]

  1. 孫亮の異母兄。
    • 孫綝によって擁立されたが、油断したところを見計らって一気にクーデターを起こし、孫綝を誅殺。
  2. 蜀が亡ぼされたのに気落ちしてか、在位6年で若死に。
  3. 「他の人と名前が被ってはいけない」と言う理由で子供の名前用に漢字を新しく作ったりもした。

末帝(孫皓)[編集 | ソースを編集]

  1. 孫権の2人目の皇太子・孫和の息子。
    • そのため、即位後は孫和の名誉回復に躍起になった。でも本人の行いがこれじゃあねえ・・・どこまで回復できたやら。
      • 聡明であるという理由で即位したし、即位直後くらいはフォローできることもやっていたから・・・
  2. 即位するや否や、なぜか景帝の妻子を皆殺しにする。
  3. 無意味に武昌に遷都し、翌年また建康に戻ったりして、財政を傾けた。
  4. 夏の桀王・商の紂王まがいの暴君ということになっているが、その辺は多少割り引いて考えたほうが良い。
  5. いずれにしろ人心はすっかり離れ、晋軍が攻めてきた時には誰も抵抗しようとしなかったという。
    • さすがにそれはあんまりだろうと言うことで、時の丞相が特攻して戦死・・・。
  6. 晋からは帰命侯に封じられ、4年後に病死。
  7. 司馬炎と王済が孫皓の前で碁を打っている時、「どうして人の顔の皮を剥いだのか?」と司馬炎が尋ねたので、王済が碁盤の下で足を投げ出して座っているのを見て、すかさず「主君に無礼を働く者があれば剥ぐのです」と答え、恥じ入った王済が足を引っ込めたという話が残っている。

蜀の皇帝[編集 | ソースを編集]

昭烈帝(劉備)[編集 | ソースを編集]

  1. 「曹丕に弑された献帝の後を継いで帝位に就いた」という建前だったので、蜀では献帝がまだ生きていることはアンタッチャブルになってしまった。
  2. 義兄弟の関羽が呉にやられ、もうひとりの義兄弟の張飛も部下に暗殺されて犯人が呉に逃亡したため、呉に対して無謀な戦を仕掛ける。
    • この時、正面から反対したのは趙雲だけ。諸葛孔明は「法正が生きていれば止めてくれたろうに……」と愚痴を言うのみだった。
    • 結局、この大事な戦に、趙雲と孔明は留守番を命じられた。この二人、実は後世思われているほど劉備に重用されていなかったようだ(その前の討蜀戦の時も最初は留守番だったし)。
      • 重用されていなかったかどうかはともかく・・・留守役というのは、主と主戦力のいない国を治めねばならず、前線で糧秣が足らなくなれば整え、兵が足らなくなれば援軍を送り・・・能力と忠誠心がなければ出来ない役割である。
      • 孔明は軍師というより政治家であり、趙雲は三國志演義で五虎将とされている武将達の中では末席であるし、名声が誇張されていることは否定しないが、劉璋時代の家臣と劉備が連れてきた家臣との間に溝があり、不安定であった蜀の留守役を任された者達である。
      • ま、昔のコーエー三国志なら、使えない武将を残していくけどなw(これが言いたかっただけ)
  3. 劉備推薦の人物(魏延など)は良く働くが諸葛亮につぶされ、諸葛亮推薦の人物(馬謖など)は失敗をしでかす。諸葛亮よりよっぽど人を見る目がある。
    • 自分の才能を誇るか、それとも低く見るかの差だったような。謙虚であることは人を見る目を澄ませますな。
    • 諸葛亮は理屈と原則の人なのでルール化できる事にはものすごく強いが、直感が必要になるととたんにダメ。馬謖などは典型的なテスト「は」できるタイプ。
  4. 誰もが知る通り、農民の出から皇帝へと大サクセスストーリーを描いた人物。
    • もちろん、漢の高祖である劉邦も同じ。二人は人間的にも共通点が結構ある。
    • 農民というより下級役人出身。さらに都に留学するくらいには金銭的余裕はあった。
  5. 「演義」では聖人君主だが、「正史」ではヤクザの頭目。
    • よく誤解されやすいが、史実の劉備は決して傍若無人だったわけではない。人間を惹きつける魅力は天性のものがあったようである。
      • というか、慕われる人間じゃないとヤクザの親分なんかできません。
    • ヤクザといっても今の暴力団ではなく昔の義侠的な感じ。
  6. 人に慕われる才能は凄かったが、それ以上に人を見る才能も凄かった。
    • 彼が推薦する人物はみなよく働き、私欲的な謀反もほとんどしていない。
      • 逆に孔明が目をかけた人物は、ここぞというところで失敗をしたり、人間的に腐ったところがある奴が多数。
    • でも田豫と陳羣には見捨てられてしまった…
      • 田豫は「おっかさんが病気で」と別れたし、陳羣は徐州のゴタゴタで別れてしまっただけだから、見捨てられたわけではない。
        • 陳羣は、徐州に劉備が呂布を迎えるのに反対したせいじゃなかったっけ?
          • 反対したのは劉備が徐州を支配することで、その後も曹操が徐州に侵攻するまでは仕えていたりする。
  7. 戦争は弱かったとも、強かったとも言われる。
    • 少なくとも、あれだけ負け続けて流浪しても生き残っているあたり、「生き残る才能」はあったと見るべきだろう。
  8. 最後の最後に今まで負け続けた曹操に勝ち、漢建国を象徴する都市である漢中を奪取したというのが歴史の妙である。
    • というか、この瞬間こそが劉備&蜀の最盛期であった。
    • ただ蜀の成都は、光武帝の時代に天下分け目の最終決戦が行われ、二十八将の仲間殺されてキレた呉漢が血の海に変えた都市。その後も反漢王朝を掲げる反乱が起きてた地で、漢王朝再興を唱えるのは皮肉以上の何者でもない。
  9. 耳が異様に大きく、手が非常に長かった。
  10. 演義では漢王朝復興を目指す理想家のように書かれているが、実際は極めて現実家だったようだ。
  11. 演義では正反対の人物像の劉備と曹操だが、実際は非常に良く似たタイプだったようだ。
    • 曹操の劉備評「劉備は私と同じだ。ただ奴のほうが計略を思いつくのがわずかに遅いにすぎない。」
      • 実際曹操も荀彧という名参謀を得るまでは結構負け続けている。荀彧を得てから飛躍的に伸びたわけで、その辺りも劉備とよく似ている。
        • 参謀を得たのもやっぱり「わずかに遅い」ということだったわけね。

後主(劉禅)[編集 | ソースを編集]

  1. 劉禅の幼名「阿斗」が、暗愚な二代目の代名詞になるくらい昔から嘲笑されてきた人物。
    • 現代中国語の辞書がアルファベット順なので、阿斗は読みがA Douだから、大概1ページ目に載っている。意味は「ばかもの」とか。
    • 阿斗の名を有名にしたのは毛沢東。
  2. しかし、そんな彼が40年間も蜀を平和に保ち得たことには、みんな目をつぶっている。
    • その治世は、宰相役によってほぼ10年ずつ、諸葛孔明時代、蒋琬時代、費禕時代、最後期と分けられるが、蜀がおかしくなったのは費禕が死んで、それまでおとなしくさせられていた姜維がやたらと軍事行動を始めてからの最後の10年だけ。
    • ちなみに最後期の宰相が誰だったのかよくわからない。孔明の息子の諸葛瞻ではないかという研究者も居る。彼が成都陥落前に絶望的な抵抗を試みるのは、姜維を抑えきれなかった責任を感じてのことではなかったか……ということらしい。
      • まず董允が亡くなって黄皓がしゃしゃり出してきた。とどめが費禕の死去。
  3. 魏軍に攻め込まれると、成都が戦場になる前に降伏し、無駄な犠牲を避けた。
    • 魏から送られた安楽公の称号は、その決断を称える意味もあったと思われる。
      • ちなみに「安楽」は地名にあり、幽州漁陽郡の県のひとつ。つまり、親父の故郷の近く。
        • 与える封邑の名前に人物の評価を込めるということは中国ではよくおこなわれていたので、やはり偶然の称号ではなかったと思います。
    • しかし、その配慮も姜維の無謀なクーデター計画で水泡に帰しました。
  4. 暗愚というよりは、他人に影響されやすい人だったというのが後世の歴史家の評価。
    • そうは言っても、何かと批判者や中傷者も多かったに違いない孔明・蒋琬・費禕に、本人が死ぬまでずっと変わらない信頼を寄せていたわけなので、動かされやすい人だったとばかりも言えなさそう。輔佐者に人を得さえすれば、名君とは言えなくとも暗愚と罵られるほどのことにはならなかったのではあるまいか。
      • 生まれた時代が悪かったとしか。乱世を乗りきれる器ではなかった。平和な時代なら「ちょっと微妙なお殿様」で済んだかも
  5. 成都の武侯祠にはかつては彼を祀る像があったが、何度も壊されて今は無い。
    • でも河北省保定市涿州の三義宮には、「小三義殿」という場所があり、そこに、関興・張苞とともに祭られている。
  6. 彼の子孫は4世紀の戦乱で絶滅。ただ、一人だけ生き残ったのが蜀地方にかろうじて逃亡した。
    • 実は彼の子孫ではなく、彼の弟の子孫。
  7. 「反三国志」では徐盛の部下によって暗殺されてしまう。当時の創作作家も嫌っていたようだ。
  8. 弟の劉永は大嫌いだが、別の弟の劉理が大好き。劉理の子孫が夭折し続けて、その血統が絶えてしまったことを猛烈に悲しんで、後宮にこもりがちになっている。その頃から、黄皓が台頭し・・・。

関連項目[編集 | ソースを編集]

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