丹波慎也

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丹波慎也(たんば しんや、1978年? - 1995年8月17日)は、高校野球における、知る人ぞ知る伝説の名投手。横浜高校野球部在籍のまま夭逝した(享年17歳)。身長184cm、体重82kg。

概要[編集]

  1. 横浜高校野球部歴代No.1選手と言われる。
  2. 渡辺元智・元監督が「50年の指導歴の中でナンバーワン」と語ったほどの選手であった。
    • 「同年代であれほど慕われた選手は他にはいない」とも。
  3. 横浜高校野球部OBには、松坂大輔、筒香嘉智をはじめとして錚々たる顔ぶれがそろっているが、その中でのナンバーワンである。
  4. 渡辺元智・元監督の教え子からは、大学・社会人(あるいは両方)経由を含めて40人以上がプロ入りしている。

上地雄輔との関係[編集]

  1. タレントの上地雄輔は、少年時代の夢は「プロ野球選手」で、中学時代は野球部で捕手として全日本選抜メンバーとして世界大会に出場し、高校進学時には野球強豪校38校からスカウトを受けていたほどのすごい選手だった。
  2. 上地が中学3年の夏、第76回全国高等学校野球選手権大会(1994年)の神奈川県予選・準決勝で、かつてのチームメイト(先輩)が多く出場していた横浜商工高(現:横浜創学館高)と横浜高校の対戦をテレビで観ていた。
  3. 当然、応援は横浜商工高のはずだったが、横浜高校のピンチで終盤に出てきた背番号「11」の投手の投球に目を奪われる。
  4. その「背番号11」こそが丹波慎也。横浜のピンチを快刀乱麻を断つピッチングで救い、続く2回も投げて圧巻の投球。しかも二枚目。上地は「試合なんてどうでもよく」なり「この人の球を受けてみたい」と思うようになる。
  5. 観ていたテレビで解説者が「渡辺監督が『ピッチャー、今年はいい子が入りましたから楽しみですよ』と言っていたのがこの丹波なんですね」と言っているのを聞いて、丹波が当時一年生である事を聞いて二度びっくり。
  6. 上地は進学先を、木内幸男監督(当時)が率いる常総学院(茨城)に決めかけていたが、この試合直後に「俺、横浜高校に行く。」と言って急遽進路変更。
  7. 横浜高校からも誘いがあったものの、当時はすでに上地の候補からは外しており、両親は驚いたという。
  8. かくして「横浜高校で松坂大輔の球を受けた事がある」上地雄輔が誕生した。
    • 松坂大輔の学年は上地の1つ下。上記の通り松坂大輔で有名になっている上地だが、自身は「丹波慎也と松坂大輔の両方の球を受けた事」を誇りにしている。
    • なお上地自身は、2年生の時に正捕手の背番号である「2」を背負ったが、その年の夏の神奈川県予選で右ひじ神経断裂の大けがを負い、プロ野球選手をあきらめる事を余儀なくされる。

人物[編集]

  1. 上地が入った横浜高校の各学年にひとつづつある「体育クラス」(要するにスポーツ推薦枠のクラス)は、自身も含めてスポーツ・格闘技しかできないヤンキーみたいな男のみ(注:横浜高校は男子校)だったが、他の部活で入った生徒も丹波の評判でもちきりだったという。
  2. 上地が初めて出場した練習試合は、相手は去年テレビで観ていた横浜商工高。相手投手は中学時代に上地がバッテリーを組んでいた投手、横浜高の投手はもちろん丹波慎也だった。
    • 試合には勝ったがものの、上地自身に肝心の練習試合の記憶はない。
    • 試合後に丹波から「すごい良かったぞ」と言われてウンコを漏らしそうだったほど嬉しかった事は覚えている。
  3. 上地が一年生の頃、部活には上下関係があったが、先輩連中は上地に暖かく接してくれ、丹波は後その中でもとびぬけて優しかったという。
  4. 二枚目だが、女子(他校)からキャーキャー言われても黙々と練習をこなし、マスコミから取材を受けても淡々と受け答えをするほど驕らず、冷静で真面目だった。
  5. 成績も常に学年トップクラス。モデル並の容姿と長身(184cm)、野球は当然上手く、野球部ではチームのムードメーカー…という、昔のクサいスポ根漫画の登場人物にもいないような、絵にかいたような優等生でもあった。
  6. 1995年夏の新チーム結成で、丹波はエースで四番、と文字通りチームの大黒柱となった。
  7. 松坂大輔が入学した時「丹波さんみたいになれればいいな」と言っていたという。

選手としての特徴[編集]

  1. 夭逝した上に甲子園などの大舞台に出る事がなかったため、記録や動画はおろか静止画ですらほとんど残っていない。わずかに残る資料から右上手投げで、豪速球でなく、速球のキレで勝負するタイプだった事がうかがえる。
  2. 新チームでの成績は、全て練習試合ながら、4試合でノーヒットノーラン2回、打者としても3本塁打を記録している。

突然の死[編集]

  1. 新チーム発足直後の1995年8月17日、寝ている間に死亡。死因は心臓肥大による急性心筋梗塞。前日までごく普通に生活しており、当然入院していたわけでもなく、突然死だった。
  2. 亡くなった当日も野球部員は「丹波(さん)は遅刻か?」などと言っていたところ、合宿所に集められて死亡が知らされた。
  3. あまりにも突然の死だったため、野球部員は、聞いた当初は事実を受け入れることができないほどだった。
    • 相当混乱していたようで「丹波が死んだ?(身体が)まだあったかいんだから、何とかなんだろ?」などと言い合っていたという。
  4. しかも翌日から秋季大会の県予選が始まる、というタイミングだった。

影響[編集]

  1. 突然チームの大黒柱を失った横浜高校は、戦力的なショックに加えて精神的なショックで、翌年のセンバツがかかる秋季大会の出場辞退も検討したという。
    • が丹波の母親が渡辺監督(当時)に「何としても慎也のためにためにやってくれ」「慎也からそういう声が聞こえた。すぐやってください」と机を叩きながら懇願。
      • 丹波のユニフォームで作った、丹波の母親手作りのお守りを手に、見事秋季大会を勝ち進んで第68回選抜(1996年)に出場した(初戦敗退)。
  2. わずかの期間ながら丹波が背負っていた背番号「1」は欠番とされ、投手は丹波の存在のため控え投手(兼外野手)に回っていた松井光介(現ヤクルトスワローズスコアラー)が務めた。
  3. 同じチームで1996年夏の第78回全国高等学校野球選手権大会にも丹波を欠いた状態で参加、甲子園出場を果たしている(3回戦敗退)。
  4. 横浜高校の野球部・横浜高校長浜グラウンド脇には、丹波を偲ぶ石碑(レリーフ)が建てられている。
    • レリーフには投球する丹波の姿とともに「横高野球部に栄光あれ 信念 1995年夏 丹波慎也」と刻まれている。

兄・丹波幹雄[編集]

  1. 4歳年上の丹波の実兄・丹波幹雄も、弟と同じ横浜高校に投手として進み、1年の秋からベンチ入りするなど活躍を期待されていた。
    • が、肘の故障のため、2年春に退部、その後は野球から離れていた。
    • 慎也が亡くなる直前、慎也の方から急に「キャッチボールに付き合ってくれ」頼まれて相手を務めたとき、慎也から「まだやれるじゃん」と言われ、それが後に幹雄が野球を再び志すきっかけとなった。
  2. 弟の遺志を継ぐため、肘を手術した上で慎也没の翌年・1996年からクラブチームで野球を再開、1998年のドラフト会議でヤクルトスワローズに8位指名されて投手として入団した。
    • 何の偶然か、そのドラフトの目玉は松坂大輔。自身と弟・慎也の後輩であった。
    • 松坂大輔は一位指名、丹波幹雄は最下位指名。契約金なしでの契約だった。
  3. 弟をしのぐ堂々たる体格(193cm・94kg)の投手だったが、高校時代のケガの影響もあってか一軍で投げることはなく、2002年に戦力外通告を受けた。
  4. リアル「タッチ」
    • 「弟が果たせなかった事を兄が実現した」ため。

参考リンク[編集]




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