作家伝/日本
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平安時代の作家たち[編集 | ソースを編集]
清少納言[編集 | ソースを編集]
- 王朝の林真理子。
- 容貌も林真理子系であったふしが。
- 納言を不美人とするのはどれも少し後の史料なので、実際の所はやはりわからない。
- いやいや、ほかならぬ枕草子に、「俺はたとえ眼がタテにつき鼻がヨコについていようとも、愛嬌があって首筋がきれいで、声が色っぽい女が好きなんだ」と口説かれた話が出てきます。これ、美人を口説く時のセリフじゃないよね。
- この発言は藤原行成が女房たちに対して言ったもの。しかもこの後直ぐの内容からこの時は未だ行成は納言の顔を見ていないから、やっぱり参考にならないと思われ。
- そもそもこの頃の美意識自体が今とだいぶ違うのでなんともいい難い。平安貴族は通い婚で、夜這いの暗がりで初めて姿を見るなんてのが当たり前。首筋や声を強調してるのはそんな環境でも相手に伝わる要素だからで、むしろそれを備えていることこそが「美人」だと主張しているわけね。
- いやいや、ほかならぬ枕草子に、「俺はたとえ眼がタテにつき鼻がヨコについていようとも、愛嬌があって首筋がきれいで、声が色っぽい女が好きなんだ」と口説かれた話が出てきます。これ、美人を口説く時のセリフじゃないよね。
- 納言を不美人とするのはどれも少し後の史料なので、実際の所はやはりわからない。
- 清少納言を筆頭とする日本の随筆は「私はみんなとは違う美意識を持っているのよ」と、他の人が誉めないもののすばらしさを記すのが普通であった。しかし、林真理子は「私もみんなと同じなのよ」という随筆を書いた、らしい(高校の古典の教師曰く)。
- 蜘蛛の糸なんて気持ち悪いのに、清少納言は「朝露に濡れているときれい」と、誉めたりとか。
- ってことで、どっちかというと清少納言の美意識は当時の標準からはみ出しているのに、現代ではそれを平安時代の代表作として学生に教えられてしまう。どうなんだろ。
- 容貌も林真理子系であったふしが。
- 森羅万象を自分の美意識だけでズバズバ斬ってゆくさまはなかなか爽快。
- 中宮・定子に仕えた。
- むしろ定子が清少納言の才能を引き出したと言えるかもしれない。なかなか教養のあるすぐれた女性だった模様。
- 更に適度に茶目っ気があって、納言同様、当意即妙に優れる。その上美人とくれば、一条天皇が溺愛するのも当然だろう。
- 定子はドS。
- 清少納言がヘコむ顔が見たくて、清少納言が残ると賭けていた雪山を、期日の前日夜にこっそり撤去させる。
- 美人で茶目っ気があって、更にドSとか最高ですね(ドM感。
- これに関しては清少納言が妬まれるのを防ぐためにやったという説もあったはず。
- 後世の人に「せいしょう・なごん」と、変なとこで切られて呼ばれるのを、もどかしく思ってる。
- この項を書いている人の中にも、変なとこで切ってるのが居るみたいだぞ。
- 清原さんちの少納言さんの娘さん、ですからね。
- 近年では幼女大好きロリコンのダメレズ大人キャラが定着しつつ…
紫式部[編集 | ソースを編集]
- 自分の小説のヒロインの名前で呼ばれるようになり、本名は忘れ去られた人。
- 小説家としては本望というべきか、残念というべきか……
- 夏目漱石を「猫文学士」と呼ぶようなものだからなあ。
- 芸能人でたとえるなら「愛と誠」の早乙女愛か。
- しかし何故か娘の本名は記録に残っている(藤原賢子)。
- 後冷泉天皇の乳母だったからね。当時は天皇の生母嫡母准母乳母のどれかにでもならない限り女性の本名は記録には残らなかった。
- 小説家としては本望というべきか、残念というべきか……
- 近年「源氏物語の作者は男だった」という説が唱えられているが、今のところは珍説の域を出ていない。
- お産のシーンの描写が、自分で子供を産んだことのある人が書いたものとは思えない……というのがその説の根拠らしいが、自然主義の写生文みたいなことをこの時代の小説に求めても無理である。
- 近眼だったらしい。
- 文章の中に、風景の描写が著しく少ないのでそう推定できるとか。
- 源氏物語ばかり有名だが、「紫式部日記」もなかなか面白いぞ。
- 同時代の有名人についていろいろ書いてある。
- 清少納言はボロクソ。赤染衛門はベタ褒め。和泉式部は辛口ながら認めている模様。
- 藤原道長に口説かれたなんて話も。
- ただしその後この話が発展した形跡は無いので、道長が本気だったとは思えない。
- 逆に道長は本気だったけど紫式部は本気じゃなく、結果的に道長はフラれた→道長がウザかったから日記には書かなかったって可能性は無いかな?
- 源氏物語では怨霊の話を書いたが、日記だと「怪異は見る人の心の問題」とバッサリ。
- 迷信ずくめなのが常識な平安人としてはかなり異例な意見で、周囲から浮いてそう。こうした冷静な見方が出来たから源氏物語のような近代でも通じる小説を書けただろうけど。
- 同時代の有名人についていろいろ書いてある。
- 葵の上をとっととフェードアウトさせたのには文句を言いたい。
- なぜか植物の名前にもなっている。
- 昔の言い伝えでは「嘘の色恋を書いたため地獄に落ちた」と言われたこともある。
- そのため源氏物語ファンが紫式部の墓の隣に元閻魔庁勤務の官僚の墓を持ってきたそうな。
- 平安の紫式部、昭和の高橋留美子、etc。日本のラブコメは女性が進歩させてきた。
和泉式部[編集 | ソースを編集]
- 激しく愛し激しく憎み、それらを赤裸々に三十一文字に詠い上げた情熱の歌人。
- 女性がこれほどに自らの愛欲を官能的に綴った文学は、西洋ではほぼ一世紀後のエロイーズ書簡まで出てこない。
- そのエロイーズも、散文(手紙文)であるだけにやや理屈っぽいところがあり、和泉式部の表現のダイレクトさには及ばない。
- 兄弟を同時に愛したり、メンス中なのに男に迫ったり、カーセックス(牛車の中で)に没頭したりと、行為だけ見ると色情狂みたいだが、そういう自分をどこか透徹した視線で見て和歌に詠い上げているようでもある。
- 清少納言をエッセイスト、紫式部を小説家とするなら、和泉式部は何よりも詩人であったと言える。
- 女性がこれほどに自らの愛欲を官能的に綴った文学は、西洋ではほぼ一世紀後のエロイーズ書簡まで出てこない。
- 「和泉式部日記」という随筆集もある。これも読みようによってはけっこうエロい。
- お墓が全国各地に散らばっている。どこが本物だ。
- 浮いた話のあまりの多さに藤原道長も「浮かれ女」と嫌味をかましたが、それに対しても歌で反駁した。
- 恋愛歌でよく登場する「逢坂の関」を引き合いに出しつつ、「人の恋路の出入りを関所の番人みたいに毎度ゴチャゴチャ言うなんて、野暮な男ねw」という感じ。
- 人生最後の伴侶は、彼女より18歳下である。
小式部内侍[編集 | ソースを編集]
- 和泉式部の娘。ママ同様恋多き女性だった模様。
- 「実はママが全部作っている」という噂を歌であっさりと否定した。
- その代作疑惑をあっさり払拭したのが百人一首に採られている「大江山~」の歌
- 親子二代続けて、自分に向けられた嫌味を歌で論破するとか凄いわ……
大弐三位(藤原賢子)[編集 | ソースを編集]
- 紫式部の娘。ママのように毒舌だったかは不明。
- 後冷泉天皇の乳母として仕えたためか、ママと違い本名が分かっている。
菅原孝標女[編集 | ソースを編集]
- 『更級日記』の作者。藤原道綱母の姪だが、道綱母のように美人だったかは不明。
- 美人ではなかったと想像する人が多い。
- ただ宮中に仕えた時、家族からは「お前が居ないと寂しいから宮仕えを減らしてくれ」と懇願され、減らしたら今度は同僚から「もっと宮中に来てほしい」と請われ板挟みになっているから、周囲から愛される人柄ではあったっぽい。
- 多分、元祖腐女子。
- 紫式部を腐女子とする人もいるけど、この人は美形好きだが、もう少し冷めた目で源氏らを描写しているので違うと思われ。
- 源氏物語が読みたいあまり、仏像を彫らせて一心不乱にお願いするお茶目さん。
なにそれこわい実に萌えるよね! - 後から若かりし頃を黒歴史認定するのも昨今のオタに通じるものがある。
- 物語に憧れまくった結果、とうとう自分でも話を書く様になってしまったらしい。
鎌倉時代の作家たち[編集 | ソースを編集]
吉田兼好[編集 | ソースを編集]
- 鎌倉版野村克也。
- とにかくぼやく。ぼやかな損というくらいにボヤく。まさしく、ぼやいてばっかりマン。
- ぼやきまくった挙句、本にした。
- ノムさんは神の子を育てたが、吉田は神の家に育った。
- とにかくぼやく。ぼやかな損というくらいにボヤく。まさしく、ぼやいてばっかりマン。
- 何にでも、物事を教えてくれる先輩は必要だと述べた。
- そのくせに、自分は他人に物を教える気はないからといって、教えることを嫌がった。
- 実は、和歌に長けていたらしい。
- 因みに、ノムさんも珍川柳を残して対抗している。
- 副業でラブレターの代筆もやってた。
室町時代の作家たち[編集 | ソースを編集]
宗祇[編集 | ソースを編集]
- 連歌の完成者。
- 出生も本来の身分も明らかではないが、各地の大名小名にひっぱりだこ。生涯旅暮らしだった。
- 相手の身分にかかわらず誰とでも同席できたので、大変な情報通になっており、各地の有力者はその情報を求めて宗祇を優遇した。
- 茶の湯が普及するまでは、連歌の会が上層階級の代表的な社交場となっていた。宗祇はその基礎を築いたと言える。
江戸時代の作家たち[編集 | ソースを編集]
松尾芭蕉[編集 | ソースを編集]
- 俳句の完成者。
- 連歌や俳諧の「発句」と呼ばれる五・七・五の部分を、独立した文芸作品(世界最短の詩形)に仕立て上げた。
- 今や「HAIKU」は世界中で親しまれている。
- 東北地方を大旅行して紀行文を書く。
- 東北だけではなく実はいろんなところへ行っているが、名紀行文のおかげで東北旅行だけが有名。
- 月日は百代の過客にして...
- 忍者だったという噂がある。
- 伊賀を領していた藤堂家の家臣だったというのが第一の根拠。
- 「おくのほそ道」を信用する限り、一日で60キロくらい平気で歩いていることがあり、常人には無理じゃないかというのが第二の根拠。
- おくのほそ道に状況少々美化されて書いていることを曾良に暴露される。
- 閑かさや、のあの句の蝉の正体はニイニイゼミ。
- 斉藤茂吉がアブラゼミと断定したが、後に間違いだと分かる。
近松門左衛門[編集 | ソースを編集]
- 日本のシェイクスピアとも呼ぶべき日本史上最大の劇作家。
- 荻生徂来が「曽根崎心中」の道行場面の文章に脱帽したのは有名。
- 多くの庶民が近松の芝居や浄瑠璃で「正統な日本語」を学んだ。その意味でも英国におけるシェイクスピアと似た位置にあると言える。
- シェイクスピアと大きく違うところは近松門左衛門の書いた話のストーリーが現代の一般人に伝わっていないというところか。
- もとは武士だったらしい。
- ドロップアウトした武士が戯作者、小説家になるというのは、ままある。
- 作者名をはじめてクレジットした。日本の著作権の先達でもある。
- 最初の頃は不評で、「やめさせたき物 近松の作者付け」とまで評された。どんだけ自己顕示欲の強いヤツだと思われたらしい。
- 自己顕示欲が無かったとは言えないが、むしろクレジットすることで自分の作品に責任を持つという意味合いが大きかったと思われる。
- 最初の頃は不評で、「やめさせたき物 近松の作者付け」とまで評された。どんだけ自己顕示欲の強いヤツだと思われたらしい。
- 歌舞伎の台本も書いたが、本領が発揮されたのは浄瑠璃。
- 竹本義太夫という天才と組んだのが良かったようだ。
- 心中物が得意分野。
- 心中の事件が起こるとすぐに取材に行き、一月たらずで上演させてしまうフットワークの軽さ。
井原西鶴[編集 | ソースを編集]
- 元禄文化というとだいたい近松門左衛門とペアで取り上げられる人。同じく大阪の人。
- 近松が心中とか理想を描いたのに対し、西鶴はどっちかというと現実的な商人像を描いているらしい。けれども好色一代男等の色物、もとい好色物も。
- 嫁さんをめとるのにも、幻滅したくないから、と一番好きな人ではなく二番目を選んだとか。現実的なのか。
- 三十三間堂の通し矢よろしく、1日で何句読めるかに挑戦、23,500句読んだそうです。それ、ほんまに句と言える代物やったんか?
- 4秒で1句詠んだ計算。仮に詠めたとしても、句というよりただの言葉の羅列だろう。
- 記録する方も、最初は句を書き留めていたが追いつかなくなり、句数をカウントするだけになった。
- 好色一代男の結末はえげつなく精力的(エロい意味で)。
曲亭馬琴(滝沢馬琴)[編集 | ソースを編集]
- 日本初の「プロの作家」。
- 原稿料や印税以外に収入の道が無かったという意味で。それ以前の作家はなんらかの副職もしくは本業を持っていた。
- 代表作は『南総里見八犬伝』。
- 明治以前では最長の小説。
- さまざまな伏線が絡み合った複雑きわまる大河小説で、確かにスケールは大きいのだが、最終的なクライマックスが千葉県の先っぽでの領地争いというのはちょっとがっかり。
- 後半は視力を失ったので、口述して息子の嫁に書き取らせた。
- 息子に書き取らせたかったのだが、早死にしてしまったので、やむなくその嫁を起用。
- 嫁の本来の学力はひらがながようやく書ける程度だったらしい。それで難しい熟語やら故事成語やらがぽんぽん飛び出す馬琴の文章を口述筆記するのだから、地獄の苦しみだっただろう。馬琴も嫁も、しばしばぶち切れていたという。
- しかしこの強引なスパルタ教育のおかげで、この嫁は晩年には自分でもかなりの名文を書く女流文筆家になった。人間、やればできるものである。
- 全98巻、完結に28年かかったので、完結前に死んだ読者もいた。馬琴先生あの世に行ったら、先に来ていた読者に続きをせがまれただろうなあ。
- 他にも『椿説弓張月』『傾城水滸伝』など作品多数。ほとんどが長編。
- 若い頃に三国志演義や水滸伝を読んで、こんな大スケールの小説を書いてみたいと夢見ていたらしい。『グイン・サーガ』の栗本薫さんと同じですな。
- 『傾城水滸伝』は女体化水滸伝。それなんて恋姫無双?
- まあ、既に「乙女絵巻&乙女遊戯『水滸伝』」とかありますが・・・。
- ただし、傾城水滸伝の読者は女性で、この本のせいで「うちの娘が荒っぽくなって困る」と言われたほど。時代の差でしょうか。
十返舎一九[編集 | ソースを編集]
- 江戸時代後期に活躍したユーモア作家。
- 滝沢馬琴と同じく、他に収入の道を持たない専業作家だった。
- 代表作は『東海道中膝栗毛』。
- 主に会話で進んで行く小説なので、現在読んでもまったく違和感なく読めるし笑える。古文を学習し始める時はこれを使えばいいのに。
- シモネタが多いので、学校では無理かな。
- そもそもヤジさんキタさんは、おホモだちだし…。
- シモネタが多いので、学校では無理かな。
- 旅行案内にもなっている。この本を携えて旅行する人も珍しくなかったらしい。
- 人気があったので、続編が次々と書かれ、弥次さん喜多さんは日本中を旅することになる。
- 小説中に作者が顔を見せるというギャグ手法の元祖。
- 仮名垣魯文に「西洋道中膝栗毛」というパロディ?小説を書かれた。
- 主に会話で進んで行く小説なので、現在読んでもまったく違和感なく読めるし笑える。古文を学習し始める時はこれを使えばいいのに。
- 狂歌の名手でもあった。
- 『膝栗毛』にも無数の狂歌が挿入されている。ダジャレ・語呂合わせの連続で、その意味でも古文の授業で扱うべき。そこから古歌の掛詞とかにつなげていけば、古文の嫌いな学生など居なくなるだろう。
- 辞世の句も狂歌。「この世をばドレおいとまにせん香のけぶりとともにハイさやうなら」
- 「この世をば」が藤原道長の歌の本歌取り、「おいとまにせん(しよう)」と「線香」が掛詞、「(線香の)煙」と「ハイ(灰)」が縁語。わかりましたね~~??(^o^)
- 旅に行った際はいつもメモを取ってばかりで同行者に「少しも面白くない」と評されたらしい。
- 自分用の死装束にあらかじめ爆竹を仕込んでいた。そのため、荼毘に付したらいきなり花火大会になるという悪戯をやってのけた。
明治以降の作家たち[編集 | ソースを編集]
夏目漱石[編集 | ソースを編集]
- 小学生くらいの子供に上げると喜ばれる。
- 親に忌み嫌われていた。
- 金持ちの家なのに何度も奉公に出したほど。
- しかも、この親は他人(自邸の書生)には、ポンと金を弾んでいるなどしている。
- 英語がめちゃくちゃ得意だったらしい。
- 当時の東京帝大英文科卒、イギリスに国費留学の超エリート。そこらのぽっと出作家とは基礎が違う。
- 住んだこともないのに北海道に籍を置いていた。
- 徴兵を逃れるためだったらしい。このことでもずいぶんと悩んでいた。
- 熊本を森の都と読んだらしい。
- しかし、浸透せず、今となっては杜の都=仙台市となっている。
- 「肩が凝る」とか「新陳代謝」、「電力」などの言葉を生んだ。
- ・・・と、よく一般に言われるが、実は江戸時代から「肩が凝る」という言い方はあった。
- 「簡単」を「単簡」にしたり「喧しい」を「八釜しい」とする言葉遊びをやってた。
- たしか脳みそが東大に保管されてるんだっけ?
- "I love you"を「月がきれいですね」と訳したことでも知られる。
- このフレーズは韓国でも有名で韓国ドラマでも引用される
- しかし、夏目漱石は「満韓ところどころ」で韓国人に対する人種差別発言も行っていた問題がある。
- 一方で、軍国主義と徴兵を嫌っていた側面もあり、侵略戦争にはあまり肯定的ではなかった。英米法系個人主義を愛していた。
- ぶっちゃけ人種的な偏見というよりは「いや汚いやつはどこのどいつだろうが汚いからやだよ」的な感じではあるのだが・・・(もちろん今言ったら問題になるけど)。大体漱石は松山だろうが倫敦だろうがこいつらほんとクソだな!がデフォの人で、それはそれとして個人の付き合いは誰相手でもちゃんとするというタイプなので。
- しかし、夏目漱石は「満韓ところどころ」で韓国人に対する人種差別発言も行っていた問題がある。
- このフレーズは韓国でも有名で韓国ドラマでも引用される
- 毎日のようにジャムをなめていたという。
- 自己作品でこの街をけなした挙句「不浄の地」と全否定しやがった。
- まぁまぁ…道後温泉を「温泉だけは立派なものだ」と褒めてんだからさぁ。
- ミレニアル世代にとっては、千円札といえばこの人。野口英世しか見たことがない人はZ世代。
田山花袋[編集 | ソースを編集]
- はっきり言う。このエロオヤジが!
- 島崎藤村よりはマシであろう。
- ご当地の噂を集めまくった男でもある。
- なかなかええ文章を書いている。今の時代の読みに直してもう一回売りだすとええかもしれん。
- ご当地の伝説を集めまくった柳田國男とお友達だった。
- 長生きで昭和期にお亡くなりになったため、バカ人物志に書けないのが残念。
- 温泉愛好家としても有名。
- 温泉マークに行っていたかどうかは不明。
正岡子規[編集 | ソースを編集]
- 2ちゃんねる某所で大人気。
- やきうのお兄ちゃんの元祖的存在。
- でも実はやきうとは言っていない。
- 野球という翻訳を作ったのは誰というクイズでなんJ民がみんな間違えて正岡子規と答えてしまったせいで、「正岡民」と揶揄されるようになった。
- 正岡子規は自分の雅号を野球としていただけで、ベースボールを野球と訳したのは中馬庚だった。
- 野球という翻訳を作ったのは誰というクイズでなんJ民がみんな間違えて正岡子規と答えてしまったせいで、「正岡民」と揶揄されるようになった。
- 上野公園内には子規の名を冠した草野球場がある。
- の・ボール。
- でも実はやきうとは言っていない。
- やきうのお兄ちゃんの元祖的存在。
- 文豪界における愛媛の二大巨塔。
- もう一人は、松山を貶しまくった東京生まれの御方。
- 両者が親友だったというのは何かの縁か。
- 松山を俳句一色に染めてしまった男。
- よもや本人もそうなるとは思わなかっただろうな。
内田百閒[編集 | ソースを編集]
- 漱石山脈の奇峰。
- 得体の知れぬモノがひたひた迫ってくるようなホラーの「冥途」を書いたと思えば、独自のユーモア満載な随筆を出したりと、多彩。
- 旧仮名遣いへのこだわりが強く、没後の刊行物についても本人の遺志により改変不可とされていた。
- 平成元年以降に刊行された文庫に限り、遺族の許諾ありという理由で新字や新仮名遣いが用いられている。
- 多趣味。特に、琴、猫、鉄へののめり込みようが凄かった。
- 琴:宮城道雄から直接指導を受けていた。後に師弟の関係を超えた親友となっており、宮城が著作を出す際に執筆指導をしている。
- 猫:拾った野良猫を溺愛しており、猫が死んでしまったときの悲しみを隠さず表現した随筆『ノラや』などはペットロスを描いた文学の先駆けと言える。
- 鉄:筋金入りの乗り鉄。「なにも用事が無いけれど」汽車でアチコチ行ってくる様を描いた『阿房列車』シリーズは現代の乗り鉄も読んでおきたいもの。
- 宮脇俊三氏は、自身の先達である人として内田に私淑していた。
- 「イヤダカラ、イヤダ」と、日本芸術院への入会推薦を拒絶した。