大阪市の寺院
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北区[編集 | ソースを編集]
太融寺[編集 | ソースを編集]
- なんとなく、大人向けな感じがする……
- 門を出ると広がる兎我野町のラブホ街と風俗店街。道を行く少し妖しいスーツケースのお姉さま方や、何かの送り迎えっぽい車。大人向けな街である。
- 昼間は場所柄を感じさせないほどに静か。
- 実は結構歴史あり。
- ぼけ封じの観音さんがいる。
- 神仏霊場巡拝の道の順番で行くと1つ前が大阪天満宮で近いのに、次が槇尾山施福寺とめっちゃ遠い。
- 新西国三十三箇所の第2番札所。
- 因みに第1番札所は四天王寺だが、1番と2番の間に客番として天王寺の清水寺が入っている。
鶴満寺[編集 | ソースを編集]
- 大阪市北区
- 長柄にあるこじんまりとしたお寺。
- 特になんもないように見えて実は鎌倉時代の仏像なんかもある、そこそこ由緒ある寺。
- 桂雀々
- 彼の持ちネタに鶴満寺というネタがあるが、それによれば、嘗てはものすごい桜の名所やったらしい。
- 新西国三十三箇所の第3番札所。太融寺から歩いて15~20分くらいなので、簡単に回れる。
国分寺[編集 | ソースを編集]
- 大阪市北区
- 通称長柄国分寺。
- 国分寺建立の詔を聖武天皇が出す以前から長柄寺という名前で存在していたと寺伝にある。
- 真言宗国分寺派大本山だったりする。戦後の分派だけどね。
- 独立前は、あるときは教王護国寺の末寺となったかと思えば、あるときは東大寺や長谷寺の末寺になり、かと思えば住職同士の付き合いで山階派に入ったりと結構入れ替わりが激しかった模様。
- 動乱のたびに境内を縮小している。歴史のある割に結構悲惨。
- 大阪の陣で燃えて境内縮小。
- 明治維新の廃仏毀釈で荒れて境内縮小
- 大阪大空襲で米軍に焼かれて、また境内縮小。
- 本尊阿弥陀仏は聖徳太子の作、赤不動尊は空海の作らしい。大阪大空襲で全部燃えてなくなったけど。
福島区[編集 | ソースを編集]
了徳院[編集 | ソースを編集]
- 大阪市福島区鷺洲2丁目
- 浦江の聖天さんとか福島の聖天さんと呼ばれている寺院。
- 山門と白髭稲荷以外は、大阪大空襲で焼けてしまったため、戦後再建されたものだったりする。
- 山門は江戸期の建築。龍の彫刻がある。
- 昔は、境内の池には大量の杜若が植わってたらしい。
- 松尾芭蕉も大阪在住時代にやってきて「杜若語るも旅のひとつ哉」という句を詠んでいらっしゃる。
- 歌川芳雪の描いた、浪花百景「うらえ杜若」はこの寺を題材としたもの。
中央区[編集 | ソースを編集]
三津寺[編集 | ソースを編集]
- 御堂筋に面した心斎橋の歴史ある寺。
- 大阪大空襲で、市内の寺社の多くが灰塵と化す中、幸運にも焼失を免れている。
- 庫裏は地上3階、地下1階建ての鉄筋コンクリート造で、外観を除けば味は1つもない。
- 本堂は第一回大阪府議会の議場となった。位牌堂の内装なんかは相当金が掛っているのが見て取れるが、江戸時代のものらしくいかほど行ったのかは分からんらしい。
- みってら~
- まっちゃまちとかと同じ論理ですわな。
- 寺の本殿に祀られた赤色のびんずるさんは撫でると健康になるらしい。
- びんずるさんは正確にはビンドラ・バラダージャとかいう仏様の一種らしい。
- ご本尊の十一面観音像は、1933年の御堂筋拡幅工事の時に切り倒されたクスノキを使って制作された。
北御堂[編集 | ソースを編集]
- 大阪市中央区本町
- 正式名は本願寺津村別院。西本願寺の別院。
- 「御堂筋」は北御堂と後述の南御堂を結ぶことに由来する
- 土地も道路用地として提供している。
- 「大阪の街は「大坂本願寺」寺内町からはじまった」とPRしている。
- かつては大伽藍が立ち並んでいたが現在は平凡な鉄筋コンクリート造りの建物があるだけ。
- 昭和初期にはどことなく京都の七条堀川あたりを思わせるような雰囲気だったが大阪大空襲により一変してしまった。
- 当時の写真ではこの寺からガスビルあたりまで瓦屋根の商家が続いている。
- 昭和初期にはどことなく京都の七条堀川あたりを思わせるような雰囲気だったが大阪大空襲により一変してしまった。
- オフィス街の真ん中にあるが閉門時間が16時とかなり早い。
- 業務終了後の参拝はまず不可能なのでビジネスマンが行くなら昼休みを狙うほかない。
- 朝鮮通信使の大坂での宿はここと決まっていたらしい。
南御堂[編集 | ソースを編集]
- 大阪市中央区久太郎町
- 正式名は真宗大谷派難波別院。東本願寺の別院。
- 既存の建物ぶっ壊して、ホテルを作ってるらしい。
- こちらも大阪大空襲で18世紀初めに建てられた見事な本堂など建築をことごとく失ってしまった。
- 古い写真を見ると京都の東本願寺や津の専修寺を思わせるいかにも雰囲気がある感じだった。
- 船場の商人たちがこの寺の鐘が聞こえるところで商売をしたいと願ったのも今や昔話。
法善寺[編集 | ソースを編集]
- 大阪市中央区難波
- 水掛不動で知られる。
- 多くの参拝者が水をかけるため現在は苔まみれになっている。
- この寺は千日念仏を行っていたため門前の街が「千日前」と呼ばれるようになった。
- 織田作之助が小説の舞台にしなければ全国区の名所にならなかった気がする。
天王寺区[編集 | ソースを編集]
四天王寺[編集 | ソースを編集]
- 日本初の官立寺院
- 現存する中では世界最古の企業が起こったのはここの造営事業の賜物。
- 数年前に一回倒産したけどね……
- どこかの傘下に入ったんじゃなかったっけ???
- 何気に法隆寺と同じくらい歴史が古かったりする。
- 数年前に一回倒産したけどね……
- 施薬院や悲田院など、ビスマルクもびっくりの社会福祉事業団を展開していたらしい。
- 宝物館は宝物の宝庫。国宝がゴロゴロ転がっている。
- 五重塔とあべのハルカスが同時に写せる場所があるが、11時以降だと逆光で絶対にうまく写せない。
- その五重塔は鉄筋コンクリート製。歴史的な価値はない…。
- 谷町筋側は三が日や祭りの時は必ずと言っていいほど混むが、裏側の上町筋側は基本的にガラガラだったりする。
- 自転車乗り入れが許されているみたい。いつ行っても誰かが絶対通り抜けている。
- 伽藍や庭園の外側は24時間365日常時無料開放されている。近隣住民は早朝のジョギングや通勤時の駅までの抜け道など、その辺の公園と同じような扱いで通りすぎて行く。
- その伽藍なども、天王寺博覧会の頃までだったかまでは常時開門してた。防火対策などの理由で現在の通り。
- 大阪の中心部であることを考えたら、いくらプチ高級住宅地や言うてもうるさいはずなのだが、ここは静か。
- 朝夕スピーカーから流れてくる寺の変な歌みたいな奴が一番やかましかったりする。
- 周囲には学校も多い。四天王寺自身も高校を経営している。
- ~ワッソ
- 韓国っぽいお祭り。(ですよね?見に行ったことはないもので)
- 百済だか朝鮮通信使だかその辺からのいわれらしいが、言い出したのが戦後だけに、どこまで事実なのか疑わしいと思う。
- 韓国っぽいお祭り。(ですよね?見に行ったことはないもので)
- どやどや
- 天王寺の地名の由来ともなった。
- 1年に何度か境内で古本市が開かれている。
- 境内の池には亀がいっぱいいる。
- 大阪、難波、四天王〜寺♪(byニコ厨)
勝鬘院[編集 | ソースを編集]
- 大阪市天王寺区
- 「愛染さん」として大阪では有名。
- 毎年6月30日~7月2日には「愛染まつり」が行われる。
- 大阪三大夏祭りの1つである。
- 毎年6月30日~7月2日には「愛染まつり」が行われる。
- 本堂である愛染堂の愛染明王像は正月と愛染まつりの期間だけご開帳される。
- 愛染まつりの期間中は他に大日大勝金剛尊が1年に1度だけご開帳される。
- 場所は四天王寺から谷町筋を挟んだ反対側。
- 愛染堂というと意外と見に行く人が少ないが本堂裏手の多宝塔がなかなかよろしい。
- 角度によっては後ろのマンションが背後に映ってしまうのが撮影時のネックだが、上町台地の断崖上にあるのを上手く活かすとそこそこ良いものが撮れる。
- 愛染堂の前の坂は愛染坂。下ってちょっと行った所にかつてあったのが愛染橋。
- 因みにお隣にあるのが狛虎で有名な大江神社。私、神道は絶許なんですという人でもない限りはまとめて言っときなはれ。
- また向かいにあるのが大阪府下でも有数の進学校として知られる星光学院さん。ここはカトリック系の高校だが神仏のみならず西洋の宗教まで同居するという奇妙な街がそこにはある。
円珠庵[編集 | ソースを編集]
- 大阪市天王寺区
- 悪縁を絶つ鎌八幡。
- 境内の大きな木の根っこに結構大きな鎌が刺さってたりする。縁絶ち祈念に訪れた人がやるんだろうけど……
- 真田山の山の上にある。と言ってやってもこじんまりとしていてあの辺りに詳しくない人は、迷う。
- あの国学者、契沖が開基。彼の墓も存在する。
- 境内は写真撮影禁止。縁を切りたいと願うほどの人がお越しになっている以上、生半可な気持ちでお参りなどしたらアカンし、静寂な環境を保つためには当然だわな。
- 因みに撮影したら機材事没収らしいので悪しからず。どうしても撮りたければ外から撮ろう。
道善寺[編集 | ソースを編集]
- 大阪市天王寺区
- 生玉さんの参道をまっすぐ谷町筋まで歩き、左へ折れてすぐの所にあるこれといってなんの特徴もないお寺。
- むしろやや近代的な感じさえ漂ってくる、ご利益のなさそうな寺である。
- 実はとある吉本芸人の実家として一部で知られているのがこの寺。なお本人も公表済み。
- 彼いわく人間の生と死を一手に引き受けているのが谷町9丁目というエリアらしい。
一心寺[編集 | ソースを編集]
- 浄土宗の寺だが、ほとんどどこの宗派でも受け入れる。
- 遺骨を10年間集めて仏像を作る骨佛寺である。
- 2018年9月現在、本堂は工事中である。
- 老朽化に伴う改装工事ね。
善福寺[編集 | ソースを編集]
- 通称どんどろ大師。
- どんどろには嘸かし由緒正しき由来があるのかとおもいきや、単純に土井さんって人が深く帰依していた事から「土井殿の御大師」と呼ばれ、それが訛って「どんどろ大師」になったとかいう。
- 元々は能勢の方にあったらしく、その頃には亥の子餅を宮中に収める際の祈祷を担う寺院だったとかいう話もあるが、それならなぜ市内へ移ってきたのか……
- 浄瑠璃『傾城阿波の鳴門』の舞台らしい。こんな小さい寺院でも、歴史は古いのである。
大応寺[編集 | ソースを編集]
- 大阪市天王寺区餌差町
- 木村兼葭堂の墓がある。
- 森川竹窓の墓もある。
心眼寺[編集 | ソースを編集]
- 大阪市天王寺区餌差町
- 真田丸跡地にある真田幸村・大助父子の菩提を弔う寺。
- 1622年(元和8年)に真田家の先祖海野氏の助力で建立された。
- 今も、墓はあるんやけどな、なんでか知らんけど、無駄に真新しい感じがすんのや。誰か墓石置き換えた?
- 山門の門扉に六文銭が刻まれている。
- 反幕府の人の英雄真田幸村を弔う寺だが、何故か幕末の京都見廻組の志士(佐幕派)も葬られている。
- 寺の前の坂の名前にもなっている。(心眼寺坂)
興徳寺[編集 | ソースを編集]
- 大阪市天王寺区餌差町
- 行基菩薩開基の寺院。
- 山門以外は全部大阪大空襲で燃えたため、戦後の再建物。でも山門は江戸期からの物で、歴史を感じさせる。
- その山門には今も焼夷弾の跡が残っている。こういった痕跡の数々が、歴史の生き証人のようであるように思える。
- 平成の初めころか昭和の終わり頃に、やたら馬鹿でかい准低観音像が建てられた。軽く10mは超えていると思うが、バブルの生き証人感半端じゃない。
実相寺[編集 | ソースを編集]
- 當麻曼荼羅の模写の中でも特にレベルが高いとされる曼荼羅を持っている。
- 模写が行われたのは鎌倉時代とか。
- 住友政友の墓がある。
誓願寺[編集 | ソースを編集]
- 寺の歴史は焼失と再建の繰返し。
- 1580年(天正8年)無宅天牛上人により創建されるも、大坂夏の陣の戦火ですべての堂宇を焼失する。その間たった30年余り。
- 元禄の頃に、再建されたとか。
- 大阪大空襲で再び伽藍の大半を焼失。今の本堂は1964年(昭和39年)の再建物。
- 1580年(天正8年)無宅天牛上人により創建されるも、大坂夏の陣の戦火ですべての堂宇を焼失する。その間たった30年余り。
- 井原西鶴の墓がある。
- 慈覚大師円仁作と伝わる本尊阿弥陀仏像がある。
- あくまで慈覚大師円仁作というのは寺伝なので、本当かどうかは不明。
圓通寺[編集 | ソースを編集]
- 摂津名所図会などを描いた丹羽桃渓の墓がある。
- 1598年(慶長3年)3月に伝誉牛澤上人が開基となって創建された。
- 寺の建造物は庫裏以外、すべて江戸中期に作られた歴史的価値のあるもの。
- 境内に池がある。その中に二重塔がある。
- 本尊阿弥陀仏像の下地の漆地が美しい。
- 源信作らしい。
増福寺[編集 | ソースを編集]
- 昔から檀家に本屋が多いらしい。
- 1602年(慶長7年)、良誉冥託上人が開基となり創建。
- ただし、本堂は1768年(明和5年)に焼失しており、今あるものは1773年(安永2年)の再建物。それでも十分歴史的価値はあるだろう。
- 山門は、創建当時の建造物。幾多もの焼失の危機を乗り越えている。
- 薄田兼相の墓がある。
藤次寺[編集 | ソースを編集]
- 天王寺区生玉町
- 谷九の南西角にあるお寺。
- 地味に九條家の勅願寺。だから、藤原氏の「藤」の字を寺号に入れている。
- 弘仁年間に藤原冬嗣が開基となって建てられた寺院。開山は藤原冬嗣の甥でもある仁瑞上人。
- 早い話が、藤原冬嗣が甥に仕事をやるために建てられた寺であるとも言える。
- 弘仁年間に藤原冬嗣が開基となって建てられた寺院。開山は藤原冬嗣の甥でもある仁瑞上人。
- 高野山真言宗の寺院。
- 御本尊は如意宝珠融通尊。因みに空海が彫ったらしい。
- 勿論そんな歴史あるものなので秘仏。
- 金策に困る大阪商人の信仰を集めたらしい。なんでも御本尊の名前から「お金の融通に御利益あるんやろ」と考えたそうな。
- 「白い巨塔」などで有名な作家の山崎豊子の墓がある。
浪速区[編集 | ソースを編集]
大乗坊[編集 | ソースを編集]
- 大阪七福神の1つで、毘沙門天が祀られている。
- 本尊はかつて60年に1回だけ公開されていたが、今は年2回(5月と11月の第2日曜日)公開が行われている。
- 日本橋のオタク街のど真ん中にある。
瑞龍寺[編集 | ソースを編集]
- 黄檗宗のお寺。
- 江戸期に鉄眼道光という偉い坊さんが再興したことから鉄眼寺の異名を取るようになった。
- 一切経の版木を彫ったとかなんとか。その版木は黄檗の萬福寺に収められており、今も経本の印刷に使われているそうな。
- 因みに版木の数は42,875枚にのぼり、すべて、重要文化財に指定されているらしいよ。
平野区[編集 | ソースを編集]
大念佛寺[編集 | ソースを編集]
- 平野のでっかい寺。寺内町を作っていた。
- 融通念仏宗の総本山。因みに創建は大治2年(1127年)。
- 御本尊は十一尊天得如来。なんやそれ・・・・・・?
- 鳥羽上皇の勅願寺だったらしい。
- 本堂は登録有形文化財。
- 本堂がとにかくデカイ。
全興寺[編集 | ソースを編集]
- 大念佛寺よりも由緒正しきお寺。
- 平野の歴史ある由緒正しいお寺。
- なんだけど、平成に入ってから珍スポット、仏教界のワンダーランド化が進行している。
- 【名物】極楽度・地獄度チェック!!
- 設問が10個あり、答えの内容で、自分が、死後、極楽に行くのか、地獄に行くのかが分かるという素晴らしいゲームができる。まさにパ~ラダイス by 桂小枝
- 因みに地獄に行くことになると地獄堂の中で、約10分間、リアルな閻魔様や鬼の模型に囲まれながら、地獄とはどういうところか説明してもらえるらしい。
- 何がヤバいって、あまりの怖さに大人でもビビって非常ボタンを押す人が居たりする。そんな寺でも日経新聞には寺のディズニーランドとか書かれた実績がある。
- 因みに地獄に行くことになると地獄堂の中で、約10分間、リアルな閻魔様や鬼の模型に囲まれながら、地獄とはどういうところか説明してもらえるらしい。
- 一部で、あまりに有名になりすぎたせいか、とうとう、中国人ユーチューバーに中国向けに紹介されるまでに至った。(日本語字幕あり)
- 設問が10個あり、答えの内容で、自分が、死後、極楽に行くのか、地獄に行くのかが分かるという素晴らしいゲームができる。まさにパ~ラダイス by 桂小枝
- 【名物】小さな駄菓子屋さん博物館
- 昭和の頃の、駄菓子屋にあったおもちゃの展示が秀逸。
- 地味に昭和の頃の、旧式パチンコで遊べるのはポイント高い。
- 住職が地域を大事にする方だからか、毎週土曜日に境内の一角でベーゴマやメンコで地元の子供を遊ばせたりするなど、素晴らしい活動を続けている。
- 地域の子供達向けに紙芝居も読んだりするとか。
- 御本尊の薬師如来は秘仏。
- だけど、毎年1月8日には御開帳される。
- 樋尻口地蔵堂の地蔵首を祀っている。
- この地蔵首、大坂の陣で真田幸村が徳川家康暗殺のために仕掛けた地雷を代わりに食らって、吹っ飛んできたものらしい。平野の地雷火として知られる逸話の地蔵首はこれ。
- 本堂は万治4年(1661年)に再建されたものらしい。ちゃんと歴史あるやんww
- 入口が、商店街のアーケードに直結する形。
- ネパールから取り寄せたというマニ車がある。
- 1回、回すだけで、お経を1つ読むのと同じ効果があるという触込みで、宣伝している。
長寶寺[編集 | ソースを編集]
- 大阪市平野区平野本町
- 大念佛寺よりも由緒正しきお寺。
- 創建は大同年間。
- 平野の街を開いた坂上広野の妹で坂上晴子が開基と伝わる。
- 山号は王舎山。
- 後醍醐天皇が笠置へ逃げる途中に、ここを仮の御所としたらしく、そのときに山号をつけたんだとか。王の宿舎だから王舎山とは安直なネーミングな気もするが・・・・・・
- 弘法大師像を祀るが、実は、これ、元々杭全神社に祀られていたものだったりする。
- 反対に、現在、杭全神社にある坂上田村麻呂像は元々こっちにあった。なんでこんな物々交換をしたかと言うと、神仏分離令で神社に弘法大師像を置いてあるのはおかしいとなったため。
- 因みに、この田村麻呂像は坂上広野が彫ったと伝わっている。
- 反対に、現在、杭全神社にある坂上田村麻呂像は元々こっちにあった。なんでこんな物々交換をしたかと言うと、神仏分離令で神社に弘法大師像を置いてあるのはおかしいとなったため。
- 住職は代々、坂上家の女性がなるものとされていた。
- 明治中期までは坂上家が平野に住んでいたらしい。
如願寺[編集 | ソースを編集]
- 大阪市平野区喜連6丁目
- 実は聖徳太子創建の寺。
- 創建した頃は喜連寺という寺号だったそうな。
- 平安時代には荒寺になってしまっており、見かねた空海が弘仁11年(820年)、堂宇を再建し、脇侍不動明王・毘沙門天を安置したらしい。
- でも16世紀には兵火の影響で再び荒れ寺に……
- 現在の堂宇は正徳6年(1716年)以降に再建されたものらしい。
- 本尊の木造聖観世音菩薩像は毎年8月9日と10日の2日間だけ開扉されるらしい。
- これ、平安前期のものらしく、大阪市指定有形文化財にもなっている。
- 本堂内に安置された地蔵菩薩は小野篁が作ったと伝わる。
城東区[編集 | ソースを編集]
大日寺[編集 | ソースを編集]
- 弘仁年間創建の由緒あるお寺。
- 但し今は隣接する八劔神社の影に隠れている感が半端ない。
- 通りがかった弘法さんが、難産に苦しむ地元の婦人を見て、その難産を取り除くために大日如来を彫ったのだが、それを祀って今に至る。
- 今でも御本尊として崇め奉られているとか何とか。なので、「子安の大日さん」と呼ばれているらしい。そんな話聞いたことあらへんけどな。
- 因みに、この話は摂陽群談にも出ているそうな。こういうたぐいの話に関しては結構網羅的やね。
- 鎌倉時代の宝篋印塔なども在るようで、隠れた古寺といった所か。
- 実は、太閤さんの命令で、大阪城の鬼門封じも任ぜられていたらしい。こういう寺社は大阪じゅうにあるけど任命しとったんやな。
させん堂不動寺[編集 | ソースを編集]
- させん堂というサラリーマンが聞くとドキッとするような名前が気になるお寺。
- 由来は本当に「左遷」から。菅原道真公が大宰府に流されるときに、この界隈に寄ったという故事にちなんでいる。
- 「そうは放出のさせんどう」というフレーズが江戸期に流行ったとかなんとか。それも何故か、上方ではなく江戸で。
- NHK放送文化研究所が言うとるんやから、多分、間違いない。参考
- 元々は生國魂神社の境内にあったらしい。
- 豊臣秀吉が、大阪城築城に邪魔だからと移転させ、その後、何度か場所を移したとか。なお、現在の場所に移ってきたのは宝暦9年(1759年)のこと。
- ここに移ってきた理由は水害対策だとか。たしかに、元々古墳時代に造られた剣畷の跡地だし、今でも周辺と比べると若干比高地なので、その判断は間違っては居ない。
- 豊臣秀吉が、大阪城築城に邪魔だからと移転させ、その後、何度か場所を移したとか。なお、現在の場所に移ってきたのは宝暦9年(1759年)のこと。
- 寺の雰囲気は、ぶっちゃけ何処にでもありそうな、住宅街の寺という感じ。
- これでも昔は大阪4不動の1つとして崇められていたらしいよ。
阿倍野区[編集 | ソースを編集]
正圓寺[編集 | ソースを編集]
- 大阪市阿倍野区松虫通3丁目
- 天下茶屋の聖天さんと呼ばれているお寺。
- 天慶2年(939年)開基と、とんでもなく古い歴史を持つ。
- 木彫の大聖歓喜双身天王という仏像がある。これ日本で一番大きいサイズらしい。
- 大阪5低山の1つ、聖天山の山頂は正圓寺の境内にある。
- 2000年頃は、鳴戸部屋が大阪場所の常宿にしていた。
- 兼好法師隠棲庵跡というのがある。
- なんでも、吉田兼好がこの辺に隠遁して住んでいたんだとか。
西成区[編集 | ソースを編集]
安養寺[編集 | ソースを編集]
- 大阪市西成区岸里
- 一心寺の末寺で江戸期創建の寺。
- 紙屋治兵衛の妻「おさん」の墓がある。
- 神谷治兵衛って誰やねんという方は、心中天網島で検索!