宋・金
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宋/遼/金の噂(一般)[編集 | ソースを編集]
- 北宋時代に金に送る貢物をケチったため皇帝と上皇が金(北朝鮮ではない)に連行された。(拉致ではない。)
- 金は野蛮な国だから、約束を守らなくていい by 宋
- 今の金王朝も野蛮な国だから、約束を守らなくていい。それと一緒。
- 約束を守らない、だまし討ちにする、現場が勝手に戦争する。宋の方がよっぽど野蛮。
- >現場が勝手に戦争する・・・・・日本も宋を嗤えない・・・・orz
- 野蛮というか、むしろ文明の悪弊かな。
- 金は野蛮な国だから、約束を守らなくていい by 宋
- 王族の一部が逃れて建国したのが南宋。(遭難ではない)
- 北宋は北方(モンゴルに近い場所)で建国されたのに、南宋が滅亡した場所は南方(ベトナムに近い場所)。
- 支配者はいつも北方から現れ、やがて文弱化して新たな支配者に南へと追われる。中国史ではありがちなパターン。
- 北宋は北方(モンゴルに近い場所)で建国されたのに、南宋が滅亡した場所は南方(ベトナムに近い場所)。
- キシリア様に贈られる壺が製作され、タイムカプセルに入れられる。
- 火薬と羅針盤が発明され、すでに1000年前からあった紙とともに三大発明と呼ばれた。
- 送金制度始まる。
- 料金は何両だろう?
- 水滸伝は北宋末の史実を基に書かれた話なのでこの辺に少しは関係があると思われる。
- 百八人のニートが一部屋に引きこもり、国家に立ち向かうというお話し。
- 某国の金総書記ではない
- 金王朝の子孫が日本に流れ着き、江戸時代には「遠山の金さん」を名乗った。
- 軍の管理方法が今日の自衛隊と同じ。
- 腕っ節の強い大酒呑みのおじさんが始めた国。
- 戦争にめちゃくちゃ弱い軍事大国。
- そうです。
- うまいw
- そうです。
- 日本ではあまり有名ではないが岳飛という悲劇のヒーロー?がいる。
- いや普通に高校で習うぞ。
- 日本史で受験する人は世界史のマイナー知識を覚える必要がないからね。世界史受験でも覚えてない/知らないって人は居るだろうさ。中国での知名度はかなりのもんなんだけどね。
- いや普通に高校で習うぞ。
- あまりに宋が弱かったので、知識人たちが現実逃避した結果、中華思想が誕生。
- 百眼の男に滅ぼされた。
- 遼美齢はいない。
- 石川宋、石川金もいない。
- ウィットフォーゲル(ドイツ人である中国史の研究者)によると遼は中国史における史上初の征服王朝だそうだ
- 唐も征服王朝と言われているが。(だから長安はコスモポリタンだった)。
- 当時、北宋の首都である開封は東京(とうけい)と呼ばれてた。みんな東京方言を喋ってた。
- ↑の岳飛に濡衣を着せた秦檜は「此の(叛逆の)罪莫須有」と言った。しかしこの「莫須有」という言葉は東京方言なので、いまその単語の意味が分かる人はいない。「あるかも」とか「ある必要なし」とか「あるべし」とか、色々な説がある。
- 現代の標準語も1000年後には(首都が京都に戻ってたら)誰も解読できなくなるのだろうか?
北宋の皇帝[編集 | ソースを編集]
- 開封の宮殿には、皇位継承者しか入ることのできない小部屋があった。
- 金が開封を陥した時に、その小部屋も公開された。中には石碑がひとつ。
- 「言論を理由にして士大夫を殺してはならないこと」
「(後周の皇帝だった)柴氏を子々孫々まで面倒みること」
が記されていたという。 - 歴代皇帝は太祖のこの言いつけをよく守った。そのため北宋時代は、どんな熾烈な政争が起こっても、そのために死罪になった者は居なかった。
- その思想は今の中共より余程進んでいる
太祖[編集 | ソースを編集]
- 後周の世宗の部将として活躍していたが、世宗の死後、出先で部下の将兵たちに擁立されて皇帝になってしまった。
- 部下たちの勢力をそぐのに、宴会の席で泣き落として協力を取りつけた。料亭政治の元祖みたいな人。
- よくお忍びで街を歩き、居酒屋で呑んでいたという。元祖暴れん坊将軍。
- 軍の指揮官としても強いが個人的にも強い。中国拳法の一派、「太祖拳」の創始者といわれている。
太宗[編集 | ソースを編集]
- 太祖の弟。太祖の子供をさしおいて即位したあたり、いろいろ黒い噂の絶えない人。
- 斧声燭影千古の疑
- このあとずっと宋の皇帝は太宗の子孫が継ぎ、太祖の子孫に皇位が戻ったのは実に南宋2代目の孝宗から。
真宗[編集 | ソースを編集]
- 遼に占拠されていた「燕雲16州」を取り戻すべく軍事行動を起こすがボロ負け。真宗自身が親征してようやく戦線を保ったものの、屈辱的な「壇淵(せんえん……最初の文字は実際にはサンズイ)の盟」を結んで和約。
- 莫大な貢ぎ物を取られることになったが、このあと100年ほど、遼とのあいだに平和が訪れる。
- この盟約を結んだ時は誰も気づいていなかったが、宋からの貢ぎ物は遼を豊かにしたどころか奢侈な風俗が流行るようになってしまい、宋からの輸入のほうが貢ぎ物の額を上回り、逆に宋の経済力が向上したとの説もある。
仁宗[編集 | ソースを編集]
- 独立宣言した西北の小国・西夏に出兵するがまたもボロ負け。「慶暦の盟」を結んで西夏にも貢ぎ物を送ることに。
- この時、足許を見た遼は、ちゃっかり貢ぎ物を増額させている。
- 水滸伝の108の魔王が解き放たれたのはこのお方の御世、らしい。
英宗[編集 | ソースを編集]
- 仁宗の従弟の息子。
- 英宗の実父をどういう称号で呼ぶかというだけのことで、国論を二分する大論争(濮議)に。多くの人が左遷されたり流罪になったりした。
神宗[編集 | ソースを編集]
- 傑物・王安石を起用して財政再建・政治刷新を図るが、既得権を持つ抵抗勢力の前にあえなく挫折。
- 王安石に反対して僻地へ左遷された蘇東坡が、東坡肉(豚の角煮)を発明。
哲宗[編集 | ソースを編集]
- 保守派と革新派の対立になすすべもなかった。
徽宗[編集 | ソースを編集]
- 中国史上もっとも風流な皇帝。
- 「徽宗体」というフォントを発明。
- 痩金体のことかな?今見ても非常にモダンで美しい。
- ガーデニングにも先駆者的な業績を残す。
- お忍びで街の遊郭を訪れ、粋な遊び人ぶりをも発揮した。
- お忍びで遊ぶ時は「趙七郎」と名乗った。
- 「長七郎江戸日記」ならぬ「趙七郎開封日記」が書かれた(ウソ)。
- お忍びで遊ぶ時は「趙七郎」と名乗った。
- 絵も非常に巧い。世界で唯一本人筆とされてる桃鳩図は、日本にあり国宝指定(個人蔵)。
- 他にも多数の画家が出て、中国絵画のひとつの頂点に達する。
- 恐らく古今東西唯一美術の教科書に"作者"として出てくる君主だろう。
- さらに「老子」「荘子」の注釈までやっており、自称「道君皇帝」なんて言っちゃったりもしている。
- たぶん、この人は生まれる家を間違えたんだと思う。
- 「徽宗体」というフォントを発明。
- しかし、この皇帝の趣味の財源を賄うために、税金がうなぎ登り。人々の怨嗟が高まった。
- 税金をしぼり上げたのが、「水滸伝」の悪役である宦官・童貫と宰相・蔡京である。
- 人々の不満を外に向けるため、童貫は遼の征伐をもくろむ。金と同盟して遼を挟み撃ちにする戦略だったが、軍勢を集めているあいだに折悪しく「方臘の乱」が勃発。せっかく集めた軍を叛乱鎮圧に振り向けてもたもた戦っているうちに、金はさっさと遼を追い立ててしまった。
- ようやっと叛乱を鎮圧した宋軍は、遅ればせに遼に攻めかかるが、敗残の遼軍にまたもやボロ負け。
- 金軍に頼ってなんとか遼を亡ぼすが、虫のいいことばかり言って金の不興を買い、さらに悪辣な背信行為を繰り返して金を決定的に怒らせる。
- 夷狄との約束は守らなくても良いと思ってたんでしょうね。中国人の考え方は今でも基本的にはこの頃と同じ。
- 金軍に攻め込まれ、徽宗は「己を罪する詔」を出して義勇兵を募った。
- 案外応募者がたくさん居たらしい。
- しかし敵わず、開封が陥落して徽宗は欽宗と共に捕虜になる。
欽宗[編集 | ソースを編集]
- 金軍に攻められ、あわただしい時期に親父の徽宗から帝位を譲られ、非常時政権の長として奮闘するが、捕虜になる。
- 南方で即位した弟の高宗に見捨てられ、北の果てで寂しく死んだ。
- 嫁は金で高級娼婦になることを強いられて自殺。
南宋の皇帝[編集 | ソースを編集]
高宗[編集 | ソースを編集]
- 兄・欽宗の命令で、金と交渉すべく首都・開封を離れていたのを幸い、徽宗と欽宗が囚われた時に即位。
- 金軍に追われて逃げ回った末、杭州まで逃げ延びて南宋を建国。
- 杭州は「臨安(臨時の滞在場所)」とか「行在(旅先の宿舎)」とか呼ばれ、あくまで臨時首都であると言い張ったが、結局最後まで臨時首都から動けなかった。
- 兄が帰ってくると皇帝の座を明け渡さなければならないので、欽宗の帰国願いを無視し続けた。
- しかし、表向きはあくまで無事送還を金に要求しなければならない。使者には天才的な腹芸が求められる。それをやりとげた忠臣が秦檜なのだが、なぜか史上最大の佞臣と貶められた。
- そりゃ、民衆から見ればそうなるだろ
- 史書は民衆の目線でなんか書かれませんけどね。朱子学的大義名分論に染まった知識人の目線から見て佞臣だったわけですな。
- 何言ってんだか。そもそも秦檜は宋を和平させるために金で「教育」を受けてきた人物なわけだが。ソ連から帰ってきた共産主義者が日本で活動するようなもの。和平後は外圧を利用して恐怖政治を敷いたため、皇帝にも民衆にも嫌われていた。佞臣以外の何者でもない。それから、宋書は元朝のときに書かれたもので朱子学とは無関係だから。
- 史書は民衆の目線でなんか書かれませんけどね。朱子学的大義名分論に染まった知識人の目線から見て佞臣だったわけですな。
- そりゃ、民衆から見ればそうなるだろ
- しかし、表向きはあくまで無事送還を金に要求しなければならない。使者には天才的な腹芸が求められる。それをやりとげた忠臣が秦檜なのだが、なぜか史上最大の佞臣と貶められた。
孝宗[編集 | ソースを編集]
- 太祖の子孫としてはじめて帝位に就いた。
- 高宗に実子ができず、養子となった。
- 金と「乾道の和約」を結び、40年間の平和を獲得。
光宗[編集 | ソースを編集]
- 南宋の皇帝は初代から三代目までみんな「こうそう」である。
- もちろん中国語では全部別の発音だけど……
- 高宗はカオソン、孝宗はシャオソン、光宗はカンソン。
- もちろん中国語では全部別の発音だけど……
- 皇后の凶暴っぷりに翻弄されまくりの生涯。
寧宗[編集 | ソースを編集]
- 権臣・韓侂冑に頭を抑えられっぱなし。
- 韓侂冑が死んだあとは、次の権臣・史弥遠に頭を抑えられっぱなし。
理宗[編集 | ソースを編集]
- 朱子学にはまる。
- モンゴル軍に頼ってなんとか金を亡ぼすが、虫のいいことばかり言ってモンゴルの不興を買い、さらに悪辣な背信行為を繰り返してモンゴルを決定的に怒らせる。
- ↑北宋・徽宗の項目と読み比べて下さい。
度宗[編集 | ソースを編集]
- チンギスハーン4のオープニングに登場したおかげで少し知名度がある。
- いくらバカ殿とはいえ、智謀8はあんまりである。
- たくそうと読むが、面倒なのでみんなどそうと読んでいる。
恭帝[編集 | ソースを編集]
- 南宋のラストエンペラー。
- 5歳で即位。間もなくモンゴルの捕虜となるが、瀛(えい)国公に封じられて優遇された。
- その後高麗に流れて行き、晩年に愛した高麗の女が元の明宗に召され子(順帝)を産んだ……つまり順帝は恭帝の子だったのではないかという噂もあるが……
遼の皇帝[編集 | ソースを編集]
- 国号は「契丹」「遼」を何度か入れ替えて使っている。ややこしい。
- 最近、韓国人が「契丹はツングース系で高句麗や百済と同根だから、その領土だった地域は韓国だった」と主張しております。中国人には笑われていますが。
- 一方中国では「高句麗は中国の地方政権である渤海と同根である」という理由で高句麗史が中国東北史に組み込まれている。
- 最近、韓国人が「契丹はツングース系で高句麗や百済と同根だから、その領土だった地域は韓国だった」と主張しております。中国人には笑われていますが。
- 契丹こと「遼」はモンゴル人国家なので、靺鞨や高麗(ツングース系)ではない。
- 靺鞨というのは満州のことです。
- モンゴル人は元(第二帝国)やチンギスハーン以前にも代~北魏を建国したことがある。北魏などでは「漢化」の影響で「皇帝」を名乗っているが、「北周」(北魏の敬称国家)や「遼」は厳密的には天皇(なぜか日本と同じ君号)、第一(フビライハーン以前)~第四帝国(清朝崩壊後の独立政権)では「皇帝」と「ハーン」を併用している。
- 靺鞨というのは満州のことです。
太祖[編集 | ソースを編集]
- 名前は耶律阿保機。
- 阿保機はアポチと発音したのではあるまいか。
- アポチといえば韓国語の「お父さん」。
- つまり「耶律のオヤジ」……??
- 中国風の名前は「劉億」。急に小物臭い感じになる。
- 奥さんは烈女として有名。
- 述律皇后と書くと堅苦しいが、ユリドと正しく名前を発音するとなぜか萌える。
太宗[編集 | ソースを編集]
- 後晋の高祖に力を貸し、その代償に華北地方の「燕雲13州」を譲り受ける。
- 正当な取引で得た領土なのに、その後北宋からえんえんと返還を要求され続ける。北宋から奪ったわけでもないのに。
世宗[編集 | ソースを編集]
- さらに北漢から3州を譲り受ける。北宋はこれも返還を要求し続ける。
- 中央集権化をはかったが、その過程で暗殺される。晩年暴虐化するなど金の海陵王に似ている。
穆宗[編集 | ソースを編集]
- 太宗の子。世宗の死後にその一派を平らげて即位する。
- 彼の代に北宋が成立。しかしその混乱を突けず。
天祚帝[編集 | ソースを編集]
- 金に攻められて西方へ逃げ出す。
天錫帝[編集 | ソースを編集]
- 天祚帝に後を託された耶律大石によって擁立されたが、すぐに死亡。
金の皇帝[編集 | ソースを編集]
太祖[編集 | ソースを編集]
- 名前は完顔阿骨打。
- 読みは「わんやんあぐだ」。
- けっこう義理堅く、北宋の虫のいい要求も大目に見ていた。
太宗[編集 | ソースを編集]
- 太祖の弟。
- 太祖ほど甘くはなく、北宋の背信行為に怒って開封を攻撃。徽宗と欽宗を捕虜にして北宋を亡ぼす。
熙宗[編集 | ソースを編集]
- 南宋と「紹興の和約」を結ぶが、その後すっかりだらけてアル中に。
- 酒の勢いで近習を斬ったりして評判を落とし、従弟の完顔亮の手の者に討ち取られる。
海陵王[編集 | ソースを編集]
- 完顔亮が即位。
- 南宋との和約を破り南征を始めるが、国力を無視して背伸びをしきった軍事行動だったため周囲から総スカン。クーデターで斃される。
- どうもデムパ系の人物であった形跡あり。
- 後を継いだ世宗は、彼の即位を無かったことにし、帝号を剥奪。海陵王の位だけ与える。
世宗[編集 | ソースを編集]
- 「小堯舜」と称えられた名君。南宋と「乾道の和約」を結ぶ。
章宗[編集 | ソースを編集]
- 南宋に和約を破棄されたり、タタール人に裏切られたり、天災が相次いだり、後継者にしようとしていた嗣子らが全滅したり…。本人は決して愚鈍ではなかったが不運が重なりすぎた。次代皇帝の衛紹王はこの人の叔父。
衛紹王[編集 | ソースを編集]
- きわめて暗愚で手前勝手な男。
- 即位前の衛紹王に会ったことのあるチンギス汗は、彼の即位を聞いて、
「中国の天子というのはすぐれた人物がなるものかとばかり思っていたが、あの阿呆でもなることができるとは驚きだ」
と述懐、金に対する畏怖心を一気に失ったとか。 - モンゴル侵攻の時にも、その報せを伝えに来た使者の言うことを信用しないどころか、監禁までしてしまう始末。
- 即位前の衛紹王に会ったことのあるチンギス汗は、彼の即位を聞いて、
- 副元帥の胡沙虎に暗殺される。帝号も貰えなかった。
宣宗[編集 | ソースを編集]
- 2代前の章宗の兄。即位時はすでに50歳。
- 一度はモンゴルと和睦したものの、都を南に移したためにチンギスに再び目をつけられることに。
哀宗[編集 | ソースを編集]
- 大変な肥満体ゆえ、モンゴルの追っ手から逃げられないと観念して自殺した。
- この頃に登場した完顔陳和尚はモンゴルを前にしてよく金を守った名将。ちなみに「ちんおしょう」ではなくそのまま「ちんわしょう」と読む。
中国史 |
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