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幸運なスポーツ事典

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幸運なモノ事典 > スポーツ

団体[編集]

広島カープ
  1. 設立翌年に既に大洋(現横浜DeNA)と合併するという話があったほどの資金難だった。
    • 当初はユニフォームが1人1枚しかなく、移動費すら払えない有様だったとか。
  2. 募金をしたり、運営会社を立て直したりして乗り切った。
    • 地元の警察官がパトカーで募金しに来たとか。
  3. その後も貧乏球団だと言われていたが、多彩なグッズが話題を呼ぶようになり、今ではグッズがかなりの収入源となっている。
    • 特に、Tシャツは自前の工場を持っている。
    • 発足当初は成績も低迷していたが、その後1979年と80年代に3度の日本一、2016年~2018年は3連覇を果たした。
川崎フロンターレ
  1. 川崎市は大洋、ロッテ、ヴェルディが相次いで出て行ったため、市民からは「どうせお前らも本気じゃないんだろう」との言われ様だった。
  2. Jリーグ参入当初はJ1昇格も1年でJ2逆戻りしたが、苦しんだ末にJ1復帰を果たし、やがて市民から愛されるクラブとしてリーグ優勝も果たす強豪にまで成長。
横浜FC
  1. 2006年・2019年ともに、途中で監督を交代してから成績が上向きになり、最終的にJ1昇格を勝ち取った。
    • 特に2006年は開幕戦で敗れてすぐに監督を交代した。
ヴァンフォーレ甲府
  1. Jリーグ参入2年目の2000年に26試合連続未勝利やら債務超過やらで、年末に経営危機問題が発生。
    • 必死の存続運動などの結果、2001年度はチームの存続が決定。
    • しかし、2002年以降の存続には「平均観客動員数3000人以上」「クラブサポーター数5000人以上」「スポンサー収入5000万円以上」の三つの条件が課せられ、これが達成されない場合は解散という厳しい条件をJリーグから突きつけられた。
  2. 平嶋彰英総務部長の要請により筆頭株主の山日YBSグループから海野一幸が送り込まれ、経営の健全化が図られた。
    • スポンサー収入に関しては、海野がスポンサーとの交渉の際に「スポンサーになれば税金対策になる」等とスポンサーになった場合のメリットを強調。
  3. 「スポンサー収入」の条件は6月中にクリアし、残る2つの条件も連日報道される経営危機に関心を示し、クラブサポーターの加入や競技場へ足を運ぶ人達も次第に増えていき、10月の時点で達成できる見込みとなった。
    • 上記の目標を達成しても4000万円の赤字が見込まれた決算も自治体・企業・ボランティアの協力で経費が圧縮され、最終的に法人化後初の単年度黒字に転換。
      • 10月に実施された主要株主会議にて2002年以降のクラブの存続が決定し、経営危機問題はひとまず終息した。
  4. 翌年以降も経営状況は厳しかったが、海野を中心とする経営陣の努力で単年度黒字を記録し続けた。
    • クラブも2005年に初のJ1昇格を決め、約4億5000万円あった累積赤字も2016年に解消。

[編集]

野球[編集]

1985年の阪神タイガース
  1. 開幕当初は優勝への期待は薄かったが、4月にランディ・バース・掛布雅之・岡田彰布が巨人の槙原投手からバックスクリーン3連発を放って開幕ダッシュに弾みをつけた。
  2. 夏場まで首位を快走していたが、8月12日に発生した日航123便墜落事故で球団社長の中埜肇が犠牲となり、阪神の選手達もこの事故機(JA8119)に直前のフライト(福岡発羽田行日航366便)で搭乗していたため、選手たちは大きな衝撃を受けて一時は大型連敗を喫して首位陥落。
  3. しかし、阪神の強力打線に加えて中西清起や福間納らのリリーフ投手陣も1年を通して大車輪の活躍をみせ、10月のヤクルトとの死闘の末、21年ぶりのリーグ優勝が決定。
  4. この年の日本シリーズで西武と対戦し、2リーグ制になってから初の日本一を果たした。2リーグ制になってから阪神が日本一になったのは2019年現在で唯一。
    • なお、池田親興投手は第1戦終了後に「(85年セ・リーグ最下位の)ヤクルトの方が怖かった」と発言したものの、4年後の加藤哲郎のようにこの発言が原因で阪神が日本一を逃すというようなことはなかった。
1996年の読売ジャイアンツ
  1. シーズン序盤はリリーフ陣の崩壊などもありBクラスに低迷していたが、7月から快進撃を始め、首位だった広島と中日をごぼう抜きしてまさかの逆転優勝を果たした。
    • 当時リーグ史上最大の11.5ゲーム差をひっくり返し、ここに「メークドラマ」が完成した。ただし日本シリーズでは当時人気があったイチロー率いるオリックスに日本一を献上したが…。
2008年の読売ジャイアンツ
  1. スタートダッシュには失敗。
  2. 阪神の五輪との兼ね合い、Vやねん!で失速し逆転優勝。
    • ただし日本シリーズでは西武に敗れている。
2008年のタンパベイ・レイズ
  1. デビルレイズからデビルを取ったとたん、ア・リーグ優勝してしまった。
2009年全国高校野球選手権大会決勝 中京大中京vs日本文理
  1. 試合展開と試合後の両チームの表情から「誰も傷つかず、みんなが幸せになれた試合」と言われる。
    • 敗者が存在しない試合、両チームも球場にいる観客も全員が勝者とも。
  2. 「日本文理の夏はまだ終わらない」は高校野球実況史に残る名言。
  3. そのため大逆転でも延長戦でもないのに、ネットサイトasahi.comの高校野球名勝負投票でこの試合が2位になった。
    • 投票者に若い世代が多かった結果でもあるが。
2019年の阪神タイガース
  1. シーズン終盤になって5位にまで低迷したが、そこから6連勝し、中日と広島をごぼう抜きしてまさかの逆転CS出場を果たした。
    • さらに横浜DeNAベイスターズとのCS1stステージも勝利し、ファイナルステージに駒を進めた。結果は巨人に負けたが。
    • 5位になった時CS出場は絶望的とも言われていたくらいだった。

サッカー[編集]

代表[編集]

1994 FIFAワールドカップのイタリア代表
  1. 1992年から監督に就任したサッキがACミランと同様に代表にもゾーンプレスを取り入れようとしたが、クラブとは異なり代表では練習時間に制限があり戦術が浸透せず、加えてアメリカでのほとんどの試合が炎天下のデーゲームでゾーンプレスはあまり機能しなかった。
    • グループリーグは初戦で格下と目されていたアイルランドに負け、次のノルウェー戦はなんとか競り勝つも、最終戦のメキシコ戦に引き分け、全チーム勝ち点4で並んだグループリーグでなんとか3位に滑り込み、決勝トーナメントに進出。
      • 当時は6つのグループリーグの3位チームのうち、上位4チームが決勝トーナメント進出というルールだった。
  2. 決勝トーナメント1回戦のナイジェリア戦でも前半に1点を先制される苦しい展開。更に途中交代したゾラが不可解な判定で退場。
    • イタリア代表は10人で1点を追いかける状況に追い込まれ、NHKで実況を担当していた山本浩が解説の田中孝司に「田中さん、ロベルト・バッジョの94年はこれで終わってしまうんですかね?」と言った直後の後半44分、そのロベルト・バッジョが同点ゴールを決め、さらに延長戦でもバッジョが決勝点となるPKを決め逆転勝ち。
  3. 息を吹き返したイタリアは準々決勝のスペイン戦も終了直前にバッジョの決勝ゴールで2-1の勝利。
    • 準決勝のブルガリア戦もバッジョの2得点で2-1の勝利。グループリーグ無得点と不調だったバッジョは決勝トーナメントの3試合で5得点の活躍でチームを決勝に導いた。
  4. 決勝のブラジル戦はそれまで怪我で離脱していたバレージが戦列に復帰。そのバレージを中心とした守備陣はブラジルの猛攻に耐え、120分間ゴールを割らせず完封。
    • 0-0のままW杯史上初の決勝戦でのPK戦に突入。バレージ・マッサーロと失敗し、最後のキッカーに名乗り出たバッジョも痛恨の失敗に終わり、イタリアは惜しくも優勝を逃した。
      • 試合後、バッジョは「PKを決めても誰も覚えていないが、外したら誰もが忘れない」という名言を残した。
2002 FIFAワールドカップのブラジル代表
  1. 南米予選で苦戦し、一時は本大会出場すら危ないほどだった。
    • 最終戦のベネズエラ戦に勝ってなんとか本選出場を決めたが、ブラジル国民からの評価は低かった。
  2. グループリーグC組初戦のトルコ戦こそ先制を許したが、ロナウドの同点ゴールとリバウドのPKで2-1の逆転勝ち。
    • 次の中国戦は4-0で圧勝、最終戦のコスタリカ戦も5-2で勝ち、グループリーグ1位で決勝トーナメントへ。
  3. 決勝トーナメント1回戦のベルギー戦は後半にペースを掴み2-0で勝利。
    • 準々決勝のイングランド戦はオーウェンに先制ゴールを許したが、リバウドの同点ゴールとロナウジーニョのFKで2-1の逆転勝ち。
    • 準決勝は快進撃を続けてきたトルコ戦。ここはロナウドのゴールを守り切って1-0で勝利。
  4. 決勝のドイツ戦は前半こそカーンにスーパーセーブを連発されたが、後半にロナウドの2ゴールで2-0で勝利。ワールドカップの最多優勝記録を5に伸ばした。
2006 FIFAワールドカップのイタリア代表
  1. 大会開幕直前にイタリア国内でカルチョ・スキャンダルが起こり、リッピ監督やGKのブッフォンらが巻き込まれてしまう。
    • この影響が代表チームにも及んでしまうのではないかと懸念されたが、逆にチームは結束。
  2. グループリーグ初戦のガーナ戦は2-0で快勝、2戦目のアメリカ戦はザッカルドのオウンゴールで1-1の引き分けに終わるも、最終戦のチェコ戦はマテラッツィとインザーギのゴールで2-0で勝利。1位でグループリーグを通過した。
  3. 決勝トーナメント1回戦の相手は、前回大会で誤審?の末に敗れた韓国を率いていたヒディンクが監督を務めるオーストラリア戦。
    • 試合は後半開始早々にマテラッツィが退場、その後もオーストラリアに押される展開が続いたが、0-0で迎えた後半終了直前にグロッソがPKを獲得。このPKをトッティが決め1-0で辛勝。
  4. 準々決勝のウクライナ戦は3-0で快勝し、準決勝は開催国のドイツと対戦。試合は一進一退の攻防が続き90分間では決着が着かず延長戦に突入。
    • 延長戦でも互いに決定的なチャンスを決めることが出来ず、PK戦突入か?と思われた延長後半14分にグロッソがゴールを決め、遂にイタリアが先制。
      • その直後にデル・ピエロがダメ押しの追加点を挙げ、2-0の勝利で決勝に進出した。
  5. フランスとの決勝戦、試合開始早々ジダンにPKを決められるも、すぐさまマテラッツィが同点ゴールを挙げ1-1で延長戦へ。
    • 延長後半には所謂「ジダン頭突き事件」があったが、試合は延長戦でも決着がつかず1994年以来史上2度目となるPK戦に突入。
      • トレゼゲが失敗したフランスに対し、イタリアは全員が成功。この結果イタリアは1982年以来24年ぶり4度目の優勝を成し遂げた。
2010年サッカーワールドカップの日本代表
  1. 惨敗必至の予想も勝利を挙げた。
  2. 谷間の世代と呼ばれたアテネ世代が屋台骨となり汚名返上となった。
2011年FIFA女子ワールドカップ日本代表 なでしこジャパン
  1. 東日本大震災の3ヶ月後に開催。
  2. グループリーグでイングランドに敗れ2位通過となるが、準々決勝でドイツに延長戦で勝利、準決勝でスウェーデンに逆転勝ち。
  3. 決勝でアメリカに2度リードされながら延長後半終了間際に澤穂希の劇的ゴールで追いつき、PK戦の末勝利。男女及び全年代別を通じて日本サッカー史上初のFIFA主催の世界大会初優勝を果たした。
  4. 連日スポーツニュースで取り上げられるほどになり、被災した日本を勇気づけたとして国民栄誉賞まで受賞。
    • 年中お通夜状態だった2011年の数少ない明るいニュースとなった。
2018 FIFAワールドカップのロシア代表
  1. 大会前のFIFAランキングが出場32チームの中で最下位(70位)だったため、一部ではグループリーグ突破を不安視する声があった。
  2. しかしグループA初戦のサウジアラビア戦は5-0で圧勝、続くエジプト戦も3-1で勝ち、最終戦のウルグアイ戦こそ0-3で敗れたが、グループAを2勝1敗の成績で2位となり、旧ソ連時代以来8大会ぶりとなるグループリーグ突破を決めた。
  3. 決勝トーナメント1回戦は優勝候補のスペインに対しPK戦の末勝利。
    • 準々決勝は準優勝したクロアチアにPK戦の末敗れたが、それでも戦前の評価を考えれば充分な成績(ベスト8)を残すことができた。

Jリーグ[編集]

1999年のジェフユナイテッド市原
  1. 前年度の天皇杯で横浜フリューゲルスを優勝に導いたゲルト・エンゲルスを監督として招聘したが、前年シーズンまで司令塔として機能したマスロバルの穴を埋めることが出来ず、守備の崩壊もあり1stステージは15位と低迷。
    • エンゲルスを解任しニコラエ・ザムフィールで臨んだ2ndステージもチーム状況の劇的な改善とはならず、降格圏をなかなか脱出できない。
      • 2ndステージ14節終了時点での年間総合順位は15位。14位の浦和とは勝ち点1差で最終節を迎えた。
  2. 市原は最終節(vsガンバ大阪)で武藤真一のゴールでもぎ取った1点を守り切って1-0で勝利。
    • 14位の浦和が90分以内に勝てず、得失点差で浦和を僅かに上回ってJ1残留を勝ち取った。
1999年のFC東京
  1. J2最終節、対戦成績の悪かったアルビレックス新潟に90分以内で勝利し (1-0) 、なおかつ大分トリニータ (J1昇格にほぼ有利だった) がモンテディオ山形に引き分けたため、奇跡的にJ1昇格を勝ち取った。
2000年の浦和レッズ
  1. 世界で一番悲しいVゴール」 で降格してしまった翌年、最終節でサガン鳥栖相手にVゴールでJ1昇格を勝ち取った。
2008年のジェフユナイテッド市原・千葉
  1. 2007年の主力選手たちが他クラブに引き抜かれ、開幕11戦未勝利と苦戦。
    • 11節終了後にヨジップ・クゼ監督が解任され、14節からはアレックス・ミラーが監督に就任。手続きの関係上、12節と13節は澤入重雄が監督を代行した。
  2. 戸田和幸や深井正樹の加入もあり一時は5連勝で最下位を脱出したが、32節終了時点で自動降格圏内の17位。
    • 33節の清水エスパルス戦は一旦は同点に追いつくも岡崎慎司のゴールで突き放され、終了間際には守備の要だったボスナーが2枚目のイエローカードで退場となり、最終節のFC東京戦は出場停止となるなど、千葉にとっては痛すぎる敗戦となった。
      • しかし15位の磐田・16位の東京Vは揃って敗れ、千葉は土壇場で踏みとどまって最終節へ。
  3. 最終節、ACL出場圏内の3位を狙うFC東京に攻めこまれ、39分にカボレのヘディングで先制を許し、53分にはカウンターから長友佑都にミドルシュートを決められて0-2。
    • ミラー監督はここで動き、56分にミシェウに代えて新居辰基、63分には深井に代えて谷澤達也を投入。
  4. その直後、74分に谷澤のロングフィードを受けた新居がゴールを決めて1点差、77分には青木良太のセンタリングを巻誠一郎が胸で落とし、谷澤がボレーでゴール右隅に叩き込み同点。
    • 80分にはレイナウドが今野泰幸に倒されPK獲得。これをレイナウドがきっちり決め千葉が逆転に成功。
    • 85分には新居のパスに抜け出した谷澤がキーパーとの1対1を確実に決め、4-2で試合終了。
  5. 15位の磐田・16位の東京Vが揃って敗れ、千葉が大逆転でJ1残留を勝ち取った。
    • 札幌ドームでの鹿島vs札幌戦(鹿島のJ1優勝が掛かっていた試合)のゲスト解説を担当していた金子達仁は「これはもう『フクアリの奇跡』と呼んでいい」とコメントした。
2012年のアルビレックス新潟
  1. 第33節終了時点で17位 (降格圏) だったが、最終節でガンバ大阪とヴィッセル神戸が敗れ、なおかつ新潟が札幌に4対1で勝利したこともあり奇跡的にJ1残留を勝ち取った。
    • 実はその前の33節(ベガルタ仙台戦)で勝たなければ降格決定だったがキム・ジンスの先制点を守り切って1-0で勝利。
    • しかも終了間際に柳下正明監督が累積警告7枚のブルーノ・ロペスを庇って退席処分を受け、最終節は監督不在(コーチの栗原克志が監督代行)での試合だった。
2012年のベガルタ仙台
  1. 震災が発生した翌年、前年4位からさらに躍進して2位でフィニッシュ。サンフレッチェ広島と優勝を争った。
2019年の湘南ベルマーレ
  1. 前年にルヴァン杯を制すも曺貴裁監督のパワハラ騒動によりバッシングもあった。
  2. 入れ替え戦でルールの恩恵もあったが残留を決める。

その他[編集]

2015年ラグビーワールドカップ
  1. 日本の初戦で、世界ランク2位の南アフリカに勝ってしまった。
    • 日本の関心がラグビーに向いた。
  2. 五郎丸ポーズが流行った。
    • 勘違いしている人多数。でも悪いのは勘違いしている人たちであって、ラグビーではない。

選手[編集]

野球[編集]

赤星憲広
  1. 2000年のドラフト会議で阪神に指名された際は、阪神ファンからの非難が激しかった。
    • 当時のファンの多くは高卒の若い選手を望んていたのに対し、赤星は社会人でしかも大卒であったこと、非力だったことからあまり歓迎されていなかった。
    • 入団発表では「新庄選手の穴を少しでも埋めたい」と言おうとしたが緊張して「新庄選手の穴は僕が埋めます」と言い間違えてしまうビッグマウスでも話題になった。
      • しかし蓋を開けると、発言通り新庄氏の穴を埋める大活躍。
  2. しかしプロ入り後は阪神の主力として活躍。2003年には阪神のリーグ優勝に貢献した。
    • 特に同年の優勝の胴上げをした試合では、彼のサヨナラヒットで優勝マジックを1に減らした。
新井貴浩
  1. 阪神移籍時の「辛いさん」騒動で広島ファンから総スカンを食らい、「25番という選手」として名前すら呼ばれない状態だった。
    • そして阪神でも雲行きが怪しくなってきたかと思いきや…
  2. 広島に復帰して大活躍。25年振りの優勝に貢献しMVPも獲得、2017年に勇退。
    • ムードメーカーかついじられキャラとしてファンからの人気も回復。
      • twitterでは「新井さんクソコラグランプリ」なるものも開催されていた。
    • そもそも新井さんが勇退したのは2017年じゃなくて2018年では?
  3. 現在では阪神時代が黒歴史となりつつある。
糸井嘉男
  1. 自由獲得枠で投手として入団するも登板なし。
  2. 野手転向後身体能力を武器に計算できる外野手に、トレードされるも35歳にして盗塁王獲得。
伊藤敦規
  1. 阪急・オリックス→横浜でプレーしていたが、1996年のシーズン終了後に戦力外通告を受ける。
    • 「幼少期からファンだった阪神でダメだったら諦めもつく」と決意し阪神の入団テストを受け合格。
  2. 阪神移籍後は中継ぎで活躍し、2000年にはセ・リーグ最多の71試合に登板、防御率1.86という好成績を残した。
川崎宗則
  1. シカコ・カブスの悪夢「ヤギの呪い」を解呪するのに必要だった人物。
  2. 選手登録枠40人からは外れていたが、それでもムードメーカーとしてベンチ入り、そしてチームを優勝に導いた。
  3. これ以外にもMLB公式から「ムネノリ・カワサキ」賞を授与されるなど、ムードメーカーとしての実力が目立つが、実は2塁3塁遊撃と内野をどこでも守れる器用な選手である。
    • ちなみに選手としての出場以外ならキャッチャーとピッチャーもやっている。
  4. その後日本に帰ってからうつ病で2シーズン休業してたが、台湾で活動を再開した。
島野修
  1. 高校時代に2回甲子園に出場、1968年のドラフト会議で巨人から1位指名を受ける。
    • 巨人からの指名を確信していた星野仙一は、この時「星と島を間違えたんじゃないのか?」と言ったとされる。
  2. しかし巨人入団後は高校時代の投げ過ぎが原因で肩を痛め、結果を残せなかった。
    • 1976年に阪急へ移籍したが一軍での登板はなく、1978年に現役を引退。
  3. 引退後は芦屋市でスナックを開いていたが、1981年春に阪急の加藤選手会長が島野を訪ね、球団マスコット「ブレービー」のマスコット人形役への就任要請を出す。
    • 島野本人はすぐ断るつもりだったが、メジャーリーグ各球団のマスコットの活躍をビデオで観賞、更にファンサービス担当者の「野球を知っていないとできない仕事」という言葉に「お客さんが少しでも増えるなら」と引き受ける決心をつけた。
  4. デビュー当初は新聞にネガティブな記事が書かれるなど、決して良い扱いはされていなかった。
    • しかしある日、西宮球場近くの食堂で落ち込んで飲んでいるときに「またブレービーを見たいから球場に連れて行って」と親にせがむ子供の声を聞き、島野は迷いを吹っ切った。
  5. それ以降、1998年のシーズン終了までの阪急・オリックスの主催試合1175試合を1試合も欠場せずにスーツアクターを勤め上げた。
西清孝
  1. 1984年にドラフト外で南海に入団。
    • 1990年のシーズン途中に広島へ移籍したが、1993年に戦力外通告を受けてしまう。
      • 一時は引退を考えたが、横浜のテストを受け打撃投手兼任として入団。
  2. 横浜移籍4年目の1997年にプロ初勝利を挙げた。
    • この年は58試合に登板し防御率2.55を記録。
ラルフ・ブライアント
  1. 1981年のMLB二次ドラフトでロサンゼルス・ドジャースから1巡目指名を受け入団。
    • 1985年にメジャーリーグデビューを果たすが、それ以降はマイナーリーグとの往復を余儀なくされており、1988年5月にドジャースと友好球団であった中日ドラゴンズに移籍。
  2. 当時の一軍登録の外国人枠は2名であり、中日では郭源治とゲーリー・レーシッチが活躍していた(郭が日本に帰化したのは翌1989年)ため、長打力はあるが三振も多いブライアントの出番は全くなかった。
  3. 二軍で燻っていたブライアントに転機が訪れたのは、6月の西宮球場でのウエスタン・リーグの公式戦だった。
    • 下手投げのピッチャーだった近鉄の佐々木修からバックスクリーンにホームランを叩き込んだのを目の当たりにした近鉄の首脳陣は、「バットに当たればホームランだが、滅多にバットには当たらない」ブライアントの獲得を決め、中日のOBだった投手コーチの権藤博の伝手で中日にトレードを打診。
    • 当時近鉄はパ・リーグのペナントレースで西武を追走する立場だった。しかし、主砲のリチャード・デービスが6月7日に大麻不法所持により逮捕され退団。
      • 突然の事態に近鉄が急遽リストアップした外国人選手が、中日に所属していたブライアントだった。
    • 中日の二軍スタッフはブライアントの将来性を高く評価しており放出に反対したが、6月28日に金銭トレードで近鉄に移籍。
  4. 近鉄移籍後、ブライアントは2度の1試合3本塁打を記録するなど、74試合の出場で34本塁打を放ち、近鉄の最大ゲーム差8からの驚異的な追い上げに貢献。
    • 参考までに1988年のセ・リーグ最多本塁打は大洋・ポンセの33本(パ・リーグ最多本塁打は南海・門田の44本)。
  5. シーズン終盤には父親が危篤となったが、シーズン最後まで日本に残りチームに帯同。
    • その最後の2試合こそ伝説の「10.19」であり、シーズン最終戦となったダブルヘッダーの第2試合の8回表に一時勝ち越しとなる34号ソロホームランを放っている。
  6. 翌1989年は49本のホームランを放ち、パ・リーグのMVPを獲得。その後も1995年まで近鉄の主砲として活躍した。
    • 近鉄での通算本塁打数は259本。一方で通算三振も1186個と多く1993年にはシーズン204三振を記録したが、「三振かホームランか」の近鉄史上最強の助っ人としてファンに愛された。
  7. 2019年のインタビューでブライアントは「私は近鉄バファローズを愛している。偉大な伝説を作ってきたチームの一員になれたことを、本当に誇りに思う」と語っている。
古田敦也
  1. 眼鏡もありドラフトでは実力は認められるも敬遠されていた。
    • ソウルオリンピックがきっかけで、やっと目をかけてもらえた。
  2. 野村克也監督との出会いで屈指の捕手となる。
    • 実は当時、ヤクルトの監督に就任したばかりの野村はドラフト5日前のスカウト会議の場で「眼鏡のキャッチャーは要らん」「高校生の捕手を獲ってくれ。ワシが育てる」と古田の獲得に否定的な発言をしていた。
      • が、スカウトの片岡宏雄が「古田との約束を破る事になるのでそれはできない」と喰い下がり、ヤクルトへの入団となった。
      • 野村監督は皮肉にも「大学出に名捕手はいない」という持論を自らの手で覆すこととなった。
ヘンスリー・ミューレン
  1. 1994年に千葉ロッテマリーンズに入団しまずまずの成績(.248 23本 69点、サヨナラHR2本)だったが、バレンタイン監督の招聘にあたり構想外となり、1年で自由契約に。
    • ロッテ時代はメル・ホールにいじめられていた。後に「ホールは嫌な奴だった。二度と思い出したくない」と語っている。
  2. 翌1995年はヤクルトスワローズに移籍。
    • 下位打線に置いて自由に打たせた結果、打率は低いものの長打力を発揮し「恐怖の8番打者」的な存在として、ヤクルトのリーグ優勝・日本一に貢献。
  3. 引退後はオランダ代表の監督に就任し、WBCで2回(2013年、2017年)指揮を執った。
矢野燿大
  1. 最初に入団したのは中日だったが、正捕手の中村武志の陰に隠れ目立たなかった。
  2. しかし阪神にトレードされた後は正捕手としてメキメキ頭角を現し、2003・2005年のリーグ優勝に貢献した。
    • かつての師匠だった星野仙一監督との出会いも大きい。
      • 彼を阪神に飛ばしたのが星野監督だったので、阪神で再会した当初は「また捨てられるのでは」と怯えていたが、師匠を見返せるほどの活躍が出来た。
  3. さらに2019年からは阪神の監督にも就任した。
山口鉄也
  1. 横浜のテスト落選、渡米もした、育成で巨人入団。
  2. 支配下となると中継ぎエースとして君臨。
山本昌広(山本昌)
  1. プロ入り直後は球速も遅く、当時解説者だった星野仙一から「ただ大きいだけ」と言われたりしていた。
  2. しかし1988年のアメリカ留学でスクリューボールをマスター。これによってメジャーのスカウトからも注目されるほどの投手に成長した。
  3. その後はNPB最年長、左腕投手では世界最年長でのノーヒットノーランをはじめ「NPB最年長」の記録のほとんどを塗り替えるほどの息の長い活躍を見せ、50歳まで現役を続けた。

格闘技[編集]

河野公平
  1. 初の世界挑戦は名城信男相手だったが、あまりにも微妙な判定で及ばず。さらに右拳を痛めてしまった。
  2. 2度目の挑戦は最終回ダウンを奪うも時すでに遅しの判定負け。
    • その後の再起戦も連敗。
  3. 3度目の挑戦で初の世界戴冠。
  4. そのタイトルの初防衛は逃すが、返り咲きは果たした。
  5. 2度目の防衛戦で当時国内ライセンスのなかった亀田興毅とアメリカで対戦することになったが、ダウンを奪って判定勝利。
  6. 王座陥落後、井上尚弥との対戦が実現した。
ジャイアント馬場/馬場正平
  1. 恵まれた体格を生かして野球に打ち込み、甲子園出場は果たせなかったが巨人からスカウトを受ける。
  2. 2軍で2連続最優秀選手となるも、1軍登板直後に目を病み、あわや失明の危機まで陥る。
  3. 何とか手術は成功したが、移籍した太洋の風呂場で転んで左腕を大怪我してしまい選手生命を絶たれる。
  4. 引退後にプロレスに転身し、猪木と共に国民的ヒーローとなった。
蒼国来栄吉
  1. 中国・内モンゴル自治区から来日し荒汐部屋に入門、同部屋初の関取となる。
  2. 幕内に昇進するも、2011年の八百長騒動に巻き込まれ一度は解雇されてしまう。
  3. しかし2年に渡る裁判の末潔白が証明され、相撲界に復帰が許される。
  4. 復帰直後はさすがに負け越し続きで一度十両に落ちるも、ほどなく幕内に返り咲き技能賞や金星も手にする。
  5. そして日本に帰化し、師匠の停年と共に引退し荒汐部屋を継承した。
内藤大助
  1. 日本初挑戦での微妙な引き分けや敵地タイでポンサクレック・ウォンジョンカム世界初挑戦での記録的KO負けを喫し、日本・東洋太平洋王座も怪我で返上するなど不遇な日々を送っていた。
  2. その後、ポンサクに3度目の挑戦が決まるも、直前でフジテレビが中継を取りやめスポンサーもなかなか確保できず中止危機に見舞われた。
    • しかし、ドン・キホーテがスポンサーに名乗りを上げ、TOKYO MXの生中継が決定。試合も判定で勝利して悲願の世界王座獲得。
  3. その後は亀田三兄弟の次男・大毅に勝利し、国民的人気者にのし上がった。また、この試合以降TBSが生中継するようになった。
西岡利晃
  1. バンタム級ではウィラポンに4度挑戦するも1度も勝てず(しかも2引分)、アキレス腱を痛め1年棒に振ったりもした。
  2. スーパーバンタム級転級後に、プロ39戦で悲願の世界王座獲得。
  3. その後は防衛を重ね、ラスベガス進出も果たした。
八重樫東
  1. プロ7戦目でイーグル京和が持つ世界ミニマム王座に挑むも偶然のバッティングで顎を骨折し、試合も判定負け。
  2. その後、日本王座を獲得し2度防衛に成功するが、怪我が多いため結婚を機に会長から引退勧告されてしまう。
  3. しかし、勧告をはねのけて2度目の世界王座挑戦をTKOで成功させた。
  4. その後、井岡一翔とのWBA・WBC王座統一戦が実現。敗れはしたものの知名度が一気に上がった。
  5. 続いてフライ級、ライトフライ級も制し、3階級制覇を達成した。

その他[編集]

北島康介
  1. アテネ・北京オリンピックで日本人初の2大会連続2種目制覇
  2. 世界選手権での2種目制覇は2003年だけだが大舞台のオリンピックには強い
  3. 2004年の流行語大賞を受賞
    • 続く2008年も名言を残している
    • 2012年の流行語大賞ノミネートにも関わっている
  4. 北京オリンピックではあの東原亜希が観戦していたが、きっちり金メダルを獲得し世界新記録を逃す程度で済んだ。
柴田大知
  1. 1996年にデビュー。同期に福永祐一・和田竜二・古川吉洋らがいる。
  2. 1年目に27勝、2年目に29勝を重賞初勝利(ラジオたんぱ賞/エアガッツ)を記録。
    • しかしこの重賞勝利の直後、当時の師匠である栗田博憲の反対を押し切って競馬新聞記者との結婚を強行。これが原因で栗田厩舎から解雇処分(破門、後に和解)されてしまいフリーの騎手に。
  3. この事件を境に騎乗数が減り始め、2003年以降は勝利数が一桁台にまで落ち込み、2006年には年間未勝利まで成績を落としてしまう。
    • 2005年からは障害競走にも乗り始めた。
  4. そんな中、2008年に新潟の北陸ステークスでダイイチミラクルに騎乗し2着と好走。
    • ダイイチミラクルの馬主の代表が以前ビッグレッドファームに勤務していたことで、サラブレッドクラブ・ラフィアンの所属馬に乗せて貰えるようになった。
  5. 2011年6月のマイネルネオスとのコンビで14年ぶりの重賞勝利(東京ジャンプステークス)。1ヶ月後の中山グランドジャンプ(東日本大震災の影響で延期されていた)も勝ち、GI(J・GI)初制覇。
    • レース後のインタビューで「騎手を辞めなくてよかったです」と涙を流しながら語った。
  6. 更に2013年のNHKマイルカップをマイネルホウホウで勝ち、平地のGI初勝利を飾った。
    • レース後のインタビューで再び号泣しながら「(平地の)GIを勝つ日が来るなんて夢のようで…」と語った。
  7. 2011年以降、平地競走での勝利数は二桁を記録している。
鈴木明子
  1. 10代では成績が伸びず、摂食障害にまで悩まされた。
  2. 20歳を過ぎてから才能が発揮、オリンピック2大会連続出場と世界選手権銅メダルを果たした。
    • 引退時のスポーツ人生を振り返る言葉は、「人生谷あり谷あり谷あり谷あり山あり」。
野村忠宏
  1. アトランタオリンピックで全く注目されていなかったにも関わらず金メダル
  2. その後シドニー、アテネオリンピックも優勝し全競技通じて日本人及びアジア人初のオリンピック個人種目3連覇
  3. 毎回同日に試合を行う谷亮子(田村亮子)に新聞の一面を取られていたが、引退後のスポーツキャスターとしての活躍から今では知名度は谷亮子以上。
    • 日本一有名な柔道家になったといえる
    • 現役時代はむしろプレッシャーがかからなくてよかったと本人が話している。
  4. 世界選手権での金メダルは1997年の1回しかないがオリンピックは3連覇。大舞台に強い。
    • 一方田村亮子は当時世界選手権2連覇・公式戦84連勝中で金メダル確実と言われたアトランタオリンピックで銀メダルに終わってしまったことがある
      • そのため世界選手権は6連覇含む7度優勝していながらオリンピックの金メダルは2回に留まっている
フッキ
  1. 川崎には将来性を買われての加入。
  2. 札幌でブレイク、東京VのJ2得点王で昇格貢献、川崎復帰で関塚監督との確執もセレソンのエースに。
スティーブン・ブラッドバリー
  1. オーストラリアのスピードスケート選手。
    • 1991年の世界ショートトラック選手権では団体戦に出場し、オーストラリアにウインタースポーツ競技初めての金メダルをもたらし、1994年のリレハンメル五輪ではショートトラック5000mリレーで決勝3位になり、オーストラリア初の冬季オリンピックメダリストになった。
      • しかし1994年に転倒しその際にスケートの刃で足を切り4リットルもの大量出血し100針以上縫う大けがを負い、2000年にもトレーニング中のアクシデントで首の骨を折り、6週間首を固定する医療機器を着けて過ごすなど二度の命にかかわるアクシデントを受けてしまう。
  2. 2002年ソルトレークシティ冬季五輪のショートトラック1000mで金メダル獲得。準々決勝以降のレース展開はまさに幸運。
    • 準々決勝→3位入線も2位に入った選手が妨害で失格になり繰り上がりとなり準決勝進出。
    • 準決勝→先頭集団に置いていかれ最下位追走だったがゴール前で3人転倒で2位で入線。その後1位の選手が妨害して転倒させたと分かり失格。その結果1位繰り上がりで決勝進出。
  3. そして決勝、スタートからブラッドバリーは置いて行かれる。「身体が痛くてペースについていけなかった」と本人が後に語るほどであり、完全に優勝争いの蚊帳の外の外の外の状態。
    • しかし、最終コーナーを回り最後の直線で先頭争いをしていた4名が互いに接触して全員転倒。終始最後方を走っていたブラッドバリーは体勢を立て直さんとしている4名の横をすり抜け先頭でゴールイン。
      • 数多の偶然と幸運が重なった結果オーストラリアどころか南半球として初めての冬季オリンピックの金メダリストとなったのであった。でも、その幸運の陰には二度に渡る大けがという不運があったのかもしれない。
  4. その功績を称え、オーストラリアでは彼の記念切手が作られ、またオーストラリアの俗語事典には「doing a Bradbury」(意味:意図しなかったり、普通は考えられないほどの成功を得る)が掲載された。
宮里優作
  1. 宮里三兄弟の真ん中。
  2. 2002年にプロ転向するが、兄の聖志がプロ4年目、妹の藍がアマチュアでツアー優勝を果たしたのに対し、優作はなかなかツアー優勝出来なかった。
  3. 2013年、プロ11年目にして日本ゴルフメジャー大会である「日本シリーズ」で初優勝を果たす。
  4. それ以降から勝ち星をあげるようになり、2017年には現役日本ゴルフツアー機構会長初の賞金王にも輝いた。

競走馬[編集]

ハルウララ
  1. 高知競馬所属の競走馬。デビューしたはいいが、連敗続き。故障のため、一時は引退もささやかれた。
  2. しかし、リストラ寸前の姿が全国ネットの番組に取り上げられると、瞬く間にアイドルホースとなる。
サンデーサイレンス
  1. アメリカの競走馬。ダービー・プリークネスS・BCクラシックを勝ち競走実績は文句なしだが、種牡馬としては買い手がつかず即日本に売却されることに。
  2. 来日後の活躍は説明不要。日本史上最高の種牡馬である。
テイエムプリキュア
  1. デビューから3連勝でGI(阪神ジュベナイルフィリーズ)を勝ったが、その後は5歳暮れまで負け続け、2009年の日経新春杯を最後に現役を引退して繁殖牝馬になる予定だった。
  2. ところがこのレースで大逃げを打ち、2着のナムラマースに3馬身半差を付けて勝ってしまった。
    • 鞍上の荻野琢真騎手も重賞初勝利となった。
  3. この勝利により急遽予定が変更され、現役を続行することになったが、3戦走っていずれも惨敗…。
  4. しかし12番人気で臨んだエリザベス女王杯では、クィーンスプマンテと共に逃げまくって2着に粘った。
  5. その後は翌年(2010年)のエリザベス女王杯まで現役を続けて引退。
  6. 生涯獲得賞金は2億474万1000円で、落札額の262万円に対して約80倍の賞金を稼いだ。
  7. 馬名の影響か人気もあり、引退レースとなった2010年のエリザベス女王杯では横断幕がパドックに9枚も掲げられていた。
ノーザンテースト
  1. カナダ生まれの競走馬。ヨーロッパで20戦5勝の成績を残し、GI(フォレ賞)も勝利した。
  2. 1975年に種牡馬として日本に輸入。
    • 当初はその独特の容貌(短い足と大きな頭)から、一部生産者から「犬のような馬」「態々(わざわざ)カナダからヤギを買ってきたのか」と揶揄された。
  3. しかし種牡馬として1979年から2006年まで中央競馬で28年連続で産駒が勝利を収め、通算で10回のリーディングサイアーに輝いた。
    • ブルードメアサイアー(母の父)としても1990年から2006年まで17年連続でリーディングブルードメアサイアーを獲得した。
スターロツチ(スターロッチ)
  1. 1957年生まれの牝馬。兄に啓衆社賞最優秀3歳牡馬(今の最優秀2歳牡馬)ライジングウィナーを持つ良血・・・だったのだが。
  2. この馬は腰から後躯にかけての筋肉がひ弱でとても強い馬には見えなかった。
    • 結果買い手は現れず、日本中央競馬会に買い取られ、育成牧場に送られた。この時点で競走馬として期待されていなかったということである。
      • しかし育成牧場で調教を重ねていくにつれ見違えるほどの成長を遂げた。その後抽せん馬として馬主の藤井金次郎氏に頒布された。
  3. デビューから6戦3勝という安定した戦績で桜花賞へと駒を進めるも、3勝のうち2勝は抽せん馬限定のレースだったためレベルが低いとみなされていた。
    • 当日は5番人気という評価だったものの勝ち馬とは0.1秒差の3着に入る好走を見せた。しかし次に出走した4歳牝馬特別(今のフローラステークス)では調教が不十分だったためか7着に惨敗。
      • オークスには出走できたが、当日の人気は9番人気という低評価だった。しかし調子を戻していた同馬は大外から差し切って優勝。売れ残り同然だった抽せん馬がクラシックを制するという下剋上を遂げたのだった。
  4. その後は夏~秋とレースに出るもオープン競走は勝てたが重賞になると今一歩のレースが続く。
    • しかし12月の特別ハンデキャップ競走を一度も鞭を入れずに勝利したことで推薦枠として年末の大一番有馬記念への出走ができるようになった。
  5. この年の有馬記念には二冠馬コダマを初めダービー馬コマツヒカリ、天皇賞馬オーテモンなど有力馬が揃っており、オークス以降重賞の勝利がない同馬は9番人気と評価されなかった。
    • しかしレースがスタートするとヘリオスと共に二頭で逃げを打つ。有力馬は後方で牽制しあう状態になりスローペースに。
      • ヘリオスが失速し後退するも同馬は先頭に立ち追いすがるオーテモンの追撃を押さえ優勝。4歳(今の3歳)牝馬としては史上初で今なお唯一の有馬記念制覇という快挙を遂げた。
  6. その後は古馬となってからは精彩を欠くレースが続き、京王杯オータムハンデ(今の京成杯オータムハンデ)で久々の勝利を挙げるものの、次走の毎日王冠で故障し競走中止。
    • 一命はとりとめたもののこのレースをもって引退。繁殖に入った。
  7. 繁殖馬としては仔に大きな活躍をした馬は出なかった。しかし産駒たちの仔からはサクラスターオーやウイニングチケットなどGIで活躍する馬を輩出していき、スターロッチ系という系統図を作りだしたのだった。

ユニホーム[編集]

西武ライオンズ(1979~2003)
  1. いわゆる「ライオンズブルー」を使用したユニホーム。
    • 選手の中には、全身ブルーのビジター用を「パジャマみたいで格好悪い」と思った選手もいたらしい。
  2. しかしながら、森監督時代の黄金期の象徴として有名でもある。

関連項目[編集]




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