幸運なモノ事典

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なんだかんだあったけど、幸運なモノを集めるページ。

※できるだけ起承転結のうち、起と結は別文にしてください。他の方にも間を書いていただきたい、という趣旨もあるので。

独立済み[編集]

交通[編集]

鉄道[編集]

銚子電気鉄道
  1. 電車の点検したいけど、乗客が少なすぎて費用が集まらない…
  2. なんか、地元においしいお菓子あるぞ?銚子電鉄が作って売るか…
  3. 至る所で売れたぞ、点検して電車をまた動かせる!
  4. でも次の電車の点検費用がまた足りなくなった…
    • いっそのことあの映画のパロディでも作るか。
  5. 一度廃線になって数年後復活した。
路面電車
  1. 自動車交通の邪魔として全国から撤去されていった。
    • 自動車を軌道敷内通行可にして、路面電車を追い出していった。
  2. 2000年を過ぎ見直され、路線延伸や鉄道からの転換が行われることに。
上越新幹線脱線事故
  1. 新潟県中越地震により、上越新幹線200系新幹線が脱線してしまった。
    • マスゴミはフルボッコ。
  2. しかしたまたま車輪が排雪溝に入り込んだおかげで、転覆せずに済んだ。おかげで負傷者ゼロ。
    • 脱線事故に関し、JR東日本では新幹線の安全性が低下したと海外から見られると思っていたが、転覆なし・負傷者ゼロという点が海外から絶賛され、新幹線の安全神話を強固なものにした。
    • 脱線したのが重かった200系だったというのもある。
三陸鉄道南リアス線・北リアス線
  1. 国鉄の建設工事が中断され、第3セクターの三陸鉄道を設立して開業。
  2. 2011年の東日本大震災で三陸縦貫鉄道網は軒並み長期間の運休。
  3. しかし国鉄から見捨てられ三陸鉄道として開業した路線は国鉄路線より早く復旧が進む。
    • なんと震災発生のわずか5日後の3月16日に早くも北リアス線の陸中野田-久慈間が運転再開。
    • 震災1年後の2012年4月までに半分以上の区間が復旧。
    • そして3年後の2014年4月6日についに全線運転再開。「2度目の」開業記念式典が盛大に開かれた。
  4. 一方で国鉄→JRとして開業した大船渡線、山田線の復旧は進まず。
    • 大船渡線は2013年3月2日にBRTの運行を開始。事実上鉄道での復旧はあきらめたのか。
    • 山田線は沿岸区間の宮古-釜石間が三陸鉄道に移管され、南リアス線・山田線・北リアス線が統合されリアス線になる。
      • JR東日本は見下していた三陸鉄道に尻拭いされる形に。
EF64型電気機関車
  1. 需要がありすぎてJRに全車継承され、2000年代初め頃までは全車健在だった。
  2. 板谷峠の交流化で本形式を駆逐したEF71が需要がなくなって全廃された後も全車健在だった。
  3. Nゲージの1000番代はTOMIXが台車誤装着というトラブルをやらかして絶版になり、一時期ラインナップが途絶えていたが、競合メーカーであるKATOが製品化する形で拾われた。その後マイクロエースも製品化。
近鉄名阪甲特急
  1. 昭和30年代は名阪間の半分以上のシェアを誇っていたが、東海道新幹線開通で客のほとんどが奪われ、2両編成で運行される時代もあった。
    • 単行運転用の両運転台車まで計画されたほど。
  2. しかし1970年代後半以降国鉄が爆発的な運賃・料金値上げを重ねたことから、安く移動できる近鉄に客が戻り、次第に増結されるようになった。
  3. そして1988年にアーバンライナーこと21000系を導入、利用客はさらに増加して昭和30年代のピーク時を上回るほどになった。
  4. その後は新幹線に「のぞみ」が登場するなどして翳りが見えてきたが、それでも一定の利用はある。但し名阪間ノンストップではなくなり全列車が津(一部は大和八木にも)に停車するようになった。
南海「ラピート
  1. 1994年の関空開港と同時にデビューし、その奇抜なデザインから一躍人気者になった。
  2. しかし関西経済の低迷やJR「はるか」との競合で利用が低迷するようになり、「ガラガラピート」状態になってしまった。
    • 当初は難波~関空ノンストップのラピートαと途中駅停車のラピートβに分かれていたが、これによりラピートβに統一されてしまった。
  3. 2010年代に入るとインバウンドで関空が再び賑わうようになり、ラピートの利用客も回復、時間帯によっては満席になることも多くなってきた。
    • それに伴いラピートαも復活した(但し開港当初よりも停車駅は増えている)。
江ノ島電鉄
  1. 昭和30~40年代、モータリゼーションの影響で利用者が低迷し、廃線の危機に陥った。
  2. しかし、道路が渋滞するようになり、時間通りに走る江ノ電に乗客が戻ってきた。
    • さらに、昭和50年代以降、各種作品で沿線が舞台になり、観光客が増加。
      • 今では繁忙期はなかなか乗れないほどの人気になっている。
広島電鉄650形車輛
  1. 1942年に5車輛が製造。
  2. 1945年8月6日、広島市に原爆が投下されこれらの車両は甚大な被害を受けた。
  3. しかし、5車輛のうち4車輛は翌年にはほぼ原形に近い形で復帰、被害が大きかった残る1つも3年後の1948年に営業運転に復帰した。
  4. 製造から75年以上たった現在でも651番と652番が現役で活躍しており、653番も原爆の日や平和学習で活用されている。

自動車[編集]

5ドアセダン
  1. 欧州では市民権を得ている車種だが、日本では昭和40年代からラインナップしているものの「ライトバンみたい」と評され、昭和50年代半ば頃には大衆車クラスに設定したものの、大きな支持を得られず、平成初期には廃れていった。
  2. しかしプリウスの大ヒットでようやく日本でも市民権を得られた。
スズキ・ソリオ
  1. 前身車種であるワゴンRワイドは2年間の発売にとどまり、モデルチェンジ後のワゴンRプラス/ソリオは11年間もモデルチェンジせずに放置プレイされるなど、競合車種に大きく水を開けられていたが、2010年のフルモデルチェンジで売上を伸ばした。
スズキ・ハスラー
  1. 長年軽No.2に留まっていたスズキにとって軽No.1に返り咲いた車。
  2. 三菱・eKアクティブで市民権を得られなかった軽クロスオーバーだったが、この車で市民権を得た。
マツダ・デミオ
  1. マツダが経営危機の頃に売り出し、見事大ヒットし、持ち直した。
    • 初代だけでなくキープコンセプトながら弱点を潰した2代目、方針を180度変更した3代目、1.5Lディーゼルエンジンを搭載した4代目も…というか全部ヒット作。
トヨタ・アルファード
  1. 日産・エルグランドに対抗してトヨタがグランビア・レジアス・ツーリングハイエース・グランドハイエースを発売したが、太刀打ちできなかったため、それらを統合して発売し、エルグランドを上回る売れ行きを見せた。今やヴェルファイアという姉妹車を生み出すまでに至った。
トヨタ・ハリアー
  1. レクサス・RX発売後は絶版になる予定だったが、人気の根強さから現在に至るまで併売されている。
    • レクサス・RXとは別にモデルチェンジも果たした。
      • ちなみにエンジンやフレームはRXと全く一緒の物。余談だがレクサス・LXも同じように日本仕様としてランドクルーザープラドが生き残っている。
トヨタ・シエンタ
  1. 後継になるはずだったパッソセッテ発売後も併売され、パッソセッテの売上不振で障害になったことから1度絶版になった。
  2. それでもパッソセッテの売上は好転せず、やむなく復活。逆にパッソセッテが絶版となった。
  3. そして2代目へのフルモデルチェンジを果たした。
伊勢湾岸自動車道
  1. 当初、無駄な公共事業の代表格として取り上げられた。
  2. 距離の割には、料金が高く、相変わらず国道23号などが利用されることが多かった。
  3. 長島町南部を通ることになり、ナガシマスパーランドへのアクセスが向上。
  4. 新名神、新東名高速が開通し、東名阪道などのバイパスとしても機能することに。

航空[編集]

デルタ航空
  1. 一度破産した。
  2. 今ではスカイチーム一の稼ぎ頭に。
名古屋空港国際線ターミナル(エアポートウォーク名古屋)
  1. 1999年に開業したが、中部国際空港の開港を受け僅か6年あまりで閉鎖される。
  2. その後、施設を改装しショッピングセンターとして活用し大成功を収める。
An-225
  1. ロシア版スペースシャトルであるブラン計画のために作られたが、それが頓挫してしまい行き場を失う。
  2. しかしその250t超(スペック上は300t以上行けるらしい)というメチャクチャなペイロードを生かしてチャーター便として復活。

企業[編集]

アイホン株式会社
  1. 愛知のインターホン、だからアイホンと名付けた。
  2. 半世紀たって、太平洋の向こう側からアイホンと名乗るデバイスが来たぞ?
  3. 日本でアイホンと名乗るなら金をくれ!
    • 毎年1億円のお年玉をもらえるようになった。
    • iPhoneの商標は、下記企業のライセンスに基づき使用されています。アイホン株式会社
      • 逆です。(ここが「商標を使わせないぞ!」ってブチ切れたら、下の会社が日本でアレを売ることが出来なくなるとか。)
Apple(旧アップルコンピュータ)
  1. マッキントッシュなど、様々な先進的機器を発明。
  2. しかし流行が追い付かなかったのか、他社に抜かれてしまう。
    • マッキントッシュと他のパソコンの互換性が良くなく、外部プログラムの作成があまり進まなかった。
  3. ストリーミング式音楽再生端末iPodで形勢逆転開始。
    • とりあえず資金源は得た。
  4. スマートフォン市場にiPhoneで参入。
    • アメリカと日本でバカ売れ、アップルコンピュータの新たなる地位を確立する。
  5. もはやコンピュータというよりスマホの会社になってしまったので、社名をAppleに変えてしまった。
  6. 今ではiPadも製造しているほか、マッキントッシュのアイコンもiPhone化させてしまった。
NVIDIA
  1. GeForce 8800番台まではAMD(旧ATI)のRadeonに対して優位に立っていた。
  2. しかし、その後はリネーム商法(GPU自体が同じなのに別の型番をつけて出す)、リコール無視、新製品のエア発表(実物として出されたボードが動かないモックアップだった)、火葬ドライバー(ドライバーの不具合でGPUが焦げてしまう)など迷走。
    • 特にGTX480は発熱量も消費電力も大きかった。
  3. 600番台の完成度が高く、NVIDIAは復活。
    • さらにNintendo SwitchにTegraが採用、NVIDIAのプロセッサーがAI・機械学習や自動運転用プロセッサーの標準になり、完全復活している。

教育[編集]

品川女子学院
  1. 平成初期までは受験者数が伸び悩んでいたが、制服を教職員達がデザインしたおしゃれなキャメル色のブレザーに刷新したところ、受験者数が増加。制服も他校に影響を与えた。
  2. 広末涼子の出身校であったため、ブレイクと相まって受験するファンも現れた。
東京都立日比谷高等学校
  1. 1960年代前半まで東大合格者数が全国1位だった。
  2. しかし、1967年に学校群制度が開始したことにより東大合格者数が激減。
  3. その後も開成などの私立の台頭により、1993年には東大合格者数が1人になってしまった。
  4. 2001年に東京都が日比谷を進学指導重点校に指定し、進学指導に力を入れるようになった。
  5. 結果、2016年に東大合格者数が50人を突破し、2018年には1970年以来48年ぶりに東大合格者数ランキングでトップ10に入った。
  6. 最近では開成に合格していても日比谷に進学する受験生も出るようになった。
国際教養大学
  1. 現在の大学があるところはもともとはアメリカの大学の日本校として開校した大学の敷地だったが、その日本校は2003年に閉校となった。
  2. それを秋田県が改めて公立大学として開校したところ、グローバル化に対応したカリキュラムが企業に受け、就職実績がよかったために秋田県以外からもたくさんの学生が集まるようになった。

スポーツ[編集]

広島カープ
  1. 設立翌年に既に大洋(現横浜DeNA)と合併するという話があったほどの資金難だった。
    • 当初はユニフォームが1人1枚しかなく、移動費すら払えない有様だったとか。
  2. 募金をしたり、運営会社を立て直したりして乗り切った。
    • 地元の警察官がパトカーで募金しに来たとか。
  3. その後も貧乏球団だと言われていたが、多彩なグッズが話題を呼ぶようになり、今ではグッズがかなりの収入源となっている。
    • 特に、Tシャツは自前の工場を持っている。
川崎フロンターレ
  1. 川崎市は大洋、ロッテ、ヴェルディが相次いで出て行ったため、市民からは「どうせお前らも本気じゃないんだろう」との言われ様だった。
  2. Jリーグ参入当初はJ1昇格も1年でJ2逆戻りしたが、苦しんだ末にJ1復帰を果たし、やがて市民から愛されるクラブとしてリーグ優勝も果たす強豪にまで成長。
1996年の読売ジャイアンツ
  1. シーズン序盤はリリーフ陣の崩壊などもありBクラスに低迷していたが、7月から快進撃を始め、首位だった広島と中日をごぼう抜きしてまさかの逆転優勝を果たした。
    • 当時リーグ史上最大の11.5ゲーム差をひっくり返し、ここに「メークドラマ」が完成した。ただし日本シリーズでは当時人気があったイチロー率いるオリックスに日本一を献上したが…。
2008年のタンパベイ・レイズ
  1. デビルレイズからデビルを取ったとたん、ア・リーグ優勝してしまった。
2009年全国高校野球選手権大会決勝 中京大中京vs日本文理
  1. 試合展開と試合後の両チームの表情から「誰も傷つかず、みんなが幸せになれた試合」と言われる。
    • 敗者が存在しない試合、両チームも球場にいる観客も全員が勝者とも。
  2. 「日本文理の夏はまだ終わらない」は高校野球実況史に残る名言。
  3. そのため大逆転でも延長戦でもないのに、ネットサイトasahi.comの高校野球名勝負投票でこの試合が2位になった。
    • 投票者に若い世代が多かった結果でもあるが。
2010年サッカーワールドカップの日本代表
  1. 惨敗必至の予想も勝利を挙げた。
  2. 谷間の世代と呼ばれたアテネ世代が屋台骨となり汚名返上となった。
2015年ラグビーワールドカップ
  1. 日本の初戦で、世界ランク2位の南アフリカに勝ってしまった。
    • 日本の関心がラグビーに向いた。
  2. 五郎丸ポーズが流行った。
    • 勘違いしている人多数。でも悪いのは勘違いしている人たちであって、ラグビーではない。
2019年の阪神タイガース
  1. シーズン終盤になって5位にまで低迷したが、そこから6連勝し、中日と広島をごぼう抜きしてまさかの逆転CS出場を果たした。
    • さらに横浜DeNAベイスターズとのCS1stステージも勝利し、ファイナルステージに駒を進めた。結果は巨人に負けたが。
    • 5位になった時CS出場は絶望的とも言われていたくらいだった。

選手[編集]

野球[編集]

赤星憲広
  1. 2000年のドラフト会議で阪神に指名された際は、阪神ファンからの非難が激しかった。
    • 当時のファンの多くは高卒の若い選手を望んていたのに対し、赤星は社会人でしかも大卒であったこと、非力だったことからあまり歓迎されていなかった。
  2. しかしプロ入り後は阪神の主力として活躍。2003年には阪神のリーグ優勝に貢献した。
糸井嘉男
  1. 自由獲得枠で投手として入団するも登板なし。
  2. 野手転向後身体能力を武器に計算できる外野手に、トレードされるも35歳にして盗塁王獲得。
伊藤敦規
  1. 阪急・オリックス→横浜でプレーしていたが、1996年のシーズン終了後に戦力外通告を受ける。
    • 「幼少期からファンだった阪神でダメだったら諦めもつく」と決意し阪神の入団テストを受け合格。
  2. 阪神移籍後は中継ぎで活躍し、2000年にはセ・リーグ最多の71試合に登板、防御率1.86という好成績を残した。
川崎宗則
  1. シカコ・カブスの悪夢「ヤギの呪い」を解呪するのに必要だった人物。
  2. 選手登録枠40人からは外れていたが、それでもムードメーカーとしてベンチ入り、そしてチームを優勝に導いた。
  3. これ以外にもMLB公式から「ムネノリ・カワサキ」賞を授与されるなど、ムードメーカーとしての実力が目立つが、実は2塁3塁遊撃と内野をどこでも守れる器用な選手である。
    • ちなみに選手としての出場以外ならキャッチャーとピッチャーもやっている。
  4. その後日本に帰ってからうつ病で2シーズン休業してたが、台湾で活動を再開した。
島野修
  1. 高校時代に2回甲子園に出場、1968年のドラフト会議で巨人から1位指名を受ける。
    • 巨人からの指名を確信していた星野仙一は、この時「星と島を間違えたんじゃないのか?」と言ったとされる。
  2. しかし巨人入団後は高校時代の投げ過ぎが原因で肩を痛め、結果を残せなかった。
    • 1976年に阪急へ移籍したが一軍での登板はなく、1978年に現役を引退。
  3. 引退後は芦屋市でスナックを開いていたが、1981年春に阪急の加藤選手会長が島野を訪ね、球団マスコット「ブレービー」のマスコット人形役への就任要請を出す。
    • 島野本人はすぐ断るつもりだったが、メジャーリーグ各球団のマスコットの活躍をビデオで観賞、更にファンサービス担当者の「野球を知っていないとできない仕事」という言葉に「お客さんが少しでも増えるなら」と引き受ける決心をつけた。
  4. デビュー当初は新聞にネガティブな記事が書かれるなど、決して良い扱いはされていなかった。
    • しかしある日、西宮球場近くの食堂で落ち込んで飲んでいるときに「またブレービーを見たいから球場に連れて行って」と親にせがむ子供の声を聞き、島野は迷いを吹っ切った。
  5. それ以降、1998年のシーズン終了までの阪急・オリックスの主催試合1175試合を1試合も欠場せずにスーツアクターを勤め上げた。
西清孝
  1. 1984年にドラフト外で南海に入団。
    • 1990年のシーズン途中に広島へ移籍したが、1993年に戦力外通告を受けてしまう。
      • 一時は引退を考えたが、横浜のテストを受け打撃投手兼任として入団。
  2. 横浜移籍4年目の1997年にプロ初勝利を挙げた。
    • この年は58試合に登板し防御率2.55を記録。
古田敦也
  1. 眼鏡もありドラフトでは実力は認められるも敬遠されていた。
    • ソウルオリンピックがきっかけで、やっと目をかけてもらえた。
  2. 野村克也監督との出会いで屈指の捕手となる。
    • 実は当時、ヤクルトの監督に就任したばかりの野村はドラフト5日前のスカウト会議の場で「眼鏡のキャッチャーは要らん」「高校生の捕手を獲ってくれ。ワシが育てる」と古田の獲得に否定的な発言をしていた。
      • が、スカウトの片岡宏雄が「古田との約束を破る事になるのでそれはできない」と喰い下がり、ヤクルトへの入団となった。
ヘンスリー・ミューレン
  1. 1994年に千葉ロッテマリーンズに入団しまずまずの成績(.248 23本 69点、サヨナラHR2本)だったが、バレンタイン監督の招聘にあたり構想外となり、1年で自由契約に。
    • ロッテ時代はメル・ホールにいじめられていた。後に「ホールは嫌な奴だった。二度と思い出したくない」と語っている。
  2. 翌1995年はヤクルトスワローズに移籍。
    • 下位打線に置いて自由に打たせた結果、打率は低いものの長打力を発揮し「恐怖の8番打者」的な存在として、ヤクルトのリーグ優勝・日本一に貢献。
  3. 引退後はオランダ代表の監督に就任し、WBCで2回(2013年、2017年)指揮を執った。
矢野燿大
  1. 最初に入団したのは中日だったが、正捕手の中村武志の陰に隠れ目立たなかった。
  2. しかし阪神にトレードされた後は正捕手としてメキメキ頭角を現し、2003・2005年のリーグ優勝に貢献した。
    • かつての師匠だった星野仙一監督との出会いも大きい。
  3. さらに2019年からは阪神の監督にも就任した。
山本昌広(山本昌)
  1. プロ入り直後は球速も遅く、当時解説者だった星野仙一から「ただ大きいだけ」と言われたりしていた。
  2. しかし1988年のアメリカ留学でスクリューボールをマスター。これによってメジャーのスカウトからも注目されるほどの投手に成長した。
  3. その後はNPB最年長、左腕投手では世界最年長でのノーヒットノーランをはじめ「NPB最年長」の記録のほとんどを塗り替えるほどの息の長い活躍を見せ、50歳まで現役を続けた。

格闘技[編集]

河野公平
  1. 初の世界挑戦は名城信男相手だったが、あまりにも微妙な判定で及ばず。さらに右拳を痛めてしまった。
  2. 2度目の挑戦は最終回ダウンを奪うも時すでに遅しの判定負け。
    • その後の再起戦も連敗。
  3. 3度目の挑戦で初の世界戴冠。
  4. そのタイトルの初防衛は逃すが、返り咲きは果たした。
  5. 2度目の防衛戦で当時国内ライセンスのなかった亀田興毅とアメリカで対戦することになったが、ダウンを奪って判定勝利。
  6. 王座陥落後、井上尚弥との対戦が実現した。
ジャイアント馬場/馬場正平
  1. 恵まれた体格を生かして野球に打ち込み、甲子園出場は果たせなかったが巨人からスカウトを受ける。
  2. 2軍で2連続最優秀選手となるも、1軍登板直後に目を病み、あわや失明の危機まで陥る。
  3. 何とか手術は成功したが、移籍した太洋の風呂場で転んで左腕を大怪我してしまい選手生命を絶たれる。
  4. 引退後にプロレスに転身し、猪木と共に国民的ヒーローとなった。
内藤大助
  1. 日本初挑戦での微妙な引き分けや敵地タイでポンサクレック・ウォンジョンカム世界初挑戦での記録的KO負けを喫し、日本・東洋太平洋王座も怪我で返上するなど不遇な日々を送っていた。
  2. その後、ポンサクに3度目の挑戦が決まるも、直前でフジテレビが中継を取りやめスポンサーもなかなか確保できず中止危機に見舞われた。
    • しかし、ドン・キホーテがスポンサーに名乗りを上げ、TOKYO MXの生中継が決定。試合も判定で勝利して悲願の世界王座獲得。
  3. その後は亀田三兄弟の次男・大毅に勝利し、国民的人気者にのし上がった。また、この試合以降TBSが生中継するようになった。
西岡利晃
  1. バンタム級ではウィラポンに4度挑戦するも1度も勝てず(しかも2引分)、アキレス腱を痛め1年棒に振ったりもした。
  2. スーパーバンタム級転級後に、プロ39戦で悲願の世界王座獲得。
  3. その後は防衛を重ね、ラスベガス進出も果たした。
八重樫東
  1. プロ7戦目でイーグル京和が持つ世界ミニマム王座に挑むも偶然のバッティングで顎を骨折し、試合も判定負け。
  2. その後、日本王座を獲得し2度防衛に成功するが、怪我が多いため結婚を機に会長から引退勧告されてしまう。
  3. しかし、勧告をはねのけて2度目の世界王座挑戦をTKOで成功させた。
  4. その後、井岡一翔とのWBA・WBC王座統一戦が実現。敗れはしたものの知名度が一気に上がった。
  5. 続いてフライ級、ライトフライ級も制し、3階級制覇を達成した。

その他[編集]

北島康介
  1. アテネ・北京オリンピックで日本人初の2大会連続2種目制覇
  2. 世界選手権での2種目制覇は2003年だけだが大舞台のオリンピックには強い
  3. 2004年の流行語大賞を受賞
    • 続く2008年も名言を残している
    • 2012年の流行語大賞ノミネートにも関わっている
  4. 北京オリンピックではあの東原亜希が観戦していたが、きっちり金メダルを獲得し世界新記録を逃す程度で済んだ。
柴田大知
  1. 1996年にデビュー。同期に福永祐一・和田竜二・古川吉洋らがいる。
  2. 1年目に27勝、2年目に29勝を重賞初勝利(ラジオたんぱ賞/エアガッツ)を記録。
    • しかしこの重賞勝利の直後、当時の師匠である栗田博憲の反対を押し切って競馬新聞記者との結婚を強行。これが原因で栗田厩舎から解雇処分(破門、後に和解)されてしまいフリーの騎手に。
  3. この事件を境に騎乗数が減り始め、2003年以降は勝利数が一桁台にまで落ち込み、2006年には年間未勝利まで成績を落としてしまう。
    • 2005年からは障害競走にも乗り始めた。
  4. そんな中、2008年に新潟の北陸ステークスでダイイチミラクルに騎乗し2着と好走。
    • ダイイチミラクルの馬主の代表が以前ビッグレッドファームに勤務していたことで、サラブレッドクラブ・ラフィアンの所属馬に乗せて貰えるようになった。
  5. 2011年6月のマイネルネオスとのコンビで14年ぶりの重賞勝利(東京ジャンプステークス)。1ヶ月後の中山グランドジャンプ(東日本大震災の影響で延期されていた)も勝ち、GI(J・GI)初制覇。
    • レース後のインタビューで「騎手を辞めなくてよかったです」と涙を流しながら語った。
  6. 更に2013年のNHKマイルカップをマイネルホウホウで勝ち、平地のGI初勝利を飾った。
    • レース後のインタビューで再び号泣しながら「(平地の)GIを勝つ日が来るなんて夢のようで…」と語った。
  7. 2011年以降、平地競走での勝利数は二桁を記録している。
鈴木明子
  1. 10代では成績が伸びず、摂食障害にまで悩まされた。
  2. 20歳を過ぎてから才能が発揮、オリンピック2大会連続出場と世界選手権銅メダルを果たした。
    • 引退時のスポーツ人生を振り返る言葉は、「人生谷あり谷あり谷あり谷あり山あり」。
野村忠宏
  1. アトランタオリンピックで全く注目されていなかったにも関わらず金メダル
  2. その後シドニー、アテネオリンピックも優勝し全競技通じて日本人及びアジア人初のオリンピック個人種目3連覇
  3. 毎回同日に試合を行う谷亮子(田村亮子)に新聞の一面を取られていたが、引退後のスポーツキャスターとしての活躍から今では知名度は谷亮子以上。
    • 日本一有名な柔道家になったといえる
    • 現役時代はむしろプレッシャーがかからなくてよかったと本人が話している。
  4. 世界選手権での金メダルは1997年の1回しかないがオリンピックは3連覇。大舞台に強い。
    • 一方田村亮子は当時世界選手権2連覇・公式戦84連勝中で金メダル確実と言われたアトランタオリンピックで銀メダルに終わってしまったことがある
      • そのため世界選手権は6連覇含む7度優勝していながらオリンピックの金メダルは2回に留まっている
宮里優作
  1. 宮里三兄弟の真ん中。
  2. 2002年にプロ転向するが、兄の聖志がプロ4年目、妹の藍がアマチュアでツアー優勝を果たしたのに対し、優作はなかなかツアー優勝出来なかった。
  3. 2013年、プロ11年目にして日本ゴルフメジャー大会である「日本シリーズ」で初優勝を果たす。
  4. それ以降から勝ち星をあげるようになり、2017年には現役日本ゴルフツアー機構会長初の賞金王にも輝いた。

競走馬[編集]

ハルウララ
  1. 高知競馬所属の競走馬。デビューしたはいいが、連敗続き。故障のため、一時は引退もささやかれた。
  2. しかし、リストラ寸前の姿が全国ネットの番組に取り上げられると、瞬く間にアイドルホースとなる。
サンデーサイレンス
  1. アメリカの競走馬。ダービー・プリークネスS・BCクラシックを勝ち競走実績は文句なしだが、種牡馬としては買い手がつかず即日本に売却されることに。
  2. 来日後の活躍は説明不要。日本史上最高の種牡馬である。
テイエムプリキュア
  1. デビューから3連勝でGI(阪神ジュベナイルフィリーズ)を勝ったが、その後は5歳暮れまで負け続け、2009年の日経新春杯を最後に現役を引退して繁殖牝馬になる予定だった。
  2. ところがこのレースで大逃げを打ち、2着のナムラマースに3馬身半差を付けて勝ってしまった。
    • 鞍上の荻野琢真騎手も重賞初勝利となった。
  3. この勝利により急遽予定が変更され、現役を続行することになったが、3戦走っていずれも惨敗…。
  4. しかし12番人気で臨んだエリザベス女王杯では、クィーンスプマンテと共に逃げまくって2着に粘った。
  5. その後は翌年(2010年)のエリザベス女王杯まで現役を続けて引退。
  6. 生涯獲得賞金は2億474万1000円で、落札額の262万円に対して約80倍の賞金を稼いだ。
  7. 馬名の影響か人気もあり、引退レースとなった2010年のエリザベス女王杯では横断幕がパドックに9枚も掲げられていた。
ノーザンテースト
  1. カナダ生まれの競走馬。ヨーロッパで20戦5勝の成績を残し、GI(フォレ賞)も勝利した。
  2. 1975年に種牡馬として日本に輸入。
    • 当初はその独特の容貌(短い足と大きな頭)から、一部生産者から「犬のような馬」「態々(わざわざ)カナダからヤギを買ってきたのか」と揶揄された。
  3. しかし種牡馬として1979年から2006年まで中央競馬で28年連続で産駒が勝利を収め、通算で10回のリーディングサイアーに輝いた。
    • ブルードメアサイアー(母の父)としても1990年から2006年まで17年連続でリーディングブルードメアサイアーを獲得した。

人物[編集]

今泉健司
  1. 1987年に関西奨励会に入会したが、1999年に年齢制限により奨励会を退会せざるを得なかった。
    • 昇段次点である三段リーグ3位に二度なっているが、1回目当時は「次点2回でフリークラスとして四段昇段」の制度が存在しなかった。
  2. 2007年に三段編入試験を受け奨励会三段に編入したものの、四段に上がることはできず再び奨励会を退会。
  3. 2014年になってプロ編入試験を受け合格。41歳でようやくプロ棋士になった。
  4. 2018年にNHK杯本選第1回戦で藤井聡太と対戦したところ、藤井に勝利し一躍話題となった。
今川氏真
  1. 桶挟間で戦死した義元の跡を継いで今川氏を当主となったが・・・。
    • 信長への復仇に消極的だったがために部下や同盟相手から愛想を尽かされ、その後徳川・武田の二方向から攻め入られ降伏。結果的に一代で今川家を駄目にしてしまう。
  2. その後は妻の実家であった北条氏に落ちのびさらに徳川家の庇護を受け、最終的に江戸の品川の屋敷を与えられ、そこで77歳で亡くなった。
  3. しかし彼自身、塚原卜伝から剣を学び自らの流派として発展させたり、和歌や連歌といった詩文の能力に優れ、また蹴鞠の技術に関しては織田信長も深く興味を示していた。
  4. その文化的才能は朝廷との交流に大いに役立つことになる。父の代から公家との交流を持ち、氏真にもしっかりと受け継がれたそのスキルは徳川幕府にとって欠かせない存在となり、今川家はその後も長く直系が続くこととなった。
ジャン・アンリ・ファーブル
  1. 言わずと知れた虫大好きおじさん。アップダウンが激しすぎる一生(ダウンが多い)を送ったことで知られる。
  2. 非常に貧しい家庭に生まれ、食事を水だけで過ごしつつ必死に勉強し、師範学校(教員専門大学)を運よく主席で合格。更にそこで知り合った女性と結婚した。
  3. しかし最初の一姫二太郎は幼くしてすぐに死んでしまい、夢だった大学教授になる為に染料の研究を行い、遂にアカネから赤い染料を作り出す技術を開発してレジオン・ド・ヌール勲章(日本で言えば紫綬褒章クラス)を授与した。
  4. のはいいが、翌年にドイツで更に安価な原料でいくらでも染料を作れる方法が見つかってしまい、一気にお払い箱になる。
    • この頃、近所トラブルでペットに毒を盛られるほど忌み嫌われるようになり、家族を連れて移住。この頃に『昆虫記』を執筆した。
  5. またも貧乏暮らしになる中、可愛がっていた次男が16歳の若さで病没。あまりのショックに体を壊し生死の境を彷徨うが、諦めてなるものかと奮起してまた引っ越しを行った。
  6. そして妻に先立たれ、40歳下の後妻と再婚。このとき64歳でありながら子供を作るなど下半身は元気そのものであった。
  7. こうして迎えた老後生活で、かねてから出していた『昆虫記』がまさかの重版を飛ばす大ヒットになり、晩年はもう一度レジオン・ド・ヌール勲章を受章。二人の妻と多くの子に先立たれる中、91歳で大往生を遂げた。
  8. 生来の虫好きだったファーブルだが、「生まれ変われるものならば虫になりたいですか」と質問された時にはこう返したという。
    「絶対にごめんだね。私は人間として生きたいよ。生きていることのすばらしさを実感しながら生きていけるのは、人間しかいないからね」
メッテ=マリット
  1. 2019年現在のノルウェー王太子妃。
  2. 王太子とは大学で知り合ったのだが、当時すでにシングルマザーだったことや麻薬パーティーに参加した経歴が問題視され、当然のことながら国民からは反発を食らった。
  3. しかし婚約が発表された際に自らの過去を反省した会見で好感度を上昇させ、見事王太子との結婚にこぎつけた。

その他[編集]

プラレール
  1. 元々は幼児をターゲットにしていた鉄道玩具だった。
    • トミーとしてはプラレール→スーパーレール→TOMIX(Nゲージ)にステップアップしていく考えを持っていた。
  2. 1980年代半ば頃には新製品すら開発できなくなる。
    • 185系や阪急電車ですら165系の車体を塗り替えた代物だった。
  3. スーパーレールの失敗もあり、ターゲットを3歳以上に変えたところ、幅広い層に支持されることに。
    • 今や古典的な車種やマニアックな車種までもラインナップされている。
博多駅前道路陥没事故
  1. 福岡市営地下鉄七隈線の延伸工事中、博多駅前の道路がかなり大規模に陥没した。
  2. ただ発生したのが早朝だったのと、作業員が前兆に気づいて退避や道路の通行止めを事前に行ったため、死傷者は奇跡的にゼロだった。
    • その後の復旧も早く、1週間後には交通規制が解除された。
      • が、復旧に際し掘っていたトンネルごと埋めたため、結局七隈線の延伸は2年以上遅れることに。
ONO消しゴム
  1. 兵庫県小野市がPRのため作った消しゴムだが、MONO消しゴムにそっくりなデザインが商標権に引っ掛ってしまい、販売中止となった。
    • そもそも業者がトンボ鉛筆に許可なしで作ったのだから驚き。
    • まぁニュース沙汰になったのでPRはできたのだけど。
  2. だがその後トンボ鉛筆の許可を得て作り直されることが決定。イベントなどで無料配布されるとのこと。

関連項目[編集]




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