徳川家康

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出世大名家康くん
  1. 家康、鯛の天ぷらの食い過ぎで食中毒にかかり死ぬ。
    • 食中毒なんて健康オタクの家康らしからぬ死に方だ。実際は胃癌との説が濃厚らしい・・・。
    • でも、実際に70過ぎまで生きたんだから、当時は大往生と言っても良いよな。
  2. 経営者たちにもっとも人気がある歴史人物。
    • 腹黒いところはあんまり見習って欲しくないなあ。
    • 中国の経営者・サラリーマンにも人気らしい。(この局の番組で出ていた。)
      • 「強い奴には逆らわないが、スキあらば寝返る」「自分の領地が増えた時、家臣の領地はなるべく増やさない」・・・家康は日本を平和にしたが、現代の企業経営者がこんな事をしてもそいつの利益が増えるだけ。外国企業と競争して利益をさらってこない限り、日本人にとって害悪でしかない。
  3. 徳川家が政権を世襲することを示すため、さっさと秀忠に譲位。
    • しかし、それなら自分は陰に回って秀忠を立てればよいものを、いつまでも大御所として出しゃばり続ける。どういうつもりなんだか。
    • これについては「豊臣家の問題を自分の代でなんとか片付けて、息子に楽させたい」と好意的な見方をする人もいるにはいる。でも大半の人はこの時点で腹黒い狸親父のイメージ確立。
    • 大御所家康と同じように、信長は信忠に、秀吉は秀次に、その在世中に家督および公的な地位を譲りかつ実権は握り続けていたが、この点で腹黒さを誹謗されるのはなぜか家康のみ。
      • しかし秀次を族滅した秀吉に比べると、自らの正妻と嫡子を殺し次男を冷遇し三男に家を継がせた家康の場合、その点ではあまり非難されていない。
        • 信康と築山殿は信長の命令でしょうがないし秀康は気まぐれで手をつけてた奥女中との子だからなぁ。
    • 影の支配者は院政以来の日本政治の伝統というか、形式上のトップ(家の継承)と意思決定のトップ(究極的な方針決定の継承)の役割を分けて、安定した権力移動を行うためのメカニズム。徳川家がもう安泰というところまで行くのは家光就任の頃だから、秀忠の時期では家康が可能な限り引っ張るのは合理的。
    • 古代の厩戸皇子と蘇我馬子みたいに外交担当と内政担当を分担した。家康が外交で、秀忠が内政。家康は腹黒だけに外国の権謀術数と渡り合える。息子はお坊ちゃんなんで内政へ(実務は家臣がやる)。
  4. 実は、武田信玄との戦いで敗れ、アレを漏らしたことで有名。
    • しかも、その直後の情けない顔をわざわざ絵師に描かせる物好き。
      • あの絵は、見るたびに無謀なことはするまいという自戒の為に描かせたそうだけど。
      • 尻に灯がつき 味噌が垂れ 自分が未だ あおいを悟る。
    • その後で餅を食い逃げしたとかしなかったとか。
      • 浜松城へ逃げ帰る途中で腹が減って茶屋だか餅屋だかで小豆餅食ったとか。武田軍が追ってくるのを見て大慌てで逃げたら結果的に食い逃げに。浜松市の地名に小豆餅・銭取というところがある。銭取は逃げる家康から餅の代金取ったところ。
    • なお、史料上でこの逸話が確認できるのは「一言坂の戦い」の後であり、しかも家臣の悪口であり本当に漏らしたのか不明。現在の逸話のイメージは小説家の山岡荘八に改変された物が広まったという説が有力である。
    • しかみ像の逸話も昭和になってから出来たもので、この肖像画は元々は単なる嫁入り道具の一つだった。
  5. 無類の健康オタクとして有名。
    • 事実上の首都を秋葉原近くにおいた。
    • 医師を信用せず、常に自分自身で調合した薬を服んでいた。
      • おそらく医学的知識は当時の医師の誰よりも豊富だったが、その知識を人々のために役立てようという意識はこれっぽっちもなく、ひたすら自分の健康のみを冀(こいねが)った。
      • 一応、孫のために薬を調合したりしている。
      • 死んだ時も、自分で調合した薬しか服まなかったので治療が間に合わなかったという話。
        • 名だたる医者やらが治療やら診察を勧めても、かたくなに拒否したらしいからなぁ。
    • いつからそんなに詳しく知るようになったのか。家康七不思議の一。
      • だから、「影武者徳川家康」みたいなのが世に出ることができるんだと思う。
  6. 終生のライバルはサナダ虫だった。
    • サナダ虫一家の長男に女狐(実は重臣の娘)を娶わせて飼いならすことに成功、だが父親には再三翻弄され、次男には危うく槍で刺し殺されそうになる。
      • 大阪夏の陣であやうく爆死されそうになったとか。
      • されそうになるって何やねんw
      • 大坂夏の陣で戦死したという。家康の墓と称するものが大坂にある。
    • 真田以外にも「最大の敵」「最も恐れた男」が余りに多い人物。一体どんだけおるんだか。
      • 大河ドラマで毎度毎度、それら人物を主人公に据えるため悪役にされる人。
        • というか徳川の名を見ない大河ドラマ自体少ない。
      • 黒田如水とかに至っては明らかに後世の創作が根拠だったり
  7. 俺の大名を斬首するなどひどいことするねぇ・・・・
    • その狸は上述の通り、甲斐の虎と戦って敗れたが、終生その虎を尊敬していたらしい。
    • 体型が太っていたからタヌキ。
    • もちろん性格が腹黒だからタヌキ。
  8. 東照宮の神様。
    • 神さまというより、神さまプラス仏様みたいな。東照大権現。天海坊主がそのようにした。
  9. 江戸幕府を開いた。
  10. 暴れん坊将軍のひいお爺さん。
    • ついでにあっちのほうもかなり暴れん坊だったらしい。
    • 子供は十一男五女。別名「三河の後家殺し」(コーエーの攻略本より)
      • 1度出産した経験がある女子は流産しにくいから選んだ。
  11. 耐えて忍んで我慢して、最後に笑った人。
    • 「織田が捏ね 羽柴が搗きし天下餅 すわりしままに食ふは徳川」と狂歌にされた。
      • なおその歌ができたのは幕末。徳川政権への風刺を目的としたもの。
  12. この人の最大の武器は、長寿だったことだろう。
    • そりゃあ75歳まで生きりゃあねぇ。20代~40代で死んでることがごく普通で、60まで生きられることすら稀なあの時代にあっては…。
  13. 信楽焼の物が有名。
  14. いちゃもんをつけるのが好き。
  15. 死ぬ間際に豊臣を潰した。
    • ついでに秀吉の墓も破壊した。
  16. 名古屋から美女という美女を悉く江戸に連れて行ったために、名古屋に残された女性はみな×××××になってしまったらしい。
    • 家康がいつ名古屋にいたんだ?それを言うなら浜松だろ。
      • 某ドラマで東京もんがそう言っとった。
    • 北常陸から秋田へ行った殿様でも同じ話があるねえ。
    • 家康が開発する前の名古屋は那古野城跡が残るのみの農村(鷹狩に使われるレベル)だったから、連れて行こうにも数が知れてると思う。むしろ家康が城を築いて街を固め、長く住む地元の人間ばかりになり、混血が起こらなくなったと思う。
      • 清須から連れてったんなら話はわかるが。
    • 明治時代にはそんな噂と逆に「名古屋美人」って呼ばれてるんだけど。
  17. 春日井市民は「勝川」の名付け親だと思っている。
    • 厳密には戦の途中で立ち寄った「かちがわ」の「かち」に、縁起を担いで「勝」の字を当てたと伝承されている。
  18. 自称源氏。まあ、噂の域を超えているが。
    • 実は藤原氏を名乗っていた時期もある。
  19. 江戸→東京だけでなく、今日の名古屋および大阪の街の原型をつくったのも実質的にこの人といえる。
    • 「大阪=商都」ってのは、江戸幕府の政経分離政策の結果。堂島・天満・船場などもこの時代から生まれている。
    • 名古屋は清州越しで著名に。
      • 大阪・名古屋は豊臣秀吉のイメージだが。
        • 出身地ということで尾張では戦国ドラマなどから信長と秀吉の人気が高いが、実際に今の繁栄の原形を造ったのは家康。ブラタモリでも取り上げられた。
          • まあ名古屋に定住はほとんどしなかったようだから、駿府(静岡)などより人気が低いのは仕方ないと思う面はあるが、評価はしてあげてほしい。
  20. とにかく学習能力が凄い人。他の戦国大名と比べても別段腹黒いとは思えんが勝者へのやっかみと明治政府以降の政策からか狸扱い。
  21. 「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」という遺訓を…残していない。
    • このフレーズは明治時代に元幕府関係者が水戸の御老公の遺訓らしきものを元に捏造したものだという。
      • 天海だか崇伝が、東照神君はかつてこう言われたとかいう風にして捏造したという説もあるようだ。
  22. 孕石主水に対しての逸話を見る限り、異常になんというか・・・。
    • 本能寺直前に部下を何人か切った信長に通じるものがある
  23. ホトトギスが鳴くまで待てる気長さがあった。
  24. 将軍として諸大名に命じて城の造成や寺社の改修など、公共事業を連発し、戦争続きで荒廃した世の中にお金をばらまいた。
    • このニューディール政策でお馴染みのルーズベルト大統領やレーガノミクスで有名なレーガン大統領もびっくりのやり方の結果、日本の政治・経済は安定し徳川300年の安泰を招いたとか。この一貫した経済政策をタヌキノミクスとどこぞの歴史学者は呼んでいるらしいが追随者はわずかな模様。
      • 考えてみればケインズ経済学が生まれる300年も前の段階でそういう施策を実施していたというのだから驚きである。
        • 自分の財布でそれをやったんならまだしも、諸大名に命じてやらせる辺りがドケチ。(実際は諸大名の力をそぐための政策なので当然だが。)
  25. 村正はタブー。
    • じつは村正自体が東海じゃポピュラーな刀だったことや、本多忠勝の愛槍・蜻蛉切も村正だったということは内緒である。
  26. 300年幕府というが、実際は88%の264年間。辰年で始まり辰年で終った(1604年も1868年も辰)。
  27. 三河岡崎出身で旧姓は松平。しかし、松平家の発祥地は隣の市
  28. 太っていた。
    • 背が低かった。滝田栄はかけ離れてる。フランキー堺がちょうど。
  29. 三河・静岡長野(木曽を除く)・山梨関東東北(太平洋沿岸と内陸)と東日本の広範囲では絶大な人気。
    • 長野でも木曽は木曽川水系流域とあって西日本指向であり豊臣派優勢。
    • 東北でも日本海航路で西日本との結び付きが強かった羽州浜街道沿線(庄内・秋田・津軽)は豊臣派優勢とあって徳川は不人気。
  30. 豊橋市出身の松平健の「松平」は家康に由来(松平健の本名は鈴木末七)。
    • 豊橋なら田原氏なんだけど。
  31. 粘り勝ちした狸だが、根っこは結構カッとなりやすいタイプ。本能寺の変でも大阪の陣でも、もうダメだと思うたび自害しようとして周りに止められる。
    • 三方原での行動などを見るや、幾度の失敗を経て学んだというイメージも強い。