戦国武将/あ行

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独立項目[編集]

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明石全登[編集]

  1. 宇喜多直家・秀家に仕えた武将。
  2. キリシタン武将としても知られる。
  3. 関ヶ原で宇喜多家が取り潰されてから浪人していたが、大坂の陣で豊臣方に属し、活躍する。
    • 大阪城炎上後脱出したまでは分かっているが、その後消息不明。
  4. 名前の読み方がわからん。
    • 「たけのり」「てるずみ」「あきのぶ」等々、ほとんど本によって違うと言って良いほど。
      • 「ぜんとう」も見たことがある。何をいいかげんな…と一瞬思ったが結局どれが正しいのか分からないので何もいえなくなった。
        • 日本の男性名は、読み方がわからない場合、音読みしておけば非礼にはならないという諒解があるから、案外「ぜんとう」がいちばん妥当とも言えますね。
          • 少なくとも「やさんま」ではない。
            • 「やき」でもなさそう。
  5. 強い。

明智秀満[編集]

  1. 字こそ違えど、光秀の名前をひっくり返した。
  2. 光秀の子と思わせて、実は違う。
  3. 光秀の娘婿だが、そう言うと今度は「それは細川忠興だろう」と決め付けられがちだ。

朝倉教景(宗滴)[編集]

  1. 朝倉家の一族にして随一の猛将。朝倉貞景、孝景、義景の3代に渡って仕えている。
  2. 「名将とは、一回大敗北を経験した人のことを言うんだよね~」と言った。
    • 「でも俺、負けたことないから名将じゃないや。テヘッ☆」という続きがあった。
      • これが後の世にいう「テヘペロ」の元祖である。
  3. 「武士は犬畜生と蔑まれても何より勝つが本分」という名言で知られる。
  4. 信長の台頭を予言したと言われているが眉唾物。
  5. この人が居るときまでの越前朝倉は強かった。

朝倉義景[編集]

  1. 世間一般でのイメージは「凡庸・暗愚」
    • 朝倉家は信長に滅ぼされたイメージしかないが実は移り変わりの激しい戦国大名の中では古豪。つまりお坊ちゃんだった。
      • ちなみに本当に朝倉家を滅ぼしたのは一向一揆とそれを扇動した旧・朝倉家臣である。
    • 絶世の美女&ドSだった側室に精魂吸い取られていた、なんていう説もある(by桑田忠親)。
  2. 「体たらく」が口癖。浅井長政の足を引っ張る人。
    • 姉川の戦いでも長政は信長を押していたが、朝倉軍が徳川軍に崩されたために敗北。
  3. この人が積極的だったら福井はもっと栄えていた…んだろうか?
  4. 肖像画で見比べると浅井長政よりイケメンである。
    • そうか?太ってないぶんマシだが、どっちもどっちだろ。
  5. 一門からも見放された。
    • 既に信長に通じていた一門の景鏡(かげあきら)に、居館の一乗谷を追い出されて越前大野で殺された。
  6. 六角家からの養子だったなんて話もあるが確証はない。
  7. 足利義昭や明智光秀が訪れていたが有効に利用できなかった。せめて引き止めていれば信長に滅ぼされることは無かったかも知れない。
    • この人の動き次第で足利義昭は14代将軍になって、その後の歴史も変わってたかもしれないが、優柔不断な性格が災いしてしまった。
  8. 徳川家の外戚である浅井長政を美化するために、史実以上に悪く書かれている節がある人。
    • 姉川の戦いの徳川軍大活躍説も、江戸時代の史書に拠っているから史実はどんなものだったのか。

浅野長政[編集]

  1. 秀吉の側近。北政所の妹の亭主。
    • 言ってみれば秀吉にとってもっとも近い縁者のひとりなのに、最初は秀吉から頼まれてもなかなか家来になろうとしなかったらしい。
  2. 浅井長政とよく間違われる。
    • この時期、なぜか「長政」という名乗りの人が多い(如水の息子の黒田長政、シャム王に仕えた山田長政など)が、この人の場合は苗字も似ているのでややこしい。
    • かなり長いこと「長吉(ながよし)」という名乗りだったが、改名した。
      • もしかして「ちょうきちさん」「ちょうきっつぁん」と呼ばれることが多くて閉口したのかもしれない。信長と秀吉に一字ずつ貰ったみたいな豪華な名乗りだったのに。
        • だからこそ改名したのでは?改名したのは秀吉死後のはずだし。
  3. 武将としてはそれほど活躍していないが、事務方・周旋方の才能があったらしい。羽柴の家中をまとめるのに功があったようで、のちに五奉行筆頭となる。
    • もっとも、我が子の幸長と石田三成が仲が悪いのを周旋することはできなかった。けっこう心を痛めていたらしい。
    • 伊達政宗には「斡旋をちゃんとしてくれない」とキレられて絶縁された。
  4. 秀吉の死後、前田利長と共に家康を暗殺しようとしたという噂が広まって、引退。
    • 三成の佐和山蟄居に続く長政の引退で、五奉行制度はほぼ壊滅したと言って良い。

芦名盛氏[編集]

  1. 黒川城(会津)が拠点。
    • 会津~福島中通りまで領地拡大。周辺の諸大名と同盟したり家督相続問題に関わったりで政治的にも勢力拡大。
  2. 禁酒令を2度、徳政令を6度も出した。
  3. 盛氏没後、わずか9年で芦名氏は伊達政宗に滅ぼされてしまう。
    • 有能な盛氏が当主だった頃が芦名氏の最盛期だった。
      • 政宗があと十年早く生まれていても、この人に阻まれて天下は取れないだろう。
  4. 先祖は相模の三浦氏。相模国芦名をとって姓とした。
  5. 一応蘆名は「芦名」、「葦名」でもいいらしい。

蘆名盛隆[編集]

  1. 顔グラで一躍知名度を上昇させたあの人の子。養子縁組で蘆名家に入り、当主となった。
  2. しかしかつて蘆名氏と対立関係にあった二階堂氏からの養子である盛隆に反撥する家臣も多かった。
  3. そして最期はNice boat.
  4. ホモ同士の嫉妬に巻き込まれてあぼーんしてしまった人。

荒木村重[編集]

  1. 戦国のパンク野郎。信長を裏切るわ秀吉の陰口を言うわで、よく生き残れたものである。
  2. 道糞というクソミソな名乗りが酷い。
  3. その茶器好きぶりはすごいものがあり、家臣も家族も捨てて有岡城を脱出するときでも愛用の名物だけは持っていったという。

有馬豊氏[編集]

  1. 子孫から大した働きもしてないのに、なぜ久留米21万石をもらえたのか不思議と言われた。
    • wikipedia等を見ても「~で功を立てた」程度のものしかない。恐らく徳川家康の養女を妻としたのが厚遇の原因だろう。
  2. 利休七哲に数えられる説もあるとか
  3. 小早川秀包といい有馬豊氏といい、南を治めた某西国無双と比べるといまいちインパクトにかけるのが嘆かわしい。by久留米市民。

安東愛季[編集]

  1. 今で言う秋田県沿岸北部を治めた大名。後年「秋田愛季」に改姓している。
  2. 愛ちゃん。
  3. 湊城本拠の湊安東氏と檜山城本拠の檜山安東氏を統一。愛季は檜山系。
  4. 名前の字が字だけに読み方が「?」だが、「ちかすえ」と読む。

安藤守就[編集]

  1. 美濃三人衆の一人にして竹中半兵衛の義父。
  2. 信長によって追放された。同時期に追放された佐久間信盛と違って全然話題にならないが。

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井伊直政[編集]

  1. 苗字はいいなのに全然いい人じゃない。
  2. とても峻厳な人物で、自分にも他人にも厳しく、部下を手打ちにする事も多かった。
    • そのため部下からは恐怖を抱かれ、あまり人望は篤くなかった。
    • ついたあだ名が「人斬り兵部」
  3. 家康の寵童上がり。寵童って何かって?下の毛が生えてくる頃には自ずと意味が分かってるはずだ。
  4. 今川家に仕えた名家の出自であり、実は相当のお坊ちゃまである。
    • でも父・直親が讒言された上に誅殺されたり、その父親の元婚約者だった直虎の養子になったりと経歴は複雑。
  5. 赤一色の具足を纏った軍隊を率いていたため「井伊の赤鬼」と畏怖された。
    • いわゆる「井伊の赤備え」ってヤツね。武田家滅亡後その家臣団を多く組み込んだ為なんて言われてるけど事の真偽は別としてやっぱり赤備えは飯富・山県兄弟こそ本家って気はするな。
  6. 関ヶ原で松平忠吉に抜け駆けを教唆するなど狡猾な一面もある。
    • そりゃあ天下分け目の大いくさで、娘婿忠吉の初陣で、後継者ライバルの秀忠が遅参となれば、なんとしても婿殿に手柄を立てさせたいと考えるのも無理はない。
  7. 鉄砲傷から破傷風に感染し、それが原因で死去した。
    • 同僚の本多忠勝が薄い鎧で無傷なのに、直政は厚手の鎧に鎖帷子まで付けていながら、なぜか戦のたびに負傷していた。
      • 将が負傷するのは、兵を差し置いて一騎駆けするとかのスタンドプレイをした時と、乱戦から抜けられなくなった時くらい。忠勝は冷静なのでそういうことをしなかったが、直政は熱くなるタイプだったということでしょうかね。
      • あと、敵が直接将を狙撃する場合があるが、こればかりは運としか。
      • 譜代と外様の意識の違いもあったのかも。同じ働きなら忠勝や康政の方が覚え目出度かったのかと。ましてや忠次なんかに比べたら…。死に物狂いってぇ感じがする。
    • 直政に鉄砲傷を負わせたのは、必殺薩摩示現流ステガマリ。

池田恒興[編集]

  1. 池田輝政の父で、織田信長の乳母の実子。
    • 信長と乳を取りあった。「こっちがボクの!」「いや!こっちのほうが大きい!」
  2. 小牧長久手の戦いで長男とともに討死した。
    • 未だに成仏していないのか、長久手辺りでは亡霊が出るとの噂もある。
    • ついでに娘婿の森長可も討ち死にしている。
    • 49で死んでいるが、肖像画はシワクチャだ。
  3. 信長からは、「あいつは少ない兵ながらも花隈城を時間をかけずに攻略した。」と絶賛された。
  4. 信長の死後、秀吉は柴田勝家に対抗するために大いに恒興を厚遇し、宿老並みの待遇にして清洲会議に出席させた。恒興は喜んで秀吉の協力者となった。
    • 本来はせいぜい連隊長クラスの地位と力量で、宿老と見なすには小粒だったのだが、秀吉はかつての宿老・荒木村重の領地をほぼ全部恒興にやってしまう大盤振る舞い。あっという間に箔をつけてしまった。
  5. 元阪神タイガースのエースではない。

池田輝政[編集]

  1. 姫路城が世界遺産に登録されるほどの名所となったのはこの人のおかげ。
    • 姫路城に住み着いていた刑部姫(おさかべひめ)という妖怪と話をつけ、城の者を怖がらせないことと、1年に1度姫路城の城主は刑部姫と面会して、文句を聞いてあげることを約束した。刑部姫はオオクニヌシとも面識のある神様級の妖怪である。ちなみに面会時には、美女の姿で現れるようにとも注文をつけた。
  2. 家康の娘(元北条氏直の妻)を妻に迎えており、その恩恵が出世に好影響を及ぼした。福島正則からそのことで「股間の槍働きで出世した男」と揶揄された。
  3. 元吉田城主(今の豊橋城)であったこと、城下町整備に尽力したことも思い出してやってください…。吉田城主時代は照政(てるまさ)。

石川数正[編集]

  1. 徳川家康の外交役、家康の長男信康の後見人として活躍するも、その後出奔し豊臣秀吉に仕える。
    • 豊臣家への鞍替えの理由としては信康の切腹、秀吉の魅力に取りつかれた、家康との示し合せ等諸説あるとされる。
  2. 小田原征伐の後信濃筑摩郡に移封され松本城を築城。
  3. 死後家督は長男の康長が継ぐも大久保長安事件に連座(正室が大久保長安の娘)し豊後佐伯に配流、毛利高次家御預かりとなる。
    • 次男の康勝は大坂の陣に豊臣方として参戦。

石田正澄[編集]

  1. 石田三成の兄。
  2. 弟に隠れがちだが、自身も堺奉行等内政面で辣腕を振るった。
  3. 関ヶ原の戦いの際長宗我部、島津等を西軍に引き入れたのは正澄の暗躍があってこそ。
  4. 関ヶ原の戦いの後、佐和山城の籠城戦の末自刃。佐和山城も落城した。

石田三成[編集]

  1. 時代によって評価が著しく変わる人物。
    • 江戸時代はずっと悪者扱いだったが、明治以降は次第に義に殉じた人物という評価が高くなっていった。
  2. 融通が利かなく、何事もきっちりしてないと気がすまない性分だったようだ。
    • いるいるこういううっとうしい奴。経理とか総務とかに。こっちは急いでんだ細けえことはあとにしろボケエ(と清正も正則も言いたかったろうなぁ・・・)
    • 自分の職掌外の仕事に勝手に手を出し、担当者より先に上司に報告してしまう。担当者の立場は丸つぶれで、嫌われる大きな原因になった。
  3. 実は武勲も結構立てている。
    • 朝鮮の役ではずっと朝鮮にいた。
  4. 真田昌幸とは義兄弟。
  5. 秀吉と出会ったときの「三杯の茶」の逸話が有名。
    • 「Oh、ミーの目に狂いがなければ、ユーはなかなか才があるね。」と言ったとか…、んなわけはない。
  6. 柿厳禁。
    • 柿に毒があるとか言ってるしww
      • 柿に毒がある、じゃなくて「柿は痰の毒」と言って柿は腹を下しやすくなるから遠慮したという話。これも何事もきっちりしていないと気がすまない三成ならではの逸話。
  7. 明智光秀とセットで、詰の甘い作戦のことを「三光作戦」と言われるようになった。
  8. 約400年後に猫化して復活。
  9. 大谷吉継の親友。ある茶会の席で吉継の体から膿が茶碗に落ちた。他の武将はその茶碗から茶を飲まずに回したり、飲んだ振りをしてあからさまに避けていたが、三成だけは音を立てて最後まで飲み干した。自分を差別せずに面目を保ってくれた三成に義継は深く感謝し信頼することになる。
    • ただこの話は相当胡散臭い。そもそも膿が落ちた茶碗をそのまま回すのは非常に失礼じゃないのか?
  10. 関東にある忍城を攻略できなかったからみんなから「戦下手」って言われてたらしい
  11. 馬謖の再来かもしれない。
  12. 「武将なんてどれも同じでしょ?」「武将といえば三成~♪ 1560滋賀県生まれ♪」のCMでおなじみ。
    • 正しい理念で、すてきな治政。

磯野員昌[編集]

  1. 浅井家臣。姉川の戦いで大活躍したと言われる。
  2. 磯野藻屑源素太皆という子孫がいる…かどうかは定かではない。

一条兼定[編集]

  1. 戦国時代では珍しい公家出身の大名の一人。土佐に割拠していたが長宗我部氏に攻め滅ぼされる。
    • その滅ぼした長宗我部元親は、そもそも滅ぼすのを躊躇したのだが、そそのかされてやってしまい、罰が当たってのち長宗我部も・・・。
  2. ゲームなどでは今川氏真以上の悲惨な能力にされることが多い。
  3. 応仁の乱で食っていけなくなった兼定の四代前の先祖が、荘園のあった土佐に下向したのがはじまり。周囲からは「前関白が土佐のような鬼の住まう地に下ろうとは」と猛反対された。
    • だが行ってみると土佐の国人たちは、「都の貴族様だぜヒャッハー」と大歓迎。中村に土着して土佐の国人衆のまとめ役となる。
  4. 最後は宇和島の沖合の小島で卒去。長宗我部に徹底的に監視されていたとかなんとか。
    • 戸島。

稲葉一鉄[編集]

  1. 美濃三人衆の一人。諱は良通。
  2. 相当な頑固者で「頑固一徹」の語源にもなった。

今川氏真[編集]

  1. 日本人初のJリーガーといわれる。
  2. 日本人初のシンガーソングライターともいわれる。発表した歌は1700にも及ぶ。
    • そのために家を滅ぼした。でも本人は77歳まで長生きした。
    • 高家として幕末まで残ってるし、添い遂げてくれる愛妻はいるし、案外勝ち組かもしれない。
  3. 塚原卜伝の弟子でもあり剣術にも優れている。つまり個人としてみれば、文・武・遊の三道に通じたすごい人。
    • 戦国大名の才能だけがなかったのが惜しまれる。
      • 戦国ゲームではだいたい悲惨な数字が与えられる。
  4. 劉禅と比較される(国を滅ぼした、内政手腕が一流など)。
    • 今川の野望で散々にあった烈風伝での諸王の戦いで、劉禅・ジョン欠地王と組まされた。
  5. 家康の最初の正室築山殿の従兄弟にあたることから家康との仲も良好だったらしい。江戸幕府成立後も家康自ら度々屋敷を訪れていたとか。
    • とはいえ、今川嫡流は品川家などに名を変え、その傍流は、川嶋家などを称して現存するものもある。
  6. 2017大河ドラマで名トリックスター太守様が爆誕しようとは誰が予想したであろうかw

今川義元[編集]

  1. イメージは「麻呂キャラ」。
    • それが息子のイメージを被せられているのも有名だが、面白いので皆突っ込まない。
      • お歯黒していたり輿に乗っていたりしたので、公家キャラもあながち間違いではない。ただ下記にもあるような「海道一の弓取り」が無視されているのはあんまりだし、蹴鞠好きなのは明らかに息子のイメージ。馬に乗れないわけじゃねぇよ!
        • でも桶狭間当日、落馬したらしい。
  2. ついでに「やられキャラ」扱いが多い。桶狭間の戦いは歴史の教科書にも載ってるので。
    • 決して無能じゃないんだが、やられシーンばっかりクローズアップされる。
      • しまいに大河ドラマでは、「ナレ死」してしまう。
    • 「信長の引き立てキャラ」でもある。
    • 最近はゲームやパチンコなどで「麻呂なのに変に強い困ったキャラ」というのが目立ってきたがある意味実像に近いかも。
  3. 息子は静岡サッカー王国の祖。
  4. 後継者争いに勝って今川家の実権握ったはずなのに無視されてる…。
  5. 「海道一の弓取り」とまで言われてたのにねぇ・・・。
  6. 当人は優秀で今川家は戦国有数の強国だったのに運悪く信長の踏み台になってしまったことが運の尽き。後世ではデブの偽公家扱い。
    • 武田・北条と三国同盟を組むところなど、列強の一つと看做されていたのは明確。
    • 当時の家格は、明らかにこの3家の中で一番上。
  7. 実は半分公家の血を引いてる。(母が公家の姫)
    • でもその母親(寿桂尼)は「女戦国大名」と言われたほどの凄腕スーパーレディー。
      • 義元の大軍師・太原崇孚雪斎を抜擢したのは彼女。長子・氏輝死後の「花蔵の乱」が首尾良くおさまり、義元が無事家督を継げたのも、彼女が暗躍したおかげらしい。公家の姫君出身とは思えない思考力と行動力を持っていた。
  8. 信長の野望烈風伝のチュートリアル「今川の野望」はちょっと面白くちょっと物悲しかった。
  9. 小和田哲男氏などの尽力によって名誉挽回されつつある。
  10. 現在の名古屋人の直系の先祖である。
    • え、なんで?
    • 大阪人じゃない?「よしもと」的な意味で。

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上杉憲政[編集]

  1. 最後の関東管領。
  2. 北条氏に南から突き上げられ、逃げてばっかり。
  3. ついには山を越えて越後へ逃げた。
    • このとき頼ったのが、越後の守護代の長尾景虎(のちの上杉謙信)。
    • けっきょく、景虎に上杉の姓と関東管領の職を奪われた。
  4. けっきょく、謙信より長生きした。
    • 謙信が亡くなった次の年に亡くなった。
  5. 上杉氏のうちの、山内家の人。
    • 上杉氏には、もう一つ有力な分家で扇谷(おうぎがやつ)家という難読な家がある。
      • 里見八犬伝に出てくる扇谷定正というのは、この家の上杉氏。

宇喜多直家[編集]

  1. 宇喜多秀家の父親で、戦国の梟雄といえばこの人。
  2. あらゆる謀略と暗殺を駆使して、備前国の大名となった。
    • この人の出すお茶は絶対に飲んではいけない。
    • 娘ごと娘婿を暗殺とか・・・ひどすぎる。
      • この事件が起きたのが七月七日だったため、この地方ではその後長い間、七夕祭りを行わなかったという。
    • 日本史上初の鉄砲による暗殺もこの人(の家臣)が実行した。
    • そのせいか、弟からも恐れられていた。
      • 曰く「兄は腹黒く、何を考えてるかわからなかったので、会うときは必ず鎖帷子を身に着けていた」
  3. 暗殺の実行に携わった家臣は終生庇いとおしていることは意外と知られていない。
    • つまりトカゲの尻尾切りみたいなことは決してしなかった。なので家臣団からの信頼度は抜群だった。
    • まあそのせいで、↓のように家臣団が尊大で息子が苦労するわけだが。

宇喜多秀家[編集]

  1. 備前岡山の大名。関ヶ原では西軍で奮戦した。
  2. 親父の直家は松永久秀と双璧の梟雄で、暗殺と陰謀を繰り返して備前を乗っ取った男。
    • でも晩年弱気になり、羽柴秀吉に頼る。
    • 父が成り上がり者だけに、家中には態度のでかい重臣が多く、のちに秀家がえらく苦労する。
  3. 母・お福がすごい美人で、直家の死後秀吉に身を寄せる。おかげで秀家も秀吉に大変かわいがられた。
    • 「八郎(秀家)ほど可愛い者はない」とさえ言われ、秀吉の猶子となる。
    • 秀家自身も肖像画を見る限りではイケメン。
      • あの肖像画は昭和になって地元の画家が描いた想像画。根拠は全く無い。
  4. 朝鮮の役でも大活躍した。
  5. 五大老に選ばれたが、いかんせん若すぎて重みに欠け、家康に翻弄された観がある。
  6. 関ヶ原のあとで八丈島に流され、とても長生きした。
    • 83歳まで生きた。このときの将軍は4代家綱。
    • 福島正則(実際には正則の家臣)から酒をせびった。
      • 話を聞いた正則は落涙し以後江戸に向かう船に八丈島に立ち寄り秀家に酒を贈るように命じたとか。
    • 実は逮捕当初は死刑判決を食らっていたらしい。
    • なんと薩摩国まで逃げていた。
  7. 実は仮面ライダーだったりする。
  8. 八丈島から泳いで大坂まで帰ってきたとかいうネタをどっかで聞いたことがある。
    • 泳い で参った!!!
  9. こんなクラブまである。何か怖さを感じるのは親父殿のせいか…。

氏家卜全[編集]

  1. これの作者…ではない。
    • 当然ト全(とぜん)ではない。
  2. 美濃三人衆の一人で、諱は直元。安藤、稲葉よりも勢力が大きかったという。
  3. 一向一揆を相手に、しんがりとして戦って討ち死に。武将としてはなかなかいい死に方をした。

浦上宗景[編集]

  1. 備前の大名。実の兄と抗争し、戦国有数の悪党である宇喜多直家に下克上されて追い出される。
  2. 直家のかませの印象が強いが、直家の謀反を一旦は鎮圧したり、織田信長とよしみを通じて直家を始末しようとするなど、なかなかの策略家である。

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大内定綱[編集]

  1. 陸奥国安達郡小浜城主で後に伊達家家臣。
  2. 最初は伊達に仕えるそぶりを見せながらも二本松と共に政宗と敵対。キレた政宗に小手森城で撫で斬りされ二本松に落ち延びる。
    • これが後に政宗の父輝宗拉致事件に繋がる。つまり政宗にとっては父の仇のようなもの。
    • しかしその後伊達に降伏してからは政宗に重用され子の代には一門衆にまでなった。よほど有能だったのだろう。

大内義長[編集]

  1. 大内義隆の亡き後、大友家から養子として大内の宗家を継いだ人。
    • そのはずなのに、史料によっては、反逆者の項目に入れられている。
  2. 基本的に傀儡色が強く、あまり目立ってない印象。
    • 結局は陶晴賢にコケにされていた。
  3. 未完に終わったが、鴻之峯城の立地といい規模といい、着眼点のみを見れば結構なものかも知れない。
  4. 現在の下関市にある且山城に逃げるとき、夜陰に紛れて二昼夜で逃亡してる。結構な逃げっぷり。

大久保忠教[編集]

  1. 徳川譜代の大久保氏の生まれ。通称彦左衛門。「天下のご意見番」と称される。
  2. 家康、秀忠、家光と三代にわたって将軍に仕えた。
  3. 戦国時代はもとより、江戸幕府成立後も武士としての生き方を貫いた。
    • その生き方に徳川氏と大久保氏の歴史と功績を交えた家訓書として『三河物語』を記した。
      • 現代語訳者からは「しみったれた老人の愚痴」「読んでいるうちに不思議な味わいを感じてくる」とか言われている。
      • その実態は、立派なプロパガンダ文書。おおむね大久保家中心史観>譜代中心史観>徳川中心史観という法則にしたがって、歴史的事実に創作・改変・隠蔽をまじえてある。おまけに「門外不出」などと記して信憑性を増させるという、かなりしたたかな工作が行われている(こんな事書いておきながら、書かれてすぐ写本が出回っているので「門外不出」は明らかなウソ)。はっきり言って読む際は「甲陽軍鑑」と同レベルの注意が必要な、かなりの悪書である。
        • 自分の家や主家の功績を誇張的に書くのは、17世紀の文書には多かれ少なかれ共通する特徴。自家の由来を全く詐称する者も珍しくないのを考えれば、これでもマシな方。そもそもこの時代の人に、現代人のような客観的、考証的な姿勢を要求すること自体が無理。三河武士から見た幕府創業史と見れば十分な史料的価値があり、誤りや偏見は他の史料と突き合わせて修正すれば済む。
  4. 後世の講談等でヒーローとして祭り上げられたフシもある。
  5. 御茶ノ水駅西口から坂を下り、杏雲堂病院の敷地内に「大久保彦左衛門屋敷跡」の碑が建ってる。
  6. 一言でいえば「筋を通すKY」。次兄の忠佐が沼津2万石を治めていたころ、その子が早世しておりその跡取りとしてこの忠教を養子として継がせる予定であったが、本人は「自分の勲功ではない」と断る。それはいいとして、この沼津忠佐の死後継嗣がいないとして無嗣改易され、そのおかげで沼津の藩士達はは浪人になる羽目になったそうな…

大久保長安[編集]

  1. 猿楽師の生まれから江戸幕府の老中にまで上り詰めた男。
  2. 甲斐で武田信玄に召し抱えられ土屋十兵衛長安と名乗り、武田滅亡後は徳川に仕官。姓を大久保に改める。
  3. 鉱山開発や普請に辣腕を振るい、家康の関東国替えの際には八王子千人同心の創設にも携わる。
  4. 遺言では自らの遺体を黄金の棺に入れるよう書いたとか。
  5. 家康に代わる天下人として伊達政宗を推していたらしい。
  6. 死後不正蓄財が発覚。遺児は全員死罪という憂き目に遭う。
    • 譜代大名の大久保忠隣や石川康長もその煽りを受けることに。
  7. 本多正信から目の敵にされていた。
    • 所領の加増を拒んだ上で権勢を振るっていた正信からしてみれば無理もないといえる。

大関高増[編集]

  1. 下野国の戦国大名那須家の忠臣(二代)(笑)。
  2. 色々ひどいことをしておきながらも、ちゃっかり生き残っている、処世術の達人。
  3. 父は大田原資清で、長男でありながらも嗣子を失った(笑)大関宗増の養子になる。
  4. 彼の悪事の数々。
    • 宿敵・宇都宮家との戦のことを主君に咎められ、宇都宮家や佐竹家と結んで主君に反旗を翻す。
      • だが負けてしまう。
    • 負けてしまったものの、主君の隠居を条件に、那須家忠臣(笑)に復帰することができた。
    • 同僚の千本家を謀殺し、遺領を兄弟で山分け。
    • 同じく同僚の伊王野家にいきなり攻め込んで殺す。
  5. 秀吉の小田原征伐に遅参して那須家が改易されたときは、家臣一同一致団結して秀吉に那須家復興を嘆願した。
    • おかげで那須家は旗本として存続を許された。
      • 一方大関家は大名に・・・ん?
        • 実家の大田原家も大名に・・・んん??
  6. 実家は弟が継ぎ、他の弟も他家の養子になったが、兄弟仲は良かったようだ。
    • 家臣団を見渡すと、ほとんど大関の息がかかっている連中。これは怖いw
      • まあこれは高増よりも父がすごい。

太田資正[編集]

  1. 犬使い。
  2. 生涯を北条氏との戦に捧げた人。
    • とにかく徹底的に反北条を貫いた。
      • しかし息子はさっさと北条の配下に。はらわた煮えくり返っただろうなぁ。
        • 2人いた息子のうちの兄のほう。弟のほうは父と行動を共にし、後に佐竹氏に仕えた。
          • ちなみにその兄はすぐに戦死している。「ざまぁ」と思ったかどうかは定かではない。
  3. 「酷い目に太田道灌」はひいじいちゃん。

太田康資[編集]

  1. 上記の太田資正の同族で、太田道灌の直系のひ孫にあたる。
  2. “三十人力”と呼ばれた怪力を誇る関東を代表する脳筋、もとい猛将。
  3. もう一人の関東の猛将、清水太郎左衛門政勝との一騎打ちは、「敵味方とも戦を忘れ、その光景に見入った」という凄まじいものだったという。
    • このときは太郎左衛門に刀を折られた康資の負け。くやしがった康資は、折れない武器をと長さ八尺の金棒を作って得物にした。

大谷吉継[編集]

  1. 石田三成の親友。実際の彼はハンセン病に罹患して顔面が崩れていたようだが、ゲームやドラマ、小説の挿絵などでは補正がかかって美形として描かれる事が多い。
    • または白い覆面で顔を隠した姿。
      • 但しそれは明治以降に出来た創作ではないかとも言われる。一次資料では「目が見えなくなった」と書状に書くのみでそうであったかは解らない。
    • 罹っていた病気には諸説アリ。トンデモ路線な感もあるが、「毒を盛られた」という説もTVでやってたな…
  2. 病のため歩く事もままならず、戦場では御輿に跨って采配を振るった。
    • 鎧も着ることができないので、紙子(紙の服)に鎧の絵を描いて戦に望んだと言われている。
  3. 秀吉から100万の兵を指揮させてみたいと言われるほど信頼されていたらしい。
    • 家康からの評価も高く彼が西軍についた時は狼狽したらしい。
    • ぶっちゃけリップサービス。この人も過大評価されすぎ。
  4. 死後亡霊となって小早川秀秋を呪い殺したという噂が昔からある。眉唾物だが、秀秋が裏切者として唾棄されていることと、秀秋の死様が尋常ではなかったせいで本当に吉継の亡霊に祟り殺されたと信じている人も多い。
    • 伝承にいわく、大谷軍の死者は全て秀秋の軍をにらみつけながら死んでいった。
  5. 官位は刑部少輔。石田三成の治部少輔と同位階・同系列なので、やっぱり秀吉が同じくらい目をかけていたんだろう。
    • それもあるだろうが、吉継の主な職務が軍政で、三成と職責上も被る部分があるためだろう。
    • 関ヶ原での活躍で補正がかかっているが、本来は丹羽長秀タイプの縁の下の力持ち的バランス型の人物。

大田原資清[編集]

  1. 下野国の戦国大名那須家の忠臣(初代)(笑)。
  2. 普通に那須家の家臣として仕えていたが、あるとき同僚の大関宗増の讒言により失脚してしまう。
    • 資清は越前に逃亡するが、26年後に再起し、宗増の嫡男を殺して長男を養子に送り込む。

大友義鎮(宗麟)[編集]

  1. 豊後の大名。北九州6カ国の守護となって大友氏の最盛期を現出した。
  2. 若い頃は酒色にふけって奇行も多かったために、親父の義鑑に後継から外されそうになった。
    • その直前に「二階崩れの変」と呼ばれる謀反が発生して義鑑が殺害される。
    • 義鎮の関与が疑われるも、「私は父上の勧めで別府に湯治に行っていました。謀反などと、そんな不孝な真似を。クックックッ」と不問に。
  3. 家督を継いだ後も女遊びが過ぎたため、正室に呪い、もとい浮気の虫を鎮める調伏をかけられる。
    • 義鎮は嫁の恐ろしさに失踪。町外れの小屋の中で一人ガタガタ震えているところを発見される。
    • 正室は奈多八幡宮の大宮司の娘。そのため義鎮がキリスト教にかぶれると、信仰の相違で争うことになる。
    • 家臣の嫁を寝取り謀反を起こされる
    • 立花道雪に「美しい踊り子を呼んで宴会してるので殿も来てね」と言われ、のこのこ遊びにいったら説教された
  4. 晩年はキリスト教にかぶれるを通り越して完全に帰依し、寺社仏閣をぶっ壊したりした。
  5. ことほど左様にろくでもない逸話だらけの人物だが、外交には定評があり総合的に見れば有能の部類に入る。
    • 基本的には有能なのだが、極端な行動に走る、精神的に不安定な人物という印象。
  6. 室町幕府や朝廷に多額の寄進をして九州支配の大義名分(官位)を得たが、贈りすぎて大友家の財政がやばくなり家臣に怒られた。
  7. 臼杵の郷土料理、黄飯の生みの親。ポルトガルの宣教師から聞いた、パエリアを真似て作らせたのがはじまりだという。
    • 平成から戦国時代にタイムスリップしてきたケンという人物はおそらく関与していないはず。

小田氏治(天庵)[編集]

  1. 常陸小田を本拠地としていた大名。
  2. 上杉謙信や佐竹義昭・義重によって何度か居城を追われているのだが、毎回その後で城主に返り咲いている。
    • 手這坂(てはいざか)の戦いを最後に城主として復帰はかなわなかった。
  3. 「先代は良かったのに、この人は・・・」と言う話になると、結構出てきそうな人。

織田長益(有楽斎)[編集]

  1. 誰しもが最初に見たとき何て読むのか悩む。
    • うらくさいと読みます。
      • 有楽町の名はこの人の江戸屋敷があった事から来てるがそれならうらくちょうって言えばいいのに。人名由来なんだから訛るなってんだ。
        • 日本の人名って、わりとアバウトなところがあるので……漢字が合ってれば読み方はどうでもいいとか、発音が合ってれば漢字はどうでもいいとか、案外そんなこともありますな。「ゆうらくさい」と呼んでいた人も少なからず居たのかも。
        • 実際に彼が有楽町に住んでいたかは怪しいらしい。そもそも江戸に屋敷があったかすらも怪しいらしい。
        • 大阪には昔、有楽町(うらくまち)ってあったけどね。今の南海天下茶屋の駅から天下茶屋公園の付近になるのかな。
        • 同時期に「永楽町」が誕生していることから読みを合わせたという説がある。
          • 当時は五十音順でなく、いろは歌の流れのはずだから、それは無理があると思う。
            • 音の並びではなく、「うらく」「えいらく」では音数が違うから「ゆうらく」に揃えたという説ね。
  2. ゲンゴロウ
  3. 茶人としてはメジャー。武将としては…。
    • 関ヶ原では活躍したぞ。
    • 信長の弟とはいっても、13歳も離れた11男では勢力もやる気も大してなかったんじゃないかと思われる。信長の茶器外交を考えると茶の湯に人生を見出した判断は正しいと思う。
  4. 本能寺の変の際、甥の信忠に自害を勧めて逃亡する。この振る舞いは京の民衆に「織田の源五は人ではないよ」と嘲笑された。
    • まあ確かにゲンゴロウは人ではなく昆虫だが。

織田信忠[編集]

  1. 信長の長男。父信長があまりにも偉大すぎるが故に暗愚の扱いをされていたが、実際は武将・統治者としてかなり優れた資質を持っており充分に後継者の器であった。
    • 松永久秀や武田氏に対する戦いでは戦果を上げている。
    • 家督は相続していたはずだから、ちょっと実力を出し切る前に死んでしまったと言えるかもしれない。
  2. 本能寺の変では、寡兵ながらも明智軍相手に奮戦するも衆寡敵せず自害した。
    • しかしながら本能寺の変では信忠は京都から脱出できる可能性も高かったが為、もし京都から落ち延びていればその後の秀吉の動向や織田家の在り方も大きく変わったのではと言われている。

織田信成[編集]

  1. フィギュアスケートの印象が濃いが、信長の従弟にもこんな名前の武将がいた。

織田信秀[編集]

  1. 信長の父。しかし彼は若くして亡くなっている。
    • 若くして亡くならなかった場合、信長の運命は大きく変わっていただろう。
  2. うつけ者だった信長に後を継がせたのはまさに一か八かだった。

関連項目[編集]

戦国武将
あ~お/か~こ/さ~そ/た~と/な~の/は~ほ/ま~わ



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