戦国武将/は行

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畠山義続[編集 | ソースを編集]

  1. 畠山氏が家臣から反発を招くことになった発端だ。
  2. 「武田信玄」の肖像画の正体らしい。
    • 義総がそうな可能性あり。

畠山義慶[編集 | ソースを編集]

  1. 「よしよし」と読む…、ワケあるか!こう書いて「よしのり」だ。
  2. 元服もせぬうちに君主になった…、というかさせられた。しかも傀儡君主として…。
  3. 1574年にいきなり急死。病死か家臣に暗殺されたか?

畠山義総[編集 | ソースを編集]

  1. いわゆる「偽信玄」だ。
    • 義続がそうな可能性あり。
  2. 能登畠山氏の全盛期を築いていた。

蜂須賀正勝[編集 | ソースを編集]

  1. 通称は蜂須賀小六。豊臣秀吉の家臣。
  2. もともとは尾張と美濃の境目あたりに蟠踞していた地侍集団「川並衆」の頭領。
    • 盗賊だったというのは中傷。でも盗賊なんか一切しなかったというのも美化し過ぎ。
      • 子孫がこのネタで明治天皇にからかわれている。
        • 明治天皇の煙草かなんかをついくすねたのがばれて「血は争えんな」と言われたんだっけか。
        • でも蜂須賀家は11代将軍徳川家斉の子を養子にしているので、明治の子孫と小六の血はつながっていない。なので結局は明治天皇の勘違い。
          • 実は家斉時代より100年ばかし前に三代続けて養子という時期があるためとっくに関係は切れている。
    • 要するに通常は水運などに従事し、時には傭兵となり、時には盗賊働きをするような集団だった。
      • 鎌倉時代末期~南北朝時代に活躍した「悪党」みたいなもんだな。
  3. 秀吉は最初、織田家と川並衆のつなぎ役だったと思われる。信長が美濃を制圧した頃から正式に秀吉の下についたのだろう。
  4. 小六自身には、そんなに目立った武功は無く、むしろ事務方の役割が多かったようだ。
    • いかつい荒武者というイメージは修正すべきかも。小さな運送会社の社長(自分も作業服を着て積みおろしなどやり、夜は帳簿とにらめっこして唸っているような)をイメージすれば近い気がする。
      • 秀吉の側近として、事務方で動く事もあれば、黒田官兵衛の指示の元に鳥取城下の兵糧を買い占める隊の隊長として現場で活躍したりと秀吉の陰になった人。
  5. 矢矧川の橋の上で、寝ていた藤吉郎少年を蹴飛ばしそうになったのが、後の天下人との出会いだった……というのは後世の創作。
    • そもそも当時の矢矧川に橋はかかっていない。夢も希望もあったもんじゃないな。
  6. 大河ドラマでは格闘家が演じることが多い。
    • だから「いかつい荒武者のイメージ」は修正すべきだとwww
      • 「おんな太閤記」の前田吟はいいキャスティングだったと思う。
        • 前田吟自身が気のいいおっさんキャラだから。
    • ドサまわりのような役割が多かったらしいので、頼りになりそうな恰幅がいい人が演じるのは、まあいいんじゃないかと。
  7. 娘の糸姫は黒田長政の正室。
    • しかし長政が徳川家康の養女を新たに娶ったため離縁。以後黒田家とは127年に渡り遺恨を残すこととなった。
      • それでも自身の孫にあたる蜂須賀至鎮(よししげ)もやはり家康の養女を娶っているのでおあいこと取れなくもないのだが。
  8. 彼の所領は徳島県だったが、「俺はサルちゃんの近くに居たいから、恩賞は息子にやってね」とか言った。

服部正成[編集 | ソースを編集]

  1. いわゆる服部半蔵。
  2. 忍者衆を束ねる存在であったが、自身は忍者ではなかった。
    • 親の代から三河に出て家康に仕えていたので、正成は伊賀では生活していない。普通の武士である。
    • しかし「神君伊賀越え」の際は、人脈を活かして安全に伊賀地域を通過させ、家康の信任を得る。
  3. 何でこれで「はっとり」と読むんだろう?
    • 上代に紡績や被服をつかさどる部署として「はたおりべ(機織り部)」が置かれ、これに「服部」という字を宛てていた。そのうち「べ」が落ち、「はたおり」がなまって「はっとり」となった。
  4. 「神君伊賀越え」の際に先導者として活躍したらしい。一応自分の古巣だし。
  5. サッカーでFWのポジションが得意だったらしい。忍者ハットトリックんだけに。
  6. 実在の伊賀流忍者。徳川家康の側近。
  7. 講談や小説では徳川忍群の頭領として活躍。
    • 真田十勇士の宿敵ともなっているが、これは時期からして正成ではなく、半蔵の名を継いだ息子の正就だろう。親父と違ってかなり頼りない人だったらしい。
  8. (一応)忍者の名前が城の門にまでつけられているのは彼だけ。
    • いやそれはきっとが江戸城にやってきたときに体が半分しか入らなかったから(嘘)
  9. 「武勇に優れ『鬼の半蔵』とか『槍の半蔵』とも呼ばれた」という説明書きを時々見るが、それは本当は渡辺半蔵の事である。
    • 「家康の長男・信康が切腹するときの介錯役だったが、信康を不憫に思い斬れなかった」という話もあるがやっぱり渡辺半蔵の話である。
      • 服部半蔵はさすが忍者だけあって人の異称や逸話まで盗めるらしい。っつーか渡辺半蔵かわいそう(涙)。
  10. 松尾芭蕉になったという説もある。しかし時代考証が滅茶苦茶すぎではないのか。

馬場信春[編集 | ソースを編集]

  1. 「信房」ともいう。
    • 「信長の野望」とかでは、その方が定着している。
  2. 信虎の頃から武田に仕えていた老臣。
  3. やはり、勝頼のことは頼りにしていなかった。しかも、信玄の前でもどっちかと言ったらズケズケしていたらしい。
    • で、信虎に対しても、やはりワンマンぶりにむかついていた。
  4. 一国の太守になれる器量の持ち主と言われた。信長陣営に入れば実際にそうなったかもしれないが、主に甲駿信しか領してない武田では信州松本周辺を領地とするのが精いっぱいだった。
  5. 彼の最期には織田信長が感嘆した。

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日根野弘就[編集 | ソースを編集]

  1. 裏目を引き続ける人。
    1. 美濃・斉藤家で家老を務める。が、斉藤家が織田信長に負けて滅亡。
    2. 東へながれて落ち目の駿河・今川家に仕える。が、武田・徳川に挟撃され今川家も没落(程なく今川家滅亡)。
    3. 近江・浅井氏に仕える。が、同僚を殺傷し出奔(程なく浅井家も滅亡)。
    4. 伊勢長島の一向一揆に加わる。一向一揆も壊滅。
    5. 結局織田信長に仕える。…そのうち信長が本能寺の変で散る。
    6. その後、豊臣秀吉に仕えるが勘気をこうむったりで 浪人→復帰 × 3。
    7. そして関ヶ原の合戦で息子達は東軍について勝ち馬に乗れた。よかったよかった、と思いきや、2年後に実は西軍・石田三成に通じていたことがバレる。息子達に迷惑かかる前に切腹。
    • 何度も敵対されてるのに、信長は良く雇ったもんだ。
  2. 切腹の様がまたすごい。腹から臓物を引っ張り出し、庭木にかける。そこで、ふと石田方とやりとりしていた書類の処分を思い出す。書類を紐で厳重に縛り、たき火にくべる(※腹は切った状態です)。で、一晩普通に過ごす。「まだしねないなぁ」。翌晩、やっと苦しみだし、やっと自分で首を斬って果てる。
    • おい、誰か介錯してやれよ。ってか 庭木にかけたはらわたはそのままだったんだろうか?
      • 切腹後首を討つのは江戸時代に入ってからでは? 横山武田信玄では捕らえられた諏訪頼重が切腹する際、腹切りから心臓突きまで全部一人でやっていたぞ。
    • なお、日本で始めて切腹した人は介錯がなくて三日三晩苦しんだとか言う話もあるので、あり得ん話ではない、、のか?
    • 但しこの話が本当にあったのかは定かではない。
  3. 鎧兜にこだわり、日根野頭形兜という形式を作った人。そっちでもちょっとは有名。
  4. 息子は諏訪高島城を造る。が、城の展示ではその後地元に復帰できた諏訪氏についての記述ばかりで城を造ったよそ者・日根野氏には触れられていない。

平手政秀[編集 | ソースを編集]

  1. 織田信秀の家臣で、信長の傅役(教育係)。
  2. 信長が家督を継いだ後も奇行が続くことに悩んで切腹した、と言われるが切腹の原因には諸説ある。
  3. ゲーム「HARAKIRI」では「恥」の値が高く、自分のターンが回る前に切腹することすらあるとか。

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福島正則[編集 | ソースを編集]

  1. 「賤ヶ岳の七本槍」の一人。
    • 実際は九本槍。しかし二人が戦死した為七本槍と喧伝される。
  2. 加藤清正と仲良し。「オイ市松」「何だ虎之助」と互いを呼ぶ間柄。
  3. 気の荒い大名扱いされやすいが、なかなかの人情家でもある。
    • 関ヶ原の合戦で敗れ、八丈島に流された宇喜多秀家に酒贈る(実際は正則の飲む酒を運ぶ船が嵐を避ける為八丈島に避難した際に秀家に酒求められ、贈ったのがきっかけ)とか、少年時代に暑さで死にかけたところを救ってくれた尼僧には米を毎年贈る等、結構義理堅い。
      • 尾張から安芸に移るとき、代わって尾張に入る大名に尼僧の世話を頼み込んでいったという。
  4. 広島城修築を将軍家に無許可で行ったのが仇になり、信州へ追い出された。
    • 追い出された先の信州では結構善政敷いたとか。田の等級別に年貢定めた「福島の棹受帳」や松川堤防を千両の予算で改修したという「大夫の千両堤」が残っているという。
    • 改易時点でオワタ感が強いが、転封後も四万五千石で大藩とはいえないまでもそこそこの待遇をされている。
      • なお幕府の検視人が来る前に火葬されたとかで改易後に移された信州高井藩 (今の高山村付近) も取り潰された。
  5. 清正とは反対に、仕事は家臣に丸投げだった。
    • だがそのおかげで政務にも軍務にも人材がそろっており、これも加藤家とは反対に、改易後の再就職は引く手数多だったとか。
    • 江戸から改易伝える役人が来る時「主人直命書無くして城地明け渡しならざる」と家臣団が一致団結。直命書が届くや全員正装で整然と城地を明け渡した。
  6. 短気で凶暴おまけに酒乱という、三国志の張飛を思わせる人物。
    • 少年時代に些細ことから人を殺してしまったが、「人を殺すのがこんなに簡単なら、俺は出世できるに違いない!」と考えたのが武士になる第一歩。
    • 酔っ払って家臣に切腹を命じてしまい、酔いが醒めてから家臣の死を知って号泣した。
    • 名槍「日本号」を母里太兵衛に持ってかれたのも、酒席における失敗談の一つ。
    • 酒さえ飲まなければ・・・名将といえるのだが。酒さえ・・・
      • 酒の入っていないときの逸話にはいい話が多い。
    • 当然ながら三成との相性は最悪。朝鮮出兵までは同じ豊臣仲間でやってきたが、秀吉死後に決裂するのは時間の問題だったように思える。
  7. 実は朝鮮出兵にはほとんど参加してない。
    • ちょうど中間地点にある「京畿道」を統治。補給路の確保と義兵の駆逐に全力を注いでいたと思われる。苦労の割に手柄の少ないポジション。
  8. 名うての恐妻家。
    • 側妾がいることを知った正妻に薙刀で斬りつけられ、裸足で外に飛び出した。
    • 後に「戦で敵に後ろを見せたことは一度もないが、あのときは思わず逃げ出してしまった。まこと、女の嫉妬は恐ろしい……」と、笑いもせずに語ったという。
  9. 大坂の陣の際に自身の兵糧を豊臣側に譲り渡していた。
    • これも国替えの一因であったらしい。

古田重然[編集 | ソースを編集]

  1. ゲヒ殿。
    • 「へうげもの」ファンに付けられた織部の渾名。
    • 織部の菩提寺は、同じく最近人気が高まっている曾我蕭白の墓もある。
      • そのせいで、参拝客増加に伴いゴミも増えて、お寺の方が迷惑しているらしい。これから訪ねようと思っている方はご注意を。
  2. 茶道の大家で、「古田織部」の名で有名。
    • 茶碗は高値で取引される。
      • 歴史的意義を考えると、茶碗のような茶道具よりも、懐石で使う食器の方が重要。
        • 中世まで漆器やかわらけ(素焼きの粗末な土器)、貴族なら中国からの青磁や白磁といったレパートリーしかなかったが、志野焼や織部焼以降一気に食器の種類が増える。
          • 室町時代と江戸初期に描かれた全く同じ題材の絵巻物を比べると、後者は人物や建物の描写は全く室町時代のものと同一でありながら、膳上の食器の種類だけが明らかに増えている。
        • 食器に拘った北大路魯山人も織部焼のやきものをいくつも作っている。歴史的経緯を考えれば当然か。
    • ちなみに茶道の本を読んでも、殆ど載ってない。特に千家関係者が書いた本には。
      • 史料が少ないからしょうがないのだが、いくら何でも少なすぎ。
      • 古本屋や図書館を駈けずり回っても、古田織部の本はなかなかない。「へうげもの」の資料集めは本当に大変だと思う。
  3. 大坂の陣で、現職の大名としてはただひとり豊臣方についたらしい。
    • 旗幟を鮮明にしたわけではないので「らしい」という言い方にとどまる。
    • 配下の木村某が豊臣家と通じて京都に放火したりした。暗黙の了解は与えていたようだ。
      • 仮に事実だとしても、部下が勝手にやったことで織部は知らなかった、と桑田忠親先生は推論してた。
    • 秀頼の遺児・国松をかくまったという噂もある。
    • そんなこんなで京都所司代の板倉勝重に逮捕され、切腹を命じられるが、ひとことも抗弁しなかった。その理由はいろいろ想像できる。
    • はっきり言って謀反は濡れ衣だと思う。
      • 山崎の合戦や関ヶ原でもきっちり勝ち馬に乗ってのたのに、ここへ来てしかも前より遙かに先を読みやすい大阪の陣の勝敗を読み誤るなんてありえん。
        • 耄碌してた?大阪冬の陣で茶杓に手頃な竹を手に入れようとして、敵に狙撃されて軽傷を負うくらい元気ですよ?。
          • 茶杓「玉霰」はこの時に作ったと言われている。
      • 秀吉に恩があったという人もいるが、織部が本格的に活躍するのは秀吉死後、しかも秀吉は織部が敬慕した利休の仇に当たる。身を賭してまで豊臣家に尽くす動機は薄い。
      • 楠木誠一郎はその著書では濡れ衣を否定し、徳川への謀反を企てたことは確実だと断言した。もっとも楠木氏が書いた「日本史おもしろ推理―謎の殺人事件を追え」や「謎の迷宮入り事件を解け―歴史おもしろ推理」での数々の推論は飛躍しすぎてる点もあるので注意が必要。
    • 織部の死も利休の死の理由と同じように、茶の湯のもつ革新的な思想、特に「茶の湯では人間皆平等」と「道理にかなっていれば何をしてもよい」というのが幕府に危険視されたと思う。
      • 「安定」を最大のコンセプトにする幕府にとって、一向一揆を引き起こした平等思想は危険思想に他ならない。
        • 江戸時代以降も、茶の湯における平等は建前として残り、茶道は武士や町人が身分に分け隔て無く接する場として機能するけれども、もはや桃山時代のような激しい緊張感を伴った創作の場では無くなってしまう・・・。
      • 近世の法観念を表す言葉に、法は道理に勝るという「非理法権天」という言葉がある。法律を作って世を治めようとする幕府からすれば、道理に適ってさえすれば、大切な器物をぶっ壊すことも厭わない織部は、危険人物にしか見えないだろう。
        • 織部の死の直後に武家諸法度が出されているのは、なかなか象徴的だと思う。
  4. 織部とは「オリーブ」の意味という説もある。

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北条氏照[編集 | ソースを編集]

  1. 炎の蜃気楼のおかげで北条四兄弟では一番人気がある。

北条氏直[編集 | ソースを編集]

  1. 北条氏政の嫡男。後北条家5代目当主。
    • 母は武田信玄の娘、つまり信玄の孫でもある。あの頃の婚姻同盟すげえよ。
  2. 後北条5代と言って、「早雲、氏綱、氏康、氏政・・・あれ、4代じゃね?」とか言われちゃう感じに影が薄い。
    • 一応家督を継いでから10年くらいは当主やってる。まだ若かったから父親と二人三脚だが。
  3. 小田原開城の際に切腹しようとしたが、降伏を伝えに来た時の神妙さに感心した秀吉に助命され、叔父の氏規と共に高野山に流される。
    • 後に赦免され、大名に返り咲きさせてもらう筈だったが、早々に病没。
      • 享年30歳。これにて後北条氏の宗家は断絶。
  4. 嫁は徳川家康の娘、督姫。
    • 小田原開城の際の助命は、これも大きな理由。

北条氏規[編集 | ソースを編集]

  1. 北条氏康の息子。氏政の弟。
  2. 幼い頃、今川義元のところで人質として暮らしてた。
    • どっかの狸親父と同じ境遇。そう、まさかの「徳川家康の幼馴染」。
    • 桶狭間で今川義元が死んだ後、家康は三河に帰ったが、氏規は小田原に帰った。
    • 豊臣の窓口となった家康と再会し、上洛して豊臣政権の強大さを知ることになる。
  3. とっとと豊臣に恭順して家名を存続すべきと主張。秀吉に会いに何度も上洛。
    • 徳川家康も、小田原征伐の際には彼を助けようとしてくれた。
    • 結局小田原は開城するが、家康の計らいで助命され、高野山に流される。
      • しかも割とすぐカムバック。小田原からは遥かに遠い狭山(埼玉じゃなくて今の大阪狭山市)に城をもらい、そこで生きながらえた。ちなみに没年は関ヶ原合戦の年、1600年。
  4. 家康は彼の息子に彼と氏直の遺領を譲り、初代狭山藩主の大名にした。おかげさまで後北条氏の血筋は幕末まで存続。
  5. 朝廷から官位をもらっていなかったので、(官位で席順が決まる)秀吉との謁見のとき下座に座らされて大恥をかいた。
  6. 司馬遼太郎先生は甥の氏直さんと勘違いしてる感が否めない。

北条氏政[編集 | ソースを編集]

  1. 父親の後を継いで着実に所領を拡大して北条家最大版図を実現させ関東甲信越に強大な勢力を築いただけあってかなりの実力者であるが、関白秀吉による小田原征伐の結果降伏して家を潰してしまったがために過小評価されてしまっている。
    • 汁掛け飯や麦飯の話、そして小田原評定のマイナスイメージがついてしまった。
    • もっとも小田原征伐の頃は家督を嫡男の氏直に譲っていたのだが。
    • 最後の最後でコケてしまったために無能呼ばわりされてしまった例の一つともいえる。
      • 従来、秀吉の小田原征伐は補給を重視し、余裕で勝利したと言われてきたが、最近になってこれがかなり見直されてきている。豊臣方で参加した武将の日記やイエズス会宣教師の記録からは、豊臣方の補給は十分とは言い難く、士気が低下し離脱者がぽつぽつ出ていた実態がうかがえるためである。
    • 父親の氏康、関白秀吉、そして下記の後北条氏の後釜として関東にやって来た徳川家康の三人の引き立て役にさせられている感すらある。
    • 「北条記」という史書での扱いもひどく、歴代当主で唯一「君」付けされていない。
  2. 武田勝頼同様、織田家の脅威よりも、関東の覇権や勢力均衡を優先してしまったのが敗因と言える。例えば敗残の勝頼を援助して甲斐へ押し戻していれば、その後の展開はだいぶ違ったかもしれない。
    • 関東の覇権を重視するのは、後北条氏のアイデンティティであり存在意義だったため、状況が一変したからといって簡単には路線変更できなかった。
      • 早雲の代に京都の室町幕府を見限って関東で旗揚げし、姓を捨ててまで(早雲の時はまだ伊勢氏だけど)関東に土着しようとしたのに、今更関西の政権なんぞに従えるか!という気持ちが強すぎた。
      • 信長・秀吉の政権と後北条氏は、どちらも「室町幕府の超克」という同じコンセプトを持っていたために共存できなかった。他の大名権力は自己の領国を支配することまでしか考えてなかったため、自分の支配が認められさえすれば妥協することも出来たのだろう。
        • 結局室町幕府の後継者は、信長・秀吉のアイディアと後北条氏の領国を引き継いだ徳川家康になるのは、ある意味歴史の必然だろう。
      • 大雑把に言えば、前者は中央集権国家、後者は地方分権国家を目指していた。
    • これはむしろ勝頼に責任がある。御館の乱で景勝方に味方してしまって氏政を敵に回してしまったから。
      • そうか? 勝頼は一応信越国境までは自身で出陣しているし。いかに佐竹と抗争中とはいえ、弟の景虎にほぼ救援出そうとしなかった氏政の方が問題では?
      • しかしある時は敵、ある時は味方。武田、上杉、北条は、敵対と和睦の状況がコロッコロ変わる。タイミングが悪かったというか運が悪かったと言うか。
        • ちなみに景虎は氏政の弟。勝頼の嫁は氏政の妹。
  3. 後北条家は関東において、配下の官僚化と組織化、言いかえれば現代でイメージする「大名」の育成に、豊臣政権より先に成功していた。
    • 豊臣政権と折り合いをつけられたら、半独立国としてやっていけたかもしれない。
      • 現実にそれができたのは伊達。豊臣は西日本は完全に掌握したが、東日本は北条と伊達がくっついたら日本が真っ二つに割れると考え、北条を滅ぼして伊達を恭順させるという目論見は、規定路線だったと思われ。
        • 小田原征伐の原因も、何もそこまで徹底的にやらんでもという些細なきっかけだったし。
        • 残念ながら、伊達を滅ぼして北条を生かす方の道はない。日本地図見ればそりゃあなぁ。
  4. 小田原の開城と共に切腹。
    • 5代目当主の息子は助命されたが、これにて後北条氏の小田原支配は終了。
      • そして後北条氏の後釜として関東に来たのが、誰であろう徳川家康である。

北条氏康[編集 | ソースを編集]

  1. 地元の神奈川でさえも地味。早雲からの後北条家と言えば少しは有名?
    • 箱根観光で小田原城や早雲山とか知ってる人になら・・・
      • 個人的には氏康をどう評価しているかで本当の戦国好きかどうかがわかる気が。最近流行り(苦笑)の「歴女」とやらに聞いてみたいものだが。
        • こちらが馬鹿にしてるつもりが、いつの間にか抜かれてる気がする。氏康位ならもう知っているんじゃないかな?
      • 居城の小田原城は、「戦国のイゼルローン要塞」。
        • 正攻法の城攻めには完全無敗。武田信玄も上杉謙信も小田原まで攻めて来たことがあるけど、どっちも撃退。豊臣の包囲網への開城が一回のみで、それは後北条氏の滅亡を意味した。
  2. 鎌倉執権とは直接関係ない。
    • 相模の平定のために、鎌倉執権の跡目っぽい名前が欲しかったんだと。改姓は父親(氏綱)の代からだけど。
    • おかげで昔から関東を治めてきた他の大名は、いつまでも後北条氏をよそ者扱いし、ずっと「おめーらなんか北条じゃねえ。伊勢だろ伊勢バーカ」と呼んでた。
  3. 上杉謙信の宿敵の一人だが、謙信が上杉氏の名跡を継いだきっかけを作った人というのはあまり知られていない。
    • 関東管領上杉憲政(山内上杉)に連戦連勝。ついに関東から追い出した。これを恨んだ上杉が長尾景虎に、打倒北条の宿願と苗字と関東管領職を譲った。
      • ちなみにその上杉憲政だが、氏康の息子と一緒に御館の乱で死んどる。すごい因縁もあったもんだ。
  4. 息子が飯に汁をかけて食べる様を見て「これで北条家も終わりだ」と嘆いた。
    • ご当人は卵をかけて食べるのが好きとかいう話があれば面白かったのに。
      • 確か、汁を何回にも分けてかけていたからではなかったかな。「飯にかける適量も一発でわからんのか」というわけで。
        • まあ、この話自体が作り話だけどね。
  5. 元々領民に優しかったといわれる北条家の税制を改革して、領内に善政を敷いた。
    • 実は若い頃はうつけと呼ばれ、有能な父親に対するバカ息子呼ばわりだった。それなんて第六天魔王?
      • それでも河越夜戦で名を上げ、政務もバリバリこなし、戦国大名にありがちな家族間の不和などとも無縁で、着実に実績を積み続けた。
      • しかし幼少の北条氏康のうつけは織田信長とは対照的で、どちらかというと根暗気質のように思われる。
  6. 晩年は脳溢血で会話も食事も満足にできなかったらしい。早めに氏政に家督を譲っといてよかった。
    • だが後北条家は家督の継承順位を非常に厳格に適用していたので、どこかの上杉みたいなことにはならなかったと思われる。長男は早世したが、次男の氏政がしっかり後を継いだ。
    • 氏康が没したことが伝わると、城下の領民が老若男女ことごとく嘆き悲しんだという。ここまで慕われた戦国大名も珍しい。
  7. 正室は今川義元の姉。
    • つまり氏康と義元は義理の兄弟。今川とは何度も戦争やってるが、夫婦仲はずっと良好だったらしい。
      • 一度だけ家臣の妹に手を出して怒られたことがあったっけかな。
    • 嫁さんは10人くらい子供生んでくれた。
      • そろそろ子供が産めなくなる歳になるまで、氏康は側室を持たなかった。側室を持つように勧めたのは嫁。
  8. 当主なのに戦場では先陣切り込みまくり。追撃までやる。
    • おかげで顔も含めて傷だらけだったが、背中には傷がなかったと言う。それなんてネプチューンマン?
  9. 早雲から数えて3代目。後北条氏の全盛期を築く。

北条早雲[編集 | ソースを編集]

  1. 恐らく日本史で始めて電撃戦(と思われる作戦)を行ったが、登場時期が時期だけに、かなり影が薄い。
  2. 没した時80代だったらしい。
    • 今川義忠の側室になっていた妹の縁で駿河興国寺の地頭になったのが44歳。
    • 義忠の子・氏親に駿河守護を継がせるべく、駿府館に居坐っていた今川(小鹿)範満を打倒したのが55歳。
    • 伊豆に侵攻して堀越御所を亡ぼしたのが59歳。
    • 小田原の大森藤頼を追放して西相模を占拠したのが63歳。
    • 上杉朝興率いる関東管領軍を玉縄で撃破したのが80歳。
    • 三浦道寸を亡ぼして相模全土を掌握したのが85歳。その2年後に死去。
    • とてつもない遅咲きだ……
      • 遅咲き過ぎて不自然に思えるせいか、「本当はもっとずっと若かったんじゃないのか」という説が近年になって出てきている。
      • しかし、彼の三男の北条幻庵もえらく長生き(享年97)だったし、長生きの家系ではあったような気がする。
    • 実際は24歳ほど若かったらしい(干支は同じ)。
      • 上に書いた記事をほとんど無意味にするコメントだ……ww
      • 12歳説もある。どっちにしろ干支は同じだが。
  3. 北条姓になったのは息子の氏綱からで早雲自身は死ぬまで伊勢姓だった。
    • 前半生は謎が多いが、後半生の振る舞いからして、伊勢流の礼式に通暁していたのは確実。一部の研究者が主張するような「根っからの素浪人」ではあるまい。
    • 伊豆を支配した時に、治所を北条(鎌倉北条家の発祥の地)に置いたため、まわりから「北条殿」と呼ばれるようになり、だんだんそれが苗字みたいになった。
  4. 「戦国時代を拓いた男」でもある。
    • 領民と直接結びつき、一元的に統治した。それまでの守護・地頭体制とは全く異なる政治を導入し、「戦国大名」のさきがけとなった。
  5. 今川さんのところに行く前に平姓を名乗っていたのは秘密。
    • 伊勢氏なので必然的に平姓。秘密でもなんでもない。
      • 名前の「早雲」は出家後の法名で、出家前は伊勢新九郎長氏だったんだっけ?
    • 鎌倉北条家も平氏なんだけどね
  6. 盗人に「俺は物を盗んだだけだがお前は国を盗んだじゃないか」と言われ、度胸がある奴だと感心して無罪放免にしたらしい。

北条綱成[編集 | ソースを編集]

  1. 北条氏綱の娘婿。氏康とは義兄弟にあたる。
    • 氏康がまだうつけと呼ばれていた頃、家臣の間では義理の弟である綱成の方が後継者に相応しいみたいな声もあった。しかし氏綱はそんな風評を全部押さえつけ、嫡男の氏康を当主にした。
      • もっとも、綱成の方にその気はなかったらしい。そのあたりは武田晴信、信繁兄弟みたいな感じ。
  2. 口癖は「勝った、勝った!」
    • 勝った勝ったと言いながら敵陣を駆け巡ると、敵兵は大いに混乱したという。
      • そりゃあ無線も電話もない時代なら、「あれ? 俺ら知らないだけで本陣負けちゃったの?」とか思うもの。
  3. 北条戦隊のキレンジャー。
    • 北条の黄備え。朽葉色の旗指物に八幡って書いてたから地黄八幡。
  4. 北条軍一の猛将、地黄八幡の名は近隣諸国に大いに轟いた。どこに行っても「げえっ関羽綱成!」状態。
    • 武田信玄がどっかの城を攻め落としたとき、北条軍撤退後に残された旗があった。朽葉色だったので武田兵は「綱成が旗を置いて逃げた。ざまぁw」と言って笑ったが、武田信玄は「綱成が旗置いて逃げるわけねーだろ。悪いのは綱成じゃなくて兵」と言って兵を叱った。
      • ちなみにこの時の旗、「お前も武勇をあやかれ」と言って真田幸隆の子供にあげたんだが、実は現存しとる。
  5. 河越夜戦で河越城を守っていたのは彼。
    • 3千vs8万の兵力じゃ普通は降伏するか自棄になって特攻するが、氏康の援軍が来るまで半年もよく耐えた。
  6. 息子は氏康の娘を嫁にもらった。いとこ同士の婚姻だが、別に特筆すべきことでもないか。

北条長綱[編集 | ソースを編集]

  1. 北条早雲の三男。戒名は「幻庵」。
  2. 97まで生きたという超長生きじいさん。早雲~氏直の五代全員に仕えている。
  3. 碁が得意だった。
    • 小田原城内の連中と戦って敵なしだったため、ある日「俺より強いヤツに会いに行く」と言って城を出て行った。
      • そんで城下に行ったら一人のおっさんが対戦相手に名乗り出たのだが、そのおっさん普通のおっさんなもんで、氏康の叔父でもある幻庵にビビりまくり。
      • 最初は緊張で思うように打てなかったが、何戦か対局してる内に緊張もほぐれて調子が出て、いい勝負を繰り広げるようになった。そしたら幻庵の妙手に「うわこの小僧(石のこと)どこから出やがった!」と思わず口走った。
      • はたと我に返って「うわぁぁぁオレは箱根様になんてことをくぁwせdrftgyふじこlp」と錯乱。幻庵はなだめるのに必死だった。
      • ちなみに幻庵、この時のことは「楽しかった」とな。
  4. 「信長の野望」での戦闘値の極端な低さは何?

細川忠興[編集 | ソースを編集]

  1. 父細川幽斎同様歌道、茶道などに造詣が深く、兜作りにも堪能な教養人だが、気性がかなり荒い。そしてヤンデレ
  2. 息子二人との間に亀裂を生じ、二人とも放逐している(次男は大坂夏の陣で西軍に与して切腹させられた)。
  3. 妻は洗礼名の細川ガラシャで有名な明智光秀の娘玉子。
    • 逸話を見ると夫婦仲が良かったのか悪かったのか不明。だが妙に血なまぐさい。
      • ヘマをした下人をガラシヤの目前で忠興が手討ちにした。血しぶきがガラシヤの着物にも飛んだがガラシヤは平然、血のついた着物を着続けた。
      • あきれた忠興が「お前は血の冷たいこと蛇のようだな」と言えばガラシヤ返して曰く、「あなたは鬼です。鬼の女房には、蛇がふさわしゅうございましょう?」 怖い、怖いよ。
    • 義父の光秀が本能寺の変を起こすと、結局は光秀に背を向けた。
  4. コレクションした名刀に自ら銘を付けているが、その内容が……。
    • 歌仙兼定:手討ちにした(戦で斬った、ではない)人数が三十六に達したので、三十六歌仙になぞらえて命名。
    • 晴思剣:思いが晴れてすっきりしたことから命名。晴れた理由は、「積年の恨みがあった茶坊主をぶっ殺したから」
  5. 80歳になってから、やっと親父の言ったことを理解した。
  6. 長生きだった。
  7. 本人が筆まめ、かつ家が現代まで残っているため、多くの手紙が現存しており、当時の様子を知る資料となっている。
    • 「あの大名がこんなことをしたんだよ。あいつらしいよなあ」とか、「この間の鮎は焼きかたが駄目だったぞ」なんて話題も多い。現代のメール感覚やね。
    • 手紙に何度か登場するのが伊達政宗(晩年)のヤンチャぶり。「あいつキツネがついてんじゃねーのか?」とは忠興さんの評。
      • 「お前が言うな」とは言ってはいけない。
      • それでもよくつるんでるっぽいし類は友を呼ぶのか。政宗も文化人として有名だしなんだかんだで気は合うのかも。
  8. 信長大好き。兵法家も大好き。
    • ちなみに忠の字は織田の嫡男信忠から貰った。
    • 丹後・豊前・肥後と転封する先々で必ず摠見寺(信長の菩提寺)を建立した
    • 信長の法要も欠かさず、息子の忠利が重大ミスを犯した家臣を処罰しようとした時に『信長様の法要やっている時に殺生するんじゃねぇ』とブチ切れ全開の手紙が現存している(この時は八代で隠居生活していた)
  9. 越中ふんどしの名は忠興さんの官名「越中守」からついたとか。

細川藤孝[編集 | ソースを編集]

  1. 法名は「幽斎」。
  2. 戦国一の教養人として名高く、数多の武将や公家、町人が教えを乞いに来た。
  3. 実は武芸も達者で、とある武将の腕をひねり上げたら、その腕がひどく腫れ上がり、湯治を行う羽目になった。
    • 他にも、門の閂(太い材木)を素手でへし折ったとか、暴れ牛の角をつかんで投げ飛ばしたといった逸話がある。外見はマッチョだったかもしれない。
  4. 息子の忠興に歌道を教えるとき、「お前程度がいくら失敗したところで、私の名声が揺らぐことはないから、安心して学べ。」と言った。その後、忠興は歌人としても大成した。
  5. 敵に城を囲まれた時、天皇が詔勅を出して彼の命乞いをした。
    • 古今伝授の伝承者が当時は彼だけだったため。まさに「芸は身を助ける」だ。
    • 「敵に城を~」の戦いは関ヶ原の戦い。こもってた丹後田辺城(舞鶴城のこと)開城指令の勅書が届いた時「天下に開城数々あれど詔勅によって開城したるはわれのみぞ!」と叫んだとか。
      • この時の攻め手(西軍)は5000の兵力ながら士気上がらず。守る田辺城は250。攻め手の士気上がらないのも道理、攻め手の大将が藤孝の弟子だからだ。
  6. 室町幕府滅亡後、しばらく長岡姓を名乗っていた。
    • 関ヶ原の合戦後細川姓に戻した。
      • 長岡姓にしたのは、幕臣であった為織田信長に「もう細川じゃありませんからね~。謀反なんてしませんよ~」という意味を込めた。関ヶ原の合戦後に戻したのは「も~う長岡姓名乗んなくてもエエやろ~」と思ったからだろうね。
  7. 足利12代将軍・義晴のご落胤らしい。
    • 義輝や義昭とは兄弟ということになる。その気になれば将軍位継承を主張できたかも。
      • それをする気配もない平衡感覚が細川家を織田・豊臣・徳川時代通じて絶妙のポジションで存続させ得た理由なんだろう。平成になってついに天下も取ったしな。
      • 実にコロコロ寝返っている。松永久秀とかよりよほど信用できない。
  8. 伏見城の柿の木に登って柿を盗っていたところを太閤に見つかったが、とっさに一句ひねって笑って許してもらったという。これも「芸は身を助ける」
    • その時詠んだとされるのが「君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまめ」だとか。
  9. 信長の野望・戦国群雄伝の顔グラはトラウマになるレベル。こえーよ。
    • 武将風雲録では稲川淳二みたいな顔だ。

本願寺顕如[編集 | ソースを編集]

  1. 浄土真宗(一向宗)本願寺第十一世。本拠地は石山本願寺。
  2. この時代の宗教組織は大名とほぼイコール。中でも本願寺は、資金力、動員兵力、他国への影響力など、日本最大級の大名と言って過言ではない。顕如はその最盛期を築いた。
    • 本願寺は寺院ながら、石山本願寺城といわれるほど堅固だった。
  3. 三人の天下人に大きな影響を与えている。
    • 信長は根絶しようとして果たせず。信長の天下統一を10年遅らせたといわれる。
    • 秀吉は石山の本拠地に自分が座ることで無力化する。
    • 家康は教団の内部対立を利用して教団を分割し、宗教の政治への関与を排除することに成功した。
  4. 浄土真宗らしく妻帯し、息子に教団を継がせている。嫁は武田信玄の嫁の妹。
    • 夫婦で詠み交わしたラブラブな歌が残されている。
    • でも息子達は兄弟ゲンカをして、教団は二分されて東西に分かれてしまいましたとさ。(まあ上記のように家康が仕組んだことだけどね)
  5. 朝倉義景とは同じ反信長だが、信長包囲網成立以前は朝倉とは完全に敵対関係だった。
    • 浅井とも。
    • 加賀が実質一向宗の支配下にあり、越前をはじめ隣国で一向一揆が多発していたため。テロ輸出国……。
    • 本願寺は、加賀の国人が門徒なだけで直接関係ないから、こちらから命令はできないと公式回答。「なら加賀の御布施が石山に流れてるのはどういうこと?」「アーアー聞こえなーい」

本庄繁長[編集 | ソースを編集]

  1. 一筋縄ではいかない北越後の豪傑。武田信玄に買収されて謀反を起こしたり、主君景勝の支援なしに自力で庄内の領有権を巡って最上義光と死闘を繰り広げたり
  2. 関ヶ原の合戦後には徳川との和睦にも尽力。過去には裏切りもした人物だが、トータルで計れば上杉家への貢献度は頗るつきに高い。

本多重次[編集 | ソースを編集]

  1. 徳川家臣。通称は作左衛門。
  2. 面倒くさい奴等として知られる三河武士の中でも、特に面倒な人物だったという。
    • 主君の家康に対する物言いもズケズケしていたらしい。
      • 家康の主君・秀吉をたびたび怒らせて蟄居処分食らってたらしい。しかし下の一筆啓上の内には妻子に配慮あり、「荒っぽい男だが、心正しく民を用いるに配慮あり、訴訟をよく聞いて事を明らかにした」(by新井白石)という一面もあった。
  3. 「一筆申す火の用心 お仙痩せさすな馬肥やせ」という短い手紙を妻へ出した逸話がある。
  4. 伊達政宗や山本勘助同様に片目だったらしい。

本多忠勝[編集 | ソースを編集]

  1. 家康に過ぎたるもの。通称は平八郎。弥八郎こと同姓の本多正信とは仲が悪かったようだ。
    • こっちは武力で、向こうは知略で攻めるタイプだったため。
  2. 数多の合戦に従軍しながら、生涯一度も戦傷を負わなかったと言われているが…流石にこれは誇張なのではないだろうか。
    • 馬場信春も同じだな。
    • 将であればそんなにやたらに戦傷を負うものではない気もする。
      • 将が負傷するのは、功名にかられて一騎駆けしたり、乱戦にもつれこんで抜けられなくなったりする場合がほとんどなので、信春や忠勝はそういうことをしない冷静な武将だったということではなかろうか。
      • あとは弓矢や鉄砲で直接狙撃される場合があるが、こればかりは運でしょうな。
        • 体じゅう傷だらけだったといわれ北条氏康の例もあるから一概には言えない気がするなぁ。
      • 事実かどうか分からんが、姉川の戦いで単騎がけしたとか敵の猛将と一騎打ちして勝ったとか、小牧・長久手で豊臣軍の前に単騎で悠々と現れて馬洗ってたとか言われてるので、前線で堂々としてればかえってやられないというアレキサンダータイプのような気が。
    • スパスパの実を食べていたという異説がある。体が鉄と同じ硬さだったため、傷がつかなかったらしい。槍に触れただけでトンボが切れたのは、実は能力を使っていたようだ。
    • それならば鎧はゴツかったんだろうと考えてしまうがむしろ薄くて軽かったらしい。つまり防御力が高かったのではなく回避力が高かった。逆に同僚で傷だらけだった井伊直政の鎧は分厚く重かったらしい。
      • HPが低かった(↓参照)事と併せて、通称メタルスライム。
    • 晩年、自分の持ち物に小刀で名前を彫っていたら、手元が狂って指を切ってしまった。
      • 「ついに傷がついたか。俺も年貢の納め時だな」と納得した数日後に死んだと言われているので、本人的には生涯無傷はマジだったんだろう。
  3. 愛用する槍は蜻蛉切。穂先に止まったトンボが真っ二つになったとか。
    • しかし、これがよりによって村正だった。
    • 蜻蛉切は村正派の正真の作。但し村正は当時、伊勢・尾張・三河で大流行してた刀匠集団なので徳川家家臣団にも当然愛好家は沢山いた
  4. 本能寺の変後、信長の仇を討たんとする徳川家康を諫め、伊賀越えを行わせた智将でもある。

本多正信[編集 | ソースを編集]

  1. 家康からは「友」と呼ばれたが、同僚からはすごい嫌われていた。
    • 家康の膝元で一向一揆があった時、一揆方に走ってしばらく帰ってこなかったせいかもしれない。「あやつは一度殿を裏切った男だ」と見られていた。
      • 三河一向一揆では他にも多くの譜代の家臣が一揆側に荷担している。復帰後の謀将としての活躍の暗色が嫌われたのだろう。
      • 一揆鎮圧後はすぐに帰参せず、松永久秀に属したり本願寺に身を寄せたとも言われている。おそらくそこでなにかを見たのかもしれない。
    • そうでなくとも、石田三成が福島正則あたりから毛嫌いされたように、能吏型の人間は武断型からは嫌われるものです。
    • 過去のことなどを利用してあえて「嫌われもの」になっていたのかもしれない。組織にはこういう人物も必要なのです。
    • 正信は過度に出世しないことで上手くバランスを取っていたが、息子は空気を読み損なって改易。
  2. 意外にも徳川家の外の人々からの評判は高かったようだ。
    • 松永久秀「徳川家の武士は武勇一辺倒の者が多いが、この者だけは違う。まさに非常の人物だ。」
  3. 存命中は加増を断り、小身のまま過ごした。
    • 本人は無欲というか、仕事をしたかったら大封など受けるものではないぞ、と息子にも言い聞かせていたのだが・・・。
  4. 謀臣だが、意外に人情話も多い。
  5. 三国志に登場する諸葛亮の兄・諸葛キンと共通点が多い。
    • 諌言のとき、直言せずにやや遠まわしな言い方をするところとか、長男は小賢しいタイプである(しかも政争に敗れて失脚する)とか、子の一人が他家に仕えて子孫を残すところとか。他にも探せばまだあるかもしれない。
      • 後を継いだ子供が有能だけど、失脚してしまうところもそうだね。
  6. 佐渡守の官位でも知られる。別にサドだったわけではない。

関連項目[編集 | ソースを編集]

戦国武将
あ~お/か~こ/さ~そ/た~と/な~の/は~ほ/ま~わ