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清の噂(一般)[編集 | ソースを編集]

  1. 日清カップヌードルが作られる。
    • 日清サラダ油セットも作られる。
    • あと、どん兵衛も作られたはず。
  2. 西タイゴーという悪女が名高い。
    • 東タイゴーもいる。北と南はいない。
      • 後世のねつ造説濃厚。実際はコイツがいなけりゃ清の寿命は数十年縮まった、と言われるほど
    • でも日本が日清戦争で勝てたのはこの女のおかげ(海軍予算を着服していた)。
      • いちおう頤和園は軍?の管轄だったので着服ではないらしい。ダメダメなのは同じだが。
        • 北洋軍閥に必要以上に力を持たせない為。それは日本に勝つこと以上に大事な事だった。お蔭であんなごっつい宮殿ができたんやけええやないのw
    • 今際の際、遺言として「女に権力をもたせてはダメ!」と言っている。本人も多少なりとも自覚してたのだろうか…
  3. 辮髪(べんぱつ)が強要される。拒否した者は死刑。
    • その徹底さのため「頭残すもの髪残さず 髪残すもの頭残さず」といわれるほど
  4. そんなに清くなかった。
  5. アヘンが合法となった。
  6. この時代だけ最後の皇帝がやたら有名なのは坂本龍一のおかげ。
    • でも、「愛新覚羅溥儀」という名前だということを知っているのは少数。弟は「溥傑」。
      • 結構有名だと思うんですが・・・
      • 溥傑さんの奥さんは日本人。
        • 娘が2人いるが、長女は天城山中で心中死。次女は日本の一般の家庭に嫁いでいる。
        • 気さくな人で書を頼まれたら気安く書いてくれたから溥傑の書はいっぱい残っている。だからヤフオクでもちょくちょく売りに出されている。いっぱい残っているから値段はそんなに高くつかない。
      • 魚の飼育大好き。知られて無いけど。
    • たまにはベルナルド・ベルトルッチ監督のことも思い出してあげてください……。
  7. チャイナドレスが作られたのはこの時代。でも着てるの庶民だけ。
    • 逆。支配者の満州民族だから貴族女性が着ていた。庶民が着る様になるのは中華民国以後。
    • キョンシーの服も元々は満洲人と官僚の服で、生きてる間は着られなかった。死んでからは黙認されてたので出世するようにと死装束として着せられた。
  8. 阿片大流行。取締官は逆切れした売人に排除される。これで独立国家?
    • イギリスが密貿易して後にアヘン戦争が起こるが、アヘンの吸引習慣自体はイギリスが持ち込んだわけではなく中国発。むしろヨーロッパでは中国人のアヘン禍を見て危険性が認知されたという。そんなもん売るなよって?だってイギリス人だし・・・
  9. 人口が初期から末期までに都合10倍になる。現代シナ大陸のファンシーな色の海やメルヘンチックな川の色の基礎はこの時造られた。
  10. 世界最大の漢字辞典が作られる。しかし使われている漢字は収録数の5分の1以下。
    • 皇帝の名前に含まれている漢字を載せるのは畏れ多いとかいって改竄された文字もあった。
  11. 清朝皇帝は、満州人たちの部族長会議の議長と、モンゴル人たちのハーンと、漢人たちの皇帝と、チベット仏教の最高施主と、東トルキスタンのイスラム教徒たちの保護者という、五つの役割を一人で兼ねた、同君連合の統治者だったのだが、大元帝国の皇帝同様、なぜか漢人の皇帝としてのみ歴史に表記されるに至っている。
    • 清帝国が同君連合だということになると、中国が満州、内モンゴル、新疆ウィグル、チベットを領有する根拠もなくなるからねえ。
      • 満洲語文書もいっぱい残っているが、学者は漢字しか読まないため研究が進まない。漢字で記録作った者勝ちの状態。
        • しかし仮にも「大国の公用語」だったはずの満洲語が、今や死に体なのはどういったものか…
  12. 第一属国:朝鮮に宦官や妓生の献上を義務付けていた。
    • 朝鮮国王の序列から考えて第一って事はないんでない?貢女はれっきとした事実だけど。
      • 第一ではないが、最後の属国ではある。
  13. 実は歴代王朝でもっとも名君の数が多い。さすがは女真族。
    • 跡継ぎは長男や子供に限定せず、親戚から一番優秀な人を選び、死の直前まで公表しない風習が清王朝にはあったから
    • ハッキリ言って20世紀の中国があれだけ酷いことになっても地力を残せたのはこの王朝のお陰。
    • 後宮経営も堅実やったらししね。宦官の数も明みたいに増やさんかったし、皇后も容色ではなく婦徳の有無で選んでたし。末期にやや崩れたけど。
    • 女真族なんて言うとホンタイジが怒る。
  14. ラーメンマン誕生。
  15. この頃の中国人の服装、言葉(~アル)が、のちに日本のアニメや漫画に登場する中国人のイメージを作った。
    • 協和語はもう少し後。ついでに普段の服装はこれまでの王朝と大差ない。
    • いずれにせよ現在の「中国」のイメージには、満洲族由来のものも多い。
  16. 欧米人+日本人にパイを横取りされた。
    • 租借地やら租界やら鉄道附属地やら、何かにつけて外国の支配を受ける地が存在していた。このことが後に共産党政権を生んだ遠因となっている気がする…
  17. 三跪九叩といって、計三回ひざまずき計九回頭を叩きつける拳法が宮中では義務付けられていた。
    • この奥義は、現在日本の外務省に伝承されている。
  18. 若いときに忍者やってた皇帝がワーカホリックの挙句過労死する。
  19. アタックチャ~ンス!!
  20. ロシアとの間でネルチンスク条約と言うものを締結したが、これの原本はなんとラテン語。
    • 満洲語も使われてる。しかし漢字は一切使われていない。
    • イエズス会が仲介したかららしい。
  21. 中国の歴史上初めて国歌を作った国(鞏金甌)。
    • 初めて郵政制度を整備して切手を発行したのも清王朝の時代。総じてこの頃から近代国家としての体裁を整えたといえる。
      清国1878年発行普通切手・ちょっとコミカルな竜
  22. 中華人民共和国は清朝の正当な継承国家であると主張し領地の「奪還」を目指している。
  23. 英語表記はChinでもShinでもなく、Qing。
    • ちなみに日本語では同じ「しん」でも、秦はQin(gは付けない)、新はXin、晋はJinと、それぞれ表記も発音も違う。
      • 満洲語では「ダイチン・グルン」(daicing gurun)
  24. 「清朝は秦・漢以来の中国王朝の伝統を引き継ぐ最後の中華王朝である」というのは正確ではなく、それぞれの地域で異なった体制で統治していたため長期的支配が行えたとし、中華王朝よりも中央ユーラシア的な体制を強調している。満洲人の母語はアルタイ系言語である満洲語であったこと、広大な領域を有した領土の4分の3が非漢字圏であったことなど中華王朝と言う意味の中国はあくまで清の一部であり清は中国ではないとして中華王朝よりも中央ユーラシア的な体制を強調する「新清史」と言われる傾向が日本とアメリカの歴史学者を中心に主張されてる。一方、中華人民共和国側は「中国の多民族的国家の正統性を批判している」と反論している。
  25. 辛亥革命後もここの皇帝は年金生活を送って優遇された。革命時に一家粛清されたどこかとは旧皇帝に対する扱いが対照的。
    • 共産党政権になったら限りなく虐待に近い冷遇をされたけどね。殺されはしなかったけど。
  26. 藩があったり、旗本あったり(八旗)、親藩あったり(親王府)と組織的には徳川幕府に結構共通点がある。

清の皇帝[編集 | ソースを編集]

太祖ヌルハチ[編集 | ソースを編集]

  1. ぬるい八ちゃんではない。
  2. 世界史受講者の9割以上が、このインパクトの強すぎる名前と彫りの深い肖像画を忘れない。
    • ちなみに漢字だと「努爾哈斉」。
      • 決して「塗蜂」ではない。
  3. 烏銃(火縄銃の亜種)や紅夷大砲で武装した明と朝鮮の連合軍を俊敏な騎馬と地の利を生かした戦術で各個撃破。あまりにも華麗だったのでUSAの士官学校の教科書にも掲載。
  4. 平成の世に入り、電卓で魔術を駆使する男に生まれ変わった。
  5. 若い時は継母にかなり苦労させられた。

太宗ホンタイジ[編集 | ソースを編集]

  1. 漢字だと「皇太極」。この文字だと、なんか最初からヌルハチの後継者に決まっていたように見えるが、そういうわけではない。
    • 本名は別にあるらしいが、ヌルハチから家督を継承する過程で、なんらかの事情でこの名前(というか「皇太子」の当て字)を名乗る事になったらしい。
  2. 万里の長城の正面玄関・山海関がなかなか抜けないので、裏口から廻ってちょこちょこと明に侵入。でも本当は正面突破したかった。
  3. の末裔から玉璽を譲り受け、これまで金と称していた国号を大清にあらため、正式に皇帝に即したのは彼である。
  4. 「お前なんか中華として認めねぇ」とのたまった朝鮮王を満州八旗の大軍で一蹴。これを朝鮮では「胡乱」(つまり野蛮人の反乱)と表記し侮蔑的に扱っている。
  5. こっから先は女真ではなく満洲と呼ぶように。

世祖・順治帝[編集 | ソースを編集]

  1. この皇帝の時に清朝が中国全土を支配できたので、廟名に「祖」がつく。
    • しかし、順治帝が征服事業をやったわけではなく、叔父の摂政王ドルゴンがすべてを取り仕切った。
    • 摂政王ドルゴンは、順治帝の母である太宗未亡人と結婚し、順治帝の義父となったが、すでに儒教的教養を身につけていた順治帝はこれを深く恥じ、ドルゴンの死後、この事実をすべての記録から抹消するように命じた。
      • 儒教的倫理観からすると、兄の未亡人と結婚するというのは、今で言えば実の姉妹と×××××するような不倫行為になるのです。
        • ちなみに順治帝の名前は「フリン(福臨)」と言った。
      • しかし朝鮮の記録に残ってしまっていたので、公然の秘密となった。
  2. 20代半ばで崩御したことになっているが、実はその後かなり長いこと生きていたのではないかという噂がある。
    • 息子の康煕帝が、ある時期までちょくちょく五台山にある寺を訪れており、その後ぱったりと行かなくなったという事実があるため。行かなくなったのが、順治帝の本当の崩御の時期ではないかというわけ。
  3. ドルゴンが大っ嫌いで、ドルゴンが死んだらわざわざ墓を掘り返して首を刎ねた。
    • ドルゴンは漢民族に辮髪強要した張本人でもあるので、現在の漢民族に嫌われてる。
  4. 順を倒して中国の支配を始めたのに、在位中に使われていた元号が「順治」。「順を治める」と書くのは皮肉だな。
  5. 中国共産党は自分達を清の後継者ということにしたいので順治帝を清の初代皇帝ということにしている。Wikipediaにも順治帝をの廟号を「太祖」、清の建国年を入関の1644年と書き換えようとする五毛党がよく現れる。

聖祖・康煕帝[編集 | ソースを編集]

  1. 中国史上最長の在位年数を誇る(61年)。昭和天皇には負ける。
  2. 中国史上最大の版図を実現した。朝の時よりも広くなった。
    • 王朝創始者でもないのに廟名に「祖」がついているのはそれを称えてのこと。
    • この人がチベットやらモンゴルやら台湾やらを服属させたために、現在の中共がそれらを固有の領土と言い張ることになった。満洲族の版図だっただけじゃん。
      • なお「版図」というのは「影響を及ぼせる地域」のことで、現在の感覚の「領土」とは異なる。中共はそれを意図的に混同している。
      • これはヤクザに例えると山口組の組長の子分に別の暴力団の組長がなって傘下に入るようなもん。
      • 中国人=漢民族ではないし、モンゴルは他の時代にも組み入れられたことはあったし特に台湾は明の遺臣が支配していたしまあね。そして当の満州族は完全に漢民族に同化してしまったし
      • 同化したしないについては日本・アメリカなどの学者と中国(中華人民共和国)の学者とかなり議論がある。
  3. 漢字字典の編集を臣下に命じた。この時代に制定された字体が漢字圏における標準字体(繁体字/旧字体)として定着し、後世にわたり参照されることになる。
  4. 中国史上最高の名君とされるが、辮髪を強制したせいで漢民族からは評判が悪かったとか。
  5. 幼い頃、宦官の「小玄子」に変身して小桂子と遊んだとか。
  6. ジュンガル帝国のガルダン・ハーンとその裏にいるダライ・ラマ5世とその摂政サンギェ・ギャツォに散々苦労させられた。ダライ・ラマ5世が死んでもその死が隠されて振り回された。
    • 実は一番苦労させられたのはダライ・ラマ5世にのせられたガルダン。
  7. 次男を清朝初の皇太子に擁立。無茶苦茶可愛がってジュンガル征伐の時もいっぱい手紙送ってる。しかし他の皇子達の妬みを買い皇太子は精神がおかしくなって泣く泣く廃太子(しかも2回)

世宗・雍正帝[編集 | ソースを編集]

  1. 自分を批判した学者と真っ向からディベートして完全勝利を収めた勉強熱心な皇帝。
    • コスプレの画がいっぱい残ってる。それに影響されて息子の乾隆帝もコスプレしてる。
  2. トルコのケマル・アタチュルクと並ぶ、ワーカーホリック独裁者。
  3. 最近の研究によると、水銀中毒だったらしい。清王朝の体制を磐石にするためには死んでも死にきれないと思い、不老不死の薬に手を出したのだろうか。
  4. 筆まめな人物で、臣下の上奏文にいちいち返事を書いているが、それには愚痴や悪口が多かった。
    • さらに、この上奏文を後年本にして出版してしまう。臣下に何か恨みでもあったのだろうか?
      • 罵倒され恨みに思った臣下が、自分を貶す本を出すのに先手を打つため。
    • 良い上奏の返事の一例:こんなためになる報告なら、読むのが楽しみだ。長くても気にすることはない。
    • 悪い上奏の返事の一例:大山師の大嘘つきの誤魔化しやの詐欺師めが!
  5. 皇位についたとき臣下に対して「おめーら、俺をお飾りのボンボンだと思ったら大間違いだぞ!」と一発かました。
  6. 自分の即位までかなりゴタゴタしたからこっそり皇太子を決めて死ぬまで誰にも教えない太子密建制を制定。

高宗・乾隆帝[編集 | ソースを編集]

  1. 祖父(康煕帝)より在位年数が長くなりそうだったのであわてて退位。
    • 退位しなければ昭和天皇とタイ記録だったのだが。
  2. 自分で自分に「十全老人」なんてかっこいいあだ名をつけた。
    • 十全とは10の戦争に全部勝ったという意味。実は負けてる戦いも多いが相手国が朝貢してくれたので無理矢理勝ちにした。
      • 最大のライバルだったジュンガルを滅ぼしたが、元々弱体化が問題だった八旗兵がそこから一気に弱体化が進んだ。
  3. 所蔵する名画にみずから讃をつけたが、あとでそれが贋作だったと判明し、ひっこみがつかなくなって、本物のほうを「よくできた贋作なので鄭重に保管する」と言い張った。
  4. 英国の使節に三拝九叩頭の礼を要求し、それを使節が承諾しなかったので国際問題になりかける。
    • それで片膝での応対を認めるも、使節の要求を断ったのでやっぱり反感を買う結果に。
  5. 中国の皇帝史上、最も長生きした皇帝である。(享年88)
  6. 政務は父親譲りですごく真面目だったが無駄遣いしすぎた。おまけに調子の良いヘシェン(和珅)をかわいがり清朝滅亡の遠因を作った。

仁宗・嘉慶帝[編集 | ソースを編集]

  1. 生きているうちに父から帝位を譲られた、乾隆帝の十五男。
  2. 乾隆帝が死んだ時、真っ先にやったのは奸臣和珅(王申)を排除する事だった。汚職によって貯めこんだ財産は年間収入の10倍といわれる。
    • …が、没収した財産を民衆に施さなかったというので皇帝の評判はガタ落ちした(この頃清は歳出超過に陥っていてそれどころではなかったのだが)。
      • あちこちで白蓮教徒による反乱が起こっていたので、それを鎮圧する必要もあった。
  3. 天理教徒の乱では紫禁城で騒乱を起こされた(いわば皇居とかバッキンガム宮殿とかでクーデターが起きるようなものである)。
    • そのときに紫禁城に突き刺さった矢傷の跡が現存しているそうな。
  4. 有能なんだけど乾隆帝のツケを一気に背負わされた可哀そうな人。

宣宗・道光帝[編集 | ソースを編集]

  1. アヘン中毒から自力で回復したが、アヘン戦争でわやくちゃになった気の毒な皇帝。
  2. 勤勉な皇帝で、晩年に重病に侵されても政務に打ち込んだほどのド根性さん。でもアヘン戦争の所為で凡庸皇帝の烙印を受けている。
  3. 咸豊帝を後継指名した太子密建の朱諭を見る限り、かなりひねくれ者のような気がする。
  4. 皇子時代は天理教徒の乱で紫禁城に賊が侵入したときは自ら銃を持って討伐してる。

文宗・咸豊帝[編集 | ソースを編集]

  1. 英仏連合軍に北京に攻め込まれて逃げ出し、逃亡先で死んだ気の毒な皇帝。
  2. 西太后はこの人の第二夫人。
  3. 猛烈な京劇好き。何せ死の二日前で自身がくたばりかけていても辞めなかったある意味の強者。
  4. 纏足の女が好みだったとか言う説がある。

穆宗・同治帝[編集 | ソースを編集]

  1. 母・西太后からあてがわれる女に嫌気がさし、お忍びで街の女と寝たところ、性病をうつされて死んだ気の毒な皇帝。
    • 最近ではその説は否定されつつある。可哀そうなのは変わりはないが。
  2. 清の皇帝の中では、最も無能いや殆ど政治に関わったことがなかった。また最も若死にした皇帝(享年18)でもある。

徳宗・光緒帝[編集 | ソースを編集]

  1. 西太后から権力を取り戻そうとあがき続けるが、結局無駄だった。死期を悟った西太后に暗殺されたのではないかとも言われる気の毒な皇帝。
    • クーデターを起こそうとして、軍隊を握る袁世凱をあてにしていたが、西太后に寝返られて失敗。
    • 死ぬまで幽閉されてた気の毒な人。
      • 未遂とは言え、一度廃されそうになった人でもある。

恭宗・宣統帝[編集 | ソースを編集]

  1. ラストエンペラー。
  2. 日本軍を利用してまんまと満州国皇帝に返り咲くが、ヤバくなったのでたちまち切り捨てた。日本人の多くは「なんたる忘恩の輩か」と怒り狂ったが、なに、ヤバくなれば「功臣」をあっさり見捨てるのは、史上の中国皇帝たちがしょっちゅうやっていることである。
    • しかも強すぎる「功臣」を叩くのは中華皇帝の本能。戦争が無くても、日本軍はいずれ排斥されたに違いない。
    • 日本軍というか、関東軍
  3. 死の床に付いたときに、チキンラーメンをねだった。
    • 歴代の最後の皇帝と比較しても、共産党政権であることを考えれば奇跡的に平穏な死だと思う
    • 旧体制の権化とされたのか、死ぬのが誰の目にも明らかになるまで、満足な治療を受けさせてもらえなかったらしい。
      • あちこちの医者に断られ、その上たらい回しにされ、見かねた周恩来にどうにか病院に入れてもらったときにはすでに手遅れだったそうな。
  4. (人格)改造人間である。
    • アノ撫順収容所に居ましたからねえ……
      • 収容所から出た後は清掃人として生計を立てる
  5. ここの皇后は美人だったらしいが、謎が多いとされる。
    • 入江曜子著『わが名はエリザベス』を読んだ印象だとオーストリアの皇妃エリザベートと何かと被る。ついでに溥儀=極悪人とも刷り込まれる事請け合い。
      • 親溥儀派(例えばジョンストン)でもない限り、概ね極悪人とかひどい書かれ方をしている。
  6. 他の清朝皇帝はかなり厳しく教育されたが、この人は幼少期に清朝無くなったからまともに教育されなかったかららしい。
  7. 満洲語はほとんど話せなかったらしい。
  8. ちなみに弟の嫁さんは祖母が明治天皇の母方従姉妹という関係なので日本の天皇家とも(ものすごく遠いけど)親戚である。
  9. 日本のある作家の官僚批判本で幕末に「14歳の少年を将軍に就かせた」という記述があったが、清朝はその上を行く、未曽有の国難に3歳の幼児を皇帝に即位させた。もし、溥儀の父(光緒帝の弟)が皇帝に即位していたら、いくらかマシになって、清朝の寿命はある程度延びていただろう。
    • 溥儀が皇帝に即位したのは西太后の遺言で、日本のように皇室典範に基づいた訳ではなかった。

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