街道
(熊野古道から転送)
ナビゲーションに移動
検索に移動
広域[編集 | ソースを編集]
東北[編集 | ソースを編集]
奥州街道[編集 | ソースを編集]
- 基本的に今の国道4号。果ては海を越えて函館まで。
- 幕府的には江戸から白河まで。いわゆる直轄国道の走りみたいなものか。
- 栃木北部の旧道は今の国道よりもかなり東に位置している。
陸前浜街道[編集 | ソースを編集]
- 現在の国道6号。
- 今でも地図に書いてある街道名だが、実際に公式に使われたのは国道に制定されるまでの10年ちょっとの間。
- 藩によって呼び方がバラバラだった。
- 江戸浜街道だったり仙台通だったり水戸路だったり磐城街道だったり…。
- 南相馬では今の国道6号より大幅に西に逸れる。
- 藩によって呼び方がバラバラだった。
- もともとは東海道。
- といっても律令時代の話である。
- 御三家の水戸藩の中をあまり通りたくない人が多かったため、参勤交代にはあまり使われなかった。
会津西街道[編集 | ソースを編集]
- 現在の国道121号と下郷町と会津美里町を結ぶ県道。
- 会津から見たら日光宇都宮に行くための道なので下野街道。
- 会津藩主保科正之が整備した。
- モーレツ県令三島通庸が会津三方道路を整備したのを期に衰退。
- 一時湖底に沈んだ。
- 往時の町並みを残す大内宿は有名。
会津中街道[編集 | ソースを編集]
- 会津西街道が水没した時に松平正容によって整備された道。
- 結局会津西街道が復活したらお役御免となった。
- その後、会津西街道を水没させていた五十里湖が決壊。現在の藤原町から宇都宮にかけて土石流に襲われた。
関東[編集 | ソースを編集]
鎌倉街道[編集 | ソースを編集]
- 御家人が「いざ鎌倉」の時に通る道。
- あっちこっちに「鎌倉街道」があってどの鎌倉街道がどの鎌倉街道と一続きなのか分岐したものなのかさっぱりわからん。
大山街道[編集 | ソースを編集]
- 名の通り相模の大山へ参詣する道。
- 現在ではおおよそ国道246号がその後継。
- 古い道も結構残っており、246と重複しない箇所も多い。(というか、246が幹線としてしっかり直線化するのに別ルートをとっている、というべきか。)
- 三軒茶屋~用賀あたりは古い大山街道と新しい大山街道が結構分かれる。
- 道としては割と残っているんだが、昔の街道筋の街以外もすっかり市街地化が連担してしまっていて道の風景にあんまり街道っぽさは分からなくなっている。
甲信越[編集 | ソースを編集]
北国街道(信越)[編集 | ソースを編集]
- 一般広く知られた北国街道というとこちらのルートらしい。江州方面のとは別もんだがどちらも中山道→北陸道という橋渡しの役目を負っていた。
- 北国街道というより善光寺への参詣道という感じがする。
- 一説によれば、高田から先、出雲崎、長岡などへ至るルートも北国街道といったらしい。因みに、長岡藩や佐渡奉行もこのルートで参勤交代や赴任先への出勤をしたとか。三国峠越は当時の技術では厳しすぎるもんね。
- この他、加賀前田家なども利用したとか。今では考えられないくらい交通量が多かったんだろうね。
- 旧の宿場町としては海野宿が有名か。
- 善光寺から先、上越までは地図上でも「これが旧街道」というのが結構分かりやすい。きっと今太閤の権力により国道が半端に旧道を踏襲せずにズドンと造られたお陰。
千国街道[編集 | ソースを編集]
- 俗にいう「塩の道」。
- 地味に峠越えが多い。三坂峠迄は川沿いに登れば良いのに姫川渓谷などを避けるために無駄に峠越え区間を多くしたのが原因。
- 実はこれでも当時の街道にしては結構線形改良は進んでいたらしい。
- 信州の古道は他の地域よりも道路脇の道祖神が多いらしいが、ここはそれが特に顕著。それだけ道が大切にされてきたということなんだろう。
- 起終点は糸魚川と松本。でも糸魚川市のページにはこの街道についての投稿は未だ存在せず……
- 大昔は中信へのメインルート。出雲から逃げてきた諏訪の神さんも、安曇の一族も糸魚川まで海路で来たあとこのルートを通った、はず。
野麦街道[編集 | ソースを編集]
- 『あゝ野麦峠』
- 飛騨の貧しい家の女子供が出稼ぎに行くため通って行った街道として有名。政井ミネの「あゝ飛騨が見える」は今でも泣ける話しである。
- 冬は氷が刃となって女工の脚を容赦なく傷つけたとか、雪道が赤く染まったとかいう話。他にも滑落事故が多かったらしい。
- 実は、金森長近の時代にある程度整備されていたらしい。
- 飛騨郡代もそのルートを維持管理していたとか。でも名称は野麦街道ではなく江戸街道とされていたっぽい。古い石標は大半が「江戸街道」
- 明治に入ってからの女工の話が有名だが、実は飛騨郡代も松本側の庄屋もこの街道の危険性を認識していたっぽい。
北陸[編集 | ソースを編集]
北国街道・北陸道[編集 | ソースを編集]
- 区間:鳥居本~長浜~木之本~深坂越(江越国境)~敦賀~木の芽峠~今庄~武生~浅水~福井~金津~細呂木~大聖寺~小松~粟生~松任~金沢~津幡~倶利伽羅峠(加越国境)~石動~高岡~小杉~岩瀬~水橋~滑川~魚津~泊~境~市振~青海~糸魚川~能生~名立~越後高田など。
- 実はルート変更が多かったりしてどれが正規ルートなのか今一つ良くわからない街道。
- 時代によっては親不知海岸は船で越したという話だってあるのに、正規ルート云々というのがあるのかと言われると何とも言えないが……
- 元々は、東山道を山科で分岐し、小関越え経由で西近江路(今のR161)を敦賀へ抜けるルートだったが、そんなルートは江戸期にはずいぶん廃れていたらしいし。
- 一番分からんのが敦賀~琵琶湖北岸。一時期は栃ノ木峠経由だった時期もあるらしいし、かと思えば塩津街道ルートだった時代や七里半越経由の時代もあったみたいだし。
- 実は、富山の中心部には寄らないルートだったらしい。小杉から岩瀬浜へ出て海沿いに魚津を目指すのが北陸街道。
- 江戸前期迄は富山どころか高岡にすら寄らないルートだったとか。何だこの富山とばし。
- 加賀藩と福井藩の為だけのルート。九頭竜川以北は加賀藩の参勤交代と物資輸送などのため、以南は福井藩の参勤交代と物資輸送などのため。
- 他の藩は誰も使えないし使ってなかったらしい。そういう意味では究極の私道。そのくせ、塩硝街道~野麦街道経由に参勤交代ルートを切り替えようとした前田さんちってアホとちゃうか。
- 細呂木~大聖寺の国境区間は街道っぽい雰囲気を味わっていたかと思えば急にゴルフ場の真ん中を行くという道になる。
- 道中で1、2の難所である木の芽峠の頂上には今も峠の関守さんが居らっしゃる。本願寺の蓮如上人が吉崎へ下った時のルートを一向宗では毎年重荷を担いで、京都から歩き通すらしいが、ここで必ず休憩させてもらえることになっているらしい。
- 一度、北陸路でこの隊列を見たことがあるが、沿道から人が出てきて蓮如上人の魂(?)だかに頭を下げて手を合わしている地元の方が結構いてらっしゃり、さすがは一向一揆の里北陸と妙に感心してしまった。
- 黒部あたりは冬と夏で通る道が変わる。
- 富山県の呉東では北陸街道と言われる。
- 親不知の道は崖の下にあったがほぼ水没。
- 山側に一応迂回路はあったようで、上路という地名にそれが残っている。
- しかし上路の峠はかなり険しい...。
- 岩瀬浜から常願寺川を渡るまでの道には古志の松原なるものがある。
- 第二次世界大戦時に伐採されそうになったが、なんとか説得。
東海[編集 | ソースを編集]
下田街道[編集 | ソースを編集]
- いわゆる、♪あまぎぃぃぃぃぃぃごぉぉぉぉぉぉえぇぇぇぇぇぇ
- 当たり前だが、天城トンネルもなければ河津七滝ループ橋もなかった。沿道に大室山リフトなどなかったし、反射炉だって出来たのは幕末だった。今と比べりゃ随分退屈なルートだっただろう。
- 三嶋大社の前で東海道と直角に交わる。そこが起点。
- 三嶋大社の前から、函南、韮山、長岡と抜けて大仁温泉あたりまではほぼほぼアップダウンのないルートをいく。
- 三嶋大社の南側数百メートルだけ、写真のようにしてあるが、正直街道感はゼロ。
- 旗本領でただでさえ入り組んでいたのに天領、小田原藩領、沼津藩領の領地もあったためかなり入り組んだ藩領境が続いていたとか。
- 宿場は起点の三島以外に立たず、後はひたすら間の宿や継場が設けられたのみだったとか。起点の三島もどっちかというと門前町兼東海道の宿場町だからあるという感じ。
- 因みに地元はこの継場負担に金銭面で苦労し、明治の中頃になってもその負担金による借金の影響で貧しい家が多かったとか。
- 意外や意外、開通したのは江戸の中頃のことだとか。
- それまで南伊豆では基本的に港から船で港伝いに沼津か熱海・小田原まで移動するのが一般的だったようである。しかも全線開業後も人の往来には用いられたが、みかんやその他物流はもっぱら船便だったため、貨物の往来はなかったも同然だとか。まあ天城越えを荷物持って越えるのは大変だもんなあ。
- いわゆる陸の孤島というやつだが、考えてみれば戸田なんかは、今でも道路こそあるが、実質的には陸の孤島感があるし、もしかすると港から港へ船で移動のほうが何かと良かったかもしれない。
- それまで南伊豆では基本的に港から船で港伝いに沼津か熱海・小田原まで移動するのが一般的だったようである。しかも全線開業後も人の往来には用いられたが、みかんやその他物流はもっぱら船便だったため、貨物の往来はなかったも同然だとか。まあ天城越えを荷物持って越えるのは大変だもんなあ。
根方街道[編集 | ソースを編集]
- 静岡県道22号線のうち沼津-富士間の部分、特に市境付近の通称。
- 昔は、東海道が通る海沿いの地域が湿地気味だったことから、愛鷹山の山際を通る根方街道はバイパスとして重宝したらしい。
- 今でいえば国道1号、更には東名・新東名がそのバイパスがわりか。
- 現在、根方街道自体は国道1号の渋滞抜け道として使われるが、東海道と違って昔の街道のままの道幅なため、対向が怖い箇所も結構ある。
- 根方は、街道沿線地域のうち市境近辺のことだが、字面もあってか田舎のイメージ。
- そのため、沼津、富士のどちらから見ても相手は根方のさらに向こう側ということで、両市民が互いに見下しあう一因となっている。
飯田街道[編集 | ソースを編集]
- 概ね、国道153号とカブる。
- 足助までの経路が良く分かっていない。
- 名古屋市内の区間にも飯田街道の表記は見られるが、その辺りの住民は飯田が長野県の飯田市のことであることはほとんど意識していなさそうである。
- よくある間違い:上飯田までこのルートで行けるんだっけ?
近畿[編集 | ソースを編集]
熊野古道[編集 | ソースを編集]
- 和歌山県の田辺~本宮~那智、新宮のいわゆる中辺路ばかりが有名だが、大阪の淀川の岸辺から延々続いているし、海岸線沿いの大辺路や奈良の吉野から続く奥駆け道や、伊勢からの道もある。
- 起点は天満橋駅のすぐ近くにある。
- 天満橋駅の項目の1.にある港というのが起点である。
- 起点は天満橋駅のすぐ近くにある。
- ハイキングルートとして整備されている「熊野古道」と呼ばれている物の中には、実は近年出来た物もある。
- 昔からの「熊野古道」は農道としても使われ、アスファルト舗装されてしまったために別にハイキング用に道を造ったらしい。
- 熊の鼓動と書いたテディベアのポスターがある。
- CLANNADの伊吹風子風子のポスターもある…
- 「たかりユネスコ」
- 胴切り坂は歩くだけでも結構な急坂が続きつらいが、石畳なので下り坂(那智→本宮方向)で雨降りのあとだとさらにきついと思われる。
- 三重県内には世界遺産登録に反対する地主が反対声明を木にスプレーで書いていたりするそうな。
- 登録範囲は道から両側50mの範囲で、そこは勝手に木を切ったらいかんらしい。地主が昔から林業を営んでいたところですら。
- 地主の許可なく勝手に道路引っ張って、あげく木を切るなじゃ、まあ、キレてもしゃあないわな。
- 古民家の軒先を行くようなところもある。
- その辺は吉野熊野の山の上にあるので、眺めが素晴らしい。
- 熊野詣でのための道だけに「王子」がいっぱいある。
- 卓球の「王子サーブ」の名称も実はこれに由来しているとか。
- 北畠や帝塚山の辺りでは阪堺電気軌道上町線の併用軌道が通っている。
伊勢本街道[編集 | ソースを編集]
- 大阪から暗越で奈良へ出てそこから榛原、御杖、飯高、松阪と抜けて伊勢神宮へと行く。
- 「もうちょっとマシなルート無かったんか?」と思ったが、青山峠越えのリスクとか伊賀国経由する危険を思うと案外悪くないかも。
- 今でも年末になると大阪の玉造から歩き通す人々が数多く出る。元日の夜明け前に伊勢へ着こうと夜通しで。
- 近鉄乗ったら、特急(深夜運行の臨時便)で酒盛りしとる間に御伊勢さん着くのにね。
- 東の旅で清八と喜六がひたすら歩く歩く。
- 玉造稲荷神社で旅出のお詣り、深江で傘を買うて……
紀州街道[編集 | ソースを編集]
- 熊野街道とほぼ併走するが、こちらは海側を通る。紀州和歌山藩の参勤交代の道、確か。
- 岸和田や貝塚や泉佐野や、宿場町ではないけれど、古い町を実感できるところを通る。泉佐野では商店街になっている。
- 戦国時代に本願寺の顕如さんが織田信長と和睦後に紀州へ逃れたのもこの道。岬町あたりには追ってくる信長軍を松に上って眺めたとか、殺生するわけにいかんから風上から灰を撒いて目つぶししてそのすきに逃れたとか、伝承が残る。
- 和睦しているのに軍勢が追いかけてくるのも変やし、今まで石山本願寺でさんざん鉄砲打ちかけておいて今さら「殺生できんから」とかおかしな話なんですが、そこはまぁ伝承ということで。
- 大阪~堺市内はほぼ阪堺線と並行している。
- 阪堺線の併用軌道は全て紀州街道上にある。
- 住吉大社の前も通っている。
- 実は日本橋のオタロードもルートに含まれる。
水間街道[編集 | ソースを編集]
- 区間:貝塚~水間
- 紀州街道から分かれて水間寺へお参りする道。
- 水間鉄道や府道40号、近木川に併走。現在の行政区では貝塚市内で完結。
- 古民家や宿場町があるわけではないが、それなりに街道っぽい昔からの街を通る。
- 豊臣秀吉が根来衆・雑賀衆を攻めたときにはこの街道・近木川が根来衆・雑賀衆の防衛ライン。積善寺城、千石堀城、森城など、街道沿いの地名の城があった。ほとんど史跡は残ってないけど。
粉河街道[編集 | ソースを編集]
- 区間:貝塚~犬鳴(泉佐野市) ~粉河
- 粉河寺へ参る道。だいたい府道63号。
- 貝塚から粉河へ直線に繋がずに犬鳴の方を迂回しているのは地形上の制約。大木越え~志野峠越えがあのあたりでは一番まし。
- かつては犬鳴温泉から今の県境のところを越えて、和泉山脈の稜線を越えるまえに神通で大きく西側へ迂回して土仏峠を越えていたそうな。確かに地形・流域をみるとそちらへ曲がる二瀬川の方が流域面積が広く、水の流れもあるし、直線的に行く方に比べ土地も開けて見える。
- 今の直線ルートを切り拓いたのは犬鳴の下の大木の集落に住んでいた間瀬(だったかな?)という怪力の男。それまではどーしょーもない奴だったのに、道を切り開いた集落の英雄に、という民間伝承。
鯖街道[編集 | ソースを編集]
- 一応広義の意味だと周山街道も鯖街道扱い。でも普通は出町桝形商店街から八瀬、大原、途中、葛川、朽木、熊川、小浜と行くルートが一般的。
- 信長の金ヶ崎の退き口で京へ逃げ帰るルートにもなった。東側比叡山やけど怖ないんかと。
- 花折断層の上をそのまま走る感じ。
- 道中「鯖寿司」ののぼりがちらほらあった記憶が。
野崎街道[編集 | ソースを編集]
- 深野・南寺方・千林ルート
- 大阪から野崎観音への参詣道だった。
- ほぼ全区間が府道161号(深野南寺方大阪線)。
- 千林商店街もルートに含まれる。
- 商店街の途中に京街道との分岐点がある。
- 商店街の東端に京阪本線のガードがあるが、これは野崎街道に因んで「野崎ガード」とも呼ばれている。
- 野崎道ルート
- 片町~寺川は奈良へ向かう古堤街道と同じ道を行く。寺川からは東高野街道を通って野崎へ抜ける。
- 野崎詣りのメインルートはこれ。そうでないと、歴代の桂春團治の演目が一個減ってしまう。
- 片町~京橋は京阪電車のすぐ南側を行く。
- 京阪京橋駅とイオン京橋店の間にある1段高くなった道がそれ。ここから歩道橋で南側の道路を渡りイオンの2階に繋がる。
- 京橋を出ると今福西までは周囲より2~3m程、高くなった道路を行く。
- なんでも元々深野池・新開池の水を淀川に流していた河川の北岸の堤だったところに街道を通したからこんな感じになったらしい。
- 古い堤上を行くから古堤街道と言われたとか。
- その河川(鯰江川)の跡は今は道路になっている。街道の南側の1段低い場所を並行する歩道付き片側1車線の道路がそれ。
- 歴史的には鯰江川とは別物。元々今の寝屋川的ポジションだった河川の北岸堤防上の道路だったのが、野崎街道・古堤街道。鯰江川は後代になって、たまたま、その街道沿いに出来た河川に過ぎない。
- だいたい新喜多大橋~極楽橋にかけては寝屋川の両岸とも、比較的地盤が高いエリアが広がっていることからして鯰江川とは無関係なことは容易に想像できそうなもんだが。
- 歴史的には鯰江川とは別物。元々今の寝屋川的ポジションだった河川の北岸堤防上の道路だったのが、野崎街道・古堤街道。鯰江川は後代になって、たまたま、その街道沿いに出来た河川に過ぎない。
- 微妙なカーブ具合といいおおさか東線の踏切を過ぎてから今里筋に出る迄の、ところどころ古い家が残る感じといい、住宅街の中ではあるものの旧街道の趣きをどことなく感じさせる。
- 基本的に全線高架線のおおさか東線の北半分だがここだけ踏切になっている。
- なんでも元々深野池・新開池の水を淀川に流していた河川の北岸の堤だったところに街道を通したからこんな感じになったらしい。
- 今里筋を渡って今福西に行くと変則的な五叉路がある。
- ここで道なりに行かずに南東へ折れる。そして数百m程行くと寝屋川沿いに出るので、北岸を徳庵まで東進する。
- 寝屋川沿いに出たところに野崎街道であることを示す、比較的新しい石碑がある。
- この区間、歩道は狭く、また味気ない風景が続くので、面白くない。
- ここで道なりに行かずに南東へ折れる。そして数百m程行くと寝屋川沿いに出るので、北岸を徳庵まで東進する。
- 徳庵では古川を渡った後すぐに、寝屋川沿いに20m程北上する。
- その後、中茶屋の住宅街に入り、ウネウネとしながら、道を行く。
- 茨田小学校の前で道路は途切れる。茨田小学校、中環、鴻池水みらいセンターの部分は、街道とレースは出来ないので迂回しないといけない。
- この辺り、明らかに北へ寄りながら東進しているのは、新開池の北岸にあった堤防を行く街道筋だったからと言われる。
- 鴻池水みらいセンターの先からは再び寝屋川の北岸をうねうねしながら、生駒山麓を目指す。
- 諸福では左手に諸福天満宮と勝福寺を見る。
- 勝福寺は135体しか無い五百羅漢がある。
- 135体しか無いのは明治初期の洪水で365体が流されたため。
- 諸福天満宮は1644年(寛永21年)に創建された神社。江戸時代初期の神社に多い権現造りと桃山様式の折衷が見られる。
- ここから赤井にかけては、ところどころに、段蔵というこの辺りの旧家に多く見られる蔵がちらほら。
- 段蔵は、洪水対策で色々工夫が施された蔵。元々低地で水はけは悪いものの、身分的にも資産的にもそこそこしっかりした地域が多い大東市内に多い。
- 勝福寺は135体しか無い五百羅漢がある。
- 太子田は太子堂等がある聖徳太子信仰の地。
- 太子堂では聖徳太子像が祀られている。
- 太子田大神社には聖徳太子が建てたことでも知られる四天王寺の絵馬がある。
- 「たしでん」と読む。意外と難読地名。
- 赤井に入ると、段蔵が増える。
- 赤井では泉勝寺、北野神社、地蔵堂、大峰堂が見どころ。まあ、野崎街道の見どころなんてどれもちゃちいけどさ。
- 平安時代の古文書によると赤井は御厨であり、深野池の魚を獲って、帝に献上していたらしい。
- 赤井を出るとすぐに住道駅前につく。
- かつては、角堂浜と呼ばれたこの地は、野崎詣りの船便の乗換港だった。
- 大阪八軒屋浜or片町or京橋から、徳庵を経て角堂浜までは寝屋川を行く大型船で来れたが、ここから野崎までは細い井路を行くため剣先船というのに乗り換える必要があったため。
- 喜六と清八の場合は、角堂浜までは船に乗り、ここからは歩いた。
- かつては、角堂浜と呼ばれたこの地は、野崎詣りの船便の乗換港だった。
- 住道で寝屋川を渡る。
- 渡河後、すぐに古堤街道とここからは寝屋川左岸を北上する。
- 深野池が埋められる前は、船で中垣内か寺川あたりまで渡って東高野街道を北上したらしい。
- 渡河後、すぐに古堤街道とここからは寝屋川左岸を北上する。
- 深野2丁目のセブンイレブンの前の信号で寝屋川と分かれる。
- よく見ると案内板の左下に7割方埋まってしまった石碑がある。ここを右折する。
- 深野2丁目からひたすら東進しJRの線路を過ぎた所が、かつての観音浜。ここからは船客も徒歩客も1km弱の参道を歩いた。
- 観音浜から野崎駅前まで200m程北上し、参道へ入る。
- 一説には専應寺へ参拝してから行く人も多く、この区間は道が別れていたとする説もある。
- 最後、東高野街道と野崎観音の参道の交差点からは、ひたすら石段を上がる。
- すると野崎観音の山門が出迎えてくれる。
古堤街道[編集 | ソースを編集]
- 片町~京橋~今福~徳庵~中茶屋~諸福~太子田~赤井~角堂浜(住道)~御供田~中垣内~龍間→ここで①と②に分岐
①→俵口~谷田~山崎~菜畑~椚峠~富雄三碓~砂茶屋→暗越奈良街道
②→田原→清滝街道・磐船街道
- 住道までは野崎街道の野崎道ルートと同じ。そこから先は、古堤街道として生駒宝山寺やならまちを目指す人が頻繁に往来したとか。
- 現代に置いては阪奈道路がこれを代替している。
- 住道を出ると平野屋新田会所跡とかを眺めながら御供田、中垣内と行く。
- 中垣内を過ぎると生駒山を越えるために山筋に突っ込んでいく。
- さあ、頑張ろうと気合を入れるも、はや山荘の下で道路が途切れる。
- 基本的には龍間まで大阪府道・奈良県道701号中垣内南田原線を行く。龍間からはよく分からん間道を行く。
- さあ、頑張ろうと気合を入れるも、はや山荘の下で道路が途切れる。
- 龍間の里では、龍間不動を左に見て手を合わせる。
- 阪奈道路の龍間交差点を渡り、更に進んでいくと荒池道という宝山寺へ抜ける間道との分岐があった。
- 元々は、野崎詣りと宝山寺詣りのための街道なので、龍間から先は街道をそれて間道へ入る人が多かったらしい。
- 戦後、米軍が測量目的で空撮した写真にも荒池道がくっきりと残っていたらしい。今は生駒山麓公園付近まで藪こぎが続くけど。
- 折角なので一応、荒池道のルートを紹介しておく。
- 龍間の里で街道から分かれた荒池道は、八丁門峠の手前で善根寺道や日下直越道と合流する。
- 八丁門峠の付近は、今は信貴生駒スカイラインの下をくぐるトンネルで越える。その後、生駒山麓公園の脇へ抜ける。
- 本当だったら朝日地蔵と呼ばれるお地蔵さんがあり、峠の往来者や生駒側の人々の信仰を集めていたらしいが、今は道が荒れているため行けない。
- 後は比較的歩きやすいハイキングコースを宝山寺まで下っていく。般若の滝という小さな滝のところで宝山寺の門前町に出る。
- 阪奈道路の龍間交差点を渡り、更に進んでいくと荒池道という宝山寺へ抜ける間道との分岐があった。
- 龍間分岐を過ぎて田原方面へ暫く行くと龍間神社がある。ここでも手を合わせる。
- 龍間神社を過ぎると鬱蒼とした雑木林の中を舗装された旧街道筋を抜ける。
- 左手に竹やぶがあるが大阪府警の訓練場らしい。
- なおも先を行くと、急に前がひらけ、生駒の尾根筋に出る。
- なぜ開けているかと言うと植田建設という会社の採石場兼コンクリ精製場、兼ダンプトラックの駐車場があるから。
- 生駒の山の主稜線上に出てどんつきを右へ登ると①生駒ルート。逆に左へ下ると②田原ルートの迂回路。
- ②田原ルートは、ここから先、田んぼ、信貴生駒スカイライン、大阪生駒霊園などがあるため、道が途切れている。
- ①生駒ルート
- 前方に生駒山を眺めながら進んでいくと、徐々に横の田畑が小さくなっていく。この道、大阪環状自然歩道に指定されている。
- 俵口から山崎を経て菜畑にかけては、ところどころ造成の関係で街道筋が消えている。
- この区間、道端にお地蔵様が多い。
- 山崎の安養寺の入り口にも石仏が並ぶ。
- 西国三十三所巡礼供養碑、観音石仏、地蔵石仏、石灯篭残欠など、色々。
- もう少し南下した金法寺にも石仏がある。昔はみんな手を合わせたんだろうなあ。
- 菜畑の身代わり地蔵様は、宝山寺への参道との分岐。でも大阪方面から宝山寺詣での客の大半は龍間から荒池道へ入っていたので、使わなかった。
- 奈良方面から来た人は、ここから宝山寺を目指した。
- 菜畑からココス東生駒店までは、それなりに旧街道チックな道が伸びる。
- 東生駒2丁目交差点からは、ニュータウンの中の整備された県道をひたすら行く。何の面影も感じられない。
- 椚峠の跡も、今やニュータウンの一部となっている。趣も糞もあったもんやない。
- 一応、奈良市と生駒市の市境ではあるし、ピークは残っているんだけど、やっぱり峠という感じはしないよねえ……
- 途中で阪奈道路を左に見る。そのまま富雄三碓まで行く。
- 椚峠の跡も、今やニュータウンの一部となっている。趣も糞もあったもんやない。
- 富雄三碓からは富雄川沿いに南東へだらだらと行く。
- 砂茶屋で暗越奈良街道に合流する。ここから奈良までは峠を1つ越えるだけ。
- 郡山へ抜ける間道もあったとか。四ツ辻だったんでしょうかねえ。
- ②田原ルート
- 植田建設のダンプにビビりながら大阪環状自然歩道を1km程度北へ北へとだらだらと下っていくと阪奈道路の山上口IC付近に出る。
- 阪奈道路のルートは、ある意味古堤街道を踏襲したものと言えるのは前述の通り。
- 山上口ICの信号を北側へ横断し、北へのびる道を20m程行って右へ下る。
- ひたすら道なりに山を下るが、まだまだ大和国ではない。現代で言うところの大阪府四條畷市のエリアを進んでいく。
- 田原の集落に出ると、ニュータウンと田畑の中に石碑があったりする。
- 大和に入り、上田原で清滝街道や磐船街道と合流する。
- そのまま間道を東進すると高山などを抜けて、木津へ至るが、令和の今と違って往来はそれほど多くなかったとか。
北国街道(江州)[編集 | ソースを編集]
- 追分から善光寺を経て高田へ(上越市HPより)というのが関東方面で知られた北国街道だが、関西方面で北国街道というと、鳥居本~木之本を北陸道と共通で走り、そこから栃ノ木峠越えで今庄へ行き、北陸道と合流して終いというルートを指すのが一般的。
- 信越地方の北国街道も中山道から別れて北陸道と合流するという偶然の一致。いずれも中山道から北国へ向かう街道なので当たり前といえば当たり前か。
- 江戸、岐阜方面から越前へは当初はこのルートを利用していたらしいが、後に、関ヶ原から伊吹山山麓を経て木之本へ至る北国脇往還が誕生し、福井藩の参勤交代ルートもこれへ取って代わられることとなる。以降は木之本~鳥居本は関西~北陸の幹線道路化。
- この道路自体が、そもそも旧北陸道だと敦賀付近で峠越えを2回しなくてはならないところを1回に軽減するために出来たバイパスと見る向きもあるので、そういう意味では、信越の方の北国街道とは意味合いが異なるとも言える。
- 木之本と今庄が本コース最大の見所。いずれも古い町並みが残る。
- 後は、栃ノ木峠越えという国境の峠を越える楽しみもある。但し今はただの山岳国道だけど。
西国街道[編集 | ソースを編集]
- 要は今のイナイチ。
- 大阪を避けたい京都人が山陽地方へ向かうためのルート。要は大阪とばし。
- ルート的に余分な寄り道がない分京街道→大阪→山陽道よりもかなり速く山陽方面へ行けたことは間違いないだろう。
- 実は山崎~西宮は奈良時代の山陽道のルートに同じらしい。因みに全区間通して平安時代の山陽道と同じ。
- 中国大返しで秀吉が駆け戻ったルート。摂津三人衆が彼に味方することがどれだけ山崎の戦いの結果に大きく結びついたかがわかる。
- 向日市や長岡京市にはちょろっとだけだが街道の雰囲気を出そうと石畳もどきを整備したエリアがある。この辺りは神社仏閣や旧跡もあるのでそういう点で見ても結構楽しい。
- それは結構なんだが、だったら電線を地中化しろよと思わないでもない件。
- 山崎から西宮まではほぼ直線的。まあ遮るものがないので当然だわね。
柳生街道[編集 | ソースを編集]
- 奈良公園の南側を春日山原始林に向けてひたすら行くと原始林の中を行く石畳の道になる。これが柳生街道。ちなみに全区間が東海自然歩道に指定されている。
- 石切峠付近までは通称滝坂道と呼ばれるルートである。お地蔵さんが何体もあったりするなどいかにも旧街道という感じ。
- 奈良奥山ドライブウェイを過ぎると石切峠はすぐそこ。これを過ぎると傍らに風情ある茶店がある。
- 忍辱山には円成寺という古刹があり、その境内を抜けていく。
- 忍辱山から山を下った所にある大柳生の夜支布山口神社は平安時代の延喜式神名帳にも記載されている古い神社。
- 大柳生の南明寺を過ぎると阪原峠という小さい峠を越える。これが終わると柳生の里へ抜ける。
- 下る途中というか終盤になると疱瘡地蔵という地蔵が出てくる。これは、「柳生の徳政碑文」として日本史で有名な正長の土一揆の事実を語る資料としても有名。
- 柳生の里は陣屋跡や家老屋敷、芳徳寺や菖蒲園などが中心街に固まっており、街道の終点であることを感じさせる。
都祁山之道[編集 | ソースを編集]
- 別名、都祁往還。
- 平城京から名張へ至るルート。奈良時代には斎王代が伊勢斎宮へ向かう際に利用されたらしい。
- 霊亀元(715)年に拓かれたと伝わっている。
- 名張までは、飛鳥京から、桜井→初瀬→榛原→大野→名張→伊勢と通じる街道(飛鳥時代の東海道)が伸びていたため、平城京から名張、伊勢神宮方面へ抜けるルートを大急ぎで開いたんやろなあ。
- なんで名張かというと、改新の詔で畿内の東限は「名墾の横河」(今の名張川)とされた程度の拠点だった。そこを旧東海道との合流点にするというのは、よく考えられたものである。
- おおよそのルートは平城京→岩屋→福住→都介野→染田→上笠間→赤目口と行く感じ。
- 途中の福住や都介野は、古代闘鶏国と呼ばれる水や氷の生産能力を活用して、大和盆地の豪族たちと交流したと伝わる強い戦闘民族がいた地で、時代が下がって上代になると皇室や貴族たちの氷室が設けたとか。
- 名阪天理東から東へほぼ直線的に行くルートで、距離のロスはないが、都祁盆地まで上がるのが結構大変そう。
- 昭和の頃になって、都祁村の住民らが、ルート比定地に、大きな石碑を何柱か建てている。
中国[編集 | ソースを編集]
萩往還[編集 | ソースを編集]
- 三田尻~萩をほぼ直線で結んでいる。おかげで峠越えが3回もある。
- 因みに、防長国境の坂東峠に至っては標高500m超。こんなん所で籠を持たされた侍は仕事とはいえ可哀想である。
- 大半が、国道や県道に再編。山口なので当然国のお陰で快走路続き。
- 所によっては有料道路に切り替えた区間もあった。現在は旧街道も復元済み。
- 近年県の観光課がやたらプッシュしているらしい。
- 萩市街へ下る手前の道の駅も「萩往還」やったし、「幕末の志士がここを通りました!」みたいな宣伝していたなぁ。
四国[編集 | ソースを編集]
大洲街道[編集 | ソースを編集]
- 区間:松山城下~松前~郡中~上灘~犬寄峠~中山~内子~新谷~大洲城下
- 松山~大洲を内子周りの山越えで行くルート。
- 内子周りだから街道っぽい区間(内子町内)も残って、観光資源という意味では助かったと言える。
- 海側周りに比べ歩くものの負担はデカかっただろうと思われる。
- 昔、これに並行する松山道を車で走ったが、山越え後下ること下ること。高速の場合トンネルぶち抜きでチーティングしてる分、当時の峠道はもっときつかっただろうなと。
- でも気になって調べてみると標高にして300mちょいらしい。思ったほど高くもなかったのかと思ったが、海岸から300mを一気に駆け上がることを考えるとやっぱ急だよな。
- 内子の町の入口には今も枡形区画の跡地が残ってる。今時珍しい、というか明治の頃に区画整理をしなかったのかと……
- こういったものを随所に取り入れた造りをしていることを考えるとこの道路は防衛上の利点もあったのかとも思えてくる。犬寄峠といい、内子→大洲の鳥越の辺りとか、大洲側が防衛線を張るには最高の造り。
梼原街道[編集 | ソースを編集]
- 司馬遼太郎が愛した街道として有名。
- 土佐側は司馬の『街道をゆく』で有名になり、町も観光振興の一環で脱藩道として整備したが、愛媛側が結構曖昧。正規のルートはどういうルートなんでしょ?
- にしても10年以上行きたくて仕方がないのに行かなかったってのはすごく精神衛生的に良くないと思うんだが……取材にかこつけて行くことだって出来たでしょうに。
- 須崎~梼原までは、土佐側も梼原街道と呼んでいるが、伊予国の部分は伊予の人間しか呼んでないらしい。これがまた街道ルートを曖昧にする要因かも。
海外[編集 | ソースを編集]
アッピア街道[編集 | ソースを編集]
- 数あるローマ街道の中でも一番有名なのはおそらくここ。
- 「全ての道はローマに通ずる」の典型例としてよく挙げられる。
- キロポストや一里塚の始祖とも言えるマイルストーンが初めて置かれたのはここ。
- と言ってもローマ帝国時代のマイルが基準なので、現在のマイルとは距離が異なるらしい。
ドイツ・メルヘン街道[編集 | ソースを編集]
- 「メルヘン」の名が示す通り、グリム童話にゆかりのある街道である。
- 故に『赤ずきん』や『ブレーメンの音楽隊』、『ハーメルンの笛吹き男』などのモデルとなった建物や像が通過する地域に存在する。