もしあの競走馬が○○だったら

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独立項目[編集 | ソースを編集]

その他[編集 | ソースを編集]

イーグルカフェ[編集 | ソースを編集]

山元トレーニングセンターの火事に巻き込まれていたら
  • 2000年2月11日に宮城県の山元トレーニングセンターで火事が発生、重賞2勝のエガオヲミセテを含む22頭が焼死する痛ましい事態となってしまいました。
    実はこの時、直前の共同通信杯を勝ったイーグルカフェも山元トレセンに滞在していましたが、違う棟にいたこともあり難を逃れることができました。
  1. NHKマイルカップはトーヨーデヘアが、ジャパンカップダートはリージェントブラフかアドマイヤドンが勝っていた。
    • トーヨーデヘアはその後盛岡→荒尾に移籍することもなく、種牡馬になれていたかも?

ウオッカ[編集 | ソースを編集]

オークスに出走していたら
  • オークスに向けて調整を進めていた際、谷水雄三オーナーの決断でダービーに出走し、見事勝利を収めました。予定通りオークスに出走していたら?
  1. ダイワスカーレット出走の可否に関わらずやはり勝利を収めていた。
    • よって外国産馬は今なおクラシック未勝利。
  2. 一方ダービーは史実2着のアサクサキングス、1番人気のフサイチホウオーいずれかが勝っていた。
    • アサクサキングスが勝った場合タケホープ以来34年振りのダービー&菊花賞で牡馬クラシック二冠を獲っていた。
      • 鞍上の福永祐一も史実より11年早くダービージョッキーになっていた。
    • フサイチホウオーが勝った場合2019年ダービーでサートゥルナーリア惨敗の引き合いにされていなかった。
      • 秋以降の成績も多少良くなっていた。もしかしたら馬主の関口さんももう少し馬主業を続けていたかも?
  3. JRAの2013年度CM「THE LEGEND」の内容も変わっていた。
  4. ローブデコルテは多分GⅢぐらいしか勝てなさそうなまま終わる。
    • 三代目ローブデコルテ(初代はダイワテキサスの母)が誕生した可能性も高い。
  5. ベッラレイア(史実2着)が3着に押し出された場合、馬なり1ハロン劇場でのブロコレ倶楽部ネタはもう少し早くから出ていた?

ウォーエンブレム[編集 | ソースを編集]

もし真っ当に種付けをこなしていたら
  1. リーディングサイアー争い常連になった事は間違いない。
  2. キングカメハメハのブレイクは遅れていたか小規模になっていた。
    • ルーラーシップやロードカナロアの地位はウォーエンブレム産駒の種牡馬が占めていたかも。
    • もしキングカメハメハも現実レベルに活躍した場合、ディープインパクトはリーディングサイアーを取れなかったかも。
    • ダート路線でも活躍していたので、ゴールドアリュール辺りも喰われていたか。
  3. アワエンブレム系の種牡馬が多数輸入されていた。

エアグルーヴ[編集 | ソースを編集]

牡馬だったら
  • エアグルーヴが生まれた次の日に、この馬を管理した伊藤雄二調教師が「男だったらダービー馬やけどな」と社台ファーム早来(現在のノーザンファーム)場長の吉田勝己に言ったというエピソードがあります。
  1. 1996年の牡馬クラシック路線はエアグルーヴが中心となっていた。
    • 得意な東京の日本ダービーは勝っていた。
      • 菊花賞も勝敗になっていた。
        • やや苦手だった中山の皐月賞は苦戦していた。
    • イシノサンデー・フサイチコンコルド・ダンスインザダークの影は薄くなっていた。
  2. 1996年の牝馬クラシック路線は桜花賞と秋華賞は史実通り、さあオークスはどうなっていたか…。
    • リトルオードリーが勝っていた場合、鞍上の佐藤哲三は約半年早くGI初勝利を決めていた。
    • ロゼカラーが勝っていた場合、薔薇一族は史実(2009年・朝日杯FS)よりかなり早くGIを制覇していた。
    • 史実2着のファイトガリバーが勝った場合、ダイナガリバーはもう少し活躍馬を出していたかも。
  3. 種牡馬としても多くの活躍馬を出していた。
    • ただアドマイヤグルーヴ、ルーラーシップ、ドゥラメンテなどが出ないためかなり勢力図は変わっていた。
      • アドマイヤグルーヴがいないので、スティルインラブは牝馬三冠どころか牝馬四冠を達成していた。
      • 2015年の皐月賞はリアルスティールが、日本ダービーはサトノラーゼンかサトノクラウンが勝っていた。
        • 福永祐一も史実より5年早く皐月賞を勝っていた。
      • タイトルホルダーやキセキもいなくなる。
  4. ウマ娘のエアグルーヴが女帝キャラではなくなっていた。
    • トレセン学園の生徒会にも入っていたかどうか微妙。
  5. ピルサドスキーがエアグルーヴに×××××を出したなんて一部で言われる事は無かった。いや、それともホ○扱い?
桜花賞を回避していなかったら
  1. 桜花賞は当然勝っていた。
    • ファイトガリバーの影はかなり薄くなっている。
      • ダイナガリバーの代表産駒はゴーイングスズカになっていた。
  2. それでも三冠を達成していたかは微妙。
5歳時の宝塚記念を回避していたら
  • 鳴尾記念2着後、エアグルーヴは体調が優れず調教の結果次第では宝塚記念を回避する可能性もありました。
    結局、最終追い切りの結果がエアグルーヴ陣営にとって「予想以上に良い結果」だったこともあり、宝塚記念出走ということになりましたが、もしこの時回避していたら…?
  1. サイレンススズカには武豊が騎乗し、南井克巳は主戦騎手だったゴーイングスズカに騎乗していた。
    • 2着のステイゴールドにもう少し差を付けて勝っていた可能性もある(史実では3/4馬身差)。
  2. その後のエアグルーヴの成績にはあまり影響は無かったか。

エアシャカール[編集 | ソースを編集]

もし三冠馬になっていたら
  • 2000年の皐月賞と菊花賞を勝ち、ダービーを7センチ差で逃したエアシャカールでしたが……。
  1. 河内洋はダービーを勝てないまま引退していた。
    • アグネスフライトは種牡馬になれたかどうかわからない。
      • その場合、京都新聞杯の格付けが翌年以降もGⅢのままだった可能性もある。
    • アグネスタキオンが史実通り皐月賞後に引退した場合、フライトに続きまたもやと言う無念の声があふれそう。
  2. その後の成績が史実通りだった場合、史上最弱の三冠馬と言われそう。
    • もう少し早く引退した気もするが。

エルコンドルパサー[編集 | ソースを編集]

持込馬だったら
  • 渡邊オーナーは当初エルコンドルパサーの母サドラーズギャルの血統に魅力を感じ、キングマンボが種付けされた直後日本へ輸入し、産駒を持込馬(内国産馬扱い)とする構想があったそうです。
  1. 1998年のクラシック戦線筆頭に挙げられていた。
    • 皐月賞、ダービーは確実に取れていた。
      • その場合鞍上が的場均、蛯名正義いずれの場合もダービー初制覇。
      • 武豊のダービー初制覇は次の年のアドマイヤベガまでお預け。
  2. 古馬戦線でも国内に専念していた。
    • あるいは史実通り凱旋門賞に挑戦。
  3. スペシャルウィークの戦績が下がっていたので、サンデーサイレンスの種牡馬価値も史実より上がらなかった。
  4. アニメ「ウマ娘プリティーダービー」の内容も大幅に変わっていた。
  5. NHKマイルカップは走らず、シンコウエドワード(史実2着)が取っていたと思われる。ただだとしてもシンコウエドワードは史実とあまり変わらない成績で終わっていた(種牡馬にはなっただろうが)か。
的場均が乗り続けていたら
  1. グラスワンダーの鞍上は管理していた尾形調教師の明言通り関西の騎手に乗り替わっていた。
    • 候補としては河内洋か四位洋文あたり。
  2. 凱旋門賞に挑戦していたかは疑問。
    • 国内路線の場合はタイキシャトル引退後のマイル路線に参戦していた。
海外遠征時に武豊に乗り替わっていたら
  1. 凱旋門賞を勝った場合、99年の年度代表馬論争は過激化しなかった。
    • エルコンドルパサーは早い内から顕彰馬に。
  2. スペシャルウィークの鞍上は藤田伸二か福永祐一あたりが騎乗。
    • 両馬の出走が同週とかにならない限り武豊はスペシャルウィークに乗り続けたのでは?
凱旋門賞で勝っていたら
  • 1999年の凱旋門賞でモンジューの半馬身差の2着に惜敗したエルコンドルパサー。もし勝っていたら…?
  1. その後の他馬の海外遠征に影響を与えていた。
    • それでもディープインパクトとオルフェーヴルは凱旋門賞に挑んていたかも?
  2. 年度代表馬の投票があれほどこじれることは無く、すんなりとエルコンドルパサーで決まっていた。

オグリキャップ[編集 | ソースを編集]

クラシックへの出走登録をしていたら
  • 毎日杯で4着に下したヤエノムテキが皐月賞を制した後に、JRAに対してオグリキャップのクラシック出走を可能にする特別措置を求める声が起こりましたが、結局実現しませんでした。
  1. 皐月賞とダービーはおそらく勝っていた。距離の長い菊花賞はスーパークリークに敗れていたか。
    • ヤエノムテキとサクラチヨノオーの影が薄くなっていた。
      • サクラチヨノオーは種牡馬になれたかわからない。サクラトウコウの種牡馬成績が史実通りならばそのおこぼれをもらう役ぐらいにはなっていたか。メジロアルダンは史実通り。
    • 史実のスーパークリークは出走ボーダーギリギリでの出走だったので、オグリの出走で出走枠が埋まってそもそも出られなかった可能性も。
  2. ウマ娘シンデレラグレイのストーリーは変わっていた。
    • 「中央を無礼るなよ」のミームは影も形も無かった。
1990年のジャパンカップを最後に引退していたら
  • 5歳秋のジャパンカップ11着後、競馬ファンやマスコミからは「このまま引退すべき」との声が多く上がり、馬主の近藤俊典や日本中央競馬会に対して脅迫状が届く事態まで発展しました。
  1. あそこまで語り継がれる馬にはならなかったかもしれない。
  2. 第2次競馬ブームも史実よりかなり早く衰退していた。
  3. オグリキャップのいない有馬記念はメジロライアン(史実2着)かホワイトストーン(史実3着)が勝っていた。
    • 大川慶次郎氏の「ライアン!ライアン!」は史実通り?
  4. 引退式が京都競馬場・笠松競馬場・東京競馬場の3場で行われることもなく、笠松だけでひっそりと行われていた。
  5. 武豊がオグリに乗ったと言うイメージが無くなっていた。
    • むしろ「オグリキャップの事が嫌い」というイメージが先行していた。

カワカミプリンセス[編集 | ソースを編集]

2006年エリザベス女王杯での降着がなかったら
  1. サンデーサイレンス最終世代のGⅠ勝ち馬は翌年のマツリダゴッホまで出なかった事になる。
    • 晩年になって活力が落ちたと言われるかもしれない。
  2. フサイチパンドラは5歳以降も現役を続けただろうか。その場合、アーモンドアイの生年がずれていた可能性も。
  3. カワカミプリンセスのその後の成績はあまり変わらない。

クロフネ[編集 | ソースを編集]

2001年の秋の天皇賞に出走できていたら
  • 当時はいわゆるマル外は2頭までしか出走できず、そのためクロフネは秋の天皇賞を走る事ができませんでした。アグネスデジタルが出走登録した結果ですが、もし仮に出走していたとすると……
  • case1 アグネスデジタルが出走していない
  1. テイエムオペラオーはGⅠ8勝目を記録できた可能性が高い。
  2. クロフネがもし勝った場合、次走はJCダートでなかった可能性がある。
    • マイルチャンピオンシップが有力か?
    • クロフネが出ないJCダートはウイングアロー(史実2着)が連覇を達成していた。おそらく最優秀ダートホースも獲得していただろう。
  3. アグネスデジタルはマイルチャンピオンシップか、それとも直に香港遠征か。
  • case2 アグネスデジタルが出走できていたら

その年はフルゲートではありませんでした。その結果両者とも出走できていたら……。

  1. もしワンツーフィニッシュになった場合、外国産馬の本格的な開放は史実より遅れたかも。メイショウドトウが3着だった場合はなおさら。
    • フルゲートで無くても外国産の枠は2枠なので、上のケースの場合はメイショウドトウが出走していないことになる。

ゴールドアクター[編集 | ソースを編集]

障害馬になっていたら
  • オーナーブリーダーの居城要氏は障害馬を作ろうとモーリス×ヘイロンシンの配合を行ったそうです。
  1. 当然2015年の有馬記念には出走せず、代わりに前日の中山大障害に出走していた。
    • 代わりに有馬を勝っていたのはサウンズオブアースかキタサンブラックか。
      • もし前者なら主な勝鞍がはなみずき賞ではなくなり、晴れてGI馬になれていた。
        • それ以降の戦績が同じだとしても乗馬ではなく種牡馬入り出来ていた。
      • もし後者なら有馬x2を含めてGI8勝する事になった。
        • 同年度の最優秀3歳牡馬の選考でドゥラメンテの票を少なからず奪っていた(史実ではドゥラの285票に対しキタサンは僅か6票)。
          • 年度代表馬でもキタサンブラックにもっと票が入っていた。
    • 中川公成調教師と馬主の居城親子は今でもGI未勝利。
      • 鞍上を努めた吉田隼人も2023年現在有馬未勝利。
  2. 有馬の前に勝っていたアルゼンチン共和国杯はメイショウカドマツ(史実2着)が勝っていた。
  3. 仮に障害入りし、ある程度活躍出来ていたとしても同期のオジュウチョウサンに蹂躙されていた。
  4. 2015年有馬がベースのウマ娘3期3話の展開が変わっていた。

ゴールドシップ[編集 | ソースを編集]

2015年の宝塚記念での大出遅れがなかったら
  • 2015年の宝塚記念に「同一平地GI3連覇」という快挙を目指して出走したゴールドシップでしたが、発馬直前にゲート内で急に立ち上がり大きく出遅れ、3コーナーで馬群に取りつきましたが直線全く伸びず、15着という惨敗に終わりました。
    もしこの時普通にゲートを出ていたら…。
  1. ラブリーデイの評価はやや下がっていた。
  2. 秋シーズンも史実より良い成績を残せていた。有馬記念はもしかしたら勝っていたかも…。
  3. それでもウマ娘のゴルシはハジケリストのまま。
    • 但し120億事件が公式や2次創作でネタにはされる事は無かった。

コスモバルク[編集 | ソースを編集]

2004年の皐月賞で勝っていたら
  • ラジオたんぱ杯2歳S・弥生賞を連勝し1番人気で皐月賞に挑んだコスモバルクですが、先行したダイワメジャーを捉えきれず2着に敗れました。
  1. 北海道所属・決して一流とはいえない血統での牡馬クラシック勝利ということもあり、大きな話題になっていた。
  2. それでもダービーで負けていたのは史実通りか。
  3. 引退時期が1年程繰り上がっていた。
  4. 種牡馬入りも出来ていたかもしれない。

コパノリッキー[編集 | ソースを編集]

2014年のフェブラリーステークスの抽選に外れていたら
  • 2014年のフェブラリーステークスでコパノリッキーはケイアイレオーネと2分の1の抽選を突破して出走しました。もしこの時抽選に外れていたら……。
  1. ホッコータルマエが史実より早く、ようやく中央GⅠを勝てた。
  2. コパノリッキーもいずれどこかで勝つだろうが、史実のGⅠ級レース11勝には届かなかったと思われる。
  3. ケイアイレオーネの運命はあまり変わらない?
  4. 高松宮記念でコパノリチャードが勝った時に「またコパノか」ではなく「出られていればリッキーも勝ったかも」と言われそう。

サクラバクシンオー[編集 | ソースを編集]

高松宮杯の距離短縮・GⅠ格上げがもっと早かったら
  • 当馬が現役(1992~94年)だった頃の高松宮杯(現:高松宮記念)は2000mのGⅡで、1996年に1200mに短縮され、同時にGⅠに格上げされました。(高松宮記念への改称は98年)
    もし仮にこのレースがもっと早く春のスプリントチャンピオン決定戦として位置づけられていたら…。
  1. 1993年と94年は勝てていたはず。
    • ロンシャンボーイ(93年の優勝馬)とナイスネイチャ(94年の優勝馬)の勝ち星が一つ減っていた。
      • ディープボンドは「GI未勝利馬の獲得賞金ランキング」でもっと早く1位を獲得していた。
      • 史実の高松宮杯GⅠ昇格同様のスケジュールに変わってい場合、金鯱賞(GⅡ時代の高松宮杯と同条件のGⅡ2000mに変更と過程(史実だと当時はGⅢ1800m戦だった))を勝っていたかもしれない。
    • 史実通りスプリンターズステークスを連覇していればサクラバクシンオーは史上初(ならびに現状唯一)の「春秋スプリント2連覇」を達成できていた。
      • 名実ともに「日本最強のスプリンター」として認定されていただろう。
    • 93年は史実だと脚部不安で春は休養に入っていた為出走しなかった可能性も。当時同様に夏開催の場合なら、そこを目標に調整して出走した可能性もある(史実のGⅠ昇格時の5月開催だったら微妙)。

サクラローレル[編集 | ソースを編集]

1995年の金杯(東)勝利後に海外遠征を行っていたら
  • サクラローレルを管理していた境勝太郎調教師は、1995年の金杯(東)をサクラローレルが勝利した直後に海外遠征を考えていたものの、「GⅢを勝ったばかりのサクラローレルで海外に行くといったら笑われる気がして言い出せなかった」として断念したという話があります。
    もしこの時、サクラローレルが海外遠征を行っていたら…。
  1. 海外のGIを一つは勝っていたかも?
  2. ナリタブライアンは春の天皇賞を普通に勝っていたので、次走が短距離戦の高松宮杯になることも無い。
    • 鞍上が武豊に乗り替わることも無かった。
  3. マーベラスサンデーはもっと早くGIを制覇していた。
  4. マヤノトップガンは史実通りか。
  5. 1996年の年度代表馬は何になっていただろうか…。
    • フラワーパークが本命だが、ホクトベガ・イシノサンデー・ファビラスラフィンにも票が分かれていたかも。
1997年のフォワ賞のレース後に薬殺されていたら
  • フォワ賞のレース中に重度の故障を発生し、レース後に現地の獣医師から「薬殺していいか」とフランス語で聞かれ、意気消沈した現地のスタッフが意味も分からず同意しかけてしまい、フランス語の分かるスタッフが慌てて「ローレルを殺す気か!!」と怒鳴ったことでなんとか難を免れたサクラローレル。
    もしこの時、フランス語の分かるスタッフがおらず、薬殺されてしまっていたら…。
  1. ローマンエンパイア・サクラセンチュリー・ケイティブレイブ(母父がサクラローレル)などは生まれなかった。
  2. 日本競馬界の対仏感情は最悪レベルまで落ち込んでいた。
    • 場合によってはタイキシャトルやエルコンドルパサーの海外遠征にも影響があったかもしれない。

サンデーサイレンス[編集 | ソースを編集]

日本に来なかったら
  • GI6勝、連対率100%のサンデーサイレンスでしたが血統面が嫌われてアメリカでは人気がなく日本に来ることになりました。その後の活躍は言うに及ばずですが、もし日本に来なかったら?
  1. ブライアンズタイムとトニービンがリーディングを取り合っていた。
    • トニービンの死後はブライアンズタイムが独占していたか。
    • キングマンボが日本に導入された場合、種牡馬三強はブライアンズタイム・トニービン・キングマンボになっていたかも。
  2. 日本馬が海外で活躍するのは少なくとも10年遅れていた。
  3. ノーザンテースト系やシンボリルドルフ系などはもう少し長持ちした。
    • より一層血統のガラパゴス化が進んだかも。
    • リアルシャダイ系が持続しかつグラスワンダーが史実レベルに活躍した場合、日本はロベルト系が支配していた。
  4. アメリカで史実レベルの活躍をした場合(と言っても初年度の種付け数からすると非常に怪しいが)、イージーゴアをまたもや見返したと評判になる。
    • ジャパンカップにアメリカからサンデーサイレンス産駒がやって来て日本馬を負かす光景もあったかも。
      • そしてその馬が日本に種牡馬としてやって来てリーディングを取るかもしれない。
    • その前に牧場が持たなかったかもしれないが。
    • 多分イージーゴアが亡くなった後渋々アメリカの競馬界が種牡馬として活用し始めてたと思う。そこからディープインパクトとかに相当する馬が生まれたかどうかは微妙だが・・・
  5. 平成三強(オグリキャップ・イナリワン・スーパークリーク)の種牡馬としての成績が多少上向いていた。
    • アイネスフウジンやヤエノムテキも同様。
  6. 元ネタとなったSS産駒とその子孫がごっそりいなくなる為、ウマ娘に出てくるキャラの半分以上が存在しなくなるand/or原型を留めていない。
デビュー前に死亡していたら
  • SSがデビューする前に腸疾患、もしくは1988年に起きた乗っていた馬運車の事故で死亡していたら?
  1. イージーゴアが余裕で三冠馬になっていた。
  2. ストーンファームは倒産していた。

シルヴァコクピット[編集 | ソースを編集]

2002年に復調していたら
  1. 凱旋門賞は無理でもG1には手が届いたかもしれない。
  2. シルヴァーホーク系種牡馬の立ち位置がもう少し向上していた。
    • ロベルト系全体としてはさほど影響がなかったと思うが
    • せいぜい、タニノギムレット(ブライアンズタイム産駒)にウオッカに次ぐ代表産駒が出る程度だろう。
      • ウオッカが国内で繁殖生活をしていたかもしれない。

スーパークリーク[編集 | ソースを編集]

1988年の菊花賞に出走できなかったら
  • スーパークリークは3歳秋に神戸新聞杯3着・京都新聞杯(当時は秋開催)6着で菊花賞への優先出走権を獲得できず、菊花賞は回避馬待ちの状況でしたが直前になって2頭の回避馬が出たこともあり、賞金同額のガクエンツービートとともに出走となりました。
    もし回避馬が出ず、菊花賞に出走できなかったら…?
  1. 菊花賞はガクエンツービート(史実2着)orアルファレックス(史実3着)orメイショクボーイ(史実4着)のどれかが勝っていた。
    • 仮にアルファレックスが勝っていた場合、グレード制導入以降では初のGIでの単勝万馬券を記録していたかもしれない。
      • 史実では翌1989年のエリザベス女王杯でのサンドピアリスの43060円が初めて(菊花賞でのアルファレックスの単勝オッズは116.9倍)。
    • ガクエンツービートは、スーパークリークと共に除外対象になっていたため、1頭だけ回避馬が出て、スーパークリークとの抽選を突破しないと出られない。
  2. 武豊のGI初勝利は翌年の桜花賞(シャダイカグラ)までずれ込んでいた。
    • そのため、昭和・平成・令和と元号を跨いでG1を勝った騎手は2022年9月時点では存在しないことになる。
  3. その後史実通りに天皇賞の秋春連覇があったとしても、JRAのヒーロー列伝のポスターに「逆指名。」というキャッチコピーがつくことは無かった。
  4. 勿論有馬記念にも出ていない為、上がり馬として翌年の天皇賞・春や宝塚記念に出走出来ていたかもしれない。
1988年の有馬記念で斜行しなかったら
  • このレースでは、スーパークリークは最後の直線で急に斜行し、メジロデュレンの進路を妨害したとして失格になっています。
  1. 当然ながら失格処分になることはなかった。
  2. もし史実で進路妨害を受けたメジロデュレンが勝利していた場合、有馬記念連覇を達成していた。
    • シンボリ牧場以外で生産された競走馬としては初の達成だった。(史実では98・99年のグラスワンダーが初)

ステイゴールド[編集 | ソースを編集]

もしどこかでGIを取っていたら
  • GI2着4回を記録したステイゴールドですが、もしそのうちどこかでGIを取っていたら?
1998年の春の天皇賞
  1. メジロブライトはGIを勝てなかったことになるため、種牡馬入りしたかどうか怪しい。
  2. 史実より早くノーザンテースト系は断絶し、メジロ牧場は経営を畳んでいたかも。
1998年の宝塚記念
  1. サイレンススズカはGIを取れなかったことになる。
    • その分だけ秋の天皇賞が史実通りだった場合の悲運ぶりが際立った。
1998年の秋の天皇賞
  1. 何とも言えない空気になる。
  2. このレースまでの3つのGIのうちどれかを取っていた場合、馬なり1ハロン劇場でブロコレ倶楽部に入会したか少し疑わしくなる(史実では1999年の宝塚記念で入会)。
  3. オフサイドトラップ(史実勝ち馬)は種牡馬入り出来たかどうか怪しい。
1999年の秋の天皇賞
  1. スペシャルウィークの復活は次のジャパンカップに持ち越しになる。
いずれにしても
  1. 遅くとも2000年までに引退していた可能性が大。
    • よってドバイシーマクラシックも香港ヴァーズも勝っていない。
    • ビワハヤヒデの仔であるサンエムエックスは日経新春杯を勝てていた。もしかしたら種牡馬入りしたかも。
    • ドリームジャーニーやオルフェーヴル、ゴールドシップなどの誕生年がずれていた。
      • ヴィクトワールピサやメイショウサムソンのGI獲得数が減少していた?
      • オジュウチョウサンはいつ引退するんだと言われるのが数年遅れていた。
  2. 「阿寒湖特別」がステイゴールドの代名詞化する事は無かった。

ダイイチルビー[編集 | ソースを編集]

1990年の桜花賞の抽選に通っていたら
  • 新馬戦・特別戦のアネモネ賞を連勝して桜花賞への出走登録をしましたが、抽選に外れてしまいオープン特別の忘れな草賞に出走することになりました。もし抽選に通っていたら…?
  1. もし勝っていたら、母のハギノトップレディと同じくキャリア3戦での桜花賞勝利となっていた。
  2. 4歳時(1991年)に京都牝馬特別(現:京都牝馬S)と中山牝馬Sに出走することは無かったかもしれない。

ディープインパクト[編集 | ソースを編集]

2006年の凱旋門賞後に禁止薬物が検出されなかったら
  • 凱旋門賞のレース後に禁止薬物(イプラトロピウム)が検出され、凱旋門賞史上初の失格処分となってしまったディープインパクト。もし禁止薬物が検出されなかったら…?
  1. ディープインパクトの人気失速にある程度歯止めがかかっていた。
  2. 2006年の年度代表馬投票も満票で選出されていた(史実ではダイワメジャーと該当馬なしに1票ずつ入り満票選出ならず)。
2006年の凱旋門賞で勝っていたら
  • 勝ち馬のレイルリンクとはクビ+半馬身差でした。
  1. ディープインパクト人気はピークに達していた。
  2. JRAの前のめり気味の広告戦略もそれほど批判されなかった。
  3. その後の日本調教馬のフランス遠征にも大きな影響をもたらしていた。
2006年の凱旋門賞で1着入線したがレース後に禁止薬物が検出されていたら
  1. ディープインパクト人気は地に落ちていた。
    • 日本競馬の人気にも悪影響を与えていたかもしれない。
  2. 下手こいたらそのまま引退していたかも…。
    • その場合ジャパンカップはドリームパスポートが、有馬記念はポップロックが勝っていた。
      • おそらく両馬とも日本で種牡馬入りできていた。
        • 史実ではドリームパスポートは種牡馬入りできず、ポップロックはチェコで種牡馬入り。

トウショウボーイ[編集 | ソースを編集]

シービークインとの交配が行われていなかったら
  • 規則上この二頭は本来交配を行えませんでしたが、特別に交配が行われました。
  1. 当然ミスターシービーは誕生しない。
    • 父内国産馬のクラシック三冠馬はオルフェーヴルまで待たなければならなかった。
    • 1983年クラシック世代は「シービー世代」と呼ばれず、メジロモンスニー(史実における同年の皐月賞・日本ダービー2着馬)から「モンスニー世代」と呼ばれていたか?
      • この場合メジロ牧場がダービー馬を輩出できないまま解散することはなかった。
  2. トウショウボーイ自身、「お助けボーイ」と呼ばれるほどの種牡馬成績を挙げられたか怪しい。
    • 場合によってはダイイチルビーやシスタートウショウ、パッシングショットも誕生しなかったかもしれない。
    • 内国産種牡馬の地位は今でも低いままだったかも知れない。

ノーリーズン[編集 | ソースを編集]

2002年の皐月賞の抽選に外れていたら
  • 2002年の皐月賞で7分の2の抽選を突破して出走し優勝しましたが、もしこの時抽選に外れていたら……。
  1. タニノギムレットが勝った場合、タニノギムレットはNHKマイルカップに出なかった。
    • 2着の場合はわからないが、3着だったら史実通り出ていそう。
  2. 史実2着のタイガーカフェが勝った場合、フサイチジャンクは史実以上の値段が付いただろう。
    • ただ兄弟とも皐月賞がピークだったためその後の成績はあまり変わりそうにない。
  3. ノーリーズンもどこかで重賞は取っただろうが、弟のグレートジャーニーと同じくマイル路線で勝ちそう。
2002年の菊花賞で落馬しなかったら
  1. それでも勝てたかと言うと……。
    • もし勝った場合、エアシャカール並の成績になりそう。
      • ヒシミラクルは翌年の春の天皇賞と宝塚記念を勝てただろうか?
  2. メリーナイスがネタとして掘り返される事もなかった。

ハナズゴール[編集 | ソースを編集]

2012年の桜花賞に出走できていたら
  • 前哨戦のチューリップ賞を勝ったハナズゴールはそのまま桜花賞に出走を予定していましたが、直前に脚を痛め回避となってしまいました。
  1. もし勝った場合、ハナズゴールの次走はNHKマイルカップかオークスのどちらか一方に出走していた(史実では両方とも出走)。
  2. 父のオレハマッテルゼの需要も少しだけ上がっていた。
  3. 2014年にオーストラリアに遠征することは無かったかもしれない。

ハルウララ[編集 | ソースを編集]

1勝でもしていたら
  • case1 デビュー直後編
  1. 「当たらない」馬券はなくなる。
    • 事故に当たらない とかいう迷信が崩れ、あちこちで馬券が捨てられる。
  2. 高知競馬はとっくにつぶれてた。
    • 2000年代の中盤には閉鎖されていた。
      • 「たいようのマキバオー」は存在しないか、別の競馬場が舞台になっていた。
        • 高知競馬に所属していた騎手も引退していたか、他の地区に移籍していた。
    • もしかしたら福山競馬は現在も存続していたかも…。
  3. 1勝しかできなかった場合は、肉にされる可能性あり。
    • 牝馬だし肉になることはないんじゃないかと。でもいずれは「消息不明」になりそうだが…。
  4. 武豊騎手が騎乗することも、ディープインパクトとの配合も一切無かった。
  5. ニッポーテイオーの産駒で一番有名なのはインターマイウェイ。
  6. ウマ娘化されることも当然無かった。
  • case2 引退直前編
  1. たくさんのファンに夢と希望を与える。
  • case3 引退レース編
  1. 八百長が囁かれる。

ヒシミラクル[編集 | ソースを編集]

2002年の菊花賞の抽選に外れていたら
  • こちらは2002年の菊花賞で8分の3の抽選を突破して出走し優勝しました。
  1. 菊花賞を勝ったのは史実2着のファストタテヤマか。その場合、初めてサンデーサイレンスの子世代の種牡馬がGⅠ勝ち馬を出した事になる。
    • ただザッツザプレンティが失敗、デルタブルースが種牡馬入りしなかった事を考えるとそれでも種牡馬入りしていたか怪しい。
    • あるいはメガスターダム(史実3着)が勝った場合、ニホンピロウイナーの父系はもう少し持ったかもしれない。
  2. ヒシミラクルは多分翌年の春の天皇賞も宝塚記念も勝てない、と言うか出られない。
    • ただしアルゼンチン共和国杯かステイヤーズステークスに出走しそこで勝っていた場合は話は別。
      • この年は条件馬(シースルオール)や準オープン勝ちのみの馬(イエローボイスなど)でも出られたので、阪神か京都の中長距離の準オープンを勝っていても出走できたかも。
    • 春の天皇賞はサンライズジェガーかダイタクバートラム、宝塚記念はツルマルボーイが勝っていた。
      • サンライズジェガーが勝った場合はリアルシャダイ系がもう少し持っていたかもしれないし、ツルマルボーイが勝った場合は史実より早く引退して翌年の安田記念を勝つことがなかったかもしれない。その場合、テレグノシス(史実2004年安田記念2着)はもう少し種牡馬成績が良かったかも。
  3. 馬なり1ハロン劇場でローエングリンとの因縁が描かれる事もなかった。
    • おそらくはノーリーズンの落馬か、それともダンスインザダークがサンデーサイレンスの子世代の種牡馬として初めてGⅠ勝ち馬を出した事がネタにされた。
2003年の宝塚記念の1222万円馬券の購入がなかったら
  • 安田記念の当たり単勝馬券130万円を全てヒシミラクルの単勝馬券に注ぎ込んだ「ミラクルおじさん」により、一時1.7倍にまで単勝人気が暴騰しました。最終的には16.3倍にまで落ち着きましたが……
  1. 宝塚記念史上歴代最高単勝配当(スイープトウショウの3850円)まではともかく、30倍ぐらいまでは行っていたかも。
    • 他の馬券にまで波及した場合、枠連・馬連だけでなく馬単も宝塚記念史上最高になっていたかも。

フサイチコンコルド[編集 | ソースを編集]

1996年の日本ダービーを回避していたら
  • フサイチコンコルドはダービーへのトライアル競走(青葉賞、プリンシパルステークス)に出走を予定していましたが高速道路の混雑や発熱もあり回避、更に本番直前にも発熱し、「ダービーじゃなかったら使わずに帰っていた」(小林稔調教師)と出走取消も考えられていました。
  1. ダービーはおそらくダンスインザダーク(史実2着)が勝っていた。
    • 武豊は史実より2年早くダービーを勝利。
  2. 一方で藤田伸二(フサイチコンコルド鞍上)はダービーを勝てないまま引退していた。
  3. 種牡馬入りもできていたかどうか怪しい。

ブエナビスタ[編集 | ソースを編集]

2010年ジャパンカップでの降着がなかったら
  1. ウオッカと並びGⅠ7勝を挙げていた事になる。
  2. ローズキングダムは「やっぱり薔薇一族だな」と言われるだけであまり変わらなさそう。種牡馬にはなるだろうが結局は史実通りか……。

マルゼンスキー[編集 | ソースを編集]

外国産馬扱いされていなかったら
  • 当時の規定ではいわゆる持ち込み馬は外国産馬扱いされ、クラシックレースに出る資格がありませんでした。もしそうでないとすると……。
  1. 皐月賞とダービーは確実に取っていた。ただ菊花賞は脚元の関係で走れなさそうで、結局三冠馬にはなれないか。
    • ハードバージとラッキールーラは無冠で終わり、種牡馬になっていたかどうかわからない。プレストウコウは史実通り(最優秀4歳牡馬は取れないが)か。
      • その場合、マチカネイワシミズが種牡馬入りしなかった可能性がある。
    • 史実での種牡馬成績を考えると、無事に菊花賞に出られたら勝てた可能性が高い。
  2. 仮に古馬でも現役を続けられていたら、TTGの勝ち星を奪っていたかも。
  3. クロフネを始めとした外国産馬へのレースの開放はどうなったか?
有馬記念に出走できていたら
  • 1977年の有馬記念のファン投票でテンポイント・トウショウボーイ・グリーングラスに次ぐ4位に選ばれたマルゼンスキーでしたが、最終調教で屈腱炎が再発、そのまま引退となってしまいました。
    もし有馬記念に出走できていたら…。
  1. テンポイントとトウショウボーイの激しい競り争いの何馬身か先をマルゼンスキーが先に駆け抜けていた。
  2. テンポイントは翌年に海外遠征を発表することもなく、国内に専念して引退。無事に種牡馬入りしていた。

ミッキークイーン[編集 | ソースを編集]

2015年の桜花賞の抽選に通っていたら
  • 桜花賞は3分の2の抽選に外れ出走できませんでしたが、もし仮に通っていたら?
  1. それでも勝っていたかというと…。
    • もし桜花賞を勝って、オークス・秋華賞も史実通り勝っていた場合は史上5頭目の牝馬三冠馬になっていた。
    • レッツゴードンキはGIを勝てないまま引退していた。

ミホノブルボン[編集 | ソースを編集]

1992年の菊花賞で勝っていたら
  • 皐月賞・日本ダービーを逃げ切り、菊花賞で史上二頭目の無敗三冠に挑んだミホノブルボンでしたが、結果は1馬身半差でライスシャワーの2着に敗れ三冠制覇はなりませんでした。
  1. 「=キョウエイボーガンが出走しなかったら」か、「=キョウエイボーガンがスタートで出遅れていたら」こうなっていた?
  2. ライスシャワーの影が若干薄くなっていた。

メジロパーマー[編集 | ソースを編集]

1992年天皇賞秋で山田泰誠騎手が騎乗できていたら
  • 史実では骨折のためこのレースでは藤田伸二騎手に乗り替わっていました。
  1. 少なくともブービーに終わることはなかった。
  2. 本馬とダイタクヘリオスによるハイペースに巻き込まれることがないので、トウカイテイオーが1着になっていた可能性が高い。
    • トウカイテイオーが勝利していた場合、「天皇賞秋は1番人気が勝てない」というジンクスはあまり広まらなかった。
    • ダイタクヘリオスが勝利していた場合、「親(ビゼンニシキ)の無念を息子が晴らした」と言われていた。
      • 「馬なり1ハロン劇場」ではビゼンニシキに屈服するシンボリルドルフが描かれた。
      • シンボリルドルフを1985年の天皇賞秋で破ったギャロップダイナと比較されていた。
    • メジロパーマーが勝利していた場合、有馬記念で16頭立て15番人気などという低人気になることはなかった。
      • 史実通り有馬記念を制していた場合、G1勝利数でメジロマックイーンと並んでいた。
        • 申し訳ない、「有馬記念を制し、なおかつ翌年の天皇賞春も制した場合(史実ではライスシャワーが勝利)」だった。
      • 「ウマ娘プリティーダービー」への登場ももっと早かった。
    • ヤマニングローバルが勝利していた場合、ミスターシービーと親子二代での天皇賞秋制覇となっていた。
      • 「ミスターシービーがシンボリルドルフに一矢報いた」と言われていた。
  3. レッツゴーターキンはG1未勝利のまま引退していた。
    • ムービースターも2着に入ることはできなかった。
障害レースへの転向が成功していたら
  1. 同じ誕生日のシンボリクリエンスといい意味で比較されていた。
  2. 平地再転向がないので、ダイタクヘリオスと共に「バカコンビ」というあだ名をつけられることはなかった。
    • 同様に平地再転向したオジュウチョウサンとの比較もなかった。
  3. 1992年の宝塚記念はカミノクレッセが制していた。
    • 同年の有馬記念はレガシーワールドが制していた。
  4. 障害転向→平地再転向しG1勝利した唯一の馬になることはなかった。
  5. 「ウマ娘プリティーダービー」に登場することはなかった。
  6. 山田泰誠騎手はG1を勝つことができなかった。

メジロマックイーン[編集 | ソースを編集]

天皇賞秋での1着降着がなかったら
  1. 史実より獲得賞金は増えていた。その分だけ、テイエムオペラオーがそれを更新した時の驚きは大きかった。
    • 逆にスペシャルウィークはあまり騒がれない。
  2. ジャパンカップでゴールデンフェザントに一蹴された時のショックは大きくなったかも。
  3. 有馬記念でのダイユウサクの単勝倍率は史実以上になっていたか。
  4. いずれどこかで降着問題が取り沙汰されただろうが、誰が対象になる?(エリザベス女王杯のヒシアマゾンが有力か)
  5. プレクラスニーはたぶんあまり変わらない。
    • 江田照男騎手はダイタクヤマトまでGⅠを勝てなかった事になる。
  6. 「祖父と孫で260億円飛ばした」なんて言われる事も無かった。

メジロラモーヌ[編集 | ソースを編集]

1986年のエリザベス女王杯で敗れていたら
  1. 牝馬三冠は2003年のスティルインラブが初ということになっていた。
  2. 「トライアルレースを全て制した上での三冠達成」は未だにどの馬も達成できていない。
  3. 顕彰馬に選出されることもなかった。

ヤエノムテキ[編集 | ソースを編集]

1988年の皐月賞の抽選に外れていたら
  • 皐月賞は6分の3の抽選を突破して出走しました。
  1. ディクターランド(史実2着)かサクラチヨノオー(史実3着)が皐月賞を勝っていた。
  2. ヤエノムテキは…もしかしたらダービーは出れなかったかも知れない。夏以降は史実通りか。

ユキノサンロイヤル[編集 | ソースを編集]

2006年ジャパンカップで一着になっていたら
  1. 多くの人間が泣かざるをえない。
  2. 但し、そうだとしてもユキノサンロイヤルの上がり三ハロンが36秒台。ディープはどれくらいやら…w
  3. メジロブライトの新馬のようなタイムのかかりすぎるレースになったと思われる。ちなみにメジロブライトの新馬のタイムは函館の芝1,800m良馬場で2分1秒6
  4. ディープインパクトは黒歴史逝きに

ライスシャワー[編集 | ソースを編集]

5歳春の時点で引退していたら
  • 1994年春、栗東での調教中に故障を発生したライスシャワーはこの時点で引退・種牡馬入りが検討されていましたが、長距離レース以外の成績の乏しさ・小柄な馬体が馬産地から敬遠され、結局現役続行となりました。もしこの時点で引退していたら…?
  1. 上の長生きしていたらの項目と同じく、種牡馬としては不振な成績となっていた。
    • 勿論、あそこまで人気が出ることもない。
  2. 春の天皇賞(1995年)はステージチャンプが勝っていた。
    • ステージチャンプはおそらくその年限りで引退して種牡馬入りしていただろう。親族に重賞勝ち馬が多かったため一頭ぐらいは有力馬を出していたかも。

ラガーレグルス[編集 | ソースを編集]

2000年の日本ダービーに出走できていたら
  • ダービー一週間前の東京競馬場で行われたゲート再審査の2回目で立ち上がってしまい、ダービー出走を逃したラガーレグルス。もし出走できていたら…?
  1. 「=一部の観衆による悪質行為が無かったら」ということになる。
  2. それでもダービーを勝っていたとは思えない。
    • もし勝った場合、河内洋はダービージョッキーになれないまま引退していた。
  3. 2002年か2003年ぐらいまで現役を続けていた。
  4. 勿論2005年に行方不明になることもなく、2020年現在も存命だったかも。

ローエングリン[編集 | ソースを編集]

2002年の皐月賞の抽選に通っていたら
  • 7分の2の抽選に外れ出走できませんでしたが、もし仮に通っていたら?
  1. 勝った場合、史実のようなマイル路線に進んでいなかったかも。
  2. 2着の場合はダービーに出走した以外史実とさほど変わらない。
  3. 3着以下の場合、少なくとも宝塚記念に出る事はなかった(2002年の宝塚記念は15頭しか出走登録がなかったとは言え)だろう。
    • 史実通り駒草賞を勝っていたとしても、その次はラジオたんぱ賞あたりを走っていた?
2002年のダービーの抽選に通っていたら
  • 若草ステークスを勝ったローエングリンですが、ダービーでは4分の3の抽選に外れてしまいました。しかしもし通っていたら……
  1. さすがに勝ったとは思えない。
    • もし勝った場合、タニノギムレットは無冠と言う事になりウオッカが生まれなかったかも。
  2. 少なくともヒシミラクルとの因縁が馬なり1ハロン劇場で描かれる事はなかったと思われる。
  3. 駒草賞勝ちがないと言う意味なので、やはり宝塚記念出走はありえないだろう。
2002年の宝塚記念で勝っていたら
  • ダービー除外後、オープン特別の駒草賞を勝ったローエングリンは宝塚記念に出走、3着に逃げ粘りました(2020年現在、3歳馬では最高着順)。もし勝っていたら…?
  1. 少なくとも菊花賞に出走することはなかった。
    • 3歳秋は神戸新聞杯→秋の天皇賞→ジャパンカップ(この年は中山芝2200)の順で出走していた。
    • 4歳時もマイル戦線ではなく、中距離路線を歩んでいた。
  2. ダンツフレームはGIを勝てないまま引退していた。でも史実よりは長生きしていたかも…。