戦国武将/さ行
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さ
雑賀孫市
- 紀州の地侍集団「雑賀衆」の棟梁。
- 「雑賀」は集団の名称で、本人の苗字は「鈴木」だったらしい。
- 「孫市」というのは代々の名乗りで、何人も居たらしい。
- 「孫一」という書き方もあって、同じ事だという説と別人だという説がある。
- 司馬遼太郎が『尻啖え孫市』で書いたのはその中の鈴木重秀の話。父の佐大夫も、弟(息子とも)の重朝も雑賀孫市を名乗っている。
- 経歴にはいろんな孫市のものが混ざっていて、よくわからない。
- 雑賀衆は当時日本最強の鉄砲集団。
- 石山本願寺に味方し、織田信長をさんざん悩ませた。
- が、信長の長篠での鉄砲の使い方は、雑賀衆のやり方に学んだとも言われる。
- 石山本願寺に味方し、織田信長をさんざん悩ませた。
- 某漫画では一人称が「俺」(わえ)で二人称が「お前」(おまん)である。昔の和歌山の方言なのか?
斎藤道三
- 乞食坊主が油屋の養子に入って、しまいに大名にまでなった、豊臣秀吉に次ぐ成り上がり野郎。
- ただし最近は、油屋の養子から土岐家(もしくは長井家)の重臣になった父親と、土岐氏を追放して美濃一国を乗っ取った息子の、二代がかりの成り上がりだったという説が有力。
- だとすると、一代での成り上がり距離では、毛利元就あたりのほうが大きいかも。
- ただし最近は、油屋の養子から土岐家(もしくは長井家)の重臣になった父親と、土岐氏を追放して美濃一国を乗っ取った息子の、二代がかりの成り上がりだったという説が有力。
- マムシの異名を持つ。
- 華々しい戦争ではなく、内部工作や暗殺などの手段を主に用いて成り上がったため。
- 織田信長の義父。
- 娘を信長に嫁がせた。
- 娘の名は「お濃」「濃姫」として知られるが、これは「美濃出身の姫」というだけの意味。
- 「帰蝶」という名も知られるが、あんまりちゃんとした根拠はない。
- けっこう長生きしたらしいのに、早々に殺してしまっている本も多い。信長の子も産まず、ほとんど事跡が無いからだろう。
- 女児を産んだという説もある。
- 信長に騙されて父・道三の重臣を讒言し殺した、という有名な話があるが、作り話らしい。
- 信長と対面してその器量に驚き、「わしの子や孫は、奴の馬前にひれ伏すことになるだろう」と予言した。
- 孫の龍興の代に、信長に亡ぼされたあとに作られた予言である可能性が高いが……
- 当時の信長は、周囲の敵と戦うために、わざわざ道三から兵を借りなければならないくらい弱体だった。
- 娘を信長に嫁がせた。
- 楽市楽座の制度を、信長より先に導入していたという説もある。
- 息子に攻め殺された。
- 本当の息子ではなく、追放した主君・土岐頼芸の子であったという説が有力。
- 頼芸を追放した時、その愛妾を自分のものにしたが、すでに妊娠していたということらしい。
- 本当の息子ではなく、追放した主君・土岐頼芸の子であったという説が有力。
- 道三は出家後の法名。出家前の名前は利政。
齋藤義龍
- 父・道三と弟たちを攻め殺して美濃を奪取。
- 本当は道三の子ではなかったと言われる。道三の項目を参照。
- 軟弱な武将みたいに思われることが多いが、実はそんなことはない。
- あの抜け目のない道三に少しも気づかれずにクーデターを謀り、しかも成功したわけなので、かなりの智将であったことは確か。
- 信長は道三の死後、ちょくちょく美濃に攻め寄せたが、義龍が生きている間は、はっきり言って手も足も出ずに撃退され続けていた。
- 35歳という若さで病没してしまったのが痛恨のきわみ。
- 長生きしていたら、竹中半兵衛あたりを片腕に天下盗りに乗り出したかも。
- 道三も、長良川の合戦での義龍の指揮ぶりを見て、「あやつの才を見抜けなかったのは己の不覚」と言い残している。
- 身の丈六尺五寸、膝の厚み七寸という記録が残っている。相撲取りだね。
- とすると早死にしたのは、高血圧から来る心臓病のせいだったかもしれませんな。
- 体格の大きさ故に、馬に乗っていると馬の脚が六本に見えたとか。
- 7本に見えることもあったらしい。
榊原康政
- 「それ秀吉めは野人の子~」に始まる檄文で秀吉をマジギレさせたことで有名。
- 怒った秀吉は康政捕縛に十万石の懸賞金を懸けた。
- 徳川四天王の中で一番地味。
- 本多忠勝同様、本多正信とは仲が悪かったらしい。亡くなる間際、正信に対して「俺も肝が腐って死ぬ」と当て擦りのようなことを言っている。
佐竹義重
- 自分も鬼だが配下にも鬼がいた。
- ふかふかの暖かい上等な布団が大嫌い。
- 「秋田は寒いだろう」って義宣が布団を贈ったけど、暑くて寝られないと結局1回しか使わなかった。
- どこまで暑がりなのか、あるいは異常なまでに太ってたのか?
- 「秋田は寒いだろう」って義宣が布団を贈ったけど、暑くて寝られないと結局1回しか使わなかった。
- 息子の佐竹義宣と肖像画を混同されることがある。
- 本人の肖像は鎧姿ばっかし。
- 常陸の美人とハタハタを秋田に持ち去った。
- 武田信玄に対し、「うちの方が源氏の嫡流に近いんだぞ~」と手紙を送ったことがある。
- 上杉謙信からいい刀をもらったが、義宣がそれを削って脇差にしちゃってガッカリ。
里見義堯
- 安房の大名だが、里見といえば八犬伝の方が有名だと思う。
- 水軍の将。里見水軍といえば関東では名うての強者軍団だったんだが。
真田昌幸
- 武田信玄の配下の信濃衆のひとり真田幸隆の三男。
- 三男だったので武藤家に養子に入り、武藤喜兵衛を名乗っていたが、長篠の戦で兄二人が戦死してしまったので、真田の家を継ぐ。
- 卓越した情報収集能力と知謀で信玄・勝頼に重用されたが、いかんせん外様なので、武田家中での発言力はあまり強くなかった。
- 敗亡必至になった勝頼を、昌幸の居城の沼田に引きとって再起をめざそうという案もあったようだが、勝頼は譜代の小山田信茂を頼り、結局裏切られて落命した。
- ただし、外様の中では筆頭クラスの序列。
- 徳川家と2回戦い、2回とも勝利した。
- いずれも少数の兵で圧倒的大軍の徳川を退けた。
- 地勢を熟知して巧みに伏兵などを配したから。
- はたして真っ向勝負の野戦で家康に勝てるだけの実力があったかどうかは微妙。
- 動員能力が違いすぎるからねぇ…。互角の兵力だったらどうなのかってぇのはifの話でどうしようもないし。
- いや、シミュレーション小説で、昌幸が大坂に入って全軍を指揮し、家康と対決するってパターンがよくあるのでwww
- 動員能力が違いすぎるからねぇ…。互角の兵力だったらどうなのかってぇのはifの話でどうしようもないし。
- はたして真っ向勝負の野戦で家康に勝てるだけの実力があったかどうかは微妙。
- 地勢を熟知して巧みに伏兵などを配したから。
- 一種の「神話」となり、本人もそれを自覚していた。
- 九度山配流中、東西手切れの際に徳川軍を叩きつぶす策を立てていたと言われるが、それも「ワシが大坂に入ったと聞けば、大坂が勝つと見る大名も多くなるだろう」という、「神話」を前提にした作戦だったようだ。
- 子の幸村に、「この策はワシにならできるが、そなたは広く名を知られていないので無理だ」と言った。
- 単に楽観的なだけともとれる。配流されてもあっさり許されるという甘い予想しており、そう思ってもいないと辛い流人生活に耐えられなかったとはいえ、自分のしたことが社会にどう受け止めらるかの自覚が弱い。
- 社会じゃなくて徳川家にだろ。しょうがないじゃん実際それまではいろいろと利用価値が高かったんだから。「キーマンは私なんだよ!」byマスターキートンに出てくるロシア人工作員
- 九度山配流中、東西手切れの際に徳川軍を叩きつぶす策を立てていたと言われるが、それも「ワシが大坂に入ったと聞けば、大坂が勝つと見る大名も多くなるだろう」という、「神話」を前提にした作戦だったようだ。
- そんなこんなで徹底的な徳川嫌いと思われているが、実はそういうわけでもない。
- 本当に嫌いなら、長男の信幸を本多忠勝の娘と結婚させたり、家康のもとに出仕させたりはしないだろう。
- いずれも少数の兵で圧倒的大軍の徳川を退けた。
- 「表裏比興の者」と呼ばれた。
- 「比興」は「卑怯」と同義だが、当時は武将に対しての褒め言葉だったとか。
- 秀吉が言ったとも伝えられるが、具体的には石田三成の書簡にある言葉。
- 石田三成とは、嫁さん同士が姉妹。
真田幸村
- 実際に幸村と名乗ってた形跡はないらしい。資料上もっともよくでてくるのは信繁らしい。
- でも真田家の文書にも幸村と書いてあるらしい。幸村の名前が定着しすぎて、子孫でさえつい乗せられてしまったとか。
- 織田信勝(有名な名乗りは信行、信長の弟…ってみんな知ってるか)と同じパターンか。
- でも真田家の文書にも幸村と書いてあるらしい。幸村の名前が定着しすぎて、子孫でさえつい乗せられてしまったとか。
- 関ヶ原の合戦では父・昌幸と共に西軍(兄・信幸は東軍)につき、敗戦後浪人してた。が、大坂の陣では大坂方につき、多様な作戦で東軍(徳川軍)を苦しめた。夏の陣で家康本陣に攻め入って備えを手薄にさせたが、あと一歩のところで武運つたなく戦死。
- 歴史シミュレーション小説では、幸村が味方した側が必ず勝つことになっている。
- 真田一族は、創作物で優遇されすぎ。
- 負けるにしても華々しく散る。
- 高野山の麓、九度山に配流されてからは貧乏暮らし、親戚に「焼酎送ってくれ」と手紙で無心している。大阪の役がなければフツーのおっさんだったに違いない。
- それどころか「白髪になった」「歯が抜けた」などと颯爽としたイメージをブチ壊す愚痴だらけの手紙も書いてる。
- まあ、愚痴ばかりこぼしている貧相な中年男が、ひとたび甲冑を身にまとうと颯爽としたいくさ人に大変身、というのも、それはそれでカッコいいが。
- 配流されているころに作っていたのが「真田紐」とか(※噂の域を出ない情報)。これに似ていたのがサナダムシ。
- 嫁は大谷吉継の娘。
- ショー・コスギに相棒の猿飛佐助がネタにされてしまった。
酒井忠次
- 徳川四天王の筆頭。
- …のはずだがある意味もっとも影が薄い。
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志賀親次
- 島津義弘曰く「天正の楠木」。破竹の勢いで北上してくる島津軍を迎撃し、斜陽の大友家を支えた。
- この人が朝鮮出兵で主君大友義統に進言したことが大友家改易の切欠となったそうだが、真相は不明。
- キリシタンだったともいわれている。
柴田勝家
- 禿ネズミの双璧をなす武将。
- 「鬼柴田」の異名をとった。織田信長没後の後継者決定会議で一族の織田信雄を推すが、豊臣秀吉の推す三法師(のちの織田秀信)が後継者に決まってしまい、秀吉と対立する。
- 推したのは織田信孝。
- 他の出席者(羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興)が全員三法師を推した。信雄を推す人は居なかった(涙)。
- もちろん秀吉の根回しのせいだが、嫡流重視という考え方が徐々に浸透しつつあった時代ということもあるかもしれない。
- 上記の織田家後継者決定会議(清洲会議)で秀吉に負けたのを恨んで賤ヶ岳の合戦起こすが、大敗北。居城の北ノ庄城へ何とか逃げ込んだが、秀吉軍にフル攻撃されて自刃。
新発田重家
- たまに柴田とごっちゃになる。
- 数々の武功を挙げて上杉景勝を支えたのに、恩賞が少なかったことに立腹して反乱を起こす。7年間にわたって戦い抜いたが、配下の討ち死にや寝返りで、遂に敗戦。切腹して果てた。
- 天地人でまさかのスルー。一部のファンが憤激したとかしないとか。
島津義弘
- 知名度は高いが戦国大名といっていいのかどうかよくわからない人物。一応島津家十七代当主ということになってるがホントに家督を相続したかどうか良くわからないらしい。一方で戦国時代の島津家を代表する人物なのは間違いないのだが。
- 関ヶ原では孤立して大ピンチだったが、捨て奸でなんとか逃げ切った。
せ
仙石秀久
- ほとんど無名だったが、漫画『センゴク』のお陰で知名度が上がった。
- 長宗我部ファンからは蛇蝎の如く嫌われている。
- 九州攻めの先鋒として四国勢が行ったが、その軍監としてつけられたのが秀久。
- 長宗我部元親や十河存保など歴戦の四国勢は、島津軍の伏兵を見抜いて慎重論を唱えたが、功名にはやる秀久が突出。元親や存保はいやいやながら従わざるを得なかった。
- おかげで戸次川の戦いで惨敗、十河存保、元親の長男の信親などが戦死してしまった。
- さらに情けないことに、秀久はそのまま戦場放棄し、淡路島まで逃げ帰ってしまった。元親はなんとか敗兵をまとめて退却したが、愛する長男をアホな戦闘で失ったショックで、以後廃人のようになった。秀久が長宗我部ファンに嫌われるのも無理はない。
- 「仙石(せんごく)は四国(しこく)を指して逃げにけり 三国(さんごく)一の臆病の者」と落首に書かれ、面目を失う。秀吉も激怒して秀久を改易してしまった。
- 長宗我部氏は滅亡したのに、仙石家はちゃっかり幕末まで存続したのが、一番の無念なのではなかろうか。
- 石川五右衛門を捕まえたらしい。
- 箱根"仙石原"の名前は仙石秀久が元になっているとも言われてる。
- 権兵衛だけど名無しではない。
そ
宗義智
- 対馬唯一の大名。明らかに日本人だったり羽柴に忠誠誓ったりしちゃってるのに、どっかの国の人はしらんぷり。
- 秀吉の「朝鮮に攻め入り、果ては明をも攻め取ろう!」という思いつきのせいで、交易で付き合いのある朝鮮と交渉。うまくいかずに文禄の役・慶長の役発生。
- 立場上、朝鮮にも日本にもいい顔をして事態の沈静化(秀吉の気が変わるか、ぶっちゃけ死ぬか)を待っていたが、事態が抜き差しならないところまで進んでしまったので、朝鮮に一撃くらわせて早期講和するしかない、と方針転換。だが結果は……。
- 文禄・慶長の役の後、貿易再開のためにはなりふりかまわず。講和条件の改ざんから、国書の偽造だってやっちゃうぞ!
- 結局国交が正常化したのは、義智の死後、徳川の代になってから。