「幕末士伝」の版間の差分

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#晩年は談話筆記を何冊も出した。
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#*勝の肉声が聞こえてきそうな本。さまざまなことに関する洞察力は感嘆に価する。
#*勝の肉声が聞こえてきそうな本。さまざまなことに関する洞察力は感嘆に価する。
===大鳥圭介====
==公家==
==公家==
===岩倉具視===
===岩倉具視===

2015年9月6日 (日) 19:26時点における版

  • 新規追加は藩別に50音順でお願いします。

新撰組

  1. 色々と治安が悪くなった幕末京都を警備する為、浪士や一般市民を中心に結成された武装警察。直接の上司は会津若松藩で、幕府の正規組織ではない。
    • (幕臣士族を中心に結成された)同様の役割を持つ、幕府正規組織は「見廻組」と呼ばれた。
      • 京都の北半分を見廻組、南半分を新撰組がそれぞれ担当していた。
  2. 「新撰組」「新選組」どちらの表記でもOKらしい。実際に近藤勇や土方歳三の書簡でも両方の表記が使われている。ゆと(r
  3. 局長の近藤勇、副長の土方歳三、一番隊長の沖田総司、二番隊長の永倉新八、三番隊長の斎藤一、等が有名。
  4. 隊の規則が厳しい事で有名で、戦闘での死者より内部粛清の死者が多かった程。
  5. 有名な「浅葱色(水色)の山型(ダンダラ)羽織」が隊服として使われていたのは池田屋の変あたりまでで、それ以後は目立たない黒の羽織が主として使われたようだ。
  6. 滅びの美学的な彼らの荒々しくも鮮やかな生き様が日本人の琴線に触れるのか、現代でもファンが多く、創作物のテーマとしても良く使われる。また女性ファンが多いのも特徴。
  7. 現代では大人気の新撰組だが、当時は荒くれ者として嫌われていたらしい。
    • 特に京都では女性人気がよろしくなかったそうだ。

伊東甲子太郎

  1. 新撰組の参謀。結成時からのメンバーではなく、藤堂平助の紹介で入隊した中途組。
  2. もともと倒幕側の人間で、新撰組を倒幕の組織にする狙いもあったというが、上手く行かず離反する。
  3. 同時代の人物の証言によると美形でコミュ力抜群。なので同じ美形でコミュ症の土方が嫉妬したという話も。
  4. 坂本龍馬暗殺事件直前に彼の所を訪問し身辺に注意するよう伝えた。なんとなく怪しい。
  5. 新撰組脱退後、彼と彼のシンパが薩長に通じているという理由で新撰組に闇討ちされた。

沖田総司

  1. 血反吐を吐きながら敵を斬りまくるイメージがつきすぎてしまったが、結核だったのは本当だが、実は剣はさほど強くなかったとか。
  2. 超絶イケメンのイメージがつきすぎてしまったが、実はさほどでもなかったとか。
    • ヒラメ顔。
      • というのは根拠に乏しい。流布する沖田総司像も想像図。身体的特徴について親族に伝わる話では小柄だった、という物しかない。
        • とはいえ土方や伊東などと違いイケメンだったという話も伝わっていない。極端な美形かブサイクなら印象として語られるはずなので、要するにフツメンだったんだろう。
    • 背も小柄説大男説色々ありすぎて訳がわからない。
  3. 朝誰よりも早く起きて掃除するのが趣味だったから、名前を「おきたそうじ」にしたとか。ホンマかいな。
    • 命日が「ごみぜろの日」
  4. 子供と遊ぶことや、冗談が好きで、よく笑う快活な性格だったと伝わるが、道場の稽古は乱暴すぎて皆一目散に逃げた。

近藤勇

  1. 拳を口の中に入れることが出来たのは有名。
    • 加藤清正も拳を口の中に入れられたので、同じように名をはせたいと思っていたらしい。
  2. 道場破りの際にはいつも助っ人を呼んでいた。
    • どうも竹刀の扱いが苦手だったらしい。
    • 実は新撰組でも有数のチキン野郎だったという噂がある。それが逆に、血の気の荒い土方とで新撰組を率いることのできた理由だったとか……
      • でも池田屋事件では少数で乗り込んでるので、やるときはやる男なのかも。
  3. 愛刀は虎徹…のニセモノ。でも池田屋事件で刃こぼれ一つしなかったというすごいニセモノである。

斎藤一

  1. 三番隊隊長。沖田総司と並んで新撰組最強と言われる一人。
    • 最強で並び称すなら永倉新八も入れないと。
  2. 伊東甲子太郎が離反した際には、伊東側にスパイとして潜入していたという。
  3. 晩年、木の枝に吊るした空き缶を竹刀でぶち抜いたという逸話もある。
  4. とにかく名前がいろいろと変わった。
  5. 間違いなくあの漫画で知名度が上がった。

芹沢鴨

  1. 新撰組初代筆頭局長。近藤勇の上位者であった。
  2. むちゃくちゃ乱暴ばかりしていたイメージがあるが、のちの近藤たちによる印象操作や、子母沢寛の小説による創作の面が強く、実際はけっこう礼儀正しい紳士であったとか。
  3. 」という名前は自分でつけたのだが、いま考えてもみょーなセンスである。

永倉新八

  1. 何故か影が薄い。
  2. 維新後も生き残った。
    • 後世に新撰組の名が残ったのもこの人のおかげ。

土方歳三

  1. 剣も強く、組織力もあり、頭も良く、なおかつイケメン。新撰組の実質的指導者は彼だったと言われる。
    • 日野の薬問屋の出で、少年時代から店員を指揮して製薬の作業をしていた。組織の指導力を培ったのはそのおかげと言う。
      • 司馬遼太郎によると、土方の実家は昭和30年くらいまで「お大尽の家」で近所では通じたそうだが、今はさすがに無理だろう。
      • 現在でも日野には土方姓の家が結構ある。が、親戚というわけではなく、歳三にあやかってつけた家もあるとか。
  2. やたらと粛正ばかりしていたのは、ちょっとなあ……
  3. 新撰組瓦解後は、榎本武揚と一緒に北海道へ行き、五稜郭の戦いで戦死。
    • 「北海道共和国」が存立していたら、陸軍大臣か何かになっていたかもしれない。
    • この時期になって、「剣がいくら強くても、やっぱり銃には勝てんなあ」と述懐。何を今さら……
    • 後ろから撃たれたという説もあるようだが、さて・・・・。
    • 生存説があり、現在漫画家をやってるという噂も…

幕府陸軍

小栗忠順

  1. 財政再建や軍隊の近代化などいろいろと活躍している。
    • 司馬遼太郎も絶賛している。
    • 一言で言うと、超優秀な経済官僚。
  2. 一説によると徳川埋蔵金はこの人が隠したらしい。
  3. 日本に初めて蹄鉄を紹介した人物。
    • 生粋の馬好きだった。
      • 馬主に同姓の人がいるが、この人の子孫かどうかは知らん。
        • オグリキャップの馬主の小栗さんだったら、小栗上野介さんの末裔だよ。
    • 漫画家の子孫もお忘れなく。
  4. 上野国に領地を持っていたので子孫はこの人を「上州」と呼んでいる。
    • 上野介の役職にあったからじゃないのか?
    • 因みに所領地では名奉行として知られていて、自分が処刑された後、妻と妻の腹の中に居た忠順の子を匿って守り通してくれたというのは、知る人ぞ知る話しらしい。
  5. 東郷平八郎は仁義礼智信の5つの特が備わった人だと評価していたらしい。
    • 「生きておられたら、勝なんかよりもよほど有用な働きをなさっておられたであろう。」と、忠順の孫と曾孫にあった時に言ったらしい。
      • 因みに、勝海舟と小栗忠順は性格も真反対で、敵対していた。
        • 現代の両者のファン同士も仲が悪い気がする。
  6. 無類の愛妻家だったらしい。
  7. 同僚と花見で行った隅田川の堤防を見て、あの堤防をどれくらいかさ上げすれば付近の田畑と農民を守れるかなどを、同僚がどじょうすくいをやる横で屋形船の中から考えていたというくらいマジメな人物だった。
    • 悪く言えば、KYの見本。
  8. 歴史系の掲示板で、この人の話題が出ると荒れることが多い。
    • この人が生きていたら、公武合体が実現して史実より幕府側の犠牲を少なく出来たり、史実より更に効率的に近代化が出来る可能性が見えるため、ifの話が白熱してしまうため。

勝海舟

  1. 襲ってきた刺客を説得し弟子入りさせる程度の能力。
  2. 弱点:犬。
    • 子どもの時に噛まれて大けがをしたため。
      • その噛まれた場所がひどい。
  3. 維新後の本名「安芳」。
    • 本人いわく「アホウ」とも読めるとか。
    • 安房守になってたからじゃなかったっけ?
  4. 側女と本妻を同等に扱い同じ家で暮らしていたらしい。
    • 本妻がデキた人だったので、妾との仲は良好だったとか。
  5. 維新後の身の処し方で、好き嫌いが別れる。
    • 旧幕臣と明治政府との橋渡しをするためには、こうした汚れ役の人も必要だろう。
  6. 晩年は談話筆記を何冊も出した。
    • 勝の肉声が聞こえてきそうな本。さまざまなことに関する洞察力は感嘆に価する。

公家

岩倉具視

  1. 加山雄三の先祖。
  2. 500円札の肖像画に使われていた。
  3. 使節団団長として赴いたアメリカで条約改正への望みと髷を一度に失った。
  4. 葬儀は維新以降での国葬第1号。
  5. 一時期岩倉に隠棲していた時はド貧乏だったらしい。
    • 娘を近所の百姓の養女にしかけたこともあったとか。
  6. たまにドラマでバカ殿みたいな扱いをされる。そんなことはありえない。

長州藩

伊藤博文

  1. 初代にして最年少の内閣総理大臣。
    • ほかにもいろいろ初代。
  2. フグ解禁の功労者。
    • 少し前のJR西日本のCMでも取り上げられた。
  3. もみじ饅頭の生みの親ともいわれる。
    • 芸者の手を見てもみじのようだ、饅頭にして食いたいとのたもうた事に由来する。それほどまでの芸者好きだった。
  4. かつて足軽だったので出世後も旧藩の集まりでは末席に座らされたらしい。
  5. 芸者好きをたびたび風刺のネタにされた。
    • 二人三人と同衾するのは当たり前、半玉(デビュー前の芸者)の最初の客になるのが楽しみだったという。
    • 「地方で芸者遊びをするときは、土地のNo.1ではなくNo.2やNo.3を指名しろ」という秘訣(?)を残している。
  6. 掃いて捨てるほど女がいたので、「箒」というあだ名をつけられた無類の女好き。
    • 日本で初めてカー×××をしたという伝説がある。

木戸孝允

  1. 「桂小五郎」の名前のほうが知られているかも。
    • 明智小五郎の名前もここから取られたらしい。なので時々両者を結びつけたギャグが生まれる(いしいひさいち「土岐の娘」他)。
    • 桂南光の弟子で居た気もする(桂こごろう)が、なんか関係あるのかな?
  2. 近藤勇を恐怖させたほどの剣の達人だったが、危なくなると剣を打ち合ったりせずに、すぐに変装して身を隠した。
    • 「逃げの小五郎」という二つ名もあったそうな。変装の名人って、明智小五郎というより怪人二十面相だね。
  3. 西南戦争のあいだに病死。いまわの言葉は「西郷も、いい加減にしないか」だったそうな。

久坂玄瑞

  1. 松下村塾一の秀才と言われた。
    • 長身で剣術の達人。さらに詩吟の腕もあったため、萩城下はおろか京でも人気者だったらしい。
  2. 師である吉田松陰との関係は複雑。
    • もともとハク付けのために松陰に論争をふっかけたところ煽られ、当時蟄居中だった松陰の元へ単身殴り込みにいったところ、手なずけられて弟子になる。
    • 松陰の妹文を押しつけられたとの縁談を申し込まれた際に「器量がよくない」と断るも、脅されて結婚。
      • 文との間に子供はできず、京の芸者と懇ろになり子供をもうけた。
        • 久坂に限らず、佐幕倒幕双方とも京ではやりたい放題だったわけだが。
  3. 攘夷の急先鋒。
    • イギリス大使館焼くわ、外国船砲撃するわとやりたい放題。
  4. 両親と兄を一気に失い、なんとか久坂家の家督を継ぐことになったが、その際に収入が増加した。
    • 書類作成時に「俵」であった知行高の単位を「石」と誤って記載されたため。

吉田松陰

  1. 木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、前原一誠など、維新や明治政府に関わる多くの人材を育てた大教育者。
  2. 大教育者と呼べる人物なのに、なんと29歳の若さで死んでいる。どんだけ優秀だったのかと。
    • 松下村塾で教えていたのはわずか4年間。それであれだけの人材を育てたのだからすごすぎる。
    • 人を褒めるのが超絶にうまかったらしい。褒められた者はみんな感激して発奮したそうな。
  3. 黒船で密航しようとしていたらしい。もし成功してたらどうなっていたことやら。
    • 漕ぎ着けるために使った小舟の櫓を固定するために帯もフンドシも使ってしまっており、黒船に着いた時、前ははだけてフルチン状態だったとか。そりゃ拒否されるわ。
  4. 昭和になって、彼の業績を讃える歌がこの人によって作られた。
  5. 孫子の兵法を研究していて注釈書も書いている。上述の黒船密航も「敵を知り己を知る」という孫子に基づいた行動だったのかも。

土佐藩

板垣退助

  1. 相撲が「国技」になれたのはこの人のおかげ。
    • 「国技館」はこの人の命名。
  2. 板垣死すとも自由は死せず!
    • 暗殺されかけた後に大臣になった際には「自由は死んだのに板垣は生きている」などと風刺されたらしい。
    • これホントは言っていなかったという説がある。
      • 新聞が書いたフレーズだって?
      • 実際は「い、痛えよ、医者呼んでくれよ」(大意)だったらしい。
  3. 実は国会議員だったことがない。
    • 伯爵位を持っていたために衆議院の被選挙権がなく、貴族院に選ばれた際も固辞している。
  4. 100円札の肖像画に使われていた人。
  5. イタダキタイスケではない。

岡田以蔵

  1. 幕末三大「人斬り」のひとり。もっともそんなにむちゃくちゃ斬りまくっていたわけではない。
    • 井上佐一郎や猿の文吉を暗殺したときは絞め殺している。
  2. 勝海舟の用心棒をしていたこともあった。
    • その時にひとりふたり斬ったのは、勝の回想があるから確か。
      • 勝が殺人をとがめると、「私が斬らなきゃ、先生は今頃まっぷたつでしたよ」と返答。これには勝も一言も無かったらしい。
  3. 土佐藩につかまって拷問を受けたところぎゃあぎゃあ泣きわめくので、同じ牢に居た武市半平太から、見苦しいからと毒殺されかけた。哀れ。
    • もっとも、致死量の何倍かの毒薬を服まされてもぴんぴんしていたらしい。変なヤツだ。

坂本龍馬

  1. 坂本竜馬は高知が嫌になって脱藩した
    • その後一度も帰ることが無かった。
  2. アレな坂本龍馬ファンが銅像の前で一晩を飲み明かしたりする。
    • 酔っぱらって龍馬なぜ死んだんじゃ~とのたまったりのたまわなかったり。
  3. しかしこれだけ龍馬、龍馬と言っておきながら肝心な彼の墓は京都まで行かないと存在しない。
    • 京都で暗殺されたから。皮肉にも地元の戦国武将が処刑された場所と同じ。
    • 龍馬を暗殺したのは新撰組という説がある。(新撰組龍馬暗殺未遂という事実が残っている。)
      • 西郷黒幕説、自殺説、まだ分からないからといっていろんな説が飛び出しております。
      • 中岡慎太郎暗殺の巻き添えをくらったって説もあるらしい。
  4. 大河ドラマ「竜馬がゆく」は同シリーズ中、最も低視聴率に終わった作品である。
    • 2010年「龍馬伝」は吉と出るか蛇と出るか...
  5. 「竜馬がゆく」(原作)は忘れられた日本人として取り上げたわけです。全国的な知名度がないのはやむをえない。
  6. 明治維新の前には土佐藩は幕府派と倒幕派が互いに暗殺合戦したから人材がいなくなった。薩摩藩では武士の7人に1人は(いまは廃止された)華族士族になれた。
  7. その代わり岩崎弥太郎に代表される経済人が活躍、何気に昭和初期までは日本でも指折りの経済商業発展都市だったりする。しかし今も昔も変わらずの怠惰な県民性故にこの有様だよ!!
  8. 「坂本龍馬って過大評価されすぎだろ」「坂本龍馬ってたいしたことしてないよね」は禁句である
    • 「すごい(と言えば通ぶれる)」→「すごくない(と言えば通ぶれる)」を数回繰り返してるので割とニュートラルだったりもする
      • 補足:上記2つは高知県での龍馬の扱いの話ね。
  9. 日露戦争の時に、焦慮する皇后の夢枕に現れて「戦のこと、ご心配なさらぬように」と伝えたらしい。
    • 明治期の龍馬への認識はその程度のことだったようだ。
  10. 10才くらいまで(だっけ?)寝小便垂れてた。
関連項目

武市瑞山

  1. 幕末における土佐郷士のリーダー格。半平太の通称でも知られる。
  2. 親戚でもある龍馬からは「顎(アギ)」というアダ名で呼ばれていた。
    • それに対して龍馬のことを「痣(アザ)」と呼んでいた。
  3. 同時代の人たちから「人望は西郷、政治は大久保・桂に匹敵する」というとんでもない評価を受けている。もし生き延びていたらどれほどのことをしたことやら・・・。

佐賀藩

大隈重信

  1. 都の西北に大学を作った。
  2. 同じ日に禁酒の勧めと飲酒の良さをそれぞれ別の場所で語ったことがあるらしい。
    • 前者は禁酒組合、後者は酒造組合での講演だったとか。
  3. 始球式でバッターが空振りする風習の生みの親。
  4. 「あるんである」という言い回しをよく使ったのであるんである。
  5. 政治家としてはともかく、総理大臣としてはあまり有能ではない。
    • 藩閥勢力に利用されすぎ。

薩摩藩

大久保利通

  1. 外では冷血、家では親バカ。
  2. 私生活はハイカラだったが実は漬物も好きだったとか。
  3. 近年まで鹿児島ではあまり人気がなかった。
    • 他県からの指摘があるまで銅像も立たなかった。
      • そりゃ、薩摩で大人気の親友(=西郷隆盛)を殺せって命令出しゃ、誰だって、嫌うでしょ。
  4. 頭頂部の禿を前髪でごまかすのが大変だったという。
  5. 良くも悪くも近代日本のグランドデザインを描いた偉人。
  6. 身長180cm以上だったらしい。ガチの殴り合いでは勝てないなあ、俺。

西郷隆盛

  1. どんな顔だったか未だに謎。
    • とりあえず上野の銅像は似ていないらしい。
      • 銅像の完成式で妻が本人に似ていなくてがっかりしたとか。
        • 奥さんががっかりしたのは、似てないからではなく、公的な場に飾られるのに相応しくない平服姿で表されたため。
    • 確かに確実な写真などはないが、まだ西郷の顔を覚えている人が大勢生きている時代に作られた作品だから、全く似ていないということはないだろう。
      • 今残る肖像画は、弟の西郷従道と、従弟の大山巌の容貌を参考にして描かれたもの。まあ、当たらずといえども遠からずというところじゃないかな。
    • 顔と言うより、名前も正確なところは不明だったような・・・。
      • 「隆盛」は親父さんの名乗りで、本人は本当は「隆永」だったらしい。留守中に部下がうろ覚えで届け出てしまった。
        • ついでに、弟の従道も、本当は「隆道」だったらしい。名乗りを訊かれて、音読みで「リュードーじゃ」と答えたら「ジュードー」と聞き間違えられたとのこと。
  2. 愛犬家。
  3. 鹿児島と熊本での評価の差がすごい。
  4. 小さく叩けば小さく響き大きく叩けば大きく響く。
  5. 死後も何か変事が起きるたびにこじつけられた。
    • 火星の大接近、ロシア皇太子来日、巡洋艦行方不明・・・
  6. 日本人の「鹿児島」という土地のイメージにこの人の存在がかなり影響していると思う。
  7. 実は維新以前に島流しを食らっている。
  8. 奄美に流されたときに風土病になったとかで、×××××が異常にでかく、馬にも乗れないほどだった。
    • 西南戦争で死んだ後、首がなくてどれが西郷さんの遺体かわからなかったときにコレで判断された。
  9. 「もうこのへんでよか。」
  10. 愛犬は未来の東京からやってきたもの。
    • いつもおなかをすかしている、かわいい薩摩犬じゃなかったっけ。
      • 吉野狐とコンビを組んでいる。

長岡藩

河井継之助

長岡藩家老

    • 別名ガトリング家老
      • アホの坂田や鈴木宗男に似てるは禁句
  1. 臨終の際に弟子の外山修造に「これからは商人になれ」と遺言を残した。
    • その後、外山修造はアサヒビールと阪神電鉄を設立した。
      • 阪神タイガースの由来は外山修造の幼名である寅太が由来の説がある。
      • 戦前、甲子園球場の入口に外山修造の銅像があった。

関連項目