ページ「東京/練馬区」と「もしあの鉄道路線が別の年に開業していたら」の間の差分

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{{区|name=練馬|reg=関東|pref=東京|city=東京23区|ruby=ねりま|eng=Nerima}}
==主な地域・施設の噂==
*[[江古田 (練馬区)|江古田]]
*[[関東の遊園地・テーマパーク#としまえん|としまえん]]
*[[石神井公園]]
*[[大泉学園]]
*[[光が丘]]
*[[関東の城#石神井城|石神井城]]
*[[東京23区の駅/板橋区・練馬区]]


==練馬区の噂==
==分割済み==
[[画像:NerimaCityOffice02.jpg|frame|練馬区役所]]
*[[もしあの鉄道路線が別の年に開業していたら/新幹線]]
#23区で23番目に区になった。元々は板橋区。
*[[もしあの鉄道路線が別の年に開業していたら/関東]]
#*よってライバルは板橋区。
*[[もしあの鉄道路線が別の年に開業していたら/近畿]]
#**いや、板橋とは大分差がついてしまったと思うが。
#***となりの杉並区が真のライバル区。 共に「アニメの街」で世界的に観光地化させたいから。
#****したがって聖地巡礼するOTAKU(おたく)の外国人姿も観掛けるので、下段の文章も認識違いが有る。
#***街並みに余裕がある練馬と違い、板橋は板橋宿があった頃からの街が大規模に残っており、区の中央付近に武蔵野台地の崖線がはしっている、高島平などを開拓済みであるといった要因で、今後の開発が難しいという事情もある。
#*しかし、お互いレベルの低さは認識しており、ライバルであると同時に23区の底辺を彷徨う友でもある。
#**そうかあ?足立・葛飾・江戸川よりは良さそうだけど。板橋は行った事が無いのでよく分からんが、練馬とか杉並辺りは23区でも中堅なイメージby荒川区出身
#**大手の不動産サイトでは所得水準は練馬の方が高いとしつつ家賃相場は大抵板橋の方が高いと書かれる。
#***大泉や土支田など「郊外の鉄道駅からバス乗り換え」という鉄道空白地帯が家賃相場を大きく引き下げているらしい。
#*独立記念日がある。
#**知らなかった。(by練馬区民)
#*独立当初は「練馬区上板橋北町」という地名が存在した。のちに上板橋が取れて「練馬区北町」になった。
#*練馬の敵は中野・杉並。中野・杉並は練馬を未開の地扱いしている。練馬も和光、西東京を田舎扱いしているが…
#**東武練馬駅は出口によって練馬区・板橋区に分かれるので、よけいごっちゃになる。
#**練馬は中野・杉並を敵視していないが、陸運局の振り分けで「練馬ナンバー」となる中野・杉並「区民」の品川ナンバーへのコンプレックスが練馬への憎悪を不当に煽っている。
#*終戦直後に板橋区から独立を勝ち取ったと言う。
#野比のび太の家の住所は東京都練馬区月見台すすきが原。
#*練馬出身者からすると、「練馬にあんな緑いっぱいの裏山なんてあるか」とのこと。
#**'''旭町ならありえる。'''
#**練馬は平野っぽいイメージあるけど、練馬駅から早宮に向かっていくと結構デコボコしてて、あの谷間にある家から見ると裏山って感じあるよ。小竹向原あたりもデコボコしてる。平野とはいえ、練馬全体が山って事かもしれませんが。
#***早宮住民からするとF先生ご存命の頃は畑だらけであんな世界でしたよ。土管はなかったと思うけど。
#*しかしはるか昔は板橋の山と呼ばれ、所々で小さな山があったらしい。(実は山がある場所は板橋という説も…)
#*のび太の家のむこうに見えるのは[[西新宿|新宿副都心]]。
#*作中世界では、現実のとしまえんの場所に裏山があるのかな、と思ったり。
#*大泉学園出身者にとって土管のある空地はごくごく普通だった。裏山はなかったが。
#23区内で、夏最も暑く、冬最も寒いところ。
#*天気予報はさいたま市(または埼玉県)を見た方がよい。
#**もしくは東京の温度±3~5℃。
#**一部は江戸時代の川越藩に含まれていた。
#**ある埼玉県民([[朝霞市]]民)は、さいたま市内の高校でやたらと「私はいつも天気予報は東京のを見てる♪」と自慢げに話してたのがいた。
#*地下に巨大な自衛隊の基地がありその基地の影響で夏暑く、冬が寒いとの噂も・・・。
#**都心部の灼熱が風に乗ってくるとかいう噂も・・・。実際のところどうかは知らないけど。
#**埼玉の熊谷が関東一円のヒートアイランド現象の吹き溜まりならば、練馬は23区のそれ。環七通りから西側に入ると気候が違うと、80年代初頭辺りから既に言われてた。
#*都心部が晴天なのに大雪が降ったり大雨が降ったりする。
#**杉並区と並んで集中豪雨が多い。
#*アメダスがある武蔵大学付近はマンションの高層化で風通しが悪くなり、気温が高めに出たり風が弱く観測されるようになった。そもそも武蔵大学自体に高層ビルの校舎ができてしまった。そのためアメダスを石神井公園の旧日銀運動場跡地に近々移転するらしい。
#たまに[[群馬]]と間違われる。
#*[[関越自動車道|関越道]]を走っていると、練馬ナンバーと群馬ナンバーは本当に紛らわしい。
#としまえんが実はねりまえんであると言っても信用されない。
#*[http://www2.ttcn.ne.jp/~akoline/no14.htm 豊島城があったから豊島園。豊島区とは関係ない。]
#*元々、豊島という地名自体が今の豊島区よりずっと広い範囲で使われていたものだから仕方ない。
#**大泉の西半分を除く練馬と豊島・板橋・北・荒川が北豊島郡で、新宿の大半と渋谷が南豊島郡。
#田舎だと言われているが、実は全国の区の中でも2位の人口を誇る、ちなみに1位は世田谷区。
#*人口だけ多くてもやっぱり田舎だと思う。
#**23区内では、(夜間)人口が多いということはむしろ田舎だということ。
#*あれだけ広ければ人口が多くない方が不自然。
#*鳥取県より人口が多い。
#**しかも「加藤」姓だけで。
#***島根県、高知県をも抜いた。
#「埼玉県練馬区」と呼称されることがある。
#*足立区も「埼玉県足立区」と呼称されることがある。
#**練馬区ならまだしも、江戸川区は勘弁してほしい(市川市民)
#***江戸川区は治安が悪いので千葉県にあげます(東京都民)
#****都営新宿線の通る一帯だけは存在感が千葉県並み。
#****どっちもいらないなら[[茨城]]県にちょうだい(土浦市民)
#****申し訳無いが茨城県だけにはあげられない。他の県なら可。(練馬区民)
#*****その割に埼玉県と接してるのが新座市だけだが。
#******和光市と朝霞市にも接しています。
#***同じ23区の辺境でも練馬区は江戸川区と違って素朴な田舎のイメージだから悪くはない。
#*埼玉県新座市片山の一角に練馬区があるみたいですが・・・(埼玉県民)
#**練馬区西大泉町のことですか。数件住宅があるだけの小さな飛地ですな。(神奈川県民)
#***そこの飛び地の住民は、練馬区民から新座市民へ変わることを非常に嫌がっている。電話の市外局番は048の分際で!
#****練馬区と新座市で飛び地解消に向けて協議しているが、当の住人達が首を縦に振らない。まあ東京23区だと思ってたのが突然埼玉にされるのが納得いかないのは判る。
#*****いっそ相続とか譲渡の際に強制的に埼玉県に編入するしかないんじゃ?元々は不動産屋の登記ミスから始まった問題みたいだし。
#*****新座市池田に大泉学園町5丁目の一部が存在する。
#***驚いたことに、町内南側の畑が宅地になって一戸建てが6件建築中。世帯数が倍増するぞ。
#*埼玉と呼ばれる割には、板橋、北、足立、葛飾と比べると県境が若干東京側に引っ込んでる。
#*練馬は練馬。練馬県でも作ろうよ。
#*気候的には群馬県でもいい。埼玉なら熊谷。群馬県練馬市。
# 夜、住宅街に野良タヌキが出る(石神井公園に生息しているものと思われる)。
#*友達の猫が野良タヌキにやられました。(上石神井)
#*うちの学校に出没したらしい。(貫井)
#*うちの学校にも。(大泉学園)
#*友達の家の前に(上井草駅、練馬と杉並の区境付近)
#*池袋線は年に何度もタヌキが軌道侵入して衝突事故起こして帰宅時に遅延することがある。ほんとタヌキ多い。
#西側(石神井・大泉エリア)の住民は、東側とあからさまに文化圏が違うので、「練馬区」というイメージを嫌い、「石神井区」あるいは「大泉区」として独立しようともくろんでるが、立野町および関町の一部は、吉祥寺ブランドのある武蔵野市に併合されることを夢見ている。
#*ちなみにどこまでが練馬区だか分からない人が多い。また大泉の北部では地元の人でさえ迷う事がある。
#**石神井地区(特に上石神井地区)の住民でも青梅街道を越えれば(広く見ても千川上水辺りまで)武蔵野市だと思っている。
#**環八、笹目通りより池袋側が練馬エリア。それより所沢側が石神井・大泉エリア。
#**八坂小・中のあたりは都県境だからか、狭い道のずっと奥に突然行き止まりや階段が現れたりするので、不慣れな人は車なんかで絶対行かない方が良い。
#23区中、唯一JRの駅が無い。
#*世田谷区と目黒区がJRの駅がありません。間違えです。(目黒は山手がかすめているだけで駅がない)
#**意外や意外に、文京区もJRの駅が無い。
#**同じJR駅無し区なのに、このイメージの差はなんだろう?
#***やはり西武沿線=堤帝国=埼玉県練馬市
#***新宿線文化と池袋線文化がある。それぞれの始発駅に起因するようである。
#****どちらかというと、新宿線の方が優越を覚えているようである。
#*****池袋線のルーツが黄金列車だったり農業鉄道だったりするからだと思われる。
#*練馬区在住だが、俺も23区でJRがないのは練馬だけだと思っていた…
#**そんなことを言ったら世田谷目黒は五島王国だ。
#*しかし東急線には何となくおしゃれなイメージがあるのに対し、練馬区のメイン路線である西武線はイマイチ垢抜けてないイメージがあることに練馬区民はコンプレックスを抱いている。
#*相互直通も含めて、JRとつながっている路線がない唯一の区というなら正しいかもしれない(世田谷区は小田急が常磐線や御殿場線と直通しているので)
#23区で唯一首都高が通っていない。
#*[http://www.shutoko.jp/inquiry/qa/construction.html#q6 高速練馬線]がまったく未着手なせい。
#練馬区におけるカースト最高位は農家、次が漫画家、その次が自衛隊。ちなみに、最下位は政治家。
#*農家つっても大根ではなくてキャベツ。
#**農家のおじさん、おばさんと仲良くなると、収獲時期にタダで箱単位の収穫物をいただけるので有り難いし、食いきれないので嫁の実家や友人にあげて感謝される。もっとも、おやじさんたちは「大人の事情」で農業やっている人が多いからギブ・アンド・テイクっつー事で。
#南側の人間は北側にあまり行かない。行くとしても外環・関越に乗る時かT・ジョイに行く時ぐらい。
#大学は江古田のみに集中。
#*国立私立高校は超難関校が多い。(学芸大附属大泉、早大学院、武蔵)
#休日前は石神井公園でカーS○Xする。
#練馬変態クラブ。
#神奈川県民は、向山庭園の表示を向ヶ丘遊園と間違える。
#[[東武練馬]]駅は練馬区にはない。練馬区にあるのは南口の商店街である。
#[[ブロッコリー (企業)|ブロッコリー]]という会社がある。
#*昔は石神井公園駅前にでじこの巨大看板が立っていた。
#*練馬高野台の西友付近にも倉庫っぽい関連部署があるなぁ。
#『ね』にアクセントを込めて「『ね』りま」と呼ばれると、正しくは「ね『りま』」であると住民が怒る。
#*マジで怒ります。失礼な話です。
#世界征服の基礎は、まず練馬から。
#*春風高校は実在しない。
#**春風高校は練馬区ではなく板橋区の都立板橋高校。アニメータ友吹愛弓の出身校で、その実父が故春風亭柳昇。たわばのモデルとまとあきもOB。光画部も存在し、作中の校舎や部室棟は取材に基づいて描かれている。なお、永井豪がハレンチ学園のモデルにしたのも、同校であり、当然御大もOBである。
#謎のラップ集団「練マザファッカー」が存在する。テレビ番組「リンカーン」で取り上げられ一躍全国区に。
#*いいぜメ~ン
#*お前ディスってんの?
#*逮捕されたぜメ~ン
#**リーダーは足立区民でした。
#練馬区では、25年以上も前から「良い子のみなさん、'''6時(冬季は5時)になりました'''」のスピーカー放送が流れてるけど、数年前から「'''5時30分(冬季は4時30分)になりました'''」に変更された。
#*近くの小学校などから「夕焼け小焼け」が流れてきたら「お家に帰りましょう」。
#**夕暮れ時に突然物悲しいメロディと共に流れてきて怖かった記憶しかない。
#アニメ・漫画生産地。多くのアニメ制作会社や漫画家・アニメーターを擁する。
#*アニメや漫画の舞台として、度々練馬区が使われたりもする。
#*日本橋ヨヲコのバレー漫画『少女ファイト』の舞台は練馬をモチーフにしていて、明らかにとしまえんを意識した遊園地があったりして、主人公の名前なんてまさしく「練(ねり)」。
#*ドラえもん・島耕作・タッチ・うる星やつら・ど根性ガエル・GS美神・のだめカンタービレ・アイアムアヒーロー・女子高生etc。
#**また、設定は別の土地でも、漫画作者orアニメ制作会社のスタッフが近所の風景を写真にとって背景として起こした結果、練馬が舞台の作品っぽくなったりもする。
#*ド直球で、練馬大根ブラザーズ、臨死!!江古田ちゃん、なんてのもある。
#Mr.Children の桜井和寿氏は練馬区出身。貫井中学校卒。
#[[創価学会|ここ]]の勢力は極めて強い。至る所に[[公明党|あの政党]]のポスターが貼ってある。西に行くほど強くなる。
#*[[東京/北区|北区]]には負ける。
#区歌は「練馬美人」。
#*「愛は勝つ」で一世風靡したカンの「練馬美人」。
#区役所は総工費400億円の無駄使い。こんなに立派な建物建てる必要あった?600億円の文京区役所よりはましだけど。
#*何より無駄なのは、東京オリンピック招致のために作った映像(アニメ)である。練馬区出身の子が成長してオリンピックに出るという話だったが、うまくいくかは実力次第。
#日本橋ヨヲコのバレー漫画『少女ファイト』の舞台は練馬をモチーフにしていて、明らかにとしまえんを意識した遊園地があったりして、主人公の名前なんてまさしく「練(ねり)」。
#「練馬」の由来は、昔の野武士が馬を盗んできて、そこで飼った(馬を練る)から「練馬」らしい。だから練馬区は相当悲しい区。
#[[自衛隊|陸上自衛隊]]の朝霞駐屯地の住所は実は練馬区大泉学園町9丁目4。正門と司令部の部分しか練馬じゃないが、住所は司令部のある場所で決まってるのでこうなった。練馬駐屯地もあるので練馬区には駐屯地が二つあるということ。
#'''練馬名物股ぐら納豆'''!
#練馬ナンバーから杉並区が独立したのが練馬区民は内心気に入らないが、元はといえば練馬区自体も板橋区から独立を果たした区である。
#*そりゃ庶民の足が電車しかない時代に、石神井大泉あたりから板橋区役所までわざわざ行かれないよ。往復と用件で間違いなく丸1日つぶれる。
#*杉並ナンバーは明らかに「練馬」のイメージを嫌って独立したわけですから。
#**杉並ナンバーは杉並区民が外環道の出口建設に反対したので、別料金を徴収する為と練馬では囁かれてる。
#大泉町と土支田を和光市に押付ける条件で、豊島区との合併を目論む一派が存在すると聞く。
#*国内屈指の研究機関を擁する和光市に、市民の偏差値が下がるとの理由で拒否られ頓挫。
#今まで[[東京/世田谷区|世田谷区]]についで2番目に人口が多いことを誰も書き込んで居無い…。


===小竹向原===
==二地域以上==
#練馬区、板橋区の境(小竹向原駅は練馬区小竹町)。ちょっと歩けば豊島区に入るため、区で別けられると何処で話題にしていいか分からない。
===東北本線===
#*そもそも街自体に特徴が無く、話題になるものが少ない。
;1870年代
#*地下鉄はバンバン停車するのに、駅前には何も無い。ファストフード店・パチンコ店が駅周辺に1店舗もないのは、ここと隣の新桜台駅くらいじゃなかろうか。
#東海道本線と同時に開業。でも、東海道本線と接触はしないかも。
#**新桜台駅前には「らあめん花月」があるので、やっぱり何も無いのは小竹向原周辺だけ。
#*直接接続しようとすると東京市街地を地上で貫通する必要があるため起点は史実通り上野だったと思われる。
#**そんなことを言われたが、駅前にファミレスが一件、またスーパーが二件もある、ついでに徒歩3分以内にゴルフ場があるところ。
#やはり大宮はハブられる。
#新宿まで2駅(副都心線急行)なのに恐ろしく知名度が低い。家賃も安いからお得ではあるが。
#*高崎線開業時にやっぱり分岐駅として開業か?
#*急行or通勤急行を使うと、1駅目が池袋、2駅目が新宿、3駅目が渋谷。最高に便利に見える…いや実際便利だけど。とにかくパッとしない駅である。
#*高崎線がない状態での建設なら中山道沿いのルートなど端から通らないはず。つまり[[もし東北本線が○○を通っていたら#日光街道沿い|日光街道沿い]]に敷かれる。
#*某病院が近いのがイメージ悪いのかも?
#建設スピードは史実より遅い。
#*トンネルとトンネルの狭間にできたのが小竹向原駅だったので、これ以上駅前を賑やかにさせるのは不可能な仕様だというせいかもしれない。
#*当時金のなかった政府が自前で建設することになったと推定されるため。
#*おかげでタクシー乗り場はおろか、バス停すらない。タクシー乗りたければ近くの環八まで歩いた方がいいと思う。
#*利根川の渡がなくなる時期は変わらない。
#**環七の間違い。環八まで歩けるわけないだろ。
#最初の部分開業は上野~大宮辺りか。
#*本当に小竹向原駅は狭間で、周りは坂で覆われてる。狭間と言うよりくぼ地。
#*大宮ではなく岩槻を通っていたかもしれない。
#駅だけ見れば、有楽町線・副都心線・西武線方面の線路が分岐し、全営業列車が停車する扇の要。副都心線開業直後は、おかげで大混乱に。
#**と…なると県庁所在地は予定通り岩槻になっていたかもしれない。


===桜台・練馬===
===上越線===
[[画像:NerimaCity00.jpg|thumb|240px|南口駅前(千川通り)]]
;1900年代
#ドラえもんの舞台はここ。
#ルートは後閑駅付近から赤谷川沿いに進み三国峠で上越国境を越えるもの。
#*しかし、映画にのび太達のいる河原の上の鉄橋を小田急が通過していくシーンがあったので、小田急沿線かもしれない。
#*この場合水上温泉はあまり栄えなかった。
#**作品の都合上、必要な川(恐竜が住むほど大きな川)は練馬近辺にないから、そこだけ多摩川がモデル。タナ川。
#**代わりに猿ヶ京温泉が有名になっていた。
#*TVでは黄色い西武線と思われる電車が見れますけどね。
#*苗場にプリンスホテルは建設されていない。
#*アニメのドラえもんを作ってる制作プロダクションは田無にあって、西武新宿線から見える。
#沼田から先は壮絶な難工事になっていた。
#**シンエイ動画のことね。田無駅手前(西武柳沢方)、進行方向右側に見える青い建物がそれ。
#一部区間はラック式鉄道が採用され後に輸送のネックになる。
#*恐らく舞台は多摩地区一帯と思われる。小田急方面の景色に西武方面の雰囲気・鉄道、そして多摩全体のイメージ。
#*碓氷峠と同時期に改良されていたかもしれない。
#*ドラえもんの舞台は、石神井公園だ。TVで言ってた。駅前のビルなどが、漫画の通りに出来てる偶然もある。
#*後に清水トンネル経由の新線が開業するかも。
#*原作漫画の舞台は練馬が正解(野比家の住所は、東京都練馬区月見台すすきが原)。もっと言うと虫プロのある富士見台説が有力。ただし、ドラえもんは作者が川崎に引っ越した後の作品であり、自宅周辺である小田急沿線を思わせる描写もしているので、小田急沿線がモデルという指摘も間違いではない。
#**新清水トンネルが複線構造になっていた。湯檜曽駅・土合駅は上り線ホームもトンネルの中にある。
#**同様にアニメでは、制作のシンエイ動画が身近な田無付近の風景、建物を引用しているため、田無を思わせる描写もある。
#上越新幹線のルートは史実とあまり変わらない。
#**いや原作の方が小田急沿線じゃないの。「地下鉄をつくっちゃえ」によると「しん」とつく駅の隣が「みなみ」とつく駅でこれに該当するのが小田急ぐらいだから。
#川端康成『雪国』の書き出しが変わっている。
#もともと下谷にあった広徳寺がある。柳生十兵衛、福岡柳川藩の立花の殿様、近衛文麿の墓がある。
#*明治時代の技術で清水トンネルのような「国境の長いトンネル」はまず無理。
#練馬の乗降客数は池袋、所沢に次いで3番目に多い。桜台の乗降客数は3番目に少ない(1,2番は小手指以遠)。中村橋は各駅しか停まらない駅の中では一番乗降客数が多い。
#「上越線」という名称ではなかった。
#*練馬は西武有楽町線・大江戸線との連絡駅でもあるのだから、是非とも急行も停車させてほしいものだな…それとも、池袋~練馬の短距離乗車客を乗せないためにわざと通過させているのだろうか?
#*高崎線と合わせて「[[もしあの路線が本線だったら#高崎線・上越線|武越本線]]」かな。
#**快速と準急の本数も多いから良いのでは?豊島園と役所以外に「練馬駅」自体に用事ってある?
#**乗り換え。もっとも練馬駅周辺の人口は大したことないかもしれないけどね。
#**平成19年度版の西武鉄道の乗降客数で遂に練馬が所沢を抜いた。そして6月14日から練馬駅に通勤準急が停車開始。
#**区役所があるのに急行が止まらないので、かつての埼玉県で、大宮駅に喰われていた浦和駅のイメージとダブったものだが、大江戸線のおかげでちょっとだけ垢抜けた気がする。
#*練馬駅付近において、喫煙をしている輩を少なからず見かけるのは気のせいだろうか?埼玉の駅前よりも、スモーカーが多いような気がするんだけど。。
#*[[東京メトロ副都心線|副都心線]]のダイヤが乱れやすいのは、練馬駅に折り返し設備が無いのも原因の一つである。
#講談社「はじめの一歩」の鴨川ジムは設定上、川沿いで海近くなのだが、豊玉交差点や高架になる前の練馬駅ホームなど、練馬、桜台界隈を描写した背景が付近の描写として登場する。これは森川先生が桜台にマンションを持っているため。
#* 練馬駅線路沿いにある「斉田ボクシングジム」は、伊達英二所属だった仲代ジムの(見た目の)モデル。
#漫画タッチの和也が交通事故で死亡したのは練馬区役所近くの交差点。理由は作者あだち充の自宅に近いから。また、その他のあだち充作品にも練馬、富士見台近辺を思わせる描写が多い。ただし、上杉家や明青学園が練馬区にあると作中で明言されているわけではなく、明青学園の校舎、制服のモデルは練馬区外の高校のものらしい。
#*富士見台駅徒歩数分の団地の周辺に「あだちプロ」がある。伝聞によるとここはスタジオで自宅は別。


===中村橋・富士見台===
===東海道本線===
#中村橋では、毎年夏に阿波踊りが行われる。
;1840年代
#普通電車を中村橋で降りた瞬間、たいていは通過電車がかなりのスピードで通過していく。(複々線のため)
*この時代には各地で鉄道建設ラッシュでした。
#*ついでに言うと、約時速100キロで急行線の電車と緩行線の電車が併走し、駅に到着する寸前に抜かれる。
#日本の鉄道歴史が大きく変わっていたかもしれない。
#中村橋はAIC、桜台はGONZO、その他もう雲雀やら美峰やら、アニメ系の会社てんこ盛り。制作進行車がカット袋載せてグルグル回っている。進行はあまり寝ていないのでよく事故る。
#*というより定時法や新しい製鉄技術などの導入により日本史の流れ自体が激変している。
#西武線からは文字通り[[富士山]]が見える。
#京駅(現・京都駅)~草津駅から建設されていた。
#富士見台小からは、昔は富士山が見えたが、今はマンションのせいで半分しか見えない。
#*上方では公家や寺社辺りが猛反対しそうなので江戸から建設されていた気がする。
#練馬高野台・富士見台・中村橋の3駅で、一番乗車人数が多いのは中村橋(荻窪行きなどのバスの始発地点のため)。次は練馬高野台(新木場方面の始発電車が出るから。ただたんに座りたいだけ)。
#**徳川幕府主導なら駿府-江戸-日光間が最優先だろう。その後尾張・水戸・紀伊へと支線を敷く構想を考えていたと思われる。
#*練馬高野台には順天堂大学医学部付属練馬病院が駅前に在り、駅北口からホテルカデンツァ光が丘への無料直行バスが走るから日中は女性客(金持ちな中年の、おばさん)の利用が多い。
#***江戸-駿府間が後の東海道本線に、江戸-日光間は後の東北本線と日光線になっていた。
#のび太の家の住所「月見台」のモデルが富士見台。
#**当時の物流や人の流れを考慮するとまず東海道(江戸-京都・大坂)に建設していたのでは。
#ちばてつや、ちばあきおなどの、いわゆる「ちばファミリー」のお膝元であり、かつての虫プロのお膝元(こちらは正確に言うと富士見台ではないが、最寄り駅は富士見台だった)。
#ついでに、中山道本線も開業。
#*現在、東京キッズ(アニメーション制作会社)の社屋、べじふるセンター(青果市場)の付近にラドン温泉センター(健康ランド)があったが、閉鎖されてマンションになった。その壁面に、典型的なちばてつやの「オヤジキャラ」と、その背中を流す子供の絵が描かれていた。オヤジの背中には石けんの泡で「ラドン」と描かれていた。
#*当時の技術ではついでに開業できるほど楽に建設できたとは思えない。
#**その絵は、西武池袋線の駅広告看板や、地元バスのラッピング広告でも見かけることが出来たが、当然、今はもう見ることができない。
#横浜駅ではなく神奈川駅と名乗っていたかもしれない。
#**2008年解散。
#東海道新幹線のルートもかなり違う。
#昨今富士見台駅が「美味しくて安い焼肉屋さんがある駅」としてごくごく一部で脚光を浴びているとの噂。逆に言うとソレくらいしかめぼしいお店が富士見台駅にはないのだが。
#日本の開国相手がオランダではなくイギリスになっているのが前提条件。
#*富士見台の肉屋として、田中圭一「ペンと箸」では「エチゴヤ」が紹介されている http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/1980
#幕府?で鉄道導入を推進した人物が「超人的な先見の明の持ち主」として後世まで称えられる。
#*富士見台駅前にある「牛蔵」は電話やネット予約ができない店なので、朝から行列ができている。決して安くない高級肉を出すが「このグレードの肉がこの価格なら」という意味では安い。
#*当時アジアのどこにも鉄道はなく鉄道に乗ったことのある日本人も誰もいなかった。
#井川遥の生育地(原産地は墨田区)。
#*「日本の鉄道の父」と呼ばれている。
#南光スイミングの外壁には、変色するほど長い年月「祝・田島寧子 銀メダル」の垂れ幕が放置されていたが、女優転向宣言後、速攻で消えた。
#史実の中国(清)の鉄道草創期と同じように各方面から相当な反発を受ける。
#中村橋の住民は所得によって行くスーパーが完全に分けられている。
#*線路や停車場への破壊工作が発生していたかもしれない。
#人気声優でベテラン女優の玉川砂記子(たまがわ・さきこ)の出身地(中村3丁目)の最寄り駅。
#*[[ベタな鉄道忌避伝説の法則|ここ]]で言われている話が本当に存在したかもしれない。
#貫井図書館の品揃えの良さは異常。
#東京駅はなく江戸駅が存在した。
#*総蔵書数自体は大したことないが、練馬区立美術館と併設なため、図書館でもなかなか置いてない美術館の図録が充実してる。
#*新橋や丸ノ内ではなく日本橋辺りにできていたかもしれない。
#*歴史関係の本も多い。しかも吉川弘文館とかの高価な専門書が揃ってる。
#**町人地や大名屋敷が建て込んでいて建設不可かと。
#高架になる前の中村橋駅は2つのホームの間をわたる手段が踏切で、反対側のホームの電車に乗りたいのに踏切が閉まってるため、乗りたい電車を見送らねばならなかった。
#***ターミナル駅は史実の月島付近の新しい埋め立て地に建設していたと思われる。
#中村橋という橋が実際あったらしい。川は暗渠され碑的なものもとくにない。どちらかというと練馬駅に近い。
#荷物列車が運行されていたとすれば飛脚が大打撃を受けていた。
#中村公園前というバス亭は阿佐ヶ谷、荻窪発中村橋行のバスしかとまらない。
#*江戸など市中の飛脚はむしろ栄えていたのでは。
#中村公園の真ん中のシンボルツリーは登るとチクチクする葉だった。昔はもっとまがってたがある日落雷で倒れ、以後まっすぐになった。
#「徳川慶喜は日本初の鉄道ファン」という誤解が史実以上に広がっていたかもしれない(実際には被写体の対象にしていただけ)。
#昔みそというミソ会社がある。
#*そもそも別の人物が日本初の鉄道ファンと言われていた可能性の方が高そう。
#せんべい工場もあったはずだ。


===練馬高野台===
;1900年代
#石神井東小は環八のせいで少し敷地を削られた。
#=[[もし東西幹線が中山道ルートだったら|東西幹線が中山道ルートだった場合]]
#*そんなことはありません。削られたとしても、北校舎裏のほんのほんの1部のはずです。それと、練馬生まれの練馬育ちとして言っておきますが、練馬のことを馬鹿にするような発言は絶対にしないでください。まったくいい加減にしてください。練馬に悪いイメージがついてしまっては困ります。それにこの場は公共であるはず、特に、石神井公園でカーS○Ⅹするとか書いたあなた、このように誰でも見れるところにこのようなことは普通の人なら書かないはずです。
#静岡県などの有力者が出資した私鉄による建設。
#**ここがジョークサイトであることが通じない人間が増えたなぁ。
#*駅間距離が現実より短い。
#**ちゃんと「少し」って書いてありますけど。(by最初に書いた人)
#*静岡〜清水間は現在の静岡鉄道静岡清水線を通る。
#**書くならwiki文法を理解してからにして欲しいです。あとそんなことマジで考えたりするような真剣なサイトじゃないんで。(by1つ上に同じ人to↑↑↑へ)
#**当時の私鉄は国の代わりに鉄道の全国ネットワークを形成する役割を担っていたので史実通りのルートだったのでは。
#**石神井公園でカーS○Ⅹとは・・・J-SOXと同じような石神井公園の法律です。2009年3月開始
#私鉄時代は関西鉄道と仲が良かったかもしれない。
<!--#***ネタ殺しコメントアウトにしようと思ったけど、このコメントが面白くて消せない。-->
#*というか、史実の関西鉄道が「東海道鉄道」と名乗って、東海道に忠実な路線を敷いていたのかもしれない。
#**カーS○Xできるということは治安が良いというほめ言葉。治安の悪いところではとてもそんなことできない。
#区間は横浜市-名古屋付近。
#練馬高野台駅と石神井公園駅の間が坂になっているので、中村橋のように猛スピードで通過電車が過ぎていくことは少ない(練高~石神井間は、複線)
#全通からあまり経たないうちに国営化される。
#*あそこが複線のおかげで、石神井で、中央線のように交互発車している。
#*平成19年3月のダイヤ改訂から、下りは1本・上りは2本のホームになった。(高架化のため)
#練馬高野台駅の至近に順天堂練馬病院があるため、駅前には葬式の案内看板がほぼ毎日のように立つ。
#*日ごとに家名が違う葬儀の看板が立っているので、ごくたまに利用するような人にとっては印象最悪であろう。
#*葬式看板がよく立ってるのは近くに公営の斎場があるからで、病院が建つ前からの話。
#町名の由来は“東高野山”と呼ばれる長命寺から。「こうやだい」と呼ばれてもよかったが、当時足立区に「高野町」(こうやちょう)があったため「たかのだい」に。もし「こうやだい」だったら駅名に「練馬」とつける必要がなかったと思われ。
#*駅名については、国分寺線に「鷹の台」があったからだよ。
#石神井川沿いはきれいな桜が見れる。
#西武池袋線の駅の中で最も新しい。1994年に当初から4線高架駅として開業した。
#*当初は「東石神井」と名乗る予定であった。
#*この駅がなかった頃は富士見台まで歩く始末だった。
#**富士見台小出身だが、駅までの所要時間としては練高も富士見台も大差ない。ただ新しい駅のせいか狭い道に商店街という組み合わせがなく、交通量も少ないので遠足の時は安心して駅まで歩けた。
#練馬高野台の南口前の公園に異国人が集う。


===氷川台===
===智頭急行智頭線===
#[[東京/板橋区|板橋区]]との境に城北中央公園があるが、一部の敷地が細切れになっている。
;1960年代
#「最高気温 練馬で**℃」は、正久保橋あたりで計測しているという話を聞いたのですが、どうなんでしょう?
{{駅名標/西日本|name=因幡山形|ruby=いなばやまがた|back=やまさと|next=ちず|back2=Yamasato|roma=Inaba-Yamagata|next2=Chizu}}
#*正確には桜台陸橋近くの「武蔵大学」の敷地。 ここにアメダスの気象観測機器が在るから、高めの温度の記録を連発する。
#佐用駅では姫新線と線路がつながっていた。
#*気象庁発表によると北緯35度44.1分、東経139度40.1分  豊玉上 北新井公園の前か?
#開業時から急行や特急が多く運転された。
#ネリカンで名高い。
#何らかの形でキハ82が走ったかもしれない。
#駅周辺はスーパーが多いが、数で石神井公園駅周辺には負ける。
#特急の所要時間は現実より長い。
#*練馬区10店舗目の[[ライフコーポレーション|ライフ]]が2017年12月2日に開店する。
#*そのため現在は高速バスに苦戦している。
#**バス停から近いけど氷川台駅からライバル店よりも少し離れてるのが欠点。
#*それでも伊丹-鳥取の航空便は廃止されている。
#*JR化後は振り子式のキハ187系投入や一線スルー化などのテコ入れが実施されて、史実とほぼ同じレベルになる。但し、それにかかる費用は地元負担。
#21世紀に入って因美線智頭以南の廃止が噂される。
#「宮本武蔵」駅などできるわけがない。
#*恋山形駅は「因幡山形」、大原駅は「美作大原」と名乗っていた。


===平和台===
;1970年代
#[[野球場/旧本拠地#平和台野球場の噂|平和台球場]]があるのはここかな・・・と連想してしまう。
#鉄道公団の手によって、建設されていたので、高速化に対応できる設計になっていた。
#人と自転車の数に対して歩道が狭すぎる。(地下鉄出口付近)
#キハ181系気動車による特急「はくと」とキハ58系気動車・キハ65形気動車による急行「とっとり」が運行されていた。
#環八があるせいかヤマダ電機はじめ店舗が充実した。おかげで畑が激減。
#*特急「はくと」は米子までに運行されていた。
#*東京23区唯一のダイクマが存在する。([[ヤマダ電機]]に買収される前から存在)
#*のちに、特急「はくと」はキハ189系気動車で運行されていた。
#*JR化後に130km/h化対応工事などのテコ入れが実施されて、史実と同じレベルになるが、工事費用は地元負担。
#1972年or1975年に開業した際には、キハ181系気動車が史実よりも多く製造されていたかもしれない。
#*1975年開業の場合で製造されたキハ181系は、エンジン出力を440PSに落として屋根上ラジエーターを廃止し、保守性や信頼性を高めた1000番台車として製造されていた。
#1981年の神戸ポートアイランド博覧会と1990年の国際花と緑の博覧会が開催された際に、臨時列車が運行されていた。


===北町===
===赤穂線===
#東武練馬駅は板橋区にあるが、南口の商店街は北町にある。
;1930年代
#*この商店街こそが旧川越街道である。
#実質的に山陽本線の別線扱い。
#**板橋区と練馬区の区境辺りから延々と続いている。
#*かつては特急「富士」「櫻」「燕」なども通っていた。
#北町7丁目近辺は野タヌキが生息する地域がある。
#*むしろこっちが山陽本線になっていた。
#*1丁目(上板寄り)でも見かけました。
#**よって現実の上郡回りのルートは上郡線になっていた。
#*6/10北町7丁目で見かけました。
#***戦時中に金属供出によって単線化されていた。
#*7丁目2010頃親子のタヌキを見かけました。前後して、この地域は道路拡張のための工事が進捗。その後、姿を見なくなりました。2013現在は「電線を走るハクビシン」が話題です。以前のタヌキの話題があるため、誤認する方が多いようですが、撮影し分析した結果ハクビシンでした。
#山陽新幹線建設時にも赤穂経由が検討される。
#環8が全線開通し、交通量が少し増加。
#赤穂鉄道・西大寺鉄道は太平洋戦争開戦前に廃止される。
#北町4丁目の大部分は自衛隊の駐屯地である。
#史実の播州赤穂駅は「播磨赤穂」駅として開業していた。
#[[国際興業|国際興業バス]]の車庫がある。
#場合によっては複線化していた。
#*車庫の向かいに[[ドン・キホーテ]]が在る。
#*上記通り山陽本線の一部になっていたら当然。
#放火のメッカである。
#板橋区側から環八を走って、北町のドン・キホーテを右手に見ながら車で渡る晴れた日の「練馬北町陸橋」は富士山の絶景ポイントだ。地図を見ると、富士山までの直線上に石神井公園、多磨霊園、多摩カントリークラブ/よみうりランドが並んでいて遮蔽物がない。
#東武東上線南側に広がる比較的東西に長い町域なので、地区によって最寄り駅が異なる。
#*東武東上線の上板橋駅、東武練馬駅、下赤塚駅、東京メトロの平和台駅、地下鉄赤塚駅など。
#**東上線を最寄り駅とする住民は(特に医療面で)板橋区との結びつきが強い。
#***練馬区と板橋区の区民健康診断がどちらも自区だけでなく相互の区の医療機関で受診できることが典型例。
#****これは元々一つの区だったことも関係しているが、それ以上に隣の区の医療機関をかかりつけにしている住民が多いのが大きな理由らしい。


===田柄===
===野岩鉄道===
#区内で光が丘に次ぐ人口を擁する。と言っても、ただ住宅と畑だけがある街といっても過言ではない。買い物に行こうとするなら大抵の場合他のエリアまで出かけなければならいし、鉄道も通っておらず、かなり不便である。
;1890年代
#*昔は鉄道が通ってました! 田柄高校の敷地近くに啓志(ケーシー)駅が。 ここから自衛隊駐屯地の敷地を通って上板橋駅まで線路が有った。
#日本鉄道が日光線の延長で建設。
#昔は川が流れていた。
#*史実の日中線も含め宇都宮〜米沢が「野岩羽線」となる。
#*田柄川という名前で、北町や陸運支局の近くを流れて城北中央公園の辺りで石神井川に注いでいた。
#現実よりトンネルが少ない。
#*車が落っこちずに土手にはまったという話がある。
#上越線開通前は東京〜新潟の最短ルートとしても重宝された。
#*現在のグリーンベルト。
#[[郡山市]][[福島市]]が史実ほど発展していない。
#北町との境目付近にかけて、「ハッスル通り商店街」なる商店街が存在する。最初その看板を目にしたものはきっと驚愕するだろう。ちなみに、規模はそこそこであり、生活必需品の大体は手に入りそうだ。
#下野電気鉄道は存在しなかった。
#尾崎豊。
#*実は[[2ちゃんねる|ひろゆき]]が幼少時代に一時期住んでいた。
#この町が[[光が丘|光が丘公園]]に食い込んでいるせいで、地図で見ると光が丘公園が口を開けたモンスターか、スネ夫のシルエットみたいに見える。


===土支田===
===海峡線===
#昔は高松町であったが高松が存在していたため紛らわしいとのことから土支田が誕生したらしい。
;1970年代
#*会話の中で書き方を聞かれた場合、「土が支える田んぼ」・・・。
#札幌オリンピック開催中は臨時列車が運行されていた。
#*江戸時代からあったよ、土支田…。高松より地名としては歴史が古いと思ったけど。
#大阪や東京と北海道各地を結ぶ列車が多数運行されていた。
#[[都営地下鉄大江戸線]]が東所沢駅方面に延びると最初の駅が出来るのは、ここ。
#津軽線、江差線は複線化されていた。
#笹目通りジョナサン裏に『メゾン・ド・シーダ』と言うアパートが存在する。
#おそらく[[もし青函トンネルが○○だったら#在来線規格だったら|在来線規格だった]]
#土支田通りライフ南側に『ホーケイ小』と言う小学校が存在する。卒業生はひた隠しにする為、区内でも存在を知る者が極端に少ない。
#*松前線が現在まで存続し、代わりに江差線木古内以西は史実より早く廃止。
#*笹目通り沿いに在る歩道橋の名前は『豊渓(ほうけい)歩道橋』で過去に[[テレビ朝日]]のバラエティ番組で、さとう珠緒ちゃんがリポートしてた。
#北海道新幹線は凍結されたままか、札幌-(新)函館(北斗)間が先に開業。
#青函連絡船では洞爺丸型が延命され津軽丸型は登場しなかった。
#のちになって新幹線専用トンネルを建設する計画が出る。
#54年の洞爺丸の事故で建設が急がれたことになっている。このトンネル開通を想定して20系500代(極寒地仕様)が製造される。実際の500代は1000代,1000・2000代は2000・3000代となる。
#*12系500代・14系500代も新造車として登場。極寒地仕様に改造した車両は左形式の区分代となる。781系も約10年早く登場。485系1500代は存在せず。781系が東北より北を走る特急に使用される。


===上石神井・武蔵関===
;1990年代後半
[[画像:MusashisekiPark01.jpg|frame|麗らかな休日の午後(関公園にて)]]
#英仏海峡トンネルの注目度が高まっていた。
#住人が吉祥寺で遊ぶせいで飲食店の絶対数が少なすぎる。
#旅客列車は最初から特急のみだった。
#*客が少ないため、営業努力をして吉祥寺進出まで果たした名店(焼き鳥「翔太郎」お好み焼き「ばらえ亭」など)と、そうでない店の差が激しい。
#*785系に青函トンネル対応の新区分番台が誕生する。
#上石神井の道の狭さはどうしようもない。
#*E751系も乗り入れに対応していた。
#*早稲田高等学院の生徒の帰宅時間は大変。
#スシ24は登場せず、九州ブルトレや「出雲」用のオシ24が転用されていた。
#*バスのすれ違いが大変だね。
#*西武バスの運転手さんはガラ悪い。バッグ当たっただけで怒声。道狭いんだっての。
#武蔵関からは三鷹・吉祥寺・大泉学園・保谷・荻窪と周辺各駅へのバス便が充実。
#[[上智大学]]の石神井キャンパスがあるが、ほとんど知られてないと思われる。
#*四谷外語専門学校の石神井のキャンパスは神学部。で、普通の人には関係ないからと推測される。
#**上智の神の生徒であっても、よほど神学を学びたかったりとか、神父さまになりたいというような生徒でなければ、石神井に行かなくても四谷だけで卒業できるらしい。
#***神父になりたければすぐ傍にあるカトリック東京神学院に行くし。
#****2009年4月、統合により日本カトリック神学院東京キャンパスに改称。
#*イエズス会という小学生向けサッカーチームがある。
#**ふつうの上智の学生は一度も石神井キャンパスに行かなくても卒業できる。また、上智の石神井キャンパスは「裏上智」とか「影上智」などとみなされている。かつ、石神井キャンパスの塀には、黒いスプレーで「殺人舎」などと書かれていた(恐!)。恐らく、統●教会のようなカルト教団ではない「ふつうの」キリスト教でも、平成20年4月7日に発売された「AERA」誌の記事のように、聖職者による性虐待が行われていそうで何だか怖い(汗){{Long article L}}
#*上智の看板学部は、外英などではなく、無論ネ申である。
#引っ越してきて1年、未だに「武蔵丸関」に見えてしまう。
#西武新宿線から見える「東京女子学院」の看板(?)。エイプリルフール前夜に”東”の文字の上に”北”と書いた模造紙を貼り付けた輩がいたハズ。
#*1990年代前半まで、近所の石神井高校男子運動部員が、文化祭で「東京男子学院」という有志団体を作り、お笑いビデオを上映していたのだが、オープニングでは”女”の文字の上に”男”と書いた模造紙を貼り付けるのが恒例だった。
#東京に越してきたばかりの頃、「上石神井」と「上井草」を間違えて家に帰り着けず涙目になった記憶がある。
#上石神井駅前のケータイの店は何故かいっつもジブリ映画を放送している。
#武蔵関のバス通りに「いっこう」という店があるがオカマバーではないらしい。
#西武新宿線沿線住民は、区役所をはじめとする区の中枢機能に縁遠い。


===関町南・立野町===
===瀬戸大橋線===
[[画像:Todo116-01.jpg|frame|街並み(吉祥寺通り)]]
;1960年代
#[[武蔵野市]]練馬区。
#特急「富士」、準急「砂丘」が四国に乗り入れていた。
#*完全に吉祥寺圏。住人はバスや自転車で吉祥寺に買い物に行き、不動産業者は「吉祥寺に近い!」というのを宣伝文句にしている。練馬駅周辺に行くのは区役所に手続に行く時くらい。
#*準急「鷲羽」も高松発着となっていた。
#**立野町の住人は住んでいる場所を聞かれると「吉祥寺です」と即答する。
#四国新幹線の用地が確保されていたかは微妙。
#**練馬には行きません。石神井支庁で十分です。
#*「現行の瀬戸大橋が老朽化した段階で新幹線対応の新瀬戸大橋を造ろう」という運動があったかもしれない。
#***関出張所じゃなくって?
#東京と高知、松山を結ぶ寝台特急が運行されていた。
#**吉祥寺に行きませんが。。。
#*ムーンライト松山、高知の先祖に当たる夜行普通列車も存在した。
#***吉祥寺にしか行きませんが。。。
#*「土佐」「いよ」が上記寝台特急の列車名に。急行「土佐・いよ」は別の列車名に。
#**練馬区役所には[[西武バス|バ]]<!--か-->[[関東バス|ス]]と[[西武池袋線|電車]]を乗り継がないと行けないけど、武蔵野市役所は自転車で行ける。
#**おそらく気動車急行の方は「うらと」「いしづち」を名乗っていたと思われる。
#**「吉祥寺」という名前をつけたアパート・マンションがやたら多い。完全に魂を売り渡している。
#*当初は20系で登場し、1972年3月に「さくら」・「みずほ」とともに14系に置き換えられた。
#*[[吉祥寺]]の高家賃に泣いた上京民が吉祥寺の空気を吸いながら暮らすには丁度いい場所。
#121系は瀬戸大橋乗り入れ可能な規格で作られていた。
#**23区内なのに都下武蔵野市の人気にあやかろうとするところが切ない。
#玉野市は岡山市に吸収されたか。
#***ポジティブな住民は「吉祥寺をホームタウンとしているのに23区内を名乗れる」と優越感を持っている。
#瀬戸中央自動車道は国道扱いか。
#**吉祥寺への距離が少なからず影響しているのだろうか、どちらも南口の方が家賃・地価が高い。
#建設資金の調達方法が郵便貯金ではなく世界銀行の融資という形で行われていたかもしれない。
#***確かに高いね。
#下津井電鉄が国鉄に買収された。
#*「ちょっと出てくる」と言ったら吉祥寺。区役所がある方([[西武池袋線|池袋線]]沿線)へ行く時は「練馬行ってくる」。
#*されない。江若鉄道同様廃線→一部の用地が流用される程度だと思う。
#青梅街道沿いの某中華料理店のあんかけチャーハンは熱狂的ファンがいる。
#*少なくとも児島駅の位置は変わる。
#*自分はあれは苦手だ…。
#四国の電化が早まった。
#*梁山泊だね。
#*最初に投入されたローカル車両は新車ではなくモハ70形・モハ80形が転用されて来た。
#最近生協が新しくなった。
#そろそろ橋の老朽化が問題に挙がってくる頃だと思われる。
#*何故か入り口を一個塞いだ。
#宇高連絡船の廃止時期が早まっていたのは言うまでもない。
#*昔はUFJ(大和)銀行のATMがあったのにいつの間にか取っ払ってしまった。
#*伊予丸型は建造されなかった。
#最近、立野町交差点(武蔵野との区境)の信号のパターンが変わってコケる。
#茶屋町〜宇野はクモハ42あたりの単行運転になった。
#ポストに入っている広告の5割が武蔵野、2割が三鷹、2割が杉並、1割が練馬。
#環境問題が深刻化する前のことなので工事による瀬戸内海の生態系への打撃が史実以上に。
#関西でいう[[明石駅]]を最寄とする[[神戸市/西区|神戸市西区]]玉津町・伊川谷町みたいな感じ。
#「紫雲丸事故」で建設が急がれた、とされる。宇野線岡山-茶屋町間は1970年代までに完全複線化。
#雨の日は吉祥寺通りを吉祥寺に向かうバスが快速化する。
#岡山-高松間を結ぶ快速に、サロ110連結の岡山区113系が使用される。'90年頃に221系(岡山駅基準・下関方先頭車がクロ221、大型の前面窓・ハイデッキ仕様のグリーン車)が岡山区に配置され、113系サロ110連結編成を置き換えた。


==練馬と農業==
;1970年代前半
#23区内で唯一牧場がある。さらに農地面積が23区内で最大。
#宇高連絡船の廃止が早まったのは言うまでも無く。
#*補足すれば、練馬区には葡萄園もあって、夏には[[果物#ブドウ|ブドウ]]の直売をやってる(上石神井)。
#*宇野線茶屋町~宇野間の列車の多くは単行運転に。
#**僕の友達の家です。
#*伊予丸型は建造されず、紫雲丸型を修繕しながら廃止まで使い続けていた。
#*ブルーベリー狩りもできる。(春日町)
#「紫雲丸事故」を契機に建設開始された、と語られる。
#*春日町にも葡萄園がある。でも夏はやってなく、秋から営業。
#*宇野線岡山~茶屋町間は瀬戸大橋線開通から間もない頃に完全複線化。
#*牧場っていっても牛が一匹しかいないような…
#四国の電化が早まった。
#**大泉かどっかにある、社会科見学用の牧場だっけ?
#*電化当初の四国ローカル運用に80系が使用され、国鉄末期に下記の121系に置き換え。
#***社会見学用かわからないけど場所は大泉。昔練馬の小学生に配られる練馬の歴史の小冊子に「練馬の牧場」として載っていた。(元練馬の小学生)
#*121系は瀬戸大橋線乗り入れ可能な規格で製作された。
#***小泉牧場じゃないか?(by練馬のはじっこ)
#*予讃本線高松~松山間は瀬戸大橋開通と同時期に電化、'90年代に8000系に置き換わるまで181系が電化区間(瀬戸大橋線直通も含む)の特急に使用されていた。
#****小泉牧場の横通ると臭いが酷い
#**場合によってはキハ181系の製作数が史実より少なかった。
#*****新座市まで臭ってきます。助けてください(by新座市民)
#**電化区間の急行には山陽新幹線岡山開業で転用された153系が使用された。
#******池田のベルク近辺で臭うなら、それは近所の豚小屋が原因です。同じ市内なので自己解決して下さい。
#四国新幹線の用地は確保されたかどうか。
#特産品は練馬[[野菜#大根|大根]]、しかし実際はほとんど栽培されておらず、[[野菜#キャベツ|キャベツ]]の生産量の方が圧倒的。
#「土佐」「いよ」が東京発高知・松山行きの寝台特急の列車名に。急行「土佐」「いよ」は別の名称になる。
#*[http://www.excite.co.jp/News/bit/00091097562594.html 今はキャベツも練馬のご自慢らしい]。
#*おそらく「浦戸」「いしづち」になっていたと思われる。
#*漫画家も忘れずに。。。
#瀬戸中央自動車道は国道扱いか。
#*春日町に練馬大根碑があるぞ
#岡山区にサロ111が転入し、岡山~高松間の快速(8・12両編成)に連結された。
#*練馬大根焼酎なるものがあるらしい
#*1990年頃に221系が岡山区に新製配置、上記113系グリーン車連結編成を置き換えた(岡山駅基準・下関方面の先頭車が大型の前面窓・ハイデッキ構造のグリーン車クロ221)。
#**練馬大根は沢庵がうまい(らしい)。かの徳川将軍家の一人が病気になった時、練馬大根の沢庵を食べて善くなったとか。
#下津井電鉄の鉄道事業撤退が早まった。
#*都内のキャベツの半分は練馬産。
#高徳本線、土讃本線(多度津~高知間)は電化されただろうか。
#農業生産高は23区で最高。
#*まあ、1970年代までは練馬区内では農地が多かったけど、今では(農地が)どんどん減少しているのがちょっとね…。(by.昔からの練馬区民)
#「土日は地元練馬区産の小麦だけで打ったうどんしか出さない」をウリにしているうどん屋が存在する。
#*中屋敷のことか?
#**いや、たぶん「本手打うどん房 エン座」のことだろう。
#*しかし、歴史ある最近復活した、ご近所・東久留米の「柳窪小麦」があり、ブランドという面ではイマイチである
#「東京都民ども、農業をなめるな!キャベツの値段上げるぞ!」この瞬間自分たちが東京都民であることを忘れる。
#*バブル期に土地を売り、大金持ちになった農家が多いためと思われる。
#[[中央快速線|中央線]]民(特に[[吉祥寺]]民)にとっては「都民農園セコニック」というキャッチーな行き先のイメージで練馬=明るい農村と思われている。
#*その「都民農園セコニック」は実は埼玉県新座市にある。
#**手前の「都民農園」というバス停は練馬。
#*その前に「都民農園」って何?
#マツコデラックスには何もない街だと言っている。


[[Category:練馬区|*]]
===関門鉄道トンネル===
;1930年代
#昭和恐慌における失業対策として、着工されていた。
#史実通りに、単線で開業していた可能性が高い。
#*のちに、追加という形で、上り線トンネルが開業していた。
#遅くても、1935年に下り線トンネルが開業し、1937年に上り線トンネルが開業していた。
 
;1950年代
#特急「かもめ」と特急「あさかぜ」の運行がずれ込んでいたかもしれない。
#*開業と同時に運行が開始されていた。
#最初から、複線で開業されていた。
#1950年代後半の開通ならトンネルの西側は最初から交流電化になっていた。EF30形の登場も史実より早かった。
 
==北海道==
===石北本線(上川-遠軽)===
;1980年代
#石勝線のように高規格路線として建設された。
#*一部区間は特急しか走っていないところも類似していた。
#**上川-遠軽間かな
#遠軽でのスイッチバックは何とかして回避していた。
#池田-北見-網走は今も「網走本線」を名乗っている。
#*名寄本線は「名寄-紋別-中湧別-佐呂間-網走」の区間。
#*網走本線は北見-網走のおかげで現在も全線がJRに属している。
#**しかし、北見以南に廃止論議が勃発するのは史実通り。
#*北見-遠軽-湧別は上川-遠軽間の開業まで「湧別線」というローカル線だった。
#開業まで特急オホーツクは名寄本線経由だった。
#「石北'''本'''線」ではなく「石北線」だった可能性が高い。
 
===石勝線===
;昭和10年代
#建設理由に対ソ戦対策も含まれていた。
#建設にあたり朝鮮人などの労働者が酷使された。
#*後に複数の慰霊碑が建てられた。
#*トンネルに「幽霊が出る」などと噂されたり、韓国が謝罪と賠償を要求するなど何かと曰く付きの路線になっていた。
#煤煙対策のため史実ほど長いトンネルはない。
#*その代わり一部区間に急カーブや急勾配などが生じていた。
#*JR化後に高速化改良されたと思われるが現実ほど高速運転できなかった。
#開業時点で根室本線は「千歳-新得-釧路-根室」に変更された。
#*滝川-富良野-新得には「芦別線」という別の線名が付けられた。
#**夕張線(紅葉山~夕張)は特定地方交通線に指定され廃止されていた。
#***紅葉山駅は廃止後、新夕張ではなく「夕張市」を名乗っていたかも。
#***1980年代ならまだ大丈夫だと思うが、2010年代には史実同様廃止が議論されるようになっていた。
#*国道38号も札幌~十勝清水~釧路のルートだった。
#**北海道最長国道は国道38号だった。
#**国道274号は滝川~帯広間の国道となっていた。
#*登川駅からそのまま東へ延伸する形になっていた。
#*南千歳駅は開業せず史実の南千歳駅の場所に南千歳信号場が千歳線空港支線開業と同時に設置された。
#*準急→急行「夕張」の走行ルートは「札幌-千歳-紅葉山-夕張」だった。
#**史実より(夕張~追分から)札幌まで短時間で行けるので1972年以降も存続する。
#***夕鉄バス札幌急行線との競争や千歳市民・広島町民からの要望によりくるくる電車ポプラ号登場のタイミングで札幌~千歳間快速・以遠普通に格下げ。
#***同時に大幅に本数増加するが千歳以遠の実質的な本数は変わらず。
#***1997年3月改正までキハ56系を使用、以降運転区間短縮があったがキハ201系を使用。
#***場合によっては千歳~追分間が札幌の通勤圏に入ったかも。
#***キハ40系・キハ54・キハ150も代走・送り込みで快速「夕張」を含む仕業に入った。
#***キハ201系は製作コストを減らすため途中から車体傾斜機能なしで増備・別区分番代となった。
#開業当初は現実の信号場も全て駅だった。
#*しかし沿線の過疎化により廃駅が続出。
#*仮乗降場扱いの駅も多い。
#占冠駅は富内線との合流を想定した構造になっていた。
#追分〜紅葉山(新夕張)間が単線化されず複線のままだった。
 
===札幌市営地下鉄東西線(琴似-宮の沢)===
;1980年代
#早くても、1985年頃に開業していた。もしくは、遅くても、1988年に開業していた。
#*1990年頃に開業していた可能性もある。
#6000形電車が史実よりも多く増備されていた。
#1999年2月に東豊線の福住~清田間が開業していた。
#*その場合、7000形電車が史実よりも多く増備されていた。
#*6両編成で運行されていた。
#*栄町駅付近か清田駅付近か福住駅付近に車両基地ができていたかもしれない。
#*札幌ドームが開業した2001年に開業していた可能性もあり得る。
#8000形電車の登場は史実通り。
#*その代わりに、史実よりも遅れて投入されていたかもしれない。(2001年辺りに)
 
====東札幌-新さっぽろ====
;1990年代
#当初の予定通り千歳線旧線沿いに高架線を建設していた。
#*南北線南平岸駅 - 真駒内駅間のようにシェルターで覆うかは微妙なところ。
#建設費節約のためにホームは8両ぶんしかない。
 
==東北==
===南部縦貫鉄道===
;大正時代
#開業当初は「七戸鉄道」と名乗った。
#*後に戦時統合で史実の南部鉄道や十和田観光電鉄とともに「南部交通」に統合され「南部交通七戸線」となる。
#建設目的は普通に「東北線と七戸町の連絡」。
#*農産物の輸送も行われた。
#*後に沿線で産出される砂鉄の輸送も行われた(史実でも計画されていたが頓挫)。
#多分電化はされていない。
#七戸駅は町の中心近くに設置。
 
===三陸鉄道===
;1960年代
#建設開始は1933年の昭和三陸津波の後。
#*太平洋戦争により一時工事がストップしていた。
#当然ながら国鉄線として開業している。
#一部区間は現実よりカーブなどが多い。
#開通した頃は急行が走っていた。
#*列車名は「さんりく」、運転区間は仙台-気仙沼-宮古-八戸。
#連続テレビ小説『あまちゃん』のストーリーが史実とやや異なっている。
 
===仙石線===
;1910年代
#軌道法に準拠して建設された。
#*仙台駅付近が併用軌道だった。
#**後に高架化もしくは地下化される。
#*戦時買収を免れていたかもしれない。
#**この場合宮城電鉄が戦時統合の核になっていた。
#石巻-女川も自力で建設していた。
#仙台市電との直通も検討される。
#*というより「宮城電鉄市内線」として建設された可能性もある。
#国に買収されなかった場合塩釜線は現存している。
#松島にそこそこ大きな遊園地ができていた。
 
===気仙沼線===
;1980年代
#隣県の三陸鉄道に刺激され第三セクターで開業。
#旧国名の付いた駅は現実より少ない。
#震災までは独自のサービスで人気を博していた。
#*「フカヒレ列車」などというものが走っていた。
#*大谷海岸駅は海の家と一体化されていた。
#震災の被害により一時は廃止も検討された。
#*むしろ南リアス線と同じ時期に復旧していたのでは?
#**大船渡~気仙沼間も鉄路で復旧していた(この場合宮城方の三セクになるのかやっぱ三陸鉄道になるのか…)
#**史実通り事実上の廃止に追い込まれていたら、「岩手県は三陸鉄道を復旧させたのに宮城県は…」と言われていた。
 
===仙台市営地下鉄東西線===
;2000年代
史実では2015年12月に開業。
#遅くても、2008年12月に開業していた。
#*場合によって、2009年頃にずれ込んでいたかもしれない。
#東日本大震災が起きた時は被害を受けていた。
 
===仙台空港鉄道===
;1990年代
#仙台空港新旅客ターミナルが全面完成した1997年(あるいは前年)に開業。
#開業当初の自社保有車両は701系1000番代の同型車である。ワンマン運転は2両編成の列車のみ。3両編成以上の列車は原則車掌乗務。
#*417・455・457・719系の乗り入れも考慮された。
#大株主に[[名古屋鉄道|名鉄]],そのグループの[[宮城の交通#宮城交通|宮交]]が。
#*[[Wikipedia:ja:仙台空港民営化|仙台空港民営化]]を機に、[[東急電鉄|東急]]へ名鉄グループ保有分の株がすべて譲渡(=名鉄グループ離脱、東急グループ加入)される。
#*直通相手はJRではなく仙台市営地下鉄になっていたかもしれない。
 
;2001年
#同年の「新世紀・みやぎ国体」,翌年の「FIFAワールドカップ」開催を機に開業。
#2000年に開業した可能性が。
#開業当初の自社保有車両は701系1500番代基本の都市型ワンマン運転対応車両である。JR側も同型車を導入する。
#「宮城国体」「FIFA W杯」の際,宮城スタジアムへの利便性向上の為,臨時列車で仙台空港-利府間に直通臨時列車を多数運行した。
 
==東海==
===伊豆急行===
;昭和10年代
#建設の動機は伊豆半島の要塞化。
#伊東線の延長として建設された。
#*線名は「伊豆線」。
#1950年代から優等列車が乗り入れるようになった。
#史実の伊豆急下田駅は「伊豆下田駅」と名乗っている。
#現実ほどトンネルは多くない。
#当然国鉄線としての建設で、現在はJR東日本。
 
===伊勢鉄道===
;1910年代
#参宮鉄道時代から計画はあった。
#*だが着工は国有化後。
#東京などと伊勢神宮の短絡が主目的。
#開通したとたん参宮線の一部に。
#*亀山~津は「亀山支線」として扱われる。
#*なお現在は紀勢本線の一部。
#現在の近鉄鈴鹿線はこの路線の鈴鹿駅に乗り入れていた。
#寝台特急「紀伊」もこのルートを通っていた。
#*所要時間が短かすぎて始発・終着が不便な時間帯になってしまうのでそれはない。
#**普通に紀伊勝浦か新宮で長時間停車していたんじゃないの?別にすぐに下りなきゃいけないとは書いてない訳だし。
 
===近鉄鳥羽線===
;1930年代
#「志摩電気鉄道山田線」として開業。
#*この場合志摩電気鉄道は参宮急行電鉄に買収されていた。
#**標準軌への改軌が史実よりかなり早まっている。
#計画時期によっては宇治山田駅は最初から通過可能の構造になっていた。
#朝熊駅では朝熊山ケーブルカーと接続している。
#*ケーブルカーは戦後復活を果たしていた。
#賢島方面の観光開発は更に進んでいる。
#国鉄参宮線の伊勢市~鳥羽は1960~70年代に廃止されていたかも(史実でも赤字83線に選定されていた)。
#線形は現実よりも悪かったかもしれない。
#*確実に踏切が存在した。
#遅くても難波線開業までに大阪線・名古屋線は全線複線化(宇治山田-鳥羽間の建設・鳥羽-賢島間の改軌費用が回るため)。青山峠区間は(工期短縮が優先)単線並列方式で複線化。そのため上下線の所要時間が異なる。難波線開業の翌年に発生した衝突事故はない。
#*旧東青山駅を経由する線形の悪いルートになるため、アーバンライナーや伊勢志摩ライナーは振り子式車両で製造され、ひのとりは車体傾斜装置を取り付けて製造されていた。
 
===愛知環状鉄道===
;1920年代
#岡崎市街地や挙母町、瀬戸と東海道本線を結ぶための路線。
#*貨物列車を名古屋市街地に入れないことも意識されている。
#中岡崎駅が「岡崎駅」を名乗っていた。
#*東海道本線の岡崎駅は「南岡崎」か「岡崎口」に改名された。
#戦時中に空襲時の迂回路として城北線に相当する区間も建設される。
#現在もJRの路線だったかもしれない。
#*最初から多治見ではなく高蔵寺を目指していたのであれば路線名は「挙母線」になっていた。
#*当初の予定通り貨物輸送も頻繁に行われていた。
#名鉄挙母線は存在しなかった。
 
;1940年代
#名古屋の空襲に備えて勝川-稲沢も城北線として同時に建設。三河鉄道上挙母-大樹寺-岡崎駅前間は不要不急路線に指定され休止される。
#「挙母線」が路線名になる。
#多治見・高蔵寺ではなく神領が終点になる。
#*その為、中央(西)線の快速は高蔵寺ではなく神領に止まる。
#*瀬戸~多治見間の建設計画も出るが着工されない。
#**多分非電化。
#1970年代に、全線にわたり複線化と電化が行われた。
#*上の城北線も同時期に。
#*その為、名古屋を迂回するバイパスルートとして、挙母線と城北線の建設効果を十分発揮した。
#*[[愛知万博|愛・地球博]]の観客輸送で活躍している。
#現在は城北線も含めJRの路線に。
 
===名鉄羽島線===
;1964年
#「夢の超特急」との連絡線ということで開業時は大々的にPRされた。
#*新岐阜からの直通特急が設定されていた。
#この路線の建設に関しても大野伴睦が絡んだ噂がささやかれる。
#現在は結局現実と大きな差はない。
#*ただし新羽島駅の駅舎はもっと古い。
#**地平ホームの1面2線になっていた。
#どのみち竹鼻線の江吉良以南は廃止される。
#一部で国鉄による買収が噂されるも実現せず現在に至ると思われる。
 
===名鉄豊田線===
;1930年代
#三河鉄道の経営状態が良ければ着工できた。
#八事以西が名古屋市電八事線になることはなかった。
#*軌道廃止後に地下線で伏見か栄に乗り入れる。
#**あるいは神宮前に延伸され[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]と接続していた。
#踏切がある代わりに加算運賃が存在しない。
#*トンネルも現実より少なく、一部のルートが現実と異なっている。
#[[名古屋市営地下鉄鶴舞線|地下鉄鶴舞線]]は存在しないか八事止まり。
#特急が運転され名古屋〜豊田を30分以内で結んでいた。
 
===名鉄豊川線===
;1920年代
#飯田線国有化前なので豊川駅に乗り入れていたかもしれない。
#名鉄小坂井支線はなかった。
 
===名古屋市営地下鉄上飯田線===
;1980年代
#新栄町駅まで開業していた。
#*名古屋市営地下鉄桜通線の高岳駅が連絡できるように移転されていた。
#*市役所経由で金山まで開業していた可能性もあり得る。
#名古屋市交通局7000形電車は、3000形電車をベースに製造されていた。
#名鉄小牧線は小牧~犬山間も複線化されていた。
 
;1990年代
#早くても、1991年頃に開業していた。
#*新栄町駅まで開業していたかもしれない。
#*名古屋市営地下鉄桜通線の高岳駅が連絡できるように移転されていた。
#*もしかしたら、丸田町の先である矢場町or金山or鶴舞orささしまライブまで延伸していた可能性もある。
#7000形電車が史実よりも早く登場し、製造数も史実よりも多くなっていた。
#間内駅付近に車庫ができていた。
#桃花台新交通桃花台線が廃止されることはなかった。
#運行本数が史実よりも多くなっていた。
#2004年には東部線(ささしまライブ~高針橋)が開業していたかもしれない。
#*グローバルゲートを含むささしまライブ24地区の再開発事業が史実よりも進んでいた。
#**中京テレビの移転も史実よりも早まっていた。
#*その際に、上飯田線は2003年頃に丸田町まで延伸していた。
#名鉄300系電車は100系電車、200系電車と同じのタイプの車両に製造されていた。
#*3300系電車(2代目)が投入されることはなかった。
 
;2001年
#間内駅付近に車庫ができていた。
#それ以外で、史実とあまり変わらなかった。
 
===名古屋市営地下鉄桜通線===
====野並~徳重====
;1990年代
#6両編成で運行されていたかもしれない。
#緑区における宅地開発が史実よりも進んでいた。
#2011年に徳重~豊明北間が開業していた可能性もあり得る。
#*もしくは、野並~徳重~豊明北間として開業し、車庫は当初の計画通りに豊明北駅付近に車庫ができていた。
 
;2000年代
*史実では、2011年3月に開業しました。
#2005年に開業した場合、開催されていた愛知万博に合わせての開業であった。
#開業記念イベントが実際に行われていた。(史実では、東日本大震災の影響により、中止となった。)
#その後も、延伸計画が実施されていたかどうかは怪しい。
#無論、6050形電車の登場が史実よりも早まっていた。
 
====中村区役所~今池====
;1970年頃
#国鉄(当時)名古屋駅付近は,地下街「エスカ」「ユニモール」と一体で建設された。車両の大きさは,東山線・名城線(・名港線)と同じ。
#*市電中村線は2年程早く廃止される。
#**その為桜通線は稲葉地~今池間が最初の開通区間に。
#*中村公園駅に,東山線との連絡線も同時に建設。
#*稲葉地付近に車庫が建設される(大規模な検査は中村公園駅の連絡線経由で回送の上,東山線藤が丘工場で実施)。
#現実より建設費が安く,市の財政状況が少し良くなる。現実より浅い場所を通る。
 
===名鉄知多新線===
;1930年代
#常滑か河和から延伸していた形で開業していた。
 
;1970年代
#沿線の宅地造成が史実よりも進んでいた。
#*小野浦駅が開業していた可能性が高い。
#名鉄による観光開発が史実よりも進んでいたかもしれない。
#*南知多ビーチランドと内海フォレストパークの開園が史実よりも早まっていたかもしれない。
#*8800系電車の登場が若干早まっていたかもしれない。
 
===名古屋市営地下鉄名城線===
====新瑞橋-大曽根====
;1980年頃
#[[ナゴヤドーム]]ではなく瑞穂公園に大規模な車庫が建設される。'70年代後半に,2000形(3000形同様の,電機子チョッパ制御・スキンステンレス車両)が名城線に導入される。史実の2000形相当の車両は,2050形を名乗る。
#*2000形は当初から冷房付き。2010年代後半にN2000形(N1000形ベースの名城・名港線用車両)に置き換わる。名城線の6連化は早まる。
#総合リハビリセンター駅は当初の計画通りに清水ヶ岡駅と名乗っていた。
 
===名古屋市営地下鉄鶴舞線===
====上小田井-庄内緑地公園====
;1985年頃
#市交通局3000形・名鉄100系は、1990年頃までにすべて6両化される(従来編成に中間車両を挿入)。その代わり、名鉄100系4+4両編成は存在しない。
#*市交通局3000形・名鉄100系の製造数が史実以上に。
#史実より、1980年代後半の鶴舞線・名鉄犬山線・名鉄豊田線の混雑を緩和している。名鉄犬山線・豊田線の宅地化が、(バブル景気の頃)史実以上に進む。
 
====伏見-八事====
;1970年代前半
#開業当初の車両は300形を20m車・片側4扉・直流1500V架線集電方式に変更した車両。ただ、抵抗制御車両で、当初は非冷房で登場した。
#八事~赤池間の延伸も早かった、名鉄豊田新線(当時)も同時期に開通している。
 
===桃花台新交通===
;1980年
#8月の入居開始までに開業。
#1990年頃に高蔵寺まで延伸される。
#桃花台ニュータウンと小牧市の人口が史実以上に多かった。
#名鉄、日本車輌、三井物産(日車と物産はVONAを共同開発)が主要株主に。
 
===名古屋市営地下鉄東山線===
====名古屋-栄町====
;1930年代
#=「名古屋地下鉄道」が実現していたらである。
#当初の車両は木目調の内装だった。
#*車体は流石に全鋼製車体。
#建築限界の規格は史実より大きい。
#*ホームの長さも8両編成ぐらいまで対応していた。
 
===遠州鉄道奥山線===
;1940年代前半
#遠州電気鉄道(遠電)の三方原線として建設された。
#*当初は非電化・1067mm軌間で省線との直通が考慮された。
#**陸軍飛行学校への引き込み線が存在した。
 
==甲信越・北陸==
===北越急行ほくほく線===
;1970年代
#「南北戦争」と呼ばれる地元でのルート争いがなかったのが前提。
#現実ほど高規格ではない。
#*美佐島駅があそこまで堅牢な構造になる事は無かった。
#*ただ、貨物列車の走行に対応した構造になっていた。
#駅名はそこまで奇抜ではない。
#*増田駅(史実のくびき駅)の駅舎も。
#*時期次第では武蔵野線に「武蔵新座」駅ができていた。
#**酷い場合はそちらが「にいざ駅」になっていたかも…
#この路線の開業時から上越新幹線開業まで上野-金沢の「はくたか」が通っていた。
#*新幹線開業後は越後湯沢-金沢だけ存続。
#**北陸新幹線開業後はさすがに廃止か。
#「電車でGO!」には登場しなかった。
#特急「かがやき」は誕生せず。
#*いや、むしろ特急「きらめき」が「かがやき」と名乗っていた可能性がある。
#**「きらめき」は現在、九州の特急列車だから被らなくて済んだだろう。
#急行「よねやま」が柏崎発着に短縮されたかも。
#*むしろ、別途に上野~十日町~直江津間を結ぶ急行「魚沼」が1982年11月頃までに運行されていた。
#2001年3月までに特急「雷鳥」が当路線に乗り入れて、越後湯沢までに運行されていたかもしれない。
#急行「能登」と特急「北陸」が当路線を経由していたかもしれない。
#もし国鉄→JR東日本の運営だったら、北陸新幹線延伸開業までは、故宮脇俊三氏の著書「線路のない時刻表」で書かれていた空想ダイヤそのまんまのダイヤで運行されていた。史実とは違って最高速度はせいぜい110km/hで、高速化特別工事も実施されず。
 
===万葉線===
;1910年代
#開業当初の社名は「高岡電気軌道」。
#*いずれにしろ戦時統合で地鉄→加越能→万葉線。
#国鉄新湊線は一度も旅客営業を行うことがなかった。
#*「貨物線なのに独立線名」とはならず、名実共に氷見線の貨物支線になっていた。
#場合によっては戦時統合まで射水線と直通していなかった。
#開業当初の車両が60年代くらいまで走っていた。
#第三セクター化により開業当初に近い社名へ戻される。
#伏木線以外にも廃止になった支線があった。
 
===富山地方鉄道不二越・上滝線===
;1950年代
#この年代だと路線が比較的高規格のはずなので、こちらが立山駅行き特急のルートになっていた。
#*むしろ立山へ行くときに遠回りな五百石線(現立山線)の短絡線として建設されていた。
 
==中国・四国==
===予土線===
;1980年代
#第三セクター線での開業。
#*江川崎-若井は国鉄線として運行されたことがない。
#*会社名や路線名に「四万十」という語句が入る。
#史実通り中村線も経営分離された場合、若井駅が貴重な「異なる会社の三セク線同士の分岐駅」として鉄道ファンに注目される。
#*予土線を受け持っていた3セクが史実の土佐くろしお鉄道に発展すると考えたほうが自然だと思うが。
#**その場合、愛媛県も出資している関係で「予土くろしお鉄道」という社名になっていたかもしれない。
#一部の駅に凝った装飾が施される。
#*候補:土佐大正、土佐昭和、半家
#ディーゼルカーの新幹線は走らなかった。
#*牟岐線や鳴門線辺りに走らせている気がしなくもない。
#*あるいはこの三セク会社が走らせる(JRグループだからこそあった発想のような気もするが)。
 
===木次線===
;1970年代
#全線が最初から国鉄線として建設された。
#そこまでカーブだらけではない。
#*大東町には寄れていない。
#島根・広島の県境は長大トンネルで突破。
#*出雲坂根駅は存在しなかった。
#三江線と同様に全線開業前に「赤字83線」に指定されていた。
#急行ちどりはもう少し存続していた。
#備後落合駅でのスイッチバックが必要でない線形だったかもしれない。
#特定地方交通線指定→解除の経過はほぼ史実通り。
 
===水島臨海鉄道===
;1910年代
#主に連島・福田地区と倉敷市街地や駅を結ぶのが目的。
#*倉敷駅を出てから市街地外周を経由するルートだった。
#戦時体制に入るまではのどかなローカル線だった。
#*戦争中に軍需工場への路線として大幅に輸送力が強化される。
#*その後は史実と大差ない雰囲気に落ち着く。
#**あまりの変貌ぶりのため社会科の教材などで取り上げられる。
#当初の社名は「倉敷軽便鉄道」。
#*軌間762mmで開業していたかもしれない。
 
===アストラムライン===
;1980年代前半
#まずは本通-長楽寺が開業。
#*市内中心部は工事が難航した場合「暫定開業」という形をとっている。
#開業当時の報道ではほとんど「地下鉄」や「モノレール」と表現されている。
#車両の塗装は白っぽい。
#祇園新道やシャレオの建設も早まっているはず。
#バブル期には現実以上の延伸計画が持ち上がる。
#*しかし実際に開業した区間は少ない。
#*1990年頃に[[Wikipedia:ja:西風新都|西風新都]]が完成、長楽寺から広島修道大学の沼田キャンパス辺りまで延伸される。
 
===呉市電===
;1920年代
#史実でもあった広島瓦斯電軌(現在の広島電鉄)の軌道線計画が実現した形。
#軌間は広島市内と同じ1435ミリ。
#広島市-呉市の鉄道線建設が広電の悲願になった。
#*しかし開業することはなかった。
#少なからぬ車両は広島のお古。
#*原爆投下直後は逆に呉の車両が広島へ渡っていたかもしれない。
#人口や並行路線(呉線)の存在を考慮すると現存の可能性は薄い。
#*広電と接続できれば(JRがあの調子なので)それなりに残れた可能性もあったかもだが……
 
===土佐くろしお鉄道===
====ごめん・なはり線====
;1970年代
#キハ40系気動車とキハ54形気動車とキハ58形気動車が当路線を走行していた。
#奈半利~室戸間も着工するが、それでも開業に至らなかった。
#特定地方交通線に指定され、1988年3月に中村線とともに土佐くろしお鉄道に移管していた。
;1990年代
#1996年頃or1997年頃に開業していた可能性が高い。
#2002年7月に室戸まで開業していた。
#*その場合、高知~室戸を結ぶ特急「むろと」か快速「むろと」が運行されていた。
#*奈半利以遠は工事の進捗状況からしてさすがに厳しかった気がする。
#宿毛線の開業が史実よりも早まっていたかもしれない。
 
====宿毛線====
;1970年代
#窪川~中村~宿毛間が宿毛線になっていた。
#*土讃線に編入されていたかもしれない。
#特定地方交通線に指定され、1988年3月に土佐くろしお鉄道に移管していたのは史実通り。
#*その代わりに、路線名は、窪川~中村~宿毛間で宿毛線となっていた。
#1997年10月には、ごめん・なはり線が開業していた。
#*ごめん・なはり線の開業が史実よりも遅れたのは宿毛線の建設に力を注いでいたため。
#宿毛駅が史実とは異なった場所に設置されていた。
#*宇和島方面へ延伸できる構造になっていた。
 
===三江線===
;1980年代以降
#第三セクター鉄道として開業していた。
#観光鉄道として売り出していた。
 
==九州==
===筑豊電気鉄道===
;1930年代
#地元資本(主に炭鉱関係者)とどこかの鉄道会社の合弁。
#*当初の社紋は史実と全く異なる。
#*合弁相手の鉄道会社は[[Wikipedia:ja:九州鉄道 (2代)|九州鉄道(2代目)]]が有力。
#黒崎駅へは自力で乗り入れ。
#戦時統合で西鉄の路線になっていた。
#*路線名は「西鉄筑豊線」。
#開業当初の車両は「関東や関西の私鉄電車に匹敵する」無駄に高性能なもの。
#飯塚辺りまでは何とか開業できていた。
#*それでも八木山峠は結局越えられず。
#貨物輸送はさすがにやっていない。
 
===沖縄都市モノレール===
;終戦直後
#沖縄県の電車復活として開業されるが、アメリカ式の電車として開業していた。
#*沖縄復帰後は国鉄(JR九州?)が一部の路線として生まれ変わるかもしれない。
#*むしろ地元資本による開業。
#**当時のアメリカではインターアーバンが衰退期の真っただ中だった。
#走る車両は一時期のソウルや釜山の市電ばりにアメリカのお古だらけだった。
#*場合によっては一部車両が現在も保存されている。
#少なくとも糸満やコザまでは線路が延びている。
#*コザ暴動で何両か列車が焼き討ちにあっていた。
#そもそもこの場合は730まで列車も右側通行になるんだろうか?
#*現在では右側通行時代の車両が保存されている。
#*併用軌道の区間がない限りわざわざ左側通行に変える必然性はなさそう。
#**自動車が左側通行から右側通行に変更されたスウェーデンや韓国でもそれ以前にできた鉄道(路面電車を除く)は左側通行のまま。
#*そもそも730が出来たのは鉄道がなかったからということも言われますし。
#*「日本国内で右側通行の貴重な鉄道路線」として注目される。
 
;1970年代(返還直後)
#沖縄返還として開業する。もちろんモノレールではなく電車式。
#現実のルートではなさそう。那覇から名護を結ぶ路線になりそう。
#こっちの場合も6年間だけ列車が右側通行になる。
#*もしくは予め左側通行への変更準備が行われていた。
 
;1990年代
#首里城公園が開園した1992年か九州沖縄サミットに開催された2000年(前年の1999年)に開業していた。
#2003年には、浦添前田駅までに延伸開業していた。
#*2019年には、てだこ浦西駅までの延伸開業をしていた。
#*むしろ、2003年にてだこ浦西駅までに開業していた可能性もあった。
#会社自体は82年創設なのでこうならなかったのがむしろ不思議。
#現在までに4両編成化されている。
#那覇新都心における再開発が史実よりも進んでいた。
 
;2001年
#21世紀最初の年に開業いていたこともあって、注目された。
#2002年のFIFAワールドカップの開催を機にラッピング列車が運行されていた。
#沖縄タイムスの移転など那覇新都心の開発事業が史実よりも進んでいた。
#2003年頃に石嶺駅まで先行開業していた可能性もある。
#*てだこ浦西駅までの延伸開業は史実通り2019年に開業していた。
#*いや、当初の予定通り、2019年春に開業していた。
#*2003年にてだこ浦西駅までに延伸していた可能性もある。
 
====首里~てだこ浦西====
;2003年
2003年8月に最初から、那覇空港~首里~てだこ浦西間が開業していたら…
#3両編成で運行されていた。
#浦添市でも住宅団地の整備が史実よりも進んでいた。
#*セブンイレブンやドンキホーテなどの企業が史実よりも早く沖縄県に進出していた。
#*てだこ浦西駅周辺の開発も史実よりも早く進んでいた。
#沖縄県において、パーク&ライドが流行していた。
#首里で折り返す列車は通常ダイヤで設定されなかった。
 
;2015年
#てだこ浦西駅周辺の開発が史実よりも進んでいた。
#2019年の開業の時とあまり変わらなかった?
#浦添市にとって、市制施行45周年という記念すべき年であったので、二重の喜びであった。
 
;2019年春
#てだこ浦西駅周辺の開発が史実よりも進んでいた。
#浦添市の市街化が史実よりも進んでいた。
#当路線でのSuicaの利用開始も延伸開業を機に同時に行われていた。
 
===大分交通別大線===
;1930年代
#別大国道の整備と並行して建設される。
#両端の駅にはターミナルビルのようなものが建設された。
#*大分側にはトキハ本店が入居していたかもしれない。
#大分市内の区間は戦後復興で専用軌道化される。
#もう少し「鉄道線」然とした車両が使われていた。
#場合によっては一部区間が現存していたかもしれない。
#*それでも別府市内の併用軌道部分は廃止される。
#時々身の丈に合わない壮大な延伸計画が持ち上がることもあった。
 
===長崎本線===
;1840年代
#最初はオランダ側が無許可で作ったものなので数年で撤去された。
#*出島のオランダ人は商館長の江戸訪問時を除き島の外に出られなかったのでそれはない。
#開通当初は長崎の住民に恐怖が充満した。
#*むしろ「恐怖半分興味半分」とでも表記したほうが正確な状態では。
#最初はウシが引いていたが、しばらくして蒸気機関車の使用も開始された。
#いったい最初の開業区間はどこなのか…
 
=== 鹿児島本線 (八代~川内~鹿児島) ===
;1900年代
#当然、九州自動車道の八代以南は西回りで建設された。
#人吉~吉松間は建設すらされなかった。
#*代わりに立野-延岡間が1930年頃に全通。
#*現実より急勾配・急曲線が多く、トンネルの数が少ない。
#宮崎方面へは水俣駅で分岐していた。
#人吉は平成の大合併まで市制を敷けなかった。
#現実以上に曲線が多かった。
#*電化時に一部区間の線路が付け替えられる。
 
===福岡市営地下鉄七隈線===
;1980年代
#1000系電車と同じタイプの車両が登場していた。
#天神~橋本間or博多~橋本間として、開業していた。
 
;1990年代
#遅くても、1999年頃までに開業していた。
#3000系電車の登場は史実通り。
#史実通りに天神南~橋本間として、開業していた場合、2005年に天神南~博多間が開業していた。
#*博多駅前道路陥没事故は起きていたのであろうか?
#*九州新幹線が全通した年である2011年に開業していた可能性もある。
#**その代わりに、東日本大震災の影響により、開業記念イベントは中止となっていた。
#キャナルシティ博多の利用客が史実よりも多くなっていた。
#*キャナルシティ博多イーストビルの開業も史実よりも早まっていたかもしれない。
 
==海外==
===英仏海峡トンネル===
;1890年代
ドーバー海峡にトンネルを建設する構想は古くからあり、19世紀に最初の調査・掘削が行われています。
#オリエント急行はロンドン発着だった。
#*後のTEEにも「ブリタニア」「ロンディニウム」などの愛称を持つロンドン発着の列車があった。
#現実より断面が小さい。
#大戦中にドイツ軍の攻撃対象にされた。
#*むしろイギリス上陸作戦の足掛かりとして無傷で確保せよとの指示が出ていた。
#**作戦名も「アシカ作戦」ではなく「ダックスフント作戦」あたりになっていた。
#欧州大陸と同じ規格で建設されたグレート・セントラル本線が真価を発揮できていた。
#*もちろんビーチング・アックスの魔の手にもかからず現役バリバリだった。
;1980年代
1978年に掘削が再開されましたが、その後1986年まで工事中止になってしまいました。
#当初は「世界最長の鉄道トンネル」を名乗った。
#TGVは北線が優先的に建設される。
#日本にカートレインが登場する時期が早まっていた。
#Class 373はTGV Sud-Estをベースとした車両になっていた。
#日本の青函トンネルが開業した年である1988年になっていた可能性もある。
 
===瀋陽地下鉄(中国)===
;1940年代
#要するに、[[もしあの鉄道路線が開業していたら/地下鉄#奉天市地下鉄道(中国)|この計画]]が実現。
#北京ではなくこの地下鉄が「中国初の地下鉄」に。瀋陽市民の自慢ネタが増える。
 
===ソウルメトロ(韓国)===
;1930年代
#[[大阪市高速電気軌道御堂筋線|御堂筋線]]の一部区間のように昭和恐慌の失業者対策の一環で建設された。
#日本時代に建設(開通)した路線は左側通行になる。
 
==関連項目==
*[[もしあの駅が別の年に開業していたら]]
 
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[[カテゴリ:もしも借箱/鉄道路線]]

2021年6月1日 (火) 15:18時点における版

分割済み

二地域以上

東北本線

1870年代
  1. 東海道本線と同時に開業。でも、東海道本線と接触はしないかも。
    • 直接接続しようとすると東京市街地を地上で貫通する必要があるため起点は史実通り上野だったと思われる。
  2. やはり大宮はハブられる。
    • 高崎線開業時にやっぱり分岐駅として開業か?
    • 高崎線がない状態での建設なら中山道沿いのルートなど端から通らないはず。つまり日光街道沿いに敷かれる。
  3. 建設スピードは史実より遅い。
    • 当時金のなかった政府が自前で建設することになったと推定されるため。
    • 利根川の渡がなくなる時期は変わらない。
  4. 最初の部分開業は上野~大宮辺りか。
    • 大宮ではなく岩槻を通っていたかもしれない。
      • と…なると県庁所在地は予定通り岩槻になっていたかもしれない。

上越線

1900年代
  1. ルートは後閑駅付近から赤谷川沿いに進み三国峠で上越国境を越えるもの。
    • この場合水上温泉はあまり栄えなかった。
      • 代わりに猿ヶ京温泉が有名になっていた。
    • 苗場にプリンスホテルは建設されていない。
  2. 沼田から先は壮絶な難工事になっていた。
  3. 一部区間はラック式鉄道が採用され後に輸送のネックになる。
    • 碓氷峠と同時期に改良されていたかもしれない。
    • 後に清水トンネル経由の新線が開業するかも。
      • 新清水トンネルが複線構造になっていた。湯檜曽駅・土合駅は上り線ホームもトンネルの中にある。
  4. 上越新幹線のルートは史実とあまり変わらない。
  5. 川端康成『雪国』の書き出しが変わっている。
    • 明治時代の技術で清水トンネルのような「国境の長いトンネル」はまず無理。
  6. 「上越線」という名称ではなかった。

東海道本線

1840年代
  • この時代には各地で鉄道建設ラッシュでした。
  1. 日本の鉄道歴史が大きく変わっていたかもしれない。
    • というより定時法や新しい製鉄技術などの導入により日本史の流れ自体が激変している。
  2. 京駅(現・京都駅)~草津駅から建設されていた。
    • 上方では公家や寺社辺りが猛反対しそうなので江戸から建設されていた気がする。
      • 徳川幕府主導なら駿府-江戸-日光間が最優先だろう。その後尾張・水戸・紀伊へと支線を敷く構想を考えていたと思われる。
        • 江戸-駿府間が後の東海道本線に、江戸-日光間は後の東北本線と日光線になっていた。
      • 当時の物流や人の流れを考慮するとまず東海道(江戸-京都・大坂)に建設していたのでは。
  3. ついでに、中山道本線も開業。
    • 当時の技術ではついでに開業できるほど楽に建設できたとは思えない。
  4. 横浜駅ではなく神奈川駅と名乗っていたかもしれない。
  5. 東海道新幹線のルートもかなり違う。
  6. 日本の開国相手がオランダではなくイギリスになっているのが前提条件。
  7. 幕府?で鉄道導入を推進した人物が「超人的な先見の明の持ち主」として後世まで称えられる。
    • 当時アジアのどこにも鉄道はなく鉄道に乗ったことのある日本人も誰もいなかった。
    • 「日本の鉄道の父」と呼ばれている。
  8. 史実の中国(清)の鉄道草創期と同じように各方面から相当な反発を受ける。
    • 線路や停車場への破壊工作が発生していたかもしれない。
    • ここで言われている話が本当に存在したかもしれない。
  9. 東京駅はなく江戸駅が存在した。
    • 新橋や丸ノ内ではなく日本橋辺りにできていたかもしれない。
      • 町人地や大名屋敷が建て込んでいて建設不可かと。
        • ターミナル駅は史実の月島付近の新しい埋め立て地に建設していたと思われる。
  10. 荷物列車が運行されていたとすれば飛脚が大打撃を受けていた。
    • 江戸など市中の飛脚はむしろ栄えていたのでは。
  11. 「徳川慶喜は日本初の鉄道ファン」という誤解が史実以上に広がっていたかもしれない(実際には被写体の対象にしていただけ)。
    • そもそも別の人物が日本初の鉄道ファンと言われていた可能性の方が高そう。
1900年代
  1. =東西幹線が中山道ルートだった場合
  2. 静岡県などの有力者が出資した私鉄による建設。
    • 駅間距離が現実より短い。
    • 静岡〜清水間は現在の静岡鉄道静岡清水線を通る。
      • 当時の私鉄は国の代わりに鉄道の全国ネットワークを形成する役割を担っていたので史実通りのルートだったのでは。
  3. 私鉄時代は関西鉄道と仲が良かったかもしれない。
    • というか、史実の関西鉄道が「東海道鉄道」と名乗って、東海道に忠実な路線を敷いていたのかもしれない。
  4. 区間は横浜市-名古屋付近。
  5. 全通からあまり経たないうちに国営化される。

智頭急行智頭線

1960年代
因幡山形
いなばやまがた Inaba-Yamagata
やまさと
Yamasato
ちず
Chizu
  1. 佐用駅では姫新線と線路がつながっていた。
  2. 開業時から急行や特急が多く運転された。
  3. 何らかの形でキハ82が走ったかもしれない。
  4. 特急の所要時間は現実より長い。
    • そのため現在は高速バスに苦戦している。
    • それでも伊丹-鳥取の航空便は廃止されている。
    • JR化後は振り子式のキハ187系投入や一線スルー化などのテコ入れが実施されて、史実とほぼ同じレベルになる。但し、それにかかる費用は地元負担。
  5. 21世紀に入って因美線智頭以南の廃止が噂される。
  6. 「宮本武蔵」駅などできるわけがない。
    • 恋山形駅は「因幡山形」、大原駅は「美作大原」と名乗っていた。
1970年代
  1. 鉄道公団の手によって、建設されていたので、高速化に対応できる設計になっていた。
  2. キハ181系気動車による特急「はくと」とキハ58系気動車・キハ65形気動車による急行「とっとり」が運行されていた。
    • 特急「はくと」は米子までに運行されていた。
    • のちに、特急「はくと」はキハ189系気動車で運行されていた。
    • JR化後に130km/h化対応工事などのテコ入れが実施されて、史実と同じレベルになるが、工事費用は地元負担。
  3. 1972年or1975年に開業した際には、キハ181系気動車が史実よりも多く製造されていたかもしれない。
    • 1975年開業の場合で製造されたキハ181系は、エンジン出力を440PSに落として屋根上ラジエーターを廃止し、保守性や信頼性を高めた1000番台車として製造されていた。
  4. 1981年の神戸ポートアイランド博覧会と1990年の国際花と緑の博覧会が開催された際に、臨時列車が運行されていた。

赤穂線

1930年代
  1. 実質的に山陽本線の別線扱い。
    • かつては特急「富士」「櫻」「燕」なども通っていた。
    • むしろこっちが山陽本線になっていた。
      • よって現実の上郡回りのルートは上郡線になっていた。
        • 戦時中に金属供出によって単線化されていた。
  2. 山陽新幹線建設時にも赤穂経由が検討される。
  3. 赤穂鉄道・西大寺鉄道は太平洋戦争開戦前に廃止される。
  4. 史実の播州赤穂駅は「播磨赤穂」駅として開業していた。
  5. 場合によっては複線化していた。
    • 上記通り山陽本線の一部になっていたら当然。

野岩鉄道

1890年代
  1. 日本鉄道が日光線の延長で建設。
    • 史実の日中線も含め宇都宮〜米沢が「野岩羽線」となる。
  2. 現実よりトンネルが少ない。
  3. 上越線開通前は東京〜新潟の最短ルートとしても重宝された。
  4. 郡山市福島市が史実ほど発展していない。
  5. 下野電気鉄道は存在しなかった。

海峡線

1970年代
  1. 札幌オリンピック開催中は臨時列車が運行されていた。
  2. 大阪や東京と北海道各地を結ぶ列車が多数運行されていた。
  3. 津軽線、江差線は複線化されていた。
  4. おそらく在来線規格だった
    • 松前線が現在まで存続し、代わりに江差線木古内以西は史実より早く廃止。
  5. 北海道新幹線は凍結されたままか、札幌-(新)函館(北斗)間が先に開業。
  6. 青函連絡船では洞爺丸型が延命され津軽丸型は登場しなかった。
  7. のちになって新幹線専用トンネルを建設する計画が出る。
  8. 54年の洞爺丸の事故で建設が急がれたことになっている。このトンネル開通を想定して20系500代(極寒地仕様)が製造される。実際の500代は1000代,1000・2000代は2000・3000代となる。
    • 12系500代・14系500代も新造車として登場。極寒地仕様に改造した車両は左形式の区分代となる。781系も約10年早く登場。485系1500代は存在せず。781系が東北より北を走る特急に使用される。
1990年代後半
  1. 英仏海峡トンネルの注目度が高まっていた。
  2. 旅客列車は最初から特急のみだった。
    • 785系に青函トンネル対応の新区分番台が誕生する。
    • E751系も乗り入れに対応していた。
  3. スシ24は登場せず、九州ブルトレや「出雲」用のオシ24が転用されていた。

瀬戸大橋線

1960年代
  1. 特急「富士」、準急「砂丘」が四国に乗り入れていた。
    • 準急「鷲羽」も高松発着となっていた。
  2. 四国新幹線の用地が確保されていたかは微妙。
    • 「現行の瀬戸大橋が老朽化した段階で新幹線対応の新瀬戸大橋を造ろう」という運動があったかもしれない。
  3. 東京と高知、松山を結ぶ寝台特急が運行されていた。
    • ムーンライト松山、高知の先祖に当たる夜行普通列車も存在した。
    • 「土佐」「いよ」が上記寝台特急の列車名に。急行「土佐・いよ」は別の列車名に。
      • おそらく気動車急行の方は「うらと」「いしづち」を名乗っていたと思われる。
    • 当初は20系で登場し、1972年3月に「さくら」・「みずほ」とともに14系に置き換えられた。
  4. 121系は瀬戸大橋乗り入れ可能な規格で作られていた。
  5. 玉野市は岡山市に吸収されたか。
  6. 瀬戸中央自動車道は国道扱いか。
  7. 建設資金の調達方法が郵便貯金ではなく世界銀行の融資という形で行われていたかもしれない。
  8. 下津井電鉄が国鉄に買収された。
    • されない。江若鉄道同様廃線→一部の用地が流用される程度だと思う。
    • 少なくとも児島駅の位置は変わる。
  9. 四国の電化が早まった。
    • 最初に投入されたローカル車両は新車ではなくモハ70形・モハ80形が転用されて来た。
  10. そろそろ橋の老朽化が問題に挙がってくる頃だと思われる。
  11. 宇高連絡船の廃止時期が早まっていたのは言うまでもない。
    • 伊予丸型は建造されなかった。
  12. 茶屋町〜宇野はクモハ42あたりの単行運転になった。
  13. 環境問題が深刻化する前のことなので工事による瀬戸内海の生態系への打撃が史実以上に。
  14. 「紫雲丸事故」で建設が急がれた、とされる。宇野線岡山-茶屋町間は1970年代までに完全複線化。
  15. 岡山-高松間を結ぶ快速に、サロ110連結の岡山区113系が使用される。'90年頃に221系(岡山駅基準・下関方先頭車がクロ221、大型の前面窓・ハイデッキ仕様のグリーン車)が岡山区に配置され、113系サロ110連結編成を置き換えた。
1970年代前半
  1. 宇高連絡船の廃止が早まったのは言うまでも無く。
    • 宇野線茶屋町~宇野間の列車の多くは単行運転に。
    • 伊予丸型は建造されず、紫雲丸型を修繕しながら廃止まで使い続けていた。
  2. 「紫雲丸事故」を契機に建設開始された、と語られる。
    • 宇野線岡山~茶屋町間は瀬戸大橋線開通から間もない頃に完全複線化。
  3. 四国の電化が早まった。
    • 電化当初の四国ローカル運用に80系が使用され、国鉄末期に下記の121系に置き換え。
    • 121系は瀬戸大橋線乗り入れ可能な規格で製作された。
    • 予讃本線高松~松山間は瀬戸大橋開通と同時期に電化、'90年代に8000系に置き換わるまで181系が電化区間(瀬戸大橋線直通も含む)の特急に使用されていた。
      • 場合によってはキハ181系の製作数が史実より少なかった。
      • 電化区間の急行には山陽新幹線岡山開業で転用された153系が使用された。
  4. 四国新幹線の用地は確保されたかどうか。
  5. 「土佐」「いよ」が東京発高知・松山行きの寝台特急の列車名に。急行「土佐」「いよ」は別の名称になる。
    • おそらく「浦戸」「いしづち」になっていたと思われる。
  6. 瀬戸中央自動車道は国道扱いか。
  7. 岡山区にサロ111が転入し、岡山~高松間の快速(8・12両編成)に連結された。
    • 1990年頃に221系が岡山区に新製配置、上記113系グリーン車連結編成を置き換えた(岡山駅基準・下関方面の先頭車が大型の前面窓・ハイデッキ構造のグリーン車クロ221)。
  8. 下津井電鉄の鉄道事業撤退が早まった。
  9. 高徳本線、土讃本線(多度津~高知間)は電化されただろうか。

関門鉄道トンネル

1930年代
  1. 昭和恐慌における失業対策として、着工されていた。
  2. 史実通りに、単線で開業していた可能性が高い。
    • のちに、追加という形で、上り線トンネルが開業していた。
  3. 遅くても、1935年に下り線トンネルが開業し、1937年に上り線トンネルが開業していた。
1950年代
  1. 特急「かもめ」と特急「あさかぜ」の運行がずれ込んでいたかもしれない。
    • 開業と同時に運行が開始されていた。
  2. 最初から、複線で開業されていた。
  3. 1950年代後半の開通ならトンネルの西側は最初から交流電化になっていた。EF30形の登場も史実より早かった。

北海道

石北本線(上川-遠軽)

1980年代
  1. 石勝線のように高規格路線として建設された。
    • 一部区間は特急しか走っていないところも類似していた。
      • 上川-遠軽間かな
  2. 遠軽でのスイッチバックは何とかして回避していた。
  3. 池田-北見-網走は今も「網走本線」を名乗っている。
    • 名寄本線は「名寄-紋別-中湧別-佐呂間-網走」の区間。
    • 網走本線は北見-網走のおかげで現在も全線がJRに属している。
      • しかし、北見以南に廃止論議が勃発するのは史実通り。
    • 北見-遠軽-湧別は上川-遠軽間の開業まで「湧別線」というローカル線だった。
  4. 開業まで特急オホーツクは名寄本線経由だった。
  5. 「石北線」ではなく「石北線」だった可能性が高い。

石勝線

昭和10年代
  1. 建設理由に対ソ戦対策も含まれていた。
  2. 建設にあたり朝鮮人などの労働者が酷使された。
    • 後に複数の慰霊碑が建てられた。
    • トンネルに「幽霊が出る」などと噂されたり、韓国が謝罪と賠償を要求するなど何かと曰く付きの路線になっていた。
  3. 煤煙対策のため史実ほど長いトンネルはない。
    • その代わり一部区間に急カーブや急勾配などが生じていた。
    • JR化後に高速化改良されたと思われるが現実ほど高速運転できなかった。
  4. 開業時点で根室本線は「千歳-新得-釧路-根室」に変更された。
    • 滝川-富良野-新得には「芦別線」という別の線名が付けられた。
      • 夕張線(紅葉山~夕張)は特定地方交通線に指定され廃止されていた。
        • 紅葉山駅は廃止後、新夕張ではなく「夕張市」を名乗っていたかも。
        • 1980年代ならまだ大丈夫だと思うが、2010年代には史実同様廃止が議論されるようになっていた。
    • 国道38号も札幌~十勝清水~釧路のルートだった。
      • 北海道最長国道は国道38号だった。
      • 国道274号は滝川~帯広間の国道となっていた。
    • 登川駅からそのまま東へ延伸する形になっていた。
    • 南千歳駅は開業せず史実の南千歳駅の場所に南千歳信号場が千歳線空港支線開業と同時に設置された。
    • 準急→急行「夕張」の走行ルートは「札幌-千歳-紅葉山-夕張」だった。
      • 史実より(夕張~追分から)札幌まで短時間で行けるので1972年以降も存続する。
        • 夕鉄バス札幌急行線との競争や千歳市民・広島町民からの要望によりくるくる電車ポプラ号登場のタイミングで札幌~千歳間快速・以遠普通に格下げ。
        • 同時に大幅に本数増加するが千歳以遠の実質的な本数は変わらず。
        • 1997年3月改正までキハ56系を使用、以降運転区間短縮があったがキハ201系を使用。
        • 場合によっては千歳~追分間が札幌の通勤圏に入ったかも。
        • キハ40系・キハ54・キハ150も代走・送り込みで快速「夕張」を含む仕業に入った。
        • キハ201系は製作コストを減らすため途中から車体傾斜機能なしで増備・別区分番代となった。
  5. 開業当初は現実の信号場も全て駅だった。
    • しかし沿線の過疎化により廃駅が続出。
    • 仮乗降場扱いの駅も多い。
  6. 占冠駅は富内線との合流を想定した構造になっていた。
  7. 追分〜紅葉山(新夕張)間が単線化されず複線のままだった。

札幌市営地下鉄東西線(琴似-宮の沢)

1980年代
  1. 早くても、1985年頃に開業していた。もしくは、遅くても、1988年に開業していた。
    • 1990年頃に開業していた可能性もある。
  2. 6000形電車が史実よりも多く増備されていた。
  3. 1999年2月に東豊線の福住~清田間が開業していた。
    • その場合、7000形電車が史実よりも多く増備されていた。
    • 6両編成で運行されていた。
    • 栄町駅付近か清田駅付近か福住駅付近に車両基地ができていたかもしれない。
    • 札幌ドームが開業した2001年に開業していた可能性もあり得る。
  4. 8000形電車の登場は史実通り。
    • その代わりに、史実よりも遅れて投入されていたかもしれない。(2001年辺りに)

東札幌-新さっぽろ

1990年代
  1. 当初の予定通り千歳線旧線沿いに高架線を建設していた。
    • 南北線南平岸駅 - 真駒内駅間のようにシェルターで覆うかは微妙なところ。
  2. 建設費節約のためにホームは8両ぶんしかない。

東北

南部縦貫鉄道

大正時代
  1. 開業当初は「七戸鉄道」と名乗った。
    • 後に戦時統合で史実の南部鉄道や十和田観光電鉄とともに「南部交通」に統合され「南部交通七戸線」となる。
  2. 建設目的は普通に「東北線と七戸町の連絡」。
    • 農産物の輸送も行われた。
    • 後に沿線で産出される砂鉄の輸送も行われた(史実でも計画されていたが頓挫)。
  3. 多分電化はされていない。
  4. 七戸駅は町の中心近くに設置。

三陸鉄道

1960年代
  1. 建設開始は1933年の昭和三陸津波の後。
    • 太平洋戦争により一時工事がストップしていた。
  2. 当然ながら国鉄線として開業している。
  3. 一部区間は現実よりカーブなどが多い。
  4. 開通した頃は急行が走っていた。
    • 列車名は「さんりく」、運転区間は仙台-気仙沼-宮古-八戸。
  5. 連続テレビ小説『あまちゃん』のストーリーが史実とやや異なっている。

仙石線

1910年代
  1. 軌道法に準拠して建設された。
    • 仙台駅付近が併用軌道だった。
      • 後に高架化もしくは地下化される。
    • 戦時買収を免れていたかもしれない。
      • この場合宮城電鉄が戦時統合の核になっていた。
  2. 石巻-女川も自力で建設していた。
  3. 仙台市電との直通も検討される。
    • というより「宮城電鉄市内線」として建設された可能性もある。
  4. 国に買収されなかった場合塩釜線は現存している。
  5. 松島にそこそこ大きな遊園地ができていた。

気仙沼線

1980年代
  1. 隣県の三陸鉄道に刺激され第三セクターで開業。
  2. 旧国名の付いた駅は現実より少ない。
  3. 震災までは独自のサービスで人気を博していた。
    • 「フカヒレ列車」などというものが走っていた。
    • 大谷海岸駅は海の家と一体化されていた。
  4. 震災の被害により一時は廃止も検討された。
    • むしろ南リアス線と同じ時期に復旧していたのでは?
      • 大船渡~気仙沼間も鉄路で復旧していた(この場合宮城方の三セクになるのかやっぱ三陸鉄道になるのか…)
      • 史実通り事実上の廃止に追い込まれていたら、「岩手県は三陸鉄道を復旧させたのに宮城県は…」と言われていた。

仙台市営地下鉄東西線

2000年代

史実では2015年12月に開業。

  1. 遅くても、2008年12月に開業していた。
    • 場合によって、2009年頃にずれ込んでいたかもしれない。
  2. 東日本大震災が起きた時は被害を受けていた。

仙台空港鉄道

1990年代
  1. 仙台空港新旅客ターミナルが全面完成した1997年(あるいは前年)に開業。
  2. 開業当初の自社保有車両は701系1000番代の同型車である。ワンマン運転は2両編成の列車のみ。3両編成以上の列車は原則車掌乗務。
    • 417・455・457・719系の乗り入れも考慮された。
  3. 大株主に名鉄,そのグループの宮交が。
    • 仙台空港民営化を機に、東急へ名鉄グループ保有分の株がすべて譲渡(=名鉄グループ離脱、東急グループ加入)される。
    • 直通相手はJRではなく仙台市営地下鉄になっていたかもしれない。
2001年
  1. 同年の「新世紀・みやぎ国体」,翌年の「FIFAワールドカップ」開催を機に開業。
  2. 2000年に開業した可能性が。
  3. 開業当初の自社保有車両は701系1500番代基本の都市型ワンマン運転対応車両である。JR側も同型車を導入する。
  4. 「宮城国体」「FIFA W杯」の際,宮城スタジアムへの利便性向上の為,臨時列車で仙台空港-利府間に直通臨時列車を多数運行した。

東海

伊豆急行

昭和10年代
  1. 建設の動機は伊豆半島の要塞化。
  2. 伊東線の延長として建設された。
    • 線名は「伊豆線」。
  3. 1950年代から優等列車が乗り入れるようになった。
  4. 史実の伊豆急下田駅は「伊豆下田駅」と名乗っている。
  5. 現実ほどトンネルは多くない。
  6. 当然国鉄線としての建設で、現在はJR東日本。

伊勢鉄道

1910年代
  1. 参宮鉄道時代から計画はあった。
    • だが着工は国有化後。
  2. 東京などと伊勢神宮の短絡が主目的。
  3. 開通したとたん参宮線の一部に。
    • 亀山~津は「亀山支線」として扱われる。
    • なお現在は紀勢本線の一部。
  4. 現在の近鉄鈴鹿線はこの路線の鈴鹿駅に乗り入れていた。
  5. 寝台特急「紀伊」もこのルートを通っていた。
    • 所要時間が短かすぎて始発・終着が不便な時間帯になってしまうのでそれはない。
      • 普通に紀伊勝浦か新宮で長時間停車していたんじゃないの?別にすぐに下りなきゃいけないとは書いてない訳だし。

近鉄鳥羽線

1930年代
  1. 「志摩電気鉄道山田線」として開業。
    • この場合志摩電気鉄道は参宮急行電鉄に買収されていた。
      • 標準軌への改軌が史実よりかなり早まっている。
  2. 計画時期によっては宇治山田駅は最初から通過可能の構造になっていた。
  3. 朝熊駅では朝熊山ケーブルカーと接続している。
    • ケーブルカーは戦後復活を果たしていた。
  4. 賢島方面の観光開発は更に進んでいる。
  5. 国鉄参宮線の伊勢市~鳥羽は1960~70年代に廃止されていたかも(史実でも赤字83線に選定されていた)。
  6. 線形は現実よりも悪かったかもしれない。
    • 確実に踏切が存在した。
  7. 遅くても難波線開業までに大阪線・名古屋線は全線複線化(宇治山田-鳥羽間の建設・鳥羽-賢島間の改軌費用が回るため)。青山峠区間は(工期短縮が優先)単線並列方式で複線化。そのため上下線の所要時間が異なる。難波線開業の翌年に発生した衝突事故はない。
    • 旧東青山駅を経由する線形の悪いルートになるため、アーバンライナーや伊勢志摩ライナーは振り子式車両で製造され、ひのとりは車体傾斜装置を取り付けて製造されていた。

愛知環状鉄道

1920年代
  1. 岡崎市街地や挙母町、瀬戸と東海道本線を結ぶための路線。
    • 貨物列車を名古屋市街地に入れないことも意識されている。
  2. 中岡崎駅が「岡崎駅」を名乗っていた。
    • 東海道本線の岡崎駅は「南岡崎」か「岡崎口」に改名された。
  3. 戦時中に空襲時の迂回路として城北線に相当する区間も建設される。
  4. 現在もJRの路線だったかもしれない。
    • 最初から多治見ではなく高蔵寺を目指していたのであれば路線名は「挙母線」になっていた。
    • 当初の予定通り貨物輸送も頻繁に行われていた。
  5. 名鉄挙母線は存在しなかった。
1940年代
  1. 名古屋の空襲に備えて勝川-稲沢も城北線として同時に建設。三河鉄道上挙母-大樹寺-岡崎駅前間は不要不急路線に指定され休止される。
  2. 「挙母線」が路線名になる。
  3. 多治見・高蔵寺ではなく神領が終点になる。
    • その為、中央(西)線の快速は高蔵寺ではなく神領に止まる。
    • 瀬戸~多治見間の建設計画も出るが着工されない。
      • 多分非電化。
  4. 1970年代に、全線にわたり複線化と電化が行われた。
    • 上の城北線も同時期に。
    • その為、名古屋を迂回するバイパスルートとして、挙母線と城北線の建設効果を十分発揮した。
    • 愛・地球博の観客輸送で活躍している。
  5. 現在は城北線も含めJRの路線に。

名鉄羽島線

1964年
  1. 「夢の超特急」との連絡線ということで開業時は大々的にPRされた。
    • 新岐阜からの直通特急が設定されていた。
  2. この路線の建設に関しても大野伴睦が絡んだ噂がささやかれる。
  3. 現在は結局現実と大きな差はない。
    • ただし新羽島駅の駅舎はもっと古い。
      • 地平ホームの1面2線になっていた。
  4. どのみち竹鼻線の江吉良以南は廃止される。
  5. 一部で国鉄による買収が噂されるも実現せず現在に至ると思われる。

名鉄豊田線

1930年代
  1. 三河鉄道の経営状態が良ければ着工できた。
  2. 八事以西が名古屋市電八事線になることはなかった。
    • 軌道廃止後に地下線で伏見か栄に乗り入れる。
      • あるいは神宮前に延伸され名古屋本線と接続していた。
  3. 踏切がある代わりに加算運賃が存在しない。
    • トンネルも現実より少なく、一部のルートが現実と異なっている。
  4. 地下鉄鶴舞線は存在しないか八事止まり。
  5. 特急が運転され名古屋〜豊田を30分以内で結んでいた。

名鉄豊川線

1920年代
  1. 飯田線国有化前なので豊川駅に乗り入れていたかもしれない。
  2. 名鉄小坂井支線はなかった。

名古屋市営地下鉄上飯田線

1980年代
  1. 新栄町駅まで開業していた。
    • 名古屋市営地下鉄桜通線の高岳駅が連絡できるように移転されていた。
    • 市役所経由で金山まで開業していた可能性もあり得る。
  2. 名古屋市交通局7000形電車は、3000形電車をベースに製造されていた。
  3. 名鉄小牧線は小牧~犬山間も複線化されていた。
1990年代
  1. 早くても、1991年頃に開業していた。
    • 新栄町駅まで開業していたかもしれない。
    • 名古屋市営地下鉄桜通線の高岳駅が連絡できるように移転されていた。
    • もしかしたら、丸田町の先である矢場町or金山or鶴舞orささしまライブまで延伸していた可能性もある。
  2. 7000形電車が史実よりも早く登場し、製造数も史実よりも多くなっていた。
  3. 間内駅付近に車庫ができていた。
  4. 桃花台新交通桃花台線が廃止されることはなかった。
  5. 運行本数が史実よりも多くなっていた。
  6. 2004年には東部線(ささしまライブ~高針橋)が開業していたかもしれない。
    • グローバルゲートを含むささしまライブ24地区の再開発事業が史実よりも進んでいた。
      • 中京テレビの移転も史実よりも早まっていた。
    • その際に、上飯田線は2003年頃に丸田町まで延伸していた。
  7. 名鉄300系電車は100系電車、200系電車と同じのタイプの車両に製造されていた。
    • 3300系電車(2代目)が投入されることはなかった。
2001年
  1. 間内駅付近に車庫ができていた。
  2. それ以外で、史実とあまり変わらなかった。

名古屋市営地下鉄桜通線

野並~徳重

1990年代
  1. 6両編成で運行されていたかもしれない。
  2. 緑区における宅地開発が史実よりも進んでいた。
  3. 2011年に徳重~豊明北間が開業していた可能性もあり得る。
    • もしくは、野並~徳重~豊明北間として開業し、車庫は当初の計画通りに豊明北駅付近に車庫ができていた。
2000年代
  • 史実では、2011年3月に開業しました。
  1. 2005年に開業した場合、開催されていた愛知万博に合わせての開業であった。
  2. 開業記念イベントが実際に行われていた。(史実では、東日本大震災の影響により、中止となった。)
  3. その後も、延伸計画が実施されていたかどうかは怪しい。
  4. 無論、6050形電車の登場が史実よりも早まっていた。

中村区役所~今池

1970年頃
  1. 国鉄(当時)名古屋駅付近は,地下街「エスカ」「ユニモール」と一体で建設された。車両の大きさは,東山線・名城線(・名港線)と同じ。
    • 市電中村線は2年程早く廃止される。
      • その為桜通線は稲葉地~今池間が最初の開通区間に。
    • 中村公園駅に,東山線との連絡線も同時に建設。
    • 稲葉地付近に車庫が建設される(大規模な検査は中村公園駅の連絡線経由で回送の上,東山線藤が丘工場で実施)。
  2. 現実より建設費が安く,市の財政状況が少し良くなる。現実より浅い場所を通る。

名鉄知多新線

1930年代
  1. 常滑か河和から延伸していた形で開業していた。
1970年代
  1. 沿線の宅地造成が史実よりも進んでいた。
    • 小野浦駅が開業していた可能性が高い。
  2. 名鉄による観光開発が史実よりも進んでいたかもしれない。
    • 南知多ビーチランドと内海フォレストパークの開園が史実よりも早まっていたかもしれない。
    • 8800系電車の登場が若干早まっていたかもしれない。

名古屋市営地下鉄名城線

新瑞橋-大曽根

1980年頃
  1. ナゴヤドームではなく瑞穂公園に大規模な車庫が建設される。'70年代後半に,2000形(3000形同様の,電機子チョッパ制御・スキンステンレス車両)が名城線に導入される。史実の2000形相当の車両は,2050形を名乗る。
    • 2000形は当初から冷房付き。2010年代後半にN2000形(N1000形ベースの名城・名港線用車両)に置き換わる。名城線の6連化は早まる。
  2. 総合リハビリセンター駅は当初の計画通りに清水ヶ岡駅と名乗っていた。

名古屋市営地下鉄鶴舞線

上小田井-庄内緑地公園

1985年頃
  1. 市交通局3000形・名鉄100系は、1990年頃までにすべて6両化される(従来編成に中間車両を挿入)。その代わり、名鉄100系4+4両編成は存在しない。
    • 市交通局3000形・名鉄100系の製造数が史実以上に。
  2. 史実より、1980年代後半の鶴舞線・名鉄犬山線・名鉄豊田線の混雑を緩和している。名鉄犬山線・豊田線の宅地化が、(バブル景気の頃)史実以上に進む。

伏見-八事

1970年代前半
  1. 開業当初の車両は300形を20m車・片側4扉・直流1500V架線集電方式に変更した車両。ただ、抵抗制御車両で、当初は非冷房で登場した。
  2. 八事~赤池間の延伸も早かった、名鉄豊田新線(当時)も同時期に開通している。

桃花台新交通

1980年
  1. 8月の入居開始までに開業。
  2. 1990年頃に高蔵寺まで延伸される。
  3. 桃花台ニュータウンと小牧市の人口が史実以上に多かった。
  4. 名鉄、日本車輌、三井物産(日車と物産はVONAを共同開発)が主要株主に。

名古屋市営地下鉄東山線

名古屋-栄町

1930年代
  1. =「名古屋地下鉄道」が実現していたらである。
  2. 当初の車両は木目調の内装だった。
    • 車体は流石に全鋼製車体。
  3. 建築限界の規格は史実より大きい。
    • ホームの長さも8両編成ぐらいまで対応していた。

遠州鉄道奥山線

1940年代前半
  1. 遠州電気鉄道(遠電)の三方原線として建設された。
    • 当初は非電化・1067mm軌間で省線との直通が考慮された。
      • 陸軍飛行学校への引き込み線が存在した。

甲信越・北陸

北越急行ほくほく線

1970年代
  1. 「南北戦争」と呼ばれる地元でのルート争いがなかったのが前提。
  2. 現実ほど高規格ではない。
    • 美佐島駅があそこまで堅牢な構造になる事は無かった。
    • ただ、貨物列車の走行に対応した構造になっていた。
  3. 駅名はそこまで奇抜ではない。
    • 増田駅(史実のくびき駅)の駅舎も。
    • 時期次第では武蔵野線に「武蔵新座」駅ができていた。
      • 酷い場合はそちらが「にいざ駅」になっていたかも…
  4. この路線の開業時から上越新幹線開業まで上野-金沢の「はくたか」が通っていた。
    • 新幹線開業後は越後湯沢-金沢だけ存続。
      • 北陸新幹線開業後はさすがに廃止か。
  5. 「電車でGO!」には登場しなかった。
  6. 特急「かがやき」は誕生せず。
    • いや、むしろ特急「きらめき」が「かがやき」と名乗っていた可能性がある。
      • 「きらめき」は現在、九州の特急列車だから被らなくて済んだだろう。
  7. 急行「よねやま」が柏崎発着に短縮されたかも。
    • むしろ、別途に上野~十日町~直江津間を結ぶ急行「魚沼」が1982年11月頃までに運行されていた。
  8. 2001年3月までに特急「雷鳥」が当路線に乗り入れて、越後湯沢までに運行されていたかもしれない。
  9. 急行「能登」と特急「北陸」が当路線を経由していたかもしれない。
  10. もし国鉄→JR東日本の運営だったら、北陸新幹線延伸開業までは、故宮脇俊三氏の著書「線路のない時刻表」で書かれていた空想ダイヤそのまんまのダイヤで運行されていた。史実とは違って最高速度はせいぜい110km/hで、高速化特別工事も実施されず。

万葉線

1910年代
  1. 開業当初の社名は「高岡電気軌道」。
    • いずれにしろ戦時統合で地鉄→加越能→万葉線。
  2. 国鉄新湊線は一度も旅客営業を行うことがなかった。
    • 「貨物線なのに独立線名」とはならず、名実共に氷見線の貨物支線になっていた。
  3. 場合によっては戦時統合まで射水線と直通していなかった。
  4. 開業当初の車両が60年代くらいまで走っていた。
  5. 第三セクター化により開業当初に近い社名へ戻される。
  6. 伏木線以外にも廃止になった支線があった。

富山地方鉄道不二越・上滝線

1950年代
  1. この年代だと路線が比較的高規格のはずなので、こちらが立山駅行き特急のルートになっていた。
    • むしろ立山へ行くときに遠回りな五百石線(現立山線)の短絡線として建設されていた。

中国・四国

予土線

1980年代
  1. 第三セクター線での開業。
    • 江川崎-若井は国鉄線として運行されたことがない。
    • 会社名や路線名に「四万十」という語句が入る。
  2. 史実通り中村線も経営分離された場合、若井駅が貴重な「異なる会社の三セク線同士の分岐駅」として鉄道ファンに注目される。
    • 予土線を受け持っていた3セクが史実の土佐くろしお鉄道に発展すると考えたほうが自然だと思うが。
      • その場合、愛媛県も出資している関係で「予土くろしお鉄道」という社名になっていたかもしれない。
  3. 一部の駅に凝った装飾が施される。
    • 候補:土佐大正、土佐昭和、半家
  4. ディーゼルカーの新幹線は走らなかった。
    • 牟岐線や鳴門線辺りに走らせている気がしなくもない。
    • あるいはこの三セク会社が走らせる(JRグループだからこそあった発想のような気もするが)。

木次線

1970年代
  1. 全線が最初から国鉄線として建設された。
  2. そこまでカーブだらけではない。
    • 大東町には寄れていない。
  3. 島根・広島の県境は長大トンネルで突破。
    • 出雲坂根駅は存在しなかった。
  4. 三江線と同様に全線開業前に「赤字83線」に指定されていた。
  5. 急行ちどりはもう少し存続していた。
  6. 備後落合駅でのスイッチバックが必要でない線形だったかもしれない。
  7. 特定地方交通線指定→解除の経過はほぼ史実通り。

水島臨海鉄道

1910年代
  1. 主に連島・福田地区と倉敷市街地や駅を結ぶのが目的。
    • 倉敷駅を出てから市街地外周を経由するルートだった。
  2. 戦時体制に入るまではのどかなローカル線だった。
    • 戦争中に軍需工場への路線として大幅に輸送力が強化される。
    • その後は史実と大差ない雰囲気に落ち着く。
      • あまりの変貌ぶりのため社会科の教材などで取り上げられる。
  3. 当初の社名は「倉敷軽便鉄道」。
    • 軌間762mmで開業していたかもしれない。

アストラムライン

1980年代前半
  1. まずは本通-長楽寺が開業。
    • 市内中心部は工事が難航した場合「暫定開業」という形をとっている。
  2. 開業当時の報道ではほとんど「地下鉄」や「モノレール」と表現されている。
  3. 車両の塗装は白っぽい。
  4. 祇園新道やシャレオの建設も早まっているはず。
  5. バブル期には現実以上の延伸計画が持ち上がる。
    • しかし実際に開業した区間は少ない。
    • 1990年頃に西風新都が完成、長楽寺から広島修道大学の沼田キャンパス辺りまで延伸される。

呉市電

1920年代
  1. 史実でもあった広島瓦斯電軌(現在の広島電鉄)の軌道線計画が実現した形。
  2. 軌間は広島市内と同じ1435ミリ。
  3. 広島市-呉市の鉄道線建設が広電の悲願になった。
    • しかし開業することはなかった。
  4. 少なからぬ車両は広島のお古。
    • 原爆投下直後は逆に呉の車両が広島へ渡っていたかもしれない。
  5. 人口や並行路線(呉線)の存在を考慮すると現存の可能性は薄い。
    • 広電と接続できれば(JRがあの調子なので)それなりに残れた可能性もあったかもだが……

土佐くろしお鉄道

ごめん・なはり線

1970年代
  1. キハ40系気動車とキハ54形気動車とキハ58形気動車が当路線を走行していた。
  2. 奈半利~室戸間も着工するが、それでも開業に至らなかった。
  3. 特定地方交通線に指定され、1988年3月に中村線とともに土佐くろしお鉄道に移管していた。
1990年代
  1. 1996年頃or1997年頃に開業していた可能性が高い。
  2. 2002年7月に室戸まで開業していた。
    • その場合、高知~室戸を結ぶ特急「むろと」か快速「むろと」が運行されていた。
    • 奈半利以遠は工事の進捗状況からしてさすがに厳しかった気がする。
  3. 宿毛線の開業が史実よりも早まっていたかもしれない。

宿毛線

1970年代
  1. 窪川~中村~宿毛間が宿毛線になっていた。
    • 土讃線に編入されていたかもしれない。
  2. 特定地方交通線に指定され、1988年3月に土佐くろしお鉄道に移管していたのは史実通り。
    • その代わりに、路線名は、窪川~中村~宿毛間で宿毛線となっていた。
  3. 1997年10月には、ごめん・なはり線が開業していた。
    • ごめん・なはり線の開業が史実よりも遅れたのは宿毛線の建設に力を注いでいたため。
  4. 宿毛駅が史実とは異なった場所に設置されていた。
    • 宇和島方面へ延伸できる構造になっていた。

三江線

1980年代以降
  1. 第三セクター鉄道として開業していた。
  2. 観光鉄道として売り出していた。

九州

筑豊電気鉄道

1930年代
  1. 地元資本(主に炭鉱関係者)とどこかの鉄道会社の合弁。
  2. 黒崎駅へは自力で乗り入れ。
  3. 戦時統合で西鉄の路線になっていた。
    • 路線名は「西鉄筑豊線」。
  4. 開業当初の車両は「関東や関西の私鉄電車に匹敵する」無駄に高性能なもの。
  5. 飯塚辺りまでは何とか開業できていた。
    • それでも八木山峠は結局越えられず。
  6. 貨物輸送はさすがにやっていない。

沖縄都市モノレール

終戦直後
  1. 沖縄県の電車復活として開業されるが、アメリカ式の電車として開業していた。
    • 沖縄復帰後は国鉄(JR九州?)が一部の路線として生まれ変わるかもしれない。
    • むしろ地元資本による開業。
      • 当時のアメリカではインターアーバンが衰退期の真っただ中だった。
  2. 走る車両は一時期のソウルや釜山の市電ばりにアメリカのお古だらけだった。
    • 場合によっては一部車両が現在も保存されている。
  3. 少なくとも糸満やコザまでは線路が延びている。
    • コザ暴動で何両か列車が焼き討ちにあっていた。
  4. そもそもこの場合は730まで列車も右側通行になるんだろうか?
    • 現在では右側通行時代の車両が保存されている。
    • 併用軌道の区間がない限りわざわざ左側通行に変える必然性はなさそう。
      • 自動車が左側通行から右側通行に変更されたスウェーデンや韓国でもそれ以前にできた鉄道(路面電車を除く)は左側通行のまま。
    • そもそも730が出来たのは鉄道がなかったからということも言われますし。
    • 「日本国内で右側通行の貴重な鉄道路線」として注目される。
1970年代(返還直後)
  1. 沖縄返還として開業する。もちろんモノレールではなく電車式。
  2. 現実のルートではなさそう。那覇から名護を結ぶ路線になりそう。
  3. こっちの場合も6年間だけ列車が右側通行になる。
    • もしくは予め左側通行への変更準備が行われていた。
1990年代
  1. 首里城公園が開園した1992年か九州沖縄サミットに開催された2000年(前年の1999年)に開業していた。
  2. 2003年には、浦添前田駅までに延伸開業していた。
    • 2019年には、てだこ浦西駅までの延伸開業をしていた。
    • むしろ、2003年にてだこ浦西駅までに開業していた可能性もあった。
  3. 会社自体は82年創設なのでこうならなかったのがむしろ不思議。
  4. 現在までに4両編成化されている。
  5. 那覇新都心における再開発が史実よりも進んでいた。
2001年
  1. 21世紀最初の年に開業いていたこともあって、注目された。
  2. 2002年のFIFAワールドカップの開催を機にラッピング列車が運行されていた。
  3. 沖縄タイムスの移転など那覇新都心の開発事業が史実よりも進んでいた。
  4. 2003年頃に石嶺駅まで先行開業していた可能性もある。
    • てだこ浦西駅までの延伸開業は史実通り2019年に開業していた。
    • いや、当初の予定通り、2019年春に開業していた。
    • 2003年にてだこ浦西駅までに延伸していた可能性もある。

首里~てだこ浦西

2003年

2003年8月に最初から、那覇空港~首里~てだこ浦西間が開業していたら…

  1. 3両編成で運行されていた。
  2. 浦添市でも住宅団地の整備が史実よりも進んでいた。
    • セブンイレブンやドンキホーテなどの企業が史実よりも早く沖縄県に進出していた。
    • てだこ浦西駅周辺の開発も史実よりも早く進んでいた。
  3. 沖縄県において、パーク&ライドが流行していた。
  4. 首里で折り返す列車は通常ダイヤで設定されなかった。
2015年
  1. てだこ浦西駅周辺の開発が史実よりも進んでいた。
  2. 2019年の開業の時とあまり変わらなかった?
  3. 浦添市にとって、市制施行45周年という記念すべき年であったので、二重の喜びであった。
2019年春
  1. てだこ浦西駅周辺の開発が史実よりも進んでいた。
  2. 浦添市の市街化が史実よりも進んでいた。
  3. 当路線でのSuicaの利用開始も延伸開業を機に同時に行われていた。

大分交通別大線

1930年代
  1. 別大国道の整備と並行して建設される。
  2. 両端の駅にはターミナルビルのようなものが建設された。
    • 大分側にはトキハ本店が入居していたかもしれない。
  3. 大分市内の区間は戦後復興で専用軌道化される。
  4. もう少し「鉄道線」然とした車両が使われていた。
  5. 場合によっては一部区間が現存していたかもしれない。
    • それでも別府市内の併用軌道部分は廃止される。
  6. 時々身の丈に合わない壮大な延伸計画が持ち上がることもあった。

長崎本線

1840年代
  1. 最初はオランダ側が無許可で作ったものなので数年で撤去された。
    • 出島のオランダ人は商館長の江戸訪問時を除き島の外に出られなかったのでそれはない。
  2. 開通当初は長崎の住民に恐怖が充満した。
    • むしろ「恐怖半分興味半分」とでも表記したほうが正確な状態では。
  3. 最初はウシが引いていたが、しばらくして蒸気機関車の使用も開始された。
  4. いったい最初の開業区間はどこなのか…

鹿児島本線 (八代~川内~鹿児島)

1900年代
  1. 当然、九州自動車道の八代以南は西回りで建設された。
  2. 人吉~吉松間は建設すらされなかった。
    • 代わりに立野-延岡間が1930年頃に全通。
    • 現実より急勾配・急曲線が多く、トンネルの数が少ない。
  3. 宮崎方面へは水俣駅で分岐していた。
  4. 人吉は平成の大合併まで市制を敷けなかった。
  5. 現実以上に曲線が多かった。
    • 電化時に一部区間の線路が付け替えられる。

福岡市営地下鉄七隈線

1980年代
  1. 1000系電車と同じタイプの車両が登場していた。
  2. 天神~橋本間or博多~橋本間として、開業していた。
1990年代
  1. 遅くても、1999年頃までに開業していた。
  2. 3000系電車の登場は史実通り。
  3. 史実通りに天神南~橋本間として、開業していた場合、2005年に天神南~博多間が開業していた。
    • 博多駅前道路陥没事故は起きていたのであろうか?
    • 九州新幹線が全通した年である2011年に開業していた可能性もある。
      • その代わりに、東日本大震災の影響により、開業記念イベントは中止となっていた。
  4. キャナルシティ博多の利用客が史実よりも多くなっていた。
    • キャナルシティ博多イーストビルの開業も史実よりも早まっていたかもしれない。

海外

英仏海峡トンネル

1890年代

ドーバー海峡にトンネルを建設する構想は古くからあり、19世紀に最初の調査・掘削が行われています。

  1. オリエント急行はロンドン発着だった。
    • 後のTEEにも「ブリタニア」「ロンディニウム」などの愛称を持つロンドン発着の列車があった。
  2. 現実より断面が小さい。
  3. 大戦中にドイツ軍の攻撃対象にされた。
    • むしろイギリス上陸作戦の足掛かりとして無傷で確保せよとの指示が出ていた。
      • 作戦名も「アシカ作戦」ではなく「ダックスフント作戦」あたりになっていた。
  4. 欧州大陸と同じ規格で建設されたグレート・セントラル本線が真価を発揮できていた。
    • もちろんビーチング・アックスの魔の手にもかからず現役バリバリだった。
1980年代

1978年に掘削が再開されましたが、その後1986年まで工事中止になってしまいました。

  1. 当初は「世界最長の鉄道トンネル」を名乗った。
  2. TGVは北線が優先的に建設される。
  3. 日本にカートレインが登場する時期が早まっていた。
  4. Class 373はTGV Sud-Estをベースとした車両になっていた。
  5. 日本の青函トンネルが開業した年である1988年になっていた可能性もある。

瀋陽地下鉄(中国)

1940年代
  1. 要するに、この計画が実現。
  2. 北京ではなくこの地下鉄が「中国初の地下鉄」に。瀋陽市民の自慢ネタが増える。

ソウルメトロ(韓国)

1930年代
  1. 御堂筋線の一部区間のように昭和恐慌の失業者対策の一環で建設された。
  2. 日本時代に建設(開通)した路線は左側通行になる。

関連項目