武将伝/中国
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春秋戦国の武将
楽毅
- 燕の昭王に仕えた武将。
- もともとは中山という小国の宰相の息子だったらしい。
- 中山が趙の武霊王に攻め滅ぼされると、諸国を転々とするが、とりあえず魏で就職。
- 魏の使者として燕に行った時に、楽毅の器量を見込んだ昭王にヘッドハンティングされて転職。
- 昭王の悲願であった、南の大国・斉への復讐戦を、ごくわずかな期間で成し遂げる。
- 楽毅に攻められた斉は、2つ3つの城を残して全部燕の版図になってしまう。
- しかも占領地での住民の叛乱が一度も起きなかった。行政官としても卓越していたようだ。
- 昭王が没すると、次の恵王には嫌われ、召還される。
- 楽毅は身の危険を感じて、趙へ逃亡し、恵文王に仕えるようになる。
- 後任の将軍は、斉の諸城をたちまちとりこぼして元の黙阿弥に。楽毅の優秀さを皮肉な形で証明してしまった。
- 孟嘗君は恵王を名指しで、「こんなバカな王は見たことがない」と批判したとか。
- のち、漢の高祖、諸葛孔明などに崇拝された。
- 諸葛孔明は管仲・楽毅に憧れ、自分をそのふたりに喩えていた。ふたりとも軍事と行政に共に秀でていた。孔明は行政については管仲や楽毅に並ぶだけの才能を発揮したが、軍事に関しては残念ながら遠く及ばなかったようだ。
白起
- 秦の昭襄王に仕えた武将。
- 昭襄王というより、宰相の魏冉に仕えていたと言える。魏冉が失脚すると、昭襄王の言うことを一切聞かなくなり、そのうち抗命罪により自殺に追い込まれる。
- とにかく戦争に強かった。どんな膠着した戦場でも、白起が参戦すれば必ず勝った。
- ただし戦後の占領行政などに対する配慮は無かったらしい。そのため不必要なほどに人を殺し、街なども荒廃させた。
- 長平の戦いで趙軍45万人を皆殺しにした話は有名。
- 他にも万単位の虐殺はちょくちょくやっている。まあ、数字には誇張がありそうだが。
- 昭襄王の命令で自殺する時、「俺はなんでこんな目に遭うんだ?」と自問。
「そうか、敵を殺しすぎた酬いか」と自答して、納得して剣に伏した。最後でようやく気がついたらしい。
- 長平の戦いで趙軍45万人を皆殺しにした話は有名。
- ただし戦後の占領行政などに対する配慮は無かったらしい。そのため不必要なほどに人を殺し、街なども荒廃させた。
廉頗
- 趙の武将。刎頸の交わりの逸話で知られる。
- 藺相如という成り上がり者の大臣を憎み、「顔を合わせたら必ず恥をかかせてやる」と息巻いていたが、その後藺相如の力量と忠誠心を知って大いに反省、謝りに行って意気投合し、「互いに頸をはねられても変わらぬ友で居よう」と誓い合った。
- 秦の執拗な侵攻を巧みな用兵で妨げていたが、決戦を避けて秦軍の退却を待つ戦法を王様にじれったがられ、若手の将軍と交代させられてしまう。
- その若手将軍は功にはやり、秦の白起の誘いにはまって、死者45万という大敗北を喫してしまう。
- 数字は眉唾だが、趙軍がほとんど壊滅したのは確かだろう。
- 白起は廉頗の交代後に着任したので、この両将の対決は微妙なところで実現しなかった。実現していたら戦史に残る名勝負になっていたかもしれない。
- ……が、名将同士の戦いというのは、意外と地味なものかもしれない。
- その若手将軍は功にはやり、秦の白起の誘いにはまって、死者45万という大敗北を喫してしまう。
秦漢の武将
章邯
- 秦の二世皇帝の時、全土で蜂起した反乱軍を向こうに回して奮闘した武将。
- もともとは財務官僚で、各地からの年貢などを集計する役職だったため、首都・咸陽でひた隠しにされていた反乱の実相をかなり正確につかんでいた。
- 二世皇帝を籠絡して実権をふるっていた宦官・趙高に志願して将軍となる。趙高が軍事に疎かったため、配下の軍団も全部自分で作り上げた。
- その際も首都に溢れていた無駄に厳しい法で罪人された者たちに「敵を倒せば罪は許され帰れるぞ」と言い、あっという間に十数万の死を恐れぬ兵を得る辺り、やはり名将。
- 函谷関突破を狙っていた陳勝の部将・周文の軍団を撃破。これが主力部隊だったため、陳勝はほどなく没落した。その後各地に転戦し、反乱軍を叩き潰しまくった。
- 連戦連勝だったが、鉅鹿を包囲している時に項羽軍に叩かれて大敗。
- 本来まだまだ余力があったはずなのだが、咸陽に援軍を頼みに行った使者が、逆に趙高の指図で逮捕されそうになったことを知って落胆、項羽に降伏する。
- 項羽は章邯の降伏を受け入れたが、配下の秦兵たちが不穏だったので(かつ、食糧が不足していたので)穴埋めの大虐殺。
- 項羽によって雍王に封じられる。「雍」はもと咸陽のあった関中台地を三分した地域。
- が、漢中から噴出してきた劉邦の軍に押し潰される。
- 将才は劉邦の比ではなかったはずなのだが、関中の住民には章邯を恨む者が多く、結局満足に戦うこともなく没してしまった。
- そりゃあ、自分達の知人多数を見殺しにして、自分達の国を滅ぼした者に王にしてもらったなんて、恨まれない方が無理。
- が、漢中から噴出してきた劉邦の軍に押し潰される。
韓信
- 漢の高祖(劉邦)に仕えた武将。
- もともとは淮陰という町のゴロツキ。
- 他のゴロツキに因縁をつけられ、そいつの股をくぐったそうな。
- 志が高かったので無用の争いを好まなかったのだと言われている。しかし単にヘタレなだけだったのかもしれない。
- 後々も「股夫」とバカにされるが、それで敵が侮って油断してくれる面もあった。
- 他のゴロツキに因縁をつけられ、そいつの股をくぐったそうな。
- 項羽軍に属するが、鳴かず飛ばず。咸陽陥落の際、漢中に向かう劉邦軍に鞍替え。
- 劉邦軍は人材が少なかったのでそこそこ出世。でも満足できなかった。
- どこか見所があったらしく、蕭何、夏侯嬰など劉邦の側近に見込まれ、劉邦に推薦される。
- 「国士無双」というのは、蕭何が韓信を高祖に推薦した時の言葉。
- あっという間に関中を陥として将才を証明し、劉邦配下の最強将軍と認められる。
- 続いて項羽の本拠地だった彭城も、留守を狙ってあっという間に陥とす。ただし、激怒した項羽によりあっという間に奪い返される。
- 彭城の時は諸国連合軍で韓信が率いていたわけではないのでノーカン。
- 大将軍に就任した際に述べた現状分析は凄まじく的確。劉邦始め誰もが「なるほど、この男なら」と思われ、実際にそうなる。
- 続いて項羽の本拠地だった彭城も、留守を狙ってあっという間に陥とす。ただし、激怒した項羽によりあっという間に奪い返される。
- 彭城の潰乱後は、主に北方戦線を担当し、趙、代、斉などの国々を攻略。
- 「背水の陣」や「半渡の計」など、兵法史に残る奇略を次々に編み出し、僅かな期間で巨大な版図を得てしまう。
- 劉邦から離れ、第三勢力となるべきだと説く者も居たが、根が小心者だったようで、その戦略には乗らなかった。
- 敵より少数であること多々、ごく少数であることも有。更に敵地に入る侵攻戦で敵将も戦慣れしたもの多数。それで全勝だから。
- 漢帝国成立後は王に封じられるが、功績が大きすぎて警戒され、しょっちゅう謀反説がささやかれて居心地悪いこと甚だしかった。
- ついに淮陰侯に格下げされてから、ガチで謀反を企むが、すでに遅すぎた。捕らえられて処刑される。
- それも捕らえたのが韓信を見出した蕭何だったというのがまた運命の皮肉すぎる。
- 劉邦が困っている時に韓信が自分を高く売りつけたが、その恨みを劉邦が忘れていなかった説もある。
- ついに淮陰侯に格下げされてから、ガチで謀反を企むが、すでに遅すぎた。捕らえられて処刑される。
- 将棋以上の競技人口を誇る中国のボードゲーム「シャンチー」は韓信が発明したと言われている。
李広
- 漢の文帝・景帝・武帝の三代に仕えた武将。
- 後に呂布の呼称にもなる「飛将軍」は、元々彼の二つ名である。
周亜夫
- 漢の景帝に仕えた武将。
- 高祖の配下で、恵帝の時に丞相を務めた周勃の息子。二世武将としては出色と言うべき。
- 景帝に叛旗を翻した「呉楚七国の乱」を丹念な戦略で平定する。
霍去病
- 漢の武帝に仕えた武将。
- 武帝の皇后だった衛氏の甥。ちなみに衛氏の弟(衛青)も優秀な武将だった。
- 匈奴の軍団を完膚無きまでに撃破。漢帝国成立以来の快挙を成し遂げる。
- この頃、鏃(やじり)に鉄が使われ始めたということも大きかったらしい。
- また叔父の衛青は若い頃国境付近で牧童をしており、匈奴の実情をよく知っていた。
- 没年24歳。青年将軍というよりほとんど少年将軍だった。これはもう天才であるとしか。
- 兵糧不足で飢えつつある兵士たちを尻目に豪食していたり、しょっちゅうポロにうつつを抜かしていたり、わりと傍若無人なキャラだったらしいが、その天才ぶりで許されてしまっていたようだ。
- おそらく霍去病に罹患していたのだろう。
李陵
- 漢の武帝に仕えた武将。
- この人も匈奴を相手に戦うが、以前の衛青や霍去病の大活躍に較べると、その活動は地味。
- というか、衛青や霍去病の後任はみんな見劣りする。まあ仕方がない。
- 孤軍奮闘するも力及ばず、匈奴に降伏。
- どっちかというと援軍を送らなかった武帝が悪い。いや、すでに国庫が傾きつつあるのにいい気になって軍事行動を繰り返させていた武帝が悪い。
- 武帝も自分の落ち度をちょっと反省していたのかもしれない。李陵を弁護した司馬遷のち*こを切り落とすような極端なことをしたのは、痛いところを突かれたからだったかも。
- 中島敦の小説になったので、古代中国の人としては、日本での知名度はかなり高い。
- 「史記」を訳しただけなのに、なんでこれが小説なんだ、といぶかしんだ人も居た。
馬援
- 後漢の光武帝に仕えた武将。
- もとは牧場主。
- もっと前は新の小役人として囚人護送をしていたが、囚人達を逃がしてしまい、自分も逃亡して北方で牧畜を始める。
- 経営の才能と気っぷの良さで、多くのカウボーイに慕われる親分となる。これが馬援の自前の軍勢となる。
- 群雄のひとり隗囂の配下となるが、使者として訪ねた光武帝と意気投合して乗り換える。
- 厳密には、隗囂を光武帝の軍門に下らせたが、そののち隗囂と光武帝が不仲になると光武帝についた。以後、光武帝の片腕として活躍する。
- 光武帝は馬援の娘を自分の息子の嫁にする。後漢第二代・明帝の皇后となったわけ。
- 馬皇后は稀に見る賢夫人になった。皇后一族が跋扈することの多かった後漢王朝だが、馬皇后は自分の縁者はほとんど登用しなかったという。
- 「矍鑠(かくしゃく)」という言葉で評された第一号。
- 晩年、叛乱を鎮圧しに行こうとしたところ、光武帝に「卿ももうトシだから無理は良くない」と言われた。「なんの、まだまだ元気ですぞ」と馬に飛び乗ると、光武帝は苦笑して「矍鑠たるかな、この翁!」と叫んだそうな。
- ベトナムでは敵役。
- 「ベトナムのジャンヌ・ダルク」と呼ばれるチュン姉妹の叛乱を制圧したため。
- 死後しばらく汚名をこうむっていたが、のち名誉回復。
- 叛乱軍から没収した財宝を着服したと疑われた。
- 車に燕麦の種籾を積んで、幌をかけて密閉しておいたのを誰にも見せなかったので、財宝だろうと思われたらしい。ちょっとイタズラが過ぎた。
- 叛乱軍から没収した財宝を着服したと疑われた。
- 先祖は廉頗や藺相如と並ぶ趙の名将・趙奢。子孫に三国志で知られる馬騰、馬超親子がいる。
班超
- 西域の鬼傑と呼ばれた武将。後漢の明帝・章帝・和帝に仕えた。
- 西域諸国に対する覇権を匈奴と争い、多くの国を服属させた。
- 班超が居るうちはよく治まり、他の人に引き継いで居なくなるとたちまち乱れた。根っから西域行政に向いていたとしか。
- 洛陽に帰ろうとした時、班超の馬の足にすがりついて引き留めた国王も居たそうな。
- ローマにも使者を出したが、シリアまでしか行き着けなかった。
- シリアの船乗りに海路の困難さを脅かされてびびったらしい。地中海なんだから古くから航路も発達していたし、問題は無かったと思うんだが。
- 班超が居るうちはよく治まり、他の人に引き継いで居なくなるとたちまち乱れた。根っから西域行政に向いていたとしか。
- 班超の兄・班固と妹・班昭は司馬遷の「史記」に続く史書「漢書」を編纂した。この兄妹、すごすぎる。
- 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という名言を残した。
三国の武将
夏侯惇
- 曹操に仕えた武将。
- 曹操の挙兵当初から常に一緒に行動していた。
- 曹操の従兄弟だったらしい。
- 隻眼だったので「盲夏侯」と呼ばれた。
- 片眼を戦場で射られ、矢を引き抜いたら眼球ごと抜けてしまい、それを食った……という勇ましい伝説があるが、なんぼなんでも作り話だろう。
- 横山三国志では作者曰く「別に食わせなくてもいいじゃん」ということで食べる描写はなかった。
- 演義では一応、「親から授かったこの身を無駄にしてなるものか」と叫んで食ったことになってるけどね。
- 横山三国志では作者曰く「別に食わせなくてもいいじゃん」ということで食べる描写はなかった。
- 本人は相当気にしてたらしく、このあだ名を嫌い、鏡で自分の顔を見る度に怒ってその鏡を割ってしまったと言う。
- 片眼を戦場で射られ、矢を引き抜いたら眼球ごと抜けてしまい、それを食った……という勇ましい伝説があるが、なんぼなんでも作り話だろう。
- 三国志演義では数々の戦争で武功を挙げた猛将になっているが、夏侯惇が参戦したと正史に載っているのは2回だけ。しかも両方とも負け戦。
- 武功では劣っていても治水事業などで功績を挙げていたりもして、曹操が無能な人間を高位につけるわけがないので、本来は軍政家だったのかもしれない。
- 基本的に曹操の近くにいたため、記述が省かれてるだけだろう。
- 最近は理想的なナンバー2として描かれることが多い。
呂布
- 三国志の武将の中でも、武勇は随一。
- 演義ではアンタッチャブルな強さ。実際個人でも強かったのだろうが、騎馬民族の部隊を率いていたからとも。
- 裏切り者の代名詞的な存在。
- 本人は裏切っているつもりはなかったかもしれない。
- 丁原……「あいつは乱暴者で悪いヤツだって董太師に言われただ。だから首をとってやっただ」
- 董卓……「あいつは帝を苦しめるひどいヤツだって王司徒が言ってただ。だからこらしめてやっただ」
- 袁術……「身内を全部殺した董卓をおらが討ってやったのに、ちっともありがたがらねえで冷たかっただ。だから出てきてやっただ」
- 袁紹……「なんでおらを殺そうとするだ。こんなヤツのとこには居たくねえだ」
- 劉備……「おらがこんなに良くしてやっただに、ちょこまか動き回っておらを陥れようとするだ。ちょっくらお灸を据えてやるだ」
- 劉備が袁術の配下の紀霊に攻められた際、仲裁に入って、「おらは戦うのは嫌えだ。人を仲良くさしてやんのが好きなんだ」と言ったのは、案外本音だった可能性もある。
- 本人は裏切っているつもりはなかったかもしれない。
- その格好から、ゴキブリと言われることも。
- イケメンだったらしい。
- 曹操に敗れて捕まった時、「あんたの歩兵とおらの騎兵がありゃあ天下無敵だべ。これでまあ、天下は定まったってもんだ」と本気で言った。曹操もけっこうその気になりかけたが、傍らに居た劉備が水を差したので結局処刑。
- 呂布はこの時はじめて劉備に嫌われていたことに気づいたのであった。
- 「こんの、大耳野郎! 裏切ってばかりいんのはおらでねえ、おめえでねえか!」というのが、呂布の絶望を込めた最後の言葉。
- 呂布はこの時はじめて劉備に嫌われていたことに気づいたのであった。
- 赤菟という最高級の名馬に乗っていた。
- 「人中に呂奉先あり、馬中に赤菟あり」と称えられた。
- 演義では呂布の死後、曹操から関羽に贈られたことになっているが、正史にはそんな記述は無い。それに呂布が死んだ頃には、赤菟もかなり高齢だったはず。
- 関羽が呂布未亡人を欲しがったという話もある。後世の人々は、なんとなく呂布から関羽へいろんなものが引き継がれたイメージを持ったのかもしれない。
- 中国での評判は散々。裏切りはともかく、義父を2度も殺しているのが痛すぎる。(儒教的な意味で)
関羽
- 蜀の劉備に仕えた武将。
- 義兄弟だが、「お兄ちゃん大好き(おっさん声)」とか言ったりしない。
- 智勇兼備の名将で、主君への忠義は絶大だった。
- 結構気難しいタイプだったようで、部下や領民は可愛がるが、同僚や目上の人物、他国の人々とはたびたび衝突したようだ。
- そのため、本来は味方であるはずの呉や、後方支援の味方まで敵に回してしまい、結局はそれが命取りになった。
- 呉「関羽殿、お宅の娘を嫁がせてくれ。我らと婚戚関係になって同盟を確固たるものにしよう」→関羽「犬に娘をやれるか!」→呉「犬だと…忘れんぞ」
- 後方支援「しまった、関羽への支援が足りない。怒らせると怖いし、感謝されたことないし、プライド高いし……よし、支援要請自体をなかったことにしよう」
- 死後、神様になった。
- なぜか武の神様ではなく、商人の守り神になった。しかも皇帝はおろか王にもなってないのに、「関帝」と名付けられた。
- 約束を必ず守る信義固さで、商取引に大事な信用の象徴→商売の神様となった。
- また敵中にあっても揺るがない忠誠で、後世の皇帝に「関羽を神として祭れば、ウチの部下も忠誠を尽くすだろう」と思われ、その後の皇帝に「ならば朕は『候』を贈り『関候』とするぞ」「それを倒した我が帝国は候より上の『関王』だな」「ならウチは更に『関帝』だ」「さ、更に上となると『皇』しかない…けど自分と同格では忠誠じゃないぢゃん」となった。
- なぜか武の神様ではなく、商人の守り神になった。しかも皇帝はおろか王にもなってないのに、「関帝」と名付けられた。
- 異様に嫉妬深いタイプでもあった。特に劉備の寵愛に関しては、自分をしのぐヤツが出現するのを絶対に許さなかった。
- 馬超、黄忠などに対してもものすごい敵愾心を燃やした。
- 馬超が劉備陣営に加わった時は、わざわざ諸葛亮に荊州から手紙を出して「馬超と俺とどっちが上だ?」と問い合わせた。諸葛亮はおっかなびっくり「張飛とどっこいどっこいというところ、ヒゲ殿にはとてもかないません」と機嫌をとった。
- 黄忠を後将軍に任命する時も、諸葛亮はまだびびっていて、「同格の将軍にするなんて、雲長さんが怒りますよお」と劉備に訴えたが、劉備は「ワシがよく言い聞かせるから」と断行。案の定関羽は激怒し、「あんな老いぼれと同格なんて辛抱できん!」と荒れまくった。
- 馬超、黄忠などに対してもものすごい敵愾心を燃やした。
- 映画祭。
- 実は劉備より年上という説が有力。
張飛
- 関羽と同じく、蜀の劉備に仕えた武将で、劉備、関羽と義兄弟になった。
- 武勇は蜀軍の中でもトップクラスで、智略もあったようだ。
- でもコーエーのゲーム・三国志シリーズでは、知力が異様に低くなっている。
- 関羽とは逆に、同僚や目上の人物からの受けは良かったが、部下や領民には厳しかったようだ。
- 関羽と同じく、それが命取りとなり、部下に寝首を掻かれてしまった。
- 劉備から「おめえさんは手下を殺しすぎらあ。しかも殴ったヤツを平気で自分の側に置いてるってえじゃねえか。危ねえよそりゃあ」と忠告されたが、聞かなかったらしい。
- それどころか、「いや兄貴、俺だって考えちゃあいるんだぜ。ぶん殴る手下は身寄りが少ないヤツにしてるんだ。そうすりゃ下手うって殺しちまっても、後で仇を討たれる心配はないからよお」と答えたとも言う。本当だとしたら実はとんでもなくイヤなヤツである。
- 案の定、虐待した部下たちに殺された。劉備は張飛の副官から報告が来たことを聞いただけで、
「あちゃあ~、益徳が死んじまったか~orz」と落胆したそうな。
- 死後は、三国志の人物ではNo.1の人気者になり、京劇などでは主人公になったりと大忙し。
- 『はるひ』ではない。
- 得意技は燕返し。
張遼
- 曹操に使えた武将で、元は呂布の配下。
- 呂布とともに処刑されそうになった時、関羽が彼の命乞いをしたため、命を助けられることとなった。
- 主に呉との戦で活躍し、呉では泣く子も黙ると恐れられた。
- 演義では矢が刺さった傷が元で死んだことになっているが、実際は普通に病死だったらしい。
- 横山三国志における矢の刺さった場所が・・・。
- おそらく魏最強の将軍。
- 呂布の配下時代は、劉備攻めの先陣を務めて散々に蹴散らし(関羽と張飛がいたはずなんだが・・・)、劉備は命からがら曹操の元に逃げ込んだ。
- 呉の合肥攻めでは少ない軍勢で孫権の本陣まで攻め込んで将軍数名を討ち取った。
趙雲
- 公孫瓉から蜀の劉備に乗り換えて活躍した武将。
- 三国志演義を読むと、けっこう見せ場が多くて、関羽・張飛に次ぐ地位に居たように見えるが、実は意外と重用されていない。
- 乱戦の中から阿斗を救ったとか、孫氏(孫権の妹で劉備の妻)が里に帰る時に阿斗を連れ出したのを奪回したとかいうのは作り話だし。
- 阿斗を救ったのは事実。というか正史の本文にはそれしか功績らしいものは見当たらなかったりする…
- 益州攻略戦や夷陵の戦いなど、劉備にとって重要な戦争にはほとんど置いてきぼりをくらっていたし。
- 「五虎将軍」に加えられたというのも「演義」の創作で、実際には、馬超と黄忠が関羽・張飛と同格の将軍に任命された時に外されていたし。
- 馬超は涼州軍団を率いており、黄忠は荊州勢のまとめ役みたいな立場だったので幹部に取り立てざるを得なかったが、趙雲は個人的就職だったので選に漏れたのだろう。
- 乱戦の中から阿斗を救ったとか、孫氏(孫権の妹で劉備の妻)が里に帰る時に阿斗を連れ出したのを奪回したとかいうのは作り話だし。
- 劉備が関羽の復讐戦に猛り立った時、ただひとり冷静な意見を述べて反対した。
- この辺のクールさが、情に走りがちな劉備陣営ではやや異質な感じだったのかも。
- そもそも出兵に反対したという事自体、信憑性が低いけどね。
- この辺のクールさが、情に走りがちな劉備陣営ではやや異質な感じだったのかも。
- 三国志演義で脚色された部分を見ても、将としての活躍というより、個人的な武勇伝ばかり。たぶん軍勢を進退させる能力はあんまり無かったと思われる。
- 実際には劉禅の警護役みたいな立場だったように感じられるんだが、どうかな。趙雲が死んだ時に劉禅が大変心のこもった弔辞を送っているのは確かなようなので。
- 昔見た実写映画(タイトル忘れた)では、馬上でバク転してた。
周瑜
- 孫策・孫権に仕えた武将。
- 孫策とは幼馴染みで、しかも相聟(嫁さん同士が姉妹)。
- 孫策の臨終の時、張昭と共に孫権を託される。
- 赤壁の戦いで大活躍。
- 三国志演義ではしばしば諸葛亮に煮え湯を飲まされるが、実際にはほぼ単独で曹操軍を撃退した。
- 劉備を全く信用してなかった。
- そもそも周瑜と接触した時点での劉備は、ほとんど信用されるに足る履歴を持っていなかったのだから、それもやむを得ない。信用した魯粛のほうが奇特な人と言える。
- 三国時代のリア王。
- 本人も「美周郎」とあだ名されたほどのイケメン。
- 「イケてる周サマ!」というところ。
- しかも若かった。享年なんと37。
- 嫁の「小橋」も名だたる美人。
- 曹操が呉を攻めたのは「小橋」と孫策未亡人「大橋」の美人姉妹を得るためだったというような噂が流れたほど。
- 音楽にも堪能。
- 食事の時など、流れている音楽に間違いがあると、振り返って演奏者を睨みつけた。
- 宴会で酔っ払っていても。人はビビっていたそうな。
- 食事の時など、流れている音楽に間違いがあると、振り返って演奏者を睨みつけた。
- リア充でもあった。「爆発しろ」と思われていたかどうかは知らないが。
- 本人も「美周郎」とあだ名されたほどのイケメン。
- ゲームとかでは、軍師扱いが多いが、どちらかというと将軍だろう。確かに頭脳明晰ではあるが。
- 関西弁は似合わなさそう。「天はこの世に周瑜を生んどきながら、なんで諸葛亮も生んだんや!?」
- 実際には諸葛亮に会ったこともないし、存在も知らなかったらしい。劉備からの使者として名前くらいは聞いたかもしれないが。
- 諸葛瑾の親族程度の認識はあったんじゃないかな。弟というのまでは知らないまでも。
- 諸葛亮は赤壁前に外交官として孫権に会っているので、面識ぐらいはあるだろう。
- 周瑜が孫権のところに召還される前に諸葛亮は帰国していたと思われる。その後の荊州争奪の折りも、諸葛亮が大戦略を立てているとは周瑜は全く気づいていなかった。というか、周瑜は劉備自身を自分より格下に見ていたので、劉備の家来にまで興味を持ったとは考えられない。
- 関羽、張飛は高く評価していた。劉備に美女をあてがって骨抜きにして、関羽、張飛を自分の部下に引き抜こうとしていたし。ただし孔明は全く気にしてなかった。
- 周瑜が孫権のところに召還される前に諸葛亮は帰国していたと思われる。その後の荊州争奪の折りも、諸葛亮が大戦略を立てているとは周瑜は全く気づいていなかった。というか、周瑜は劉備自身を自分より格下に見ていたので、劉備の家来にまで興味を持ったとは考えられない。
- 諸葛亮は赤壁前に外交官として孫権に会っているので、面識ぐらいはあるだろう。
- 諸葛瑾の親族程度の認識はあったんじゃないかな。弟というのまでは知らないまでも。
- 実際には諸葛亮に会ったこともないし、存在も知らなかったらしい。劉備からの使者として名前くらいは聞いたかもしれないが。
- 大豆を発酵させて搾った液体。
魯粛
- 孫権に仕えた武将。
- 演義などの影響で、頼りなげな文官のイメージがあるが、実際は武官で、頭脳明晰で果断な人物だった。
- まだ呉に仕える前、周瑜が彼の家を訪問したとき、家にあった蔵のうち半分をそのままプレゼントした。
- 当時荊州に駐留していた関羽の元に単身乗り込み、領土(荊州南部)を奪い取ってみせた。
- このとき関羽はぐうの音も出なかったという。
- 戦わずに勝つという孫子の兵法をまさに体現した人物。
- 赤壁の戦いの前に、孫権をおどかしたあたりもなかなかの骨っぽさ。
- 「ワイはええんでっせ。曹操に降伏しても、まあぼちぼちの身分で取り立てられると思いますわ。でもあんさんはどないでっか? もともと大した家柄でもなし、どないして身ィ立てる気やねん」
これを聞いて孫権は慄え上がり、曹操との対決を決意したと言う。
- 「ワイはええんでっせ。曹操に降伏しても、まあぼちぼちの身分で取り立てられると思いますわ。でもあんさんはどないでっか? もともと大した家柄でもなし、どないして身ィ立てる気やねん」
- 惜しむらくは、寿命には恵まれなかった。享年46。あと20年長生きしたら、どうなっただろうか。
- 金持ちのボンボン。親族から変人呼ばわりされるほどのボンボン気質。
賀斉
- 演義には登場しない、呉最強の将軍。
- 異民族討伐が主な任務だったので、演義では出番がなかった。
- いつも少ない兵力で出陣し、勝利を収めた。
- 異民族の中には、彼の名を聞いただけで震え上がる者も。
- 合肥では、魏最強の張遼とぶつかり合い、張遼に奪われた大将旗を奪い返すという戦功を挙げる。
- この時の張遼のチートな強さを考えれば、賀斉もどんだけ強いんだと。
- その直後に孫権に説教。
- 賀斉「おめえは戦下手なんだからもう少し自重汁。」
- 孫権は「ごめんなさい」と平謝りだった。
- 派手好きで、鎧や盾、戦艦などにも派手な装飾を施していたという。
呂蒙
- 孫権に仕えた武将。
- 無学だったが、孫権に薦められて書物を読むようになり、いっぱしの軍略家となる。
- 最初「忙しくて本なんぞ読んでられまへんわ」と逃げようとしたが、孫権はしつこく、「忙しいちゅーたらワイのほうがよっぽど忙しいわ。それでもワイはいつも本を手元に置くようにしとるんやで。何も学者になれゆーとるんやない、騙された思て読んでみ」と薦めた。しかも推薦図書まで何冊も挙げた。
- そんなわけでたぶん最初はいやいや本を読み始めたと思われるが、だんだん面白くなったらしい。
- この時期「呉下の阿蒙」の逸話を残す。
- たまたま魯粛と話す機会があり、呂蒙が急に賢くなっていたので驚いた魯粛が「いやはや、呉の街の蒙ちゃんとはもう呼べんなあ」と慨嘆。
- 「男ゆうもんはな、3日顔合わせんかったら、眼ン玉見開いてよ~く見とかんとあかんで」と逆に魯粛に説教。
- 頑張ったのはわかるが、この上から目線はなんなんだ。
- 関羽を打ち破る。
- 本人は意外と病弱で、関羽を破って間もなく病死。人々はみんな「関羽様のたたりじゃあ」と大騒ぎ。
- 呂蒙の霊「ちゃうわ! わしゃその前から病気やったんや! 信じてくれ~!」
- 本人は意外と病弱で、関羽を破って間もなく病死。人々はみんな「関羽様のたたりじゃあ」と大騒ぎ。
魏延
- 蜀の将軍で、劉備には絶賛されたが、諸葛亮とは反りが合わなかった。
- 劉備に絶賛されたからこそ、諸葛亮に疎まれたんだろう。
- 諸葛亮の死後、実権を握ろうとして、楊儀と争い処刑された。
- 要は、蜀の荊州閥の勢力争いに敗れただけ。
- 後世の扱いはひどい。
- 演義では完全に悪者扱い。
- 実力ある将軍だったのに・・・・・・。
- 墓をぶっ壊されてその上に線路を敷かれているらしい。
- 魏との国境に近い漢中の太守を劉備から任され、大過なく治める。実は行政能力もけっこうあった。
- 最前線の司令官兼行政官として、魏の攻略法を考案し練り上げていたと思われる。その結果が長安への電撃侵攻作戦だったが、諸葛亮に一蹴される。そりゃ腐るわな。
- 後世にも、諸葛亮の言い分に理があったと認める人が多いが、魏延の作戦が通っていたらどうなっていただろうか。
- 実はこの作戦の記述は『魏略』によるもので、信憑性は低い。彼がこの作戦を本当に提案したのかは疑わしい。
- 後世にも、諸葛亮の言い分に理があったと認める人が多いが、魏延の作戦が通っていたらどうなっていただろうか。
- 最前線の司令官兼行政官として、魏の攻略法を考案し練り上げていたと思われる。その結果が長安への電撃侵攻作戦だったが、諸葛亮に一蹴される。そりゃ腐るわな。
- 困った人を放っておけない、情に厚い人間だったらしい。魏延金だけに。
楊儀
- 蜀の武将というより文官。だが文官の項目がないので、ここにした。
- 魏延の喧嘩相手として有名。
- だが蜀建国の頃に上司の劉巴に逆らって左遷されている辺り、よく人と衝突するタイプだったようだ。
- 魏延との対比で、魏延が劉備に、楊儀が諸葛亮に抜擢されたと思われがちだが、実は彼も劉備が抜擢した武将だ。
- しかもかなりの高評価だったようだ。
- ちなみに最初は関羽に仕えていたが、関羽の推薦で劉備の直臣になったという経歴がある。関羽からも認められていたようだ。
- 関羽がもてあまして劉備に押しつけたんだと思ってた。
- ちなみに最初は関羽に仕えていたが、関羽の推薦で劉備の直臣になったという経歴がある。関羽からも認められていたようだ。
- しかもかなりの高評価だったようだ。
- 軍事には素人だったが、事務官としてはチートだったらしい。
- 軍事チートと事務官チートの対立。孔明も頭を悩ませるわけだ。
- 最期は『魏に仕えていたらここまで落ちぶれなかっただろう』と不満を言った『として』、逮捕、投獄され『自殺』した。
- 楊儀が容疑者になってしまった。
姜維
- 諸葛亮が晩年に見出した蜀の武将。
- 末期の蜀軍を支え、しばしば魏に侵攻しようとした。
- ずっと侵攻したがっていたのを、蒋琬や費褘に抑えられていたというのが実情。費褘が暗殺された途端に活発に軍事行動を始めた。
- このため、三国志演義の読者からは人気が高いが、実際には姜維の連年の軍事行動で蜀の財政が著しく疲弊し、滅亡を早めたとも言える。
- 後主・劉禅とその周辺に嫌われたのは主にそのせいで、宦官・黄皓の讒言があったためではない。
- とはいえ、涼州方面に軍事拠点を作られてしまうと蜀が終わってしまうという現実があったわけで、北伐は別に私利私欲で行われたわけではない。
- 実際、蜀の存在意義は「魏を倒して漢を復興させる」だから魏への侵攻は間違いではなかったが、内政が整わない状態で侵攻していたのが問題だった。
- 魏の鍾会が攻め込んでくるとかなわず降参。口ほどにもないヤツである。
- あんまりだというので、後世の人は「鍾会に降ったのは計略で、機を見て鍾会を倒し、劉禅を救い出して蜀を再建するつもりだったのだ」ということにしたが、ほどなく殺されているため、そんなつもりがあったかどうかはわからない。たぶん作り話。
- × 鍾会が攻めてきたので降参 ○鍾会と対峙中に首都の劉禅が降参
- ちなみに降伏後に鐘会と手を組んで反逆を試みたが、どさくさに紛れて兵士に切り刻まれて殺されてしまった。
- 生姜の繊維。
- 生姜の維新とも言う。
晋・南北朝の武将
杜預
- 晋の武帝に仕えた武将。
- 三国時代に終止符を打った将軍。三国の中で唯一残っていた呉を亡ぼして、晋による天下統一を果たした。
- 攻勢をかけることを渋る武帝に対し、「呉は暗君(孫皓のこと)が上にいて国内が乱れており、今が攻めどきですよ。もしこのさき明君が立ちでもしたら、あなたの手には負えませんよ」と(もう少しやんわりと)おどかして決断させる。
- 呉を攻め落とした時にドヤ顔で「ど~よ」と言ったとか言わなかったとか。
- 攻勢をかけることを渋る武帝に対し、「呉は暗君(孫皓のこと)が上にいて国内が乱れており、今が攻めどきですよ。もしこのさき明君が立ちでもしたら、あなたの手には負えませんよ」と(もう少しやんわりと)おどかして決断させる。
- 「左伝癖」を自称。「春秋左氏伝」マニアということ。
- 現代に伝わる「春秋左氏伝」のテキストは、すべて杜預が校訂したもの。曹操の「孫子」校訂と並ぶこの時代の偉業である。
- ちなみに関羽も「春秋左氏伝」が大好きだったらしい。
- 唐を代表する詩人・杜甫は彼の子孫らしい。
- 武将なのに、馬に乗れなかったらしい。
- 博多弁とは関係ない。
宇宙大将軍
- 名前は侯景。
- 「漢の太祖」と称して短期間ながら帝位に就いていたので、「王侯伝」に載せても良いのだが、首都・建康以外にはほとんど影響しなかったので、まあこちらでいいか。
- もともとは北朝の東魏で、実力者の高歓と反目していた。そこへ南朝の梁の調略を受け、一緒に東魏を攻めることにする。ところが梁軍が東魏にボロ負けし、和平交渉が始まると、身柄を東魏に売られるのを怖れて逆ギレ、矛を返して梁を攻める。
- 梁軍はこの逆ギレ部隊にもかなわなかった。というより侯景の進撃につれてあちこちから叛乱軍が集結し、大軍団になってしまった。
- 梁の武帝は名君だったが、この頃は過度の仏教保護で重税となり、各地に不満分子が多かったらしい。
- ついに建康を囲み、5ヶ月の包囲戦ののち陥落させる。侯景は武帝の前にまかり出たが、最初は位負けして口もきけなかったそうな。
- 梁軍はこの逆ギレ部隊にもかなわなかった。というより侯景の進撃につれてあちこちから叛乱軍が集結し、大軍団になってしまった。
- 建康陥落で気落ちした武帝は間もなく没し、あとを継いだ簡文帝から宇宙大将軍の称号を贈られる。
- 簡文帝を弑殺し、甥の蕭棟を即位させて禅譲を受ける。しかし江陵にいた簡文帝の弟(のちの元帝)が差し向けた王僧弁・陳覇先の両将に攻められて敗死。
- それにしても中国史上もっとも壮大なスケールの称号を持った男であった。
- グレートマジンガーの「暗黒大将軍」よりさらに上位っぽい。
- 「宇宙」と書いて「そら」と・・・読まないか。
木蘭
→木蘭
隋唐の武将
尉遅敬徳
- 唐の太宗に仕えた武将。
- 苗字の「尉遅」はたぶん「ウルチ」と読み、同時代の高句麗の武将・乙支文徳とおそらく同族。
- 太宗の高句麗遠征を諫止したのも、同族があっちにたくさん居たからかも。
- 「胡敬徳」という名でも知られる。「西遊記」にはこの名で出てきた。
- 最初は唐に対抗していた劉武周の部将だったが、劉武周が唐軍に敗退してのち、李世民(太宗)に説得されて移籍。以後、太宗配下の随一の猛将として大活躍。
- 玄武門の変の時も、太宗の弟の李元吉を射殺したり、高祖に引退を迫るなど大殊勲を挙げる。
- 元吉は、尉遅敬徳が太宗側についたと知った時点で、「あいつが向こうについたんじゃ勝ち目はねえよ」と戦意喪失したそうな。
- 玄武門の変の時も、太宗の弟の李元吉を射殺したり、高祖に引退を迫るなど大殊勲を挙げる。
高仙芝
- 唐の玄宗に仕えた武将。
- 高句麗の遺民出身。「高」の姓は高句麗のこと。
- 上官を差し置いて朝廷に報告を送ったり、戦利品をがっぽりためこんだりと貪欲な男だったが、下の者に対しては気前が良かったので、配下の兵たちには人気があったらしい。
- パミール地方の戦役の時上官であった夫蒙霊詧は、高仙芝が勝手に報告書を出したので怒りまくり、
「犬のハラワタを食らう高句麗野郎!犬の糞を食らう高句麗野郎!」
と罵った。- 当時の民族的偏見のひどさの一例とされるが、犬食とか糞食とかって、もしかして……<丶`∀´>
- パミール地方の戦役の時上官であった夫蒙霊詧は、高仙芝が勝手に報告書を出したので怒りまくり、
- タラスの戦いでアッバース帝国軍に惨敗。
- タシケントを非常に卑怯な方法で攻略し、国王を斬り財宝を奪ったので、遺された王子がアッバースに泣きついた。
- 最大の敗因はカルルク族部隊が寝返ったことだが、敵からの調略があったのか、それとももともとカルルク族が心服していなかったのかは定かでない。
- この戦いで捕虜になった唐軍兵士の中に紙漉き工が居て、紙の製法が西方に伝わった話は有名。
- 惨敗したが、帰還した高仙芝にはおとがめがなく、かえって出世している。この辺が玄宗のぬるいところで、のちに安史の乱が起きたのも玄宗のこの性格によるところが大きい。
- 安禄山の乱で消極的な戦法をとり、結局糾弾されて処刑された。
- 監軍になっていた宦官の辺令誠の言うことを聞かなかったので讒言されたためで、戦法そのものは誤っていなかったと評価されることが多い。
- しかし辺令誠は西域時代からの昔なじみであり、進言を無視されたくらいで讒言する人物とも思えない。何か問題があったのだろう。
宋元の武将
岳飛
- 北宋末~南宋初期の武将。
- 「精忠報国」というタトゥーを入れていた。
- 戦争にはなかなか強く、金軍の制圧下の町をいくつも奪回した。
- ただしよく見ると、金軍の手薄なところを攻略していただけで、金軍の主力と正面から交戦したことは無さそうである。つまり、局地戦で小刻みな勝利を得ていただけで、戦局を大きく覆すほどの大勝とは言えない。
- 逆に、和平を進めたい側としては、岳飛が変に小刻みな戦勝を繰り返しているのが実に不都合だった。それで難癖をつけて誅殺してしまった。
- 「史上最低の腹黒宰相」であった秦檜が高宗に讒言して殺したと言われているが、実のところ和平派のボスは高宗自身。岳飛の悲運は、自分が頑張ることが高宗の邪魔になっていることに最後まで気づかなかった、ものすごく空気を読めない点だろう。
- とある作品では梁山泊の面々を討伐している。
明清の武将
袁崇煥
- 明末の武将。
- 山海関に常駐して満洲族の侵攻を防いでいた。
- なかなかの名将で、彼が山海関に居るうちはヌルハチ(清の太祖)もホンタイジ(清の太宗)も手も足も出なかった。
- かつて袁崇煥に罰せられた部将の配下を捕虜にしたホンタイジは、彼らを北京に送り込んで袁崇煥を讒言させた。明の崇禎帝は讒言を信じて袁崇煥を召還し処刑。
- 明は最後の名将を自らの手で葬ってしまったことになる。
呉三桂
- 明末~清初の武将。
- 袁崇煥の後任として山海関を守っていたが、清軍と競り合っているうちに明王朝が李自成に亡ぼされてしまう。
- もちろん李自成からは投降の勧告が来た。呉三桂は一旦その気になりかけたが、愛妾の陳円円が李自成の部将・劉宗敏に奪われたと聞いて激怒。
- でも自分だけで李自成に勝つ自信がないので、あっさり山海間を開けて清軍を引き入れてしまう。
- 呉三桂としては、清軍を自分の配下に加えるつもりだったのだが、清の摂政王ドルゴンのほうがず~っとうわ手で、またたく間に呉三桂を配下にしてしまう。
- 女ひとりのために国を夷狄に売り渡したってんで、歴史上の人物としては実に評判が悪い。
- ただし、国内の争いのために異民族を引き入れるというのは中国史ではよくある話で、呉三桂が特別性悪の売国奴だったわけではない。その異民族に早々と主導権を奪われてしまった点が愚かだっただけ。
- また、女のためだけだったかどうかも微妙。そのほうが面白いから定説化してしまっただけのような気がする。
- 清の天下になってから、藩王として待遇される。
- かなりの厚遇だと思うのだが、しばらくして不満を覚えて叛乱を起こし、結局斬られる。
- 自分が天下を盗るつもりだったのかもしれない。
- 清の朝廷にはめられて、叛乱に追い込まれただけとも考えられる。
- かなりの厚遇だと思うのだが、しばらくして不満を覚えて叛乱を起こし、結局斬られる。
僧格林沁
- 清末頃の蒙古騎兵を率いていた将軍。モンゴル族。
- 軍閥もうかつに清朝に文句を言えないぐらいの最強部隊だったらしい。
- そのせいか、清朝の宮廷にはウケがよく、最終的には、親王にまで昇進。