ページ「東海旅客鉄道/路線別」と「東海道」の間の差分

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==主な路線==
{{Pathnav|街道}}
*[[東海道新幹線]]
==東海道の噂==
*[[東海道本線/JR東海区間]]
*区間:[[日本橋_(東京)|日本橋]]~[[川崎市/川崎区|川崎]]~[[平塚]]~[[小田原市|小田原]]~[[箱根町|箱根]]~[[三島市|三島]]~[[静岡市/葵区|府中]]~[[掛川市|掛川]]~[[浜松市|浜松]]~[[豊橋市|吉田]]~[[岡崎市|岡崎]]~[[名古屋市/熱田区|宮]]~[[桑名市|桑名]]~[[三重/北勢#関|関]][[甲賀市#水口の噂|水口]][[草津市|草津]][[京都市/東山区|京都三条大橋]]
*[[中央本線]]
*[[関西本線]]
*[[紀勢本線]]
*[[リニア中央新幹線]]


==武豊線==
#言わずと知れた江戸時代の五街道の筆頭、現在でも交通の大動脈。
#くれぐれも言っておくが「たけゆたか」線ではない。
#現在ではJRの[[東海道本線|東海道線]]や[[東海道新幹線]]、国道は[[国道1号|1号]]、[[東名高速道路|東名]]~[[名神高速道路]]とかがおおよそこの街道を踏襲していると言って良い。
#*IME変換実験。「たけゆたか」→「嶽豊」、「たけとよ」→「嶽とよ」orz
#*ただし、難所の箱根峠と鈴鹿峠は別ルートを通っていることが多い。
#*実は、終点の武豊駅には武豊のサイン色紙がある。
#**国道1号を除いては箱根部分は高速道路は御殿場経由、鉄道は熱海経由。鈴鹿峠部分は、鉄道、高速道路ともに関ヶ原から米原方面を経由する方を通ってしまっている。
#**一日駅長を勤めた事があったとか。
#***大本となる東海道本線がもともと琵琶湖海運を活用する形で整備され、更に当時は中山道線としての計画だったのが大きい。
#東海道線を建設するため、武豊港からの資材運搬用として開通
#****岐阜から[[名古屋駅|名古屋]]・大府を経て武豊までの区間は本来、武豊港から中山道線の建設資材を山中に運びこむため造られた支線だった。しかし東西幹線が東海道経由に計画変更されたことで、大府以北は東海道線の一部に。残る区間が武豊線となった。
#*しかし東海道線開通以降はすっかりローカル線に
#****岐阜~熱田はルートとしては「美濃路」に相応する。江戸時代から東海道における木曽三川の難所を避けられる迂回路として使われていた脇街道ではある。
#*愛知県で唯一の非電化単線区間。「秘境」飯田線でも電化はされているのに
#***東海道新幹線は、北陸連絡強化と建設期間短縮・費用圧縮のために鈴鹿貫通が断念されて東海道線と同様の米原経由に。高速道路は[[新名神高速道路]]が後に本来の東海道に近いルートを通るようになった。
#**飯田線は元が私鉄だからね。国鉄として建設されていたら非電化だったと思う
#**箱根越え区間については、東海道線も元々は御殿場迂回だった。
#***その前に国鉄があんなところに鉄道走らせるかな・・・?
#***高速道路は鉄道と違い、勾配をそこまで気にせず済むので、山際を通る現在の東海道線ルートではなく[[御殿場線]]ルートを踏襲したようにも思える。
#そのまま博物館クラスの建物が現役
#*静岡県区間は国道1号線に沿ってはいるが、本道(ほとんどバイパス)と重複しているところはあまり多くない。
#*亀崎駅舎はJR最古・明治19年製
#基本的には「東海道五十三次」として、お江戸日本橋から京の三条大橋まで53の宿場町がある街道として知られる。
#*その他駅舎も大抵が大正とか戦前
#*浮世絵でも東海道五十三次は有名。
#名鉄との競合区間なので、全車キハ75を配備。贅沢な非電化路線。
#*ところが、京都からさらに大坂まで五十七宿で東海道、とする説もあるようで。
#*キハ75の配備は、名鉄と…というより東海道線の電車の足を引っ張らないための措置。
#**残り四つは伏見・枚方・守口・大坂だっけか?
#*本当に対抗したいなら電化・複線化が当然。
#***淀宿もあったと思う。
#名古屋に近いのに未だに非電化単線。名古屋に直通する列車も当然気動車(キハ75系)。
#**この区間は「京街道」とも呼ばれている。
#*やはり東海道新幹線を優先すべきと言う理念である為、ただ単にJR東海が赤字在来線の電化工事にお金をかけたくないだけだと思われる。
#**いや、京都とかもう東海道じゃなくて区分は畿内でしょ。地図帳でそう色分けされてた。何にでもしゃしゃり出てこないでほしい。
#**赤字だったらわざわざ新車入れて直通運転なんかしてないと思う。
#***色分けとか畿内とかはそりゃ五畿七道の話しでしょ。ここは街道としての東海道の話しですんで。
#**新車入れたのは東海道区間でスピード出すためと大府での乗り換え混雑を防止するため。
#最も有名な旅行者はなんと言っても弥次さん喜多さん、東海道中膝栗毛の主人公二人だろう。資料館や道ばたの説明板でも、その道中の模様が描かれていたりする。
#武豊に向かうのが「上り」。
#東海道沿いを辿って徒歩旅する人がいるが、見た限り、東京から京都方面に歩く人が多く、逆向きはそんなにいない模様。
#*これは武豊線が東海道線の資材輸送用に先に作られたから。列車番号までも逆になっている。
#静岡・愛知あたりでは灯籠なんかに「秋葉神社」の銘が入っていることが多い。秋葉神社は火除けの神様で[[浜松市/天竜区]]にある。宿場町に限らず、江戸時代は火事が多いしね。
#*そのため時刻表なども普通の路線と逆の順番。見るときは注意。
#律令国の東海道の範囲も街道の東海道の経路とほぼ一致する。異なるのは律令国の東海道の範囲は日本橋以東にも広がっている事くらい。
#*ところでこれ、律令国と街道名が一緒なのは単なる偶然なんだろうか。山陽道や北陸道はともかく、東山道・[[和歌山|南]][[四国|海道]]・[[九州|西海道]]は街道としての名もあるのかどうか分からんし。
#**東海道は少なくとも五畿七道の継承で今の名前になったと思う。徳川政権時代より前も道の名称として「東海道」が使われることはあった。
#**五畿七道の七道にはそれぞれ実際に都から国府への道があった。時代による変遷があるので完全では無いにせよ、江戸期以降の東海道もおおよそその時の道を踏襲していると言って良いかと思う。国道1号は東海道を踏襲している、と言うのと同レベルで。
#**[[中山道]]も江戸時代中期までは東山道などと呼ばれることがあった。
#*律令国の東海道は江戸期以降の東海道が通る範囲に加え、伊賀、甲斐と安房・上総・下総・常陸。江戸期以降の東海道は近江を通るが、律令国の近江は東山道。
#*余談過ぎるが、東海道自然歩道は全然別物。
#**正確には「[[遊歩道・ハイキングコース#東海自然歩道|東海自然歩道]]」ですな。主な経由地である東海地方からの命名です。
#***すまん、記憶違いだったわ。
#難所が多いため、迂回ルート(脇往還)が幾つか存在した。
#*上の美濃路もその一つ。七里の渡しに対して十里の渡し、佐屋街道・三里の渡しもあった。また浜名湖をまたぐ新居辺りでの姫街道なども。
#江戸時代、大井川など大河川に橋をかけなかったのは幕府の戦略と言われてきたが、実際には渡し屋の反対と当時の建設技術に基づくところが大きいらしい。
#*そういった場所では方言・食文化などの文化的な境界も生じている。
#*川が多いことから女性は遠回りでも中山道を行くことも多かったらしい。幕末の皇女和宮の降嫁の時も中山道経由。
#*そして大井川では明治になって橋が架かり、失職した渡しの人足たちは、同じく失職した元徳川幕府の武士の人たちと共に牧ノ原台地でお茶の生産に励むことになる。
#東海道と[[北海道]]が同じ「行政区分」(五畿八道)に因んだ名前であったことを知らない人は多い。今では「東西のルート」と「四島の一つかつ都道府県の一つ」で大きく立ち位置が異なるから。
#*そして南海道と西海道もあるのだが、知名度が大きく劣る。南海道は[[南海電気鉄道]]の由来でもあるのだが。
#**南海電鉄および関連会社以外にも、和歌山四国には「南海」がつく社名はある。西海のほうは[[長崎/彼杵#西海市|長崎県西海市]]っていうのができたけれど。
#*2016年に[[北海道新幹線]]が開業し、立ち位置が異なるまま共に新幹線路線の名前となる。


'''駅'''
==各宿場・街並みの噂==
*(東海道本線名古屋方面←)大府-尾張森岡-緒川-石浜-東浦-亀崎-乙川-半田-東成岩-武豊
*この項目では地域順に割込を許容します。要約欄に「地域順割込」の旨をお書き下さい。


==御殿場線==
===東京都・神奈川県区間===
#かつては東海道本線の一区間だった。
#東京都内区間は、品川付近を除いてほぼ国道15号線を辿る。世界の高級ブランドが軒を連ねる銀座の街並みや、田町の札の辻交差点の歩道橋から見る東京タワーは、現代の旅の始まり(京都側からだと終わり)と大都会東京を象徴する華やかな眺め。
#特急[[あさぎり(特急)|あさぎり]]が出来たのは「JR東日本の区間を通らずに東京への路線を増やす」ためである。
#日本橋から出てから初めて街道っぽい雰囲気を出してくるのが品川宿。左右に商店が並ぶ街並みは、古い歴史を感じるような商店から、和の雰囲気に凝ったカフェまで色々あって、歩いて楽しい。
#*国鉄時代から走っているのだが…
#幕末にアメリカから神奈川を開国するよう迫られたが、宿場町を開放したくない幕府は近隣の横浜村を神奈川として開港した。
#**御殿場発着の小田急の連絡急行から沼津発着の相互乗入れ特急に格上げされたのは↑の理由。
#ハマのアメ横とも称される洪福寺松原商店街のメインストリートはこの街道の程ヶ谷宿手前(京方面)の部分である。松原の由来は東海道に植えられた防風林だったとか。
#単線で、なおかつ神奈川県内にすれ違い設備が少ないので、思うように増発できない。というか、昔は複線だったんだから複線に戻すのが筋だのだが。
#天下の険・箱根峠越え。箱根湯本で国道1号と別れ、県道に入ってからの登りがえぐい。
#*利用客の多い沼津・御殿場間だけでも複線にしてほしい・・・・・・・・
#*休みの日なんかは自転車(レーサー等、スポーツ車)で登る人が大勢います。そりゃいいトレーニングになるでしょう。
#**国府津側って、そんなに輸送量あんの?沼津側はそうでもないけど・・・
#*本当の旧東海道は県道から離散集合()を繰り返しながらハイキングコースのようなものがあります。石畳も。静岡県に入ってからも三島に下るまで、国道1号に並走するハイキングコース、部分的に石畳の道がある。
#***国府津発は山北ぐらいまでそこそこ乗ってる。
#**石畳の道は、畳というにはかなり凹凸が激しいので、少し歩くぐらいなら雰囲気があって良いが、全区間を通して歩こうとするとかなり足や靴に負担が大きいので、初心者は注意。
#*せめて交換駅を全駅に置くだけでも大分違う筈なのに。
#沼津発21時40分の次が23時07分じゃあどう考えたって車のほうに流れるわなあー利用客を馬鹿にしすぎ
#新宿~沼津間の小田急バスの高速バスに押されてあさぎりの利用客が激減。
#*小田急バスは新宿~御殿場・箱根だったような・・・沼津まではJR高速バスなのでは?
#さらに京王バスの新宿・渋谷~裾野・沼津便にも押されてる。
#学生のマナー悪すぎ。「発車します。お降りの方は車内通行をやめてお降りください」とアナウンスされても平気で車内を走り回って列車遅らせてる。
#*国府津側の話か?だとしたら・・・
#**↑それだよ。
#***やっぱり・・・まさか、あの高校の生徒では・・・
#****予想がつくなぁ(あえて言わないが・・・)
#たまに東海道線の新型が入ってくる。
#*その車両は座席が硬くて有名なE231系である。
#長泉なめりというペロッとやられそうな駅がある。
#ICカード「TOICA」が使えない。JR東海のサービスの悪さ露呈。
#*導入されたとしても、東海道線みたいに下曽我までしか使えなかったりしたりするかも。
#*御殿場などを走っている富士急行バスでは既にICカード(PASMO)が使える。バスに先を越された形になった。
#御殿場線はJR東日本が管轄すればいいと思っている人が大半。理由は「Suicaが使えるから。」
#*しかし東日本ともなれば今より最悪になるのでは・・・
#童謡「汽車ポッポ」の舞台は御殿場線らしい。ただ御殿場線が歌に歌われているようなスピードが出ているかどうか・・・


'''駅'''
===静岡県区間===
*国府津-下曽我-上大井-相模金子-(小田急小田原線←)松田-東山北-山北-谷峨-駿河小山-足柄-御殿場-南御殿場-富士岡-岩波-裾野-長泉なめり-下土狩-大岡-沼津
#三原宿~吉原宿間は千本街道という脇往還がある。山側の今の県道163号が東海道、海側の県道380号が千本街道。街道にこだわらず歩く・サイクリングならさらに海側、松原の中の道を行くのも良いかもね。
#*Web地図のマピオン、千本街道と東海道が逆に書かれとる。
#*<del> 三原宿 </del>三島宿~吉原宿間はぱっと見は普通の二車線県道だが、左右に神社お寺へがいっぱい、旧街道っぽい。
#*三原宿? [[沼津市#原|原宿]]か[[三島市|三島宿]]ならあるけど……
#**三島の誤タイプでした、でも地図を見直すと沼津宿~吉原宿の方が実態に近いな。
#江戸側からきて、吉原宿手前に「左富士」という場所がある。通常は富士山を右側に見て歩いてきたのが、この区間だけ左側に富士山が見えるという場所。
#*とはいえ、真左に見える訳ではない。だいたい左前方20度くらいかな。
#*これ、吉原宿が海側から山側に移転したために起こった街道の付け替えでこうなった。
#**吉原宿は2回宿場の移転を行っている。そう言われると地図をみたら吉原あたりにはそれっぽい道が他にもあったり、吉原宿の京都側に不自然な曲がりがあったりする。
#**付け替えの原因は大浪による物らしい。最近「旧街道の山側は津波等が来なくて安全」とかいう話があるが、この付近(付け替えられていない部分)ではそれは当てはまらないということになる。ま、地元の方は地形等からわかっておられるのだろうけれど。
#**吉原宿は現在商店街になっているこれはこれで旧街道らしい現在の街並み。が、江戸側から来ると商店街の途中で街道が分岐して非常にわかりにくい。
#*「左富士」はバス停の名前として今もそこに残っている。
#[[静岡市/清水区#蒲原の噂|蒲原]]から[[静岡市/清水区#由比の噂|由比]]宿あたりも国道1号の山側に分かりやすく残っている。蒲原、由比ともに資料館有り。
#*だいたいその辺りが例の世界一列………。
#蒲原宿のところに、一里塚の跡の小さいお社を囲うようによけて建てられている民家がある。民家の持ち主の方、律儀だなぁ。
#由比から[[静岡市/清水区#興津の噂|興津]]へのさつた峠(さつたは薩と土偏に垂の字)は昔から交通の要衝。
#*現在も狭い範囲にJR東海道線、新幹線、東名高速が密集。その上の崖を旧東海道の道がある。
#*旧東海道は時代によって3本くらい峠道がある。海沿いの道もあり、一旦使われなくなったが、江戸時代に地震による海岸隆起で再び使えるようになったとか。
#*難所だけあってここで合戦も起こっている。南北朝時代(足利尊氏軍vs足利直義軍)と、戦国時代(武田信玄軍vs今川氏真軍)。
#*今はハイキングコースになっている。
#清水駅前付近、国道1号から分岐しているそれっぽい道がいくつかある。どうも時代による街道の変遷があったらしい。
#静岡は駿府城の城下街だけあって経路が折れ曲がってる。県庁所在地の繁華街でも(おそらく)一番賑わっている通りを通る。
#*その手前で貨物ヤードが街道を分断しているのだが、その迂回路である北村地下道はクラクションが絶えず鳴らされ、旅人をビビらせている。(狭いためトンネル進入時にクラクションを鳴らすのが暗黙のルール)
#[[静岡市/駿河区#丸子|丸子]]宿はととろご飯が有名。昔も今も。浮世絵に描かれた店が今もそれっぽい店構えで営業中。
#*ただし、昭和の頃は一旦普通の建物になっていたものをまたを昔風の建物にしたので、江戸時代からずっと残っている建物というものではない。
#*丸子宿は「まりこ」と読む。昔は鞠子とも書いた。
#[[静岡市/駿河区#宇津ノ谷|宇津ノ谷]]峠は旧東海道が2本残る。江戸時代のと、さらに、昔の物と。
#*ついでに国道1号のトンネルも、明治期の物と昭和初期、昭和後期、平成の4時代のものがある。昔から道の取り付けに苦労する難所なんですな。
#*鉄道、高速道路は南側を石部トンネル、日本坂トンネルで抜けているが、どちらも一筋縄ではいかなかったようで。
#**鉄道はトンネル崩壊、弾丸列車用のトンネル転用、新幹線敷設により旧トンネル再活用。高速道路は火災、トンネル2本化。
#[[静岡/中部#岡部|岡部]]宿、ガラ付きの布をサッカーボールの五角形、六角形形状に貼り合わせて鞠にしたのをぶら下げている家がちらほら。
#藤枝宿、[[静岡/中部#島田市の噂|島田]]宿は今は商店街。
#[[東海の河川#大井川|大井川]]は橋をかけられず、人足に渡してもらっていた。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川。」
#*三代将軍家光の時に、将軍の実弟の徳川忠長が利便のために舟橋を架けようとしたが、「天下の大井川に橋を架けるなどけしからん」と激怒したとか。防衛のためにわざわざ架けなかったらしい。
#*水位が高い(胸元以上)だと川渡しは行われない。長雨が続くとそのあいだ川の両側(島田宿・金谷宿)で足止め。足止めの間に持ち金がなくなって江戸に引き返す人もいたとか。
#**そのため島田宿・金谷宿は儲かったんだろうな。
#*上にもあった通り、幕府発足直後はともかく、中期以降は実際は技術的な困難と川越人の失職を恐れた幕府の癒着&事なかれ政策の結果というのが最近は真実と思われつつある。
#**そもそも大井川は暴れ川で、近代に治水が行われるまで洪水の度に川の流れる場所が変わったとか。木の橋をかけるなんて金の無駄という声が出てもおかしくない。
#**治水が進んだ現代でも近代以降の技術を用いた鉄橋でなく、木製の橋は台風等が来る度に流されて架け替えられている(蓬莱橋が有名)。2000年代以降でも既に4回崩壊してる。
#***「東海の河川」では3回崩壊って書いてあるけど、どっちやねん?
#****2000年は20世紀であって21世紀じゃないからです(同年に崩壊)
#金谷過ぎに夜泣き石というのがあり、乳飴がある。茶店では乳飴ソフトクリームがあるよ。でも国道1号にバイパスができて交通量は減っているはず。
#*交通量減少のあおりで2軒あった茶店が1軒になってしまった。
#*これと大井川があるために東西の文化が別れる。
#[[掛川市|掛川]]は城下街なんでやっぱり折れ曲がる。やっぱり旧街道宿場町感はそれほどでもない。
#*復元だけど、掛川城や大手門付近なんかがいい雰囲気なだけにちょっと中途半端でもったいない。
#掛川~袋井宿は松並木が少しある。この辺は旧街道っぽい。
#袋井宿は江戸・京都どちらからも27番目の中間宿。そんな袋井市のキャッチコピーは「どまんなか袋井」
#*宿場町内には「どまんなか茶屋」もある。
#磐田市内は高低差が激しい。両側の袋井浜松が平坦であるのでちょっと異色。
#浜松も城下街なんでやっぱり宿場町感はない。でもそれほど街道筋がそんなに折れ曲がってない。元々がこんなものなのか、昔の道筋が残っていないのか。
#舞阪、松並木が残って良い感じ。
#舞浜~新居は浜名湖河口を渡る、今切りの渡し。
#[[静岡/遠江#新居の噂|新居]]には関所があった。今はその資料館がある。
#*今その辺りで最も目立つのは競艇場。
#見附から御油までは「姫街道」という脇往還があった。浜名湖に宝永地震で4kmもの渡し船区間ができてしまったため、海路を避けるルートとして人気を呼ぶ。
#静岡最西端の白須賀宿は大津波によって宿場が内陸に移転している。


==身延線==
====姫街道の噂====
#富士宮まで複線なのは、[[創価学会|某学会]]のお陰'''だった'''。富士宮駅の団体列車用ホームはまだ健在?
#「姫街道」というのは新居関所を避けた女性陣から着いた名前。しかし旧東海道の宿場にとっては大打撃だった。
#*まだ健在ですよ。時々掃除しています。
#気賀から三ヶ日のあたりは昭和になって鉄道で同じような理由における迂回路線として「二俣線」が敷設された。後の[[天竜浜名湖鉄道|天浜線]]である。
#**富士宮駅北側の留置線は廃止されました。
#東名高速は姫街道のルートに近いルートを通過している。
#*複線なのは西富士宮まででは?
#*こう考えると、道路公団が高速を敷く時までは姫街道ルートの優位性に誰も気づいていなかったということになるのかもしれない。
#**複線区間は富士宮迄です。列車本数は西富士宮を境に激減しますが。
#**[[浜松市]]街を避けるルートなのが大きいと思う。高速道路は一般道と接続するから市街地を通る必要ないからなあ。
#**青梅線と似たような関係です(東青梅~青梅は単線)
#*富士駅付近で路線を付け替えたのは、複線化用地を確保できなかったため。
#特急停車駅なのに、無人の駅がある。車掌が走る走る。
#*その駅に特急を止めるメリットとは?
#**見た限りでは、客が3人降りた。とりあえず、特急代310×3円の収入。因みに盆休みでの話し。
#昔、小田急あさぎりが臨時で乗り入れたことがある。
#甲府から東海道線を通って御殿場まで直通する普通電車がある。
#*僅か半年で消滅した。
#特急ふじかわになってから急行時代よりも客が増えて増発された。
#ふじかわは途中で普通列車をまったく追い抜かない。
#この路線専用の赤紫色の列車が、いつの間にかなくなっていた。
#*1999年に一編成だけ復活。二日間だけ工場のミスで茶色になってた。でも今は旧型が引退したため再現不可能。


'''駅'''
===愛知県区間===
*'''富士'''-柚木-竪堀-入山瀬-富士根-源道寺-'''富士宮'''-西富士宮-沼久保-芝川-稲子-十島-井出-寄畑-'''内船'''-甲斐大島-'''身延'''-塩之沢-波高島-'''下部温泉'''-甲斐常葉-市ノ瀬-久那土-'''甲斐岩間'''-落居-'''鰍沢口'''-'''市川大門'''-市川本町-芦川-甲斐上野-'''東花輪'''-小井川-常永-国母-甲斐住吉-'''南甲府'''-善光寺-金手-'''甲府'''
#二川宿は街道の街並み復元に結構力を入れている。
#*資料館で江戸時代のコスプレできる。
#豊橋市内は旧の吉田藩城下なので、右へ左へうねうね曲がる。おい、そっち反対方向やぞ、という方向に一旦戻ったり。数ある城下街でも屈指の折れ曲がり。
#御油の松並木は結構残っていて良い感じの景観。
#*御油宿と赤阪宿は近い。松並木を隔てて隣、というと言い過ぎだが、そんな気がする。名鉄で一駅、2km足らず。
#**半里程度で宿場が並ぶ例って他にどっかあるんだろうか……?
#藤川宿は東側の入り口付近を整備していたり、札所があったりぼちぼち整備されている。街並みとして悪くない。
#*資料館があるが、無人だったりする。小さい資料館だが、街道の模型があるしちょっと立ち寄るのは良いかも。
#*藤川宿の先の松並木もそこそこ残っていて良い感じの街並み。
#岡崎の城下は二十七曲がりといわれていたくらい、曲がりくねっている。
#*現在の地図で数えると二十曲がりくらいだが、訳のわからん右折左折の連続。
#知立宿、昔は池鯉鮒と書いた。字面のイメージが違いすぎる。
#有松は宿場町ではなかったが、良い街並みが残る。東海道を歩き通した人が、東海道で一番の街並みと絶賛していた。
#熱田神社の参道を真っ直ぐ行ったところに「七里の渡し」の船着き場がある。かつてはここから桑名までの7里は船で渡った。
#*江戸時代は木曽三川の河口部分を架橋したり徒歩で渡るのは難しかったのだろう。
#*実は佐屋路廻りというコースもあったらしい。ルートとしては熱田~金山~鳥森~千音寺~神島田~佐屋~海津~多度~桑名と行くらしく、今も佐屋街道としてその一部ルートをたどることができる。
#*その他、四日市まで行く十里の渡しもあった。
#東海道線よりも[[名鉄名古屋本線]]の方が旧東海道を踏襲している。
#*蒲郡を経由したことについて、かつては岡崎や御油・知立などの[[ベタな鉄道忌避伝説の法則|「鉄道敷設反対運動」によるという説]]が有力だったが、今日では「蒸気機関車では困難な勾配を避けるため」というのが一般的に。名古屋本線は愛知電気鉄道により昭和に出来たもので、開業時より17‰の登坂能力があった電車運転だった。
#名古屋の手前の熱田(宮)から海路に入る。
#*しかし海路を避けるために使われた脇往還の美濃路は名古屋宿を通る。こちらも需要がそれなりにあったとか。
#*名古屋は東海道も中山道も中心を通っていない。しかし街の発展が美濃路と善光寺道をメインに引き寄せ、交通拠点にしてしまった。


*'''太字'''は特急ふじかわ停車駅
===三重県区間===
#桑名は七里の渡しの京都側の湊。桑名城の割と近く。往事は湊に近づくにつれて桑名城がよく見えたことだろう。
#*桑名も城下街、東海道はうねうね曲がる曲がる。
#*「その手は桑名の焼き蛤」で有名な桑名の蛤、名産なのは実は富田と言うところで今では[[四日市市]]になってしまった。当時は桑名藩領だったから桑名の焼き蛤で間違いなかったんだけどね。
#*四日市まで直行できる十里の渡しのほうが人気があったらしく、桑名宿の人が幾度か訴えてる模様。
#**似たような話が上街道(木曽街道)の宿場町で下街道(善光寺道)に対する訴えとして…尾張はそんな話が多い。
#四日市宿は現在ではすっかり商店街。でもその南の方では街道っぽい街並みも残っている。
#四日市の日永の追分で伊勢街道と別れる。お伊勢参りの人たちはここを左へ、京へ上る人は右へ。東海道を行くが伊勢神宮には行かない人のための遙拝の鳥居と、道標が残ります。
#*分岐点の少し北には小さいながら資料館あり。
#三重県で東海道の宿場町と言えば関が有名だが、亀山も街並みは良い。昔の家の屋号が書かれたいたりする。城下街なんでやっぱり道は折れ曲がっている。
#三重県区間の東海道にそう区間に引かれたのは、上述のような理由で官営の東海道線ではなく私鉄の関西鉄道となった。
#*現在の関西本線柘植以東と草津線に相応する。
#**昭和末まではこのルートで名古屋と京都を結ぶ急行「平安」があった。
#*道路では新名神高速道路が21世紀に。


==高山本線(岐阜~猪谷)==
===滋賀県・京都府区間===
#猪谷-飛騨古川間の復旧はないとあきらめている
#鈴鹿峠を越えると、そこから水口まではダラダラ下る。
#*現在復旧作業中。飛騨古川~角川は復旧しています。
#*土山には宿場があった。そしてそんな宿場町にある田村神社は東海道有数の厄除けの神様として崇められたとか。
#*2007年9月に完全復旧予定。それにしても、どうしてこんなにまで復旧に時間がかかったのだろうか。
#**鈴鹿馬子唄に「 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と唄われていた。そこから現代版宿駅と言える道の駅の名前は「あいの土山」。
#**測量からやり直したから。
#水口は宿場町と城下町が一体ではなく川を挟んで両者が併存する形だったとか。城下町区間では鍵曲がちょこちょこと存在する。
#**県の河川災害復旧ならびに国道の復旧工事と連携したため。道路が復旧しなければ、資材が搬入できない。
#水口を出ると石部宿までは松並木が続いていたとか。今はそんな気配すら感じさせないけど。
#下呂以北は「ワイドビュー飛騨専用路線」として存在している(普通列車の設定が少ない)。
#*野洲川を跨いだ横田渡の跡地にはどでかい常夜灯が有る。
#*「ワイドビューひだ」…ね
#*途中の夏見に茶屋があったらしい。因みに黒蜜をかけて食う心太は、そこが発祥だとか。
#** 出発・到着地がしらさぎと同じ。ひだが勝っているのは料金だけ。本数も時間もしらさぎが勝っている。
#石部の宿場は京都を朝出ると、だいたい夕刻に着けるところだったということでかなり栄えていたとか。
#***あながちそうとは言えなかったり。確か3分差で「ひだ」の勝ちでしたけど。
#*そんなところだったからか、地元はかなり力を入れて整備している。資料館やら茶屋を再現した無料休憩所やら宿場風テーマパークなど……
#** 前述の水害で富山発着が設定できないので、しらさぎを1往復だけ延長して対応中。
#草津宿で[[中山道]]と合流する。そんな所だから、結構大きい宿場だった。
#2006年秋に、名古屋地区にICカードが導入されることになったが、高山本線はモノの見事にその範囲から除外された。
#*今でも草津宿本陣が残っているが、これは現存する国内全ての本陣の建物のなかで最大のものらしい。
#*おそらく、TOICAでは名古屋経由の運賃しか適用されない。でも、岐阜~多治見は美濃太田経由の方が安い。名古屋近郊区間を設けるとのアナウンスもないので、正々堂々とボるつもりらしい・・・と思ったら、サスガに判ってたようで特例を設けた。
#草津~大津は瀬田の唐橋を通るルートが一般的で、膳所城下の義仲寺横を抜けて浜大津へ行くのが通常ルートだった。
#かつて大阪~高山に急行「たかやま」が運行されていたが、下呂駅で特急に抜かされるという偉業を成し遂げた。
#*ただ、矢橋帰帆島~浜大津に高速船があったらしく、これだと瀬田経由よりも速かったため、こっちを使ってショートカットする人も多かったらしい。因みに「急がば回れ」という諺は、急ぐなら船に乗らず瀬田を回れという格言が元らしい。
#*↑国鉄時代は普通にあった事。その為の「種別」でもある。そもそも高山線はワイドビューが走る前は名古屋~飛騨古川の「のりくら」って急行もあった。
#大津は、西近江路経由北国街道と東海道の分岐にして、京都にとっては日本海方面への外港であったため、宿場町に登録されていたが、どっちかというと港町という感じ。
#*↑↑しかも東海道の複々線区間では走行中後発の新快速に追い抜かれるという偉業も達成した。
#大津から先、蝉丸~追分~四宮~山科~蹴上~三条は石畳だったとか。理由は馬や牛車による輸送が盛んなため地面を傷めないようにということらしい。
#2006年「第57回全国植樹祭」を機に、下呂駅と萩原駅が改修され美しくなった。
#*大津から追分を目指して行くと、脇に関蝉丸神社がある。ここで手を合わせた旅人はさぞかし多かったことであろう。
#岐阜~鵜沼は名鉄との競合路線だが、ボロ負け。
#*逢坂の関まで来ると、目の前に盆地が開ける。しかし、それは、京都盆地ではなく山科盆地。そして、そこから下りに転じてもまだ[[大津市|江州]]。
#*沿線住民がどこに用事があって利用するかを考えれば、当然。
#**ただ記録によれば江州であるにもかかわらず逢坂の関までは畿内として扱われていたという。
#*本数と駅数に差が有りすぎる。名鉄は本数も駅も多い。
#**関所ではあるが、ただの関所ではなく、休憩所としての役目も果たしていたとか。
#美濃加茂市民が名古屋へ行くときは、鵜沼~新鵜沼で名鉄に乗り換えるのが普通。
#*逢坂を過ぎると伏見・大阪方面への京都飛ばしルートと分岐する。だからそこを追分と呼んだ。因みに今もその分岐が住宅街の中に残るが、そこが京滋の境。
#*そもそも最寄駅まで車で送ってもらって…なんて本数少なくてやっていられないので、新鵜沼とか新可児まで車で行って名鉄に乗る。
#*山科からは天智天皇陵をかすめ、そのまま蹴上を過ぎて南禅寺の南側抜けると青蓮院の傍を通り、粟田口へ出る。


'''駅'''
==京街道==
*岐阜-長森-那加-蘇原-各務ヶ原-鵜沼-坂祝-美濃太田-古井-中川辺-下麻生-上麻生-白川口-下油井-飛騨金山-焼石-下呂-禅昌寺-飛騨萩原-上呂-飛騨宮田-飛騨小坂-渚-久々野-飛騨一ノ宮-高山-上枝-飛騨国府-飛騨古川-杉崎-飛騨細江-角川-坂上-杉原-打保-猪谷(→富山方面)
*区間:[[京都市/東山区|京都三条大橋]]~伏見~枚方~守口~[[大阪市/中央区#淀屋橋・北浜・本町・天満橋|大阪高麗橋]]
#京都と大阪を淀川左岸を通って結ぶ。
#*[[京阪電気鉄道|京阪電鉄]]はこれに沿って敷設された。
#**但し、枚方~守口は京阪が門真市内を経由するのに対し、京街道は淀川沿いを通る。淀川の堤防上を通ってる場所も。
#*現在の東海道本線は淀川右岸を通るが、鉄道開通以前は左岸が京阪間のメインルートだった。
#一般に東海道は江戸から京までの五十三次だが、この京街道を含めて江戸~大坂の五十七次と解釈する場合がある。
#*京都を避けたい人が江戸-大阪を直行するためのルート。要はイケズとばし。
#守口市内で高架状になっている道路はこの街道の名残り。


==太多線==
#とにかく地味。でも、利用者は意外に多い。そのうち電化されそうな予感
#*電化したら、313系走らせてくれ! 糞211は走らすな!!
#**313-3000の発展型か、213-5000のワンマン改造が来るはず。ラッシュ時間帯に限り211-5000もくると思う{{極小|というか、車両なんてどうでもいい。本数があればいい}}。
#*運行本数も30分に1本と何気に高山線の美濃太田以北より多い。
#*有人駅が多い。しかも簡易委託じゃなく業務委託。
#路線名をよく間違えられる。太田線とか書かれたり、おおたせんって読まれたり
#*今までおおたせんって読んでた愛知県民です
#ワイドビューひだが走ることがある
#*特急なんて走りません。同じ車両のライナーなら走るけど。
#**東海道線・名古屋~岐阜と高山線・岐阜~美濃太田がマヒした時に特急が中央線・太多線経由になる場合があるんですよ。ライナーでの実績があるからできること。中途半端の知識で来るのはやめてくんない?
#***↑知識が中途半端じゃない方のお出ましダゾー
#***無理やり迂回ってことだよねー。時刻表に出るスジでもなく。そんなの「ひだが走る」じゃないだろ。走るんなら事前周知して可児駅で乗せてクレ。
#****名古屋-美濃太田間の営業キロは多治見経由54km、岐阜経由57.6kmで多治見経由の方が短い。
#*****ただしスイッチバック2回。
#****名鉄名古屋から犬山線経由なら40kmちょい。
#*****しかもスイッチバック不要だった。
<!--#***↑↑↑↑↑↑↑「知識が中途半端じゃない方」は来てはいけません。「chakuwikiについて」をよ~く読んで、「KY」を直して出直そうね。-->
#可児駅前にて腕木信号機保存中。
#TOICAが使えない。
#「姫」という可愛らしい名前の駅がある。
#*東京には「王子」という駅がある。
#*多治見市の無人駅はここだけ。(駅舎は新しい)
#可児での名鉄線との接続が酷い。(上りは15分待ち)


'''駅'''
[[Category:道路|とうかいとう]]
*多治見-小泉-根本-姫-下切-可児-美濃川合-美濃太田
[[Category:東海道|*]]
 
==名松線==
#本数を見る限り、存在意義がよく解らない。
#*新幹線で儲かってるから廃止せずに済んでる・・・という記述をどっかで見たけど。
#*周辺の道路が未整備なので生き残ってる。岩泉線や三江線と同じ理由。
#**道路が狭くて代行バスが通れないんだって。
#*それは建前だけ。廃止するのが面倒なだけだと思う。
#*終点近くに超大物政治家がいるらしいぞ。
#本当は名張まで繋げるつもりだったらしい。名松線の「名」は、名古屋ではなく名張の名。
#*Wikipediaには「伊勢奥津駅で名張行きバスに接続」とあるが、その本数は列車より少ない。
#*伊勢奥津へ延伸する前に今の近鉄が開業したから、初めから意義はなかった。
#伊勢奥津駅は何もないが、風情はある。春に行くと綺麗な桜が見れる。
#最近(2006年10月20日未明)、ディーゼルカーの無人運転に成功した。
#*というか、おむすびころりんのように、気動車が坂をころころ転がっていってしまった・・・。
#*踏切が正常に作動し、事故が起きなかったのが奇跡だった。
#* 名松線には[[wikipedia:ja:自動列車運転装置|ATO]]が導入されているらしい。
#伊勢竹原駅のトイレは“超恐怖級”の汲み取り式である。小さなお子様一人で個室に入らないように・・・。
#合言葉は「乗って残そう名松線」。
'''駅'''
*松阪-上ノ庄-権現前-伊勢八太-一志-井関-伊勢大井-伊勢川口-関ノ宮-家城-伊勢竹原-伊勢鎌倉-伊勢八知-比津-伊勢奥津
 
==参宮線==
#沿線に伊勢神宮を抱えるため戦時中は田舎の末端路線であるにもかかわらず不要不急路線指定を受けなかった。
#*そのため、戦前は複線であったが、貨物輸送がないため、さすがに戦中は単線にはされた。
#伊勢神宮観光の邪魔だから参宮線を廃止にして、駅や車庫の跡地を駐車場にしろとほざいた馬鹿がいた。
#*そうほざいたのは、沿線にある某和菓子屋の社長(敢えて名前は伏せておく)。[[名古屋駅]]などのキオスクでも、その会社の商品が置かれていたことがある。そこそこ有名な和菓子屋だったはず。
#*この某和菓子屋の不祥事が発覚し、この話は無かった事になりそう。そしてこの和菓子屋には神罰が下ったともっぱらの評判。
#しかし現在は近鉄特急にボロ負け・・・
#*昔よりはよくなったが、2両では・・・
#**そりゃあ、1時間に1本程度の快速だけが目玉では太刀打ちできんわな・・
 
'''駅'''
*(紀勢線津方面←)'''多気'''-外城田-田丸-宮川-山田上口-'''伊勢市'''-五十鈴ヶ丘-'''二見浦'''-松下-池の浦シーサイド-'''鳥羽'''
 
*'''太字''':快速みえ全列車停車駅(残りは一部停車)
 
==飯田線==
[[画像:Inaji373.jpg|150px|thumb|right|飯田線の看板列車である特急「伊那路」]]
#全長195.7km中に起終点を含めて実に94の駅がある。それらの平均駅間距離は約2.1kmで、大都市の通勤電車路線並みの駅間となっている。
#*もともと集落間を接続するためにそうなったらしい。今の需要は謎。
#*約6時間かけて全線を走破する普通列車がある。
#秘境駅が多い。
#*秘境駅マニアの聖地らしい
#*「秘境駅」の言葉の生みの親[http://hp1.cyberstation.ne.jp/hikyoueki/ 牛山隆信氏のランキング]で上位38位までに5駅登場。
#**2位・小和田、3位・田本、13位金野…など
#本長篠~天竜峡のトンネルの多さは凄い。地下鉄状態。
#*三信地下鉄道
#私鉄が建設したこともあって、建設費圧縮のために線路がグネグネ。
#*「まさかのミステリー」でもそれを使ったミステリーがあった。(詳細求む)
#**[http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.30.36.036&el=137.49.52.036&la=1&fi=1&skey=%b0%cb%c6%e1%be%e5%b6%bf%b1%d8&sc=4 伊那上郷駅-下山村駅間]は電車に乗るより歩いたほうが早い…というもの
#***めざまし調査隊(めざましテレビでかつてあったコーナー)でもこのネタを紹介してたと思う。
#****黄金伝説にもでてた。
#*****ナイトスクープでもやってた。時期的にはコレが元祖かもしれない。
#******最初のネタは究極超人あ~るでは?
#***線形は普通だがLRT化される前の富山港線は岩瀬浜から富山まで昼間は走った方が早く着くことがあった。
#距離の割に駅が多いので全ての駅を時刻表に載せるためにグネグネで表示している
#*こっちは物理的なグネグネとは別の理由
#小和田(こわだ)駅は皇太子妃雅子様の旧姓である小和田(おわだ)と同表記であることから、「恋成就駅」として、徳仁親王と結婚した1993年には下車する人達で賑わった。同様の例として、仙山線の愛子(あやし)駅がある。
#*ちなみに静岡県にある。
#**ちなみに政令指定都市にある。
#*一方、読み方が同じで漢字が違う大井川鉄道の大和田(おわだ)駅のほうはほとんど相手にされなかった。
#「究極超人あ~る」ファンの聖地。作中に出てくる「山田さん温泉」は、田切駅が最寄。
#*OVA挿入歌「飯田線のバラード」は名曲だと思う。
#静岡県内の駅が、全て「浜松市内の駅」になってしまった。平成の大合併って・・・。
#*あんな秘境まで「浜松」だなんて。
#*郵便配達員や宅配便の配達員は電車でやってくる。ほぼ1日仕事。
#真ん中のドアから降りると、知らない人間はほぼ確実にホーム下に落ちる危ない駅がある(切石駅)。
#豊橋-平井(信)間は名鉄と共同運用による複線化を実現している。
#そんな飯田線にもついに新車を導入。快速で長野まで行ってます。車両は313系1700番台。
#*ちなみにその車両の所属場所は、中央西線(神領駅そばの基地)所属。
#*↑さらに言うと、中央西線の運用には余程のことがない限り入らない。東線の運用は普段ある。
#中部天竜の佐久間レールパーク。東海があんなもの作るとは・・・・
#*元々は佐久間ダム・発電所建設時の待車場で、レールをそのまま利用して廃棄される電車を置いただけだったりする。しかし片田舎にしては豪勢。
#*ちなみに通称B型鉄橋もダム建設用プラント(現:中部集落)への連絡橋をそのまま利用しているので、路面にレールの型が見える。
#長野-飯田間に特急電車を試験運行すると言う計画がでた(信濃毎日新聞朝刊2004年12月4日紙面より)しかしながら何もなく終わった。
#中部区間は極端に列車本数が少ない。
#*そのため1人の女子高校生の通学のために中井侍駅に3年間、快速列車を毎日臨時停車させていた。卒業式の日、車内アナウンスで「3年間のご利用ありがとうございました、そして卒業おめでとう。これで列車は明日から中井侍駅は通過致しますが、またのご利用心からお待ちしています」と放送したらしい。
#**JR東海にしてはえらく粋なことをしはりますね。
#***JR東海のローカル線の乗務員や駅員は優しいね。西のどこかさんに比べたら全然いい。
#**いい話だ。「プロジェクトX」のクライマックスみたい(古いか)。
#119系という飯田線専用車両がある。(一時期静岡地区の「するがシャトル」で使ってたけど)
:[[画像:IIDALINE119JNR.jpg|frame|119系の一部に残る扇風機]]
 
;駅
うっとうしいんで省略![[wikipedia:ja:飯田線]]参照。
 
[[Category:東海旅客鉄道|ろせんへつ]]
[[Category:JR路線|とうかい]]

2018年4月29日 (日) 22:27時点における版

東海道の噂

  1. 言わずと知れた江戸時代の五街道の筆頭、現在でも交通の大動脈。
  2. 現在ではJRの東海道線東海道新幹線、国道は1号東名名神高速道路とかがおおよそこの街道を踏襲していると言って良い。
    • ただし、難所の箱根峠と鈴鹿峠は別ルートを通っていることが多い。
      • 国道1号を除いては箱根部分は高速道路は御殿場経由、鉄道は熱海経由。鈴鹿峠部分は、鉄道、高速道路ともに関ヶ原から米原方面を経由する方を通ってしまっている。
        • 大本となる東海道本線がもともと琵琶湖海運を活用する形で整備され、更に当時は中山道線としての計画だったのが大きい。
          • 岐阜から名古屋・大府を経て武豊までの区間は本来、武豊港から中山道線の建設資材を山中に運びこむため造られた支線だった。しかし東西幹線が東海道経由に計画変更されたことで、大府以北は東海道線の一部に。残る区間が武豊線となった。
          • 岐阜~熱田はルートとしては「美濃路」に相応する。江戸時代から東海道における木曽三川の難所を避けられる迂回路として使われていた脇街道ではある。
        • 東海道新幹線は、北陸連絡強化と建設期間短縮・費用圧縮のために鈴鹿貫通が断念されて東海道線と同様の米原経由に。高速道路は新名神高速道路が後に本来の東海道に近いルートを通るようになった。
      • 箱根越え区間については、東海道線も元々は御殿場迂回だった。
        • 高速道路は鉄道と違い、勾配をそこまで気にせず済むので、山際を通る現在の東海道線ルートではなく御殿場線ルートを踏襲したようにも思える。
    • 静岡県区間は国道1号線に沿ってはいるが、本道(ほとんどバイパス)と重複しているところはあまり多くない。
  3. 基本的には「東海道五十三次」として、お江戸日本橋から京の三条大橋まで53の宿場町がある街道として知られる。
    • 浮世絵でも東海道五十三次は有名。
    • ところが、京都からさらに大坂まで五十七宿で東海道、とする説もあるようで。
      • 残り四つは伏見・枚方・守口・大坂だっけか?
        • 淀宿もあったと思う。
      • この区間は「京街道」とも呼ばれている。
      • いや、京都とかもう東海道じゃなくて区分は畿内でしょ。地図帳でそう色分けされてた。何にでもしゃしゃり出てこないでほしい。
        • 色分けとか畿内とかはそりゃ五畿七道の話しでしょ。ここは街道としての東海道の話しですんで。
  4. 最も有名な旅行者はなんと言っても弥次さん喜多さん、東海道中膝栗毛の主人公二人だろう。資料館や道ばたの説明板でも、その道中の模様が描かれていたりする。
  5. 東海道沿いを辿って徒歩旅する人がいるが、見た限り、東京から京都方面に歩く人が多く、逆向きはそんなにいない模様。
  6. 静岡・愛知あたりでは灯籠なんかに「秋葉神社」の銘が入っていることが多い。秋葉神社は火除けの神様で浜松市/天竜区にある。宿場町に限らず、江戸時代は火事が多いしね。
  7. 律令国の東海道の範囲も街道の東海道の経路とほぼ一致する。異なるのは律令国の東海道の範囲は日本橋以東にも広がっている事くらい。
    • ところでこれ、律令国と街道名が一緒なのは単なる偶然なんだろうか。山陽道や北陸道はともかく、東山道・海道西海道は街道としての名もあるのかどうか分からんし。
      • 東海道は少なくとも五畿七道の継承で今の名前になったと思う。徳川政権時代より前も道の名称として「東海道」が使われることはあった。
      • 五畿七道の七道にはそれぞれ実際に都から国府への道があった。時代による変遷があるので完全では無いにせよ、江戸期以降の東海道もおおよそその時の道を踏襲していると言って良いかと思う。国道1号は東海道を踏襲している、と言うのと同レベルで。
      • 中山道も江戸時代中期までは東山道などと呼ばれることがあった。
    • 律令国の東海道は江戸期以降の東海道が通る範囲に加え、伊賀、甲斐と安房・上総・下総・常陸。江戸期以降の東海道は近江を通るが、律令国の近江は東山道。
    • 余談過ぎるが、東海道自然歩道は全然別物。
      • 正確には「東海自然歩道」ですな。主な経由地である東海地方からの命名です。
        • すまん、記憶違いだったわ。
  8. 難所が多いため、迂回ルート(脇往還)が幾つか存在した。
    • 上の美濃路もその一つ。七里の渡しに対して十里の渡し、佐屋街道・三里の渡しもあった。また浜名湖をまたぐ新居辺りでの姫街道なども。
  9. 江戸時代、大井川など大河川に橋をかけなかったのは幕府の戦略と言われてきたが、実際には渡し屋の反対と当時の建設技術に基づくところが大きいらしい。
    • そういった場所では方言・食文化などの文化的な境界も生じている。
    • 川が多いことから女性は遠回りでも中山道を行くことも多かったらしい。幕末の皇女和宮の降嫁の時も中山道経由。
    • そして大井川では明治になって橋が架かり、失職した渡しの人足たちは、同じく失職した元徳川幕府の武士の人たちと共に牧ノ原台地でお茶の生産に励むことになる。
  10. 東海道と北海道が同じ「行政区分」(五畿八道)に因んだ名前であったことを知らない人は多い。今では「東西のルート」と「四島の一つかつ都道府県の一つ」で大きく立ち位置が異なるから。
    • そして南海道と西海道もあるのだが、知名度が大きく劣る。南海道は南海電気鉄道の由来でもあるのだが。
      • 南海電鉄および関連会社以外にも、和歌山四国には「南海」がつく社名はある。西海のほうは長崎県西海市っていうのができたけれど。
    • 2016年に北海道新幹線が開業し、立ち位置が異なるまま共に新幹線路線の名前となる。

各宿場・街並みの噂

  • この項目では地域順に割込を許容します。要約欄に「地域順割込」の旨をお書き下さい。

東京都・神奈川県区間

  1. 東京都内区間は、品川付近を除いてほぼ国道15号線を辿る。世界の高級ブランドが軒を連ねる銀座の街並みや、田町の札の辻交差点の歩道橋から見る東京タワーは、現代の旅の始まり(京都側からだと終わり)と大都会東京を象徴する華やかな眺め。
  2. 日本橋から出てから初めて街道っぽい雰囲気を出してくるのが品川宿。左右に商店が並ぶ街並みは、古い歴史を感じるような商店から、和の雰囲気に凝ったカフェまで色々あって、歩いて楽しい。
  3. 幕末にアメリカから神奈川を開国するよう迫られたが、宿場町を開放したくない幕府は近隣の横浜村を神奈川として開港した。
  4. ハマのアメ横とも称される洪福寺松原商店街のメインストリートはこの街道の程ヶ谷宿手前(京方面)の部分である。松原の由来は東海道に植えられた防風林だったとか。
  5. 天下の険・箱根峠越え。箱根湯本で国道1号と別れ、県道に入ってからの登りがえぐい。
    • 休みの日なんかは自転車(レーサー等、スポーツ車)で登る人が大勢います。そりゃいいトレーニングになるでしょう。
    • 本当の旧東海道は県道から離散集合(?)を繰り返しながらハイキングコースのようなものがあります。石畳も。静岡県に入ってからも三島に下るまで、国道1号に並走するハイキングコース、部分的に石畳の道がある。
      • 石畳の道は、畳というにはかなり凹凸が激しいので、少し歩くぐらいなら雰囲気があって良いが、全区間を通して歩こうとするとかなり足や靴に負担が大きいので、初心者は注意。

静岡県区間

  1. 三原宿~吉原宿間は千本街道という脇往還がある。山側の今の県道163号が東海道、海側の県道380号が千本街道。街道にこだわらず歩く・サイクリングならさらに海側、松原の中の道を行くのも良いかもね。
    • Web地図のマピオン、千本街道と東海道が逆に書かれとる。
    • 三原宿 三島宿~吉原宿間はぱっと見は普通の二車線県道だが、左右に神社お寺へがいっぱい、旧街道っぽい。
    • 三原宿? 原宿三島宿ならあるけど……
      • 三島の誤タイプでした、でも地図を見直すと沼津宿~吉原宿の方が実態に近いな。
  2. 江戸側からきて、吉原宿手前に「左富士」という場所がある。通常は富士山を右側に見て歩いてきたのが、この区間だけ左側に富士山が見えるという場所。
    • とはいえ、真左に見える訳ではない。だいたい左前方20度くらいかな。
    • これ、吉原宿が海側から山側に移転したために起こった街道の付け替えでこうなった。
      • 吉原宿は2回宿場の移転を行っている。そう言われると地図をみたら吉原あたりにはそれっぽい道が他にもあったり、吉原宿の京都側に不自然な曲がりがあったりする。
      • 付け替えの原因は大浪による物らしい。最近「旧街道の山側は津波等が来なくて安全」とかいう話があるが、この付近(付け替えられていない部分)ではそれは当てはまらないということになる。ま、地元の方は地形等からわかっておられるのだろうけれど。
      • 吉原宿は現在商店街になっているこれはこれで旧街道らしい現在の街並み。が、江戸側から来ると商店街の途中で街道が分岐して非常にわかりにくい。
    • 「左富士」はバス停の名前として今もそこに残っている。
  3. 蒲原から由比宿あたりも国道1号の山側に分かりやすく残っている。蒲原、由比ともに資料館有り。
    • だいたいその辺りが例の世界一列………。
  4. 蒲原宿のところに、一里塚の跡の小さいお社を囲うようによけて建てられている民家がある。民家の持ち主の方、律儀だなぁ。
  5. 由比から興津へのさつた峠(さつたは薩と土偏に垂の字)は昔から交通の要衝。
    • 現在も狭い範囲にJR東海道線、新幹線、東名高速が密集。その上の崖を旧東海道の道がある。
    • 旧東海道は時代によって3本くらい峠道がある。海沿いの道もあり、一旦使われなくなったが、江戸時代に地震による海岸隆起で再び使えるようになったとか。
    • 難所だけあってここで合戦も起こっている。南北朝時代(足利尊氏軍vs足利直義軍)と、戦国時代(武田信玄軍vs今川氏真軍)。
    • 今はハイキングコースになっている。
  6. 清水駅前付近、国道1号から分岐しているそれっぽい道がいくつかある。どうも時代による街道の変遷があったらしい。
  7. 静岡は駿府城の城下街だけあって経路が折れ曲がってる。県庁所在地の繁華街でも(おそらく)一番賑わっている通りを通る。
    • その手前で貨物ヤードが街道を分断しているのだが、その迂回路である北村地下道はクラクションが絶えず鳴らされ、旅人をビビらせている。(狭いためトンネル進入時にクラクションを鳴らすのが暗黙のルール)
  8. 丸子宿はととろご飯が有名。昔も今も。浮世絵に描かれた店が今もそれっぽい店構えで営業中。
    • ただし、昭和の頃は一旦普通の建物になっていたものをまたを昔風の建物にしたので、江戸時代からずっと残っている建物というものではない。
    • 丸子宿は「まりこ」と読む。昔は鞠子とも書いた。
  9. 宇津ノ谷峠は旧東海道が2本残る。江戸時代のと、さらに、昔の物と。
    • ついでに国道1号のトンネルも、明治期の物と昭和初期、昭和後期、平成の4時代のものがある。昔から道の取り付けに苦労する難所なんですな。
    • 鉄道、高速道路は南側を石部トンネル、日本坂トンネルで抜けているが、どちらも一筋縄ではいかなかったようで。
      • 鉄道はトンネル崩壊、弾丸列車用のトンネル転用、新幹線敷設により旧トンネル再活用。高速道路は火災、トンネル2本化。
  10. 岡部宿、ガラ付きの布をサッカーボールの五角形、六角形形状に貼り合わせて鞠にしたのをぶら下げている家がちらほら。
  11. 藤枝宿、島田宿は今は商店街。
  12. 大井川は橋をかけられず、人足に渡してもらっていた。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川。」
    • 三代将軍家光の時に、将軍の実弟の徳川忠長が利便のために舟橋を架けようとしたが、「天下の大井川に橋を架けるなどけしからん」と激怒したとか。防衛のためにわざわざ架けなかったらしい。
    • 水位が高い(胸元以上)だと川渡しは行われない。長雨が続くとそのあいだ川の両側(島田宿・金谷宿)で足止め。足止めの間に持ち金がなくなって江戸に引き返す人もいたとか。
      • そのため島田宿・金谷宿は儲かったんだろうな。
    • 上にもあった通り、幕府発足直後はともかく、中期以降は実際は技術的な困難と川越人の失職を恐れた幕府の癒着&事なかれ政策の結果というのが最近は真実と思われつつある。
      • そもそも大井川は暴れ川で、近代に治水が行われるまで洪水の度に川の流れる場所が変わったとか。木の橋をかけるなんて金の無駄という声が出てもおかしくない。
      • 治水が進んだ現代でも近代以降の技術を用いた鉄橋でなく、木製の橋は台風等が来る度に流されて架け替えられている(蓬莱橋が有名)。2000年代以降でも既に4回崩壊してる。
        • 「東海の河川」では3回崩壊って書いてあるけど、どっちやねん?
          • 2000年は20世紀であって21世紀じゃないからです(同年に崩壊)
  13. 金谷過ぎに夜泣き石というのがあり、乳飴がある。茶店では乳飴ソフトクリームがあるよ。でも国道1号にバイパスができて交通量は減っているはず。
    • 交通量減少のあおりで2軒あった茶店が1軒になってしまった。
    • これと大井川があるために東西の文化が別れる。
  14. 掛川は城下街なんでやっぱり折れ曲がる。やっぱり旧街道宿場町感はそれほどでもない。
    • 復元だけど、掛川城や大手門付近なんかがいい雰囲気なだけにちょっと中途半端でもったいない。
  15. 掛川~袋井宿は松並木が少しある。この辺は旧街道っぽい。
  16. 袋井宿は江戸・京都どちらからも27番目の中間宿。そんな袋井市のキャッチコピーは「どまんなか袋井」
    • 宿場町内には「どまんなか茶屋」もある。
  17. 磐田市内は高低差が激しい。両側の袋井浜松が平坦であるのでちょっと異色。
  18. 浜松も城下街なんでやっぱり宿場町感はない。でもそれほど街道筋がそんなに折れ曲がってない。元々がこんなものなのか、昔の道筋が残っていないのか。
  19. 舞阪、松並木が残って良い感じ。
  20. 舞浜~新居は浜名湖河口を渡る、今切りの渡し。
  21. 新居には関所があった。今はその資料館がある。
    • 今その辺りで最も目立つのは競艇場。
  22. 見附から御油までは「姫街道」という脇往還があった。浜名湖に宝永地震で4kmもの渡し船区間ができてしまったため、海路を避けるルートとして人気を呼ぶ。
  23. 静岡最西端の白須賀宿は大津波によって宿場が内陸に移転している。

姫街道の噂

  1. 「姫街道」というのは新居関所を避けた女性陣から着いた名前。しかし旧東海道の宿場にとっては大打撃だった。
  2. 気賀から三ヶ日のあたりは昭和になって鉄道で同じような理由における迂回路線として「二俣線」が敷設された。後の天浜線である。
  3. 東名高速は姫街道のルートに近いルートを通過している。
    • こう考えると、道路公団が高速を敷く時までは姫街道ルートの優位性に誰も気づいていなかったということになるのかもしれない。
      • 浜松市街を避けるルートなのが大きいと思う。高速道路は一般道と接続するから市街地を通る必要ないからなあ。

愛知県区間

  1. 二川宿は街道の街並み復元に結構力を入れている。
    • 資料館で江戸時代のコスプレできる。
  2. 豊橋市内は旧の吉田藩城下なので、右へ左へうねうね曲がる。おい、そっち反対方向やぞ、という方向に一旦戻ったり。数ある城下街でも屈指の折れ曲がり。
  3. 御油の松並木は結構残っていて良い感じの景観。
    • 御油宿と赤阪宿は近い。松並木を隔てて隣、というと言い過ぎだが、そんな気がする。名鉄で一駅、2km足らず。
      • 半里程度で宿場が並ぶ例って他にどっかあるんだろうか……?
  4. 藤川宿は東側の入り口付近を整備していたり、札所があったりぼちぼち整備されている。街並みとして悪くない。
    • 資料館があるが、無人だったりする。小さい資料館だが、街道の模型があるしちょっと立ち寄るのは良いかも。
    • 藤川宿の先の松並木もそこそこ残っていて良い感じの街並み。
  5. 岡崎の城下は二十七曲がりといわれていたくらい、曲がりくねっている。
    • 現在の地図で数えると二十曲がりくらいだが、訳のわからん右折左折の連続。
  6. 知立宿、昔は池鯉鮒と書いた。字面のイメージが違いすぎる。
  7. 有松は宿場町ではなかったが、良い街並みが残る。東海道を歩き通した人が、東海道で一番の街並みと絶賛していた。
  8. 熱田神社の参道を真っ直ぐ行ったところに「七里の渡し」の船着き場がある。かつてはここから桑名までの7里は船で渡った。
    • 江戸時代は木曽三川の河口部分を架橋したり徒歩で渡るのは難しかったのだろう。
    • 実は佐屋路廻りというコースもあったらしい。ルートとしては熱田~金山~鳥森~千音寺~神島田~佐屋~海津~多度~桑名と行くらしく、今も佐屋街道としてその一部ルートをたどることができる。
    • その他、四日市まで行く十里の渡しもあった。
  9. 東海道線よりも名鉄名古屋本線の方が旧東海道を踏襲している。
    • 蒲郡を経由したことについて、かつては岡崎や御油・知立などの「鉄道敷設反対運動」によるという説が有力だったが、今日では「蒸気機関車では困難な勾配を避けるため」というのが一般的に。名古屋本線は愛知電気鉄道により昭和に出来たもので、開業時より17‰の登坂能力があった電車運転だった。
  10. 名古屋の手前の熱田(宮)から海路に入る。
    • しかし海路を避けるために使われた脇往還の美濃路は名古屋宿を通る。こちらも需要がそれなりにあったとか。
    • 名古屋は東海道も中山道も中心を通っていない。しかし街の発展が美濃路と善光寺道をメインに引き寄せ、交通拠点にしてしまった。

三重県区間

  1. 桑名は七里の渡しの京都側の湊。桑名城の割と近く。往事は湊に近づくにつれて桑名城がよく見えたことだろう。
    • 桑名も城下街、東海道はうねうね曲がる曲がる。
    • 「その手は桑名の焼き蛤」で有名な桑名の蛤、名産なのは実は富田と言うところで今では四日市市になってしまった。当時は桑名藩領だったから桑名の焼き蛤で間違いなかったんだけどね。
    • 四日市まで直行できる十里の渡しのほうが人気があったらしく、桑名宿の人が幾度か訴えてる模様。
      • 似たような話が上街道(木曽街道)の宿場町で下街道(善光寺道)に対する訴えとして…尾張はそんな話が多い。
  2. 四日市宿は現在ではすっかり商店街。でもその南の方では街道っぽい街並みも残っている。
  3. 四日市の日永の追分で伊勢街道と別れる。お伊勢参りの人たちはここを左へ、京へ上る人は右へ。東海道を行くが伊勢神宮には行かない人のための遙拝の鳥居と、道標が残ります。
    • 分岐点の少し北には小さいながら資料館あり。
  4. 三重県で東海道の宿場町と言えば関が有名だが、亀山も街並みは良い。昔の家の屋号が書かれたいたりする。城下街なんでやっぱり道は折れ曲がっている。
  5. 三重県区間の東海道にそう区間に引かれたのは、上述のような理由で官営の東海道線ではなく私鉄の関西鉄道となった。
    • 現在の関西本線柘植以東と草津線に相応する。
      • 昭和末まではこのルートで名古屋と京都を結ぶ急行「平安」があった。
    • 道路では新名神高速道路が21世紀に。

滋賀県・京都府区間

  1. 鈴鹿峠を越えると、そこから水口まではダラダラ下る。
    • 土山には宿場があった。そしてそんな宿場町にある田村神社は東海道有数の厄除けの神様として崇められたとか。
      • 鈴鹿馬子唄に「 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と唄われていた。そこから現代版宿駅と言える道の駅の名前は「あいの土山」。
  2. 水口は宿場町と城下町が一体ではなく川を挟んで両者が併存する形だったとか。城下町区間では鍵曲がちょこちょこと存在する。
  3. 水口を出ると石部宿までは松並木が続いていたとか。今はそんな気配すら感じさせないけど。
    • 野洲川を跨いだ横田渡の跡地にはどでかい常夜灯が有る。
    • 途中の夏見に茶屋があったらしい。因みに黒蜜をかけて食う心太は、そこが発祥だとか。
  4. 石部の宿場は京都を朝出ると、だいたい夕刻に着けるところだったということでかなり栄えていたとか。
    • そんなところだったからか、地元はかなり力を入れて整備している。資料館やら茶屋を再現した無料休憩所やら宿場風テーマパークなど……
  5. 草津宿で中山道と合流する。そんな所だから、結構大きい宿場だった。
    • 今でも草津宿本陣が残っているが、これは現存する国内全ての本陣の建物のなかで最大のものらしい。
  6. 草津~大津は瀬田の唐橋を通るルートが一般的で、膳所城下の義仲寺横を抜けて浜大津へ行くのが通常ルートだった。
    • ただ、矢橋帰帆島~浜大津に高速船があったらしく、これだと瀬田経由よりも速かったため、こっちを使ってショートカットする人も多かったらしい。因みに「急がば回れ」という諺は、急ぐなら船に乗らず瀬田を回れという格言が元らしい。
  7. 大津は、西近江路経由北国街道と東海道の分岐にして、京都にとっては日本海方面への外港であったため、宿場町に登録されていたが、どっちかというと港町という感じ。
  8. 大津から先、蝉丸~追分~四宮~山科~蹴上~三条は石畳だったとか。理由は馬や牛車による輸送が盛んなため地面を傷めないようにということらしい。
    • 大津から追分を目指して行くと、脇に関蝉丸神社がある。ここで手を合わせた旅人はさぞかし多かったことであろう。
    • 逢坂の関まで来ると、目の前に盆地が開ける。しかし、それは、京都盆地ではなく山科盆地。そして、そこから下りに転じてもまだ江州
      • ただ記録によれば江州であるにもかかわらず逢坂の関までは畿内として扱われていたという。
      • 関所ではあるが、ただの関所ではなく、休憩所としての役目も果たしていたとか。
    • 逢坂を過ぎると伏見・大阪方面への京都飛ばしルートと分岐する。だからそこを追分と呼んだ。因みに今もその分岐が住宅街の中に残るが、そこが京滋の境。
    • 山科からは天智天皇陵をかすめ、そのまま蹴上を過ぎて南禅寺の南側抜けると青蓮院の傍を通り、粟田口へ出る。

京街道

  1. 京都と大阪を淀川左岸を通って結ぶ。
    • 京阪電鉄はこれに沿って敷設された。
      • 但し、枚方~守口は京阪が門真市内を経由するのに対し、京街道は淀川沿いを通る。淀川の堤防上を通ってる場所も。
    • 現在の東海道本線は淀川右岸を通るが、鉄道開通以前は左岸が京阪間のメインルートだった。
  2. 一般に東海道は江戸から京までの五十三次だが、この京街道を含めて江戸~大坂の五十七次と解釈する場合がある。
    • 京都を避けたい人が江戸-大阪を直行するためのルート。要はイケズとばし。
  3. 守口市内で高架状になっている道路はこの街道の名残り。