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{{市|name=四日市|reg=東海|pref=三重|area=北勢|ruby=よっかいち|eng=Yokkaichi}}
[[バカ人物志/中国]]
{{北勢}}
==独立済み==
==四日市市の噂==
*[[武将伝/三国]]
#四日市市は小選挙区が北と南で違う。(2区と3区の二つの分かれます。)
#車で10分間隔で[[イオン]]を発見!(かなりの大型店舗も幾つかある)
#*あきらかに多すぎるイオン。
#*流石お膝元…
#*お膝元でも撤退してる…おかげで市中心部の商圏がユニーの手に落ちた。
#**郊外に自ら店を作りすぎたせいだが、おかげで今でも中心商店街の人からは恨まれてる。
#**商店街に今流行りのアウトレットモールを誘致ってどうだ?
#**赤字店舗でなおかつ借地だったから。
#***イオン尾平は多分日本で(世界で)小さい店
#「シコウ」と言えば四日市高校(北勢では1,2を争う進学校)「ヨンコウ」と言えば四日市工業(北勢では1,2を争うサッカーチームがある)を指す。
#*サッカーは四日市中央工業高校(四中工)じゃないでしょうか。野球は四日市工業高校。ほとんどの人が区別できてません。
#**四日市工業はバスケットも強い、四中工は柔道かな?サッカーは海星と暁が2,3番手ではないか?
#*四日市中央工業は「ヨンチュウコウ」と言われてます。
#*「四日市高校」は四日市駅近辺ではなく近鉄富田駅の隣にある.昔は富田中学とも言った.甲子園優勝経験あるのもこの高校。
#*三重高校とともに三重の高校野球をリードする海星高校も四日市にある。
#**この2校だけで、三重県勢の通算勝利数の6割(確か29勝)を稼いでいる、まあ他が弱すぎるんだが。
#滋賀人の一部は[[東近江市|八日市]]と勘違いする。
#「四日市(よっかし)」だと勘違いされていることがある。
#*「津市、四日市、鈴鹿市」とかね…
#*うっかり宛先を「四日市'''々'''○町」などと略すとその郵便物は行方不明に。
#**ちゃんと届くよ
#おにぎりの桃太郎
#*「昼、桃太郎な」=「お昼ごはんは(桃太郎の)おにぎり」というぐらい浸透している。
#人口が30万人を突破!
#*道路、電車が異様なほど豊富。けど車社会
#**たしかにあんなに狭い市内に36もの駅があるのは凄いよな。
#三重県一の工業生産額だが伸び悩んでいる。
#*ところが、山を削って出来た土地に建った某大手電機メーカーの工場で、息を吹き返している。
#**ちなみにその工場は国内でも有数の半導体製造拠点である。
#*一時期ゴルフ場が作られすぎた事が有る。
#**有名人も来ている、明石家さんまとか・・・(セントラルGC)
#*おかげで、朝夕は周辺ののどかな田舎道が渋滞してしまう。
#ヤンキー多い。たまに四日市駅前や霞ヶ浦付近でシャコタン車の大集会が開催されている模様。
#23号以外の国道はショボい。
#*1号は近鉄の高架橋桁に邪魔されて、4車線化不可能。
#*県道市道の類は、獣道に等しい。
#**だから、運転技術は高いかも知れない。
#***名古屋のベッドタウン化が急速に進んで、運転の荒いやつが増えた。
#***下手なうえに荒い。(県外出身者)
#**旧東海道では如何に電柱をよけて素早く移動するかがポイント。沿線住民は大変だと思う。
#**獣道は言いすぎだが、狭いことは狭い。
#**r8、r9、r11、r14、r26と番号が小さい険道が多い。
#*唯一まともな県道は、四日市東インターから南東の[[伊勢湾]]に向かう道路のみ。
#**あそこは昔有料道路だったよね?
#***東インターから北部墓地公園の交差点(だったと思う)までの200メートルぐらいが有料道路だった。山を突っ切る近道とはいえ距離が短いので、地元では日本一高い有料道路とネタにされていた。
#*やたら、鋭角に曲がらないといけない交差点が多い。特に郊外。
#**阿倉川、小杉界隈は地元民以外通り抜け禁止(非地元民が入り込むと出られない)。
#工業地帯の汚染っぷりと山間地ののんびりぶりの格差がすごい。山間地は水もよく、智積地域のわき水は名水100選にも選ばれている。
#元々はここが三重の県庁所在地だった。
#*「三重」っていう県名も旧・三重郡だった四日市に県庁があった事からついた県名だった。やがて県庁が移った[[津市|津]]は旧・安濃郡であって旧・三重郡じゃなかったが、結局県名はそのまま「三重」を存続している。
#**埼玉県も似たような感じ。県名の「埼玉」というのはもともと県庁が置かれる予定だった南埼玉郡岩槻町(現さいたま市岩槻区)から。
#*三重銀行三重支店なるものが、三重団地にある。本店ではない。
#*[[栃木]]も似た様な感じか……
#まれに若狭湾~琵琶湖を吹きぬけた湿った北風で大雪になることも。比較的最近に40cm台の積雪の記録がある。
#*あのときは1号23号とも大渋滞。渋滞先頭は鈴鹿峠で最後尾は愛知県岡崎だったっていう噂。
#*もうちょっと言うと県下最古のアーケードがその積雪の重みでつぶれた。
#四日市市は石油工業が盛んで、工業生産額は2兆円近くに達する。ただし鈴鹿市よりも工業生産額の伸びはいまひとつ…
#*県全体の工業生産の伸びがすごい。
#*ちなみに、四日市市は日本で10本の指に入る工業都市。
#他地方の人間には想像できないかもしれないけれど水が非常にうまい。
#*ある条件(非公開)の時、蛇口から出る水が甘いことがある。
#*日永の追分では国道1号のすぐ脇で名水が湧いている。
#伊勢茶も名産。地味に梨や米もうまい。
#万古焼が微妙に有名。
#*大昔は輸出も盛んで、国内より海外での方が知名度があったらしいぞ。
#*土鍋で有名。読みは「ばんこやき」だけど、本当は「ば」ではなく「ま」らしい。まぁ、その辺はお察しください。
#*蚊取りぶた(蚊取り線香を入れるアレ)は全国シェア1位。というより、ここでしか作っていない。
#**それで地場産業振興センターの1階にバカでかい蚊取り豚が置いてあったのか。
#霞ヶ浦緑地には恐竜がいる。
#実は、滋賀県[[甲賀市]]と隣接している。
#2008年の成人式に配布されたのが男女共通であぶら取り紙。税金難なのか?
#垂坂公園、羽津山緑地(羽津)の夜景はなかなかいい。
#[[名古屋駅]]で[[和歌山/紀南|熊野]]土産の那智黒石を買おうとしたら販売されてないのに、(那智勝浦側から見て)名古屋の40km手前の四日市の地場産会館では、那智黒石が販売されていた。[[天王寺駅・大阪阿部野橋駅|天王寺駅]]はどうか知らないが…。(by茨城県民)
#*そりゃ、名古屋より四日市のほうが近いし・・・
#ここだけでいったい駅がいくつあるだろうか。とにかく駅が多い。
#*JR
#**関西本線…(桑名・名古屋方面)-富田-富田浜-四日市-南四日市-河原田-(亀山方面)
#*伊勢鉄道
#**伊勢線…(四日市駅-南四日市)-河原田-(津方面)
#*近鉄
#**名古屋線…(桑名・近鉄名古屋方面)-近鉄富田-霞ヶ浦-阿倉川-川原町-近鉄四日市-新正-海山道-塩浜-北楠-楠-(津・大阪方面)
#**湯の山線…近鉄四日市-中川原-伊勢松本-伊勢川島-高角-桜-(湯の山温泉方面)
#**内部線…近鉄四日市-赤堀-日永-南日永-泊-追分-小古曽-内部
#**八王子線…日永-西日野
#*三岐鉄道
#**三岐線…近鉄富田-大矢知-平津-暁学園前-山城-保々-北勢中央公園口-(大安・西藤原方面)
#*関西線と名古屋線以外は廃線寸前である
#**内部八王子線の存廃問題が早速2012年に浮上。
#*大昔、午起に国鉄の駅があったが、夏しか列車が止まらなかった。午起には当時海水浴場があった。
#**午起駅は三岐鉄道からの四日市乗り入れ列車が停車してました。
#作曲家、演奏家、著作家として有名な若手の野田憲太郎氏の出身地である。
#他県人に津や伊勢と一緒にされると複雑。尾鷲や熊野なんて親戚でも居ない限り同じ三重県内と思ってない。
#鈴鹿市と合併を模索するものの・・・失敗。三重郡での大連立合併も菰野町長に無視された。
#愛知県人から「遠くからわざわざ」といわれてムカッとする。名駅までの所要時間は三河地区と変わらない。
<!--#サ○ディスクちょっとwwシ○ープのパクリかw 詳しくは、⇒[http://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/20090915_315764.html サンディスク、転送速度90MB/secを実現したハイエンドCF]-->
#とんてきが名物。
#*元々は中華料理の來來憲(らいらいけん)のメニューの1つに過ぎなかったが、2005年に市に注目されてから市内の他店でも扱われるようになった。
#ミルクロード沿いにはセブンが異様に多い。
#人口密度は密かに多い
#中核市への移行を県から許可を得ているのに、なぜかまだ移行しない
#一号館という小さなスーパーがイオンの侵略に負けず地道に頑張っている。
#*市内のあちこちに店舗を展開している。
#*四日市市民で一号館を知らない者は居ない。
#*同グループでF1マートという大きなスーパーもある。
#**食料品から家電、ファッション、自転車などやたらめったら売っている。しかも店舗は1階のみ。
#*サンシという店も三泗地区(四日市市と三重郡のこと)で頑張ってます。
#全国の「○日市」で一番値が小さい。
#*「市名として」ならばね。同じ三重県の[[鈴鹿市]]には「三日市」という地名と駅が、[[福岡/筑前#筑紫野市の噂|福岡県筑紫野市]]には「二日市」の地名と駅が、そして秋田県や岩手県などには「一日市」の地名があります。
#**特に筑紫野市の場合、「筑紫野」というより「二日市」といった方が県外からは分かりやすい。
#現在では小中学校の社会科で四日市ぜんそくをならったりすることもあって工業都市としてのイメージが強いが、元々は東海道の宿場町でもあった。一応、それっぽい街並みもなくはない。
#*市立博物館でも当時の様子を再現した展示がある。
#やけにタンクローリーを多く見かける印象がある。
#2014年まで大阪万博のオーストラリア館が移築されて残っていた。
#*マンホールの図案ではまだ健在。


==四日市の噂==
==春秋戦国の武将==
[[ファイル:近鉄四日市駅前.jpg|240px|thumb|近鉄四日市駅前]]
===楽毅===
*四日市駅・近鉄四日市駅の噂は[[三重の駅/北勢|こちら]]。
#燕の昭王に仕えた武将。
#「四日市駅」と言えば「近鉄四日市駅」を指す。「四日市駅」で東京から来た人と待ち合わせると、その人は間違って「JRの四日市駅」に行ってしまう。1.3kmも離れているので、えらいことになる(実話です)。
#もともとは中山という小国の宰相の息子だったらしい。
#*JR四日市駅の周りは何も無い。
#*中山が趙の武霊王に攻め滅ぼされると、諸国を転々とするが、とりあえず魏で就職。
#**特急「南紀」も停車する。
#*魏の使者として燕に行った時に、楽毅の器量を見込んだ昭王にヘッドハンティングされて転職。
#**ちょっと北に歩けばそこそこ風情のある商店街があるよ。小さいけど。南に歩くと飲み屋ばっかりになるね。
#昭王の悲願であった、南の大国・斉への復讐戦を、ごくわずかな期間で成し遂げる。
#**近鉄四日市駅が今の位置に移る前はJR四日市駅の周りに繁華街があったそうな。今では跡形もないが。
#*楽毅に攻められた斉は、2つ3つの城を残して全部燕の版図になってしまう。
#***今でこそ近鉄側が繁栄しているが、近鉄の駅ができた時点ではまだ何もなかったとか。
#*しかも占領地での住民の叛乱が一度も起きなかった。行政官としても卓越していたようだ。
#**三重県で一番人口多い街だから、JR四日市駅周辺も賑やかだろうと思ってた。青春18きっぷで途中下車した時、あまりの寂れようにびっくりした。
#昭王が没すると、次の恵王には嫌われ、召還される。
#**最も貨物に関しては取り扱い量が多い。これは西鹿児島駅→鹿児島中央駅と鹿児島駅に似てるかも。
#*楽毅は身の危険を感じて、趙へ逃亡し、恵文王に仕えるようになる。
#**かつては[[近鉄名古屋線]]も国鉄四日市駅に乗り入れていたのだが、急カーブ解消のための路線変更でこんな状態に。
#*後任の将軍は、斉の諸城をたちまちとりこぼして元の黙阿弥に。楽毅の優秀さを皮肉な形で証明してしまった。
#***桑名や津、松阪、伊勢市は今なお共同使用駅故、JRと近鉄の力関係の差を四日市程は感じにくい(最もホームの客数を見れば明らかだが)
#*恵王は「楽毅は何年も斉に駐屯しているから、疲労回復させたいと思って帰って来いって命令だしたんだよ」と滅茶苦茶苦しい言い訳の手紙を楽毅に送ったそうな。
#*しかし、近鉄四日市駅の周りはいろいろある。
#*孟嘗君は恵王を名指しで、「こんなバカな王は見たことがない」と批判したとか。
#**××系もある
#のち、漢の高祖、諸葛孔明などに崇拝された。
#**以前は諏訪駅という駅名だった。
#*諸葛孔明は管仲・楽毅に憧れ、自分をそのふたりに喩えていた。ふたりとも軍事と行政に共に秀でていた。孔明は行政については管仲や楽毅に並ぶだけの才能を発揮したが、軍事に関しては残念ながら遠く及ばなかったようだ。
#***諏訪駅は現在のスーパーサンシ付近にあった。
#*JR四日市駅付近の住民も近鉄を使う。
#**名古屋で新幹線に乗り換えて東京に行く時だけはJRを使う。
#**名古屋方面に行く場合は使わない。遠いし高い。
#***名古屋・四日市間ならばJRの方が普通運賃は安い。亀山快速が設定されたこともあってJR利用が増えてる。
#*JR四日市駅と近鉄四日市駅は歩いてもそう苦にならない。
#*帰省時に18きっぷ使う時は気を使う。
#*でも名古屋までの運賃はJRのほうが安い(JR:460円、近鉄:610円)。
#**例え高くても近鉄を使うのがデフォ。
#***高くても近鉄を使うのは近鉄の近くの人のみ。
#***とはいえ、近鉄の方が圧倒的に本数も多く便利なので近鉄の利用客が多い。四日市においては近鉄側の方が栄えているので。
#***国鉄時代は末期まで非電化で本数も少なかった。
#*JR四日市前にある銅像のじーちゃんの正体を知るものは少ない。
#**正体は稲葉三右衛門さん、私財をなげうって四日市港を整備しようとした人。
#***四日市港ポートビルに行くと展示で大きく扱われている。
#**JR四日市駅そばの相生町にある4階建のマンションに住むと、大器晩成の人生を送れると言われ、入居待ちが続くらしい。
#***4階建だけど、なぜか最上階は3階。1階がイギリスの様にグランドフロア?になっている。
#****近所は民主党の岡田克也氏の少年時代の学区。
#ビジネスホテルがいつも満室。仕方なくひとりでラブホに泊まる出張族・職人も少なくない。
#10年ほど前、駅前から繁華街沿いに大な地下駐車場が作られた。料金は高く、やたらと暑い上に市民は公共交通機関を利用するのが一般的なために、あまり利用率が高くない。ついでに言うと四日市市の公共交通機関は、このクラスの都市にしてはかなり頑張りすぎてしまっている。
#札幌かに本家四日市店がある。県庁所在地の津には無い。
#ふれあいモールがリニューアルしたけど、女性向けの店しかなくなった。ザ丼があった頃が懐かしい。
#近鉄四日市駅周辺はやたらとホテルが多い。
#*新しく近鉄四日市駅前に出来た三交インのホテルって凄い綺麗だった。
#三重県で唯一、アニメ専門店[[アニメイト]]がある。
#*店は狭いのに、商品は無駄に多いよね。地味にコスプレ用の服もあるし。
#近鉄四日市駅の乗降人員は一日52,378人で三重県の駅で断トツ。(近鉄だけでこんなにいきますか?って感じ)
#*朝の内部線ホームはやばい、歩けないぐらい人が多い。
#休日昼のふれあいモールは人で溢れかえっている。
#*再開発して綺麗になったからなぁ~。店も多いし
#[[国道23号|名四]]沿いの吉野家が建ってる場所は昔キャバレーがあったそうだ。
#近鉄四日市駅から続く商店街にあるラーメン店にはメニューに「台湾ラーメン」がある。三重県もここまで来ると名古屋の影響力が強まっていることを実感する。
#近鉄側の駅前(海側)にはアーケードのある商店街が縦横に4本ずつくらいある。短いのも含めてだけど、県庁所在地ではないのに結構すごい気が。
#*駅前から海側に続くアーケードは近鉄の旧線路跡なんだとか。
#*県内人口最大都市だから。[[いわき市]]、[[高崎市]]、[[浜松市]]、[[下関市]]と同様。
#観光特急「しまかぜ」停車駅。この後は津をも通り越して伊勢市駅までノンストップ。


==富田の噂==
===白起===
#このほど、四日市北高校と四日市高校の通信制が統合し、北星高校という一つの学校となった。
#秦の昭襄王に仕えた武将。
#近鉄富田駅にある埴輪(?)らしき彫刻が気になる。
#*昭襄王というより、宰相の魏冉に仕えていたと言える。魏冉が失脚すると、昭襄王の言うことを一切聞かなくなり、そのうち抗命罪により自殺に追い込まれる。
#*その富田駅付近では未解決の忌まわしい失踪事件があった。
#とにかく戦争に強かった。どんな膠着した戦場でも、白起が参戦すれば必ず勝った。
#**カアイソウ
#*ただし戦後の占領行政などに対する配慮は無かったらしい。そのため不必要なほどに人を殺し、街なども荒廃させた。
#**ココアがポツンと残されてた…。しかも、殆ど飲んでない状態で…。
#**長平の戦いで趙軍45万人を皆殺しにした話は有名。
#読み方は「とみた」でも「とんだ」でもなく「とみだ」が正しい。
#***他にも万単位の虐殺はちょくちょくやっている。まあ、数字には誇張がありそうだが。
#JRが国鉄の頃、三岐鉄道が乗り入れていた・・・と言っても一日一本くらいだけど。
#***昭襄王の命令で自殺する時、「俺はなんでこんな目に遭うんだ?」と自問。<BR>「そうか、敵を殺しすぎた酬いか」と自答して、納得して剣に伏した。最後でようやく気がついたらしい。
#「その手は桑名の焼き蛤」で有名な焼き蛤はここ富田の名産だったそうな。当時は桑名藩だったから桑名の焼き蛤で間違ってなかったけれど、現在は四日市市になってしまったと。


==楠の噂==
===廉頗===
#楠町を編入したが、その楠はだいぶ狭かったので合併前と合併後の地図で見比べてみても殆ど違いが見られない。
#趙の武将。刎頸の交わりの逸話で知られる。
#*しかし、人口は増えた。
#*藺相如という成り上がり者の大臣を憎み、「顔を合わせたら必ず恥をかかせてやる」と息巻いていたが、その後藺相如の力量と忠誠心を知って大いに反省、謝りに行って意気投合し、「互いに頸をはねられても変わらぬ友で居よう」と誓い合った。
#旧町役場の最寄り駅は楠じゃなくて北楠
#[[秦]]の執拗な侵攻を巧みな用兵で妨げていたが、決戦を避けて秦軍の退却を待つ戦法を王様にじれったがられ、若手の将軍と交代させられてしまう。
#楠駅は四日市市域単位で見てもギリギリだ。
#*その若手将軍は功にはやり、秦の白起の誘いにはまって、死者45万という大敗北を喫してしまう。
#東京でよく飲まれるキンミヤ焼酎はここの宮崎本店が作っている。なんで三重の酒が関東の定番かというと、関東大震災の時に無料で配って支援したのが縁。むしろ地元ではあまり飲まないという変な酒である。
#**数字は眉唾だが、趙軍がほとんど壊滅したのは確かだろう。
#*[[大阪市/北区|大阪市北区]]でも5店舗に提供されるが、関西でも知名度は低い。
#*白起は廉頗の交代後に着任したので、この両将の対決は微妙なところで実現しなかった。実現していたら戦史に残る名勝負になっていたかもしれない。
#実は三重郡楠町時代にも公害病認定患者が出ている。
#**……が、名将同士の戦いというのは、意外と地味なものかもしれない。


==水沢の噂==
===李信===
#岩手県[[奥州市]]の水沢とは異なり、「すいざわ」と難読。重箱読み。
#秦の武将。近年[[週刊ヤングジャンプファン#キングダムファン|漫画]]で株を上げつつある。
#茶の産地。
#*まあ史記だと王賁の引き立て役だしね。
#1957年まで三重郡水沢村だった。
#子孫に詩人の李白がいる。
#宮妻峡がある。鈴鹿川水系の内部川上流。
#*粛清が多かった時代に唐代まで子孫を残すあたり、強運を持っていたに違いない。
#滋賀県[[甲賀市]]と隣接。
#*李広や李陵も彼の子孫。


==四日市と公害==
==秦漢の武将==
#旅行に行って、出身地を説明すときに「日本四大公害」の一つと言って説明できる。[[画像:Yokkaichi-Factory.jpg|thumb|工場と住民は密接な関係]]
===章邯===
#*でもあまり名誉なことでもないので、出来れば触れたくない。
#[[]]の二世皇帝の時、全土で蜂起した反乱軍を向こうに回して奮闘した武将。
#*最近は改善されてるのにね
#*もともとは財務官僚で、各地からの年貢などを集計する役職だったため、首都・咸陽でひた隠しにされていた反乱の実相をかなり正確につかんでいた。
#**30年位前までは車で通りかかるときは夏でも窓閉めた(エアコンのない時代)
#*二世皇帝を籠絡して実権をふるっていた宦官・趙高に志願して将軍となる。趙高が軍事に疎かったため、配下の軍団も全部自分で作り上げた。
#**今でもコンビナートの近所に行くと独特の臭いがする。昔よく行った昌栄町の温水プール付近の臭いが懐かしい。
#**その際も首都に溢れていた無駄に厳しい法で罪人された者たちに「敵を倒せば罪は許され帰れるぞ」と言い、あっという間に十数万の死を恐れぬ兵を得る辺り、やはり名将。
#***これって塩浜の方ですよね
#函谷関突破を狙っていた陳勝の部将・周文の軍団を撃破。これが主力部隊だったため、陳勝はほどなく没落した。その後各地に転戦し、反乱軍を叩き潰しまくった。
#****昌栄町は塩浜より北でむしろ港に近いと思う。
#*函谷関の突破は戦国時代5国合従の軍でも抜けなかった、何気にすごいこと
#***それでも当時と比べたら雲泥の差だと思うし、他のコンビナート地域と大して変わらなくなった。沿岸から3kmも離れれば空気も澄んでるし。
#連戦連勝だったが、鉅鹿を包囲している時に項羽軍に叩かれて大敗。
#*ネタ無しのマジレスをすると、全国の自治体の中でもトップクラスの汚染除去研究がされてる。
#*本来まだまだ余力があったはずなのだが、咸陽に援軍を頼みに行った使者が、逆に趙高の指図で逮捕されそうになったことを知って落胆、項羽に降伏する。
#*公害のおかげで庭の木が枯れてしまい「ヤバイ」と思ったイオンの名誉会長が「木を植えています」キャンペーンを始めた。
#*項羽は章邯の降伏を受け入れたが、配下の秦兵たちが不穏だったので(かつ、食糧が不足していたので)穴埋めの大虐殺。
#*引き金を引いたのは極端なまでの既存産業軽視&化学産業偏重思考の九鬼喜久男市長。コンビナート新設の説明会の時に「戦後復興したのは工業のお陰、これからは化学の時代」と言い放ち、地元で漁業を営んでいた漁師たちを「なんで今時そんな時代遅れの事をしてるの?」と罵倒する始末。
#項羽によって雍王に封じられる。「雍」はもと咸陽のあった関中台地を三分した地域。
#**その九鬼喜久男市長が社長となった会社が「九鬼肥料工業」。今でも工場付近は悪臭が立ち上る。
#*が、漢中から噴出してきた劉邦の軍に押し潰される。
#**ちなみにコンビナートを誘致したのは九鬼ではなく前任の平田佐矩だが、こちらは予期していなかった公害発生に心を痛めて私財を医療費に投じるなどしており、公害対策の責任を理解していた。平田が急死した後、九鬼も当然公害対策を行うものと思っていたら、「'''公害など存在しない'''」と極端にコンビナート寄りの立場をとったため四大公害病に数えられる程の大問題となる。
#**将才は劉邦の比ではなかったはずなのだが、関中の住民には章邯を恨む者が多く、結局満足に戦うこともなく没してしまった。
#*なので、四日市市は小学生以上ならわかる…はず
#**そりゃあ、自分達の知人多数を見殺しにして、自分達の国を滅ぼした者に王にしてもらったなんて、恨まれない方が無理。
#*今でも他県の人(特に東海以外)に「四日市から来ました」っていうと大体「空気汚いの大丈夫?」って言われる。
#名四国道を走行する時は窓を閉め切らないと肺疾患になる。
#*送風も『内気循環』にしておくこと。
#*バイクは他の道へ迂回したほうがいい。
#四日市喘息が発生した。発展途上国にその教訓を伝えている。
#*公害を抱える北京やバンコクなどから研究者が続々と
#*四日市大学と中国の最高学府である北京大学が学術提携をするという地元では「?」なニュースが!
#**四日市大学なんて新興大学でたいしたノウハウは無いし研究実績も無いしぶっちゃけ話題作り以外の何者でもないよな。
#**ちなみに四日市大学と同じ敷地内にある四日市看護医療大学は四日市大学のあまりの○鹿具合に同じにされることを嫌がっている。
#**四日市大学と喘息って関係あるか?
#*中国人が多く、近隣住民からはいい目で見られていない大学。


[[Category:特例市]]
===韓信===
#[[漢]]の高祖(劉邦)に仕えた武将。
#もともとは淮陰という町のゴロツキ。
#*他のゴロツキに因縁をつけられ、そいつの股をくぐったそうな。
#**志が高かったので無用の争いを好まなかったのだと言われている。しかし単にヘタレなだけだったのかもしれない。
#**後々も「股夫」とバカにされるが、それで敵が侮って油断してくれる面もあった。
#項羽軍に属するが、鳴かず飛ばず。咸陽陥落の際、漢中に向かう劉邦軍に鞍替え。
#*劉邦軍は人材が少なかったのでそこそこ出世。でも満足できなかった。
#*どこか見所があったらしく、蕭何、夏侯嬰など劉邦の側近に見込まれ、劉邦に推薦される。
#**「国士無双」というのは、蕭何が韓信を高祖に推薦した時の言葉。
#あっという間に関中を陥として将才を証明し、劉邦配下の最強将軍と認められる。
#*続いて項羽の本拠地だった彭城も、留守を狙ってあっという間に陥とす。ただし、激怒した項羽によりあっという間に奪い返される。
#**彭城の時は諸国連合軍で韓信が率いていたわけではないのでノーカン。
#*大将軍に就任した際に述べた現状分析は凄まじく的確。劉邦始め誰もが「なるほど、この男なら」と思われ、実際にそうなる。
#彭城の潰乱後は、主に北方戦線を担当し、趙、代、斉などの国々を攻略。
#*「背水の陣」や「半渡の計」など、兵法史に残る奇略を次々に編み出し、僅かな期間で巨大な版図を得てしまう。
#*劉邦から離れ、第三勢力となるべきだと説く者も居たが、根が小心者だったようで、その戦略には乗らなかった。
#*敵より少数であること多々、ごく少数であることも有。更に敵地に入る侵攻戦で敵将も戦慣れしたもの多数。それで全勝だから。
#漢帝国成立後は王に封じられるが、功績が大きすぎて警戒され、しょっちゅう謀反説がささやかれて居心地悪いこと甚だしかった。
#*ついに淮陰侯に格下げされてから、ガチで謀反を企むが、すでに遅すぎた。捕らえられて処刑される。
#**それも捕らえたのが韓信を見出した蕭何だったというのがまた運命の皮肉すぎる。
#*劉邦が困っている時に韓信が自分を高く売りつけたが、その恨みを劉邦が忘れていなかった説もある。
#将棋以上の競技人口を誇る中国のボードゲーム「シャンチー」は韓信が発明したと言われている。
#なお史記にある「韓信盧綰列伝」にある韓信とは、高祖によって韓王に封じられた韓王信のこと。本人は「淮陰侯列伝」に記載されている。同じ名前で分かりにくいんだよ!! 司馬遷。
 
===李広===
#[[漢]]の文帝・景帝・武帝の三代に仕えた武将。
#後に呂布の呼称にもなる「飛将軍」は、元々彼の二つ名である。
#大きな岩を虎と思い込んで矢を打ち込んで、見事に刺さってしまった。思い込みってすごいね。
#晩年は自分より年下の大将軍衛青の配下で匈奴討伐に出るが、ちょっとした行き違いから失敗し責任をとって自刎してしまう。
 
===周亜夫===
#[[漢]]の景帝に仕えた武将。
#高祖の配下で、恵帝の時に丞相を務めた周勃の息子。二世武将としては出色と言うべき。
#景帝に叛旗を翻した「呉楚七国の乱」を丹念な戦略で平定する。
#なお最後は餓死したという。
 
===衛青===
#[[漢]]の武帝に仕えた武将。
#武帝の皇后だった衛氏(衛子夫)の弟。霍去病は彼の甥にあたる。
#幼少期は父親 (とされる人) の家で奴隷のように扱われていたのが、姉の七光り+実力で大将軍までのぼりつめた。
#*そのため腰が低く卑屈な性格であったようで、武帝に媚を売っていると思われて当時の人には受けがよくなかった模様。
#*対照的に霍去病はそういう出自ではなかったのも下にあるようなキャラに育った一因と思われる。
#**ある観相人が「衛青は将来出世する」と言ったが、衛青本人の目標が「鞭で打たれなければそれで充分」というレベル。
#李広が自殺したのは自分のせいでもあるという自覚があり、親を殺されたと恨みに思った李広の息子に殴られても何も言わず秘密裏に処理しようとするが、甥っ子が黙ってなかった。
 
===霍去病===
#[[漢]]の武帝に仕えた武将。
#武帝の皇后だった衛氏の甥。ちなみに衛氏の弟(衛青)も優秀な武将だった。
#*性格は正反対であったが、かえって二人の仲は良かった模様。
#匈奴の軍団を完膚無きまでに撃破。漢帝国成立以来の快挙を成し遂げる。
#*この頃、鏃(やじり)に鉄が使われ始めたということも大きかったらしい。
#*また叔父の衛青は若い頃国境付近で牧童をしており、匈奴の実情をよく知っていた。
#没年24歳。青年将軍というよりほとんど少年将軍だった。これはもう天才であるとしか。
#*兵糧不足で飢えつつある兵士たちを尻目に豪食していたり、しょっちゅうポロにうつつを抜かしていたり、わりと傍若無人なキャラだったらしいが、その天才ぶりで許されてしまっていたようだ。
#**寧ろ彼の場合は長生きしなくてラッキーだったのではないかとも思う。
#*おそらく霍去病に罹患していたのだろう。
 
===李陵===
#[[漢]]の武帝に仕えた武将。
#この人も匈奴を相手に戦うが、以前の衛青や霍去病の大活躍に較べると、その活動は地味。
#*というか、衛青や霍去病の後任はみんな見劣りする。まあ仕方がない。
#孤軍奮闘するも力及ばず、匈奴に降伏。
#*どっちかというと援軍を送らなかった武帝が悪い。いや、すでに国庫が傾きつつあるのにいい気になって軍事行動を繰り返させていた武帝が悪い。
#*武帝も自分の落ち度をちょっと反省していたのかもしれない。李陵を弁護した司馬遷のち*こを切り落とすような極端なことをしたのは、痛いところを突かれたからだったかも。
#中島敦の小説になったので、古代中国の人としては、日本での知名度はかなり高い。
#*「史記」を訳しただけなのに、なんでこれが小説なんだ、といぶかしんだ人も居た。
#李広はおじいちゃん。しっかしおじいちゃんもこの人も匈奴討伐で碌な目にあってない・・・
 
===馬援===
#[[後漢]]の光武帝に仕えた武将。
#もとは牧場主。
#*もっと前は[[新]]の小役人として囚人護送をしていたが、囚人達を逃がしてしまい、自分も逃亡して北方で牧畜を始める。
#*経営の才能と気っぷの良さで、多くのカウボーイに慕われる親分となる。これが馬援の自前の軍勢となる。
#群雄のひとり隗囂の配下となるが、使者として訪ねた光武帝と意気投合して乗り換える。
#*厳密には、隗囂を光武帝の軍門に下らせたが、そののち隗囂と光武帝が不仲になると光武帝についた。以後、光武帝の片腕として活躍する。
#*光武帝は馬援の娘を自分の息子の嫁にする。後漢第二代・明帝の皇后となったわけ。
#**馬皇后は稀に見る賢夫人になった。皇后一族が跋扈することの多かった後漢王朝だが、馬皇后は自分の縁者はほとんど登用しなかったという。
#「矍鑠(かくしゃく)」という言葉で評された第一号。
#*晩年、叛乱を鎮圧しに行こうとしたところ、光武帝に「卿ももうトシだから無理は良くない」と言われた。「なんの、まだまだ元気ですぞ」と馬に飛び乗ると、光武帝は苦笑して「矍鑠たるかな、この翁!」と叫んだそうな。
#[[ベトナム]]では敵役。
#*「ベトナムのジャンヌ・ダルク」と呼ばれるチュン姉妹の叛乱を制圧したため。
#死後しばらく汚名をこうむっていたが、のち名誉回復。
#*叛乱軍から没収した財宝を着服したと疑われた。
#**車に燕麦の種籾を積んで、幌をかけて密閉しておいたのを誰にも見せなかったので、財宝だろうと思われたらしい。ちょっとイタズラが過ぎた。
#先祖は廉頗や藺相如と並ぶ趙の名将・趙奢。子孫に三国志で知られる馬騰、馬超親子がいる。
 
===班超===
#西域の鬼傑と呼ばれた武将。[[後漢]]の明帝・章帝・和帝に仕えた。
#西域諸国に対する覇権を匈奴と争い、多くの国を服属させた。
#*班超が居るうちはよく治まり、他の人に引き継いで居なくなるとたちまち乱れた。根っから西域行政に向いていたとしか。
#**洛陽に帰ろうとした時、班超の馬の足にすがりついて引き留めた国王も居たそうな。
#*ローマにも使者を出したが、シリアまでしか行き着けなかった。
#**シリアの船乗りに海路の困難さを脅かされてびびったらしい。地中海なんだから古くから航路も発達していたし、問題は無かったと思うんだが。
#班超の兄・班固と妹・班昭は司馬遷の「史記」に続く史書「漢書」を編纂した。この兄妹、すごすぎる。
#*もともと班超は学者一家の生まれでもちろん彼もそうなるように育てられたが、彼自身はそれを良しとしていなかった。
#「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という名言を残した。
 
==晋・南北朝の武将==
===杜預===
#晋の武帝に仕えた武将。
#三国時代に終止符を打った将軍。三国の中で唯一残っていた呉を亡ぼして、晋による天下統一を果たした。
#*攻勢をかけることを渋る武帝に対し、「呉は暗君(孫皓のこと)が上にいて国内が乱れており、今が攻めどきですよ。もしこのさき明君が立ちでもしたら、あなたの手には負えませんよ」と(もう少しやんわりと)おどかして決断させる。
#**呉を攻め落とした時にドヤ顔で「ど~よ」と言ったとか言わなかったとか。
#「左伝癖」を自称。「春秋左氏伝」マニアということ。
#*現代に伝わる「春秋左氏伝」のテキストは、すべて杜預が校訂したもの。曹操の「孫子」校訂と並ぶこの時代の偉業である。
#*ちなみに関羽も「春秋左氏伝」が大好きだったらしい。
#[[唐]]を代表する詩人・杜甫は彼の子孫らしい。
#武将なのに、馬に乗れなかったらしい。
#*ついでに弓も下手で、武将といっても個人武勇で立つタイプではなかった。
#博多弁とは関係ない。
#後世では名将として評価されている。
 
===宇宙大将軍===
#名前は侯景。
#「漢の太祖」と称して短期間ながら帝位に就いていたので、「[[王侯伝/中国|王侯伝]]」に載せても良いのだが、首都・建康以外にはほとんど影響しなかったので、まあこちらでいいか。
#もともとは北朝の東魏で、実力者の高歓の死後その息子と反目していた。そこへ南朝の梁の調略を受け、一緒に東魏を攻めることにする。ところが梁軍が東魏にボロ負けし、和平交渉が始まると、身柄を東魏に売られるのを怖れて逆ギレ、矛を返して梁を攻める。
#*梁軍はこの逆ギレ部隊にもかなわなかった。というより侯景の進撃につれてあちこちから叛乱軍が集結し、大軍団になってしまった。
#**梁の武帝は名君だったが、この頃は過度の仏教保護で重税となり、各地に不満分子が多かったらしい。
#*ついに建康を囲み、5ヶ月の包囲戦ののち陥落させる。侯景は武帝の前にまかり出たが、最初は位負けして口もきけなかったそうな。
#建康陥落で気落ちした武帝は間もなく没し、あとを継がせた簡文帝に宇宙大将軍の称号を侯景自身に贈らせる。
#簡文帝を弑殺し、甥の蕭棟を即位させて禅譲を受ける。しかし江陵にいた簡文帝の弟(のちの元帝)が差し向けた王僧弁・陳霸先の両将に攻められて敗死。
#それにしても中国史上もっとも壮大なスケールの称号を持った男であった。
#*グレートマジンガーの「暗黒大将軍」よりさらに上位っぽい。
#*「宇宙」と書いて「そら」と・・・読まないか。
#*後世の例えばアニメとかのネタかと思ったら、史実だけに怖い。
 
===木蘭===
→[[女子伝/中国#木蘭|木蘭]]
 
==隋唐の武将==
===尉遅敬徳===
#[[唐]]の太宗に仕えた武将。
#苗字の「尉遅」はたぶん「ウルチ」と読み、同時代の高句麗の武将・乙支文徳とおそらく同族。
#*太宗の高句麗遠征を諫止したのも、同族があっちにたくさん居たからかも。
#*「胡敬徳」という名でも知られる。「西遊記」にはこの名で出てきた。
#最初は唐に対抗していた劉武周の部将だったが、劉武周が唐軍に敗退してのち、李世民(太宗)に説得されて移籍。以後、太宗配下の随一の猛将として大活躍。
#*玄武門の変の時も、太宗の弟の李元吉を射殺したり、高祖に引退を迫るなど大殊勲を挙げる。
#**元吉は、尉遅敬徳が太宗側についたと知った時点で、「あいつが向こうについたんじゃ勝ち目はねえよ」と戦意喪失したそうな。
#水滸伝の孫立、孫新兄弟の渾名「病尉遅、小尉遅」の元ネタになった人。
 
===高仙芝===
#[[唐]]の玄宗に仕えた武将。
#高句麗の遺民出身。「高」の姓は高句麗のこと。
#上官を差し置いて朝廷に報告を送ったり、戦利品をがっぽりためこんだりと貪欲な男だったが、下の者に対しては気前が良かったので、配下の兵たちには人気があったらしい。
#*パミール地方の戦役の時上官であった夫蒙霊詧は、高仙芝が勝手に報告書を出したので怒りまくり、<BR>「犬のハラワタを食らう高句麗野郎!犬の糞を食らう高句麗野郎!」<BR>と罵った。
#**当時の民族的偏見のひどさの一例とされるが、犬食とか糞食とかって、もしかして……<丶`∀´>
#タラスの戦いでアッバース帝国軍に惨敗。
#*タシケントを非常に卑怯な方法で攻略し、国王を斬り財宝を奪ったので、遺された王子がアッバースに泣きついた。
#*最大の敗因はカルルク族部隊が寝返ったことだが、敵からの調略があったのか、それとももともとカルルク族が心服していなかったのかは定かでない。
#*この戦いで捕虜になった唐軍兵士の中に紙漉き工が居て、紙の製法が西方に伝わった話は有名。
#*惨敗したが、帰還した高仙芝にはおとがめがなく、かえって出世している。この辺が玄宗のぬるいところで、のちに安史の乱が起きたのも玄宗のこの性格によるところが大きい。
#*出世はしてないんだが、なぜか↑のような誤解が広まっている。
#安禄山の乱で消極的な戦法をとり、結局糾弾されて処刑された。
#*監軍になっていた宦官の辺令誠の言うことを聞かなかったので讒言されたためで、戦法そのものは誤っていなかったと評価されることが多い。
#*しかし辺令誠は西域時代からの昔なじみであり、進言を無視されたくらいで讒言する人物とも思えない。何か問題があったのだろう。
 
==宋元の武将==
===岳飛===
#北宋末~南宋初期の武将。
#「精忠報国」というタトゥーを入れていた。
#戦争にはなかなか強く、金軍の制圧下の町をいくつも奪回した。
#*ただしよく見ると、金軍の手薄なところを攻略していただけで、金軍の主力と正面から交戦したことは無さそうである。つまり、局地戦で小刻みな勝利を得ていただけで、戦局を大きく覆すほどの大勝とは言えない。
#*逆に、和平を進めたい側としては、岳飛が変に小刻みな戦勝を繰り返しているのが実に不都合だった。それで難癖をつけて誅殺してしまった。
#**「史上最低の腹黒宰相」であった[[宰相・軍師伝/中国#秦檜|秦檜]]が高宗に讒言して殺したと言われているが、実のところ和平派のボスは高宗自身。岳飛の悲運は、自分が頑張ることが高宗の邪魔になっていることに最後まで気づかなかった、ものすごく空気を読めない点だろう。
#とある作品では梁山泊の面々を討伐している。
 
==明清の武将==
===袁崇煥===
#[[明]]末の武将。
#山海関に常駐して満洲族の侵攻を防いでいた。
#*なかなかの名将で、彼が山海関に居るうちはヌルハチ(清の太祖)もホンタイジ(清の太宗)も手も足も出なかった。
#*かつて袁崇煥に罰せられた部将の配下を捕虜にしたホンタイジは、彼らを北京に送り込んで袁崇煥を讒言させた。明の崇禎帝は讒言を信じて袁崇煥を召還し処刑。
#**明は最後の名将を自らの手で葬ってしまったことになる。
#***でも、支配者よりカリスマのある部下がいれば、疑心暗鬼になるというのは洋の東西、古今を問わないと思う。
 
===呉三桂===
#[[明]]末~[[清]]初の武将。
#袁崇煥の後任として山海関を守っていたが、清軍と競り合っているうちに明王朝が李自成に亡ぼされてしまう。
#*もちろん李自成からは投降の勧告が来た。呉三桂は一旦その気になりかけたが、愛妾の陳円円が李自成の部将・劉宗敏に奪われたと聞いて激怒。
#*でも自分だけで李自成に勝つ自信がないので、あっさり山海間を開けて清軍を引き入れてしまう。
#*呉三桂としては、清軍を自分の配下に加えるつもりだったのだが、清の摂政王ドルゴンのほうがず~っとうわ手で、またたく間に呉三桂を配下にしてしまう。
#女ひとりのために国を夷狄に売り渡したってんで、歴史上の人物としては実に評判が悪い。
#*ただし、国内の争いのために異民族を引き入れるというのは中国史ではよくある話で、呉三桂が特別性悪の売国奴だったわけではない。その異民族に早々と主導権を奪われてしまった点が愚かだっただけ。
#*また、女のためだけだったかどうかも微妙。そのほうが面白いから定説化してしまっただけのような気がする。
#清の天下になってから、藩王として待遇される。
#*かなりの厚遇だと思うのだが、しばらくして不満を覚えて叛乱を起こし、結局斬られる。
#**自分が天下を盗るつもりだったのかもしれない。
#**清の朝廷にはめられて、叛乱に追い込まれただけとも考えられる。
 
===僧格林沁===
#清末頃の蒙古騎兵を率いていた将軍。モンゴル族。
#*軍閥もうかつに清朝に文句を言えないぐらいの最強部隊だったらしい。
#そのせいか、清朝の宮廷にはウケがよく、最終的には、親王にまで昇進。
#最期は、酔っ払って出撃して馬から落ちて部隊が壊滅したからだとかなんとか。
 
[[Category:バカ人物志/中国|ふしよう]]

2021年8月9日 (月) 23:36時点における版

バカ人物志/中国

独立済み

春秋戦国の武将

楽毅

  1. 燕の昭王に仕えた武将。
  2. もともとは中山という小国の宰相の息子だったらしい。
    • 中山が趙の武霊王に攻め滅ぼされると、諸国を転々とするが、とりあえず魏で就職。
    • 魏の使者として燕に行った時に、楽毅の器量を見込んだ昭王にヘッドハンティングされて転職。
  3. 昭王の悲願であった、南の大国・斉への復讐戦を、ごくわずかな期間で成し遂げる。
    • 楽毅に攻められた斉は、2つ3つの城を残して全部燕の版図になってしまう。
    • しかも占領地での住民の叛乱が一度も起きなかった。行政官としても卓越していたようだ。
  4. 昭王が没すると、次の恵王には嫌われ、召還される。
    • 楽毅は身の危険を感じて、趙へ逃亡し、恵文王に仕えるようになる。
    • 後任の将軍は、斉の諸城をたちまちとりこぼして元の黙阿弥に。楽毅の優秀さを皮肉な形で証明してしまった。
    • 恵王は「楽毅は何年も斉に駐屯しているから、疲労回復させたいと思って帰って来いって命令だしたんだよ」と滅茶苦茶苦しい言い訳の手紙を楽毅に送ったそうな。
    • 孟嘗君は恵王を名指しで、「こんなバカな王は見たことがない」と批判したとか。
  5. のち、漢の高祖、諸葛孔明などに崇拝された。
    • 諸葛孔明は管仲・楽毅に憧れ、自分をそのふたりに喩えていた。ふたりとも軍事と行政に共に秀でていた。孔明は行政については管仲や楽毅に並ぶだけの才能を発揮したが、軍事に関しては残念ながら遠く及ばなかったようだ。

白起

  1. 秦の昭襄王に仕えた武将。
    • 昭襄王というより、宰相の魏冉に仕えていたと言える。魏冉が失脚すると、昭襄王の言うことを一切聞かなくなり、そのうち抗命罪により自殺に追い込まれる。
  2. とにかく戦争に強かった。どんな膠着した戦場でも、白起が参戦すれば必ず勝った。
    • ただし戦後の占領行政などに対する配慮は無かったらしい。そのため不必要なほどに人を殺し、街なども荒廃させた。
      • 長平の戦いで趙軍45万人を皆殺しにした話は有名。
        • 他にも万単位の虐殺はちょくちょくやっている。まあ、数字には誇張がありそうだが。
        • 昭襄王の命令で自殺する時、「俺はなんでこんな目に遭うんだ?」と自問。
          「そうか、敵を殺しすぎた酬いか」と自答して、納得して剣に伏した。最後でようやく気がついたらしい。

廉頗

  1. 趙の武将。刎頸の交わりの逸話で知られる。
    • 藺相如という成り上がり者の大臣を憎み、「顔を合わせたら必ず恥をかかせてやる」と息巻いていたが、その後藺相如の力量と忠誠心を知って大いに反省、謝りに行って意気投合し、「互いに頸をはねられても変わらぬ友で居よう」と誓い合った。
  2. の執拗な侵攻を巧みな用兵で妨げていたが、決戦を避けて秦軍の退却を待つ戦法を王様にじれったがられ、若手の将軍と交代させられてしまう。
    • その若手将軍は功にはやり、秦の白起の誘いにはまって、死者45万という大敗北を喫してしまう。
      • 数字は眉唾だが、趙軍がほとんど壊滅したのは確かだろう。
    • 白起は廉頗の交代後に着任したので、この両将の対決は微妙なところで実現しなかった。実現していたら戦史に残る名勝負になっていたかもしれない。
      • ……が、名将同士の戦いというのは、意外と地味なものかもしれない。

李信

  1. 秦の武将。近年漫画で株を上げつつある。
    • まあ史記だと王賁の引き立て役だしね。
  2. 子孫に詩人の李白がいる。
    • 粛清が多かった時代に唐代まで子孫を残すあたり、強運を持っていたに違いない。
    • 李広や李陵も彼の子孫。

秦漢の武将

章邯

  1. の二世皇帝の時、全土で蜂起した反乱軍を向こうに回して奮闘した武将。
    • もともとは財務官僚で、各地からの年貢などを集計する役職だったため、首都・咸陽でひた隠しにされていた反乱の実相をかなり正確につかんでいた。
    • 二世皇帝を籠絡して実権をふるっていた宦官・趙高に志願して将軍となる。趙高が軍事に疎かったため、配下の軍団も全部自分で作り上げた。
      • その際も首都に溢れていた無駄に厳しい法で罪人された者たちに「敵を倒せば罪は許され帰れるぞ」と言い、あっという間に十数万の死を恐れぬ兵を得る辺り、やはり名将。
  2. 函谷関突破を狙っていた陳勝の部将・周文の軍団を撃破。これが主力部隊だったため、陳勝はほどなく没落した。その後各地に転戦し、反乱軍を叩き潰しまくった。
    • 函谷関の突破は戦国時代5国合従の軍でも抜けなかった、何気にすごいこと
  3. 連戦連勝だったが、鉅鹿を包囲している時に項羽軍に叩かれて大敗。
    • 本来まだまだ余力があったはずなのだが、咸陽に援軍を頼みに行った使者が、逆に趙高の指図で逮捕されそうになったことを知って落胆、項羽に降伏する。
    • 項羽は章邯の降伏を受け入れたが、配下の秦兵たちが不穏だったので(かつ、食糧が不足していたので)穴埋めの大虐殺。
  4. 項羽によって雍王に封じられる。「雍」はもと咸陽のあった関中台地を三分した地域。
    • が、漢中から噴出してきた劉邦の軍に押し潰される。
      • 将才は劉邦の比ではなかったはずなのだが、関中の住民には章邯を恨む者が多く、結局満足に戦うこともなく没してしまった。
      • そりゃあ、自分達の知人多数を見殺しにして、自分達の国を滅ぼした者に王にしてもらったなんて、恨まれない方が無理。

韓信

  1. の高祖(劉邦)に仕えた武将。
  2. もともとは淮陰という町のゴロツキ。
    • 他のゴロツキに因縁をつけられ、そいつの股をくぐったそうな。
      • 志が高かったので無用の争いを好まなかったのだと言われている。しかし単にヘタレなだけだったのかもしれない。
      • 後々も「股夫」とバカにされるが、それで敵が侮って油断してくれる面もあった。
  3. 項羽軍に属するが、鳴かず飛ばず。咸陽陥落の際、漢中に向かう劉邦軍に鞍替え。
    • 劉邦軍は人材が少なかったのでそこそこ出世。でも満足できなかった。
    • どこか見所があったらしく、蕭何、夏侯嬰など劉邦の側近に見込まれ、劉邦に推薦される。
      • 「国士無双」というのは、蕭何が韓信を高祖に推薦した時の言葉。
  4. あっという間に関中を陥として将才を証明し、劉邦配下の最強将軍と認められる。
    • 続いて項羽の本拠地だった彭城も、留守を狙ってあっという間に陥とす。ただし、激怒した項羽によりあっという間に奪い返される。
      • 彭城の時は諸国連合軍で韓信が率いていたわけではないのでノーカン。
    • 大将軍に就任した際に述べた現状分析は凄まじく的確。劉邦始め誰もが「なるほど、この男なら」と思われ、実際にそうなる。
  5. 彭城の潰乱後は、主に北方戦線を担当し、趙、代、斉などの国々を攻略。
    • 「背水の陣」や「半渡の計」など、兵法史に残る奇略を次々に編み出し、僅かな期間で巨大な版図を得てしまう。
    • 劉邦から離れ、第三勢力となるべきだと説く者も居たが、根が小心者だったようで、その戦略には乗らなかった。
    • 敵より少数であること多々、ごく少数であることも有。更に敵地に入る侵攻戦で敵将も戦慣れしたもの多数。それで全勝だから。
  6. 漢帝国成立後は王に封じられるが、功績が大きすぎて警戒され、しょっちゅう謀反説がささやかれて居心地悪いこと甚だしかった。
    • ついに淮陰侯に格下げされてから、ガチで謀反を企むが、すでに遅すぎた。捕らえられて処刑される。
      • それも捕らえたのが韓信を見出した蕭何だったというのがまた運命の皮肉すぎる。
    • 劉邦が困っている時に韓信が自分を高く売りつけたが、その恨みを劉邦が忘れていなかった説もある。
  7. 将棋以上の競技人口を誇る中国のボードゲーム「シャンチー」は韓信が発明したと言われている。
  8. なお史記にある「韓信盧綰列伝」にある韓信とは、高祖によって韓王に封じられた韓王信のこと。本人は「淮陰侯列伝」に記載されている。同じ名前で分かりにくいんだよ!! 司馬遷。

李広

  1. の文帝・景帝・武帝の三代に仕えた武将。
  2. 後に呂布の呼称にもなる「飛将軍」は、元々彼の二つ名である。
  3. 大きな岩を虎と思い込んで矢を打ち込んで、見事に刺さってしまった。思い込みってすごいね。
  4. 晩年は自分より年下の大将軍衛青の配下で匈奴討伐に出るが、ちょっとした行き違いから失敗し責任をとって自刎してしまう。

周亜夫

  1. の景帝に仕えた武将。
  2. 高祖の配下で、恵帝の時に丞相を務めた周勃の息子。二世武将としては出色と言うべき。
  3. 景帝に叛旗を翻した「呉楚七国の乱」を丹念な戦略で平定する。
  4. なお最後は餓死したという。

衛青

  1. の武帝に仕えた武将。
  2. 武帝の皇后だった衛氏(衛子夫)の弟。霍去病は彼の甥にあたる。
  3. 幼少期は父親 (とされる人) の家で奴隷のように扱われていたのが、姉の七光り+実力で大将軍までのぼりつめた。
    • そのため腰が低く卑屈な性格であったようで、武帝に媚を売っていると思われて当時の人には受けがよくなかった模様。
    • 対照的に霍去病はそういう出自ではなかったのも下にあるようなキャラに育った一因と思われる。
      • ある観相人が「衛青は将来出世する」と言ったが、衛青本人の目標が「鞭で打たれなければそれで充分」というレベル。
  4. 李広が自殺したのは自分のせいでもあるという自覚があり、親を殺されたと恨みに思った李広の息子に殴られても何も言わず秘密裏に処理しようとするが、甥っ子が黙ってなかった。

霍去病

  1. の武帝に仕えた武将。
  2. 武帝の皇后だった衛氏の甥。ちなみに衛氏の弟(衛青)も優秀な武将だった。
    • 性格は正反対であったが、かえって二人の仲は良かった模様。
  3. 匈奴の軍団を完膚無きまでに撃破。漢帝国成立以来の快挙を成し遂げる。
    • この頃、鏃(やじり)に鉄が使われ始めたということも大きかったらしい。
    • また叔父の衛青は若い頃国境付近で牧童をしており、匈奴の実情をよく知っていた。
  4. 没年24歳。青年将軍というよりほとんど少年将軍だった。これはもう天才であるとしか。
    • 兵糧不足で飢えつつある兵士たちを尻目に豪食していたり、しょっちゅうポロにうつつを抜かしていたり、わりと傍若無人なキャラだったらしいが、その天才ぶりで許されてしまっていたようだ。
      • 寧ろ彼の場合は長生きしなくてラッキーだったのではないかとも思う。
    • おそらく霍去病に罹患していたのだろう。

李陵

  1. の武帝に仕えた武将。
  2. この人も匈奴を相手に戦うが、以前の衛青や霍去病の大活躍に較べると、その活動は地味。
    • というか、衛青や霍去病の後任はみんな見劣りする。まあ仕方がない。
  3. 孤軍奮闘するも力及ばず、匈奴に降伏。
    • どっちかというと援軍を送らなかった武帝が悪い。いや、すでに国庫が傾きつつあるのにいい気になって軍事行動を繰り返させていた武帝が悪い。
    • 武帝も自分の落ち度をちょっと反省していたのかもしれない。李陵を弁護した司馬遷のち*こを切り落とすような極端なことをしたのは、痛いところを突かれたからだったかも。
  4. 中島敦の小説になったので、古代中国の人としては、日本での知名度はかなり高い。
    • 「史記」を訳しただけなのに、なんでこれが小説なんだ、といぶかしんだ人も居た。
  5. 李広はおじいちゃん。しっかしおじいちゃんもこの人も匈奴討伐で碌な目にあってない・・・

馬援

  1. 後漢の光武帝に仕えた武将。
  2. もとは牧場主。
    • もっと前はの小役人として囚人護送をしていたが、囚人達を逃がしてしまい、自分も逃亡して北方で牧畜を始める。
    • 経営の才能と気っぷの良さで、多くのカウボーイに慕われる親分となる。これが馬援の自前の軍勢となる。
  3. 群雄のひとり隗囂の配下となるが、使者として訪ねた光武帝と意気投合して乗り換える。
    • 厳密には、隗囂を光武帝の軍門に下らせたが、そののち隗囂と光武帝が不仲になると光武帝についた。以後、光武帝の片腕として活躍する。
    • 光武帝は馬援の娘を自分の息子の嫁にする。後漢第二代・明帝の皇后となったわけ。
      • 馬皇后は稀に見る賢夫人になった。皇后一族が跋扈することの多かった後漢王朝だが、馬皇后は自分の縁者はほとんど登用しなかったという。
  4. 「矍鑠(かくしゃく)」という言葉で評された第一号。
    • 晩年、叛乱を鎮圧しに行こうとしたところ、光武帝に「卿ももうトシだから無理は良くない」と言われた。「なんの、まだまだ元気ですぞ」と馬に飛び乗ると、光武帝は苦笑して「矍鑠たるかな、この翁!」と叫んだそうな。
  5. ベトナムでは敵役。
    • 「ベトナムのジャンヌ・ダルク」と呼ばれるチュン姉妹の叛乱を制圧したため。
  6. 死後しばらく汚名をこうむっていたが、のち名誉回復。
    • 叛乱軍から没収した財宝を着服したと疑われた。
      • 車に燕麦の種籾を積んで、幌をかけて密閉しておいたのを誰にも見せなかったので、財宝だろうと思われたらしい。ちょっとイタズラが過ぎた。
  7. 先祖は廉頗や藺相如と並ぶ趙の名将・趙奢。子孫に三国志で知られる馬騰、馬超親子がいる。

班超

  1. 西域の鬼傑と呼ばれた武将。後漢の明帝・章帝・和帝に仕えた。
  2. 西域諸国に対する覇権を匈奴と争い、多くの国を服属させた。
    • 班超が居るうちはよく治まり、他の人に引き継いで居なくなるとたちまち乱れた。根っから西域行政に向いていたとしか。
      • 洛陽に帰ろうとした時、班超の馬の足にすがりついて引き留めた国王も居たそうな。
    • ローマにも使者を出したが、シリアまでしか行き着けなかった。
      • シリアの船乗りに海路の困難さを脅かされてびびったらしい。地中海なんだから古くから航路も発達していたし、問題は無かったと思うんだが。
  3. 班超の兄・班固と妹・班昭は司馬遷の「史記」に続く史書「漢書」を編纂した。この兄妹、すごすぎる。
    • もともと班超は学者一家の生まれでもちろん彼もそうなるように育てられたが、彼自身はそれを良しとしていなかった。
  4. 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という名言を残した。

晋・南北朝の武将

杜預

  1. 晋の武帝に仕えた武将。
  2. 三国時代に終止符を打った将軍。三国の中で唯一残っていた呉を亡ぼして、晋による天下統一を果たした。
    • 攻勢をかけることを渋る武帝に対し、「呉は暗君(孫皓のこと)が上にいて国内が乱れており、今が攻めどきですよ。もしこのさき明君が立ちでもしたら、あなたの手には負えませんよ」と(もう少しやんわりと)おどかして決断させる。
      • 呉を攻め落とした時にドヤ顔で「ど~よ」と言ったとか言わなかったとか。
  3. 「左伝癖」を自称。「春秋左氏伝」マニアということ。
    • 現代に伝わる「春秋左氏伝」のテキストは、すべて杜預が校訂したもの。曹操の「孫子」校訂と並ぶこの時代の偉業である。
    • ちなみに関羽も「春秋左氏伝」が大好きだったらしい。
  4. を代表する詩人・杜甫は彼の子孫らしい。
  5. 武将なのに、馬に乗れなかったらしい。
    • ついでに弓も下手で、武将といっても個人武勇で立つタイプではなかった。
  6. 博多弁とは関係ない。
  7. 後世では名将として評価されている。

宇宙大将軍

  1. 名前は侯景。
  2. 「漢の太祖」と称して短期間ながら帝位に就いていたので、「王侯伝」に載せても良いのだが、首都・建康以外にはほとんど影響しなかったので、まあこちらでいいか。
  3. もともとは北朝の東魏で、実力者の高歓の死後その息子と反目していた。そこへ南朝の梁の調略を受け、一緒に東魏を攻めることにする。ところが梁軍が東魏にボロ負けし、和平交渉が始まると、身柄を東魏に売られるのを怖れて逆ギレ、矛を返して梁を攻める。
    • 梁軍はこの逆ギレ部隊にもかなわなかった。というより侯景の進撃につれてあちこちから叛乱軍が集結し、大軍団になってしまった。
      • 梁の武帝は名君だったが、この頃は過度の仏教保護で重税となり、各地に不満分子が多かったらしい。
    • ついに建康を囲み、5ヶ月の包囲戦ののち陥落させる。侯景は武帝の前にまかり出たが、最初は位負けして口もきけなかったそうな。
  4. 建康陥落で気落ちした武帝は間もなく没し、あとを継がせた簡文帝に宇宙大将軍の称号を侯景自身に贈らせる。
  5. 簡文帝を弑殺し、甥の蕭棟を即位させて禅譲を受ける。しかし江陵にいた簡文帝の弟(のちの元帝)が差し向けた王僧弁・陳霸先の両将に攻められて敗死。
  6. それにしても中国史上もっとも壮大なスケールの称号を持った男であった。
    • グレートマジンガーの「暗黒大将軍」よりさらに上位っぽい。
    • 「宇宙」と書いて「そら」と・・・読まないか。
    • 後世の例えばアニメとかのネタかと思ったら、史実だけに怖い。

木蘭

木蘭

隋唐の武将

尉遅敬徳

  1. の太宗に仕えた武将。
  2. 苗字の「尉遅」はたぶん「ウルチ」と読み、同時代の高句麗の武将・乙支文徳とおそらく同族。
    • 太宗の高句麗遠征を諫止したのも、同族があっちにたくさん居たからかも。
    • 「胡敬徳」という名でも知られる。「西遊記」にはこの名で出てきた。
  3. 最初は唐に対抗していた劉武周の部将だったが、劉武周が唐軍に敗退してのち、李世民(太宗)に説得されて移籍。以後、太宗配下の随一の猛将として大活躍。
    • 玄武門の変の時も、太宗の弟の李元吉を射殺したり、高祖に引退を迫るなど大殊勲を挙げる。
      • 元吉は、尉遅敬徳が太宗側についたと知った時点で、「あいつが向こうについたんじゃ勝ち目はねえよ」と戦意喪失したそうな。
  4. 水滸伝の孫立、孫新兄弟の渾名「病尉遅、小尉遅」の元ネタになった人。

高仙芝

  1. の玄宗に仕えた武将。
  2. 高句麗の遺民出身。「高」の姓は高句麗のこと。
  3. 上官を差し置いて朝廷に報告を送ったり、戦利品をがっぽりためこんだりと貪欲な男だったが、下の者に対しては気前が良かったので、配下の兵たちには人気があったらしい。
    • パミール地方の戦役の時上官であった夫蒙霊詧は、高仙芝が勝手に報告書を出したので怒りまくり、
      「犬のハラワタを食らう高句麗野郎!犬の糞を食らう高句麗野郎!」
      と罵った。
      • 当時の民族的偏見のひどさの一例とされるが、犬食とか糞食とかって、もしかして……<丶`∀´>
  4. タラスの戦いでアッバース帝国軍に惨敗。
    • タシケントを非常に卑怯な方法で攻略し、国王を斬り財宝を奪ったので、遺された王子がアッバースに泣きついた。
    • 最大の敗因はカルルク族部隊が寝返ったことだが、敵からの調略があったのか、それとももともとカルルク族が心服していなかったのかは定かでない。
    • この戦いで捕虜になった唐軍兵士の中に紙漉き工が居て、紙の製法が西方に伝わった話は有名。
    • 惨敗したが、帰還した高仙芝にはおとがめがなく、かえって出世している。この辺が玄宗のぬるいところで、のちに安史の乱が起きたのも玄宗のこの性格によるところが大きい。
    • 出世はしてないんだが、なぜか↑のような誤解が広まっている。
  5. 安禄山の乱で消極的な戦法をとり、結局糾弾されて処刑された。
    • 監軍になっていた宦官の辺令誠の言うことを聞かなかったので讒言されたためで、戦法そのものは誤っていなかったと評価されることが多い。
    • しかし辺令誠は西域時代からの昔なじみであり、進言を無視されたくらいで讒言する人物とも思えない。何か問題があったのだろう。

宋元の武将

岳飛

  1. 北宋末~南宋初期の武将。
  2. 「精忠報国」というタトゥーを入れていた。
  3. 戦争にはなかなか強く、金軍の制圧下の町をいくつも奪回した。
    • ただしよく見ると、金軍の手薄なところを攻略していただけで、金軍の主力と正面から交戦したことは無さそうである。つまり、局地戦で小刻みな勝利を得ていただけで、戦局を大きく覆すほどの大勝とは言えない。
    • 逆に、和平を進めたい側としては、岳飛が変に小刻みな戦勝を繰り返しているのが実に不都合だった。それで難癖をつけて誅殺してしまった。
      • 「史上最低の腹黒宰相」であった秦檜が高宗に讒言して殺したと言われているが、実のところ和平派のボスは高宗自身。岳飛の悲運は、自分が頑張ることが高宗の邪魔になっていることに最後まで気づかなかった、ものすごく空気を読めない点だろう。
  4. とある作品では梁山泊の面々を討伐している。

明清の武将

袁崇煥

  1. 末の武将。
  2. 山海関に常駐して満洲族の侵攻を防いでいた。
    • なかなかの名将で、彼が山海関に居るうちはヌルハチ(清の太祖)もホンタイジ(清の太宗)も手も足も出なかった。
    • かつて袁崇煥に罰せられた部将の配下を捕虜にしたホンタイジは、彼らを北京に送り込んで袁崇煥を讒言させた。明の崇禎帝は讒言を信じて袁崇煥を召還し処刑。
      • 明は最後の名将を自らの手で葬ってしまったことになる。
        • でも、支配者よりカリスマのある部下がいれば、疑心暗鬼になるというのは洋の東西、古今を問わないと思う。

呉三桂

  1. 末~初の武将。
  2. 袁崇煥の後任として山海関を守っていたが、清軍と競り合っているうちに明王朝が李自成に亡ぼされてしまう。
    • もちろん李自成からは投降の勧告が来た。呉三桂は一旦その気になりかけたが、愛妾の陳円円が李自成の部将・劉宗敏に奪われたと聞いて激怒。
    • でも自分だけで李自成に勝つ自信がないので、あっさり山海間を開けて清軍を引き入れてしまう。
    • 呉三桂としては、清軍を自分の配下に加えるつもりだったのだが、清の摂政王ドルゴンのほうがず~っとうわ手で、またたく間に呉三桂を配下にしてしまう。
  3. 女ひとりのために国を夷狄に売り渡したってんで、歴史上の人物としては実に評判が悪い。
    • ただし、国内の争いのために異民族を引き入れるというのは中国史ではよくある話で、呉三桂が特別性悪の売国奴だったわけではない。その異民族に早々と主導権を奪われてしまった点が愚かだっただけ。
    • また、女のためだけだったかどうかも微妙。そのほうが面白いから定説化してしまっただけのような気がする。
  4. 清の天下になってから、藩王として待遇される。
    • かなりの厚遇だと思うのだが、しばらくして不満を覚えて叛乱を起こし、結局斬られる。
      • 自分が天下を盗るつもりだったのかもしれない。
      • 清の朝廷にはめられて、叛乱に追い込まれただけとも考えられる。

僧格林沁

  1. 清末頃の蒙古騎兵を率いていた将軍。モンゴル族。
    • 軍閥もうかつに清朝に文句を言えないぐらいの最強部隊だったらしい。
  2. そのせいか、清朝の宮廷にはウケがよく、最終的には、親王にまで昇進。
  3. 最期は、酔っ払って出撃して馬から落ちて部隊が壊滅したからだとかなんとか。