もし毛利氏が防府に城を築けていたら
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- 毛利輝元は関ヶ原の戦い後、領地を周防・長門の二国に減らされました。その時輝元は、城を建設する候補地として萩・防府・山口の三つを挙げましたが、家康は、防衛上の問題から山陰の萩に建設するように命じました。もし防府に城を建設することを家康が許可していたら?
- 萩は田舎になっていた。
- 松下村塾は無かった。
- よって倒幕は薩摩中心、長州はあまり活躍できなった。
- でも四国諸藩との関係は強化されたかも。
- 毛利家が改易になっていた場合、新しい国主と旧毛利家家臣との、間の対立が倒幕の原点になったかもしれない。
- 難癖を付けられて、江戸時代初期には毛利家は改易となった。
- それにキレて毛利家は倒幕の為挙兵するが、負け滅亡していた。
- その為、松平氏か誰かが後に入っていた。
- 岩国の吉川氏が再び内通し正式な大名に取り立てられる、かもしれない。毛利本家とは独立を画策するほど対立した時期もあったし。
- 山口ではなく、防府が「西の京都」と呼ばれていた。
- 山口が「西の京」と呼ばれていたのは室町時代からだぞ。
- 「西の奈良」とは呼ばれているらしい。
- 長州藩ではなく防州藩と呼ばれていた。
- 毛利家は満足したために幕末に倒幕に燃えることはなかった。
- 毛利家が満足しても下級藩士は満足しない。
- こうなっていた。
- このため第二次大戦中の空襲で跡形もなく破壊されていた。
- しかし戦後再建された。
- このため第二次大戦中の空襲で跡形もなく破壊されていた。
- 伊藤博文は一生農民で終わっていた。