もし毛利氏が防府に城を築けていたら

2021年11月11日 (木) 09:10時点におけるりんご3号 (トーク | 投稿記録)による版 (リンク修正)
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  • 毛利輝元は関ヶ原の戦い後、領地を周防・長門の二国に減らされました。その時輝元は、城を建設する候補地として防府山口の三つを挙げましたが、家康は、防衛上の問題から山陰の萩に建設するように命じました。もし防府に城を建設することを家康が許可していたら?
  1. 萩は田舎になっていた。
    • 松下村塾は無かった。
    • よって倒幕は薩摩中心、長州はあまり活躍できなった。
      • でも四国諸藩との関係は強化されたかも。
    • 毛利家が改易になっていた場合、新しい国主と旧毛利家家臣との、間の対立が倒幕の原点になったかもしれない。
  2. 難癖を付けられて、江戸時代初期には毛利家は改易となった。
    • それにキレて毛利家は倒幕の為挙兵するが、負け滅亡していた。
    • その為、松平氏か誰かが後に入っていた。
    • 岩国の吉川氏が再び内通し正式な大名に取り立てられる、かもしれない。毛利本家とは独立を画策するほど対立した時期もあったし。
  3. 山口ではなく、防府が「西の京都」と呼ばれていた。
    • 山口が「西の京」と呼ばれていたのは室町時代からだぞ。
    • 「西の奈良」とは呼ばれているらしい。
  4. 長州藩ではなく防州藩と呼ばれていた。
  5. 毛利家は満足したために幕末に倒幕に燃えることはなかった。
    • 毛利家が満足しても下級藩士は満足しない。
  6. こうなっていた。
    • このため第二次大戦中の空襲で跡形もなく破壊されていた。
      • しかし戦後再建された。
  7. 伊藤博文は一生農民で終わっていた。