ざんねんな歴史上の人物事典/東洋

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中国[編集 | ソースを編集]

秦以前[編集 | ソースを編集]

斉の桓公
  1. 春秋五覇に数えられる一人。
  2. 宰相に管仲がいた時代は、善政を敷いて斉の国力増強に努めるが、覇者になってから段々と横暴になっていく。
    • 管仲が亡くなってからは、佞臣の易牙や豎刁らを登用し、国政が乱れてしまう。
    • 管仲が亡くなる間際に「易牙、豎刁とも国を乱す元になるから採用してはダメだ」と釘を刺されている。
  3. 桓公が亡くなると、後継者争いで内乱が勃発。その間、桓公の亡骸はずっと廟に放置されたままになっていたという。
    • 内乱の結果、太子がようやく即位して、桓公の埋葬をしようとしたときには、部屋の外までウジが湧いていたという。
夫差
  1. 臥薪嘗胆の「臥薪」のほう。越との戦いに敗れその傷がもとで亡くなった父親のあとを継いで呉の王となり、薪の上で寝起きすることでその痛みを原動力として越への復仇を誓った。
  2. そして先代が重用した参謀の伍子胥とともに越を打ち破り勾践(臥薪嘗胆の「嘗胆」のほう)を追い詰める。降伏してきた勾践を伍子胥は処刑するよう言うも宰相の伯ヒ(喜へんに否)は許してやるべきと言い、夫差は伯ヒを信用して勾践を許した。
    • なお、伯ヒは越から賄賂を受け取っており、いわば夫差は越の策略に乗ってしまい、「試合に勝って勝負に負けた」状態になった。
  3. その後調子に乗った夫差は覇者になるべく黄河流域に進出を始める。一方伍子胥は越がいずれ復讐に来ると考え備えるべきと提言。これで完全に夫差と伍子胥は仲たがいの状態になり、伯ヒの讒言(もちろんこれも越の策略)を信じた夫差は伍子胥に自害するよう剣を送る。
    • 伍子胥は死ぬ直前「夫差の棺桶を作れるように自分の墓の上に梓の木を植えよ。自分の目玉を城門の上に置いておけ、越が呉を滅ぼすさまを見るために」と言い残した。
  4. 邪魔者がいなくなったことで夫差は自分が覇者であるとアピールすべく斉に侵攻をするもその隙にじーっと国力を貯めていた越によって呉が攻撃されてしまう。
    • そんなのがバレたら覇権を握れないと思った夫差は戒口令を出すもすでにその話は流出してしまい結果侵攻は失敗してしまう。
  5. 何とか呉に戻り越と対峙するも勢いを増した越を止めることはできずついに首都が陥落。夫差も追い詰められ、ついに降伏の使者を送る。
    • 命は助けてもらえることになったが甬東(今の舟山諸島)への島流しを言い渡される。完全に再起が出来なくなると悟った夫差は「もう年老いて勾践に仕えることはできない」と伝え、「伍子胥に合わせる顔がない。」と言い残し顔に布をかぶせて自害した。
  6. 夫差の遺体は勾践により丁重に厚葬された。一方工作に協力してくれた伯ヒは「こいつのせいで呉は滅んだ」ということで処刑された。利用価値が無くなったから処断されたも同然であった。
趙括
  1. 戦国の七雄の一つ、趙の将軍で名将趙奢の息子。秦の大将軍白起と長平の戦いで敗れて、趙兵40万人の生き埋め事件の発端となった人物。
    • 兵法書を読み漁り、名将で兵法の大家としても知られる父趙奢と、兵法に付いて議論をして論破する事もあった。
      • 現代風に述べると、口だけは達者な単なる兵法厨だったのかもしれない。
        • 「紙上に兵を談ず」という故事成語は彼が元とされている。
  2. 名将の息子で兵法にも精通しているからということで、趙王から廉頗の代わりに総大将に抜擢されるが、藺相如と実の母親に止められる。
    • 実の母親からも「止めてくれ」と嘆願されるのだから、よっぽど才覚に乏しかったのかもしれない。
      • 母親の嘆願で「仮に失敗しても一族に罪が及ばないように」という願いが叶ったおかげもあり、一応、趙奢の子孫として後漢の馬援や、三国志に登場する馬騰、馬超が残っているので断絶の危機は回避したようである。
    • 実はそれこそが従軍していた秦の宰相范雎の計略であった。秦軍は廉頗の籠城により2年近く足止めされており疲労と士気の低下に悩まされていた。
      • そこで「秦軍は老人の廉頗よりも、兵法の名家たる趙括が指揮を執ることを恐れている」という流言を広めさせることで趙国内にもそれが伝わり、ついには趙王の耳にも入ることに。
        • 元々兵数で圧倒しながら積極策を取らずに籠城していた廉頗に不満だった趙王はまんまと策に乗ってしまい上述の猛反対を押し切って廉頗を外して趙括を総大将にしてしまった。
荊軻
  1. 秦の始皇帝の暗殺を企てた刺客第一号。
    • 始皇帝(当時は秦王政)に怨みを持つ燕の太子丹に請われて、秦王政の暗殺を請け負うことになった。
  2. お供として付いてきた秦舞陽が、秦王政を目前にして日和らなければ暗殺が成功していたかもしれなかった。ざんねん。
趙高
  1. 中国三大悪宦官と呼ばれてしまっている。
    • 基本的に始皇帝がやらかした悪行と言われることにはだいたいコイツの入れ知恵が入っている。
      • よく李斯も一緒になってやったなどと非難されるが、その李斯にしたって面倒になって趙高の部下が殺してしまったのが原因で秦が滅びたようなもんである。
  2. 「阿呆」と「馬鹿」の語源である(この人がそうだと言いたいわけではない)。
  3. 李斯処刑後は自ら丞相となりやりたい放題。
    • 秦の名将章邯が反乱軍に苦戦してるのにも関わらず救援を送るどころか敗戦の罪をかぶせ罰しようとしたためそれを知った章邯は20万の軍と一緒に項羽軍に投降。
    • 二代皇帝胡亥に一切の情報を入れず、遊び漬けにする。しかし秦の危機を知られたことで自分が罰せられる前に乗り込んで胡亥を死においやった。
  4. その後、人望の良い子嬰を秦王に祭り上げ、ひそかに劉邦に内通しようとするも相手にされず、ついには病気と偽った子嬰により屋敷に呼ばれ、子嬰とその部下によって殺害。
    • その死体は恨み心頭の部下たちによって切り刻まれ、趙高の一族もまとめて処刑された。秦国全体の士気はこの一件で大いに盛り上がった。
      • しかし時すでに遅し。関中まで迫った劉邦軍を追い返す力はもうなく、子嬰は降伏。秦は滅びたのであった。
嫪毐
  1. 秦の偽宦官
  2. チ〇コの大きさだけで身を立てて、チ〇コの大きさだけで権勢を得て、チ〇コの大きさ以外取り柄が無いのに無謀にも乱を引き起こし、チ〇コの大きさがゆえに身を滅ぼした。
    • 似たような人物で、ロシアのラスプーチンや、日本の弓削道鏡がいる。
    • 現在で例えるなら、大企業のお飾り女社長に見初められた歌舞伎町のホストがナンバー1になった挙句、実力を勘違いし女社長に泣きついて自分の会社を立ち上げたはいいが、経営能力があるわけでもなく借金を重ねて高転びしたようなものである。
  3. 秦王政の母親である趙太后と醜聞関係にあった、宰相呂不韋の身代わりとして秦の後宮入りを果たす。
    • 宦官という触れ込みで後宮入りを果たすが、宦官になるための去勢手術を行ったら元も子も無いので、手術したとでっち上げる。
    • 趙太后を満足させて寵愛を得た結果、長信侯に封じられ、呂不韋に次ぐ秦国ナンバー2の地位と権力を得る。
  4. 去勢手術を受けてない偽宦官なのに後宮入りして、挙句の果てに趙太后との間に二人の子供ができてしまったことが政にバレてしまい、誅される前にイチかバチかの破れかぶれで反乱を起こす。
    • 嫪毐側の動きは事前に政に察知され、あっさりと嫪毐の乱は平定される。
  5. 政に捕らえられて、最終的には車裂きの刑に処され、趙太后と嫪毐の間にできた二人の子供(男児)も処刑される。
    • 趙太后は王の実母という事で一応処刑されなかったものの幽閉となり、連座で呂不韋は丞相職を罷免された。
  6. なお、横山光輝の「史記」では宴会の席で一発芸として己の大きなイチモツを軸にして車輪を回転させるという一発芸をやったという内容が描かれてある。世が世ならきっと地下芸人として活路を見出していたのかもしれない。
扶蘇、蒙恬
  1. 趙高と李斯による始皇帝の遺言改ざん事件の被害者
  2. 万里の長城や始皇帝陵、大規模宮殿の造成など民草をこき使う始皇帝に対して、嫡男の扶蘇は少しは圧政を抑えては?と提言するが、始皇帝の勘気に触れて、国境で万里の長城建設をしながら守備に当たっている蒙恬の元に左遷させられる。
  3. しばらくして、行幸中に始皇帝が亡くなり、「扶蘇が後を継ぐこと」と書かれた遺言書を、趙高によって「(知恵も力もカリスマ性もない)末子の胡亥に後を譲る」と内容を改ざんされてしまう。
    • それに加え、趙高は始皇帝の命と称して「反逆の疑いがあるので扶蘇と蒙恬は自決するように」と真逆の命令書を送り付けてしまう。
    • せめて、始皇帝に真意を確かめてから自決するなりすればよかったものの、扶蘇は父の命に背くのは不孝であると言って、偽の命令書を真に受けて自決してしまう。
    • 流石に怪しいと思った蒙恬も結局は捕縛されて、弟の蒙毅と一緒に処刑されてしまう。
  4. 物事をちゃんと確認して対応していれば、国境警備の30万の軍勢を指揮していたのだから逆に趙高と李斯を排除できたかもしれないのに、せっかちな判断で自決してしまった扶蘇と、それをちゃんと引き止めなかった蒙恬は、その後の胡亥の治世を考えると残念な判断だったとしか言えない。

前漢~後漢[編集 | ソースを編集]

項羽(項籍)
  1. 劉邦とともに秦国滅亡後の覇権争いを演じた西楚の覇王。身長190センチの大男であり武勇に優れた武将であった。
    • 巨大な鼎をいとも簡単に持ち上げたとも言われ、たぶん中国史上最強の武将。
  2. 少年時代、文字を習うも全く覚えられず、剣を習うも全然上達しなかった。その際「文字は自分の名前さえ書ければいいし、剣なんて一人を相手にするのはつまらないから、多数を相手にするものを学びたい」と言った。
    • そこで兵法を教えてもらい、兵法の概略を学んだ。しかし概略を学んだらそれ以上は学ばなかった。すなわち基礎だけしか学んでいなかったということになる。
      • とはいえ武力一辺倒のおバカというわけではなく教養があり、礼儀正しく、正義感の強い人物であった。
  3. 秦との戦いではその圧倒的な武力で勝ちを重ねていったが・・・。
    • 立ちはだかる相手はキルゼムオールとばかりに敵兵どころか城の住民まとめて殺しまくった結果敵兵の抵抗を受けてしまい侵攻速度が低下。ついには劉邦に関中を先に取られてしまう。
      • 激怒した項羽は劉邦を難癖つけて殺そうとするも彼の伯父項伯の尽力も相まって和睦することに。
  4. 関中に入った項羽はすでに降伏していた子嬰を処刑。咸陽に溜めてあった財宝を全部持っていき城を焼いた。その後彭城を都とし、自らを覇王と名乗った。
    • 劉邦に関しては都から離れた僻地に留め置いておく名目で巴・蜀・漢中を与え漢王とした。なお、左遷という言葉はこれが語源とされている。
  5. その後各所から反乱されてしまい、その都度項羽がそれを征伐することに。当然のごとくキルゼムオール前提なので激しく抵抗されることに。
    • その間に劉邦が韓信というブレーンを味方につけ漢中から侵攻。一度は退けるも、項羽に不満を持つ武将を味方につけた劉邦の勢いを止めることはできなかった。
      • さらに自身も有能な部下や参謀がいたのにも関わらずそれを満足に扱えないどころか冷遇した結果尽く離れていってしまった。
  6. 最後は垓下の戦いで敗北。僅かの手勢になりながらも抵抗するも力尽き、自害した。
    • その状況に追い詰められながらも彼は「我が負けたのは弱いからではない、天が我を滅ぼすから負けた」という負け惜しみを残した。あくまで自分は運命に負けたという見苦しい言い分であった。
韓信
  1. 劉邦のもとで大将軍として勤め、楚との戦いで勝利を重ねる。劉邦が項羽に勝利し前漢を鼎立できたのは彼の軍略のお陰といっても過言ではない。
  2. ・・・が若いころは碌に職に就かず品行も悪く、金も無いので他人の家に上がっては居候し遊侠暮らしという超がつくほどのパラサイト人間だった。
    • ついには居候先からも追い出され老婆に食事を恵んでもらう有様。韓信は「必ずお礼はする」と言うも老婆からは「あんたがあまりにも可哀想だからしただけ。お礼なんて望んでいない」と言われる始末。
  3. また、町で若者に「立派な剣を抱えてるくせに使おうとしない臆病者め、その剣で俺を刺してみろ。できないなら俺の股下をくぐれ」と挑発され、素直に股をくぐった。
    • 「恥は一時、志は一生。ここで殺しても何の得にもならない」と本人は考えていたが、当然周囲からは臆病者のレッテルを貼られたのは言うまでもない。
  4. その後項梁(項羽の叔父)・項羽のもとに仕えるも警備兵としての役しか与えられず、進言をするも聞き入れてもらえなかった。
    • その後劉邦のもとに仕えるも当初は兵站の担当係という役だったため、劉邦のもとを去ろうとするも彼の底知れぬ才能を察知していた蕭何により引き留められ、劉邦へ推薦された。
      • 上述のエピソードも相まって最初は懐疑的だった劉邦だが韓信の策を聞くことでようやく彼の才能を知り彼に大将軍の座を与えた。
  5. 関中奪還後は楚に従う諸侯を降していったが、韓信が遠征中に項羽の軍に劉邦の居城が襲われ、命からがら脱出。韓信が野営していた修武(今の河南省)へ身を寄せた。
    • その頃韓信はのんびりと幕舎で寝ていたがいきなり現れた劉邦に仰天。生死をかけた逃走していた劉邦はだらけ切った韓信に激怒したのは言うまでもない。
  6. どうにか将軍の座ははく奪されずに済みその後は項羽に従う斉国を制圧。その後斉の王として認められた。
    • その時点で漢・楚と並ぶ大国となり項羽は韓信を懐柔せんとするも断られ、また、第三勢力として独立すべきだと説客のカイ通から勧められ、韓信は思い悩むも拒否する。
      • カイ通は彼の才能があれば天下を統一できるだろうと見越していた。同時に劉邦が天下を統一すればいずれその身は危うくなるということも。
  7. その後劉邦は垓下の戦いで項羽を降し、項羽は自害。紀元前202年に前漢を鼎立し、韓信は斉から自分の故郷である楚に移った。
    • しかしその真意は斉より城の少ない楚に移すことで兵力を削ること、近隣に同じく楚との戦いで功績をあげた将軍である彭越・英布を置くことで互いを牽制させることであり、韓信は策中にはまってしまった。
    • なおその際に上述の「飯を恵んでくれた老婆」にたくさんの金を、「股をくぐらせた若者」に役職を与えたが、居候していた家の主人は最後まで世話をせず追い出したことからわずかな金のみ与えた。
  8. しかし楚の武将をかくまった罪を問われ、さらに嫉妬した者の讒言で謀反の疑いを問われてしまう。この時は降格のみで済んだが・・・。
    • その後劉邦の部下の反乱を契機として首都を制圧する一計を立てるも、部下にそのたくらみは知られてしまい計画は頓挫。
      • 韓信は病気と偽って自宅に引きこもっていたが、蕭何の「かけられた疑いを晴らすには参内すべきだ」との誘いに乗ってしまい捕らえられてしまう。皮肉にも彼を推挙した蕭何によって引導が渡される形になってしまった。
        • その際「カイ通の勧め(=第三勢力として独立すべき)に従っておくべきだった」と言い残し、処刑された。
劉邦
  1. 前漢を鼎立した人物であり、上記の韓信をはじめとして数多くの人材をうまく使って項羽を撃破し、統一王朝の高祖となった人。
  2. しかし彼の生まれは一般庶民であり、家族の名前すら正式な名前が残っていない。
  3. また、劉邦が生まれる少し前、劉邦の父が劉邦の母の上に竜が乗っているという内容の夢を見た後に劉邦が生まれたと言われている。
    • これだけ見れば吉兆っぽいイメージになるが・・・見方を変えてみると劉邦の母親が不倫して生まれた子が劉邦なのではないかとも考えられる。
  4. 中年期まではろくに勉学も仕事もせず遊侠の徒として酒色にふけた生活をしていた。
    • いちおう官職にもついていたがろくに仕事もしなかった。でも人望だけはあったので失敗しても擁護してもらえた。ついでに嫁さん(呂雉)も娶った。
      • その後秦に対抗するときも多くの仲間が協力してくれたため県令になった。
    • 本人は無学だが酈食其や張良といった有能な参謀の助言をしっかり聞き入れたことで戦いを有利に進めることができた。
  5. いったんは項羽によって巴蜀の地に追いやられるも韓信を大将として進撃。関中の地を奪うことに成功する。
    • そして項羽に不満を持つ諸侯と同盟軍を結成。56万の大軍で項羽の本拠地である彭城を攻め、項羽が反乱鎮圧で出ており留守だったのも手伝い一度は占領する。
      • しかしそれで浮かれあがって宴会三昧。当然兵たちもやりたい放題した結果56万の大軍は完全に油断しきってしまう。ちなみに当時韓信は不在だった。
  6. そして本拠地を取られ怒り心頭の項羽の軍勢(3万)によって完膚なきまでに大敗を喫す。10万人以上が戦死し、死体で黄河がせき止められたと史記には書かれていた・・・。
    • 劉邦は命からがら脱出するも父親と呂雉が項羽に捕らえられてしまう。また、逃走時にも逃げ切りたいがために自分の子供を何度も捨て、そのたびに部下が拾ってきた。
  7. その後も身代わり作戦でどうにか項羽の包囲網から脱出するなど、韓信の戦略に頼れない状況では項羽に勝つことはできなかった。
    • だがそれでも項羽に最終的に勝利できたのは韓信・張良をはじめとした有能な配下をちゃんと使うことができたことが大きい。
      • まぁ最も一番の功績があった韓信、項羽軍の補給路をたびたび遮断し兵を弱体化させた彭越といった貢献度の高い将軍を粛清していったが・・・。
  8. 北方民族を討伐した際見事に敵の策に嵌り危うく死にかけた。また、反乱を討伐した際も敵に矢を撃たれ、その傷がもとで病気になってしまう。
    • 後事を呂雉に託し没するも、その後呂雉とその一族に政権を握られてしまった。そしてやりすぎたために呂雉の死後クーデターが勃発し呂氏の一族は全員処刑された。
  9. 今もなお演劇の題材になるほど鮮烈な生き様だった項羽と比べ、劉邦の評価は優秀な部下のおかげで天下統一できたのに用済みになったらその部下を粛清した人である。
    • もちろん彼を主役にした演劇などあるわけがない。

後漢末~三国[編集 | ソースを編集]

皇甫嵩、朱儁
  1. 「三国志演義」の脚色で割りを喰った、後漢末期の名将。
  2. 正史では黄巾賊討伐で陣頭指揮を執り、実際に活躍したのが皇甫嵩・朱儁・盧植の三将軍であった。
    • この時点では曹操・劉備は皇甫嵩の元で、孫堅は朱儁の元で一武将をしていたに過ぎなかった。
    • 演義では三国時代の主人公である曹操・劉備・孫堅を引き立てるために、皇甫嵩・朱儁にはいかにも都育ちの貴族的で無能な将軍の役となり、盧植は更迭されて都に送還される羽目となった。
呂布
  1. 「三国志最強の武将」と言われれば間違いなく真っ先に思い浮かぶのは彼であろう。三国志どころか中国最強と言っても過言ではない。
    • 最も「三国志演義」での脚色っぷりでだいぶ補正が掛かってるけど・・・。
  2. しかし彼の人生は常に裏切りの人生だった。それが唯一にして最大のざんねんなところである。
  3. 元々は武芸の腕前を買われ丁原の部下として活躍していたが、当時洛陽の覇権を得るために暗躍していた董卓に誘われ、丁原を殺害。その後董卓の部下として重用される。
    • 好き勝手やっていた董卓は防衛のため呂布を傍に置いた。そして董卓を討伐するために集まった反乱軍相手に無双した・・・のは三国志演技での話。
      • 実際は孫堅との戦いで敗戦したのではと言われている。
  4. その後洛陽から長安へ拠点を移すも、ささいな事で董卓の怒りを買ってしまったことで王允の董卓暗殺の計画に乗ってしまい、董卓を暗殺することに成功する。
    • また、董卓の侍女に手を出したことがばれるのを恐れて暗殺計画に乗った史書では書かれている。
      • 三国志演義ではその話が脚色され、王允の娘の貂蝉と恋仲になり邪魔だった董卓の暗殺に手を貸したとなっている。
  5. 董卓を殺すことに成功はしたが董卓の元部下との戦いに敗れ結局覇権をとることはできず流浪の身となり、やがて陳留太守の張バクの元に身を寄せる。
    • そこで曹操が支配していた濮陽を襲撃し城を奪うことに成功。また反撃してきた曹操軍を返り討ちにするなどその武力をいかんなく発揮した。
      • しかし大飢饉によって兵糧が不足してしまい結局曹操を取り逃がしてしまう。
  6. その後1年以上にわたる戦いを繰り広げるも曹操軍に敗れてしまいまたも流浪の身に。身を寄せたのは当時劉備が支配していた徐州である。
    • 呂布を劉備を弟と呼び親しんだが、一貫性のない言動の呂布に劉備は不審を抱いていた。
      • その後劉備が袁術との戦いに出るとその隙を突いて徐州を奪い取ってしまった。不安が的中したようなものである。
  7. その後曹操に攻め込まれる。しばらくは持ちこたえていたが、一部の部下が曹操側に寝返るなどで次第に追い詰められていく。
    • 苛立ちから大量の酒を飲み部下に当たる行為をするなどアルハラ的な行動が原因で恨みを買われ酔って寝ていたところを捕らえられてしまう。
  8. 曹操の前に引っ立てられるも「自分を部下にし騎兵の指揮を取らせれば天下は容易に平定できる」と助命を申し出るも、劉備が「過去に丁原を裏切り董卓を裏切った人が信用できるか」と言われてしまう。
    • 呂布は「お前のような奴が一番信頼できない」と劉備を罵るも結局彼は助命されることもなく処刑されその生涯を閉じた。
  9. 陳寿からは「虎の強さを持ちながら英略を持たず、軽はずみで狡猾で、裏切りを繰り返し、利益だけが眼中に有った。彼の如き人物が歴史上破滅しなかった例はない」と評された。
袁紹
  1. 名門生まれの実力者であり、董卓討伐のリーダーとして指揮を取った。討伐軍の解散後も河北地方の有力者として四つの州を支配するまで権勢を広げた。
    • また、仁政を行っており死去後は住民が嘆き悲しんだことは敵対していた曹操軍の参謀も把握するほどだった。
  2. そんな彼のざんねんな所、それは決断力に欠け、優柔不断だったということである。
    • 董卓討伐軍を結成していたとき、決戦すべきと主張する曹操の意見を聞くことなかった。そのせいで董卓に長安へ逃げられてしまい洛陽は焦土と化した。
    • 曹操が劉備の拠点を攻撃するため侵略、劉備が救援を求めてきた、この隙に曹操の本拠地を攻めるべきと部下に主張されるも「息子の病が気がかり」という理由で全て断ってしまう。
  3. そして最大のターニングポイントとなった官途の戦い。ここでもざんねんな所を発揮してしまい結果的に大敗を喫してしまう。
    • 部下の間で短期決戦か持久戦かで意見が分かれたが、兵力に優れるなら短期決戦にすべきという意見を取る。そしてその際に反論した部下を投獄してしまう。
    • その後戦線が膠着状態になり曹操軍は食糧不足に、曹操は撤退を考えていたが荀彧の「内情を見るとそのうち袁紹軍に変事が生じるのでその隙を逃さず奇策を使えば勝てる」という激励を受けた。
      • そして予想通り度々献策を提示するも袁紹に聞き入れられずに嫌気がさした参謀の許攸が投降。彼の策により曹操軍に袁紹軍の食糧貯蔵地が襲撃されてしまう。
        • 袁紹は部下から「今のうちに本陣を攻めれば必ず曹操の本隊は戻ってくるから救援する必要もなくなる」という意見と「本陣は堅く守られてるから簡単には攻め落とせない。まずは救援が第一」という二つの意見を受ける。
          • 袁紹は双方の意見を採用するという優柔不断振りを発揮。兵力を半分ずつ派遣した結果貯蔵地は攻め落とされ、本陣攻撃も失敗。それどころか攻撃を担当した張コウ(合+おおざと)にも投降されてしまう。
  4. これが切っ掛けとなり圧倒的な兵力と武将と物資を持っていたにも関わらず袁紹は敗北。撤退を余儀なくされた。
  5. さらにざんねんだったのは後継者を決めていなかったこと。その結果袁紹の死後後継者争いが勃発。兄弟同士でやりあった結果まとめて曹操に攻め滅ぼされた。
袁術
  1. 名門袁氏の一族で、袁紹の従兄弟(弟とも)
    • 一説には、続柄的に袁紹よりも袁家の主流筋に近い立場なのだが、人品骨柄で袁紹の方が上とみられてしまい、当主の座を奪われたともある。
  2. 何をとち狂ったのか、自ら皇帝を名乗り「仲」の国を建国。僅か2年で劉備に滅ぼされる。
    • 三国志演義だと、孫策に兵3千貸す代わりの担保で受け取った、玉璽を使って皇帝を自称するのだが、あくまでも創作である。
魏延
  1. 諸葛亮びいきによるあおりを真っ向から受けてしまった蜀の将軍。
    • 三国志演義だと劉備傘下に入る際、まだ何もしていないのに「反骨の相がある」と諸葛亮に言われて処刑されそうになる。
  2. 劉備の蜀攻略戦で戦果を挙げ、曹操との漢中攻略戦に勝利した後、漢中太守に大抜擢される。
    • 重要拠点なので、本来だったら張飛が選ばれるであろうと皆が思っていた中での抜擢である。
    • この時点で、日本中のみんな大好き趙雲より階級が上になる。ここまでが彼の出世のピークだった。
  3. 諸葛亮の腹心の楊儀とは非常に仲が悪かった。
    • 軍議の場にて、楊儀と口論になった結果泣かしてしまい、いじめっ子のような立場になってしまう。
  4. 軍事責任者として子午谷道から長安を攻めるルートを提案するが、諸葛亮に一蹴される。
  5. 五丈原の戦いの最中、諸葛亮が陣中で没して陣を引き上げる際に、敵陣の真っただ中で置いてけぼりをくらう。
    • この時点で、魏に投降していればそれなりの地位を保てたと思うのだが、なんやかんやで釈明のために成都へ向かうあたりは、劉備や蜀に対する忠誠心があったと思われる。
  6. 結果的には、諸葛亮の遺言に基づき馬岱の手によって処刑されることになる。
    • 処刑後、魏延の首は政敵の楊儀に「ザマぁみろ!」と踏みにじられる。
      • 楊儀も、諸葛亮の後継者として丞相の地位につけると信じて疑わなかったのだが、これら魏延とのやり取りから人格が疑われて、自分より格下と思っていた蒋琬や費禕に抜かされてしまう。
      • その後、誹謗中傷を繰り返していた楊儀は、庶民に降格させられ、僻地送りとなる。
  7. 三国志巻40 蜀書『劉彭廖李劉魏楊伝』にて魏延の他、楊儀や李厳などが扱われる巻があるが、ここでは、何らかしらの不遜な言動を大っぴらに行った結果、更迭ないし処罰をされた人物が集約されている。
    • 蜀書における「ざんねんな人物事典」である。
馬謖
  1. 諸葛亮の愛弟子で「泣いて馬謖を斬る」の故事の由来の人。
    • 荊州において才能豊かな兄弟(馬氏の五常)の5番目(5男)と知られており、その中でも「白眉良し」の馬良の弟。
  2. 諸葛亮から、天水方面を奪回すべく進軍してきた魏の張郃を押さえる役目を任されるが、街亭で魏軍に破れ、死罪となる。
    • 本来だったら魏の侵攻を押さえるべく、主要街道を押さえておくだけで良かったのだが、あわよくば張郃を返り討ちにしてやろうと欲を出し、副将の王平の進言も聞かずに水の確保が難しい山頂に陣を貼る。
      • 兵法に通じる自分と比べ、王平が文字を読めないことから立場を低く見ていて、進言をまともに聞こうとしなかった。
    • 結果、山頂に陣取った蜀軍は、街道に陣取る王平が率いる兵を除き水不足で士気が一気に衰え、張郃に返り討ちにされる。
      • 張郃に敗れて壊滅状態となった蜀軍を見捨て、馬謖は家臣を連れて一足先に遁走。その後始末を王平が行う羽目になった。
  3. 戦って敗れたという事であればまだしも、一軍の総大将が軍を見捨てて逃げかえり壊滅を招いたということで、諸葛亮の怒りを買い家臣共々処刑されてしまう。
    • 諸葛亮も、自分の愛弟子がまさか敵前逃亡するとは思っておらず、相当ショックだった模様。
      • 政治的手腕や軍事的才能で今日知られる諸葛亮も「(劉備と違って)人を見る目が無い」と言われる要素の一つが、この馬謖の抜擢だと言われている。
    • 馬謖の処刑後、街亭の戦いに関わったものは諸葛亮はじめ、降格処分等の何らかの罰を受けており、敗戦の後始末をした王平だけが昇格をしている。
      • 馬謖と親しかった向朗は、街亭で逃げ帰ってきた馬謖をかくまったという事で、罷免させられている。
  4. 街亭の戦い後も5次まで続く諸葛亮の北伐だが、これ以降、魏も警戒して中々侵攻できず、唯一の勝機が街亭の敗北でなくなってしまった。
夏侯楙
  1. 魏の功臣夏侯惇の息子だが、父親と異なり、典型的なボンボンでポンコツ。
    • 司馬懿が夏侯覇以下、夏侯四兄弟を使いたいと曹叡に願い出た際、曹叡から「その兄弟は夏侯楙と違ってちゃんと役に立つのか?」と引き合いに出される。
  2. 曹操の娘(清河長公主)を妻に迎えた為、魏の皇族として扱われる。
    • 清河長公主は元々丁儀の元に嫁がせるか否かのところだったが、曹丕よって反故にされ、結果、血筋を理由に夏侯楙の元に嫁ぐことになった。
      • 後日、丁儀が非常に聡明だったということが判明し、曹操と公主は大変残念がることになった。
      • この一件で丁儀は曹丕の事を恨むようになり、跡目争いでは曹植派に付くことになる。
  3. 魏の貴族で金持ちなのにドケチと好色で有名。
    • 結婚に至った経緯と、このことから清河長公主とは夫婦仲が大変悪かった。
  4. 蜀から諸葛亮が北伐と称して攻めてくるも、長安にいて何の対応をせずにいて、西の天水地域を失陥させる。
    • 「天水が落ちたら次は長安だ」と思った、皇帝に即位したばかり二十歳そこそこの曹叡が、司馬懿や張郃などを引き連れて自ら長安まで出張ってくる羽目になった。
劉禅
  1. ざんねんを通り越しているような気もする人。
  2. 蜀を潰した…というのが一番ざんねんだが、その後の行動が色々アレで「助けようの無い阿斗(幼名)=どうしようもない人」という慣用句になってしまったほど。
    • 一応後世の創作では拡大解釈して「既に戦況が宜しくないので、あえてヘイトを稼いで他の人に矛先が向けられないようにした」や「能ある鷹なので爪を隠し続けていて周りが理解してくれない」などのフォローをするものも。
      • ほかにも敢えて蜀より魏がいいととぼけることで謀反の意なぞないアピールをしたというのもある。この辺り劉備の世渡り能力を受け継いだのかもしれない。
    • 三国志を著した陳寿からは「白い糸」に例えられた。すなわちどんな色にも染められるということであり、優れた部下がいれば名君に、駄目な部下がいれば暗君になるということ。
  3. 光栄の三国志でもその能力は低く、ネタプレイの題材になるほどである。
  4. なお、創作のなかの一つ「反三国志」では彼は暗殺されてしまった。蜀贔屓の作品なのにこの扱いである。
孫晧
  1. 呉の国の四代目皇帝。264年9月に即位し、即位当初は倉庫を開放して民衆を助けたり、解放した官女を独身者に娶らせるなど有能な皇帝だった。
    • やがて粗暴な驕慢な人格になっていった。特に臣下に酒を強要し酔わせた状態で少しでも問題のある言動が見つかれば処断するという今でいうパワハラ&アルハラ行為を平然と行った。
      • 他にも多くの女性を官女としていたが気に入らなければすぐに殺害し川に遺棄していた。
        • たびたび土木工事を行い民衆をも苦しめるなど、後世の評価は「暴君」であった。
  2. しかし晋によって呉が滅ぼされる際は「呉が滅びたのは私の不徳の為でお前達の責任ではない。今後は晋でその力を役立ててくれ」という旨の書簡を臣下に送るなど反省の色はあったようだ。
  3. 劉禅同様ざんねんを通り越しているような気がしないでもない。何だかんだ今もネタにされる劉禅と違いこっちはやらかしの度合いがきつすぎる。

西晋~唐[編集 | ソースを編集]

司馬衷
  1. 晋(西晋)の2代皇帝で、司馬炎の子、司馬懿のひ孫。
    • 曾祖父、祖父(司馬師)、後年を除いてはまともだった父、司馬炎という頭の回転が良い血統からは考えられないほど、頭の出来が良くなかったらしい。
      • 祖父は司馬師でなくて司馬昭。
  2. ボンクラな皇帝という周囲の評価よろしく政治に全くの無関心で、中国史上類を見ない皇帝の身内争い「八王の乱」の引き起こした張本人。
    • 政治に関わるのが嫌いで周りの臣下の言うがままに流され続けた結果、親族の諸王同士が抗争をはじめ国内はグダグダな状態になる。
    • 魏呉蜀三国を統一してからわずか数十年でまた乱世に逆戻りとなる。
  3. 嫁は権謀術策大好きな賈南風。
    • 余りにも嫁が強欲で嫉妬深いので恐れおののいた。
  4. 学問が全くダメだったので、父親の司馬炎から出された政務に関するテストに全く答えられず、嫁が用意したカンペを使って解答した。
    • 余りに解答の出来が良すぎると代筆が疑われるので、司馬衷の知力に合わせて赤点ギリギリになるようにと周到に作られたカンペだったとのこと。
    • ここで舅(司馬炎)からダメ息子認定されて後継者から外されてしまうと、「皇后になって権力を握るためにわざわざダメ人間と結婚したのに、これじゃ意味が無くなる!」と賈南風も必死だったと思われる。

五代十国~南宋・金[編集 | ソースを編集]

朱全忠(太祖)
  1. 後梁の初代皇帝で、五代十国時代の始まりを築いた人。
  2. 名前の通り、自分の欲に「全」くもって「忠」実な男であった。
    • 若い頃は不良少年で鼻つまみ者であったが、黄巣の乱に参加し頭角を現した。
      • しかし堕落する黄巣一派に見切りをつけ、唐王朝に寝返り、逆に黄巣の乱を鎮圧した。ここまではいい。問題はここからだ。
    • 政敵をありとあらゆる権謀術数で葬り去った朱全忠は哀帝から禅譲を受け、梁皇帝として即位(以下太祖と号す)。
      • こいつに限った話ではなく黄巣の乱出身者は多くがDQNであったため、知識層=悪、腐敗だと思い込み虐殺を繰り返した
        • その逆に今までの鬱憤を晴らすかのように庶民から減税を行ったので、貧困層からの人気はあった。
    • 皇帝になった太祖は国中の美女を集めてハーレムを築いた。元来のスケベさを爆発させ、人妻も平気で囲った。
  3. 息子たちが戦争に負け続けていたため、「ライバルたちの子息に比べれば、我が子は牛か豚だ」と陰口を叩いた。
  4. そんなわけで、優秀な養子・朱有文(妻の王氏を人妻ハーレムに加えていた)を寵愛し、実子を冷遇していたため、我慢の限界が来た三男・朱友珪の恨みを買って近衛兵と共に反乱を起こされてしまう。この時太祖は熱病で病に臥せっていたのだが、護衛は我先に逃げ出し、一人として反乱軍と戦わなかった。
    • 首謀者が友珪(妾腹の庶子)だと知った時には「早く殺しておくんだった」と、人の親としてそれはどうかという言葉を残し、逆上した友珪に刺し殺された。実子に討たれた皇帝というのも珍しい。
徽宗
  1. 北宋の第8代皇帝。オタクに政権を握らせたらどうなるかという悪い例である。
    • 『水滸伝』に登場する三大悪宦官を従えていたことで知られるほど、政治に無関心であった。
  2. 北宋史上最高の芸術家と称されるほどの天才であったが、不幸なことにそれ以外の才能が全く無かった。
    • 先述の通り蔡京、童貫、高キュウの三人を重用し、自分が芸術を堪能するためだけに国民には重税をかけた。
  3. 文治主義を唱えた北宋は歴代最弱の王朝と名高いが、そんな状態もわかっていないほど戦下手であった。
    • 西の「遼」がボロボロになっていたので、よっしゃ今や!と攻め込んだが、それでも負ける。鉄血を湯水のように注ぎ込んでかろうじて遼を滅ぼした。
    • そこでやめておけばいいのに、何を考えたのかその遼をイジメていた北の「金」にも攻め込もうとする。もちろんすぐに金にバレ、あろうことか退位して息子・欽宗に責任を擦り付けて都を逃げ出した。最低の親父である。
  4. ブチ切れた欽宗は父を軟禁して立ち向かうも全く歯が立たず、金は徽宗・欽宗親子を捕まえた。外国との戦闘で負けて捕虜になる皇帝という不名誉極まりない称号を得る。
    • 皇女、姫、侍女たちは一人残らず金に攫われ、全員×××××された。
  5. 彼を表す言葉で「皇帝にさえならなければ、全てを手に入れられた男」というのがある。
秦檜
  1. 南宋の宰相。かつて金によって北方へ連れ去られたことがあったが、そのときに金から厚遇された。
  2. 1130年に解放されると南宋へ逃れ、高宗のもとについた。その翌年に宰相に付いた。彼は金と和議を結ぶべきと強く主張した。
    • しかし当時の南宋には岳飛という武官がおり、金との戦いを有利に進めていた。中原を追われなおかつ皇帝が囚われた南宋の民にとって岳飛は中原回復を成し遂げることのできる唯一の武将と期待していた。
  3. 和議主張派と抗戦主張派は対立したものの金の脅威を訴え高宗を丸め込み、主導を握った秦檜によって和議に反対する将軍や官僚を追放するなどし、主権を握った。
    • しかし岳飛は頑なにそれを拒絶したため罪をでっちあげて処刑した。その際同じく岳飛とともに前線で戦っていた韓世忠は抗議するも、秦檜は「莫須有(あったかもしれない)」と答えたという。
      • そして金との和議を結ぶもそれは中原の放棄と毎年多額の銀と大量の絹を貢ぐという不平等な和議であった。
  4. その後も数多くの批難を受けるもそれらを全て弾圧し続け、19年に渡って専横を極め、1155年に66歳で亡くなった。
    • 高宗は秦檜が生きていたときは大人しくしていたが、死去した途端に掌を返し、秦檜派の役人を弾劾し、追放した。
  5. 同時代の人間からは手厳しく批判され、明時代には岳飛の廟の横に罪人姿で鎮座した秦檜の石像が作られ、そこに唾を吐きかけるという習慣があったという。
  6. 講和により平和をもたらしたというのは確かであり、政策としては間違っていなかったということで秦檜を擁護する人もいる。
    • しかし救国の英雄である岳飛に罪をかぶせ死においやり、その後も反対派を徹底的に弾圧したというやり方は間違っていたといえよう。
海陵王
  1. 金の四代皇帝。1149年に暴政を繰り返す熙宗を殺害し自ら皇帝についた。
  2. その際、三つの夢を腹心に明かしたという。一つ目が「金の君主になる」、二つ目が「南宋を降し、その皇帝を跪つかせる」、三つめが「天下一の美女を娶る」
  3. そんな彼は三つ目の夢を限りなく追及しまくった結果、幼女だろうが人の妻だろうが容赦なく強奪し後宮に入れてたびたび×××××しまくった。
    • 重臣や一族の物に粛清を繰り返した挙句、その妻や娘、果ては母親なども後宮へと連れ去っていった。
    • 後宮内では、いつでもどこでも「ヤれる」ように、布団があちこちに敷き詰められていたとも伝えられる。
  4. そして二つ目の夢をかなえるために周囲の反対を押し切って南宋へ征伐するも采石磯の戦いで苦戦、その間に本国では反対派によって世宗が擁立。
  5. 退路を失った彼は遠征先で殺害された。その後皇帝の資格なしとして郡王に降格、さらに王の資格もなしとして王族としての籍も失われた。
賈似道
  1. 南宋末期の軍人であり政治家。そしてコオロギ相撲好きの趣味が高じて世界初のコオロギの百科事典を作った人である。
  2. 南宋の皇帝理宗の寵妃の弟だったため元から優遇されていたが、モンゴル軍からの侵略を退けた功績も相まって宰相となり、第一権力者として君臨する。
    • そして武官は左遷したり解任するなど厳しく締め付けたが、文官に対しては柔和な態度で接するなどあからさまな不公平な対応をした。
    • また、猟官運動の禁止や宦官や外戚の勢力を抑制し、一方隠者として生きていた学者を優先的に登用。「山に入って座禅を組まないと出世できないのか」と言われた。
      • なお、登用された隠者の学者たちは総じて実務能力に劣っていたようだ。
  3. 次の皇帝になってからは私邸を建てそこで政治を執り行いそこで仕上がった書類を朝廷に届けそこで判を押すという形を取り完全に政治を牛耳る体勢になっていた。
  4. 1268年、ふたたびモンゴル軍(元軍)からの攻撃を受ける。呂文煥が襄陽と樊城を堅守しなんとか耐えていたがついに敗れ降伏。一気にモンゴル軍が南下してくることに。
    • 賈似道も水軍を率いて蕪湖に進み、モンゴル軍の指揮官バヤンに使者を出し和睦を提案するも・・・
      • 「長江を渡る前に和睦を提案すべきだった。その際賈似道自身が使者として来るべきだった。」と一蹴。その後の戦いにも大敗を喫してしまう。
  5. 賈似道はどうにか逃げ延びたが、既に彼には求心力は無く、腹心からも見捨てられてしまう。死刑こそ免れて流罪にされたが、その途上で暗殺された。


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朱元璋/洪武帝
  1. 人類史上最も成り上がった男。豊臣秀吉や劉備ですら、彼ほど悲惨な生い立ちではなかった。
    • 朱元璋一家は超絶極貧農であり、幼い頃に一家は流行病で全滅、土地も売り払われてしまい一人残された朱元璋は出家するも、飢饉により追い出され毎日の一杯の飯すら手に入らないほどのド貧乏生活を送る。
  2. そんな時に紅巾の乱で寺が焼けてしまい、郭子興と知り合って婿養子になり、元相手に戦い抜いた。
  3. んでいろいろあって元を滅亡させ、明の初代皇帝「洪武帝」となる。
  4. しかし成り上がり者ほど下に厳しいのはいつの世も同じなわけで、僻み根性が限界まで振り切れていた洪武帝は「光」「禿」「僧」の文字を使うことすら許さないという子供みたいな弾圧を行う。
    • 更に晩年は疑り深くなり3万に及ぶ逮捕者を出し、大多数を処刑した。
      • そして皇太子の朱標が死んだことで遂に正気を失い、功臣を一族ごと粛清しまくる。ここまでやって良く王朝が滅びなかったものである。
        • 奥さん (馬皇后) が生きていれば、もう少しは落ち着いた世になったろうに。なお奥さんを慕っており、皇后死去後は次の皇后を立てずにお墓を時折眺めていたとか。
    • 一応褒めるところがあるとすれば、貧乏暮らしを肌で知っていたために農民や雑貨商のような底辺の人間は大事にしたことぐらいだろうか。
  5. ちなみに名代のブ男としても知られる。
    • 今日伝わる肖像画も、決して美形とまでは言わないが、これでも十分脚色していると言われるほど人相が悪かったらしい。
万暦帝
  1. 明王朝14代皇帝。史上最低の皇帝と称され、文化大革命の際には「こいつだけは許してはおけん」と墓を暴かれ遺骨をガソリンで丸焼きにされた伝説を持つ。
  2. 10歳で即位したが、20歳の時に宰相の張居正が死んでからは25年間後宮に逃げ込んで×××××し続けていた。その間、家臣は何度も政争に明け暮れ、国力は疲弊していた。
    • にもかかわらず自分の贅沢には金を費やしていたため税は上がり、公務員は果てしなく削減され、一時期は閣僚1人というヤバい事態にも陥った。破綻する国家の典型例。
  3. この時明はモンゴル・日本(豊臣秀吉)・楊応龍と三大侵略(最後のは反乱)を受け、何とかこれを退けるも勿論国家財政はズタボロになった。
  4. こうしたダメダメ政策が重なり、明は崩壊をきたすこととなる。

朝鮮[編集 | ソースを編集]

燕山君
  1. 李氏朝鮮第10代国王。
    • 歴代の王の号が"〇祖"や"〇宗"となっているのに対し、燕山"君"となっている通り、李氏朝鮮史上、最低の暴君として知られる。
  2. 即位当初はまじめに政治をしていたが、即位して4年が経過したあたりからおかしくなりはじめ、家臣の粛清を行い始める。
  3. 朝鮮各地から美女をかき集めてハーレムを立ち上げる。当時の最高学府の「成均館」を酒池肉林の場へと変えてしまう。
閔妃
  1. 李氏朝鮮の王、高宗の妃。
  2. 近代化を推し進める西洋諸国家がアジアに進出しようとする国際情勢のさなか、国内の政治にはあまり興味がなく、夫の高宗とともに自分達が遊び惚けることに執心する。
    • 朝鮮版西太后のような人物である。
  3. 奴隷身分の白丁から税を絞ることしか興味のない両班を統制するわけでもなく、貴族が奴隷を虐めて搾取し、自身は遊び惚けるという有様を変えようとはしなかった。 
  4. そのため、近代化の改革推進派であって高宗の父でもある舅の大院君とは仲が悪く、政争で他の邪魔者とあわせて失脚させている。
  5. 朝鮮を日本に倣って維新を起こし近代化をすすめようと活動した金玉均をあっさり処刑してしまう。
  6. 日本から干渉を受けるのが嫌だったことから、清に接触するも当てにならなそうということで、こともあろうに露西亜を朝鮮半島に引き込もうと画策する。
  7. 行った実績は民から搾取した税で贅沢な生活を送り、国内の革新派を次々と粛清し、東アジアの地に露西亜を迎え入れようとしたというどうしようもない人間である。
    • 最終的に日本人の手によって処刑されたこともあり、今日では韓国では彼女の悪行には目もくれず、反日のシンボルとして崇められている。

関連項目[編集 | ソースを編集]